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コラム

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諸刃の書物 | その他

諸刃の書物

人は、  本を読まねば  サルである。 こんな出版社の広告コピーを見たことがある。本に書いてあることなんか役に立たない、仕事で大事なことは実践の中で学んでいくものなのだ、とうそぶくビジネスピープルは少なくないが、そんなことはない。本を読むことは、ビジネス以前に、人が人であるために必要な行為だとの挑発的メッセージだった。 優秀なビジネス“ピープル”であるためには、とにかくまず本を読め。そんなしつらえの研修事例をご紹介したい。経営幹部育成の1年間にわたる連続研修なのだが、ひたすら読書を強制する。2か月に一度、経営に関する名著を読ませる。それも、よくある解説本や要約、抄訳ではなく、原著の翻訳、ハードカバー厚さ5センチという重量級本ばかり。 書籍を読むのが事前課題。その理解度確認テストを行い個別成績把握、集合して関連テーマのケーススタディ、終われば実務につなぐ事後課題を提出して1クール。マネジメントや戦略、ファイナンスなど6領域=6クール6冊の本を読むというシンプルな形式だ。全員幹部候補者だから、繁忙である。その中で読みにくい専門書を読まねばならない苦行に悲鳴をあげながらも、やりきった。もちろん、人による明暗、メリハリでるけれども、終われば、実践に役立つとの声が大半だった。 単に知識をうるのではなく、自分なりの、自分の仕事やその将来を踏まえての、「解釈」ができたからだ。著名な著者のマネジメント論や戦略論、リーダーシップ論を真正面から読み込み、事例をもって考え、自身の仕事に引き付ける。そのことによって、自分の業務や役割や自分なりの今まで我流でやってきた方法の「意味」がわかる。知識を得るだけの「子供の学習」ではない、きっちりとした「大人の学習」ということである。 大事なのは、知識獲得ではなく書物を相手どった格闘を通じて自分の考えを整理し深め意味付けることだ。逆に言えば、知識習得にはあまり意味がない。バベルの図書館主たる盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、多くの道具がひとの身体の一部を拡張延長するものーー望遠鏡や顕微鏡は眼の拡大であり、電話は声の、鋤や剣は腕の延長されたものーーしかし書物は、記憶と想像力が拡大延長されたものだといった。 記憶=知識だとすれば、想像力の拡大も含めてこそ、読書の効用なのである。イマジネーションが拡大されるから、解釈ができ意味付けができる。だから、知識だけを獲得すべく本を読むのだったら、それは書物の価値の一部に過ぎず、むしろ余計な知識は邪魔になるかもしれない。中世ヨーロッパのある神学者は、こんなことを言っている。 無知の人の手に書物をゆだねるのは、 子供に剣を持たせるのと同じく 危険なことである。

見本で気づく | その他

見本で気づく

 『わが子に教える作文教室』という本を読んだ。作者は、清水義範さん。小林信彦、筒井康隆に連なる、注目すべきパロディストと評される小説家だが、この本はいたって真面目に、小学生の作文を個別添削する教室での体験にもとづく“目から鱗”の作文指導術が書かれている。  そのなかで、作文が飛躍的にうまくなるきっかけを発見したエピソードがある。それは、同じ教室の生徒が書いたよくできた作文を見せ、読んで聞かせることだった。それを見た多くの子供たちの作文が、その後各段に良くなったというのだ。なるほど、個別添削という先生と本人の間のやり取りでは分からない、「こんな風に書いていいのか!」、「なんて面白い書き方なんだ!」と思える文章を目の当たりにできる。その気づきが何よりも作文力向上に効くのである。  他者の見本を見て、自分の問題に気づく。このことは、組織人事の世界でも通用する。『わが子に教える作文教室』のこのくだりを読んで、すぐに頭に浮かぶのは人事評価である。一次評価者の評価表を二次評価者がチェックし変更するという閉じた関係では、評価スキルは向上しない。自分のつけた評点が妥当かどうかを判断する材料は、上司である二次評価者の指摘だけであって、しかも上司はむしろ相対評価的視点でのチェックにとどまっていたりするから、自身の評価スキルの問題には気づけない。 作文の例のように、他の一次評価者たちの評価表を見ることによって、自分の評点の付け方が客観視でき、評価のしかたが向上する。人がどう評点を付けているかを知り、自身の問題点やクセに気づき、妥当な評価を共有できるからだ。だから、「評価者会議」(=部下の評価表を公開して行う一次評価者同士の相互検証の場)が、管理職者の評価スキルを上げていくもっとも有効な手法になるのだ。  リーダーシップ開発においても、ロールモデルが大事だといわれる。この人こそ目指すリーダーと思える現実のリーダーを目の当たりすれば、ひるがえって自身とのギャップに気づく。これから自分はなにができるようにならねばいけないかがわかる。このことは、とくに経営人材育成のシンプルな原理である。 社長の方々と会える機会があれば、「いかなる経験が、あなたが社長になるうえで有効だったか」と必ず聞くことにしている。各人各様の、極めて味わい深い見解が語られるけれども、共通する答えの一つは、「優れた社長の側で仕事ができた経験」だった。目の前で社長がどう判断し、どう行動するかを知ること以上の学習機会はない。子供でも大人でも見本例の効用はきわめて大きいのだ。 『わが子に教える作文教室』では冒頭、そもそも子供が作文を書く気になるためのポイントが書かれている。子供がはじめて、しかもしかたなく書いた作文のデキはひどい。字が汚い、言ってることが分からない、接続詞がおかしい、「楽しかったです」とばかりあるけど何があったのか書かれていない、とかとか問題だらけだが、それを指摘してはいけない。まず、ほめる。 「題名がいい」とか「この表現がいい」とか「その場の雰囲気が伝わってくる」とか、どこか見つけてほめる。それによって、書いた子をいい気分にすることが作文指導のもっとも大事な第一歩だという。ただ、なんでもほめればよいわけではない。その子が自分でもよく書けたかな思っているところを正しく読み取ってほめなければならない。そのためには、親が真剣にしっかり読むことが大前提になる。 ここもまた、人材育成で言われる「ほめて伸ばす」に通じるところだ。

MECE自身、モレている | その他

MECE自身、モレている

「Moving Target」(動く獲物)という言葉があります。これは、「狩りに行ったときに、さまざまな情報が集まるまで待って、得た情報を精緻に分析して、正確に銃を撃っても、獲物が動けば銃弾は当たらない」ということを伝える表現として、ビジネスで用いられます。 人々の好みや状況が刻々と変化する市場では、「予測の確度があまり変わらないなら、情報量が少なく、網羅的でなくても、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回し続けることが大切だ」という考えが浸透してきていますね。 また、「渋滞を解消するために道路の拡張を行ったところ、交通量が増え、新たな渋滞および環境汚染を生じた」という話も有名です。 これは、「問題症状の解消(対症療法)は、本質的な問題解決策ではない」という考え方についてお伝えするために、私がコーチを育成する際のテキストで紹介していた例のひとつです。 物事を考えるときに、分解された構成要素のうちの「特定の要素」だけに着目して(要素どうしの「つながり」を考慮に入れず)、問題症状(≠真因)を解消しようとすると、巡り巡って、問題をもっと悪化させてしまうこともあるので、気を付けないといけませんね。 このように、本質的な問題解決に臨む際には、「対象とする事象にどのような因果関係のつながり構造があるのか、システムの境界をどこに設定するか(どの変数を考慮し、どの変数を無視するのか)、想定する時間域はどのくらいか」といった「メンタル・モデル」(Mental Model)についても検討することが大切です。 「動く獲物」の話と「道路拡張」の話について、「MECE」(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの頭字語で、ミーシーあるいはミッシーと発音。意味は、「相互に排他的で、集合的に網羅的で」)の観点から、改めて考えてみましょう。 「論理的思考法を身につける」という場面では、上記のMECEという条件を満たして考えているか、すなわち、「漏れなく、ダブリなく」考えているかを確認するのが大切であると教わることがあります。 ところが、「動く獲物」の話では、「漏れなく」(集合的・網羅的に)考えるのではなく、ある程度のところで、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回すことが大切でしたね。 また、「道路拡張」の話では、「ダブリなく」(相互に排他的に)考えるだけでは、「要素間の相互作用」や「再帰性」などを見落としてしまって、問題が悪化してしまうこともあるのでした。  MECEは、論理思考を進める際の「チェック項目」を意識するうえで優れているのですが、「『種々の要素どうしは相互作用を起こす場合がある』という側面について、考え落としている」ということを認識していないと、「道路拡張」の話のように、安易な問題症状の解消策(問題症状の裏返し)で、逆に事態を悪化させてしまうこともあるというわけです。 取り扱う対象がエンジンや自動温度調節器のようなものであれば、「非生物学的なメンタル・モデル」で考えるのが適切ですが、対象が自己複製や自己展開、自己再帰性などといった特徴を持つ場合、例えば、細胞や動植物、家族や組織、ビジネスや文明などを扱う場合には、「生物学的なメンタル・モデル」の方が有効であることが多いのです。 さまざまなモデルやフレームワークというものは、金科玉条のごとく守らなければならない絶対的なルールではなく、目的や対象に合わせた適切な使い方が大切であること(MECEも常に効果的なわけではないこと)を思い出していただければ幸いです。 以上

うまくいかない目標管理 | 人事制度運用支援

うまくいかない目標管理

 目標管理は言うまでもなく“企業の目標の達成のために、組織や社員が目標を設定し、達成を促進する”ものである。多くの企業で目標管理が導入されているが、うまく機能している企業は非常に少ない。うまく機能しないのは、経営や人事が目標管理に対して過度に期待しているからではないか。多くの企業でみられるうまくいかない代表的なパターンは次のようなものである。 -そもそも会社や組織の目標が不明確  企業が毎年掲げる目標が明確でないことが散見される。目標そのものが十分に社内で検討されていない、また実現可能性が低いなど企業目標として“質”を疑うものがある。この企業の全体の目標を、各組織や個人に分解するのであるから、元の目標の質が十分でなければうまくいくはずがない。十分な社内協議や計画の裏付けのない目標が掲げられているということである。こうなると企業目標を組織や個人に割り振っていくと不整合が発生し、解決できない様々な矛盾が発生する。目標設定の段階で失敗しているということだ。目標設定がうまくできないので、結果正しい測定になりようがない。企業目標、経営計画が不明確な企業は目標管理をする前提がないのである。 -所詮“正確”に測定できないことを前提としていない  企業の経営目標も売上や利益のような数字だけでなく、管理レベルの向上、人材育成、コンプラ、社会貢献などの数字で測定しづらい目標も多くある。このような定性的な目標に対しても、達成度合いを判断しなければならない難しさがある。所詮定性目標の達成度は人により判断することであるので認識が完全に一致することはない。しかし多くの人の認識を一致させる必要はある。“目線合わせ”というのは、多くの人に認識が一致することであるので、これには“衆目の目”にさらすことが有効である。目標と達成度合いを公開すれば目標そのものの設定やその評価に対して様々な意見議論が発生するだろう。衆目の目にさらすことによる目線合わせを行うことによって、適正な評価をする文化が醸成される。 -目標管理は管理職以上  目標を設定するということは、その目標に対して責任権限がなくてはならない。自分の責任権限外の目標は自分ではコントロールできないからである。そのため目標管理の対象は組織の長には最適である。本部、部、課などの組織は目標が設定しやすくかつ責任権限がある。まず管理職の目標管理を機能させることが第一歩である。一般の社員の目標管理は実際には非常に困難で、多大な時間を投下しても得るものは少ない。仕事は個人に閉じて遂行しているのではなく、チームとして動いていることが多い。そうなると課の目標を個人にきれいに分解することは困難であり、またあまり意味が無くなる。さらに目標を自分で設定させる例を目にするが、業績の測定という観点では全くナンセンスだ。業績管理のための目標管理では、会社や組織の妄評を達成するための個人に対する指示であるので、あくまでも会社や上司が決定しなければならないからだ。 -測定技術が不正確、非合理  せっかく目標を設定してもその測定方法が曖昧であったり非合理であれば正しい評価とは言えない。例えば目標を100%達成ならB、120%ならAなどのように、目標に対して一律の達成基準で測定する方法がよく見られる。目標に対する達成の振り幅は目標によって大きく異なる。ルートセールスであれば売れる数量はあまり大きく変わらないかもしれないが、新しい商材の営業や個人の営業努力で数字が大きく変動する業態では振り幅は非常に大きい。本来は個別の目標ごとに達成基準を設置しなければ正しい測定はできない。 また目標に難易度を付ける例などもあるが、どこまで合理性があるか疑問である。 -ほんとうは重要視していない  目標の設定が曖昧で測定も非合理であるために、評価の結果は当然適正で整合性があるものとは言えない。それでも目標管理に多大な時間を投下しているが、この結果をストレートに反映している企業はごく少数だ。目標管理は通過儀礼的なもので評価は最初から答えがありきではないかと疑われてしまう。社員の処遇に対して大きな影響を与える評価であるのであれば、仕組みや運用などもっと厳格にするべきであるが、曖昧な目標や甘い評価が散見されても経営者も人事も身を挺して防ぐことをしない。本当は重要視していないのではないか。  目標管理を否定しているのではない。現在の目標管理があまりにも機能していないため、まずは原則に従いできる部分から始めることが有効だと考える。会社そのものや経営者の目標管理を明確にし、次に管理職の目標管理を機能させることを優先させるべきであろう。 以上

無駄の効用 | その他

無駄の効用

 働き方改革という波がずいぶんと早いスピードですべての日本企業に寄せてきている。その施策の照準は、ともすればダイバーシティやワークライフバランスに目が行きがちではあるが、要は生産性向上である。  働き方を変えることで生産性を上げ、生み出された時間を、プレイングマネジャーでままならなかったマネジメント業務などの本来業務や、付加価値創出につながるかもしれないアンダーザテーブル研究などに使う。あるいは、個々人が自己啓発や視野拡大の活動に時間を使う。結果、不確実な時代を乗り切れるよう業務品質と人材品質を高めていくということである。  その方法はさほど複雑なものではなく、無駄をなくすための組織や業務の仕組みを変えることと、人々の協業に伴うコミュニケーションの無駄を徹底排除することの2つを検討すればいい。その各社各様の取り組みはさまざまに目にするが、気になるのは、前提されている、生み出された時間の「有意義な」使い方である。その時間を、「無為に」使うことも大事なことなのではないか。  あえて、なにもしないで無為に過ごす時間に使う。個々人があるとき、業務から離れ、あるいは頭の中の思考検討から離れ、今目の前の環境を遠景化して、縁側でお茶を飲むようにぼーっと過ごす。生産性高く密度高く仕事をするなかでの優雅なゆとりは、エアポケットのように心に作用し、もしかすると「ユーリカ!」と叫ぶようなアイディアが生まれるかもしれない。  さらには、生み出された時間を「意味のないコミュニケーション」に使うのもいい。コミュニケーションとは、何らかの目的をもって、人に働きかける、あるいは何かを伝えるということだ。それが自然に円滑にはじめられるきっかけには、意味のない働きかけ=ゼロサイクルが有効だといわれる。例えば、道で近所に人とすれちがうとき、「いい天気ですね?」とか「お出かけですか?」という挨拶。人と人の相互の働きかけをサイクルをかけるというが、そのゼロベース、単に認知し合ったというだけの合図だ。  それは、問いのようでありながら意味も目的もない、ただのコトバのやり取りだ。そこに意味を意識すると、家を出た作家の稲垣足穂さんが「お出かけですか?」といわれて、「よしゃいいんでしょ!」と憤然と家に戻ってしまったというエピソードになってしまう。意味がないことを了解し合ってのゼロサイクルは、交渉や依頼に至る前のコミュニケーションの土壌づくりともいえるだろう。  さしずめ仕事と何の関係もない世間話の時間。縁側(デスクの端?)や井戸端(給湯室?)での無駄話に、生み出された時間を使うのである。無駄にも効用があるから、生産性向上のための無駄取りでそれらの完全排除はすべきでない、と言っているのではない。組織内の、業務上のコミュニケーションの無駄を徹底排除したうえで、改めて生み出された時間をこうした「無為」にも使うこともよいのではないか、と言っている。「なんとなく」ではなく、「自覚的に」である。  無為に使ってもいい時間をうみだすための働き方改革。獲得されたそのゆとりがきっと、付加価値創出や変化対応できる組織づくりにも効くはずである。

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー | その他

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー

「情報が共有されない」「レスポンスが遅い(来ない)」「自分も意見を発しない」等、社員のコミュニケーションに課題を感じている企業は少なくない。 組織として、トップと中間層、そして各現場で方針や事実認識が異なってはならないのだが、現実には、社内コミュニケーションが適正に機能せず、トップのあずかり知らぬところで、忖度され、誤った行為が長年行われていたような不祥事が、ここ数年、毎年のように発生している。また、社会的な問題にまで至らないにしても、社内コミュニケーションは、人間でいえば血液のようなもので、組織のどこかで、情報が滞留したり、誤った情報が流通されたり、あるいは、必要な情報発信がされなかったりして、組織全体のパフォーマンスに影響を与えてしまう事態は、多かれ少なかれ、どこの企業でも起こっている。 経営環境が、今まで以上に、予測不能で、かつ急変する中、さらには、働き方改革や生産性向上という国家的課題に取り組んでいく中で、我が国の企業内コミュニケーションの品質向上は最優先課題であり、実際、多数の企業の人事部門が、様々な階層に対するコミュニケーションスキル向上のための研修施策に注力している。ただ、社員一人ひとりのコミュニケーションスキルや意識向上を目指した研修施策に取り組むことは極めて重要なのだが、実のところ、それだけでは十分とは言えない。 より全体的な視点で、組織の情報流通の仕組みやインフラのリデザインといったコミュニケーションの構造にもメスを入れることも当然、必要になって来る。 ただ、こちらの話となると、現状の取組み姿勢に企業間でずいぶんと濃淡があるように感じている。 たとえば、コミュニケーションツールの活用で言えば、TV会議システム。主要な経営機能が複数の地方拠点に分かれている企業等では、日常的に使われているところも多いが、設備は一応あるものの、埃をかぶったまま、ほとんど使われてない企業もかなりある。理由としては、使い方がよくわからない、あるいは、なんとなく、実際に会って話したほうがよいから、といった属人的あるいは漠然とした理由で、せっかくの有効な機器が放置されている。しっかり操作方法を把握し、使いこなせば、もっと業務の生産性は高まるはずだ。 また、電話とメールが、社内コミュニケーションの主要なコミュニケーションツールとして利用されているが、最近では、それに加えてチャットを利用しようという動きがある。チャットは、ラインやフェイスブックメッセンジャーのようなもので、それぞれのテーマごとに、予め複数の相手と共有するチャットルームを設定しておけば、パソコンやスマホで、そのメンバー全員と瞬時にコミュニケーションが出来たり、過去の履歴を遡って、コミュニケーションの経緯を確認することもできるという利点がある。メールだと過去のメールを一件づつ、開けて確認しなければならないが、チャットであれば、その必要はない。また、メールと違い、あいさつ文など、形式ばった文章を書く必要もないところもメリットとして挙げられる。 現時点で、こうした新しいコミュニケーションツールの活用状況は企業により様々だが、これから数年で、こうした新しいツールのバリエーションも増え、今まで以上に急速にビジネス社会に浸透していくというだけは確実だろう。 新ツールの導入に対する主要な障壁は、「使い方が難しい」「従来のやり方の方がやりやすい」といった、おそらく中高年層を中心とした社員のマインドだ。実際、こうした抵抗勢力でも、十分使いこなせるように丁寧に説明することは重要だが、10年後、いや5年後でさえ、いままでのような、電話とメールがコミュニケーションの中心であるということはあり得ないことを認識させることの方が効果的かも知れない。 いずれにせよ、こうした新ツールがビジネス社会に早晩、浸透していく事が、時間の問題なのであれば、組織全体のコミュニケーション力の向上にむけて、他社に先がけ、積極的に導入推進したほうが、経営的に有効と思うのだが、デジタルリテラシーの壁はそれ以上に厚いものなのだろうか。

人材育成ミニマリズム | その他

人材育成ミニマリズム

多くのマネージャーの方々は、プレイングマネージャーだ。自組織の目標達成のために、先頭たって邁進し全力を挙げて成果を上げようと日々腐心している。結果、ついつい部下を育てることは後手に回って、「わが社の管理職は、人の育成ができていない」などと社長が不満を漏らし、急遽、社長命令で管理職対象の部下育成スキル研修が組まれたりする。 こうした研修に臨むマネージャーの方々は、部下育成の重要性はもちろんわかっている。人を使って成果を出すのが管理職の役割だなどと講師に言われるまでもなく、そうしたいと思っている。ただ目の前で目標達成が危ういときには、自分が動かなければならないのだ。じゃあ、目標達成できなくても育成を優先しろというのかね、と胸の内でうそぶきつつ、研修会場で身体はいつしか斜めになっていくのだった。 彼らを前向きにするにはどうするか。なにより、教科書的な部下育成論など扱わないことがこの手の研修のポイントである。教えるのは、部下育成ではなく、部下活用。いかに部下たちに、自身の仕事を切り出して渡し、自分がラクになるか。その具体的、実践的、明日からできる方法論である。プレイヤーとして少しでも楽になって初めて、マネジメントに着手できるし、なにより自分にとってメリットがあるスキルを学べる。 一方で、部下活用とは、部下育成の原点である。仕事を渡すとことの延長線上には権限移譲があり、部下にとっては難易度の高い自分の仕事をやらせることは、部下のスキル向上機会の第一歩だ。部下を活用して自分がラクになることは、イコール短期的部下育成に他ならないのである。 問題は長期的な部下育成である。部下活用=短期的部下育成を日々続けているだけでは、なりゆきの育成である。長期的に人を育てるには、ゴールセッティングを必要とする。部下のAさんを何年後にどのレベルに仕上げるか。育成目標と育成計画が、個別に描かれていなければならない。そのためには、個々人のキャリアの将来を意識しなければならないし、強味弱みや志向性にも気を配らなければならない。繁忙極めるプレイングマネージャーにとって、このハードルこそが高い。 部下全員ではなく、ひとりだけの育成ならできるのではないか。手っ取り早いのは、特定部下の育成を強制するしくみにしてしまうことである。つまり、後継者育成。現場起点のサクセッションマネジメントのしくみをもって、自身の後継者候補1~2名に限っての計画的育成をせざるを得なくするということである。たとえば、多国籍企業でよくやられているような、年次で自身の後継者のサクセッションプランを提出させる方式。後継者候補を、所定のアセスメント項目で評定のうえ選び、短期的・中期的に、どんな仕事をさせどう育てていくかを計画化する。それを年次で更新させていくのだ。 部下全員ではなく、特定の1~2名ついてだけでいいから、任務として後継者育成=中期的な部下育成せよ、という限定である。その効用は、単に次のリーダー育成の実践だけではない。特定候補者とはいえ、選び見極め育成を計画化するためには、個々人の能力や志向性、ロイヤリティなど留意し、何をどうできるようにしなければならないかを検討する。その目配りやアサインの配慮こそがマネージャーの部下育成スキルであって、それが強制的に鍛えられるということに意味がある。 おのずとそのスキルや育成意識は他の部下たちにもむく。繁忙なマネジャーたちだからこそ、すぐできる最小限のことからだけ始める。一点突破全面展開の企てを持って。

ギャランティとベストエフォート | その他

ギャランティとベストエフォート

通信ネットワークでは、ギャランティ型とベストエフォート型というサービスがある。ギャランティ型というのは、通信速度や、中断時間などのサービスの品質が一定以上であることを保証する通信サービスであり、高価ではあるが、安定した通信品質が求められる金融機関や企業の基幹回線などで利用されている。 一方、ベストエフォート型は、インターネット接続サービスが該当する。保証はしないが最大限努力する、というタイプのサービスである。そのような努力がなされていれば、結果に対する責任を負うものではない。たとえば、1Gbpsの回線を契約しても、フルにそのスピードが出るわけではなく、時間帯や周辺の利用状況など、様々な要因によって遅くなることもある。利用する側からすると、フルスペックのサービスは期待できないが、その分低コストに利用できる、ということになる。 これは通信ネットワークに限らず、すべての製品・サービスにおいて同様であり、製品・サービスについてよく理解し、ニーズにあったものを利用することが重要だ。品質を保証するサービスは高価であり、低コストであるということは、品質はそれなりである、というのが原則なのだ。 これを踏まえ、改めて身の回りを見てみると、本当にその価格で良いのだろうか?と思うようなサービスが世の中にはあふれている。 不在でも無料で再配送してくれる宅配便。ほとんど客が来ないのに24時間営業しているコンビニやファミリーレストラン。購入した商品を店の出口まで持って見送ってくれる店員など、このようなサービスは顧客にとっては、確かに便利だったり、気持ちの良いものだったりする。だが、それが企業の収益の向上につながっているのか心配になる。 もともとは、サービスを提供する側の誰かが、顧客のためを思ってはじめたことなのかもしれない。いつの間にか皆がやり始め、当たり前の保証されたサービスになっていく。当たり前になってしまうと付加価値として価格に転嫁できない。だが、現場は過剰なサービスのために疲弊していく。というのはあまりに悲惨だ。価値を保証するのであれば、企業はその分の費用負担を顧客に対して求めるべきだ。そうでなければ、企業はせっかくの努力が利益につながらないし、顧客の要求はますますエスカレートしていき、高品質でありながら低価格という相反するものを追求し続けるだろう。 現在の我が国ではそういった高品質なサービスがあふれており、その利便性、価値を低コストに享受できる、というのは1消費者としては大変ありがたいのだが、このような状態が続くのは健全ではない。 「この商品を今日購入すると、今週中に届きますか?」と問えば、「明日発送しますが、到着は予定より遅れる場合もあります。でも安いです。」というベストエフォートな選択肢があってしかるべきだ。価値あるサービスにはコストが掛かるという当たり前のことを実感できるようになるだろうし、本当に必要な時には「じゃあ、ちょっと高いけど、こっちのサービスにするか」と高品質なサービスを選択することができる。ベストエフォートというサービスが存在することで、ギャランティという選択肢の価値が見えてくるのではないだろうか。

乗り心地 | その他

乗り心地

 私たちは車を買うときには、乗り心地、安全性、燃費などで選びます。自分が気になる車種をいくつか選び、実際に試乗し、営業の人にいろいろ聞き、そして決定します。高価な買い物であり、また自分の生活に密着したものであることから、慎重に判断することになります。  車は精密な機械で数多くの部品からできています。一般的には3万もの部品からできているそうです。この数多くの部品が総合的に機能して、乗り心地、安全性、燃費などを実現するのです。よい乗り心地、より高い安全性、燃費を実現するために、車全体の設計がされ、最終的に構成する一つ一つの部品が作られ、組み込まれます。逆に言えばユーザーは個別の部品の性能を評価して車の購入はしません。たしかに特徴ある部品で、その部品の効果によりユーザーニーズを満たすのであればその部品の優位性が車を選ぶ際の重要な判断になるでしょうが、多くのユーザーは技術者ではないので部品の優劣での選択はしないでしょう。要はニーズを満たすのかどうかが重要であり、部品の優秀性は従属した判断事項だろう、ということです。  経営者の人事に対するニーズは車と同様非常にはっきりしています。経営方針、計画を達成するために必要な人資源を過不足なく保有していること、人資源がより有効に機能すること、短期だけでなく中長期に安定した人資源が提供されることの3つです。経営者にとっての人事の乗り心地、安全性、燃費と言ってもよいでしょう。この状態が続けば経営者ニーズを満たすことになります。この経営者ニーズを満たすために人事管理は様々な部品から構成された複雑な構造体となっています。主要部品としては採用。教育、等級、給与、評価、代謝、労働条件、システム、社会保険、給与計算・・・など様々です。本来はこれらの部品が相互に関連、連動して機能することによって経営者ニーズを満たすことになります。しかし現在の日本ではこれらの部品群が体系的効果的なベストな組み合わせになっているとは言えません。各部品を提供する会社は別々であり、企業側で様々な部品を組み合わせて人事管理を行っているのです。なかには自分で作成した部品もあったりします。  たとえば新卒採用は企業の将来の継続した発展のために、一定数の採用を継続することが望ましいですが、業績好調企業などが、驚くほど多くの新卒社員採用を突然行うようなことがあります。このような一時的に多くの新卒社員を採用すると、バブル期大量採用などを見てもわかるように将来大きな問題を発生させる原因になります。新卒採用サービスを提供する企業にとっては受注が大きくなってよいのですが。新卒採用サービスと人事コンサルティングの両方の部品を提供している企業があれば、異常に多い新卒採用を相談されても、否定しなければなりません。  日本における人事管理は、個別の部品領域に閉じた世界から、経営ニーズを満たす個別部品の統合を指向することになるでしょう。個別部品に閉じた世界では本来の経営ニーズを満たせないからです。企業の人事部門や人事サービスを提供する企業は、個別部品の良し悪しを議論するのではなく、人事管理の“乗り心地”“安全性”燃費“こそが重要な論点であることを、強く意識しなければなりません。 以上

ドリルの穴 | その他

ドリルの穴

ドリルを買う人が欲しいのは『穴』である。 これは偉大なマーケターであるセオドア・レビットが1968年に「マーケティング発想法」の論文で紹介している一節だ。 ドリルを買いに来た顧客は「穴を開けたい」という ニーズを解決する手段の1つとしてドリルを選んだにすぎず、そこにいきなりドリルの回転数や消費電力等のスペックを説明しても意味はない。ドリルを買いに来た顧客に最適なものを選んであげるには、ドリルで開ける穴の目的や、大きさや素材を確認するのが最初であるべきということだ。 セオドア・レビットは、40年も前から様々な著書の中で、製造業のサービス業化も予言している。過去の製造業のサービスというものは、その製品を売るための「おまけ」的なことであったが、未来は違っていき、売るための「おまけ」がサービス業に変わっていくだろうとしている。たとえばコンピュータメーカーが企業のために設置からソフトのインストール、データの入力作業を行い、今では製造業の会社に、このサービスを提供する子会社を設立しているし、サービス内容によって製品が選ばれていることもある。いわゆる主役と脇役の逆転を予言しているのだ。 マーケティング論を学んだ人にとっては、この「ドリルの穴」は馴染みがあると思うが、久々にこのフレーズを聞く機会があって自分もドキッとした。 営業で大事なことは、顧客が何を求めているかを察知し、それにどう対応するかだと思うが、 ともすれば、自社のサービス内容や商品の優位性だけをアピールしてしまいがちだ。 相手方の顧客の判断の仕方や決断のタイミングを観察しながら、自分なりに「このような考え方もあるな、こうしてはどうだろうか」などと別の方法を考えてみてもよいだろう。 とかく人というものは、一度身につけた価値基準や判断基準に固執したがるものである。 しかしそうした固執した方法や基準等は仕事の内容や関係する相手方の人物、状況によって合わないケースが出てくる。やはりビジネスとは生き物で、常に状況は動いているものと考えなくてはならない。身勝手な売り手都合になっていないか、きちんと買い手都合になっているのかをチェックする必要がある。 また、レビットが言っている顧客とのリレーションが企業の重要な資産であり、顧客情報管理のデータベースを構築、運用することが今後の明暗を分けることも忘れてはならない。 果たしてわれわれはできているのだろうかを再確認させられた。 以上

盲点をなくす | その他

盲点をなくす

「冬に熱中症!?」 日本海側の北陸地方で生まれ育った私にとって、「冬は、雪が多くて湿った季節」でしたが、太平洋側の東京で暮らすようになると、「冬は、からっ風の吹く乾いた季節」となりました。 そして、つい最近まで「熱中症は夏のもの」と思い込んでいましたが、冬の乾燥した環境では、本人の自覚なく「隠れ脱水」となり、脱水症状を起こして「冬に熱中症」になることがあると知りました。 夏のように汗をかけば、水分を補給しようとするのでしょうが、汗をかきにくい冬、寒くて身体を冷やしたくない冬には、意識的な水分補給を行わず、熱中症になる方がいらっしゃるとのことです。 冬の熱中症…私には意外な「盲点」でした。 「視野には入っているのに、見えていない盲点」には、目の構造からやむを得ず生じた「物理的(生理的)な盲点」と、「気づかない」という「心理的な盲点」の2種類がありますが、「冬の熱中症」は「心理的な盲点」の例ですね。 「物理的な盲点」として見えない部分は、移動したり、見る角度を変えたりすることによって「盲点を移動」させれば、観察することが可能となります。 一方、「心理的な盲点」は、「見えていないことに気づいていない」こと、「自分が充分に理解できていないことを『自覚できていない』ために、対応策や改善策について、考えてみようともしない」ことが問題となる場合があります。 そこで…例えば、「他部門の担当者の理解が充分に得られず、自分(たち)が提案した新規事業がボツになってしまいそうな状況」であっても、相手に怒りを覚えたり、周囲に八つ当たりしたりするのではなく、相手が「どんな視点に立って、何を大切だと考えて、その提案内容を受け止めているのか?」について知ろうとして、対話を持ちかけるなどといった形で、「盲点を無くそうとする姿勢」(他の視点を積極的に得ようとする姿勢、視点を変更してみようとする姿勢)が、良い結果を生むために有効となります。 問題の発生を未然に防ぐためにも、発生した問題を解決するためにも、自分(たち)の、あるいは、従来の視点だけに立脚して、いきなり相手に怒りをぶつけたり、立場の力で従わせたりするのではなく、「何か相手なりの考えがあるに違いないけれど、それは何だろうか」と「相手の視点を理解しようとする姿勢」を持てているかどうか=「自分の盲点を無くそうと、物事を多角的に捉える姿勢」を持てているかどうかは、「さまざまな考えや立場の人々を巻き込んで成果をあげる」ことが期待される経営職・管理職の人々にとって、極めて重要な要件です。 また、問題というネガティブなモノを無くすためだけでなく、「盲点だったモノから新たな着想を得て、イノベーション(創新普及)に繋げる」というポジティブな目的のためにも、「盲点」を無くすことは有用です。 そして、「盲点」を無くすため、(置換や統合を含む)「視点変更」を促すためには、自ら異なる環境に身を置いてみたり、実験(許容可能なリスクを伴うテスト)をしてみたり、他者(利害関係者、メンター、コーチ、想定顧客、素人など)に同じ状況を見てもらったり、異見を持つ人と相互作用(対話や協働)してみたりすることが必要です。 同じ会社、同じ趣味の人とだけ付き合ったり、自分の周りを「Yesばかり言う人物」で固めたりするのは、「盲点を生む姿勢」です。 逆に、日常生活で、意識的に「異質」なモノと触れようとするのは、盲点を無くすためだけに止まらず、新たな刺激や友人を得たり、発想を柔軟にしたり、感性を磨いたりするのにも役立つ、豊かな生き方・働き方を実現しやすい姿勢なのかもしれません。 あなたは「心理的な盲点」と、どのように付き合っていこうと思われますか?

学習する社会 | 人材開発

学習する社会

 先日、家に来た水道屋さんがレバー式の水道の蛇口を見て言った。「これは、変えたほうがいいですね、古いし、第一、危険ですから」。古い、は分かるが、危険とはなんだ? 聞いてみたら、我が家のレバーは、下に押すと水が出るからダメなのだ、という。「これは、阪神淡路大震災以前の仕様です。震災以降はすべての製品が仕様変更し、レバーを上げると水がでるようになってますから」。  なるほど。災害時に物が落ちてきて、水道の蛇口をあけてしまうから、下方開放のレバーでは、水びたしになってしまう。さらに、湯沸器が点いていれば、点火し、火事を引き起こすかもしれない、ということだ。調べてみたら、この一斉仕様変更は震災だけの理由ではないようだが、震災経験が影響していることは確からしい。震災というとてつもない事態を契機に、産業社会は学習し、地道な改善を行っていると知らされた。おそらくそこには、各器具メーカーの技術者たちの自発的で迅速な対応があったのだろう。  阪神淡路大震災はまた、ボランティア活動というものが自然発生的に一気に広がり、そうした活動が市民権を得た契機でもあった。1995年1月17日の震災発生以降、多くの人が、「居てもたってもいられない」思いに駆られ、できることを探し、考え、行動した。会社に勤めている人たちも、休暇をとったり、週末をつかったりして、それぞれの活動を行った。  当時私がいた会社でもこんなことがあった。震災直後、家でテレビのニュースを見ていたら、同僚の一人が被災地の真ん中でパソコン通信につないだPCを見ながら、周りの人たちと叫ぶように話している絵が映った。もう現地入りして、活動している。ううむ、さすがに素早い、と思って会社に行くと、今度は別の同僚がケンカ腰で電話をかけている。  何のツテもない某大手コンピュータ会社にいきなり電話をして、パソコン100台が必要なので、無償で供出せよ、と談判しているのだった。彼も現地でボランティア活動をしていて、そこで使いたいので、「企業として当然のことだ、100台直ちに送れ。もちろん、一切の経費負担で」とほとんど脅迫的に迫っていた。そしてその会社は、100台の供出をのんだ。ううむ、決断したそのコンピュータ会社もさることながら、さすが、わが社の同僚であるな、と感じ入ったものである。  と、こんなようなことが、たくさんの会社のなかで起こっていた。当時、ある経済団体から委託され、たくさんの会員企業の会社員たち向けの情報誌(いわば、“日本株式会社の社内報”)を出していたので、その読者たちにアンケートをとったところ、さまざまな会社員たちが、それぞれに自分たちで、あるいは自社を巻き込んで行った行動報告や、これからやると決めている計画が大量に寄せられ、その大きなうねりを知った。  こうした会社員のたくさんの行動を経て、その後、多くの会社で「ボランティア休暇」が制度化された。また、一方では、ともすればやみくもであったり迷惑だったりもするボランティア活動が批判的反省的に議論され、ボランティアのあるべき行動のルールが定まっていき、ボランティア活動というものに一定のカタチができたのだった。  ゆえにこの年はボランティア元年とも呼ばれる。震災という不測の大惨事を契機に、産業社会の枠を超えて市民社会としての学習がされたといってよいだろう。  震災の2年前に出版された岩波新書「ボランティア」で、著者の金子郁容さんは、ボランティア活動が市場や経済とはべつのもう一つの情報ネットワーク社会を誕生させるのでは、と書いた。ボランタリーな意思に発する活動だからこそ、非市場的な新しい相互関係がそこに生まれるという仮説もまた、震災後の「何か役立ちたい」というたくさんの意志の自然発生的な噴出とその活動の試行錯誤により、一気に検証されたのだった。  学習する社会は、いつだって、こうしたひとりひとりのWILL(=何とかしたいという強い意志)の表明に始まるのに違いない。そしてきっと、「学習」という行為もまた。