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コラム

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愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

人を好きになるスキル | その他

人を好きになるスキル

 経営幹部育成のアセスメントとコーチングで定評ある人物がいる。アセスメントの結果明らかになった強みと弱みをベースに、強みを伸ばし、弱点を克服すべく、定期的なコーチングをしていくのだが、この人の凄さは、強みのまったくない、いわば箸にも棒にも掛からぬ人材であっても、明らかな成長を結果させることだ。  いったいいかなるワザを使うのか。聞くと、「要は、徹底した褒め殺しなんだよね」と笑って答える。さて、よくいわれる、褒めて伸ばすのポイントは、やみくもに褒めるのではなく、本人もよくできたと思っているあたりをきちんととらえて褒めることである。しかし、箸にも棒にも~~の人物であれば、できたと思えることがらを探すこと自体が難しい。そこをいかに褒め殺すのか。  いわば、褒める点がないのに褒めるということである。「それはねぇ、ふつうに褒めてもまったく届かないし、効果ない。ただね、褒めてくれる相手が、本当に自分のことを好きで褒めてくれるとなれば、がぜんやる気になるんだ」と彼はいう。褒められるはずもないのに、おためごかしでなく褒めてくれる、その本気さは、自分への好意に裏打ちされているからこそ伝わる。そこで素直に期待に応えようと頑張るということである。  「だからさ、まず、その人を好きになるんだよ」とその秘訣を語る。しかし、好き嫌いなんて生理的な感覚を、意思をもって制御できるんだろうか。ありていにいえば、コーチングのプロとして成果を出すために、その人を好きになる。しかも、本気で好きにならなければ、効果はないのだ。仕事のためとはいえ、「この人を好きになろう」と決めて好きになるなんて、器用なことができるのか。  と疑問を呈すると、「それができなきゃだめでしょ。そもそも部下を好きになるスキルこそ、管理職者がもつべき基本スキルなんだから」と彼は答える。では、好きになるにはどうするか。「そのためには、まず、その人をひとりの人間として認め、その人ならではの人となりに興味をもつことだ」と続けた。  なるほど、好きになるとは言葉の綾で、まず第一に、その人そのものを認める、というか畏敬の念を持つことが大事なのだ。能力とか出来不出来とか性格的問題とか以前に、ひとりの人間としての尊厳に敬意を払うことができれば、その態度はおのずと自分への好意としてうけとられるのだろう。  例えば、医療現場でよく語られる医者の基本姿勢というものがある。医者が投薬をするとき、なぜその薬が必要かを説明する。ともすれば、専門家の助ける人=医者と、素人の助けを求めている人=患者の関係のなかで、一方的なコミュニケーションになることが多い。しかしその際に、なにより患者自身の意思や納得感を尊重して、つまり畏敬の念をもって接することがいちばん大事で、それにより、投薬効果も高まるといわれている。  そういえば彼から、人を切り捨てるような言い方を聞いたことがない。悪口や批判はいうけれども、あたたかい。どんな人にも、人としての尊厳、平たく言えば、それぞれの来し方行く末に対して敬意を払い、かつ、その個別性をなにより面白がっているように見える。そう、その人を面白がる=興味を持つ、これが第二のポイントなのである。  「人に興味を持つ」というと、もうひとり思い出す人物がいる。もう20年以上前のころだが、優秀な管理職者だなぁと常々感心していた取引先の課長がいた。会社もその課長の管理能力を高く評価していて、どこの部署でも鼻つまみ者になる問題社員ばかりが彼の課員として次々送り込まれてきていた。そこでちゃんと「再生」させるのが見事だったが、いかにもたいへんな仕事だな、と思って、その苦労を聞いてみると、愉しそうにこう言った。  「いやすごく面白い。コイツは、ここを押すと、動く気になる、アイツには、この言葉が響く、とか、みんな違う。それぞれのスイッチを探し出していくのがたまらない醍醐味なんです」

成長幻想 | その他

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。 成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。 おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。  つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。  さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。 しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。  ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

車が空を飛ぶ | その他

車が空を飛ぶ

子供のころに読んだ手塚治虫のマンガ「火の鳥-未来編-」にはエア・カーが登場する。 車が空を飛ぶなんて、何十年先の未来かとワクワクして読んだものだ。それが、AI技術により2023年 には販売開始できそうな段階まできている!? 8月24日に経済産業省は人が乗って空中を移動できる「空飛ぶ車」の実現に向けた官民協議会を設立すると発表した。電動で垂直に離着陸できることから航空機とドローン(小型無人機)の間に位置付けられ、次世代の移動手段として期待されているというのだ。経産省は高性能電池やモーターなど、この「空飛ぶ車」への開発支援として、2019年度予算概算要求に約45億円を盛り込む方針だ。 この「空飛ぶ車」にはAI技術がかかせないが、AIは人事の領域でも活用されている。 従来の勤怠管理システム以外にも採用業務や人材育成、評価システムなど、新しい取り組みがされつつあるし、最近では、HR× Technologyを意味するHR Techという言葉も誕生し、人事の幅広い領域にAIの最新技術を活かす動きが活発化している。 最近よく耳にするのは、採用一次受けやチャットボットによる自動返答だ。 通常、採用時には、最初に人事担当者がエントリーシートを見るわけだが、担当者ごとに評価軸がぶれてしまう可能性があり、基準が定まらない等の問題があった。しかし、AIであれば膨大な量のエントリーシートを同じ基準で評価することができ、より公平な採用ができるというメリットがある。 一方、チャットボットは社員から人事に関する問い合わせや、学生への回答に活用されており、人事担当者の手間を減らしている。AI技術を活用することで、少ない人員で効率よく業務を進行することができるのだ。 これまで人間が行っていた手間がかかる仕事をAIが代わりに行ってくれることによって、人間は車を飛ばすような創造的な仕事に力を入れていかなければならないだろう。 オックスフォード大学研究員のカール・ベネディクト・フライ氏は、「今後の労働市場では、高いCreativityとSocial skillが必要」になると言っている。Creativityとは、「新しいアイデアやものを作り上げる能力」のこと。なにか新しいアイデアを生み出すには、複数の一般的なアイデアを、今までにない方法で組み合わせることが必要になるということだ。 つまり、優れたアイデアを創造できるかどうかは、そのきっかけになる引き出しをいくつ自分の中に持ってことと、好きなことにどれだけ没頭できるかどうかだ。 手塚治虫もこう言っている「僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということ。物語はここからはじまるのだ。」

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成 | 人材開発

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成

「業務密着型学習」が増えている。 人材育成体系の構築と運用に取り組む人々にとって、「仕事をしている最中に、必要な情報にアクセスして、学んだものをその場ですぐに用いるという『業務の中で学ぶ』スタイルについて検討すること」は、避けられなくなってきている。 今のところ、業務密着型学習を進めるに際して中心的な役割を担うもののひとつは、マイクロ・ラーニングと呼ばれる、数分程度(モバイル端末では、多くのものが1~3分程度)で視聴できる、データ・サイズの小さな知識や情報を活用した教育・学習方法である。 忘却曲線を意識して、繰り返し学習による「知識の定着」を狙う使い方や、「働き方改革の推進」と相まって「集合研修時間の低減に役立ちそうだ」などとして、注目度が高まっているのが実情だ。 確かに、マイクロ・ラーニングをうまく活用できれば、業務の中で学ぶことが可能になるため、人材育成体系の構築や運用にどのように織り込めばよいのか検討することが、組織能力の向上を図るうえで、重要性を増してきていると思う。 ただし、「万能薬であるかのように、何でもかんでもマイクロ・ラーニングにすればよい」と飛びつくのは、間違いだ!ということを指摘しておきたい。 ここでは、「ハード・スキル」(認知能力)と「ソフト・スキル」(非認知能力※)という切り口を取り上げてみよう。 マイクロ・ラーニングは、「注意を集中させて、情報を処理して、記憶すべき事柄を何度も唱えたり、思い出したり、視覚的に思い浮かべたり…」などといった、「認知能力」の発揮(作業記憶や前頭葉前部皮質などの活動)と相性が良い。認知能力とは、IQで測られるような、理解・判断・論理などの知的機能のことである。 特に、技術的な技能、例えば「新しいソフトウェアの使い方を学ぶ」ようなハード・スキル(形式化された知識を使いこなす技能)を身につける場合には、マイクロ・ラーニングの効果が期待できる。 他方、例えば「自分で何でも処理してしまうのではなく、他者を通して組織業績をあげることのできる管理職や経営職を育成する」には、対象者の(社会情動的スキル、あるいは、非認知能力と呼ばれることもある)ソフト・スキルの向上を狙った、組織をあげての体系的な取り組みが大切である。 管理職や経営職のソフト・スキルを高めるには、「他者の気持ちを感じ取ったり自分の氣持ちを表現したりしながら、建設的な関係を確立して維持する」「責任ある意思決定を行う」などといった「ソフト・スキルを発揮する体験」を実際に積まなければならない。 すなわち、ソフト・スキルを高めるには、「誤りを訂正しながら、状況や関係性に応じた行動を徐々に身につける」などといった「漸進的な学習」(大脳基底核も巻き込んだ活動)が求められるのだ。 このように、「認知」的な能力を発揮することで短期間のうちに身につけやすい「ハード・スキル」と、種々の体験を通して、状況や関係性に応じた「行動」を身につけていく「ソフト・スキル」では、そもそも、学び方や所要時間が生物学的な見地からも異なる。 また、何かを習得する際に同じことを過剰に繰り返して練習すると、状況とセットで記憶してしまい、「状況が変わると思い出せない、応用できない」といった弊害(文脈干渉効果)が生じるという観点からも、「ソフト・スキルの習得にはランダムな順序で様々な練習を行うことが望ましい」ということに配慮したい。(個人的には、没入感のある仮想現実/拡張現実/複合現実シミュレーションを活用して、身体で真似て習得する方法にも興味を覚えている。) マイクロ・ラーニングに飛びつきたい気持ちはわかるが、自社に適した活用の仕方や、経営職・管理職の育成方法について、改めて検討していただきたいと思う。 ※「非認知能力は、先天的知能とはほとんど相関がみられない」と言われている。例:"A Meta-Analysis of the Convergent Validity of Self-Control Measures", Angela Lee Duckworth and Margaret L. Kern, Journal of Research in Personality, 2011 Jun 1; 45(3): 259–268. 以上

変われる能力 | その他

変われる能力

 昔、ユビキタス(ubiquitous)という言葉が流行ったことがあった。いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークを使える社会を展望する用語だったが、いまや、もうスマートフォンによりそれは実現できていて、こんな言葉はことさらに使われることもなくなった。  インターネットをインフラとし、AIなどの先端技術は想像を絶する速さで作業を変えサービスを変え、働き方を変えていこうとしている。経営者の方々は、現在視点ではなく未来視点をもって、中長期の戦略を描こうと日々腐心されているが、10年後20年後の将来ですら、その経営環境を見極めることは難しい。  未来の自社の必要人材像とあるべき組織像を描き、今から、人材育成や新たな就業のしくみづくりに着手したいけれども、10年後20年後の人材要件=どんな専門性をもち、どんな能力をもち、何にモチベートされるのか。そのあるべき論はなかなか作り得ないのだ。それほど、第四次産業革命と呼ばれる今直面する環境は、先が読めない。 ただ、人材要件として、ひとつだけ確かなことがある。不安定で不確実で、複雑であいまいな状況の中で、対応できる能力。つまり、変化に対応し、新たな環境に適応する能力が求められるということだ。その能力とは、要は、「変われる能力」ではないか。何よりまず、自分が変わることができなければ、新しい発想や大胆な判断も生まれないし、環境適応とは適応できるように自分が変わることだからだ。 では、変われる能力とは、どのような能力か。 それには、まず人が変われない理由から考えてみるのがいい。常識や固定概念や過去のやり方が新しい発想や方法の創出を阻害する。それらは、今まで有効だったし、繰り返しのなかで強化され、堅固に出来上がっている。思考や認識が、そうした出来上がった枠組み(=パラダイム)に縛られているから、その外や異質な世界を自在に感じ、自身の考えを変え行動を変えることができないのだ。 であれば、第一に、パラダイムを完成させなければいいのではないか。ものを見る軸や整理のしかたを、常に、未完成の状態にしておいて、新しい事態に臨む。パラダイムをゆらいだ状態にとどめ、決して、定めないという自然体で変化をうけいれるということだ。その事態や事象を整理すべく、都度、適切な軸やフレームを創出するという意味の創造力。やわらかいアタマが大事とはそういうことではないか。 人の身体の免疫システムには「自己不完結性」という特徴があると、生命科学者の清水博さんに聞いたことがある。外敵が侵入してきたにとき、初めてその外敵に応じた適切な免疫システムが「生成する」。どんな外敵が侵入してくるかは、事前には分からないので、防御体制はできあがっていない(=完結していない)状態にある。だからこそ、都度、どんな外敵にも適応することができるのだ。 つまり、「今ある自分を変える」のではなく、環境との関係の中で、「都度、新しい自分になれる」こと。変われる能力とは、独自の、独立した「自分という完結」に決して至らないでいられる力といってもよい。いわば、自身を完成させないでいられる能力。大人としての成熟なんて、目指してはいけないのである。

カオスの時代 | その他

カオスの時代

何かをやるべき仕事がある時、おそらくほとんどの人が、『混沌とした状況(カオス)』よりも『秩序ある整然とした状況』のある中で行いたいと思うだろう。 騒がしく、エアコンの効きが悪いオフィスよりは、静かで快適なオフィスで集中して仕事をしたいし、時々フリーズする古いパソコンよりは、安定した性能の最新パソコンを使いたい。上司からの業務指示も、あいまいで雑な指示よりは、正確でわかりやすい指示の方がありがたいし、行うべき作業手順も言ってもらったほうが助かると思うかもしれない。逆に上司からすれば、言われた事を予定通りに行ってくれるルール通りに動く部下がいてこそ、自分のミッションを正しく遂行できると考えるだろう。 『仕事を行うためには、周囲に『整然とした予想可能な状況』を作ることが大切で、そうすることで、業務の品質や生産性も上がる』という確固たる観念を我々は持っているし、おそらくこれはこれで正しい事だ。 このお盆休み、台湾に行ったが、ホテルなどでは日本語も通じるし、日本料理店も多く、あまり国内と変わらない気分で過ごしていたが、ひとつ日本と異なりウーバーが台北市内のあちこちに走っていて、スマホで手軽に呼び、頻繁に利用した。ウーバーは、タクシーのドライバー以外の一般人が自分の空き時間と自家用車を使って 他人を運ぶ仕組みで、この10年程で世界中に広まっている新しい輸送サービスである。ユーザーからすれば、便利なサービスだが、タクシー会社やドライバーからすれば、いままでの業界のルールを無視され、カオスが発生したようなもので、各地で職を失うことを恐れたタクシードライバーによるストライキや暴動が起こっている。 ビジネスというゲームにはルールがあり、決められたルールの中で、プレイヤーの企業同士が戦うものだと我々は普段、信じているが、いま、社会全体は変化し、タクシー業界に限らず、エアビーアンドビーの登場したホテル業界他、様々な業界でそのゲームのルールが成り立たない状況が発生し始めている。 同じ業界の定まったルールの中で、より安い価格で、よい多くの付加価値を提供しようというゲームから、顧客の本来の目的を実現するために、より魅力的な新しいルールを作れるかというゲームに時代は移行しつつあるという事だ。 だれもが信じられる秩序のある事業環境から、見慣れないルールがどんどん生み出されていく混沌とした事業環境に移っていくと、ビジネスに求められる人材の能力にも変化が生じて来る。秩序のある状況で活躍していた人材が、混とんとした状況でも活躍できるとは限らない。決まった環境や前提の中で、そのルールを守りながら適切に計画を策定し、優先順位をつける事ができる人材が、何も決まったものがなく、頼りどころのないカオス的状況の中で、無の中から新しいルールを作れるかどうか・・。 定まったルールの無い混沌とした環境下で、瞬時に状況を見極め、即決、行動する力や、ビジネス本来の目的を達成するための本質的な解を見出す洞察力、自由な発想力と言うのは そうした状況の中で、試行錯誤を繰り返しなら鍛えていかないと、やはり、うまく発揮できないのではないだろうか。 整然とした秩序ある快適な職場環境を提供し、生産性や品質を向上させることは今後も重要なマネジメントのミッションであり続けるべきだがが、その一方で、カオス的な環境の中に社員を放り込み、不安定な状況の中でもとにかく前に進ませ、無から新しいルールを生み出すことのできる逞しい人材も作り上げていかないと、近い将来、足元をすくわれてしまう事になるかも知れない。

能力を発揮できるか? | その他

能力を発揮できるか?

 面接では非常に好印象だったが、実際に仕事をしてみると、どうも期待していたような成果が挙げられない、ということがある。 自社に適した人材か否かを大抵は複数の面接を経て評価しているにも関わらず、なぜこのような期待値とのずれが生じるのか?  面接官が応募者の情報を十分に引き出すことができなかった、応募者のプレゼン能力が高く自社が望む能力を有しているように見えてしまった、など、様々な理由があるだろうが、 そもそも、人がある能力を発揮する、という際に、その能力の発揮度合いは環境に依存する、という特性があることを理解しておく必要がある。  例えば、何年も活躍をしていた一流のサッカー選手がチームを移籍したら、その実力を発揮できず、ベンチ要員になってしまう、ということがある。チームの戦略やメンバーとのコミュニケーション、チームの中での自分の立ち位置などが異なることで、本来の能力を発揮できなくなるのである。  人の能力は、置かれている環境などの特定の状況の中で習得し、その状況の中で発揮される。一言でリーダーシップ能力といっても、プロジェクトチームか、部門全体か、それとも会社全体でのリーダーシップなのか、どの階層で能力を発揮してきたのか、によって異なるのである。プロジェクトチームでリーダーシップを発揮してきた人物を、リーダーシップ能力があるから、と言って、部門長にしてみたら必ずしも優れたリーダーシップを発揮できるとは限らない、ということはイメージできるだろう。  人の能力発揮の特性として、このような環境依存性がある以上、面接や筆記テスト、適正診断だけでなく、実際にその人材が自社で業務を行う際に、必要としている能力を必要なレベルで発揮できるかどうかを見極める必要がある。そのための手法としてインバスケット演習は効果的である。  インバスケット演習は多数の案件を限られた時間内でどのように処理するか、そのプロセスと処理内容を解析することで、意思決定能力、業務管理能力などを評価するもので、主に管理職登用、昇進昇格試験などで用いられるが、演習を自社の環境に合わせてカスタマイズすれば、採用の応募者が自社の環境でどのように能力を発揮できるか、実際に採用する前に、実際に近い形で能力発揮の度合いを見ることができるのである。  ちなみに、能力の環境依存性は必ずしもネガティブな方向に作用するとは限らない。これまであまり能力を発揮できていなかった人材が会社やチームが変わることで思いもよらない力を発揮する、というケースもある。 自社の各階層で人材アセスメントを定期的に実施することで、人材の能力特性を把握し、会社全体の能力開発の課題を明確化することができるだろう。  最後に宣伝だが、トランストラクチャは、この7月にWeb上で実施できるインバスケット演習サービス「スマートアセスメント」をリリースした。従来の紙面演習と比較して、診断対象者が集合する必要がなくなり、実施しやすくなったこと、紙面演習では評価できなかった回答を記述するまでのプロセスを操作ログから診ることができるなど、従来のサービスと比較してメリットが多くある。是非、活用をご検討いただきたい。

「同質化」と「インクルージョン」 | その他

「同質化」と「インクルージョン」

「彼らは、異常者だからね!」と、キャリア関係の大学講義で、2人の大学教授を指して冗談交じりで言えるのは、彼らとの付き合いが20年近くになろうとする間柄であることに加え、「『教授の言うことはいつも正しい』という学生さんたちの思い込みを破壊して欲しい!という教授たちの要望に応える」ため、つまり「自分の役割」を意識してのことである。 この講義のきっかけとなったのは…企業に就職した元学生が、3年も経たないうちに「思っていたのと違った」などと言って転職するのを目の当たりにしたS教授が、「社会に出る前、少し考えるゆとりがある大学在籍時に、真剣に自分のキャリアについて考えて欲しい」と感じたことだった。 インドで開催された「アジア学術会議」(材料工学分野の回。アジア各国の若手研究者が、2週間に渡って、世界一流の研究者による講義や現地視察を通して学び合う場。日本からは4名)に参加していたS教授(当時の東京大学助手)が、W教授(当時の東京工業大学助手)と私に声をかけて、このキャリア講義が始まり、2006年以降、年に一回だけだが続いていて、評判も良い。 私が、友人の大学教授たちを異常者と表現するのは、「毎年あるいはもっと短いサイクルで、世界初あるいは世界最高といった成果をあげて論文を書き続けることが求められる職業に就いている人たちの発言内容や体験談は、特殊(統計的にいうところの異常値)である」ということを強調してのことである。 しかし、少なくとも私の知る理工系の研究者にとって、「世界初・世界最高を目指して研究する」ことは普通であり、彼らにとっては、「他者と異なることをすることが求められる。むしろ、他者と違っていなければ意味がない!」という感覚は当たり前である。 企業の採用あるいは育成、組織開発の担当者は、この辺りのことをどう理解しているのだろうか? 「就職時、転職時には、他者との違いをアピールする」ことを求めるくせに、職を与えた途端、「組織に染まることを求める」などという態度はとっていないだろうか? 「就労者としての寿命 > ビジネスの寿命」という状況が多数を占める現代、「人生100年時代」の私たちは、どこかの場面で「異常者」になることが、「個人の働き甲斐、生き甲斐の視点」から大切なのではないかと、私は思う。 他方、「組織の視点」に立てば、「組織内にバラバラな考え方・価値観の人が散在する」だけでは、「関係者どうしの衝突(仲違い)が増えて業績が低下する」など、「組織が持つ本来の力」が充分に引き出せないため、都合が悪いというのも確かである。 そこで求められるのが「インクルージョン」(Inclusion)である。インクルージョンというのは、「事業の目的に適うように、種々の境界(就労地域の違いによる時差といった物理的な境界や、部門・部署間での価値観の違いのような心理的な境界など)を越えて、多様な人々を束ねたり、ビジネス環境の変化に適応できるように人々を導いたりするための、『持続的な働きかけ』」のことを指す。 「別解を示せる人が評価される」(他者と異なる解法や異なる意見が出せないと、存在価値がないと見なされる)という感覚を持っている人々からすれば、粒を揃えて管理するという「同質化」は受け入れづらい。 不揃いを統合する「インクルージョン」に真正面から取り組むのは、部門横断的な働きが期待される、人材開発部門・組織開発部門ではないだろうか? 以上

やめられる才覚 | その他

やめられる才覚

こんな経験はないだろうか。 タバコをやめよう、お酒の量を減らそう等々である。 まず、なぜやめようと思うのか、体に悪いと思ったからなのか、お金の面なのか、それとも自分の意思を試すためなのか。 いろいろな理由はあるだろう。しかしその理由はやめるための心の踏み切り台にしか過ぎない。本当の理由とは何か、体に悪いことは悪い、それを知っていてやめない自分が一番悪い。この自己嫌悪から抜け出すこと、これが一番の理由である。 私の知り合いは、タバコをやめるのには自然にやめるのが良い、やめるのに力んではいけないと言った。至言だと思う。実際、風邪をひいたり喉が痛い時には自然と吸わなくなる。 体のため、お金のため、自分の意思のためと思ってはダメだ。ごく自然に自我の命ずるままにやめるのが決め手のようだ。 よく「今日からタバコをやめるぞ」と周囲に宣言して、持っていたタバコはもちろん、目の前からタバコに関するすべてのものを捨ててしまう人がいる。こういう人は才覚年令的にいうと低い。逆にタバコをいくつかしまっておいて、ライターや灰皿を身の回りに置きながらやめる人もいる。この方がやめやすいのである。 自然にやめるという心構えが大切なことはすでに述べたが、この自然さを身の回りに持つためにも、わざとらしい禁止は禁物。禁止による不安感、恐怖感に対しては、いつでも手にしようと思えば手にできるという安心感があればよいわけだ。空腹の時、そばに食べ物があれば安心だが、ないと少し不安になったりする。 仕事も日々の業務ルーティンを自身で見直しをして、優先順位をつけ、順位の低いルーティンをやめていくべきだ。そうでないとキャパオーバーに陥り、新しくアサインされた業務に対応できないようなことになってしまう。求められているのは、ひたすら業務を続けていくことより、成果を上げることだ。やめたことで新しいアイディアが生まれたり、新たなチャレンジをスタートさせるきっかけになる。肝心なのは、「やめることは難しいこと」という固定観念を捨てることと、力まず自然にやめられる才覚を持つことなんだと思う。

内なる敵 | その他

内なる敵

 個人的なエピソードを書く。  その①  新しい社長が着任してきて1か月くらいたったときに、社長室に呼ばれて、こういわれた。「なぜ、指示したことを一切やらないのか?」 えッ~! なにを言っているのだろう、と驚愕、まったく身に覚えがない。よくよく聞いてみると、彼が言っていたことを、「命令」だとは、私は思っていなかったことが判明。聞き流して、ごくふつうに自分でやるべきと思うことをしつづけていたということだった。  その②  その当時、なぜか派遣社員の方々が頼んだ以上のことをやってくれて、ずいぶん助けられた。どんな意気に感じてくれたのか。ある時、その理由を直接彼女らに聞いてみると、社長と話すときも、派遣社員と話すときときも、同じ話し方、要はどちらも「タメグチ」だから、というのだ。よく社長と立ち話をしているところを彼女らに目撃されていたのである。  振り返れば社会に出た当初から、「上下関係」という意識をなぜかもったことがなかった。上司は部下より偉くて、部下はその命令に従うという雇用関係の原則がはら落ちしていない。だからきっとこういうことがおこる。ヒエラルキーで人を見ない、ニュートラルな人間なのだなぁ、自分は、、、、と都合よく自画自賛していたのだが、実は、そうではなかったのである。  真相に気づいたきっかけは、ある「診断」だった。グローバルでひろくつかわれているリーダーシップ・アセスメントツールがある。その信頼性については、それをもとに処遇を下げられた従業員個人から何度も訴訟されているが負けたことがない、というセールストークがされる診断。それを受けてみたときに、自身の結果で顕著な特徴があった。ある項目についてだけ極端に低い点がついていたのだ。  なんと、10段階評点の1点。他の項目はどんな悪くたって5点くらいなのに、である。その項目とは「Interpersonal sensitivity」。対人感受性である。間をおかず、別の種類の診断も受けてみたが、結果はまったく同様の傾向。つまりはそういうことだったのである。 すなわち、対人感受性不全ゆえのエピソード。  マネジメントとは、「ヒトを通じてコトをなす」ことである。つまり、人を動かすことがその要諦だ。対人感受性を発揮するとは、「人は、どうすればどんな気持ちになるか」をわかって人と接する。それをもって、戦略的に人を動かすことである。リーダーシップ行動の古典たるカーネギー『人を動かす』にあれこれ書かれている、相手を知り、相手に好かれ、相手を動かす原理は、要はそういうことだ。  対人感受性の欠如を自覚していれば、そこを留意し、不得意だからこそ自身に強制し、きっともっとましなリーダーシップが発揮できたはず、と悔やまれる。  だからマネジャーたるものちゃんとした診断ツールをつかって自分を知ることを、ぜひやってみるべきである。センター方式アセスメントや360度診断による「自分の可視化」は十分に意味があるけれども、できれば、対人感受性のような、より奥深い自身の心理特性の自己確認もしたほうがいい。と、大いなる悔恨をもって、お勧めしたい。もしかしたらリーダーシップの障害になる、「内なる敵」を発見できるかもしれないから。

「タイプ分け」は、育成に向かない | その他

「タイプ分け」は、育成に向かない

 「血液型は何ですか?」と尋ね、相手のXさんが「B型です」と答えたとしましょう。 翌日、あなたは同じXさん相手に「今日の血液型は何ですか?」と尋ねるでしょうか? まず間違いなく、そんな質問はしませんね。なぜなら、私たちには「(骨髄を移植したり特定の疾患にかかったりしない限り)血液型は一生変わらない」という前提があるからです。 この血液型の例に倣うかのごとく、私たちは一旦何らかの「タイプ分け」を行うと、「Xさんは、○○型だからねぇ」などと、相手を「色眼鏡で見る」ようになりがちです。 また、このような「タイプ分け」は、同じ時期の同じ人物であっても、例えば、仕事の時とプライベートの時には採用する言動・態度のパターンが異なっていても当然だという「人の多面性」に目をつむらせてしまうことを忘れがちです。 私の研修提供経験を振り返ってみても、多くの人にとっての「タイプ分け」は、先入観を強化する「決めつけ」態度をもたらし、目の前の相手の新たな長所や些細な変化に気づくように「観察する姿勢」や、反応に合わせて「コミュニケーションの仕方を柔軟に変更する姿勢」を損なわせるものだと言ってよいと思います。 「静的なタイプ分け」が役に立つのは、中長期に渡って変わらずに特定の機能の発揮が期待されるチームの編成や人材の最適配置などの「組み合わせ」等を検討する場面であって、人材育成などの「変化の促進」(成長支援)の場面ではありません。 確かに「タイプ分け」の考え方は、面白いですし、単純で便利に感じます。しかし、「人や組織は望ましい姿に変わることができる」という考え方を前提として持つことが大切な、人材育成関係者(特に、部下を持つ上司、メンター、コーチなど)には、基本的には、不適切な考え方であると私は捉えています。(タイプ分けの根底にあるのは、「人や組織は、少なくとも当分の間は変わらない」という前提ですから。) 人材育成というプロセスが、「相手を信じ、相手の新たな可能性を見出す」という側面を含み、「一度伝えただけで理解するなどと思わず、できるようになるまで失敗を許容すること、辛抱することが大切」という側面を含むのであれば、「タイプ分け」という安易な手法に基づくコミュニケーション研修の繰り返しなどはやめた方がよいのではないでしょうか。 また、今後のビジネスにおいて、アマゾンの「0.1人のセグメンテーション」(個人単位での商品推薦よりもきめ細かく、種々の行動・検索履歴なども含めたビッグデータ分析に基づき、リアルタイムで商品を薦めるのが0.1人セグメンテーション)に見られるような「超顧客主義」の方向性が強まっていくのであれば、「静的なタイプ分け」よりも「動的パターン認識」を踏まえたコミュニケーションの習得に関心を持つ人や組織が増え、リアルタイムで収集された各種データを分析するテクノロジーを用いた人材育成も当たり前になっていくのかもしれないと、私は思っています。 アルバート・アインシュタインの言葉、「すべてのものは可能な限り単純化すべきだ。しかし、単純化しすぎてはいけない。」(Everything should be made as simple as possible, but not simpler.)を思い出し、性急に「単純化し過ぎるという過ち」を犯さない姿勢、「適切な複雑さ」を容認するという姿勢が、人材育成の場にも求められるのではないでしょうか?