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コラム

column
合理性と情緒 | その他

合理性と情緒

 その事業は、創業社長が50年前に始めて以来、手塩にかけて育て上げた事業だった。しかし、時代の変遷の中で需要が激減し、健全な利益を上げることができなくなっていた。会社は、思いつく限りのコストダウンを試み、共通費の配賦も特別扱いにして、何とかこの歴史的な事業を存続させようとしてきた。しかし状況は限界に来ていた。最終的に会社は、この事業からの撤退の意思を固めたが、それに至るまでには紆余曲折があった。  数年前に遡る。企画部は、何か月もかけて客観的なデータを積み上げ、この事業の将来の損益シミュレーションを念入りに作成した。事業部の赤字は、会社損益に、致命的とは言わないまでも大きな影響を及ぼすことは明白であった。利益を計上している他の事業の中にも厳しい環境変化に晒されているものがあり、多額の投資を必要としていたから、この事業の将来的赤字を野放しにすることは、到底できなかった。そして、論理的な検討の結果として、この事業からの撤退を経営会議に上程した。  事業部は抵抗した。この事業は当社のブランドの要である。少数とはいえ長く愛顧をいただいているユーザーにどう釈明するのか。この事業の技術やノウハウが他の事業の基礎になって、大きな利益につながっているではないか。何よりも、この事業を支えてきた社員たちの気持ちをどう考えているのか・・。この事業部には、この事業でなければ活かせない特殊な技能を持つ社員が数十名いた。総合職社員は、他の事業部門に配置換えすることが可能だが、専門職社員には行き場がない。事業部長は、声高に訴えた。事業を続けられるならば、皆で賞与を全額返上してもよい、皆、それくらいの覚悟でこの事業に臨んでいる、と。  役員会は、度重なる議論の結果、会社の健全な成長と利益創出に照準を定め、合理性を重視して判断を下した。すなわち、不採算事業から撤退すること、そして、浮いた資金を成長事業に投下することだ。もちろん、当該事業部所属の社員に対してできる限り不利益の無い取り扱いを準備するよう指示した。配置転換により雇用を守ること、退職を希望する者には割増退職金を支給し再就職の支援を行うこと、専門職社員であっても、一定の訓練を施して極力会社に残れるよう努力すること。  人事部は、一連の特別処遇措置を決め、社員の一人ひとりと丁寧な面談を実施した。事業から撤退する理由、顧客への説明とアフターサービスの段取り、会社が準備する特別処遇等を、時間をかけて説明し、社員の言い分に耳を傾けた。面談は、人によっては、4回から5回に及んだ。専門職をはじめとする事業部社員の中には、やり場のない不満や怒りを人事部にぶつける者もいた。人事部は、それでも、耳を傾けた。緊張を要する長いコミュニケーションの結果、専門職含む社員の3分の2が、特別処遇措置を受けて会社を去る道を選んだ。  数多くの議論、確執、言い争い、密室での相談、根回しがあったが、結果として事業撤退は組織決定され、粛々と進められた。事業部の社員たちは、会社に残ることと特別処遇措置を受けて退職することとを比較衡量し、各々にとって最も合理的な判断をした。振り返ってみると、この事が前に進んだのは、単に、会社の判断や、会社が準備した施策が合理的であったためだけではないと感じた。社員が納得する判断を導き出した背景において、ある種の触媒がその役割を果たしたのではないか。それは、合理性とは別のファクター、つまり、社員の情緒についての深い理解と、それに基づく情緒的配慮の数々であった。

昇格審査では遅すぎる | スマートアセスメント®

昇格審査では遅すぎる

 管理職への登用を決める際には「昇格アセスメント」を行うことが多い。人事評価や部門長推薦によって選定された昇格候補者に対して、テストや論文、役員面接などといった社内での審査に加えて、外部アセッサーによる審査=アセスメントを行う。たいていは「アセスメントセンター方式」と呼ばれる手法が使われ、1~3日の研修形式で管理職能力の発揮可能性が測られる。  この手法は、まだ非管理職である対象者全員が同一のシミュレーション環境(=管理職の業務環境)のなかに置かれ、そこでの行動を観察することで、保有能力(=潜在的管理職能力)を測定するもの。約50年前から欧米企業で使われ、日本でも約40年の歴史があり、その評定の信頼性はすでに確立されている。管理職への入学審査として総合的な管理職能力レベルがわかること以上に、個別の強み弱みが能力項目の言葉で明らかになる効用がきわめて大きい。  つまり、一人一人の管理職たりうるための能力課題が、非管理職の段階で明確になる。しかし、昇格審査では、序列化された総合点結果が選抜だけに使われ、個別育成に資する結果は個人の自己啓発の参考としてフィードバックされるだけである。残念ながら、審査の合否段階で、自身の能力課題がわかっても、もはや遅い。宝の持ち腐れだ。  個々人の強み弱みという貴重な情報がもっと早く、例えば、管理職手前の等級にあがった時点で得られれば、3年なり5年なりの期間、本人も上司も業務遂行のなかで管理職へ向けての自己研鑽や成長のための指導を効果的にはかれるに違いない。このことは、管理職スキル先行教育にほかならず管理職候補者群の能力底上げとなり、量的にも質的にも管理職能力の向上につながる。  実際、管理職手前の等級のエントリー時点で全員にセンター方式アセスメントをきっちりと行い、管理職昇格審査をむしろ簡素にする運用を仕組化している企業もあるが、まだまだ少数派だ。  どう考えても有効なこの手の施策が広がらないのは、センター方式アセスメントの手間と費用の負担レベルが多人数実施に向かないからである。しかし、センター方式アセスメントは、必ずしもコストのかかる1日や2日の集合研修形式(5人程度の専門アセッサーが稼働)を必須とするわけではない。大事なことは、「何を診るか」に応じて、適切なシミュレーション環境(=「刺激」)が設計され、評定構造(=「認知」「判断」「行動」)が理論的専門的に正しく組まれること。  たとえば、インバスケット演習だけをテストとして設計したり、用途ごとに作成したケースを使った方針策定演習だけを実施することだけでもディメンション(=評価項目)は限定されるが、十分な能力課題把握ができる(ちなみに当社の『スマートアセスメント』はWeb診断で簡易に多面的な診断ができる)。昇格審査だけではなくむしろ人材育成にこそ、アセスメントセンター方式は、自由な発想で多様に活用すべき手法なのである。  管理職先行教育はもちろん、若手対象の選抜型経営人材育成も、個々人の(経営人材としての)能力課題の測定があって初めて、効果的個別的な育成が可能になる。あるいは、中途採用対象者が自社で能力発揮できるか、なにが課題になりそうか。新卒採用対象者のなかで自社の事業開発業務に適する人材がいるか、どのような能力特徴か。  そうした将来可能性と個別特性が、シミュレーション環境で測定する手法ゆえに掴めるから、全社で鍵となる人材の活用・育成を個別効果的に実践するには必須のツールなのである。

若手の抜擢がなぜ難しいのか | その他

若手の抜擢がなぜ難しいのか

先日、「新入社員に新しい発想を求めるな」という愚考を掲載させていただいた。若手つながりで、本稿では「早期抜擢」について取り上げてみたい。 若手の抜擢を「やりたい」とおっしゃる企業人事部様は実に多い。海外拠点勢の多くが40代MBA出身者となり、日本勢もそれに負けないようにしたいという日本発グローバル企業。若手が少なく将来の管理職候補が枯渇するため、早期に選抜・育成を進めたいという中堅企業。若手でないと変化にキャッチアップできないというIT企業などなど。いずれも若手の抜擢が成長戦略上重要だという考えをお持ちだった。 しかしこのような企業のなかで、実際に施策として実現しているのは一部であり、成功している企業はさらにその一部であると筆者は認識している。 若手抜擢が難しい理由の1つは、そもそもの人選の難しさである。抜擢する人材を見極めることも難しいし、棚上げを食う中高年社員の納得を得ることも難しい。 ある会社では、社長が次期社長を40代から出すと宣言し、選抜教育の若返りを図ったが、現場評価で基準を満たす人材が十分に出なかった。また、自分の部下が次の選抜教育に参加できなくなった部長からの苦情も出て、選抜教育の見直しは慎重に進めることになった。 これまでと違う方法で人を選抜していくので、基準の公正さやプロセスの透明性が一層重要になる。たとえば選抜基準は、若手に有利でも中高年を排除するものではない仕組みにしておくことも重要だ。そしてしっかりと意図を説明することが必要なのは言うまでもない。 若手抜擢は成功させる難しさもある。抜擢された人材が成長し、活躍することを成功であるとすると、その成否は上司や周囲の環境に掛かっているためだ。 過去に若手抜擢を実施し、40代で部長昇格者を輩出した企業がある。抜擢された人の多くは今も部長だが、当初目されたように早期の役員昇格者は出ておらず、その後若手抜擢を行っていないという。「詳しい理由は分からないが、そもそも育成の風土がないなかで、上司がその人たちをどう育成すればよいのか分からなかったのではないか」とその会社を知る人は話す。 若手抜擢の難しさを見ていくと、求められるのは透明性の高い施策の設計と、社内の理解を得ることである。特に後者には経営からの説得が必要不可欠である。 なぜ若手抜擢をするのか、それによって会社をどのように変えたいのかを、情理を尽くして語ってほしい。そして、若手抜擢によって中高年社員を落胆させるのではなく、めざす方向に向かって全員が奮い立つ第一歩とすること。そのような方向に組織を束ねていくためには、ぜひ経営の本気度を見せてほしいと思う。

成功企業に潜む怪物 | その他

成功企業に潜む怪物

 いつの時代にも、世界中の経営者から称賛され、見習うべき模範とされる、所謂「エクセレントカンパニー」が存在する。多数の日本の製造業が称賛される時代もあったし、最近だと、GAFAやアリババと呼ばれる企業が、その対象と言えるかも知れない。1980年ごろまで、全米で最も成功した小売り流通業として称賛を浴びたシアーズ社もそうした企業の一つだった。私の学生時代のゼミの教官も、シアーズがいかに素晴らしい経営をしてきたか、折にふれ、話をされていた事を思い出す。  シアーズは、19世紀末に、郵便とカタログを組み合わせて、いわゆる通信販売を開始し、交通の便の悪い地方で農業を営んでいた多くの米国民に、都市部と同じような品質の商品を提供することで、成長した。シアーズのカタログは、電話帳のように分厚く、大量の商品情報が掲載されていることで有名で、購入後の返金保証をして、自ら、手にとって確認できない商品を安心して購入できるようにした事も、成長の大きなカギとなった。通信販売で消費者の心をつかみ、成功したシアーズは、1925年以降、モータリゼーションの時代が到来すると、今度は、多くの米国民が車で移動するようになる事を見越して、主軸の通信販売とカンニバリズムとなるのを承知の上で、都市の郊外各地に、駐車場を備えたデパートをオープンさせ、さらなる大成功を収めた。  こうして全米小売り流通業のなかでもダントツのシェアを誇っていたシアーズも、1980年代以降は、官僚的で守りの姿勢が目立つようになり、成長に陰りが訪れ、ライバルのウォルマートにも追い越されてしまった。そこで、大手百貨店サックス・フィフス・アベニューの役員もしていた、アーサーマルティネスが、CEOに就任、創業以来の通販カタログ事業からの撤退、リストラの実行、商品構成の変更等を断行し、再び、劇的な再生を遂げた。  再生を成功させたマルティネスは、後年、当時を回顧し、「もっとも恐るべきものは、“企業文化”である」と言った。企業が長年の成功の上に築き上げられた“企業文化”と、そこから発生する前提条件や意思決定構造が、シアーズの新しい環境への変化を阻んでいた。この“企業文化”を壊さなければ、再生はないとして、彼は、そこに相当な労力を注ぎ込んだと言われている。  “企業文化”とは、目に見えない組織上のルールや常識のようなもので、過去、成功や成長を続けてきた企業ほど、一朝一夕には壊す事が難しい。日本企業も今、大きな環境変化にさらされている中で、今まで築き上げた様々な“企業文化”と戦っている。  人事や雇用の領域においても、労働人口の減少に伴う定年延長、非正規社員の処遇の是正にむけた同一労働同一賃金、コロナ禍への対応によるリモートワークの拡大、メンバーシップ雇用からジョブ型雇用への移行など、社会全体の構造が急激に変化する中、多数の企業が、今まで当然と考えてきた人事上の“文化”あるいは“常識”を見直さざるを得ない状況に直面している。  「社員は家族、定年まで雇用する」「成果は上がらずとも降格は、行わない」「優秀であっても社員の処遇は、役員報酬を超えてはいけない」「個々の社員の評価についての正しい判断ができるのは役員会だ」等々、それぞれの組織で暗黙的に根付いている様々な“企業文化”を、これから、どう扱っていくのか。  過去何度かの経営危機を乗り越えてきたシアーズも、2018年10月、日本の民事再生法にあたる、連邦破産法11条(チャプターイレブン)適用の申請に至った。100年以上にわたり、全米の小売りをリードしてきた超エクセレントカンパニーでさえも“企業文化”という怪物に、ついに、からめ取られてしまったのであれば、我々日本企業も相当な覚悟をもって、正面からこの怪物に挑んでいかねばならないという事だろう。

専門職とは何か | 人事制度

専門職とは何か

 専門職とは、どのような人材群だろうか。管理職にはならなかったが社内での経験がそれなりにある人材に対して、少し高めの処遇をするために設けている職群であったり、そうした人材と高度な専門性を有する人材が混在している場合であったり、会社により様々である。  人材を特徴ごとに区分する際につける名称は、会社の自由だが、「管理職にならなかった人材」と「その他の個別性が強く一把に括れない人材」をごちゃ混ぜにして専門職と呼ぶような会社も見受けられる。  このような「ごちゃ混ぜ専門職」の問題点は、各人の価値に応じた処遇やキャリアパスを実現しにくいことにある。価値に見合った処遇ができなければ、社員が有する価値に十分に報いることができず優秀な人材が流出しかねないし、価値よりも余分に処遇すれば総額人件費の膨張につながる。実態と合致したキャリアパスを用意できなければ、目的に合った計画的な育成ができなかったり、社員に対して「自分は将来どんな道を歩めばよいのか」という不安を抱かせたりしてしまう。  ここでいう本当の意味での専門職(以下プロフェッショナル人材、と呼ぶ)とは、特定の領域における専門的な知見や経験によって会社に貢献する人材のことである。一方、管理職にはならなかったけれど、それなりに高く処遇されているという人材は、社内で必要なスキルを十分に習得しており、業務に対する一定の熟練度を有する人材であることが多い(以下、熟練者と呼ぶ)。  プロフェッショナル人材と熟練者とでは、有する価値の種類が違うため、処遇の設計に対する思想も根本的に異なる。プロフェッショナル人材は、社内に限らず労働市場において活躍できる可能性が高いことから、外部労働市場における価値を鑑みた処遇をする必要がある。  一方の熟練者は、必要なスキルを習得しており、業務の熟練度も高く、安定的な業務遂行を期待できるという価値を持っている。必要以上の流出を防止するため外部労働市場を鑑みる必要もあるものの、社内の非熟練者と比較した場合の相対的な価値の高さを処遇で表現する必要がある。  キャリアパスという観点でも、まったく異なる性質を持つ。プロフェッショナル人材は、新入社員が社内であらゆる経験を積んで管理職へ育っていく道の上にはいないのだ。例えば、製造業の会社で採用した新人Aさんに製造現場や営業、管理部門と様々な職務領域を経験させ、管理職に登用されるまで育てあげたとする。優秀な管理職としての価値は十分に高まったとしても、法律家や、研究者など、特定の領域で他の追随を許さないほど専門性を高めた人材とは、やはり有する価値の種類も歩んできた道のりも全く違うはずだ。  仮にAさんの育成が上手くいかず、管理職への登用ができなかったとしても、急にプロフェッショナル人材として扱うのには無理があるだろう。プロフェッショナル人材とは通ってきたルートと有する価値の種類が違うのだから、社内における能力習熟度や業務の熟練度が高い熟練者として処遇する方が、キャリアのあり方や有する価値に見合っているといえる。  ビジネスモデルが必要とする人材の多様化や、流動的な時流を乗り越えるための管理職のスリム化を契機に、複数の人材区分やキャリアパスを設ける会社が増えている。せっかく分けるのであれば、人材群の特徴を精緻に描写し、特徴にぴったりの処遇やキャリアパスを設計する必要がある。人材群の特徴にぴったりの処遇やキャリアパスを設けようとしないのであれば、人材を区分する意味がないのだ。

キャリアコンサルタントの憂鬱 | その他

キャリアコンサルタントの憂鬱

 平成28年に、キャリアコンサルタントという国家資格が発足した。ベトナム帰りの若者向けの職業相談の仕組みを米国から輸入し、改造してできた制度のようだ。訓練された専門家が、職場で悩みを抱える人々の相談に乗り、問題解決の後押しをする。我が国において、このことは、政府の働き方改革の政策と軌を一にしている。すなわち、女性、高齢者、外国人、病気治療者等の労働参画をより容易にしようとする狙いが、その底流にある。    国家試験に向けて訓練中の人に話を聞く機会があった。キャリアコンサルタントは、「傾聴」をそのスキルの中心に置くのだそうだ。悩みを抱える人の話をひたすら聞く。本人の立場にたって、本人と思いを共有しながら聞く。そうしたプロセスを通じて、本人は悩みから解放され、課題に立ち向かう勇気を得、自ら解決策を見出すという段取だ。  数多くの傾聴演習をこなしてきた30代の彼は、しかしながら、相談者が投げかける悩みに寄り添うどころか、早々に愚痴を吐露する。  「彼らは甘いですよ。『定年後のキャリアプランって一体何のことだ、考えもつかない』とか、『事業を閉じるから別のキャリアを考えろ、なんて約束が違う』とか、自立的にキャリアを考えることを放棄して、全部会社や世の中の仕組みのせいにしているんですよ。」  このキャリアコンサルタントと相談者との間には、キャリア形成に関する大きな断層が生じてしまっているようだ。  今定年を迎える年代は、経済成長期の終わりごろに会社に入った人々。定年まで勤め上げ、職場のみんなから花束で送られて、普段は入れない会社の迎賓館で食事をしたり、二泊三日の旅行券をもらったりして、ハッピーリタイアをするのが当然のシナリオだ。しかし、高齢化と産業構造転換の時代にあって、様子ががらりと変わってしまった。「約束が違う」と感じるのも無理はない。  だが、考えてみると、仕事上の事柄であれ、何であれ、ものごとが思いどおりに運ぶことなどあまり無いではないか。仕事の九割方は、何やら予測もつかなかったことが起きて、邪魔が入り、思わぬ苦労を強いられたり、失敗したりするのが常だ。まして将来のキャリアプランなど、うまく行かなくて当たり前だ。  特定のキャリアゴールに強く固執し過ぎると、環境が変化するたびに右往左往し、文句を言い、気を落とすことになる。これでは、幸福な職業生活など望むべくもない。何かが起こった時、自ら考え、自らの価値観に立ち返り、キャリアゴールを変化させられるような柔軟性と胆力を身に付けることが、今の時代の職業人に必須なのではなかろうか。  さて、「傾聴」の技が、どこまで相談者のキャリア問題の解決につながるのか、筆者にはどうもよく解らない。だが、もし、キャリアコンサルタントが、「人生何が起こるかわからりませんから、今のゴールにそんなに拘らなくてもいいのですよ」と語りかけてくれるのならば、きっと多くの相談者の役に立つことだろう。  俳人の正岡子規は亡くなる一年前から日記をつけたが、その中に、「悟りというのは平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、何があっても平気で生きることであった。」というような意味のことを書いている。何があっても平気で生きているようなビジネスマンが増えたら、仕事の世界はもう少し活き活きとした場所になるかも知れない。 以上

新入社員に「新しさ」を求めるな | その他

新入社員に「新しさ」を求めるな

過去の成功体験に囚われない新しい発想を社内にもたらしてくれる人材が欲しい・・・どの企業でも思いは同じだろう。中には、そのような熱い思いを秘めた眼差しを、キラキラと目を輝かせた新卒の新入社員に向ける会社もある。 筆者はかつて、日本を代表する大企業数社の人事部の方から「現状を変えるために新入社員に期待したい」と伺ったことがある。変えたいものは、かつては革新的といわれたが保守化した企業風土だったり、新商品を出すもののかつての勢いを失った定番商品のリニューアルプランだったりと、さまざまだが、今の社内にない「新しさ」を新入社員に求めるという点は共通と言えるだろう。 しかし、このような期待は、新入社員自身にとっても、会社にとっても、害でしかないのではないかと私は考える。 理由は三つある。一つは、新入社員をダメにするからだ。新しいアイデアを出すことは確かに重要で、出す能力に長けていることに越したことはない。しかし、アイデアを事業に具現化するまでは「千三つ」「多産多死」と言われるような淘汰の道のりだ。アイデア出しくらいでちやほやしてしまったら新入社員に大きな勘違いをさせかねない。 二つめは、新入社員の配属先が疲弊するからだ。確かに新入社員は、既存社員にない発想を持っているかもしれない。しかし、新しさはそれ自体ではなかなか理解されないものだ。その説明に、多くのマーケターや開発者は心血を注いでいるのだ。よほど突出した新入社員でないかぎり、人事部に鼓舞されていろいろな提案を出したとしても、その対応に周囲は苦慮することになるのではないだろうか。 三つめは、そして一番声を大にして言いたいのは、責任転嫁を感じるからだ。本当に新しい発想を絞り出すべきは既存社員、特に会社の上層部である。なぜ、新しい発想が出てこないのか? その要因を自分の責任として考えるのが先ではないか。役員が新しいアイデアを後押ししない、失敗すると個人の評価が悪くなるなど、組織の風土や制度が元凶になっている可能性はないのか。 新しい発想が欲しいならば、アイデアを生み育てる社内(特に上層部)の環境を整えた上で、新人・既存社員を問わず提案をどんどん出させればよい。既存社員・組織を変えることを諦め「新しい人に期待する」などという情けない発想は捨て去ろうではないか。

お金の管理だけで十分ですか? | その他

お金の管理だけで十分ですか?

 かつて税法や簿記を勉強していた私は、知人や諸先輩方に、経理職を勧められることが多かった。会社全体の経営を数字で管理する経理という仕事に携わることで、ビジネスへの理解が深まり、経営的ポジションについたり、起業したりする際に役に立つという。確かに、管理部長のほとんどは財務・経理出身の方が多く、人事部長や総務部長という方はまれである。  経理の扱う数字によって会社全体の経営を管理しているという考え方には納得感があり、実際に税務・会計のコンサルタントとして多くの企業の数字に関わった。しかしながら、しばらく仕事をする中で、ある疑問が浮かんだ。  経理が扱う数字だけでは経営活動を管理しきれないのではないか、という疑問だ。  経理で扱う数字は「お金」に特化した数字であり、それ以外の分野については数字で表す習慣がなく、分析の対象となっていないことが多い。重要な経営的資源であるにも関わらず、客観的な数字で表現されたり分析されたりしないことが多い分野の代表的な例が、人事の領域である。  多くの、特に中小企業の経営者と対峙した経験の中では、企業の中で起こる様々な問題に対して、数字だけでは管理しきれず「(経理が扱う)数字+勘+経験」という組み合わせによって経営的判断を下しているケースが多々あった。経験豊富で勘が必ず当たる幸運な社長にとっては何の問題もないのだが。  「数字+勘+経験」のうち、数字で表現することができないことが多い「勘+経験」の領域を、数字で表現して分析してみることによって得られるメリットは非常に大きい。  一定のルールに基づいて整理された数字を使うことにより、他社、自社の基準や過去の数字などとの比較が可能になる。財務・経理の分野では、さほど意識せずこの手法を用いており、業種や規模によって経常利益率は○○%程度が目安、などと特定の指標と一定の目安を基準に議論を展開している。  これらの比較検討と分析・議論によって、経営課題を認識し、軌道修正を行ったり新たな手法を導入したり、複数ある選択肢の中から最適な選択を行ったりする際に、最善の判断を下すことができるのだ。数字を用いることによって、一定の基準の上で比較検討することが可能になり、無限の選択肢の中から直感で決定するというリスクを負わずに済む。これは、リスクヘッジという観点でも非常に有用だ。  「勘+経験」の領域であるとされがちな人事に関しても、BSを見るように人的資産の保有状況を見て、PLを見るように一定期間のパフォーマンスや創出される価値を測定することによって、何を基準にどこを目指すべきなのかがおのずと明確になるのだ。  会社や経営者の判断や価値観によって相違が生じることは予見しうるものの、同じ業種・規模で望ましいあり方はある程度定型化できるはずである。  実際には、多くの会社ではまだ行われていないことだが、今後は、人事の領域についても比較・分析という概念を導入し、数字を用いた一定の指標と基準をベースに、経営戦略の実現のために議論を重ねることが望まれるようになるだろう。

メディアとしての社員 | モチベーションサーベイ

メディアとしての社員

 企業統合や経営/事業変革に伴い、ミッションとビジョンを改めて策定することは最重要施策といってよい。付加価値として何を生産し、社会に対してどのような貢献をなすことでコーポレイトサステナビリティを実現するか。そのエッセンシャルな意思表明がミッション、ビジョンであり、企業活動のブランディングの核となるものだからである。    ブランディングの核とは、対外的には、事業活動を通じて形成される企業イメージの統一軸であり、対内的には、事業活動を担う社員が主体的に行動する際に常に参照すべき軸(=基準/規範)だということだ。事業活動とは一人一人の社員の仕事の集積だから、とくに大事なことは後者。ゆえに、新しいミッション、ビジョンは制定後に、いかに全社に浸透させ、企業活動に反映させていくかがまず最初に問われ、インターナルコミュニケーション戦略の巧拙と徹底度がその成否をわけることになる。  ミッション、ビジョンの背景や意義/意味を理解させるべく、さまざま機会を設けての広報(=ビデオメッセージや階層別勉強会等)、経営陣による車座セッション展開、行動基準やバリュー評価項目へのブレークダウンなどがなされるものの、ともすると、理解は進むけれどもどこか「会社の方針だから」といったやらされ感を払拭できずに、主体的行動が生成するという意味での「浸透」には至らなかったりする。  行動喚起のポイントは、一人一人にとっての「自分ゴト化」である。新たなミッション、ビジョンが、自分にとってどういう意味をもつのか。自分の将来とミッション、ビジョンが示す会社の将来を関係づける――つまり、自分の夢、仕事を通じて実現したいこと、キャリアビジョンといった個人的な想いとの重なりのなかで、会社のミッション、ビジョンを肚落ちさせる。社会性と抽象性の高いステートメントというものは、自分にとっての意味づけができて初めて、具体的な行動実践への意志を持てるのだ。たとえば自己言及とグループダイナミクスを組み込んだプロモーションにより、そうした内省/言語化ができれば、あとは、実践に向けてのスキルをインプットしてあげればよい。  さきに、ブランディングの核は、対外的なイメージ統一軸と対内的な主体的行動の参照軸の二つと言った。インターナルコミュニケーション戦略の要諦となる「自分ゴト化」は、もちろんこの後者に資する施策ではあるが、実は、前者の企業イメージ形成にも直結する。社員一人一人の一挙手一投足から、顧客はその会社ブランドを感じとる。つまり、一人一人の社員が、顧客のイメージ形成の際のタッチポイントになってしまうからだ。  全ての個々の社員は、ブランドに即した行動の実践者であると同時に、顧客や市場や社会に向けて自社のブランドを伝えるメディアなのである。一人一人の社員が、社会に対するブランディング・コミュニケーションのメディアであるからこそ、自分ゴト化することにより生まれる「ブランディングへの信念」が、見えないけれども感じ取れるメッセージとして伝わることで、リアリティをもったブランドイメージが接する顧客や社外の人々のなかに形成される。  メディア戦略とは、広告媒体をはじめとしたさまざまなPR/コーポレートコミュニケーション媒体活用を「社外向けのメディアミックス」としてではなく、「社員というメディアを補完し増幅するもの」として、組み上げなければならないのだ。つまり、社会に対するブランドプロミスの発信のターゲットは、つねに、まず第一に社員なのである。

いつまで使う?電子メール | その他

いつまで使う?電子メール

 現代のビジネスシーンにおけるコミュニケーションツールといえば、筆頭はやはり電子メールだろう。コストがかからず、相手の時間も拘束せず、あとからやり取りの履歴を追えるといったメリットはビジネスにおいて非常に有益である。  だが、電子メールがビジネスで利用されるようになって約30年がたち、ビジネス環境もだいぶ変わってきた。日頃、電子メールのやり取りをしていて、正直、使いにくい、と思う点が目につくようになってきた。少なくとも、人対人のコミュニケーションで用いるツールとしてはかなり問題が多いのではないか、と思うのである。いくつか例を挙げると、 1.関係のないメールが多すぎる  登録した覚えないメールマガジンや、情報共有という名目でCCに入れられたメールが多く、とにかく処理に時間がかかる。  総務省の調査によれば、主要通信事業者が送受信している電子メールの約50%は迷惑メールだそうだ。 2.受信したメールを振り分けるのが面倒  様々な業務のメールが同じ受信トレイに入ってくるので、適切に振り分けないとどんどん埋もれてしまう。また、日々新たな振り分け設定をするのが非常に面倒だ。 3.多人数でのやり取りがやりにくい  CCでの情報共有に頼らざるを得ず、メールの量がますます増える。 4.相手がメールを読んだかわからない  送った後に相手に届いたか、実際に読んでもらえたかわからない。メールを送った後に「今、お送りしたメールの件ですが……」と電話をかけて確認したりすることもしばしばである。  など、一通ずつ丁寧に処理していたのでは、時間がかかって仕方がない。コミュニケーションのスピードという点に関して電子メールはかなりイケてないツールであると感じる。 B2BやB2Cのコミュニケーションや、サービス、アプリケーションからの通知などの用途に関しては、これからも電子メールが主体であるり続けるであろう。だが、やり取りの頻度が高く、スピード感が求められる社内のコミュニケーションやプロジェクトメンバー間でのコミュニケーションは、ビジネスチャットでのやりとりが中心となり、必要であれば即オンラインミーティングを行うなど、目的や用途に応じて、適切なコミュニケーションツールを選択していく必要がある。もはや、社内での電子メールの利用を禁止する、という企業も出てきているぐらいだから、早々に電子メールにのみに頼ったコミュニケーションから脱却しなければならない。  コロナ禍の中で、リモートワークの利用が拡大することにより、電話、メール、ビジネスチャット、オンライン会議などさまざまなコミュニケーションツールを利用する機会が増えている。それぞれのコミュニケーションツールの特性をきちんと把握し、目的用途に応じたツールを選択し、それを使いこなせるようになることが、現在のビジネスコミュニケーションにおいては必須のスキルなのである。

有効求人倍率と企業変革 | 雇用施策・その他

有効求人倍率と企業変革

全国の6月の有効求人倍率(季節調整値)は5月より0.09ポイント低下し、1.11倍となった。値をどう見るか。リーマンショック後の0.5倍を割る水準ほどではないものの、昨年まで続いてきた1.5倍以上の状況からみると、かなり低下した。先行き不透明な環境下で、企業が新たな採用を控えている事や、人事部門がコロナ感染拡大の中での働き方への対応や、雇用調整助成金の申請などで手一杯で、採用まで手が回らないという事もあるだろう。いずれにせよ、労働市場の需給バランスが大きく変化し、コロナ禍以前のように、総じて企業が、人材が思うように採用できない状況は一転した。 同指標の値から、雇用状況が悪化しているとは言えるが、一方で、今後の経済を見通す指標としての株価は、必ずしも悲観的には推移していない。日経平均やNYダウといった株価インデックスは、2~3月に底を打った後、回復に転じ、コロナ前の水準まで、ほぼ戻してきている。ナスダックに至っては、コロナ後に史上最高値を付けた。株価が堅調な理由として、単に世界的に金余りという事や、コロナ禍は短期的であり、中長期でのキャッシュフローに大きな影響はないとの見方と共に、コロナ禍により、企業変革が促進される事が好感とされているからとも言われている。災い転じて、デジタル・トランスフォーメーションや働き方改革が加速され、生産性が向上し、企業の収益率が高まる事が期待されているという事だ。 実際、米国の投資ファンドのカーライル社が、コロナ禍で社会構造が変わり、欧米に比べて遅れていた日本企業の変革への機運の高まりを受け、今後3~5年間で1兆円規模の投資をするとの新聞報道もあった。今後、コロナ禍がいつまで続くのかは不透明ではあるが、いずれにせよ、いつか終わる。感染拡大が収束するまで、採用についても何もせずにいると、その時点では、すでに勝負がついてしまっているかもしれない。 ちなみに、過去、最も景気のよかったといわれるバブル期の有効求人倍率は、1990年の1.43倍だったが、昨年前の数年間は、それを凌ぐ1.5~1.6倍を推移していた。つまり、最近は、労働人口が減少していく中で、必ずしも好景気でなかろうと、恒常的に人手不足が発生する状況になっている。バブルの頃とはゲームのルールが異なっているわけで、今や、先が見えないからと言って、近視眼的ないしは盲目的に、採用を抑制してしまうと、それが命取りになるかもしれないと言える。 今回のコロナ禍の発生は、日本にとどまらず、世界全体へむけた社会変革、企業変革へのウェークアップコールだとも言われている。企業として、人事として、この状況をどう捉え、どう行動するか、正直、大変悩ましい判断を求められているが、コロナ終息後も企業が生き抜くためには、人事の変革も、立ち止まる事なく行っていく必要がある。そのためにも、中長期な視点で見て、経営の人的資源の質的な転換をはかるため、有効求人倍率の低い今こそ、チャンスと捉えて、積極的に、将来にむけた必要人材を獲りにいってはどうだろうか。

ひきこもりのダメージ | その他

ひきこもりのダメージ

 皆が家にこもる状況は脱したものの、対面・接触をさける生活は終わりそうにない。世界中の感染状況をみると、いつまた外出自粛の号令がかかるかもしれない危機のなかにあり、かつてのような人と人のリアルなコミュニケーションが普通だった時はもう戻ってこないように見える。  多くの人がひきこもることで出来るもっとも大きな問題は、社会性や共同性、つまり、関係のなかでヒトは生きているというプリミティブなコトワリが、対面できない「非接触」のなかでどう変容するか、だろう。  人は他者との関係のなかで、自分自身の存在理由を確認する。関係のなかで、機微や情や愉楽を交換し生きることの彩りを感得する。すでに我々は、ネットワークインフラのおかげで直に会わなくても用が足りる利便性を享受しているがそのうえでなお、不要不急のふるまいとして、あえて顔を合わせ、直に話すことをしてきた。ネットの利便性を補完するものとして、そうした人間同士の交流、熱量や体温を感じるコミュニケーションを必要としてきたのも、そうしたコトワリの現れだった。    こうした対面接触なしの対人関係がもたらす、いわば情緒的なアイデンティティクライシスは、もしかすると社会の死を意味するくらいのインパクトがあることかもしれないが、組織での協働という点でいえば、もっと具体的なコミュニケーション上の問題がある。それは、コミュニケーションの生成機能に対する、実態的ダメージだ。  WEB会議をはじめとするコミュニケーション手法の拡大・進化によって、言葉だけではなく表情、態度、文字、絵などの「記号」のやり取りは、代替できるだろう。しかしコミュニケーションは、何かすでにある情報を伝えるだけではなく、コミュニケーションのなかで新しい情報(=アイディアや新しい発想)が生成されるという機能ももつ。  自動車の製造現場でうまれた「カイゼン」は、部門を超え職位の違いを超えて人が集まり、現場現物によるコミュニケーションによりわいわいがやがやと問題解決をはかる手法としてその有効性がよく知られる。「真の問題は現場に存在する」ことを前提に、徹底して現場でモノを見て率直に意見を出し合い、例えばモノを動かしてみるといった解決策をその場で試すといった集団での活動が、新しい発想の生成を相乗し、改善のみならず改革につながる。  ここで喚起されるコミュニケーションの創発性、組織論でいう「場の創造性」は、個々の異質性の交換/相互作用を要件とする。異質性は、「記号」のやりとりだけでなく、あつく語る人々の熱気、共感して肩を叩きあい、笑い、また反発して憤るといった感情の交換でもより一層際立ち、グループダイナミクスを促進する。  こうしたダイナミズムが「集まらない、対面しない」から失われるのだ。それは、イノベーションを迫られる企業組織にとって実態的なダメージであると同時に、働く人々にとっての醍醐味、モチベーションエンジンもまた損なうことだろう。対面することなく「カイゼン」すらも媒介できるコミュニケーションプラットフォームもまた技術進化によって登場するかもしれないが、それでも、集団でなにか新しいものを生み出す際の想念のうねりや坩堝が、あるいは生み出し得たときの一体感が、そこに生まれるかどうかは、期待できない。それは、アタマで理解し共有するというよりも、もっとアマルガムな、身体性の一体感だからである。