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コラム

column
成功は失敗のもと | その他

成功は失敗のもと

日経新聞の「私の履歴書」で、今月から野中郁次郎氏の連載が始まった。言うまでもなく、野中氏は、最も著名な日本の経営学者の一人で、知識経営(ナレッジ・マネジメント)の生みの親とも言われている。 第2次世界大戦に勝利した米国は、戦後も、業務の標準化や品質管理といった科学的管理手法を各企業が展開する事で大量生産を実現し、企業経営においても世界の先頭をひた走っていた。当時、サラリーマンだった野中氏は、米国が、優れた経営上のアイデアや手法を概念化し、世の中にどんどん広めていくのを目の当たりにする一方、よい経営をしている日本企業も多数ありながら、わが国の企業が取り組もうとする経営手法・管理手法は、みな米国から来たものばかりである事を憂いていた。 「また、日本は米国に負けてしまうのか」と危機感を抱いた野中氏は、米国に学びに行こうと、30歳を過ぎてから米国留学を決意、その後、経営学者に転身し、世界的に成長を遂げた日本企業の分析をもとに、経営学の中に、知識経営(ナレッジマネジメント)の領域を確立した。企業が持つ知識には、主観的で言語化しにくい「暗黙知」と、客観的で言語化できる「形式知」があり、それぞれの社員が持つ「暗黙知」と「形式知」を上手に連動させることで、個人の知識から、組織的で高次な知識(ナレッジ)レベルを創出するというSECIモデルを提唱、今までに、多くの企業がこのモデルを実践でも活用している。 三十数年前の話になるが、私が大学在学中に、野中氏が母校の研究施設に移って来られ、一度だけ、特別にマーケティングを学んでいた我々に講義をして下さったことがあった。「私の履歴書」の連載の冒頭で、ごく普通の子供時代を過ごし、数学が苦手で、高校の簿記の試験でたった5点しか取れなかった事も紹介されていたが、アカデミックの世界で、厳しい競争を勝ち抜いてきたにも関わらず、実際にお話をされている様子は物静かで、ごく普通の紳士が、淡々と話されている印象があった。しかし、話の内容とその背景にある思いは強烈で、いつの間にか、野中氏の話に引き込まれていった。 その日の講義では、暗黙知と形式知が、日本企業の中で、飲み会や合宿といったわが国特有の活動を通じて、うまく連動し、組織の知がレベルアップしていくというナレッジマネジメントを分かりやすく解説していただいた。ただ、当時、飲み会はしていたが、社会人としての実務経験のない学生の身の私にとっては、組織の中で知識がどういうもので、それらがどう形式化されていくのかというリアルなプロセスは、実感できず、その意味を理解できたのは社会人になってからの事だった。しかし、もう一つ、当時、野中氏が共著で出版された『失敗の本質』という本の解説をされた際に発せられた「成功は失敗のもと」(「失敗は成功のもと」ではなく)という言葉が、妙に深く私の心に刺さり、その後の私のキャリアの中で、ずいぶんその言葉を意識して、行動してきたように思う。 この本は、第二次世界大戦時の各作戦で日本軍が敗戦した理由を分析し、組織としての成功要因、失敗要因を明らかにした名著で、その後、多くの経営者が読む大ベストセラーとなった。第2次大戦中、日本軍は、日露戦争や大戦初期の勝利によって、それらの成功体験は正しいと言う過信を助長させていった。敵を過小評価し、一度失敗しても「運が悪かっただけ」と考え、状況の変化に敏感に対応せず、イノベーションを続けることをやめてしまった事が敗因の本質だとこの本では分析している。 あの講義の頃は、既に敗戦から立ち直り、多くの日本企業が、世界中からお手本とされる時期だったが、今や、日本企業を取り巻く環境は大きく変わってしまった。現状のやり方を疑わず、今までやってきた事が正しいという前提を置いてマネジメントをしていないか、うまくいった事があっても、絶えず、「成功は失敗のもと」であることを肝に銘じていかなければならないと、「私の履歴書」を読みながら、改めて感じている。

抽象的思考力を鍛える | 人材開発

抽象的思考力を鍛える

 会議の場などで、「説明が抽象的すぎてわからない。もっと具体的に話せ!」と指摘を受けた経験のある方は多いだろう。この抽象的な表現というのはコミュニケーションの場において、ネガティブな意味で使われるため、仕事の上でも、“抽象的”はダメで“具体的”でなければならない、と勘違いをしている人は少なくない。ところが、実際のところ仕事のできる人間というのは、漏れなくこの物事を抽象化して捉える能力が高い。なぜなら、仕事というのは常に何かしらの意思決定が必要であり、そのためには抽象的思考力が必要不可欠だからである。  抽象的思考力とは、重要なポイントだけを抜き出し、不要な部分は捨てて物事を把握する、すなわち物事の本質を捉える能力である。例えば、料理をする際に、「フライパンに材料をのせて中火で3分焼く」、というように手順で覚えていると、次に同じような料理を行う際に、食材の分量によっては焦げてしまったり、生焼けになったりするかもしれないが、「材料に火が通るまで焼く」と覚えていれば、そのような失敗はしない。  この抽象的思考力は、人間の学習において大きな役割を果たしているといわれている一方で、その仕組みはよくわかっておらず、機械学習においても再現することができていない。過去に起こった事象から、これから起こるだろう事象の結果を予測するのが機械学習だが、人間の知能には遠くおよばないのが実際なのである。いやいや、囲碁や将棋では、もう人間は人工知能に勝てないじゃないか、という人もいるかもしれないが、機械学習のアルゴリズムは、基本的には大量のデータから傾向を探る、という手法であり、ある分野の学習をするためには、人間よりもはるかに膨大なデータを必要とする。また、ある分野での学習を別の分野で活かすことも苦手だ。つまり、機械学習は人間の学習能力のうちの、ある一部分で人間を上回る能力を発揮しているが、人間以上の知能を有しているわけではない。電卓が人間の計算能力を上回る能力を発揮しているが、人工知能とは呼ばないことと同様である。  今後、様々な作業が人工知能に置き換わっていくことが予想されている中で、この抽象的思考力こそ、人が鍛えるべき能力と言える。抽象的思考力は単に経験を積むだけでは鍛えられない。地道なトレーニングが必要だ。ただやみくもに考えればよい、というわけではなく、要は何なのか、を文章にしたり、図式化して考えたりする、ということを習慣づける必要がある。要点を箇条書きにする、ということも立派なトレーニングになるし、会議の議事録作成は、仕事の理解と抽象的思考力の両方が強化できるので、新人には特におすすめだ。中途採用において、業界の異なる人が活躍できるかは、その人が自身の職務経験や業務の知識を抽象化して捉え、それを汎用的に活用できる能力を持っているかがポイントとなる。これからの採用においては、面接の際には経験や実績でも、言語能力や計算能力でもなく、抽象的思考力を見るべきだろう。  冒頭の会議の例では、物事を正しく抽象化できていないからこそ、わかりやすい具体的な説明ができない、と考えるべきだ。正しくは、「具体的に話せ!」ではなく、「抽象化できているか?」なのである。

総合職が多すぎる | その他

総合職が多すぎる

 多くの日本企業にみられる共通した問題がある。それは“総合職が多すぎる”ということだ。  そもそも“総合職”は企業の方針や文化、コアノウハウの担い手である。キャリアのゴールとしては、企業経営を担っていくことを期待されている。企業経営を担っていくためには、企業活動に関する広範な知識や見識が必要である。営業部門だけで育った社員は、営業はよくわかっても、製造や管理部門がよくわからない。単機能で育った社員は企業経営が担えないのだ。総合職として、経営を担うためには様々な事業や機能を経験することが望ましい。すべての事業や機能は経験できないが、代表的なものをいくつか経験することが必須である。  このように総合職として経営を担う人材に育成するためには、一つの仕事を長く担当することは望ましくなく、経験を積ませることが重要だ。しかし多くの企業の現実は、このような経営幹部の育成段階としての総合職という運用になっていない。総合職として入社しても、経営幹部になるための研修は少なく、また効果的計画的なローテーションも行わない。新卒の企業説明会では、総合職は会社の幹部ということをあたりまえのように話すが、入社をするとそのような扱いはしていないことが多いということだ。  管理職が総合職社員の一つのキャリアゴールとするならば、総合職は管理職を生み出すための人材プールということになる。仮に必要な管理職ポストが500ポストとするならば、その1.5倍程度の総合職社員がいれば十分である。1.5倍以上の総合職がいる企業では、入社以来単一の仕事をずっと担当し続けている社員が目立って多くなる。1.5倍を上回る社員は特定の仕事、特定の地域で仕事をしている社員であるため、本来は総合職ではないのである。  優秀な経営幹部を育成していくためには、計画的な経験、継続した教育が必要である。この高いコストを伴うローテーションや教育を実際に本気で行わない限り、優秀な経営幹部は生まれない。経営幹部が育たないと嘆く企業の代表的なパターンは、総合職が多すぎて実際に経験、教育が不足しているというものだ。これは経営が求めている人材を人数構造的に生み出せていない制度と運用に問題があると言わざるを得ない。  社員の大半が総合職であるということが、合理的に考えておかしいということである。 以上

「とりあえず、底上げ研修」? | その他

「とりあえず、底上げ研修」?

「とりあえず、底上げ研修かな」と聴くと、「とりあえず、ビール」という表現を思い出す。 「特に深く考えたわけではないけれど…」とか、「研修は、今年の一連のイベントの内の1つ」というニュアンスを感じ、人材開発コンサルティングの場面で、違和感を覚えるのだ。 この違和感を共有しないまま、あれこれ打ち手を考えても、クライアントからは「いやぁ、今はそこまでやるつもりはありません」との反応しか得られず、こちらの建設的な貢献意欲も急落してしまう。 これは、クライアント組織にとっても、コンサルタントにとってもハッピーではない。 そこで今回は、3つの視点から「底上げ目的の集合研修」について考えていることを整理してみようと思う。 最初は、「人材開発の視点」だ。 人材開発を検討する場合、3つの側面から整理することがある。 それは、「既存の弱みを克服する」こと、「既存の強みを伸ばす」こと、そして、「新規能力を獲得する」ことである。 こういった整理の仕方で捉えると、底上げ研修というのは、「弱みの克服」と「新規能力の獲得」に相当する。 しかし実態としては、「新規能力の獲得」は、ライン部門主導で行うことが多いため、人事部門主導の底上げ研修は「弱みの克服」が主目的であると言ってよいだろう。 次は、「現状維持と変化適応の視点」だ。 従来型の人事では、「人員管理(採用や配置等)と事後評価(昇降格や昇降給等)」など、組織の安定運営(=現状維持、「守り」)の意識が強い。 そして、「一定水準の品質を担保するため」には「弱みの克服」が重要だと見なして、底上げ研修を実施してきている(※)。 一方、企業経営への貢献が求められる戦略人事では、「組織業績と組織能力の向上への貢献」が重要である。 そのため、「攻め」の一手として「市場競争力を高める」ために、「自組織ならではの強みを伸ばす」取り組みが求められる。 また、ビジネス環境の変化に柔軟に迅速に適応するために、「新規能力の獲得」に取り組むのである。 最後は、「ビジネス展開の視点」だ。 ビジネス、特にテクノロジーを活かしたビジネスの多くは「標準化→自動化→個別化」という3段階で進展する。 組織と人材について、ビジネス展開の段階に合わせて考えると… 人材が効果的に「育つ」ように、「環境(組織の在り方、仕事内容、人間関係等)と個人のマッチング」を最適化し、その後、「標準化」の一環として「底上げ研修」を実施する。 その後、効果的に「育てる」ために、個々人に合致するノウハウの提供、スキル習得を支援することを通して、「個別化」の段階まで進めるのが望ましい。 さて、今回は3つの視点から見てきたが、私は、底上げ研修自体に反対なのではない。 「組織の創業目的を実現するために、経営資源としての組織・人材を効果的に活用する方法を考えよう!」という戦略人事の考え方に基づき、「人材開発・組織開発の施策群のひとつとして実施する底上げ研修」であれば、有効な場合も少なくないと思っている。 なお、「組織業績を高めるには顧客満足を高める必要があり、顧客満足を高めるには社員のやりがいや誇りを引き出す必要があり、社員のやりがいや誇りを引き出すためには社員をイキイキさせる仕組みが必要である」ということが、近年明らかになってきている。 「底上げ研修」だけに取り組んでいては、「自分らしさを殺し、言われた作業をこなすだけの歯車のような社員」すなわち「やりがいや誇りを感じない社員」を量産しかねない!という危機感を共有したうえで、今回取り上げた3つの視点を意識しながら、組織業績と組織能力の向上に繋げるよう、建設的な人材開発に取り組もうではありませんか! ※「品質担保のため」(弱みの克服)と称して、強みを伸ばさず、「均質化」ばかり進めていては、市場競争力の向上に繋がらないうえに、優秀な人材ほど成長機会を求めて離職してしまうため、問題である。 以上

トランプ流マネジメントをどう実践するか | その他

トランプ流マネジメントをどう実践するか

 現アメリカ大統領のドナルド・トランプ氏は、ある意味卓越したマネージャーなのではないか。我々もまた、そのマネジメント手腕を真似て、絶大な効果をもたらすことができるのではないか。それが、このコラムで述べたいことである、とひとまず言っておく。 今年7月14日、トランプ大統領は民主党の革新系女性議員に対し、「もといた国に帰って壊れた国を直すのを手伝ったらどうか」と述べている(朝日新聞WEB版2019年7月24日)。  どう考えても波紋を呼ぶような発言であり、実際波紋を呼んだ。過去の発言の中には、もっとおぞましいものもあり、ここに掲載してはならないものもある。比較的大人しいものでは、下記のような発言がある。 「私は巨大な壁を、我々の南の国境に建設して、メキシコにその壁の費用を払わせる。」 「すべてのイスラム教徒のアメリカ入国を拒否すべきだ。」 「ヒラリー・クリントンが夫を満足させられていないなら、なぜ彼女は(自分が)アメリカを満足させられると思っているのか?」  このようなやや乱暴な発言だけでなく、ときには矛盾しているような発言も少なくない。北朝鮮の金正恩委員長を評する発言として、2017年11月には「リトル・ロケットマン」「病んだ子犬」と揶揄し、罵声を浴びせていたのに対し、2018年6月の最初の米朝首脳会談の際には、「とても頭がよく、才能がある」と発言している。いかに状況が変わったとは言え、これだけ真逆の発言は、ふつうはありえないし、できない。  経済学者野口悠紀雄氏のように、トランプ大統領の発言や政策を「支離滅裂」と捉えることは、決して難しいことではないだろう。問題は、この「支離滅裂さ」「理不尽さ」が、実は彼の卓越した戦略の一環なのではないだろうか、ということだ。  トランプ大統領の言動の特徴は、「不明瞭な判断基準に基づく、明瞭な判断」という点に尽きる。判断の元になる基準や理由・根拠が流動的で分かりづらく、予測困難であり、ただ判断結果だけは断固として示され、ときには実行される、という状態である。専制君主のようでもあるが、メリットには非常に敏感で、やはり超トップダウン型の企業家像の方が近い。 私はトランプ大統領の言動に、ひと昔前の体育会系気質の悪しき残滓を思い浮かべてしまう。監督、コーチ、先輩により発信される、理不尽な「制裁」や「褒賞」の数々を思い出すのである。声が枯れるまで叫んでも、「声が小さい」と言われ、何十回もやり直しを強制される。かと思えば、急に馴れ馴れしく肩に腕を回してきて、「今日はなかなかよかったじゃねえか。次の試合からはレギュラーだな」と、大して思い当たることもないのに、唐突に褒賞を絡めてきたりする。そこには良し悪しを判断する基準や理由はなく、ただ結果としてのフィードバックだけがある。どうすれば基準に適うのか、本人も説明ができない。基準や理由を聞かれるようなことがあっても、「自分でよく考えてみるんだな」などという謎の回答が返ってくるのみである。  では何のためにこのような「支離滅裂」「理不尽」が行われるのか。答えは明白である。相手を自分の意のままにコントロールするためである。基準や理由を示さないまま、「制裁」や「褒賞」を行う状態が続くと、受け手の判断基準もまた失われていく。万一「理不尽である」という非難を行おうものなら、これまで以上の「制裁」が待ち受けている。そうなると、どうすることが良く、どうすることが悪いのか、自分ではもはや判断できなくなっていく。監督・コーチ・先輩の示す結果判断だけに、盲目的に従わざるを得ない状態となっていく。  その背景にあるのは何か。それは「ヤバい奴に逆らってはならない」「めんどくさい奴に関わらない方がいい」という、畏怖や日和見主義であると言えるかもしれない。 畏怖を背景とした洗脳やマインドコントロールは、ある種の組織・団体の常套手段でもあるが、「人を動かす」というマネジメントの手段としては、絶大な効果を発揮するものでもある。絶対服従と言えるような上下関係が形成されやすいのである。  ただし、マネジメントの目的が、単に一時的に「人を動かす」だけでなく、組織とメンバーの継続と成長を実現することにあるのだとすれば、話は変わってくるだろう。各自の判断基準を崩壊させ、ただ上に従うだけの精神の醸成は、一時的に絶大な成果をもたらすことはあっても、個々の思考力・判断力はむしろ退化するのだし、成長には結びつかないからだ。  トランプ大統領は、マネージャーとして超一流かもしれない。しかしかなり近視のマネージャーであるような気がする。

組織編成の果実 | その他

組織編成の果実

 組織編成の基本は職能別編成だ。経理部に経理マンを集めてひたすら経理事務に当たらせ、営業部に営業マンを集めてひたすら営業訪問に走らせる。同じ部門に居て来る日も来る日も同種の仕事をするのだから、自然に熟達し、部門としての生産性が上がる。つまり、少ない人数で多くの仕事をこなすことができるようになるということだ。組織編成の第一義的目的は、職能を集中させて会社の生産性を最大にすることだ。 もちろん、多くの大企業で見られるように、組織を事業別に編成したり、地域別に編成したりすることがある。しかし、それぞれの事業部の中にはきっと小さな管理部門と、生産部門と営業部門が設置されているだろう。事業部が健全な利益を上げていくためには、事業部として生産性を最大化しなければならないのだから、やはり事業部末端には職能別組織が編成されているはずである。  とはいうものの、同じ仕事をする人員がただ漫然と集まって仕事をしているだけでは、最大の生産性は得られまい。ここに、部門の長たる管理職の出番がある。部員たちが、毎日の仕事から学んだ「コツ」や「ノウハウ」を相互に交換すれば、より効率的に仕事をできるようになる。こうしたコツやノウハウを集大成してわかりやすいマニュアルにまとめ、説明会を実施すれば、さらに効率よく仕事ができるようになるだろう。便利に使えるツールを準備したり、経験の浅い者を徹底的に訓練したりすることで、一層高い生産性が得られるかもしれない。管理職は、ありとあらゆる工夫を積み重ね、これでもか、これでもかと担当部門の効率性を高めていくのだ。  さて、仕事の中には、時に、標準からはずれるものが発生する。すべての事態を漏れなくマニュアル化することなんてできない。標準からこぼれてきた仕事は、別途、管理者が特定の部下に細かい指示を与え、出来栄えをチェックし、修正指示を与え、褒めたりすかしたりしながら片づけていく。 業務指示によって部下に任せられる仕事ならまだよいが、どうにも任せられない複雑困難な仕事は、自分でやる。そのような仕事を機敏に見つけて迅速にこなしていくことで、部下は皆安心して決まった仕事に集中することができる。こうして生産性はさらに上がるのだ。  ところが、仕事というものは、変わる。会社を取り巻く環境が変われば、やるべき仕事が変わる。さきほど話に出たこぼれ仕事が、あとからあとから増えてくる。だから、管理職は、そういうこぼれ仕事と毎日戦いながら、変化する環境に常に目を凝らし、次に何が降ってくるのか、どの仕事がいらなくなるのか、新たに何をどう標準化すればよいのか、だれをどうトレーニングすればよいのか、絶え間のない奮励努力を続けていかなければならない。すべては、少ない人数で多くの仕事をこなしていくためだ。  予算編成は管理職の重たい仕事のひとつだろう。部下の残業時間の管理も欠かせない。時期がくれば20人もいる部下の一人ひとりを、ルールにのっとって評価しなければならない。息つく暇も無い会議に忙殺される。だけれども、管理職のこうした仕事は、巨大な氷山の、海面の表に出た一角に過ぎないのではないか。海の中には、絶えざる標準化と、訓練と、業務指示と、イレギュラー対応という大きな塊が存在する。職能別組織編成が生産性最大化の道具であるということを前提にするなら、管理職の仕事はこのような姿に見えるのだ。  管理職研修が重要だ、というけれど、管理職のこのような役割を、もういちど一人ひとりに問いかけるような研修が、たまには必要なのかもしれない。「わかりやすいマニュアルの作り方研修」など、企画してみてはどうだろう。

マイクロマネジメント | その他

マイクロマネジメント

 部下に業務を指示したが、どうもうまく進められていない、求める品質に達していない。結局、上司が自分で引き取ってやってしまう。というのは割とよくある話だ。上司の言い訳としては、「自分でやったほうが早い」、「品質が低くてこれでは納品できない」など、いろいろあるだろうが、要は、部下にその業務遂行能力がないと思い込んでいる、部下のことを信頼していない、ということである。  上司が部下を信頼できなくなると、こんなことを始めることがある。毎朝、その日の業務について、部下と打ち合わせを行い、今日やらなければいけないことひとつひとつについて、手順を細部まで確認する。打ち合わせの締めには、部下がちゃんと理解したか心配なので、再度、手順を復唱させたりする。さらには、適宜、作業の進捗状況を報告させ、そこで問題があれば、対応方法を細かに指示する。1日が終われば、何がどこまで終わったか、予定通りにいかなかったのは何が原因か、などこれまた細かに確認し、では、明日どうするか、といった具合だ。  このような管理手法を「マイクロマネジメント」という。上司からすると、部下に対して細かに指示しており、業務を適切にマネジメントしているような気になるのだが、部下からすると堪ったものではない。自分の意見や感情は封殺され、言われたままに仕事をしなければならない。その結果、指示されたことがちゃんとできても、それは上司のおかげ、もし失敗しても、それもまた上司のせいとなり、部下は主体的に行動することがなくなり、仕事に対する責任感も持たなくなってしまう。これは一種の「過干渉」だ。過干渉は子育ての世界では、親が一方的に自分の価値観を子供に押し付け、子の欲求を抑圧することだ。その結果、主体性の欠如、他責思考といった傾向がみられるようになる。過干渉は、精神的な虐待と位置付けられているほど、罪深いものなのである。  Googleの元人事トップ、ラズロ・ボック氏は、著書「ワーク・ルールズ!」の中で「リーダーが犯す過ちは管理しすぎることだ」と述べている。また、アジア開発銀行のオリヴィエ・セラット氏のこんな言葉を引用している。「マイクロマネジメントはミスマネジメントだ・・・人々がマイクロマネジメントに走るのは、組織のパフォーマンスに関する不安を緩和するためだ、つまり、他人の行動を絶えず監督し管理していると気が楽になるのだ―」  ちなみに、冒頭のエピソードは、いずれも私が新米マネージャーの頃の失敗談だ。初めて部下ができ、とにかく、部下をしっかり育てなければ、と気負っていたこともあり、いろいろな取り組みをしたものだ。きっかけは部下の些細な失敗であった。その失敗に過剰に反応し、自信を失った私はマイクロマネジメントに陥ってしまったのである。つまりは、マイクロマネジメントとは、部下のことを信頼していないだけではなく、上司自身の自信のなさの表れなのである。

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

スティーブ・ジョブズをコントロール!? | その他

スティーブ・ジョブズをコントロール!?

スティーブ・ジョブズ氏と言えば、Apple社創設者の一人であり、経営者のカリスマ的存在として有名です。コンピューター、スマホ、音楽、アニメ映画と4つの産業で革命を起こし、まさに「世界を変えた男」と呼ぶにふさわしい偉人ですが、その性格はメチャクチャで、自己主張は激しく、ワガママで、常に部下に要求する仕事の質のレベルがものすごく高い、いわゆる鬼上司であったことでも有名です。そんなジョブズの求める仕事の高いハードルをかいくぐるために当時の部下たちが用いたというファントムデコイという心理学テクニックが面白い。 このファントムデコイはイギリスのアンドリュー・コールマンの提唱する心理テクニックで、ファントムが幻影、デコイは心理的囮を表します。ファントムという言葉はコンピューターRPG(Role-playing game)でよく見ますし、デコイという言葉はFPS(First Person Shooting)ゲームとかでよく使われる兵器の名前です。ゲーム上でミサイルや魚雷等をかわすときに使う囮兵器のことです。 普通、この囮兵器は本物?と錯覚させるために精工に似せて作りますが、ここでいうファントムデコイはあえて本物よりも数段劣化させて作るのです。 どういうことか?実際にジョブズが部下たちからコントロールされたときの話があります。 ジョブズは冒頭の通り、常に部下に高いレベルのアウトプットを要求します。それはときには無理だろうと思われるくらいしんどいハードルを課して、部下たちが出した最初の結果を必ずといってよいほど受け入れませんでした。「まだまだできるはずだ。もっと死ぬ気で働け、週90時間働け!」とブラック企業のトップのように叱咤激励を繰り返し、部下たちを限界まで挑ませたのです。ジョブズも「僕のいちばんの貢献は、本当にいいもの以外には常に口を出し続けたことだ」と言っているように。 そこで部下たちは、自分たちも「これはダメだな」と分かっているようなクオリティの低い商品をわざと先に見せることにしたのです。ジョブズの高い要求に答えられていないレベルのアウトプットを本命のアウトプットより先に見せておき、本命のプレゼンの前にジョブズをわざとがっかりさせておいたのです。 当然ジョブズは激怒します。「なんだよ!このくそ商品は!他にないのか?」そこで部下たちは次の商品を出します。でも出来はまだまだです。ジョブズは再度激怒します。「おいおい、まだこんなんかよ!もっとましなプランはないのか?」 そしていくつかの囮商品を見せてジョブズをさらに激怒させた上で、最後の最後に自分たちの中で最高の出来のものを提示したのです。すると、「あぁこれだよ!」ジョブズは初めて歓喜しました。 あのiPod誕生の瞬間です。 ジョブズの部下たちは、ジョブズをよく観察し理解しているからこそ、ファントムデコイを撃てたのでしょう。彼は今何を欲しているのか、何が苦手で、何が得意なのか、思考的優先順位は何なのか、それを知った上で囮プレゼンやフォローをしてきているのです。言い換えれば「ジョブズをお客様」と考えたのです。 自分たちのお客様であれば、お客様が何を求めているのか、なぜそれを求めるのか、また手に入れられるように最善の努力やサポートをしようとするはずです。このように上司を「自分たちのお客様」だと思って気配りや目配りをしていけば、必ず関係性は向上し仕事の遂行力も上がっていくでしょう。 上司のキャラをしっかりと把握して、言動や行動を工夫しながらコントロールしてみることで、前向きな方向へかじ切りできるのです。そうすることが、仕事を楽しく、快適なものにしていくことにつながるのだから。 以 上

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。