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コラム

column
Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

ブルネロ・クチネリと働き方改革 | その他

ブルネロ・クチネリと働き方改革

上質なカシミヤニットを主力商品とするイタリアのラグジュアリーブランド、ブルネロ・クチネリ社をご存じだろうか。CEOのクチネリ氏は、子供の頃、工場に働きに出る父が上司から侮辱され涙する姿を見て、「労働者の尊厳を損なわない仕事の在り方」を追求することを決意し、その方針に従った経営を行っている。 「個人の生活や魂と肉体のバランスを保つため休息の時間を侵すことはあってはならない」として、社員の残業を禁止し、終業後のメールも許さない。製作を行う職人には、職人としてのプライドを保たせるため、通常社員より2割以上多く賃金を支払い、丁寧な仕事を心掛けさせる事で商品の品質を維持している。さらには、次世代の職人育成のための学校を建てたり、社員が楽しめる劇場や学ぶための図書館を建設する等、社員を人間として尊重することで、生産性や創造性が高まり、結果として企業も成長するという考えだ。 こうした彼の経営哲学は、『人間主義的資本主義』ないし『倫理的資本主義』と言われ、ブルネロ・クチネリ社の顧客の中には、このフィロソフィーを高く評価し、自分が購入する事で、そうした企業を応援し、結果として社会に貢献できると考える人も多くいるという。かつて、持ち物にはその人の品格が表れるとして、動物愛護の観点から毛皮の不買運動が広がった事があったが、逆に、経営哲学に賛同できる企業の商品を積極的に買い、身に着けることで、自らも社会に貢献し、メッセージを発信していく、という動きが社会に広がりつつあるようだ。つまりは、社員に対する企業の経営方針が、社会に評価され、業績アップに貢献している例と言える。 我が国では、現在、働き方改革が進行しているが、この改革の基本は、企業の論理が、社員の論理より優先されてきた状況を是正し、社会全体で、より人間的に働くことのできる世の中にしていこうという事だ。 しかし、多数の企業で、給与水準のアップや、有給休暇の取得保証といった施策が実行されはじめているものの、その直接的動機は、社会的な要請に応えていこうというよりは、法律改正への対応や、採用難の中で必要な労働力の確保といったものが、現実的なところなのかも知れない。 上述のブルネロ・クチネリ社のケースのように、我々自身が顧客の立場として、企業の社員に対する考え方により着目し、望ましい働き方を実践している企業の商品・サービスを積極的に購入していく意識が広がっていけば、(プレミアムを支払ってでも、そうした企業を購入する顧客マインドを持ち得れば、) それはこの改革を促進させる強力なエンジンとなると共に、より本質的な社会改革としての成功につながっていくはずだ。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

「空気」の功罪 | その他

「空気」の功罪

 自分にとって当たり前のことが、実はまったく当たり前ではないということがある。  「何であなたがた日本人は、君が代を、前奏なしで斉唱できるのですか。」  私がまだ学生だった頃、同じゼミにいたアジア系の留学生からそのような質問を受けたとき、私は全くもって答えることができなかった。それまで私は特に疑問に思うこともなく、無意識に、前奏なしの国歌斉唱を何十年も実践し続けてきていたのである。  元旦になれば、示し合わせたわけでもないのに、ぞろぞろと地元の氏神様の神社に向かって人が集まりはじめ、太い長蛇の列ができる。これはいったい何なんだろうか。初めてこの光景を目にした外国人の方は驚き、何か底知れぬ恐怖のようなものを覚えるらしい。  これらは、暗黙のルールや習慣というべきものだろうか。ご存知の方もいるかもしれないが、文化人類学者E.T.ホール氏が言った「ハイコンテクスト文化」というべき状態が形作られているわけである。やや閉鎖的な集団の中で、長年をかけて、一種独特な「空気」のようなものが出来上がる。このような「空気」は、集団とメンバーにとってつねにあるのが当たり前で、ふだん意識もされないが、圧倒的に重要で必要不可欠なものだ。まさに「空気」のようなものだ。  集団やそのメンバーを突き動かす真の主体とは、実は集団や個々人そのものではなく、むしろそれらを包み込み、促す、この「空気」なのではなかろうか。このような「空気」に従った行動は、ときには凄まじいエネルギーに転化する。まるでモンスーンのように。  例えば、日本三大奇祭の一つ「諏訪の御柱祭り」では、山中から神社の御柱用に樅の大木を切り出し何㎞も引きずって諏訪神社に奉納するが、一人の人間がどれだけ頑張っても、大木は動かない。当たり前だが、関わっている人間が一斉に息を合わせ、力を合わせなければ、大木は動かない。では大勢の曳き手が、どのようにして一斉に力を発揮して、大木を動かすことができるのだろうか。ある曳き手は、次のような実に不思議な言葉を残している。  「御柱が動いたときに、動かせば、動く。」  字面を見たら全く以て非論理的な言い方である。しかし理解できる方にはできるだろう。周囲の力の入れ方、息遣い、微妙な動きなどを総合的に勘案して、各自が力を込めるタイミングを見計らい、一気に力を込める。まさに「空気」を読んで動き・動かすのである。  いま祭りの例を挙げたが、会社組織も似たようなものだろう。多くの場合、会社の「空気」は、日常に紛れ、「読み合い」の中に息を潜めている。しかし僅かな微風も、或る時、一気に合流すればモンスーンにもなりえるだろう。これが変革や成果に結びつくなら、「空気」とはむしろ望ましいものだろう。しかし多くの大祭がそうであるように、ときには個々のメンバーの痛ましい犠牲を生み出しもする。組織そのものを自壊に導くこともあるだろう。  自分にとって、われわれにとって、当たり前のことは、本当に当たり前のことなのだろうか。自問自答することは、単に「空気」に流されないために、われわれが心得ておかなければならないことだ。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

試合前、休む勇気 | その他

試合前、休む勇気

 近所に、往年の世界チャンピオンが経営するボクシングジムがある。興行ポスターが所狭しと貼り付けられた階段を下り、ガラスドアを開けて中に入ると、思いのほか明るい照明の下に公式サイズのリングが備えてある。傍らのサンドバッグの行列を通り抜けると、所属プロボクサーの写真や数々の賞状に交じって、一枚の模造紙が貼ってあるのに気づく。そこには、あまり上手とはいえない大きな文字で、「試合前、休む勇気」と書いてある。 プロボクサーは、試合が近づくと、体重を規定の数値まで落とさなければならない。厳しい練習と共に過酷な減量に挑む。ただでもつらい期間なのに、試合が近づくにつれて恐怖がつのる。相手はオレより強いかも知れない。連続パンチを浴びて、ノックアウトされるかも知れない。歯が折れたり、網膜が剥がれたりするかも知れない。何よりも、みじめな負け方をしたら、潮が引くようにファンが遠ざかってしまうかもしれない。 こんな恐怖を払しょくするために、試合直前に必要以上の量の練習をしてしまうボクサーは多いのだそうだ。ぎりぎりまでの減量に猛練習を重ね合せると、必要最低限の体力まで落としてしまう。こうなると、試合当日にはフラフラになって、思うように技を使えないまま相手に試合をコントロールされてしまう。だから、試合前には休まなければならない。怖いけれども、しっかり休む。休むことが試合当日のパフォーマンスを引き出す。 プロのスポーツ選手とは比べられないけれど、私たちの仕事も、多かれ少なかれ結果で判断される時代が来た。期首の目標設定では可能な限り定量的な目標を掲げ、その達成度で成果を測定する。いくら時間を使おうと、夜遅くまで悩み続けようと、良い結果を残さなければ評価されない。 だからと言って、休みなく仕事さえすれば結果が出るというものでもない。15分間必死で考えて出てこないアイデアは、2時間かけても出てこないだろう。時間をかければかけるほど、核心のアイデアに余計な飾りがついて、かえって解り難いものになってしまうかも知れない。結果に執着する人ほど、時間をかけずにはいられないのだろうが、成果が出ないことへの不安を払しょくするための時間ならば、効果は逆に出てしまうだろう。 実際、オフィスワーカーの休憩時間と生産性に大きな繋がりがあることについては、数々の研究がそれを証明している。米国にJames A. Levineという医学の教授がいて、この人によれば、ヒトの身体はもともと動き回るようにできているから、長時間じっとして考えたり机上の作業をしたりすることは、自然の摂理に逆らうことになるそうだ。デスクワークを適度に中断してまったく別のことをするのが、生産性に繋がるらしい。この研究者の言葉を借りれば、15分に1回は休息をとって身体を動かさなければ、集中は続かないという。たった15分だ。 そして、休息を犠牲にし続けた末には、心身の健康を害するという結果が待っている。酷い場合には長期間仕事を休んだり、積み重ねた経験を諦めてまったく別の職種に転職したりしなければならないことさえある。これでは明日の結果を出すどころか、ビジネスマンとしてのキャリア全体を損なうことになりかねない。 忙しい時こそ、少し立ち止まって考えよう。無理をしていないか、無駄な時間を使っていないか。仕事の計画を立て、限られた時間に集中して仕事をし、アウトプットを出しているか。やるべき時と休むべき時をきちんと判断し、自分なりのルーティンを作っているか。ちゃんと休むことがパフォーマンスに繋がるはずだ。「勇気をもってしっかり休もう。」元世界チャンピオンのこのアドバイスは、心に刻んでおくべき至言だ。

モルトケの法則 | その他

モルトケの法則

先日、知り合いの経営者と新規事業を立ち上げる時に、その組織をどう構築するのが良いか、という興味深い話になりました。その経営者は、まず新規事業担当者を自ら任命し、任命された担当者に部下を社内から選ばせるのですが、その際に必ずモルトケの法則を紹介して考えさせるとのことでした。 このモルトケは旧ドイツ帝国の英雄であり、鉄血宰相ビスマルクの下で参謀総長を勤め上げ、隣国のフランス、オーストリア、デンマークとの戦いにことごとく勝利を収め、ヨーロッパ諸国から恐れられた人物です。 そして、モルトケは部下登用の考え方についての法則を示した事で有名です。その法則とは、組織のトップとしてどのような部下を任命すべきかについての法則です。部下の「能力」と「意欲」という要素とその高低で、4つの分類をしてその優先順位により登用すべきと唱えたのです。 【1位】能力は高い、意欲の低い部下 →命令に従順であり、確実に業務を遂行する。 【2位】能力は低い、意欲の低い部下 →業務上扱いやすい。 【3位】能力は高い、意欲の高い部下 →上司と対立する可能性があり扱いにくい。 【4位】能力は低い、意欲の高い部下 →意欲だけが空回りしてしまう可能性あり。 この法則によると、社員の意欲は低い方が良いのかと見えます。普通の考え方では3位の、能力も意欲も高い人が1位ではないのかと思いますが、モルトケは上記の理由により、1番目のタイプの部下がもっとも組織に必要であるとしました。結果、モルトケはこの法則によってドイツ軍を組織し数々の勝利を勝ち取ったのです。   会社内でも良くある話しですが、最下位の【4位】能力は低いが意欲は高い部下とは、つまり、やる気だけが取り柄な人です。 一般的に、意欲やバイタリティ溢れる人は、高く評価されがちです。でも、こういうタイプがなぜダメかと言うと、意欲の高さが能力の低さをカムフラージュしてしまうからです。 しかも、周囲の人も、その人を頑張っていると評価をしてしまい、実力とは関係なしに何となく評価されがちなのです。 仕事ができない人でも努力をしていると評価したい気持ちに陥りがちです。だって「彼は頑張っているから」です。しかし、本来の成果をキチンと見極めずに、頑張っているからというだけで、評価し登用してしまう事に問題があるのです。 やる気があることは決して悪いものではないと思いますが、やる気と仕事に対する能力に相関はありません。 組織のトップがやる気やバイタリティに騙され、間違った登用をすれば組織は衰退してしまうということです。 現代は、モルトケの時代より組織・人事の状況や、人材のスキルの保有度、能力、行動の傾向、パーソナリティ、価値観やリーダーシップを把握できるツールが揃っています。 このツールを駆使して、また人事データや社員に対する意識調査の結果により、組織・人材の状況についての客観的な把握と多様な切り口による分析をすることによって、合理的な施策展開をしていくこと必要と考えます。 なぜなら、企業の経営計画の達成と成長は、経営に必要とされるスキルを保有する人材が必要なだけ配置され、かつ継続的に生み出す仕組みであること、そして人材が期待される行動や意識をもって活躍・成長し続けることによって実現できるからです。                                                    以上

恥ずかしいを乗り越えさせる | その他

恥ずかしいを乗り越えさせる

 ”聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”、 “恥の上塗り”など、日本には恥に関する故事ことわざが多くある。よく日本人はシャイな人が多い、とか日本は恥の文化だ、などといわれているが、”恥ずかしい”は日本人だけのものではない。西洋でも“Better to ask the way than to go astray. “(道に迷うより、道を聞いた方が良い)ということわざがあることからわかるように、万国共通、人に聞くのは多かれ少なかれ恥ずかしいことなのだ。  人に聞くという行為を恥ずかしいと思うのは、聞いた相手に「なんだ、こんなことも知らないのか」と思われてしまうのではないか?という気持ちが働いていると考えられる。自分の欠点や誤りを自覚して体裁が悪く感じるのである。だが、聞かれた人のほとんどはそんなことは思っていない、多くの場合、自分の思い込みに過ぎないのである。  人に意見を“述べる”ときも同様だ。集合研修などで、講師が受講者に発表してもらおうと挙手を求めることがある。ときには何人かパラパラと手が上がることはあるだろうが、大抵は、一斉に視線を手元のテキストに落とし、講師と目線を合わせないようにして、モジモジし始めたりするものである。せっかくの研修の場である、自分の考えを述べ、皆からフィードバックをもらった方が絶対にためになるのは誰でもわかっている。学ぶために研修に参加しているにも関わらず、恥ずかしいと思う気持ちが強いと、行動が制限されてしまうのである。  この”恥ずかしい”を乗り越えさせるには、”恥ずかしい”のハードルを下げるしかない。学生の時に部活で大勢の人の集まる場で、大声で自己紹介をさせられたり、一発芸や歌を歌わせられたりしたものだが、これはもう強烈に恥ずかしい体験だった。なぜ、こんなことをやらなければならないのか全く理解できなかったが、繰り返しやっているうちに、だんだんと恥ずかしいと思う気持ちが弱くなっていくのを感じたものだ。このようなやり方をどう捉えるかはいろいろな意見があるだろうが、確実に言えるのは、”恥ずかしい”というのは慣れればどうということはない、ということだ。  大勢の前で自分の意見を述べたり、プレゼンテーションしたりするのを恥ずかしい、と思う気持ちは多かれ少なかれ誰にでもある。そこで手を上げられるかどうかで、その後の成長には大きな差が生まれるのであれば、そういう時こそ手を挙げられる人物になって欲しい。そのためには、常日頃から、そういった機会を与え続けることが重要だ。最初は、しどろもどろになったり、どもってしまったりすることもあるだろうが。その経験こそが恥ずかしさを乗り越える力となるのだ。最近の若手社員はシャイだ、とか積極性が足りない、とか嘆くのは自分がそういった機会を与えることができていないのだ、ということを認識すべきである。

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。