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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

なんのためのエンゲージか | 調査・診断

なんのためのエンゲージか

  20年以上前、多国籍企業で働くようになって、エンゲージメントという言葉を知った。毎年、エンゲージメントサーベイの結果が国別にフィードバックされ、自国の数字改善に向けた行動の報告・共有・実践を強いられるという行事には辟易しつつも、多国籍の経営を統制する単純でオペレーショナルな手法にはなるほどと感服。各国従業員の「心情」の定量把握として、社員満足度とかモチベーションではなく、あくまでも組織成果に結果する(といわれる)エンゲージメントレベルを測るという点も、さすが業績指向のスタンスとして新鮮に感じた記憶がある。    当時、我々が受けていたサーベイでは、エンゲージメントレベルは以下の4つの総合設問で測られていた。 ・I speak highly of my organization's brand and services. ・I would recommend my organization as a great place to work. ・I feel motivated in my current job. ・Overall I am satisfied with my current job.    それに対する相関性を診るための設問群が、Global & Local Sr. Leadership 、Recognition & Reward、Culture、Work Environment、Immediate Manager といったカテゴリーで用意されていた。5,6年前から、日本でもエンゲージメントの大事さが喧伝されるようになって、そのサーベイもさまざまに提供されているが、だいたい構造はこの頃のものと変わらない。何がエンゲージメントを高めるかについても、ドライバーはすでに明らかになっている。その具体表現は論者や研究者、サーベイ会社によって異なるものの、結局のところ、従業員がいだく3つの「実感」に集約できる。   有意義感 貢献実感 成長実感    ひらたくいえば、 ①目の前の仕事の意義(会社にとっての/社会にとっての/自分のキャリアにとっての)がわかっていて ②承認や報奨で自身のなしえたことの価値が確認でき、③仕事を通じての成長が実感できている、ということである。ゆえに、これら実感を喚起できれば、エンゲージメントは高まる。    さて、冒頭「組織成果に結果する(といわれる)エンゲージメントレベル」と書いた。人々が、エンゲージされて働くことで、高い意欲と主体性をもって目の前の業務に臨み、パフォーマンスを上げ、組織の生産性向上に資する、とされる。ひいては、企業価値(=経済価値)向上につながるゆえに、今年始まった人的資本情報開示でも、KPIの一つとしてエンゲージメントレベルを記載する会社は多い。    要は、「皆が自ら頑張って働き成果あげてくれる」から、いうことだが、その限りではエンゲージメントの効用としてずいぶんと矮小なのではないか。たとえば、中国語で「頑張れ」を「加油」というがごとく、良い燃料を入れることで機械を最大稼働するかのような印象だ。機械ならぬヒトが働くとは、決められた業務を遂行するのではなく、やるべき業務を考えだす=業務創造にこそ本領がある。そうした、人が「考え、創り出す」行動こそをドライブするのがエンゲージメントだ、と考えたほうが腑に落ちるし、元気がでる。    実際、組織論や人材マネジメント論の領域では、エンゲージメントの向上が創造性発揮に直結する原理はあきらかにされていないものの、エンゲージメントが創造性発揮に寄与する可能性が、多くの研究者に指摘されている。また、エンゲージメントの語源、仏語の「アンガーシュマン」は、サルトルの自由と創造に関わる言及によってよく知られている。サルトルは、アンガージュマンを通じて、人間は自由を行使し新しい価値や意味を生み出し、社会を変革していくべきだと主張した。ここでは、自由な意思をもつ人々を創造へむけ駆動する鍵としてアンガージュマン=エンゲージメントが語られていたように見える。    資本主義社会の発展とは、差異の創出(=イノベーション)により駆動されるものとシュンペーターは言ったが、企業において差異を生み出すのは、モノでもカネでもなくヒトという資源。ヒトが差異を創出するための、つまり人々が創造性を発揮するための鍵がエンゲージメントとしたほうがダイナミックだし、それこそが人的資本経営のKPIにふさわしい。    エンゲージメントが従業員の創造性を喚起するものだとすると、先の3つの実感のなかで、「有意義感」こそが、もっとも重要になるはずである。発達心理学でいう「人は目標の意味に共感し意欲を持つとき最大に能力を発揮する」からだし、そもそも創造という行為は、役割とか任務といった受け身でできることではなく、「みずから成したいと思う目的への没頭」がなければ始まらないからだ。    やるべきことの意義を自分事として確信することが、創造性発揮にむけ人々をエンゲージする。であれば、イノベーションのためには、会社の目的、事業の哲学、仕事の意味を、人々を触発し得るものとして提示できるか否かが、まず問われてくるだろう。エンゲージメントサーベイは、その検証の第一歩なのである。    

「人が集まる企業」のKPI | 調査・診断

「人が集まる企業」のKPI

 人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方、とされる。  人的資本経営の情報開示が求められるのは、投資家がそうした非財務的情報も考慮して投資判断をするためであり、それが株価に影響するため各社本腰をいれて情報開示の巧拙を競わなければならなくなった。しかし、人事施策と株価変動の関係については、せいぜい人員削減施策の影響がプラスに出たりマイナスに出たりといった事例があるくらいで、調査も分析もされていない。よって「金融商品としての自社」に最適な開示情報の選定ははなはだ難しい。  ゆえにそこはいったんおいて、では、そもそもわが社の企業価値向上につながる人的資本経営とはなにか、と考えたのが、情報開示に臨んだ各社に共通するスタンスだったろう。しかし、何が企業価値を高めるかについても普遍的な答えはない。例えば、エンゲージメントレベルをあげることが生産性向上につながる、ダイバーシティ&インクルージョンがイノベーションの苗床になる、従業員が幸福であれば(Well-being)結果的に企業は成長する・・・、といったよく言われるコトワリを自社にあてはめても、そうした人事施策が自社の企業価値向上につながる保証はない。    で結局のところ、多くの企業は国から例示された定型一般的な指標情報の開示に留まるといった横並び姿勢を見せたのが、情報開示初年度の状況だった。女性管理職比率〇〇%、目標○○%といった当たり障りのない指標開示には、独自の指標はほとんど見当たらないし、その会社ならではの人的資本経営の思想は伝わってこない。  企業価値向上うんぬん以前に、なにより「優秀な人材の確保」がなければ始まらないのだから、開示すべき情報は、求める人材像が明快で、働く場として魅力的かどうか、つまりその情報を見た人が働きたいと思うかどうかの観点でまず検討すべきではなかったか。開示情報=新卒採用広報の際に提示する情報だと考えれば、人材獲得競争のなかで差別性の高いメッセージたりえているかが問われるから、横並びなどもってのほかで、独自性の高い情報開示に腐心しなければならなかったはずである。  新卒採用広報における企業PRとは、製品やサービスのPRのように「企業の現状」を魅力的な効用として見せることではない。入社した自身の将来の姿がイメージできるような「企業の未来」を確かなものとして提示することである。確かさを保証するものは、組織と人材に関する明確な経営意思(=方針)と実現のリアリティ。人的資本経営としてその会社は何を目指すか、つまり入社する自分たちがどのような人材を目指しどのような場に身を置くか、そのリアリティを裏付ける重要なファクターこそが、開示情報に示される固有の指標、その現状の達成度合いと目標に向けたマイルストーンである。  とすれば、人的資本経営とはまず、「人が集まる企業」としての自社のアイデンティティを問い直し、追究し、形づけることから始まるのではないか。人的「資源」を「資本」と言い換えても、企業都合で人々の能力を高め、十全に使用/活用し、企業価値(¬つまり経済価値)を向上させるという構図に変わりはない。それだけではない、人々が交通し、成長し、機会開発する「場」としての企業の価値向上に目を向けることからも、各社各様の人的資本経営の指標はさまざまにありうるはずである。

人事評価の限界 | スマートアセスメント®

人事評価の限界

 客観的な能力評定の手法として使われるヒューマンアセスメントは、正確には「アセスメントセンター方式」と呼称される。この手法は第二次大戦中、将校(一説には諜報員)の選抜手法として生まれ、各地にアセスメントセンターが設置されたことが呼称の由来と言われる。アセスメントセンター方式を特徴づけるのは、シミュレーションによる能力測定ということであり、その有効性は、社会心理学者クルツ・レビンが以下の方程式で示した原理を前提としている。  レビンいわく、個人がとる行動は、個人特性と環境との関数である。ゆえに、環境を職務シミュレーションとして固定することで、その環境下の行動発揮を観察・分析すれば個人特性を評定できる。対象者が経験や職場の異なる人々であっても共通環境で評定できるし、シミュレーションだから経験したことのない職務環境での行動発揮も診れる。例えばまだ経験したことのない管理職環境をシミュレーション演習とした評定は、管理職の昇格審査にきわめて多く使われているから、アセスメント=管理職昇格審査という理解が一般的になっている。  この方程式からは、通常企業内で行われる人事評価の限界もまた、見えてくる。業績評価は結果や目標達成なので明快だが、能力評価や行動評価では、個人能力の正確な把握は原理的に難しい。レビンの式でいえば、職場での能力発揮行動は、職務の慣れ具合や長くともに働いてきた良好な人間関係、上司との相性などなどといった「環境」と個人が有する「能力・資質」の両方が相まっての結果として発揮度合が決まるからだ。  そうであっても、貢献度合いを評価するという意味では何ら問題はない。能力評価とは保有能力ではなく発揮能力、発揮行動を問うのだという評価原則はつまり、貢献に結果しているかどうかを評価することに他ならないからだ。「環境も含めた能力」の発揮を評価するのが、企業内で行われる能力評価、行動評価ということである。 問題になるのは、個別育成や組織的活用の基盤となる個人能力・資質を、人事評価では正確には把握できないことだ。もちろん、環境変数に惑わされず、個人特性を見極め得る慧眼のマネジャーはいるかもしれないが、その彼彼女とて、部下の未経験職における能力発揮可能性を見極めるには、特殊なトレーニング(アセッサー養成訓練のような)抜きには難しいだろう。社内の適材を探し出して配置する、あるいは能力開発を個別的に効果的に行う――そうしたタレントマネジメントの起点情報としての個人特性把握には、人事評価情報は使えない。 かくして、管理職よりも下の階層に対して網羅的経年的にアセスメントセンター方式による測定を行う取り組みやリスキリング施策へのアセスメント組み込みのニーズが増えてきた。あるいは、イノベーションをにらんで事業開発型人材の発掘のためのアセスメント仕様設計などの要請もある。その採用局面への展開の事例もある。タレントマネジメントとは現有人材の保有能力の最大活用を目指すものだとすれば、必然的に、こうした正確な能力測定機会をさまざまに設けざるを得ないということである。

あなたの会社にCLOはいるか | 人材開発

あなたの会社にCLOはいるか

 ここでいうCLOとは、Chief Legal Officer(最高法務責任者)でもなければ、Chief Learning Officer (最高人材育成責任者)でもなく、Chief Logistics Officer(最高ロジスティクス責任者)である。と説明せざるを得ないほど、CLOは言葉として知られていないし、その役職のある日本企業はほとんどない。  ロジスティクス(兵站)は、もともと軍事用語。戦争の趨勢は兵站術に左右されることは常識であり、「戦争のプロはロジスティクスを語り、戦争の素人は戦略を語る」とさえ言われる。モノを扱うビジネスにとっても同じ事情(戦争のプロ≒経営のプロ)のはずだが、多くの企業にとってロジスティクス責任者は物流サービスの発注担当者にとどまる。そうした経営意識ゆえCLOの不在が当たり前ではあったが、ここにきて急にCLO設置の「外圧」が高まってきた。  ロジスティクス環境の危機的状況が加速しているからである。来年2024年には、時間外労働時間の上限規制が、ドライバー職にも適応される。もともとロジスティクス業界は、昨今の宅配ニーズの高まりもあって物流量は増大、低賃金長時間労働が常態化し、恒常的な人手不足による将来の物流能力不足が危惧される構造だった。  そこに、時間規制により業務量が減り売上がさがる。人材確保のためには時間外勤務報酬を前提しない賃金レベルアップは必定であり、利益は減少、さらなる物流コスト増や徹底せざるを得ない効率化の取り組みは、ロジスティクス業界のみならず産業界全体のサプライチェーンを揺るがす事態となることはあきらかだ。  かくて、昨年9月より国が主導する「持続可能な物流の実現のための検討会」では、荷主企業に役員クラスの物流管理統括者(≒CLO)の選任を義務づける措置案があがっている。この検討会は、物流業者、発荷主企業、着荷主企業の三者それぞれの物流効率化へ向けての取り組み促進を目指し、その一環としてのCLOの設置は、荷主企業経営者に対する物流生産性向上の意識醸成が狙いとされる。  しかし、単に物流生産性向上のためのCLOでは、「経営のプロはロジスティクスを語る」には物足りない。そもそも、三者関係においては、一方の効率化が他方のコスト増をもたらしかねない。物流というサービスの売買である限りは、「三方よし」の追求は難しい。持続可能な物流のためには、従来の、安くて融通のきく物流サービスを使うという発注姿勢からの転換が必要なのではないか。  たとえば荷主企業は当たり前のように、出荷タイミングにあわせ待機させ、指定の時間に届けることを最優先に要求する。たとえば私たちは気軽にアマゾンで、近所のコンビニ行けば買えるような日用品をひとつ、時間指定の宅配で購入したりする。物が運ばれる/物が届けられることは、産業と生活にとって不可欠な機能であり、物流は経済社会の血脈ともいえる。だとすれば、そうした顧客の身勝手な個別ニーズ以前に、その仕組み維持と効率的使用のための社会共通の使用規則と標準手順があってもいい。  経産省と国交省が旗を振る「フィジカルインターネット」構想は、そのような社会インフラとしてのロジスティクスネットワーク、いわば公共財としてのロジスティクスへの構造転換を予感させる。インターネットとは、①情報を「パケット」に分割しそれが ②都度、さまざまな通信経路を自在に経て届き ③共通プロトコルによって各局面が制御されるしくみ。それにならって、①「コンテナ」や「パレット」といた標準化された荷単位を使い、②最適なルート(空き容量があり時間の合う輸送手段)を経て配送され、③集荷・配達・情報管理の汎用ルールによって荷主とのインターフェイスが制御されるしくみとし、ロジスティクスを社会的装置として組み立てるということだ。  となれば、荷主企業には、インターネットのようにユニバーサルなロジスティクス機能を自在に使えるリテラシーと、それを使いサプライチェーンマネジメントをどう最適化するかという戦略的意思決定が、日々問われるだろう。安く自社の都合に合わせてくれる物流業者をどう調達するかが勝負で、あとは業者任せ、ではなくて、自社のサプライチェーン戦略にあわせて、みずから柔軟に物量機能自体をどう設計し制御するかが問われてくる。さらには、個別業者のキャパシティの制約から解放されて、サプライチェーン戦略自体の自在な策定も可能になるからだ。  兵站術では、戦闘の作戦が「兵站支援限界」によって規制される方策と、戦闘に必要な兵站をなんとか用意する「作戦追随型」の方策があるとされる。国と国の戦争ではもっぱら前者が歴史的に選択されてきたが、近年のテロとの戦闘においては後者にならざるをえないらしい。ビジネスにアナロジーすれば、それはVUCA時代のロジスティクスであり、フィジカルインターネットはそれを可能にする。と考えれば、これは先行き不透明ななかでの柔軟自在なロジスティクス=攻撃的なサプライチェーンマネジメントへの機会かもしれない。  その担い手としてのCLOであれば、魅力的でチャレンジングだ。単なる物流合理化ではない、ロジスティクスの構造転換に今から主体的に与し先行してリテラシーを磨くという意味で、CLOの設置の好機なのである。

マネジャーの心理は安全か | その他

マネジャーの心理は安全か

 自社の管理職者に研修をしようと思い立ったとき、どんなスキルテーマにするかを考えるには3つの観点がある。 ①マネジメントの観点。 ここでは「目標達成」と「人材育成」が2大テーマであり、分解すれば前者は、PDCA、業務アサイン、目標設定・評価……、後者は、業務指示、OJT、後継者育成……と必要スキルが細分化される。 ②リーダーシップの観点。 同じく2大テーマは「ビジョニング」と「モチベート」。前者は、ビジョン設定、ストーリーテリング、リーディングチェンジ……後者は、動機付け、巻き込み、信頼醸成……などのスキルが想定される。 ③コンプライアンスの観点。 ここはスキルというより禁止則が、さまざまにありうる。  と書いてみると、改めてマネジャーの役割はたいへんだと思う。自組織の目標の必達をまず第一に要求されたうえで、メンバーの育成もしなければならない。イノベーションが喧伝される昨今は、環境変化のなかで新しい方向性を示し、メンバーを動かせとも言われる。教科書的な管理職役割、「マネジメント=成果をだすための組織の統制」と「リーダーシップ=変革に向けての組織の主導」が、文字通りともに求められるのだ。さらには、ハラスメントは絶対するなと脅され、メンバーの働き方改革をとにかく促進せよと強制される。    もちろん研修の趣旨は、武器=スキル/手法を与え必要に応じて使ってほしいということではあるが、研修テーマのひろがりは、管理職への役割期待が高まる一方であることを示しているともいえる。さらなる期待となりそうなのが、いまはやりの「心理的安全性」だ。グーグルの調査「Project Aristotle」で、チームの生産性に一番影響するのが心理的安全性(=誰もが率直に意見を言い合える組織環境)だと言われて以来、「心理的安全性の高いチーム作り」もホットなマネジメントテーマとなった。  心理的安全性が高い組織は、生産性向上だけでなく、離職率の低下やコンプライアンス維持、あるいはイノベーションのタネになる創発的な意見喚起などの効用があるので、その実現が望ましいのは確かである。しかし経営が、さらなる期待役割として、自組織の心理的安全性向上をマネジャーに命ずるとしたら、目標達成にむけチームをときに厳しく統制し、改革を主導・牽引しなければならないマネジャーにとってはダブルバインドになるのではないか。  「誰もが率直に意見を言い合える」とは、平たく言えば、「こんなこと聞いたら無能(無知)だと思われる」とか「批判していると思われるから黙っておこう」とか「これを頼んだら邪魔することになるからやめよう」という躊躇がなく、自分自身の意見や想いを表明できることだ。とすれば、マネジャー行動としては、個々人の意思・想いへの配慮や、まずは傾聴といった姿勢などが求められ、目標達成にむけシビアなタスクマネジメントに尽力しているマネジャーには、余計なコミュニケーション負荷にもなりかねないからだ。  たとえば、メンバー各人の意思や想いや意見を尊重すべく、マネジャーが ・報告を徹底せよと命じるより、こちらから「どうだった?」「何があった?」と部下に聞く ・上手くいかなかった原因を追求するよりさきに、まず「それは大変だったね」と共感を示す ・本筋と関係ない意見を切り捨てずに、まず「なるほど。ということは……なの?」と意見を聞く といった部下対応を意識的にやろうとするとしたら、繁忙のなかで適時的確な判断を強いられている身としてはいらだつかもしれない。もしかすると「端的に結論だけ言え!」と言いたいこのマネジャー自身の「率直な意見」は言えてなくて、「自分たちの心理的安全性はどうしてくれる」との声があがるかもしれない。  当たり前だが、業務特性やメンバー編成によっても、マネジャーの組織方針やリーダーシップスタイルの違いによっても、心理的安全性のインパクトは異なるから、とにかくその向上をすればよいということではない。実際「Project Aristotle」でも、「チームへの信頼の高さ」「チームの構造の明瞭さ」「チームの仕事の意味の共有」「チームの仕事の社会的意義の共有」が、心理的安全性とともに高生産性チームの特性だとされているから、生産性に資するチームビルディングは一様ではない。  冒頭にあげた様々なスキルと同様に組織力を高める一つの武器として、心理的安全性のメカニズムも知り、状況に応じて使う裁量こそがマネジャーに与えられなければならないのだろう。マネジャーが、自組織をどうしていくべきか経営に対して率直に意見が言え、経営がマネジャーの意思と想いを尊重し、マネジャーは裁量をもって組織マネジメントを行う。チームにおける心理的安全性とともに、経営におけるマネジャーの心理的安全性向上もまた、きわめて重要なはずである。つまり心理的安全性とは、チームビルディングの問題以前に、「全社の心理的安全性」が検討されるべき経営テーマなのである。

褒めれば伸びるか | 人材開発

褒めれば伸びるか

 成功体験が人を成長させる、ということは、ほとんどすべての人が知っている原理である。だから、幼児に対して、「あーひとりで靴下はけたねー、○○ちゃんえらいねー」と誰しも申し合わせたかのように、こぞって声をかけるのだ。原理だから大人でも通用するはずと、部下にむかって、「○○さん、よくやった。さすがたいしたものだ」と褒めれば伸びるか、というとコトはそう単純ではない。無理して褒めたばかりに勘違いした部下を生み出してしまうかもしれない。部下を成長させるには、褒めたあとのもう一押しがいる。  幼児の場合、褒められることにより、自分で「できた」という事態を強く認識し、その繰り返しが自己効力感の醸成につながるのだが、大人はそれだけでは充分ではない。自他の違いがやっと分かってきたくらいの幼児とちがって、大人はすでに社会的存在(=関係の中で生きる存在)だからである。ゆえに、一個人としての学習の原動力である自己効力感よりも、関係の中で自分が何をなしえたかの発見こそが成長のエンジンとなる。成果の意味のフィードバック、つまり、なしえたことの価値をわからせるという後押しが必要になる。  会社の一員たる大人の成長にとって、もっとも大事なことは、自分の成し遂げた成果の「意味」を知ることだ。自分の業務遂行上の意味はもちろんだが、職場や同僚にとっての意味、会社にとっての意味、ひいては社会全体にとってどういう意味を持つか、それを知ることで、自身の価値を発見する。同時に、それを成しえた能力を自覚できるから、さらなる成長に向け新たなチャレンジにも臨める。で、次の目標を定め、成果を出し、その意味を知りさらなる価値を発見するというサイクルこそが、シンプルにして唯一の人間成長の原理なのである。  このサイクル、経営心理学で「心理的成功体験連鎖」と呼ぶモデルとかつて教えられた。図式的に言えば、①能力の確認→②目標の設定→③目標の達成→④価値の発見→①能力の確認→……という4フェイズの循環サイクル。すぐにわかるように、これは本来のMBOに他ならない。MBOの本義は、組織目標の達成というゴールよりも、自律的な業務遂行と業務を通じての人間成長というプロセスこそを狙いとした方法論であり、だからこそ、ストレッチした目標設定や本人の主体的意思やフィードバックの重要性が強調されるのだ。  自分の価値の発見とは、ことばを換えていえば、成長実感ということである。よくエンゲージメントサーベイでは、「仕事を通じての成長実感」の項目がカギとなることが指摘されるが、その向上策は、個々人の感じ方やレベル観がちがうから打ち手が定まらないことも多い。  成長実感を高めることでエンゲージメントレベルをあげたいのであれば、まずやるべきは、自社の人材育成施策全般を「心理的成功体験連鎖」の観点で検証することだ。業務アサインと育成のしくみとして、加えてマネジャーの部下育成スキルとして、このサイクルが埋め込まれているかどうかをチェックすることである。しくみという意味では、さきにあげたMBOもそうだし、たとえばトレンドワードであるタレントマネジメントを、個々のタレントの確実な成長システムとして具現化できているかという話であり、マネジャースキルという意味では、この成長メカニズムを踏まえた部下コミュニケーションが浸透できているかという話である。  さて、部下の成果の意味をわからせよ、と冒頭書いたが、上司が唐突に、一方的にそんな話を部下にしてもダメなのだ。大事なことは、たとえば入社間もない社員が「ワタシ、なんか成長したかも、、、」と自分で気づき始めたタイミングで、すかさず、「君はようやく組織の一員っぽくなってきたな。だって言われなくても周りをよく見て、自分のやるべきことをちゃんとやれるようになっている。次は○○○○できるようになることだな」とはっきりと言葉にして、上司の眼からみた解釈をフィードバックすることだ。  もっとも効果的な意味づけは、自分でもストレッチできたかなという思うところにミートして指摘する(=褒める)ことであり、これもまた褒めて伸ばす秘訣なのである。

初めての、部下評価 | 人事制度運用支援

初めての、部下評価

■先輩、ちょっと相談していいですか。管理職になって初めての人事評価つけるのですが、まだまだ未熟な自分が人を正しく評価できるかすごく不安なのです。私のつけた評点で処遇が決まるのも重圧だし、年上の部下もいてちゃんと本人に納得させられるのか自信がなくて。 □未熟、つまり経験とか人間力が足りないから不安と言っているなら、君は評価の原理がわかっていない。自分の経験や価値観をもって評価する=つまり、自分の「中」の基準で人を評価するなら、そうかもしれないが、君がやるべき評価はそうではない。君の「外」にある基準に照らして、部下の行動や能力発揮度合を見る、ということなのだぜ。 ■「外」にある基準? □公開されている会社としての基準(こんな行動をとってほしい、こんな能力を発揮してほしい)に照らして各部下の行動を見ればいいのだから、君の人としての成熟度とは関係ない。「基準に即しての評価=つまり、絶対評価をせよ」と評価者研修で習ったでしょ? ■だとしても、評価項目は抽象的だし、基準もあいまい。個々人をその基準に照らして1~5点なんて、正しくつけられるとは思えないのだけど。 □ここは確かに、最初は難しいかもね。場数を踏んで磨かれていくという面はある。でもすぐできるコツがあるのだけど、知りたい? ■ぜひ。 □たとえば、部下が5人いたとしたら、評価項目ごとに、できている順に並べてみる。 ■それは相対評価では? それはしないと習ったけど。 □まぁ聞いて。ちゃんと絶対評価になるから。で、Aさんが一番できているとするなら、なぜ、君がそう判断したかの根拠をならべてみる。同様に、BさんやCさんについても、Aさんとの違い、それぞれの違いがどこにあるかを考えてみる。 ■根拠、つまり行動事実の違い? □そう。そこで、あらためてそれを評価基準に照らして、レベル分け=評点化してみればいい。 ■なるほど。できている、できていない、と私が感じる「事実の違い」を材料に絶対評価をするわけですね。うん、それならできそうだ。でも、、、そもそもの、この行動事実ならOKとみた私の判断自体が会社として正しいのかどうかが私には自信がないけれども。 □はい、そのとおり、そこが大事なところ。それは君一人では確認できないし、二次評価者の上司の眼も現場を見てないから怪しい。方法は、たったひとつ。ほかの評価者との間でつけた部下の評価表を開示して、相互検証をするのです。 ■え、そんなことしてもよいの? □大丈夫、君はまだ経験していないけど、「評価会議」というイベントがこの会社では用意されているから。一次評価者同士で評価結果の妥当性を相互に検証する会議。他の評価者が、どのような行動事実をもとに、どう評点をつけたかを知り、またその妥当性を検証しあうことで、評点レベル、つまり評価者の目線があう。 ■なるほど、人のふり見てわがふり直せ。 □いやいや、意味ちがうけど。。。正確にいえば、個々の判断が妥当かどうかを検証していくというよりも、会社ごとの「見えない基準」を明示化し共有していく場という方が正しいかな。評価基準は抽象度が高くどの会社でも似たようなものだけど、具体的実態的な基準は、会社ごとに違ってしかるべきだから。 ■個別具体的な評価基準とは、会社の「暗黙知としての価値基準」の明示化である。 □いきなり難しいこと言うなぁ。。。平たく言えば、「勤務態度」みたいな項目で、一回でも遅刻したらダメな会社もあれば、二回まではOKという会社もある。そういう暗黙の基準が評価会議で確認・共有され、皆が同じように評価できるようになるわけね。 ■評価って、どこか内密にっていうか、上司部下の間だけ、せいぜい二次評価者までの間での秘匿性高い印象あったけど、もっとオープンに論じるべきものなのですね。少し気が楽になりました。 □評価時期の評点のつけ方よりも大事なのは、その材料となる日常の観察と指導。日々君が部下をよく見ていて、都度、指導をしていて、個々人の成果達成にむけて気配りを怠らないこと。まぁそこは大丈夫でしょう、初評価の責任を痛感し不安を覚えていること自体が、君が誠実な管理職者であるということだから。

エフェクチュエーション―創造的ご都合主義のすすめ | 人事制度

エフェクチュエーション―創造的ご都合主義のすすめ

 経営にしろ、ビジネスを行うにしろ、日常の業務遂行にしろ、まず目標/ゴールを定めることが鉄則である。経営とはそもそも構想主導の取り組みであり、ゆえに経営リテラシーの筆頭はビジョンニング力とされる。ビジネスへの着手は、つねにゴールセッティングに始まる。定めた目標をゴールとし、そこへ至るプロセスを考えるのが合理的な方策であることには、疑いの余地はない。  しかしそれは、過去の常識かもしれない。VUCAの状況下では、目標設定自体が難しいし、設定した目標の正しさもあやういからだ。かくして近年は、「コーゼーションからエフェクチュエーションへ」といった言葉が目に付くようになってきた。コーゼーション(Causation=原因/因果関係)とは、環境を予測し目標(結果)を定め逆算的にプロセス(原因)を描くこと。エフェクチュエーション(Effectuation=実用/効力発生)とは、目標を定めず現実的に採れるプロセス(実用)を進めていくなかで決定要因(効力)を見出し結果を創り出していくこと。要は、因果論ではなくて、実効論である。  平たく言えば、「目標から考える」のではなく、「走りながら考える」。と聞けば、先の見えない新規事業開発などは、まさに走りながら、試行錯誤しながら、形にしていくという実態にならざるを得ないこともよくあるから、耳慣れない「エフェクチュエーション」も、とりわけ目新しい概念というわけでもない。ただ注目したいのは、これが起業家に特徴的な意思決定行動だということだ。  この言葉が日本に登場したのは、『エフェクチュエーション』(サラス・サラスバシー著)が翻訳出版された2015年。学際型の経営学者として定評ある加護野忠男さんの監訳だったから買ってはみたもののその分厚さもあって積ん読状態だったが、どこかで見た言葉だなと書架の本に気づいてひも解いてみた。実証的起業家研究の書で、起業家たちを特徴づける能力を調べてみると、それがエフェクチュエーションだったということである。  「走りながら考える」とは、目的からではなく手段から考えるということである。つまり、手持ちのリソース、能力、人脈で何ができるか考え、できることから始める。これが、①掌中の鳥の原則、と命名され熟達した起業家行動の第一の特徴とされる。以下、②許容可能な損失の原則、③クレージーキルトの原則、④レモネードの原則、⑤飛行中のパイロットの原則の5原則が提示される。ちなみに、レモネードの原則とは、「酸っぱいレモンをつかまされたら、レモネードをつくれ」との格言の意で、偶発性の活用という行動原理だ。良いことも悪いことも、途中で起こったサプライズは、価値創造の源泉と考える。  5原則の概要はググれば出てくるので確認いただきたいが、それぞれに示唆的ではあるが刮目するほどのものではない。しかし、こうした原則に通底する起業家行動、その原理にはなるほどとうならされる。彼らは、未来を予測しようとするのではなく、未来をコントロールしようとするのだ。ゆえに、今あるリソースから確実にできることをはじめ、実際にコミットした関与者をリソースとし、サプライズもまたリソースとしてインプットするのである。つまり、不確実な未来だからこそ、すべてを自分に都合よくデザイン(=創出)しようとする。  サラス・サラスバシーは、エフェクチュエーションを支える論理をプラグマティズムだと説明し、こんな逸話を書いている。  ある日、学生たちに、私が背の低さゆえにバスケットボール選手になれなかったことを語った時、クラスのなかのプラグマティストは、「背が低い人のバスケットボールリーグを作ればよいじゃないですか」と言い返したのだ!

社長の仕事 | 人材開発

社長の仕事

 「社長業というのは、つまるところ金勘定ですから」と自嘲気味に語ったのは、重厚長大企業グループの基幹企業を率いた元社長だった。企業人のキャリア開発のあれこれを話題にしていて、キャリアゴールとしての社長に話が及んだときに、彼が最初に口にした言葉である。だから社長業なんてつまらない、と言えるのはそれをこなしてきた自負の裏返しで、戦略も戦術もその成否が金勘定の巧拙に左右されるのは経営の常識だろう。  別の会社の現役社長は、競争に勝つ策を出し続けることが社長の仕事だと言った。IT業界で独立系企業として成長続け確固たるポジショニングを得た経営者ならでは言葉で、その言葉の裏側には、勝つための力を磨く不断の自己研鑽を日々自身に課しているという自負がある。彼は、先見力、分析力、構想力を鍛える独自の「脳のトレーニング」を毎日行っているのだった。  経営とは、端的に言えば「競争と金」である。そのバランスは、規模や歴史や市場ポジショニングによって異なるだろうが、「競争と金」を両にらみしてひとり最終判断をするのが社長の日常業務である。金勘定には、投資判断や資金調達から日日の経費状況検証まで、「木を見て、森を見て」、「過去を解釈し、未来を展望する」全方位的な計数センスが必要である。競争には、市場内での競争のみならず「ファイブフォース」との闘いや社会に対する提供価値の差別化という意味で、やはり全方位的な競争を勝ちぬく胆力(=意思と信念と知力)がなければならない。  そのように戦略の策定と推進をリードする際に、もうひとつ、社長にしかできない仕事がある。それは、ダイレクトなメッセージよる人々の触発や行動喚起だ。経営目標に向けた従業員のパフォーマンスマネジメントとは、ビジョンや方針を提示し、モチベーションを高め、方針に沿ったあるべき行動発揮を促し、成果を出させることである。グローバル標準の人的資本管理の言い方でいえば、「Engage & Align」。これは、ヒエラルキー組織のなかでマネジャーが担うべき役割だが、ときにそれだけでは充分ではない。社長が、人々への行動要請の意味と意義と覚悟を、自分の言葉で人々に直に語りかけることがあってはじめて、人々は強くエンゲージされアラインされるのだ。  そのことを自覚していない社長は、意外に多い。確かに、たくさんの人を動かす仕組みが組成され、マネジャーたちがタスクと人をマネジメントし、階層化・分業化された統制がされるのが組織である以上、現場のパフォーマンスマネジメントは現場に任せるしかないし、任せるべきである、ということは正しい。しかし、顔の見えない、雲の上の人が率いるのであっては、戦略遂行に画竜点睛を欠く。社長の顔、つまり、経営者としての意思と覚悟が全社員に見えることが、エンゲージメントの前提になるのだ。  社長が社員たちに直接語りかける場をどれだけ持つか。さまざまな階層別の会合への参加はもちろん、若手研修の冒頭メッセージ、車座セッションの全国行脚といったイベントを「コミュニケ―ション戦略として」、かつ「社長自身の意思をもって」、組み上げ、その実行に大量時間投下することもまた、きわめて重要な社長の仕事なのである。

パトスを演じる | 人材開発

パトスを演じる

 子会社の責任とは、自立的に自社の成果をあげグループ経営に貢献することである。グループ力に依存したり、企業グループという大きな組織の一員といった意識で、受動的にグループトップのマネジメントに従ってはならないのだ。自社が成果をあげ貢献するには、親会社の見解や指示などに耳を貸さずに自社の社長たる自らが経営判断しなければならない。親会社がいかに子会社たる自社を環境分析しその戦略を描こうとも、自分以上に意思とリアリティのある判断はできないからだ。  そう考えて多国籍企業グループの日本法人の代表に就いていたから、当時は、自ら策定した事業計画や予算を親会社に認めさせるべく、戦略的プレゼンテーションをもって、親会社との交渉という闘いに臨むことが期首の正念場だった。日本は業績低迷下であっただけに、ヘッドクォーターの管理担当役員からの横やりや掣肘、COOからの米国感覚の戦術指南をかいくぐって予算を通さなければならない。そのプレゼンのポイントは、ロゴスとエトスとパトスを駆使して、納得せざるを得ないと思わせることだった。  予算確定のグローバルミーティングで難しかったのは、説得力あるパトスの表明だった。ロゴスは、構想主導型の予算が立てられ、明快に示せれば問題はない。前年踏襲の積み上げ式予算など出したものなら、一発退場だが、まず意思ある戦略があり、それを裏付ける予算計画であればよい。エトスもさほど難しくなく、「いやいや日本は違うのだ」との常套句を、ビジネス倫理や社会性の文脈で語れればよい。  パトスの表出は、態度と言葉による。「内なる闘志」など忖度されないから、結果へのコミットメントを、はっきりと態度と言葉で表面的に示さなければならないのだが、その大仰で芝居がかったプレゼンテーションはなかなか抵抗あってできなかった。グループCEOは、そこは物足りない風情ではありながらも最終的には当方の予算を認めてくれた。  そしてすべて国の予算策定が終わると、おもむろに傍らに近づいてきて私の両肩に手を置き、眼を見据えて、 「日本は、お前のリーダーシップにかかっているんだからな」 と英語でなければ、気恥ずかしくなるような言葉をかけてくれたのだった。すかさず、両手を添えた力強い握手を返しつつ、感に堪えないといった表情をつくって大きくうなづく。ときに身に染まぬ演技をするのも大事な仕事なのだ、と自身に言い聞かせながら。  パトスを演じることはしかし、ピープルマネジメントをうまく行う基本でもある。その後、複数の会社の優秀なマネジャーたちにインタビューしたことがある。聞いたのは、「人を育てるマネジメント」の秘訣。各人各様の、経験のなかで独自に編み出した「日常の理論」は、実に興味ふかく示唆的だったが、共通していたワザは、相手に対する熱意や思い、相手の意思や感情への配慮が、はっきりと伝わる言動で示すこと。要は芝居がった言葉遣いで大げさにふるまうことの効用が大きいということだった。  なるほど、リーダーという役を演じる割り切りをもって、パトスを目に見えるように伝える姿勢が優秀なマネジャーに共通する。彼の地のCEOはそのことを、つまり、マネジャーとしての私の課題を教えてくれていたのかもしれない。

人材育成の本気度 | 人材開発

人材育成の本気度

 選抜型の、次期経営リーダーを育成する教育施策を数多く提供してきた。  基本は経営リテラシーを学ぶための半年間の連続研修の形式。各研修の事前に基本知識の学習と課題に対して自身の考えをまとめる作業を課し、研修当日は議論とアウトプットに集中。事後には、研修テーマを自身の組織や自社を題材にして考察したレポート提出を都度課す。連続研修の最後には経営に対する施策提言を組みこみ、社長以下全役員のタフクエスチョンに晒され、経営目線から評価されるイベントで終わる。  この最後のイベントの狙いは、もちろん優れた施策提案があればその実施について経営陣が合意しすぐに開始できるようにすることだが、多くは実践できる施策への期待というよりも、優秀な候補人材をさらに成長へむけブーストすることである。ゆえに、多様なタフクェッション(=厳しい質問や指摘)が、経営のリアリティに気付かせるための教育的な叱責として繰り出されなければならない。そこに、聞き手である社長以下経営陣の姿勢と力量が大きく問われことになる。  ゆえに、このイベントは、決して締めくくりのセレモニーではなく、一連の経営リーダー育成施策の成否を分ける勘所である。ときに、提言の未熟さにいらだちおもわず頭ごなしに切り捨ててしまう社長が著しく受講者のモチベーションを棄損してしまったり、経営難の渦中にあるせいか受講者から提案される案に前のめりに食いついて、会社への不安感を抱かせてしまったりといった逆効果の逸話も聞く。時間と労力と費用を投下し経営人材育成に臨んできた取り組みが、最後の最後で失敗してしまったら元も子もない。  成功させるために大事なことは、経営実践で必要な視座と視野を分からせるための厳しい指摘と、さらなる動機付けの両面を、きちんと踏まえた発言が経営陣からなされることである。経営陣が真剣に問い質すその言葉によって、自分たちの提言がなぜ至らないのかを胎落ちさせる。その問いや問う姿勢に、経営者の器というものが受講者に垣間見えることこそが意義深い。  ある会社で、経営会議の時間の前半を割いて、若手選抜研修の最後の経営提言発表をしたことがあった。各グループの発表ごとに経営陣からの質問、指摘、意見が予想以上にあって、予定の終了時間になってもまだ半分しか終わっていない。経営会議の後半では重要な決議事項が目白押しなので、打ち切らざるを得ない。残りの発表内容は資料回付で役員が閲覧し後日コメントをフィードバックするようにしたい、と事務局が終らせようとする。  と、間髪を入れず社長が「いや、それは違うんじゃないか。彼らがこんなに一所懸命に考え準備して我々に提起したいというのだから、我々はそれに応える義務があるのではないか。最後まで、じっくりやろう。経営会議の議論はそのあとだ。夜は長いし」と言った。  時間切れか、、、と悄然としていた受講生たちも、その言葉に、一様に笑顔で顔をあげ目を輝かせる。育成施策の巧拙もさることながら、経営者の本気度に勝る育成のエンジンはないのだ、と思わせる一瞬であった。

「役割」の効能と副反応 | 人材開発

「役割」の効能と副反応

 話題になった組織論の本を読んでいたら、進化した組織の素晴らしい点として、従業員が「ありのままの自分」を出せる云々、と書かれているのをみて、唖然として、本を閉じた。仕事をする環境である会社組織で、ありのままの自分をさらけ出すなんて、あまりに息苦しいし、そんな必要もない。むしろ、ありのままの自分ではなく、組織内の役割を演じることだけが問われ、役割発揮度合がパフォーマンスにつながるゲームだから、組織で働くことは面白い。  自分自身≠役割、だからこそ辛い仕事も耐えられ、仕事ならでの醍醐味もある。「たかが仕事、されど仕事」とは、そうした事情を的確に言っているのである。結果、人事評価が低くても、それはたんに役割に必要な能力がないというだけということであって、全人格的評価ではない(と思えばよい)。そもそも、ありのままの自分と仕事を重ねてしまうから、メンタルイッシューも出来するのではないか。  組織とはそもそも、個々人の能力限界を超えた成果を出せるための装置として生まれた。一人ひとりではできることが限られるけれども、うまく役割分担して組織すれば、個々人の能力総和を超えた集団としての能力発揮が可能になる。社会に対してより大きなコトをなすしくみが組織であり、それは役割としての個人=構成員を前提する。テーラーシステムにおける作業分業から、知識創造企業体における機能分業まで、そのコトワリは変わらない。 組 織成果にむけ個々人がやるべきことを自覚し協働でき、なおかつ人々のありのままの姿を守ることができるのが、「役割」の効能である。ただ、この役割は、組織としての成果を高めていくには、きわめてよく効くものなのだが、ときに効きすぎて副反応にいたることがある。役割には、それを熱心に演じることを通じて、「仕事する自分」が別人格としてアイデンティファイされる面があるからだ。役に徹することで、ありのままの自分だったらとうていできないことも、できるようになる、あるいは「しでかしてしまう」ということだ。  かなりむかしのことだが、取材記者をしていたことがある。文章だけでなく写真も入れる記事だったので、カメラを携帯し、よい記事にはインパクトのある写真が不可欠と撮影に力をいれていた。ある企業グループの合同入社式の取材のときのこと。式全体を俯瞰した写真を撮りたくて、ファインダーを覗いあちこち移動しているうちに、ついに決定的な構図をとらえてシャッターを押した。  その時私は、数百人の新入社員が入る広大な式場の壇上、各社の社長・役員が並んで座っている前で会場の全員に向けて訓示をたれているグループ総帥の後ろに立ち、総帥の後頭部越しに、こちらを凝視する会場の新入社員のたくさんの顔が並ぶ絵を撮っていたのだった。カメラを構え、誰にも断らずに、いつの間にか壇上にあがっている――「カメラを覗くと人格が変わる」と我ながらうろたえ、そのとき、職業意識の恐ろしさを知った。  普通なら臆してできないことも、役割に忠実に、役割に徹すればできる。だからよい写真がとれるというならば、効能ともいえるかもしれない。しかしそれは、あきらかな副反応(ときに社会に害をなすような)を起こすことがある。役割に忠実に実直に職務遂行するあまり、生み出された人類史上もっとも悲惨で衝撃的な副反応のメカニズムは、ハンナ・アレントの「エルサレムのアイヒマン」でよく知られる。  そこまで深刻ではなくても、我々は、役割とは単に組織目的に紐づけられた機能分担にすぎないことを忘れ、自分の生活を損なってまでも、社会の常識に反してまでも、役割を全うしようとすることがある。人は、さまざま関係のなかで、アイデンティファイされる。その中で、仕事つまり組織の役割によるアイデンティファイは、関わる時間量においても、責任や達成感や刺激の大きさにおいても、「親としての役割」や「市民としての役割」や「隣人としての役割」よりもインパクトが大きいゆえに、この手の副反応を引き起こしてしまうのだ。  ではどうしたらいいか。ときに、仕事の渦中でたちどまって、「自分はなぜこの行動をとっているのか」と自問すればいい。その問いに、「仕事だから」、「やらねばならぬ役割だから」と自答するなら、さらに、「なぜ自分はこの仕事をやっているのか」、「この役割はなんのためのものなのか」と玉ねぎを剥くようにしつこく自己言及していけばいい。結果、自分にとっての役割を、客観的かつ主観的に意味づけることができればもう、副反応なく仕事しているはずだ。「たかが仕事、されど仕事」と嘯(うそぶ)きながら。