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人材開発

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1on1をラクにするコツ | 人材開発

1on1をラクにするコツ

 上司と部下がマンツーマンでミーティングを行う1on1は、社内のコミュニケーションを改善し目標の達成度を高くできるため、導入している企業・導入を検討している企業は数多い。上司と部下が対話形式でじっくりと話し合えることで信頼関係を築きやすく、週1回~月1回の高い頻度で定期的に行う中で、部下の仕事への動機づけを行いやすいのがその理由だ。  ビジネスのスピードが加速し、半年前に立てた目標や計画が早い段階で陳腐化しやすい現在では、1on1を通じて部下の状況を逐一把握し、目標を修正したり予期せぬ課題に早く手を打ったりすることが益々重要になっている。しかし、運用における上司の負担感が大きく、導入を難しく感じている企業もまた多いのが現実である。本稿では、そんな1on1の高い敷居を少しでも下げ、なるべく軽い労力で導入することができないかを考えてみたい。 ①何を話せばよいか、わからない  上司が負担を感じる最も多い理由のひとつとして挙がるのが、部下との対話のネタだ。会話がもたないかもしれない不安感もあるだろう。対応としては、部下が自分自身で仕事に対する気づきを得られるように、本人が話したいことを話させることが大切である。上司は話を注意深く聴くことに集中し、部下に主体的に参加してもらえるよう話したい内容を事前に本人で決めておいてもらうと良い。参考として、以下の3つのことを事前に考えてもらっておけば、部下の状況を把握しやすく、対話は立派に成立する。 (1)最近の取り組みで良かったこと・その理由・良かったことを継続するために取り組みたいこと (2)最近の取り組みで悪かったこと・その課題・課題に対して取り組みたいこと (3)キャリアについての相談・困っていること等  大事なポイントは、上司が一方的に話したり、業務の単なる進捗確認をしたりしないということだ。報告・確認は日々の業務指示の中で行えばよく、対話の中では部下の本音を引き出し、会話のキャッチボールをすることに専念してもらいたい。 ②時間がない  次に多いのは、対話できるまとまった時間が取れないという理由だ。一人で何十人もの部下を管理しているのなら分からなくもないが、数人の部下に対してひと月15分~20分くらいの時間を確保することぐらいはできるのではないだろうか。時間は部下の状況によって調整する工夫もできる。仕事が順調で大きな課題感もない部下の場合なら、10分程度で終わってしまっても良いと思う。あるいは、困難な課題に直面していて、20分では終わらない場合は、部下の方で自発的に対話時間の再調整をしてもらい、2回目・3回目と時間の許す限り実施しても良いだろう(このような場合、じっくり話し合う時間をとった方が、結果として生産性が上がりやすいことが多い)。  大事なポイントは、部下が相談しやすい環境を作り、とにかく対話を継続することだ。月1回が無理でも隔月1回~四半期1回とするなど、取り組み可能なペースでやり続けることが、部下への浸透につながる。 ③効果がわからない  最後に挙げるのは、果たして1on1による効果が測れるのか、という疑問だ。これについては相当な時間がかかると思った方がいい。なぜなら、1on1の効果の一つである人材育成は、評価制度や教育施策等と同様に、かなり時間の掛かるものだからだ。まして、1回の対話の中で解決策が明確化して部下の行動が劇的に変わる、などといったことは殆どないだろう。上司は対話の中で「結論を出そう」「成果を出そう」とあまり気を張らずに、部下の自発性を尊重して、本人自身の経験から学ぶための気づきのきっかけ作りに努めてもらいたい。  とはいえ、せっかくの1on1が単なる雑談で終わってしまう懸念があるかもしれない。しかし、上司が部下の本音と気づきを上手く引き出すことさえできれば、以前よりも部下の状態や業務の状況を正確に把握し、より早くより適切な助言をすることは確実に可能になる。ときには部下からもフィードバックをもらい、1on1の有効性について認識を合わせることも効果的だ。  以上、部下の自発性・主体性がいかに重要かを強調しながら、なるべく楽に取り組める方法はないか検討してみた。上司だけでなく部下にも参画意識をなるべく高く持ってもらい、1on1をお互いの努力で有意義なものにしていく必要がある。しかし、部下の参画意識を引き出すことができるのは、日々の業務における上司の部下に対する接し方と、人材育成にかける強い意志に他ならないことを忘れてはいけない。上司が、部下との関係性に日頃から気配りしていれば1on1実行の障害は少なく、対話による相乗効果によって組織のコミュニケーションは着実に活性化していくに違いない。もし、1on1が上手くいかないと悩んでいる時があれば、まず最初に「部下が近づきやすい・話しかけやすい雰囲気づくりができているか」と、自身に問いかけてもらいたい。

営業は経営を語れ | 人材開発

営業は経営を語れ

 営業教育で取り沙汰されるデキる営業の勘所のひとつに、「誰に会うのか」があげられる。B to B営業であれば、意思決定権限のない担当者ではなく、部長に会う、さらには役員に会うべきなのは、いかにも当たり前のことだ。かくて、「誰がキーマンかをどう見極めるか」といったワザが、営業力向上セミナーでたいそうなノウハウのごとく語られたりする。  「キーマンを見極めるとか、キーマンにどうたどり着くかとか、考えたこともない。だって、自然にそういう立場の人が出てくるんだから」と語るのは、あるIT企業のトップ営業・Aさんだ。彼が、担当者と商談をしていると、しぜんと上席の人が出てくるようになる、というのだ。「ぜひ、部長様にもご挨拶させていただきたく」などとAさんは、言ったこともない。頼むまでもなく、勝手にエラい人が登場してくる。  なぜか。Aさんが経営の話をしているからである。経営視点で顧客企業の状況や課題、それに資するソリューションを話題にしていると、担当者が自分では力不足と思い、上席を引っ張り出してくる。商談は「サービス起点ではなく顧客の課題起点で行う」は、営業のキホンのキではあるが、その課題設定の視座が担当者の域をこえているがゆえの成り行きだろう。  これぞ営業力、とうなずける。よくある営業スキル研修―相手のタイプを見極めて、この客には結論から言う、この客にはデータを提示する、この客には野球の話題から始めるといったコミュニケーション手法などは、いかにも芯を食っていない。B to B営業においては、信頼される言動といった表層ではなく、話す内容と視座こそが眼目という当たり前の事情をAさんは体現している。  では、営業に経営を語らせるにはどうするか。経営リテラシーを学ばせて、自分の顧客の経営課題を分析・仮説し、そのソリューションとして自社サービスの意味づけを行う、というのが正攻法で実践的だろうが、その即効あるスキル研修は作りづらいし、各営業員の経験や能力にも依存する。一つの方法は、選抜型の経営人材育成の施策枠組みに、営業力向上の目論見を重ねることである。  次期経営人材育成は、二つの対象層で行われる。一つは、現管理職対象。とくに上級管理職を対象にする場合はより明確だが、役員育成を目的にする。もう一つは、管理職前の中堅社員対象。「NEXTリーダー育成」といった名称が多い、優秀人材に対する先行的な経営人材育成である。つまり役員候補の候補づくり。ただ、こちらは「先行」だから学んだ経営リテラシーを発揮する場面が今はないというネックがある。  ある会社の「NEXTリーダー育成」研修(6カ月間全7回)では、研修のゴールを「お客様と経営を語り合える」人材づくり、とした。経営リテラシーを学び、通常は自社や自部門の課題と課題解決策を立案・提案するのが、この手の研修の常套的プログラムだが、この会社では、自社の顧客の経営課題を検討し、顧客の立場でマーケティング分析を行い、課題設定し、そこに対して我々はなにができるかをアウトプットさせたのだった。  つまり、まずは顧客と経営の話ができる事業リーダーを目指せ、その先に自社の経営リーダーがあるという道筋。自社と異なり、顧客はさまざまな産業に属し、また社会的影響の受け方もそれぞれ違う。顧客の経営を考えることは、必然的に視野を広げ視座を高め、多様な社会的問題意識を喚起させる。経営のリテラシーという方法論の学習よりも、このことこそがこの研修施策の最大の効用だった。  「経営を語る営業」になにより必須なのは、顧客の立場にたてる視界と社会的問題意識である。「ウチの経営陣が見ているのと同じ風景をみているみたいだな、Aさんは」と感じたから、その担当者は上司につないでいるのだろうから。  

辛抱なき若者が未来を照らす | 人事制度

辛抱なき若者が未来を照らす

 配属ガチャという言葉があるそうだ。大学を卒業して首尾よく就職することができても、初任配属は会社の都合、思うようにはいかないものだ、という意味らしい。そして驚くべきことに、初任配属の地域や仕事が思うままにいかなかったとき、4人にひとりが退職を考えるというのだ(※)。せっかく入った会社なのに、あまりに辛抱が欠けてはいまいか。  昭和の時代にサラリーマンとしてのスタートを切った人間にとっては、空いた口が塞がらないタイプの事実だ。ご同輩の読者はどう思われるだろうか。しかしながら、この事実には、「いまどきの若者は・・」で済まされない大きな変化を感じる。    さて、ジョブ型という言葉が流行りだしてから少し時間が経った。積極的にこれを取り入れようとする会社もあれば、話はわかるが当社には合いそうもないから放っておけ、という会社もある。いずれにしても、ジョブ型という言葉の定義にはかなりの幅があるように思える。  ジョブ型の反対の概念をメンバーシップ型と呼ぶことが多い。筆者なりに両者の違いを描写すると次のようになる。まず、メンバーシップ型だ。雇い主は新入社員に、「定年を迎えるまで何があっても君をクビにしないよ、その代わり、会社が命じるままどこへでも行って、何でもやってください。」と言う。新入社員は「はい、どんな場所にも行って、どんな仕事でもやります。その代わり絶対にクビにしないで。」と答える。家族的だが、ちゃんと取引が成り立っている。  ジョブ型はこれと違う。雇い主は新入社員に、「この仕事をこの場所でやってください。他の場所にはいかなくてよい。他の仕事もしなくてよい。その代わり、この仕事が無くなったら君はクビ。成果が出せなかったときも君はクビ。」という。新入社員も、「この場所で、この仕事だけやって成果を上げます。他のことをやらせようとするなら、会社を辞めます。」と言う。とてもビジネスライクに取引が成り立っている。わが国で解雇が難しいことはもちろん承知の上だが・・。  こうした定義が成り立つならば、ジョブ型というのは雇用契約の話をしているのだ。「ジョブディスクリプションを作ってやるべき仕事をはっきりさせましょう」というような、社内の制度やルールの話ではない。先ほどの配属ガチャ問題、会社のほうは「絶対クビにしないよ・・」と例のごとく言うが、新入社員のほうは「・・でも、他の場所で他の仕事をやらせたりしないでね。」と言っているように見える。同床異夢。取引が成り立っていない。    グローバル競争の時代、多くの経営者が、当社の社員には専門性が欠けていると嘆く。一人ひとりの社員がもっともっと高い専門性を持って仕事に臨まないと競争に勝てない、と。専門性を研ぎ澄まそうとするなら、なんでも屋のメンバーシップ型ゼネラリストではなく、ジョブ型の精鋭専門職を採り育てるべきだろう。わが国も、段階的であるにせよジョブ型雇用の道を進んでいかざるを得ないのかも知れない。だとすると、配属ガチャで辞めてしまう新入社員の決断こそ、わが国の雇用が進むべき道を指し示している、ということにならないか。  不本意配属で、若者は会社を辞めるのだ。多くの会社が喉から手が出るほどに欲する理工系、特に情報系の若者も、配属ガチャを理由に辞めてしまうのだ。ならば、先に職種とエリアを約束し、それを長期間守っていかざるを得ないだろう。あとは、いかにして「その代わり・・」のところを描くかだ。取引を成り立たせるためにどうしたらいいのか。    がんばれ、新入社員。きみたちは自分のやりたい仕事を鮮明に思い描き、高度専門家の志を貫徹すべきだ。そして、それを実現するために必要なら、異動の無い働き方を求めてよい。どうしても叶わないなら、そんな就職は蹴飛ばしてしまえ。社会は甘くないから、「その代わり・・」が待っているかも知れない。でも勇気を持って前に進もう。君たちの決断は、わが国の未来を照らしているかも知れないのだから。   ※出所:「入社後の配属先に関する意向(不安・期待度)調査」キャリアチケットProduced by Leverages(2024年4月2日)

管理職になりたくない女性たち | 人材開発

管理職になりたくない女性たち

 2016年に「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」、いわゆる女性活躍推進法が施行されました。人財確保のための女性の登用、活躍推進は、労働力不足の深刻化を踏まえた国をあげての目標です。  女性就業者数を見ると、2000年に57%だったものが、2019年では70%を超えています。専業主婦ではなく、何らかの形で働く女性が増えたということです。この裏には、もちろん労働参加を促す政策や企業の努力もありますが、世帯年収の減少に伴って社会で働く選択をした女性もいるという事実もあります。  それでは、増加している女性就業者の中で、企業の管理職として指導的地位で活躍する女性はどれほどいるでしょうか。  2003年の小泉内閣時代に、男女共同参画推進本部にて「指導的地位に占める女性の割合を2020年までに30%程度にする」という目標が決定されました。結果としてはご存じの通り、30%の目標には及ばず、2030年まで先送りにしました。  これだけ国をあげて行う政策目標がなぜ達成できないのでしょうか。これは業種、企業など多種多様な事情があるため、ひとつに絞ることはできません。ここでは①企業や周囲の意識と②女性本人の意識について考えていきます。 ①周囲の意識 「男性が働き、女性が家事育児をする」  耳に胼胝ができるほどよく聞くことです。この考えに関する意識変化は起きており、総理府「婦人に関する世論調査」「男女平等に関数世論調査」、内閣府「男女共同参画社会に関する世論調査」「女性の活躍推進に関する世論調査」から見ると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考えに賛成またはどちらかといえば賛成と回答している割合は、昭和54年に男性で75.6%、女性で70.1%だったものが、2019年には男性で39.4%、女性で31.1%と大きな変化を見せています。しかし、男女ともに30%以上は肯定的であることは注目すべきポイントです。  ここに女性管理職の問題を絡めてみると、「管理職」というのはそもそも、非管理職に比べ仕事量も多く、仕事中心の生活をできる人が就くものという根底意識があるため、「家事育児介護を女性が行う」思想がいまだ根強い日本においては女性管理職を積極的に登用できていない、ということだと考えられます。男女で区別を付けていないつもりでも、ジェンダーバイアスが存在するのです。  また、それまでの慣例に従って雑務やルーティンワークを女性に任せたり、女性の積極登用に尻込みする結果、女性管理職のロールモデルが生まれない、こうした慣例もジェンダーバイアスの一つと言っていいでしょう。そして、登用以前に育成しようとしないのです。 ②女性本人の意識  企業で働く女性自身の意識はどうでしょうか。 独立行政法人 国立女性教育会館から出された「令和元年度 男女の初期キャリア形成と 活躍推進に関する調査 (第五回調査) 報告書 」によると、女性の管理職志望は入社1年目には60%あったものが2年目には46.4% となり、5年目には37.6%まで低くなっています。男性の場合は5年目でも87.9%です。つまり、多くの女性は「管理職になりたくない、ならなくてもいい」と思っているのです。  管理職志望のない女性の回答において、特に多い理由は以下です。 「仕事と家庭の両立が困難になる」(69.3%)、「自分には能力がない」(40.01%)、「周りに同性の管理職がいないから」(18.2%)  ここから①と②の関連を見ていきます。 「仕事と家庭の両立が困難になる」という理由からは、「男性は外で仕事、女性は家庭を守る」思想の根強さが表れています。女性の多くはそもそも、「結婚したら家庭のことを担うのは自分だ」と思って育ってきているのです。「男性は外で仕事、女性は家庭を守る」思想は女性自身にも刷り込まれてしまっているものであり、男女ともにこの考え方から脱却する必要があります。(この報告の就職活動時の基準重視度の設問「家庭と仕事を両立するための制度が充実していること」に関して男性より女性の方が「重視した」の割合が顕著に高いことも注目すべきポイントです。) 企業においては、女性の仕事と家庭の両立ができる環境を整備するのはもちろんのこと、女性同様かそれ以上に、男性社員の仕事と家庭の両立ができる環境を整備することに意識を向けるべきです。  女性社員が「自分には能力がない」と考えてしまうのは、それまでの育成や業務内容によるところが大きいでしょう。入社時から男女共通で差のない業務を与え、目標を達成させることで自信を付け、よりステップアップしたいと思わせることが重要です。  「周りに同性の管理職がいないから」という、ロールモデルがいない問題に関しては、ロールモデルを作ることが必要ですが、男女という区別ではなく、各個人として社員を客観的に評価し、正確に能力の把握をした上で最適な人員配置を検討することが第一歩です。また、男女の業務格差をなくしたり、男性社員が家庭との両立を図ったりすることで、性別関係なく目標とする上司像が形成されるでしょう。  果たして2030年までに目標は達成できるのか。 「管理職になりたい」と思わせる魅力がそもそも必要なのです。

どんなパッケージがあるのですか? | 人事制度運用支援

どんなパッケージがあるのですか?

 採用担当をやっている友人が話してくれたエピソード。外資系の開発会社で経験あるシステムエンジニアが採用面接に訪れた時のことだそうだ。志望動機やプログラミングスキルなど、ひととおりの質問の後、そちらから何か質問は、と尋ねてみると、「御社にはどのようなパッケージがあるのですか。」という問いが返ってきた。  パッケージとは一体何のことか、と確認すると、当たり前のことだが、という前置き付で、退職を余儀なくされた際に受け取る、割増退職金、在籍猶予期間、再就職支援など一連のサービスセットのことをいうのだ、との返答だった。この人は、入社する前から退職のことを考えていた。いや、パッケージなるものが整っている会社でないと、怖くて働けない、と言うのだ。  若手社員の離職は、多くの会社に一様な問題になってきた。辞める理由にいろいろあるが、その多くは「うちの会社では将来のキャリア展望が持てない」ということだ。そう考えて、より良いキャリア展望が持てるように人事制度を改変したり、社員に改めて人事制度の内容を周知徹底したりするような企業が増えている。雇い主のほうは、キャリアの道筋が見えるようにさまざまな努力をし、社員の定着を図る。だが、雇われる側は、もはや社内でのキャリア展望を求めていないと見える時がある。かっこよく言えば、社内でのキャリアゴールなど眼中になく、労働市場全体を俯瞰した、転職前提のキャリアプランを考えているのかも知れない。  我が国より先を行っていると言われる米国と中国のIT業界、その労働市場について、それぞれの国のビジネスマンを捕まえて聞いてみた。おおざっぱなところでは、両国の慣習はよく似ていた。  システムエンジニアとしての収入のピークは30~35歳、それを過ぎると、技術知識と経験だけでは収入を伸ばすことができない。同じ会社でその先に進むとすれば、プロジェクトマネージャーの仕事に就き、さらにその先、管理職に進んでいくことが求められる。しかしながら、マネージャーポストには限りがある。そこで、エンジニア諸氏は、30歳を過ぎると、自分で会社を立てて人を雇い、大きな会社の下請けに入って中小企業経営者としての道を歩む。さもなければ、別の業界のシステム部員として再就職する。リスクを抱えるか収入の伸びをあきらめるかといった選択だ。 周りにたくさんのロールモデルがあるのだろう、彼らは、若い頃から労働市場全体の動きに注意を払いながら、現実的なキャリアプランを練っているのだ。  雇用に関するこうした動きは、早晩、我が国にも忍び込んでくるに違いない。たとえば、我が国の高等教育(大学の教育)では、2030年に必要なIT専門人材の4分の3足らずしか満たすことができないだろうという予測がある。不足分は当然、外国の労働力に頼らざるを得ないのだから、我が国の雇用慣習への影響も避けられない、ということだ。そして、このことは、ただIT業界に留まることではないだろう。  我が国の経営者の多くは、「人を大切にする」という表現で、雇用の安定・確保にこだわってきた。会社の中に、さまざまなキャリアの選択肢を準備して、心配しなくてもよい、長く働いてください、というメッセージを送ることができるよう、さまざまな努力をしてきた。ところが、社員のほうがそんなことは求めていませんよ、という社会になりつつある。言われなくてもずいぶん前からわかっていますよ、というコメントが聞こえてくるようだが、私たちが思うより、ずっと早いスピードで、強いマグニチュードで、雇用の地殻変動は進んでいるのではないかという気がする。これからの人事管理を、断層のこちら側で設計するか、あちら側で設計するか、腹の決め時が来ている。

VUCAの中で | 人材開発

VUCAの中で

 新型コロナウィルス感染の第五波は一気に収束した。この事実は、喜ばしいニュースだが、感染者が急速に減少した理由として、専門家は、1)市民の感染対策強化、2)人流、特に夜間の滞留人口減少、3)ワクチン接種率の向上、4)医療機関・高齢者施設での感染者の減少、5)気象の要因という5つ要素を挙げているが、今までの感染者数の波の形や大きさを考えると、挙げられた要因が収束の原因だと素直に納得できる人はあまりいないのではないか。今後、第六波がやってきた際にも、感染者数が増加した要因の説明があるだろうが、結局、本当のところは、専門家でさえも、よくわからないというのが、正直なところだろう。  10年ぐらい前から、社会経済界でもVUCAの時代と言われるようになった。Volatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:曖昧性の4つの頭文字を並べた造語で、変化が激しく、先行きが不透明な状況が同時進行しているという事だ。  その背景には、技術革新のスピードが速まった事や社会のグローバル化やインターネットの普及で、世界中の各地域の様々な事象がリアルタイムで影響を与え合う事などがあると言われている。  今回のコロナ禍もまた、VUCAな状況と言える。複雑に絡み合った要因が感染の拡大に影響を与えていて、なぜコロナ感染者が増減するのか、理由が説明ができない(複雑性)。どのくらい感染者数が増えるとピークに達するのかという変動幅もわからない(変動性)、いつ収束するかもはっきり言えない(不確実性)、どういう対処をすればよいのか正解もわからない(曖昧性)。  コロナ禍は、現存の人々にとっては誰も経験したことがない事象で、判断の参考にするだけの十分な情報もないので、各国の政府は、それぞれ、国の環境や事情を鑑みて、ロックダウンなどの行動制限等、それぞれよかれと思う判断をしている。コロナ感染の収束という目的は同じでも、世界各国の対応方法も当然ながら、かなり開きがあった。  コロナ禍に対する判断と同様、VUCA時代の中で、我々は目の前の課題に、正解を導くだけの十分な情報がない中で、意思決定をしていかなければならない。もちろん、可能な限りの客観情報を集めることは重要だが、大切なことは、自ら、現在の状況を解釈し、仮説を組み立て、自分なりによかれ、という判断をすることだ。  いまや、この時代に、100発100中、正解を目指すことは無理だと割り切ったほうがよい。むしろ、不十分な状況の中でも、ぎりぎりまで、自らの頭で考え、判断し、間違っていたら、速やかに軌道修正する迅速さのほうが重要になってくる。  コロナ禍は、こうした能力を備えた人材の採用や育成が、いかに企業人事の優先課題であるかを、認識させられる機会でもあった。

「役割」の効能と副反応 | 人材開発

「役割」の効能と副反応

 話題になった組織論の本を読んでいたら、進化した組織の素晴らしい点として、従業員が「ありのままの自分」を出せる云々、と書かれているのをみて、唖然として、本を閉じた。仕事をする環境である会社組織で、ありのままの自分をさらけ出すなんて、あまりに息苦しいし、そんな必要もない。むしろ、ありのままの自分ではなく、組織内の役割を演じることだけが問われ、役割発揮度合がパフォーマンスにつながるゲームだから、組織で働くことは面白い。  自分自身≠役割、だからこそ辛い仕事も耐えられ、仕事ならでの醍醐味もある。「たかが仕事、されど仕事」とは、そうした事情を的確に言っているのである。結果、人事評価が低くても、それはたんに役割に必要な能力がないというだけということであって、全人格的評価ではない(と思えばよい)。そもそも、ありのままの自分と仕事を重ねてしまうから、メンタルイッシューも出来するのではないか。  組織とはそもそも、個々人の能力限界を超えた成果を出せるための装置として生まれた。一人ひとりではできることが限られるけれども、うまく役割分担して組織すれば、個々人の能力総和を超えた集団としての能力発揮が可能になる。社会に対してより大きなコトをなすしくみが組織であり、それは役割としての個人=構成員を前提する。テーラーシステムにおける作業分業から、知識創造企業体における機能分業まで、そのコトワリは変わらない。 組 織成果にむけ個々人がやるべきことを自覚し協働でき、なおかつ人々のありのままの姿を守ることができるのが、「役割」の効能である。ただ、この役割は、組織としての成果を高めていくには、きわめてよく効くものなのだが、ときに効きすぎて副反応にいたることがある。役割には、それを熱心に演じることを通じて、「仕事する自分」が別人格としてアイデンティファイされる面があるからだ。役に徹することで、ありのままの自分だったらとうていできないことも、できるようになる、あるいは「しでかしてしまう」ということだ。  かなりむかしのことだが、取材記者をしていたことがある。文章だけでなく写真も入れる記事だったので、カメラを携帯し、よい記事にはインパクトのある写真が不可欠と撮影に力をいれていた。ある企業グループの合同入社式の取材のときのこと。式全体を俯瞰した写真を撮りたくて、ファインダーを覗いあちこち移動しているうちに、ついに決定的な構図をとらえてシャッターを押した。  その時私は、数百人の新入社員が入る広大な式場の壇上、各社の社長・役員が並んで座っている前で会場の全員に向けて訓示をたれているグループ総帥の後ろに立ち、総帥の後頭部越しに、こちらを凝視する会場の新入社員のたくさんの顔が並ぶ絵を撮っていたのだった。カメラを構え、誰にも断らずに、いつの間にか壇上にあがっている――「カメラを覗くと人格が変わる」と我ながらうろたえ、そのとき、職業意識の恐ろしさを知った。  普通なら臆してできないことも、役割に忠実に、役割に徹すればできる。だからよい写真がとれるというならば、効能ともいえるかもしれない。しかしそれは、あきらかな副反応(ときに社会に害をなすような)を起こすことがある。役割に忠実に実直に職務遂行するあまり、生み出された人類史上もっとも悲惨で衝撃的な副反応のメカニズムは、ハンナ・アレントの「エルサレムのアイヒマン」でよく知られる。  そこまで深刻ではなくても、我々は、役割とは単に組織目的に紐づけられた機能分担にすぎないことを忘れ、自分の生活を損なってまでも、社会の常識に反してまでも、役割を全うしようとすることがある。人は、さまざま関係のなかで、アイデンティファイされる。その中で、仕事つまり組織の役割によるアイデンティファイは、関わる時間量においても、責任や達成感や刺激の大きさにおいても、「親としての役割」や「市民としての役割」や「隣人としての役割」よりもインパクトが大きいゆえに、この手の副反応を引き起こしてしまうのだ。  ではどうしたらいいか。ときに、仕事の渦中でたちどまって、「自分はなぜこの行動をとっているのか」と自問すればいい。その問いに、「仕事だから」、「やらねばならぬ役割だから」と自答するなら、さらに、「なぜ自分はこの仕事をやっているのか」、「この役割はなんのためのものなのか」と玉ねぎを剥くようにしつこく自己言及していけばいい。結果、自分にとっての役割を、客観的かつ主観的に意味づけることができればもう、副反応なく仕事しているはずだ。「たかが仕事、されど仕事」と嘯(うそぶ)きながら。

組織をどのように滅ぼすか | 人材開発

組織をどのように滅ぼすか

 衆議院の解散・総選挙が近付いてきた。私もまた、有権者の一人として、誰に投票するか考えることになるだろう。もちろん、どのような判断軸で、誰に投票するかは、有権者の自由だが、限られた選択肢の中で誰を選ぶか、悩ましい場合もあるだろう。ときには「誰に投票すべきでないのか」という消去法になってしまうこともあるだろう。それでも、棄権するよりは遥かにましなのではなかろうか。このように「誰に投票すべきでないのか」を考えるときに、思い出す書がある。ご存じの方もいるだろうが、それは「六韜(りくとう)」という名前の書である。  「六韜」とは「孫子」「呉子」などと並ぶ武経七書に数えられる兵法書である。日本でも飛鳥時代から今日に至るまで、一部の人々に愛読され続けてきた。古代中国周王朝の武王・文王が、軍師太公望呂尚と、政治、外交、軍事などについて対話を交わすスタイルであり、組織論として非常に示唆に富む内容が多く含まれている。 「六韜」の内容は多岐にわたるが、私がよく思い出すのは、「武力を行使しないで敵を征服するにはどうしたらよいであろうか」という文王の質問に、太公望が「おおよそ十二の方法があります」と答える場面である。その十二の方法とは、意訳すると以下のようなものだ。   1)望むままに、その意志に順応して争わない(味方のふりをする)   2)近臣に近づいて親しみ、近臣の権力を君主と二分させる(派閥を作らせる)   3)近臣に賄賂を贈り、その近臣の情を買収する(内通する)   4)君主の淫乱な楽しみを助長させ、その情欲を募らせる(正常な判断ができなくする)   5)相手の忠臣を厚遇し、持たせる贈り物は少なくする(忠臣への疑いを抱かせる)   6)一部の臣下を懐柔し、外と離間させる(内輪揉めを誘導する)   7)本業を軽視させるようにする(大事なことに集中させない)   8)近臣に自国の利益となることをちらつかせる(大義名分を与える)   9)君主を虚栄・虚名で褒め上げる(さかんに持ち上げる)   10)君主に対し、卑下し謙遜して信用を得る(一蓮托生を装う)   11)臣下に厚遇を約束して手なずける(謀反の準備をする)   12)相手を増長させ油断を誘い討つ(タイミングを見て実行させ実権を奪う)  この十二の方法の中には、若干内容が似ているものもあるが、言わんとすることは、敵でありながら友好を装い、上の者を盛んに持ち上げて油断させて判断力を失わせ、徐々に相手の中に内通者を増やすとともに、疑心暗鬼にさせて対立を煽り力を分断し、有能な者が失脚し無能な者が重用されるようにして、大義名分を与えてやがては謀反を誘導する、ということである。現職の国会議員の中にも、「よそから手なずけられた臣下」のような者がいないだろうか、どうだろうか。彼らに投票することは、ゆくゆくは国を滅ぼすことになるだろう。  そしてさらに問題なのは、この手の連中は、しばしば会社のような組織の中にも多く存在するということだ。すなわち、会社のためといいながら自分の利益しか考えておらず、己の立身出世を重視するあまりやたらと派閥で固まっては相手方を追い落とそうとし、上にばかり媚びへつらい良い待遇にありつこうとし、また媚びへつらう者を殊更に重用して引き立て、いざとなれば正当化しながら平気で組織への裏切りを行う者——。彼らは、外部から操られているわけではないだろうし、また意図的ではない場合もあるだろう。しかし組織を内側から壊すという点では結果は一緒だ。組織を守ること、それはまずもって組織の一員を装って組織を内側から突き崩す破壊者を退けることだ。

「指導と評価の一体化」 | 人事制度運用支援

「指導と評価の一体化」

 人事部門の方に、人事評価の運用についてどのような悩みがあるか聞いてみると多くの企業では、「部下を評価するのは難しい」という意見が多い。また、「評価によってどのように部下のモチベーションを上げればいいのか」と考える人も多いのではないだろうか。インターネットで“部下の評価の仕方”と検索すると、評価のポイントや評価文例なども出てくる。それほど評価に関するアドバイスへの需要は高い。  さて、今回伝えたいことは、評価と指導の一体化だ。評価だけにスポットを当てるのではなく、評価を今後の指導に生かすことについて述べたい。  なぜ評価と指導の一体化なのか。実は学校教育では、この言葉はよく使われる。文部科学省が作成している学習指導要領(いわゆる先生達の教科書)にも次のような記述がある。  “学校においては、計画、実践、評価という一連の活動が繰り返されながら、児童生徒のよりよい成長を目指した指導が展開されています。すなわち、指導と評価とは別物ではなく、評価の結果によって後の指導を改善し、さらに新しい指導の成果を再度評価するという、指導に生かす評価を充実させることが重要です。”  私の体験談を話したい。教師が定期テストを作成する際、いきなり100点満点のテストは作れない。10点の小テストを何度か繰り返し、生徒の解答を分析した上で、テストを作成する。だから、良いテストができるのである。  自分が学生でいる間は、このように先生達が考えているなどとは、恐らく微塵も思わない。重要なことは、誰しも学校という場でこの評価と指導を受けてきているということ。だからこそ、“指導と評価の一体化”の考え方は、企業でも通用するに違いないと考える。  評価で終わるのではなく、評価者は「なぜ目標達成できなかったのだろうか」「どんな指導が必要だったのだろうか」この問いに対する答えを考えた上で「次なる目標を設定する」ことにつなげた方が良い。なぜなら、このプロセスを繰り返すことで、評価だけでなく自分の指導の質も高まっていく。結果として、より良い人材育成につながるということである。  評価を受ける部下だけがそれを次に生かすのではなく、評価者たる自分もそれを生かす。“指導と評価の一体化”ができると、評価の在り方も変わってくるかもしれない。

百人の賢人 | 人材開発

百人の賢人

 哲学者で数学者でもあるバートランド・ラッセルは、1920年代、日本や中国で講演活動を行った。1920年代の中国といえば、清朝が滅んだ後、中国国民党と中国共産党が共に立ち、諸外国と対抗する混乱の時代であった。ラッセルが北京大学の学生に向けて講演を行ったとき、学生の一人から質問が発せられた。「我が国は2億人余の国民を擁する大国であるのに、現在はこのような混乱状態だ。我が国はこのまま無くなってしまうのだろうか。」  これに対して、ラッセルは答えたという。「君の国に、行く末を真剣に思う100人の賢人が居れば、君の国は必ずや栄えていくことだろう。」  選りすぐられたリーダーが居れば、それがごく少人数であっても、組織はその目的を果たすことができる。これは1920年代の中国に限らない。現代の企業組織においても同じようなことが言えるだろう。こうしたリーダーたちは、組織の方向と未来の姿を明確に描き、これを具体的な言葉で表し、「普通の人々」にわかりやすく伝え、魅了し、彼らの一人ひとりがその実現に貢献できるよう、仕事を組み立て、標準化し、訓練し、士気を鼓舞する。そして、そのようなことを、諦めず粘り強く行うのだ。  問題は、そんなことのできるリーダーが簡単に見つかるのか、ということだ。毎年の人事評価の結果を吟味しながら、成績の良いエリート社員を選んで手厚い研修を行うか。利益貢献に大きなインセンティブをぶら下げてリーダーシップをひっぱり出すか。ヘッドハンターの会社に高いリテイナーフィーを支払って、適当な誰かが見つかるまでひたすら待つか・・。どれもあまりピンとこない。  ひと昔ほど前のことではあるが、旧来型のいわゆる「メンバーシップ型」の雇用と人事管理でやっている会社の経営者と話したことがある。大卒の社員はだれでも四十の声を聞くと管理職に昇進できる、給料は年を経るごとに上がっていく、そんなあなたの会社では、なかなかリーダーは育たないでしょう、と突っ込んだ。  思いがけない答えが返ってきた。育ちますよ、と言う。 「うちの会社は、経営者も一緒になって、新卒学生の中から優秀な者を選りすぐって採用してきます。大卒の社員は三十になると一斉に係長に上げます。四十になると課長にします。給料は、同期ならばよっぽどのことがない限り皆同じです。・・そうするとね、30人の同期入社の社員のうち、ひとりかふたり、必ず、『これじゃいかん』と考える者が出てくるのです。」  「これじゃいかん、というのは給料の話ではありません。会社のビジョンが、会社の戦略が、会社の能力が、これじゃいかん、と。将来を憂えているわけです。周りの社員の仕事ぶりが不甲斐なく見えるということもあるのかも知れません。」  「こうした社員は、悩み、考え、行動し、牽引します。30人のうちひとりかふたり、真のリーダーが生まれれば、うちのような単純なビジネスの会社は何とか経営していけるものですよ。」  会社への帰属意識、そこから生じる強い問題意識、そして仕事への情熱は、会社を引っ張るポテンシャルを形成する。そして、こうした要素は、高い報酬だけからでは引っ張り出せないのかも知れない。職務・成果型人事制度の効用は真正面から検討していかなければならない課題だが、それだけではないのだろう、と思う。  新宿副都心に程近いある大学のキャンパスに、ラッセルのエピソードに因んで、「百人創新」と記した扁額が掲げられている。私たちは、知恵を絞って百人の賢人を生み出し、新しい時代を切り開いていかなければならない。

パトスを演じる | 人材開発

パトスを演じる

 子会社の責任とは、自立的に自社の成果をあげグループ経営に貢献することである。グループ力に依存したり、企業グループという大きな組織の一員といった意識で、受動的にグループトップのマネジメントに従ってはならないのだ。自社が成果をあげ貢献するには、親会社の見解や指示などに耳を貸さずに自社の社長たる自らが経営判断しなければならない。親会社がいかに子会社たる自社を環境分析しその戦略を描こうとも、自分以上に意思とリアリティのある判断はできないからだ。  そう考えて多国籍企業グループの日本法人の代表に就いていたから、当時は、自ら策定した事業計画や予算を親会社に認めさせるべく、戦略的プレゼンテーションをもって、親会社との交渉という闘いに臨むことが期首の正念場だった。日本は業績低迷下であっただけに、ヘッドクォーターの管理担当役員からの横やりや掣肘、COOからの米国感覚の戦術指南をかいくぐって予算を通さなければならない。そのプレゼンのポイントは、ロゴスとエトスとパトスを駆使して、納得せざるを得ないと思わせることだった。  予算確定のグローバルミーティングで難しかったのは、説得力あるパトスの表明だった。ロゴスは、構想主導型の予算が立てられ、明快に示せれば問題はない。前年踏襲の積み上げ式予算など出したものなら、一発退場だが、まず意思ある戦略があり、それを裏付ける予算計画であればよい。エトスもさほど難しくなく、「いやいや日本は違うのだ」との常套句を、ビジネス倫理や社会性の文脈で語れればよい。  パトスの表出は、態度と言葉による。「内なる闘志」など忖度されないから、結果へのコミットメントを、はっきりと態度と言葉で表面的に示さなければならないのだが、その大仰で芝居がかったプレゼンテーションはなかなか抵抗あってできなかった。グループCEOは、そこは物足りない風情ではありながらも最終的には当方の予算を認めてくれた。  そしてすべて国の予算策定が終わると、おもむろに傍らに近づいてきて私の両肩に手を置き、眼を見据えて、 「日本は、お前のリーダーシップにかかっているんだからな」 と英語でなければ、気恥ずかしくなるような言葉をかけてくれたのだった。すかさず、両手を添えた力強い握手を返しつつ、感に堪えないといった表情をつくって大きくうなづく。ときに身に染まぬ演技をするのも大事な仕事なのだ、と自身に言い聞かせながら。  パトスを演じることはしかし、ピープルマネジメントをうまく行う基本でもある。その後、複数の会社の優秀なマネジャーたちにインタビューしたことがある。聞いたのは、「人を育てるマネジメント」の秘訣。各人各様の、経験のなかで独自に編み出した「日常の理論」は、実に興味ふかく示唆的だったが、共通していたワザは、相手に対する熱意や思い、相手の意思や感情への配慮が、はっきりと伝わる言動で示すこと。要は芝居がった言葉遣いで大げさにふるまうことの効用が大きいということだった。  なるほど、リーダーという役を演じる割り切りをもって、パトスを目に見えるように伝える姿勢が優秀なマネジャーに共通する。彼の地のCEOはそのことを、つまり、マネジャーとしての私の課題を教えてくれていたのかもしれない。

目的追究型コミュニケーション ~Quiz:珍しい緑色の木の実とは?~ | 人材開発

目的追究型コミュニケーション ~Quiz:珍しい緑色の木の実とは?~

 自然豊かな山道を歩いている。友人に「あっ!見て!緑色の実だ!珍しいね?!」と声を掛けられた私は「あぁ、本当だ。珍しいね。」と答える。  文字で見るとおかしな会話だ。植物に詳しいわけではないが、緑色の木の実は珍しくない。多くの種類の実は、熟れる前は緑色をしていることが多いのではないか。素直に「緑色の実は珍しくない」「実が熟れる前は大体緑色なのでは」と伝えるべきだっただろうか。  実は、先の会話は次のような光景を目前に交わされたものであった。 図表1 出典:photoAC  友人の方を振り返ると、発見の喜びに満ちた笑顔を浮かべている。  おそらく、鮮やかな紫色のような、この色の話をしたかったのだ。重要なのは彼女が発したワードの音が“MIDORI”だった事実ではない。見たことがない色をした実の存在に驚き、その驚きの度合いを伝えると共に、同じくらい驚いて欲しい、という彼女の発言の背景にある願望こそが重要だ。たまたま発された音が少し違っただけなのだ。  言葉は、人間が複雑な情報を伝えるための共通の道具として使っているにすぎないのだから、道具の精度よりも、まずは、何のために道具を使っているかという目的が最も重要だ。もちろん、目的を達成できるのであれば、道具の性能や優美さを追求したって構わないが。  従って、緑色というのは目前の木の実の色を正確に描写するための言葉としては誤っている、若しくは、緑色は珍しくない、という返答は、ここで交わされたコミュニケーションの目的に沿っていないと思われる。言い間違いを正すという意味では極めて正論だが、本人の願望に応えられているかという尺度ではナンセンスだ。  スムーズに物事を遂行するため、生産性や正確性が求められることが多いが、一見無駄に思われる、状況や雰囲気を自然に読むことこそがスムーズな遂行につながる。  「目前の木の実の色は紫色であるから、緑色としたあなたの発言は誤りだ」と指摘をすれば、2人が認識した物体と、それを表現する言葉が一致したことを即座に確認でき、短期的には非常にスムーズである。しかし、そうした返事をした場合、彼女が次回また新たな発見をした時に、情報を共有してくれるだろうか。長期的にみると、一瞬で得た正しさよりも機会損失の方が大きいだろう。  コミュニケーションを通じて状況を正しく理解し、認識の一致を測ることは大切だ。しかし、文字面の正しさに終始し、コミュニケーションの目的を見失うことがあってはならない。 より概念的に言えば、局所的かつ短期的な正しさを求めるあまりに、長期的な機会を損失すべきではない。  仕事柄、数字や文字情報に向き合うことが多い。単なる数字や文字の正誤や良否のみならず、情報の背景にある目的を緻密にデッサンしながら問題課題の解決に取り組みたい。