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出社の是非が企業文化を語る | その他

出社の是非が企業文化を語る

 新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちの働き方を劇的に変えました。オフィスに出社するかどうかの議論が、企業文化を浮き彫りにしています。このテーマについて考えるとき、オフィス出社を推進する人々は「会社こそが第二の家」と考え、一方でリモートワークを推進する人々は「私の家こそがオフィス」と考えているのかもしれません。    企業の視点から見れば、オフィス出社には確かに利点があります。対面でのコミュニケーションは、円滑な意思疎通やチームワークの向上に寄与します。ランチタイムやコーヒーブレイク中のカジュアルな会話から生まれるアイディアや、直接顔を合わせて行うミーティングの臨場感は、リモートワークでは再現しづらいものです。しかし、「見えないと管理できない」といった意見も聞かれますが、これは果たして本当にそうでしょうか?  一方、社員の視点に立つと、リモートワークには明らかな利点があります。まず、通勤時間が削減されることで、プライベートの時間が増えます。育児や介護などの個人的な責任を果たす時間も確保しやすくなります。通勤にかかる時間とエネルギーを節約できることは、生産性の向上にもつながります。つまり、リモートワークは「家族第一」を実現するための強力なツールとなるのです。  現在の人手不足の状況下で、企業が優れた人材を確保するためには、柔軟な働き方の導入が求められます。出社の是非を巡る議論は、このマッチングをどう進めるかに関わる重要なテーマです。ここで重要なのは、どちらが正しいかを一概に決めるのではなく、業務環境や顧客満足度などを総合的かつ客観的に評価し、合理的な解決策を見出すことです。  最終的な方針は、誰が決めるべきかという問題も重要です。トップマネジメントがこの前提を理解し、意思決定することが求められます。しかし、その際に忘れてはならないのは、世代によるITリテラシーの差や働く価値観の違いをしっかりと自覚することです。年齢が高いほどデジタルリテラシーが低い傾向があり、メールやチャットが苦手な社員もいます。一方で、働き盛りの世代は家庭や個人的な時間を重視し、もっと柔軟な働き方を求めています。  もし、会社の会議室に自動ドアが設置され、出社するたびに「ようこそ、未来のオフィスへ!」と歓迎されたらどうでしょうか?また、リモートワーク中に仮想現実のオフィス空間が提供され、バーチャルで同僚とコーヒーブレイクを楽しむことができたら?こうした未来の働き方も夢ではありません。  最終的には、企業と社員の双方が納得できる解決策を見つけることが大切です。オフィス出社とリモートワークのバランスをうまく取りながら、新しい働き方の文化を築いていくことが求められます。結局のところ、「家がオフィス」か「オフィスが家」かの議論は、私たちがどのように働き、生活するかを再定義する機会でもあるのです。さあ、あなたの会社はどちらを選びますか?

今求められる「リーダーシップスタイル」 | その他

今求められる「リーダーシップスタイル」

 ピラミッド構造組織の中でもがいている指揮命令型のリーダーは、仕事を任せられる部下がいない、部下が育たない、時間がないと言う。結果、リーダーは猛烈に働かなければいけないものだと思い込んでいる。リーダーシップスタイルとは、ひとりの相手とどの様な形で協力するかということで、部下のパフォーマンスに影響を与えようとするとき、どの様に指導・行動するか、それが相手からどう見えるかが重要になる。多様性が求められる今後、指揮命令型、協調型でもなく、相手によって対応を変えることができるリーダーが求められている。  スポーツ界には、ビジネスにおいて参考になるリーダーがたくさん存在する。  青山学院大学陸上競技部・男子長距離ブロック・原晋監督。箱根駅伝の出走経験はなく、大学OBではなかったが、ある人の推薦で、2004年に中国電力(自称、伝説の営業マンとの事)を退職の後、監督に就任。当初の条件は3年契約の嘱託職員であった。「箱根駅伝に3年で出場、5年でシード権、10年で優勝争い」と宣言したため、就任3年目の2006年の第82回箱根駅伝予選会での16位惨敗に、大学幹部から「話が違う」と責められ、監督解任、長距離部門廃部寸前になった時期もあったそうだ。    原監督の組織の作りでは、人を育て、組織を鍛え、成功を呼び込む勝利への哲学を大切にされている。人を育てる領域で参考になるポイントをいくつか挙げてみる。   ・減点方式ではなく加点方式で前向きに評価する。   ・失敗から学ばせるのではなく、小さな成功体験で成長させる。   ・自分の思いを監督に自由に言える雰囲気を作る。   ・チームのビジョンではなくその子のビジョンも伝える。   ・最後は感性や表情豊かな選手が伸びる。 その他、参考になる「魂の語録」は枚挙に暇がない。    監督就任当初の陸上部の組織レベルは低く、監督命令型での組織作りから始まり、次は主将に指示を出す、大筋の方針だけを提示する、そして現在は、選手を観察してヒントだけを与える最終系のサポート型となり、組織としては成熟期に入っている。初期の監督命令型からサポート型に至るまで、紆余曲折ある道のりだったと思うが、多くの部員を抱える中で選手の能力や性格などを考慮し、相手によって対応(マネジメント)を変えている事がうかがえた。それは今求められる「状況対応型リーダー」と一致する。相手によってマネジメントスタイルを変えることは大変なことではあるが、その姿勢は必ず相手に伝わり、強い信頼関係が生まれることを疑わない。3年目の監督解任が検討された時、監督継続を懇願したのは部員たちだった。    指揮命令型、協調型のリーダーシップを活かして成果に結びつけてきた人が大半でしょう。誰にも自分の型がある。ただし、時代の変化とともに変えるべきところが出てくることは当然のことだ。何事においても、これまでの継続では何も変わらないと、皆が知っているものの行動ができていない。自分のリーダーシップスタイルは、部下からどう見えているかを確認することをお薦めする。私自身も、状況対応型リーダーシップスタイルが出来ているか自問自答し、最適な組織構築に繋げるよう取り組んでいるところである。    その他、スポーツ界で注目しているチームがある。  JリーグFC町田ゼルビア。2018年に株式会社サイバーエージェントが経営権を取得(2022年に藤田晋氏が社長兼CEOに就任)。2022年の成績は、J2で15位。2023年に青森山田高校サッカー部総監督の黒田剛氏が監督に就任。選手補強があったもののJ2優勝。そして、J1に昇格した2024年現在、驚くことにJ1首位キープ。町田ゼルビアの戦略に興味を抱いてしまう。関連書籍が出版されたら迷わず購入したい。 以上

人がやるか、機械に任せるか | その他

人がやるか、機械に任せるか

 とてもいい雰囲気のカフェを見つけ、グルメサイトの評価も上々なので行ってみた。店内は落ち着いた雰囲気で、照明も控え気味、一人用のテーブルは木の素材そのままといった感じの落ち着く空間。店員の方がメニューを持ってくる。そしておもむろに膝をつきメニューの説明を始める。口調も棒読みでもなく、とても丁寧だ。その店の看板メニューというプリンとドリンクのセットを頼み、一息ついた。プリンは非常に好みの硬さであっという間にたいらげてしまった。満足感に満ち溢れた。さて、そろそろ帰ろうかと、机上に置かれた伝票を手に入口付近に向かった。レジらしきものが見えたが店員がいない。はて。とレジらしきものに目をやると「伝票のQRコードをかざして下さい」と表示されている。  ここでどう感じるか。 ①何も感じずQRコードをかざしてお会計する ②あら、こういうタイプのレジなのね ③セルフレジか…    私の場合は③なのである。入店してから食べ終わるまで、非の打ちどころがないどころか満足して帰ろうとしていた。そこにセルフレジ。丁寧な接客対応とのバランスが取れていない印象で「もったいない」と感じてしまったのだ。    少子高齢化からの労働力不足、人手が足りない問題は耳に胼胝(たこ)ができるほどいたるところで聞いてきた。その解消のためにシステム化、DX化は必須と私も思っている。それは絶対なのだが、果たして全部が全部そうするべきかという疑問がカフェの帰り道にもやもやと浮かんだのである。  セルフレジは様々な店舗でみられるようになった。人材不足も理由の一つだが、コロナ禍における非接触対応もあって導入が進んでいる。一般社団法人 全国スーパーマーケット協会、一般社団法人 日本スーパーマーケット協会、オール日本スーパーマーケット協会による2023年スーパーマーケット年次統計調査報告書※によると、「セルフレジ設置企業の割合は31.1%となり、増加傾向が続いている。」とある。スーパーマーケット業界でのセルフレジ導入は増加し続けるだろう。  店員とのコミュニケーションを介さずに客自身が品物を選びレジへ運ぶ方式の店と、店員とのコミュニケーションが発生し、それが重要・肝である店ではセルフレジに対するとらえかたが変わってしまう。接客に力を入れず別方向に力をいれる方針(コンセプト)を掲げ、それが伝わるほど入店から退店までの接客システムがあからさまであればセルフレジもスムーズに受け入れられる。今回のカフェは店員のパフォーマンスの高さ、雰囲気の良さがあったが、最後に勝手にお会計してねというような突き放された印象にアンバランスさを感じてしまったのだ。  どこに人間を使い、どこに機械やシステムを使うのか。機械化するにしても人の感情に寄り添って検討していかねばならないのだろう。   ※「2023 年スーパーマーケット年次統計調査報告書」 一般社団法人 全国スーパーマーケット協会・一般社団法人 日本スーパーマーケット協会・ オール日本スーパーマーケット協会(2023)  https://www.super.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/nenji2023.pdf

「オキシトシン」で人手不足を解消!? | その他

「オキシトシン」で人手不足を解消!?

 近年、どの業界でも人手不足という最大の経営課題に直面しています。しかし、最新の科学がこの問題解決に一役買うかもしれません。その鍵となるのが、「オキシトシン」です。オキシトシンとは、脳内で生成され、主に社会的な絆や信頼感を高める物質です。「愛情ホルモン」などといわれるものですが、オキシトシンの効能を初めて聞いた方もいるでしょう。これは組織運営にも大きな影響を与えます。  例えば、スイスの研究者が行った実験では、オキシトシンを投与された被験者たちは、他者と協力しようとする行動が顕著に増加したと報告されています。これを職場で活用することで、チームのメンバー同士が互いに信頼し合い、助け合うことで、より生産性の高い環境を作り出すことができるということです。  しかし、ここで気を付けてほしいのは、オキシトシンの「副作用」です。仲間意識を高める一方で、自己防衛本能が強まり、他を排除する傾向も見られるのです。これは、例えば、ある部署だけが結束を高めすぎると、他部署との対立が生じたり、最悪の場合、企業全体の調和が乱れることにつながりかねません。この点を理解し、慎重に取り組む必要があります。  また、オキシトシンの効果は一時的なものです。そのため、持続的な効果を得るためには、定期的なアプローチが必要です。具体的な施策としては、定期的なチームビルディング活動や、クロスファンクショナルなプロジェクトを通じて、部門を超えた交流を促進することが有効です。これにより、全社的な一体感が生まれ、個々の社員が企業全体の目標に向かって協力する姿勢が養われます。  さらに、企業文化として「信頼」と「協力」を根付かせる取り組みも重要です。社員が安心して意見を述べられる環境を整えることで、オキシトシンを自然に分泌を促すことができます。例えば、オープンなコミュニケーションを奨励する社内制度や、定期的なフィードバックセッションを設けることが挙げられます。これにより、社員同士の信頼関係が強化され、職場の雰囲気も向上します。  そしてリーダーシップの役割も重要です。リーダーがオープンで信頼できる存在であることが、社員のオキシトシン分泌を促進します。リーダーは、日々の業務の中で信頼関係を築くための行動を意識的に取る必要があります。例えば、部下との一対一の対話を増やし、個々の意見や悩みに耳を傾けることが求められます。  オキシトシンをうまくコントロールすることで、組織の結束力を高め、人手不足という難題に立ち向かうことが可能だと思います。ただし、その副作用も理解し、バランスを保つことが肝要だということです。オキシトシンを測定するキットもあり、経営者や人事部長の皆さんが、科学の力を借りて、健康経営や人的資本の開示要求に応えていくなどしていくことで、明るい未来が築けるかもしれません。 以上

人材戦略は全社ワンチームで! | その他

人材戦略は全社ワンチームで!

 これからの時代、企業の成長エンジンは、お金やモノではなくヒトである。ヒトを資本と捉え、ヒトに投資し、ヒトが価値を創出することで、企業が成長し得るというのが人的資本経営だ。ヒトをコストとして捉え、生産性を高めるため、できるだけ人件費を削減するという発想から転換しないと、企業は成長どころか生き残りさえ難しいという時代になった。  そのため、各企業はこぞって、人材の育成・成長を強化する方針、優秀な人材を獲得するための施策、従業員のキャリア開発支援、社員モチベーションの向上、ワークライフバランスの重視、等々、人材に関する方針や施策を経営計画で掲げている。  中期経営計画や上場企業の統合レポートを見ても、あきらかに人事や人材に関する方針のウエイトが高まってきている。  こうした方針や施策を推進していくには、それぞれの企業のビジョンや経営戦略と連動させていくことが重要なのだが、正直なところ、経営戦略と連動したかたちで、どのような人材(WHO)を獲得していくのか、どのように(HOW)人材を育成していくのか、明確で具体的な施策に展開されている企業は、必ずしも多くない。  必要なヒトを確保し、育て、社員のエンゲージメントを高めていくといった基本的な方向性は定まっているものの、具体的にどの社員を、どのように育てて、どんな成長を目指すのかについて、社内で共通の認識が確立され、かつ、具体的な施策に展開されているだろうか。また、現有人材の実情や現場感と大きく乖離した理想的な人材像を描き、現場の社員からするとリアルさを感じられない計画になっていないだろうか。  もちろん、過去から長らく、人材の価値向上に着目し、経営戦略と連動し、現実感のある人材戦略を展開している企業もあるのだが、その割合は限られている。  人事部門もこうした状況を十分理解し、これからより解像度の高い人事・人材戦略を描いていこうとしているが、思った通りには順調に進んでいない。どんな施策づくりでもそうだが、総論賛成、各論反対といった状況に直面しているところも少なくない。人事部門が、より具体的な施策を策定しようとする段階では、各部門での微妙な利害や思惑が異なり、基本的な方針としては賛成だが、個々の施策では反対となって、なかなか前に進まないというケースも散見される。  こうした状況を打開する上での、一つの効果的な施策が、現場のリーダー層を巻き込んだ、ワークショップスタイルの施策展開だ。人事部門が施策の策定において、経営との対話に終始するのではなく、現場のリーダー層とともに現状の認識合わせや人事方針を具体化していく方法である。この方法であれば、現場の事業部門にオーナーシップ感が生じ、部門間での相互理解が高まり、さらには、リアルな現場の実態や実力に基づいた施策展開が可能になってくる。  後継人材の育成、人材ポートフォリオの作成、組織文化の醸成など、人事の施策にはそれなりに時間がかかる。一刻もはやく着手しないと、新しいテクノロジーが次々と生まれ、大きく変化する経営環境についていけなくなってしまう。いまや、人事周辺の特定メンバーだけで、人材戦略を策定することには、限界がある。全社的リソースを巻き込んで人材戦略を策定し、ドライブをかけていく必要がある。 ■■無料Webセミナー情報■■ 「人材戦略ワークショップ」~経営陣・現場リーダーを巻き込み人的資本経営を実現する方法~ 日時 2024年8月29日(木) 10:00〜11:00 受付9:45〜 スピーカー 高柳 公一

企業寿命<キャリア寿命 | その他

企業寿命<キャリア寿命

 キャリア採用が広がり、終身雇用が崩壊しつつある、などと言われる。  「しつつある」どころか、大卒から定年まで雇用し続ける終身雇用など幻想になるかもしれない。企業寿命が短期化する一方、ヒトのキャリア寿命が長期化しており、理論計算上は社員が会社より長生きし、転職を余儀なくされるからだ。  人生100年時代が提唱されて久しい。日本人の平均寿命は男女ともに80歳を超えており[1]、健康寿命も70歳を優に超えている[2]。定年延長や再雇用により、多くのサラリーマンは65歳まで働く時代だ。  人間の寿命が延び、キャリア寿命も延びている。多くの人が大学卒業後22歳から65歳まで43年間も働くことになる。これからさらに伸びるだろう。終身雇用を大前提に、多くの企業が雇用延長や定年再雇用制度を導入し、より長く雇用を継続するための議論・施策展開を始めている。  1つ、大きな、しかしながらあまり見えていない論点がある。より長く雇用しよう、あるいは長い時間をかけてじっくり社員を育てようという方針を立てるとき、無意識のうちに企業が未来永劫同じ環境で生き続けることを大前提としていないか。  あるいは、労働者の側も、10年後も変わらず会社があって、役割が与えられて、その頃には今10歳年上の上司や先輩が担っているような役割を担うのだろうな、と漠然と思っているのではないか。  東京商工リサーチの統計によると、2021年の国内157万社の平均年齢(業歴)は34.1年[3]であり、7割の企業が10年超50年以下、100年を超える企業は1000社に1社だという。  「創業期」「成長期」「成熟期」「衰退期」からなるビジネスライフサイクルはグローバル化やイノベーション経済により益々短期化し、20年程度だ。創業期にはあまり多くの雇用機会は生じず、成長期・成熟期で従業員を増やすことがほとんどだ。多くの企業は、このフェーズで終身雇用を前提とした新卒一括採用、つまり、40年超の償却期間を有する超大型投資を毎年する。しかしながらよくよく考えると、成長期・成熟期をすでに迎えているということは、せいぜい残り10年~15年くらいで衰退期を迎えるかもしれないということだ。  正確な算出根拠は不明だが、半世紀前から、企業の平均年齢は50年超から徐々に短くなってきたとの見方もあり、企業寿命がキャリア寿命より長い時代であった方々、つまりは現在の中高年の方々が若手だったころには、成長している企業に入って会社と共に生き抜く終身雇用が大前提であった こともうなずける。  成長し続けられたり、安定し続けられればそれに越したことは無いが、すでに成熟期に入った企業が40年も先を見越した育成を始める、長く働けば20年後には管理職になれますよ、というキャリア魅力を説くのは、現実に合っているだろうか。  企業は、動物であるヒトとは異なり、M&Aなど形を変えて命を繋ぐ選択肢は多いが、いずれにせよ同じ環境や条件で生き続けられる期間は非常に短いと言える。そして、その短い期間の中でも刻々とフェーズは変わり続ける。  大きな母集団を形成して20年後に管理職にするような終身雇用・新卒一括採用時代に無理が生じ、必要な人材を必要な時期に活用する時代になったともいえるだろう。労働者の視点では、長いキャリア人生の中で、自分を活かす複数の企業を見つけ続けなければならないともいえる。 あまり近視眼的になりすぎるのも良くないが、同じ経営状況が続くと信じて漫然とキャリアパスや育成計画を考えるのではなく、3~5年の中期的な先を見据えて、人材ポートフォリオを変え続けていく必要がある。 [1]令和5年簡易生命表の概況,厚生労働省   2024年7月26日厚労省が発表した統計によると、日本の平均寿命は、女性が87.14歳、男性が81.09歳であった。 [2]健康寿命の令和元年値について, 厚生労働省 [3]2021年「企業の平均年齢」調査,東京商工リサーチ

追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」  | その他

追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」 

 雑誌「遊」創刊号を見て、たちまち、その編集をした松岡正剛という存在に心身をわしづかみにされた。科学から芸術まで横超的な世界認識のワザ、その外連味と諧謔に満ちた手さばきがあまりにも魅惑的だったのだ。当時、大学で物理学を学びつつも出版業界で生きていきたいと思っていたから、必ずこの人と仕事をしたいと心に決めた。「遊」では、量子力学と花鳥風月と触覚的な誌面デザインが一気通貫していたことも嬉しかった。  結局、出版社には入れてもらえず、松岡さんの、縦横無尽に文化を切り分け組み上げ世界モデルを提示する仕事ぶりを横目でみつつ、書かかれた文章をただただ消化する日々。企業人事部をクライアントとするコミュニケーション・コンサルティング会社にいたときに、企業組織論専門誌を、いわばソートリーダーシップの道具として発行することができ、早速、この雑誌の取材を口実にして松岡さんに初めて会うことができた。  当時、松岡さんは、数人のスタッフと猫たちと職住一致の集団生活をしていた。「雑談ならいつでも歓迎」という言葉を真に受けて、そこに上がり込んでは、ずいぶんといろんな話を聞かせてもらった。松岡さんは、「方法」に着目するアプローチを旨としていたが、あるとき、「たとえばね、目の前の人がどんな意図をもって会いに来て話をしているか、すぐにわかる方法があるんだ」と言った。  それを教えてくれ、というと、「んー、高いんだよこれは」とにやりとしつつ、「それはね、会ってから相手が話したことを、時間を逆にして再生してみるんだよ。すると、本心がたちまち浮き彫りになる」と言うと、いきなり、その日その時までに私が話した言葉を、逆順で口にし始めたのだった。「あなたはいまこう言ったが、その前はこう言った。その前にはこう言い……」と延々と続けてみせた。録音テープのような記憶力にも驚いたが、聞くと、こうしたオリジナルの方法論をいくつも編み出したことに驚嘆。常にそんな刺激を堪能できた。  松岡さんは「日本の組織」全16巻を手掛けていたから、企業組織の問題意識も持たれているはず、とわが企業組織論専門誌への連載を依頼した。テーマは、「企業の安楽死仮説」。出色のテーマだと意気込んでぶつけたのだが、反応はイマイチ。いろいろ議論をして、企業に限らず様々な組織、たとえば官僚組織、宗教教団、スポーツチーム、劇団、暴力団等々の主宰者にインタビューし、そこから企業組織の問題を逆照射させる目論見の連載に決定。そのホストを松岡さんにお願することになった。  この連載は、残念ながら4回で中断する羽目になった。この雑誌を出していた会社が経営破綻し、実際に「安楽死」をせざるを得なくなったからである。連載に先立って、松岡さんに書いてもらった原稿がすばらしかった。松岡さんのどの書籍にも採録されていないが、企業という存在の様々な貌が、平易ではあるが濃縮された文章で書かれている。ウィトゲンシュタインの論理哲学論考のようにスタイリッシュ。  タイトルは「企業のジョークをいつ話せるか」。そこでは、企業組織を観るために設定した8つの視点がひとつひとつ語られている。いわく、 表徴としての企業  前衛としての組織  テキストとしての企業  限界としての組織  メタファーとしての企業  解釈過程としての組織  心理としての企業  ジェンダーとしての組織  といまここに書いてみただけで、経済学や経営学の教科書的な組織論や、ビジネス誌にある企業変革法といったハウツー的処方箋のくだらなさを凌駕する消息が伝わるだろう。いわば「企業を批評する」というどこにもなかった評論の世界が提起されたのだった。  改めてこの批評を読んでみると、その指摘は20数年後の今の日本企業にもそのまま当てはまる。つまり、ことさらにイノベーションやダイバーシティやジェンダーが喧伝されながらも、日本企業の「組織と人間」の問題は一向に変わっていない。「表徴としての企業」のなかで、世界的にも注目された日本的経営という表徴の“曲解”が語られたが、いまは、人的資本経営という表徴が徘徊している。また「心理としての企業」の中で、マズローの自己実現を、社員たちには迷惑極まりない組織のイディアと指摘した松岡さんは、今はやりのエンゲージメントをどう見るか。  興味津々の、現代の「企業批評」は、永遠に書かれることがなくなってしまった。

「歩く」ことと「踊る」こと | その他

「歩く」ことと「踊る」こと

 昔の私の上司だった人は、「目的」という言葉が異常に大好きな上司で、何かにつけて「その仕事の目的は何?」と繰り返し聞いてくる上司だった。その問いかけは、しばしば若い私を悩ませ、困らせたが、それはいま考えると、私の思考が未成熟だったせいもあるが、上司のほとんどパワハラとも取れる詰問調のアプローチによって、思考停止に追い込まれていたからでもあった。そしてさらに言えば、上司の言っている「目的」という言葉の意味合いが、言っている状況によって、ときには微妙に、またときには大きく異なっているように感じられたからでもあった。要するに、「目的」の言葉をもって言わんとしているところが、私にはよくわからなかったからだ。実は上司自身さえもよく分かっていなかったのではなかろうか。  「仕事の目的」ということに関連して、あるときこの上司は、私に対して次のように言っていた。「仕事の目的というのは、いま課せられている作業の先に何があるのか、なぜこれをやるのか、考えてやることなんだよ」。それに続けて「なぜやるのか考えたときに、できるだけ視座を高く、視野を広く考えることが大事だ。自分の仕事を片付けるという感覚ではなく、ステークホルダーの全体を考えて、できるだけ多くの周囲に応えられるようにするんだよ」。非常にまっとうなご意見である。ところが一方で、別のタイミングでは、同じ上司が次のようにも語っていた。「仕事をやっていて、自分自身が成長実感を得られるかどうか、充実していると思えるかどうかが肝心だよな。結局はこの境地を目指すことが、仕事の究極の目的だ。そうでなければつまらないだろ?」。これもまた至極まっとうなご意見である。  しかしこの二つの意見は、同じ「目的」という言葉を使いながら、ほとんど矛盾しているようにさえ聞こえる。目的において周囲の方々を重視するという話と、自分の充実感を重視するという話は、簡単に両立できることではない。方向性が全く異なっているからだ。それにも関わらず、言っている上司自身がまったく気付いていない様子を見ると、おそらくその上司自身も、自分の意見を客観視し俯瞰して捉えることはできていなかったのではなかろうか。そして実は多くの上司たちが語る「目的」というものの内実も、また似たり寄ったりなのである。その時点その時点ではそれなりの説得力を持つものの、俯瞰して振り返ってみた時には、「果たして何が言いたかったのだろうか…」ということになる。  さて事態を少し整理してみよう。「目的」というものには、どうも大きく二つのあり方があるらしい。一つは、「いまやっていることを手段として、何か別の、より重要なものを達成しようとすること」。もう一つは、「いまやっていることそのものを極めて、自身の充実感をもたらすこと」。これはフランスの詩人ポール・ヴァレリーにならって言えば、「歩く」ことと「踊ること」の違い、ということに少し重なる。  多くの場合、「歩く」ことは、「どこかに行く」ため「歩く」のである。それに対し、「踊る」ことに、ほかに行くべき場所はない。「踊ること」そのものが価値があり、目指すべき目的なのだ。仕事において厄介なのは、この二つのあり方が、ほとんど同時に求められているように思われることだ。「周囲に役立つ仕事をしよう」というメッセージがあるかと思えば、「自分の充実感が決め手だ」というメッセージもあり、まとめて平たく言えば「歩きながら踊る?踊りながら歩く?何ですかそれは?」ということになるのだ。賢い部下であれば、その「矛盾」を見逃すことはないだろう。  かつて、日本の代表的な哲学者のひとりである和辻哲郎は、「人間の学としての倫理学」という著書の中で、「人間個人には最初から社会的な性格が内包されており、他者との関りを通じて、個人のレベルから徐々に共同性や社会性のレベルへと移行し成長するものであり、またそうあるべきだ」という主旨のことを述べている。つねに内から外へと目を開くべきであり、「外に目的を見出すべきだ」ということになる。いわば「歩く」仕事姿勢である。一方で、かの有名なアメリカの心理学者アブラハム・マズローは、「人間の欲求には5段階あり、生理・安全・社会・承認・自己実現という成長段階を辿る」という主旨のことを述べている。最終段階である「自己実現」とは、「外に目的を設定しない」あり方であり、「自身の内面において価値ありとするものを重視し、それがなされることそのものを目的とする」姿勢である。いわば「踊る」仕事姿勢である。社会性や共同性を重視する和辻と、個人の内面性を重視するマズローの姿勢の違いは、日本と欧米の文化的脈絡に照らして興味深いものがあるが、さて「矛盾」めいたこの状態をどう取り扱い、紐解くか、ということが喫緊の課題となる。  いまひとまず言えることは、「個人レベルを超えてより社会性をレベルアップさせることが目的だ」、という「歩く」仕事姿勢も、「社会的な関係性を超えて個人の充実感や内面を磨くことが目的だ」、という「踊る」仕事姿勢も、どちらも極端なかたちを取れば現場では軽率だと見なされかねない、ということである。「この仕事の目的は何?」と問われた場合に、「いや、自分探しですよ」(マズロー)と語ったら、やっぱり何だかおかしいのではないか、と思われるだろうし、「日本や世界人類のためにやっています」(和辻)と言ったら、やっている仕事に照らして、やっぱり何だかおかしいと思われるだろう。かと言って、中途半端を目指すのもおかしいだろう。それは、「目指す」ということですらないだろう。  このような八方塞がりのような状況下で、「仕事の目的」をどのように捉え、位置づけるのがよいだろうか。それは仕事をしている皆さん一人ひとりに考えていただきたいことだ。それは仕事の意欲に関わり、成果に関わることだからだ。    

「歩く」ことと「踊る」こと(続編) | その他

「歩く」ことと「踊る」こと(続編)

 「その仕事の目的をどう考えている?」という言葉を、皆さんは上司から問われたことがあるだろう。とかく「やらされ感」に苛まれ、「仕事を片付ける」感覚になりやすい部下に対して、この質問は有効である。視座を高め、視野を広めることで、いままで以上のアウトプット水準を生み出すこともあるし、付加価値が生まれることもある。  「部下に考えさせる」と言う意味では、仕事の目的を問う質問は有効であるが、一方で「目的ってそもそもどんなことなんですかね?」という疑念や戸惑いをも生み出しもする。なぜなら、この言葉で上司から語られることは、しばしば矛盾しているようにさえ感じられるからである。あるときは、できるだけ周囲の期待に応えることが究極の目的だと言い、あるときは自身の充実感や成長実感に結びつくことが究極の目的だという。これらは簡単には両立しないが、この質問を投げかけた当の上司でさえも、きちんと整理されないまま、放置されているのではないか。「目的」ということに、実はまともに向き合ってこなかった、ということである。  フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、人の行為には二つの別様のあり方があるという。「歩く」という行為のなかまと、「踊る」という行為のなかまである。「歩く」のは、何か目的地があってこれを達成するために「歩く」のだが、「踊る」のは別に他に目的が設定されているわけではなく、当人において「踊ることそのもの」が目的である。やっかいなことに、仕事という行為は、そのどちらにも関わるものらしい。仕事の目的について、最終的には「関与者や周囲に役立つことが重要」と捉える「歩く」仕事姿勢と、「自分が充実感や成長実感を得られることが重要」と捉える「踊る」仕事姿勢が併存する。これらは矛盾しているように見えるため、一層部下を戸惑わせる。そこで改めて、この別様の仕事のあり方を、どう捉えなおし、整理するか、ということが論点となる。  まず、個人の内面的な目的が、社会的な目的よりも優れていると考えるマズローのようなストーリーも、個人の内面的な目的よりも社会的な目的のほうが優れていると考える和辻哲郎のようなストーリーも、何かやっぱり違っているのだろう。マズローのように、究極の目的は個人の内面にあるとも断言できないし、和辻哲郎のように究極の目的は社会的なものである、とも言い切れないのである。それらは、同じ一つの階梯の上段と下段のようには位置づけられないものなのだろう。あくまで二つの異なる観点があるのだ、とひとまず捉えられるべきであろう。  もし仕事の目的として、個人の内面的な側面を重視しすぎると、「自己満足ではないか」とのそしりを免れないであろう。そのような姿勢は、少なくとも組織としての活動と馴染みが悪い。企業人であれば「もういっそ個人事業主としていかがですか」と皮肉られてしまうかもしれない。他人を考慮しない仕事は、やはり虚しい。一方で、仕事の目的として社会的な側面を重視しすぎると、「あなたの意思とは何ですか?」「あなたの主体性とは何ですか?」と聞かれてしまうかもしれない。企業人ならば「いっそボランティアでもどうでしょうか」と皮肉られてしまうかもしれない。他人のためだけになされる仕事もまた虚しい。  しばしば反対方向を向いて分裂しそうになる「仕事の目的」を、いかに統合し、一致させ、結びつけるかが、この議論の肝になるのではなかろうか。すなわち、社会に求められ役に立つことと、自らの関心や成長実感に関わることを、うまく結び付けられるかどうか、ということである。これは簡単なことではない。自分の関心事と、社会から求められる要請が、一致するとは限らない。しかしそこにブリッジをかけ、一筋のシナリオやストーリーを紡ぎだせるかどうかが、鍵を握っていることになる。  例えば、安心安全な生活の保障が第一だと考える従業員に、イノベーティブなプロダクトの開発を任せることになった場合、どちらかに偏ってしまったら、当然これはうまくいかない。「実はチャレンジのないところには、真の安心・安全はないのだし、守ろうとする姿勢では返っていまの地位さえ失いやすいだろう。イノベーティブな攻撃姿勢こそが、今の状況を守る最大の方法なのだ」というような説得やコミュニケーションができるかどうか。社会貢献を重視するあまり、採算や利益に無頓着な従業員がいれば、「社会貢献もまた、組織や自身に利益を生み出し再生産されるからこそ取り組みを継続できるのだ」とする説得やコミュニケーションができるかどうか。それらは綱渡りめいたレトリック展開になるかもしれないし、薄氷を踏むようなきわどさの中で何とか歩を進めるということになるかもしれない。しかしうまくいけば、乖離しバラバラになりそうな多様な目的をリンケージし、向きを揃えてやることで、仕事の目的を強化し、意欲や成果の向上に寄与できるかもしれない。  

組織の共通言語と多様性の二兎を追うには | その他

組織の共通言語と多様性の二兎を追うには

 ある会社で、採用面接に来られた方が、志望動機として「ホームページに親近感を感じたから」と言った。自分の専門領域で日ごろ使っているキーワードと会社のそれの共通性が高かったのだという。ある程度の専門性を前提として、さまざまな会社を見比べて、業務の考え方や価値観に相通ずるものやリスペクトを感じた、というのは、立派な志望動機になろう。「共通言語」が通じるということだから。    会社や組織における共通言語とは、一緒に働く人々の間で共有されている用語、ナレッジ、さらには規範やものの考え方などを指す。共通言語が成立している職場では、仲間どうしの相互理解は早く正確になるし、分かり合えないストレスは軽減されるので、効果的効率的に協働しやすい。有名なところではトヨタ自動車の「問題解決」や、仕事の手順書、バリューやクレドなど、さまざまな共通言語の形態がある。    共通言語の促進に慎重な企業もある。ある研究開発企業は、さまざまな共通言語の手法・事例を研究した上で、「わが社がもっとも重要視する自由な発想を妨げる」という理由で検討を止めた。悩ましいのは、多くの業界で既存プレイヤーの再編・規模化が進むなかで、組織がどんどん大きくなっている。共通言語経営で組織力を強化することと、自律性・多様性の二兎をどう追えばよいかが、人・組織の運営方針として重要命題になっているのだ。    ここで現実の言語政策にヒントを求めてみたい。  24の公用語と60の少数民族・地域言語が存在すると言われるEUでは、言語を文化的資産と捉え、話者数に関わらず等しく価値を認め尊重する「多言語主義」を取っている。さまざまな公文書は少なくとも一部は全公用語に翻訳され、言語アクセスを保証しているという。加えて、言語政策として、母語に加えて少なくとも二つの外国語(EU諸国で使用されている言語)を幼少期から学ぶべきだという指針のもと、「多言語教育」を推進している(「駐日欧州連合代表部公式ウェブマガジンEUMAG」より)。多大なコストを払い、多大な投資を行って、公用語を持つメリットと、さまざまな言語のもたらす歴史・文化的な豊かさの両方を追及している。    このような多言語主義の考えを組織運営に当てはめてみると、社内のプラットフォームとして共通のツールや価値観を共通言語として推進する意味はあるものの、それだけでは多様性が失われる懸念がある。組織運営においても「多言語教育」に当たるものが必要だろう。社員一人一人が多様なバックグラウンド、仕事以外の領域の知見・視点を、共通言語のアップデートに活かしてもらうこと。さまざまなやり方があるだろうが、EUの多言語政策と同様に、投資や仕組みが必要だ。    おりしも、多くの企業で、リスキリング促進の流れを受けて、副業や学びのための休職といった組織外の活動が奨励され始めている。組織の統合と、社員の多様性を両立させていくための道具立ては少しずつ揃い始めている。

明治政府と武士の決意 | その他

明治政府と武士の決意

 AI等、テクノロジーの進化をはじめ、社会の大きな変化に応じ、従来の職業の価値が低下していく可能性について、関心が寄せられている。“将来、なくなる職業ランキング”といった記事さえも、数多く、散見されるようになった。また、数年前から、大手テレビ局の男性アナウンサーの退職が続いている事がニュースにもなっていたが、花形と言われる職業であった、男性アナウンサーであっても、将来は安泰でなく、新たな価値提供の場を求めていかねばならない状況が今、ここで進行している。    外部環境の変化により、今まで、人気ランキングの上位に占めていた職業の価値が低下し、場合によっては、必要性さえもなくなってしまうと言われている事態は、今に始まった事ではなく、過去の時代においても、少なからずあった。その典型的なものは、明治維新後の“武士の廃業”がある。明治になって、封建制度の崩壊と共に、武士の俸禄はどんどん削減されていった。 さらには、“数年分の俸禄を支払うので、武士をやめなさい”という、今でいう早期退職制度のようなものさえ導入され、そうした状況の中で、武士たちは、明治政府に抵抗を示しながら、止むを得ず、新しいキャリアを模索していった。    そうした武士たちの、主たる“転職先”は、官僚や軍人への転身だった。明治政府は、多数の旧武士を官僚や軍隊として受け入れたが、基本的に、能力の高い人を雇うという方針を持っていた。というか、能力の高い人材、実力がある人材しか、雇えなかった。明治政府は、人材も金もない中で、欧米列強と向き合いながら、早急に統治機能高めるためには、古い体制の継続を声高に主張するような人材や、家柄がよかろうとも、仕事のできない人材までを抱えていく意図も余裕もなかった。身分・家柄を問わず実力のある人材を優先的に登用していくしかなかった。    一方、官僚や軍人として、登用されなかった武士たちは、新たな世界へと転身した。その一つは、教育者だった。武士は、読み書きや武道など、多くの知識や技能を持っていたため、教師や道場の指導者になった。今まで身に着けてきた知識やスキルが活用できる他の職種を選んだケースだ。これは、社会が変化する前から、自身で高い教養やスキルを保有していて、それを活かしたキャリアチェンジを行ったケースと言える。明治以上に、目の前で活用されるテクノロジーや知識が、すぐに陳腐化する現代においては、日頃から、専門的領域より、自然科学のような、より広範でベーシックな教養や知識、技術を高めておくことは、より重要な事なのかもしれない。    また、明治時代になると、日本は急速に近代化、工業化が進み、新しい経済機会を求めて、商工業における事業を始める者もいた。今風に言えば、新たに生まれた産業やベンチャー企業で、大きな可能性を求めて、起業をするケースだ。今まで生きてきた中でのなじみのある世界で、生きていくより、いっそ、この機に、新しい世界に飛び込んで、大暴れしてやろう!意気込み、優れた起業家や事業化として、その後の日本社会に貢献した元武士たちも、少なからずいたことだろう。    以上、明治維新における武士の対応は、①新しい時代に即した従来と同様の職種でのバージョンアップ(官僚や軍人への転身)、②自身の保有する能力・スキルの提供者(教育者)、③新時代に生まれた産業、職業へのチャレンジ(新規事業家)という道を選んでいった。明治維新をきっかけとして、武士たちは、本当に目指すべき自身の生き方やキャリアを見つめなおし、新たな道に進んで行ったことで、結果として、強制的ともいえる日本の労働力のシャッフルが行われ、結果、人材の最適配置が進んだ事は、その後、明治日本の躍進の原動力の一つであったことは間違いないであろう。    また、明治政府が、過去のしがらみや温情ではなく、高い能力を持つ人材を官僚や武士として採用することで、その後の欧米列強からの侵略を防げたことを思うに、企業が、これからの時代に求める能力やスキルを明確に再定義し、実力主義の登用を今まで以上に促進することができるか否かが、これからの日本社会の行く末を決めることになるだろう。日経平均株価が、高値を更新し、失われた30年から脱却し、ようやく新しいステージが見え始めた日本経済が、このまま成長軌道に乗っていけるのか、企業にとっても、人材にとっても、このチャレンジは避けられないものだ。  

VUCAの時代なので、サンマは目黒に限る | その他

VUCAの時代なので、サンマは目黒に限る

 「ほんと、いまはVUCAの時代だからね。」 このようなセリフは、今や当たり前となり、ビジネスシーンだけでなく、日常会話の脈絡においても登場するようになった。この時代の特色を表すキーワードとなった「VUCA」とは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取ったもので、「変転しやすく予測困難な時代状況」を指すものである。  この言葉は、1990年代後半に、アメリカ合衆国で軍事的な脈絡の中で使用されたことが初めであるとされているが、実際にこの言葉が市民権を得たのは、2016年の世界経済フォーラム(ダボス会議)で取り上げられたことが大きかったといえる。世界を代表する政治家や実業家が一堂に会し、世界経済や環境問題など幅広いテーマで討議するこの会合において取り上げられたことは、「VUCA」を一躍時代を象徴する言葉へと押し上げたのであった。  しかし私は、この言葉が流行りだした当初から、この風潮に何か違和感を覚えてきた。その違和感の正体を、自分なりに言語化すると次のように表現できそうだ。「あなたがたは、この時代を変転しやすく、予測困難であるため、VUCAの時代である、と言う。なるほど、そうかもしれない。しかし、いまの時代が、とりわけほかの時代よりも変転しやすく、予測困難なのだろうか。どの時代もまた変転していたのだし、同様に予測困難だったのではなかろうか。さも、いまの時代が特別に変転しやすく予測困難であるかのように言い表すのは、根拠薄弱であり、バイアスまみれではなかろうか。」  例えば「平家物語」は、平安後期の平家の栄枯盛衰を描いた鎌倉期成立の軍記物であるが、冒頭付近で見られる「諸行無常」の思想が全編を貫くものである。この時代よりも、いまの時代のほうが一層変転が激しく、予測困難である、という根拠はあるだろうか。戦国時代と比較したらどうだろうか。第二次大戦の戦前・戦中・戦後と比べてどうだろうか。そもそも、変転しやすさや、予測不可能性が、比較検討しづらい、という事情もあるが、いま現代が特別であるという根拠はなさそうである。時代を越えて、世間や人生というものは、変転しやすく予測困難なものの連続なのである。  このような「誇張」や「誤認」は、ときには「ミスジャッジ」を引き起こし、効果的効率的な問題解決の支障となる。むかし、「バブル崩壊のせいで腰痛がひどい」と仰ったご老人がおられたということだが、「なんでもかんでもバブル崩壊のせいにしておけばよい」という風潮と、「この時代はVUCAの時代だから」という風潮は、とても類似している。  しかしなぜ、「この時代はVUCAの時代だ」という認識が、スムーズに大衆的に受け止められてしまったのだろうか。そのヒントは、古典落語の「目黒のサンマ」にありそうだ。  ある殿様が目黒まで鷹狩に出て、うまそうな匂いが漂ってくるのに気づく。殿様が匂いの元を尋ねると、家来は「これはサンマを焼く匂いだが、庶民の食べる魚なので殿のお口に合うものではない」と答える。しかし空腹に耐えかねた殿様はサンマを持ってくるよう命じる。直接炭火で焼いたサンマというものを初めて食べた殿様は、そのうまさに大喜びする。このうまさが忘れられない殿様は、ある日サンマを給仕するよう家来に申しつける。庶民の魚であるサンマは屋敷に置いておらず、家来は慌てて日本橋の魚河岸でサンマを買い求める。しかし調理の段になると、家来のあいだで、「焼くと脂が多く出て体に悪いのでは」ということになり、蒸籠で蒸して脂をすっかり抜いてしまう。また「骨がのどに刺さるといけない」ということで、骨を抜き、身姿が崩れた姿で椀にして出すことになる。殿様が食べてみると目黒で食べたものとは比較にならないまずさだった。「どこで求めたサンマか?」と尋ねると家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」と答える。殿様はしたり顔で「ううむ、それはいかんぞ。サンマは目黒に限る」と言ったという。  目黒で食ったサンマがうまかったというのは事実かもしれないが、これは目黒という場所が特別そのような場所であったわけではない。それにも関わらず、限定的な経験を一般法則として捉えるこの殿様の「視野の狭さ」がこのような「誤認」をもたらしたのである。目の前にある不確実な事態に直面し、「この時代はVUCAだ」と口々に語る世界中の方々は、まさに「目黒のサンマ」の殿様の、「直系の子孫」ともいうべき方々なのである。