©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

その他

column
シンメトリー(左右対称)とアシンメトリー(左右非対称)のあいだで | その他

シンメトリー(左右対称)とアシンメトリー(左右非対称)のあいだで

 一昔前、いやもっと前だろうか。自称「熱血上司」(現代の言葉で言えば「パワハラ上司」にあたる)みたいな方々が、それぞれの職場に、今よりもずっとずっとたくさんいた時代があった。部下のミスや目標未達成に対し、激昂して他の従業員の面前で罵倒し、ときには物を投げつけるということさえあった。一般の従業員からしてみれば、「心理的安全性」以前に、「身体的安全性」さえ危ぶまれるような事態であったのだが、ほとんど誰もこれを問題視することもなく、半ば常識と化していた時代が確かにあったのである。  このような事態は、思えば職場だけに限った話ではなかった。学校や部活動、ときには家庭の中にまで、暴力まがいのアプローチが蔓延っていた。一定の年齢層以上の方であれば、誰しも思い当たるところがあるだろう。  このような傾向は、歴史を遡るほど強くなるようである。日本の軍隊の中で私刑に近い暴力行為がずっと継続的にあったらしいことはよく知られているし、日本の首相の中には、不幸にも暗殺されてしまった方もいるが、逆に明治期の首相であるが、暗殺や殺人の実行犯であった可能性が高いと思われる方も、実は存在するのである。江戸期以前は言うに及ばない。戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)は、もし現在にタイムトラベルされたならば、「パワハラ上司」どころか、犯罪者扱いされかねない。  そう考えると、あの自称「熱血上司」たちも、良い悪いは別にして(おそらく最悪ではあるが)それなりに日本という文脈の中に根差して発生した一種の文化的遺産のようにも思われてくる。我々は彼らと訣別したつもりでいるが、これだけ根が深いと、どこか深いところで依然つながったままなのではないかという不安に苛まれるのである。  そもそも、なぜ自称「熱血上司」(パワハラ上司)たちの不可解な行動が起きるのか。これは「暴力の暴走」と言ってしまえばそれまでだが、やはり「思い通りにならない苛立ち」「完全・完璧にならないことへの不快」が、心理的背景として横たわっていると考えるべきであろう。基本的に彼らは、ある意味「完全主義者」なのであり、思い通りにならないことにそもそも苛立っているのだ。その点では、我々の中にも多かれ少なかれ似たような萌芽はあって、何らかの事情によりかろうじて踏みとどまっているにすぎないのだと考える方が自然であろう。  ほとんど文化的とも言える根深さを持つ、我々の中の「完全主義者たち」と、いったいどう向き合えばよいのだろうか。その点でヒントになることは、やはり日本文化の中に見出される。  よく知られているように、姫路城は、天守閣をはじめ、門、窓に至るまで、敢えて非対称に設計され建築されている。「日本的美」の典型とされるこの建築物の美学は、対称性を重んじた欧州建築の美学とは明らかに異なっている。通常このことは、「対称であることは完全・完結・完成を意味し、成長しないこと、さらには停滞や死を含意するからである」と説明される。しかしこのことは同時に、「不完全性を許容する謙虚さと寛容さを持て」と教えてはいないだろうか。「不完全さもまた不可避であり、受け入れるべきなのだ」と。  大きな建築物だけではない。価値があるとされる茶碗は、どれもこれも、なぜか非対称な一品である。対称的な完成形をよしとするものではなく、不完全さ、不均一さ、自然さが表れることをよしとするからである。そこにもやはり「不完全性を許容する謙虚さと寛容さこそが美しい」とする美学が読み取れる。  私は何も、頭から「完全主義」を否定しているのではない。当初想定されたゴールが素晴らしいものであれば、それは完結に近づくよう実現すべきである。そして我々は黙っていても、思い通りにならなければ苛立ってしまうし、落ち着かない気持ちになり、思ったところを完結させようとするだろう。しかし、ときには物事は思い通りにならないものなのだ。なぜなら、誰しもが完全ではなく完璧ではありえないのであり、そして「正しいゴールとは何か?」、もはや誰も正確に指し示すことなどできないからである。であればこそ、我々は、不完全であることをある程度受け止める謙虚さと寛容さをも、併せ持っていなくてはならないのではないか、と思われるのである。我々の先輩たちは、確かに反面教師でもあったが、有難いことに先述のようなとてもよい教材を残してくれてもいるのである。

人財要件が先、どの等級かは後! | その他

人財要件が先、どの等級かは後!

 教育体系構築をご支援する機会が重なったことを踏まえ、今、感じていることを共有差し上げます。本稿では、「教育体系という表現」と「体系について考える順序」について取り上げます。  まず「教育体系」という表現についてです。 もし、「正解が存在して、それを一方的に教える内容ばかり」であれば、教育体系という名称のままで良いと思います。  しかし、「マネジメント層は、新人からデジタル機器の使い方を教えてもらうことが少なくない」といった例でもおわかりのように、状況に応じて役割を変えて「互いに学び合う」プロセスを促進する場づくり・関係づくりが重要な状況が増えてきています。  「ある時は教える側、別の時には教わる側」と役割を交代しながら、「異なる強みを活かしていく」ことは、DE&I(ダイバーシティ、エクイティー&インクルージョン)という観点からも、リスキリングの観点からも重視すべきだと考えています。  そのため、これまで教育体系と呼んできたモノは、今後は「学習体系」などに名称を替えた方が良いように感じています。  市場等にもよるのかもしれませんが、今後は、多くの組織で「唯一絶対解がない中で、議論を通して学び合い、多角的な検討を経て意思決定をしていく」といったワークショップ型のプログラムを「学習体系」の中で増やしていくことが求められるのではないでしょうか?  次は、「学習体系について考える順序」の話です。  これも、市場の特性などによって判断が分かれて当然だと思いますが…例えば、「経営ヴィジョンや、〇年後に目標とする状態を定めて、それを実現させるための事業戦略を練り、その事業戦略を実行できる組織・人財となるように施策を検討する」という順序で考え、学習体系構築に反映させようとする場合について考えてみましょう。  これを言い換えると、「事業内容、求められる業務内容が想定され、それを遂行できる組織・人財の要件を定めて、その要件を満たせるように育成するという順序で検討する」ということです。  すると、学習体系構築の段取りとしては「求められる業務内容を具体的に把握」し、「人財の現有能力を把握」し、「それらのギャップを埋めるように施策を検討」し、「それぞれの施策をどの人財に適用するかを考える」(…人財要件の設定が先、等級や強み・弱みなどへの当てはめは後)といった順序になります。  現場の見解を入れず、「等級が先にあって、その等級の人財要件を概念的に検討する」というアプローチだと、「御社独自の事業戦略から乖離した育成計画」(絵に描いた餅)となってしまいかねません。  また、等級に囚われすぎてしまうと、「○○で強みを持った人財を抜擢して登用する」といった人財のダイナミックな活かし方(組織能力の新たな発揮方法)を想像しづらくなってしまうので、非常にもったいないと思います。  「人事のための人事」ではなく「事業に貢献する人事」にシフトしていくのであれば、「事業戦略の実行に至る道のりについて、求められる学習内容のレベルにまで噛み砕き、どの人財に何を学ぶことを推奨するのか?」(標準化→個別対応)を整理した学習体系の構築をお薦めしたいと思います。

「よくわからないけど面白そう」という気持ち | その他

「よくわからないけど面白そう」という気持ち

 小さな子どもを見ていると、彼らにとって遊びと学びは一体だと感じることがよくある。文字を練習していたはずがオリジナル文字を作っていたり、ゲームの解説動画をなめるように見ては新しい手法を学んでいたりする。新しいことを知り、それをおもちゃにして遊び、遊ぶためにまた新しい知識を学ぶ。「よくわからないけど面白そう」という気持ちが先行して、「これは何に使えるのかな?」という活用は後からついてくるようだ。  結果として、使えると思った知識は(主にクイズやゲームなど)どんどん深堀る。驚くような速さで習得し、どんどん使えるようになっていく。一方で使われないまま放置される知識(主に学校の教科書に書かれているもの)も壮大に発生してしまうので、そこは大人の目で見てまずいとなり、どの家庭でもよくあるだろうバトルが発生することになる。  このような子どもの学び・遊びは、研修事業で提供する大人のための学びとは大きく前提が違う。企業の人材育成においては会社の意図を踏まえて、研修提供側が学ぶ内容を選定する。何を学ぶかという理由は本人の側にはないので、企業の意図を「研修の目的」という形で研修開始時に本人に伝えることで後付けで内面化する必要がある。ここが多くの研修の難所になる。また、研修で学んだ知識の活用についても自主性に委ねているとなかなか継続しない。今では、知識の実践を働きかける長期的なフォローが研修設計の標準になっている。  企業研修である以上、企業の意図した内容を効率的に学ぶためのカリキュラムを会社が決めるのは当然のことだ。会社の意図を理解してしっかり学び、実践していただければ研修としてはそれで大成功ともいえる。しかし、子どものころのような学ぶ・遊ぶ楽しさを思い出せたら、大人の学びもまた飛躍的に向上するのではないだろうか?   最近の研修では、体験型やアート鑑賞といったセッションが増えてきた。感性の開発や組織開発などさまざまな目的で設計されるが、これらのセッションを通じて、学ぶ・遊ぶ楽しさを思い出し、学び方のバージョンアップを図ることができると考えている。  その時重要なのは「よくわからないけど面白そう」という気持ちだ。会社の事業やこれまでの人生の延長線上ではなく、であまり接したことのない世界に触れる。世界はまだまだ広く、自分の知らないことがたくさんあり、なんだかよくわからないが動いている。何が起きているのだろうか。自分にも何かできるのだろうか。そう感じるとき、自分も学び、新しいことを試してみたいという気持ちが高まる。それこそが、子どものころのような貪欲な遊び・学びのスタートになるのだ。

マネジャーの心理は安全か | その他

マネジャーの心理は安全か

 自社の管理職者に研修をしようと思い立ったとき、どんなスキルテーマにするかを考えるには3つの観点がある。 ①マネジメントの観点。 ここでは「目標達成」と「人材育成」が2大テーマであり、分解すれば前者は、PDCA、業務アサイン、目標設定・評価……、後者は、業務指示、OJT、後継者育成……と必要スキルが細分化される。 ②リーダーシップの観点。 同じく2大テーマは「ビジョニング」と「モチベート」。前者は、ビジョン設定、ストーリーテリング、リーディングチェンジ……後者は、動機付け、巻き込み、信頼醸成……などのスキルが想定される。 ③コンプライアンスの観点。 ここはスキルというより禁止則が、さまざまにありうる。  と書いてみると、改めてマネジャーの役割はたいへんだと思う。自組織の目標の必達をまず第一に要求されたうえで、メンバーの育成もしなければならない。イノベーションが喧伝される昨今は、環境変化のなかで新しい方向性を示し、メンバーを動かせとも言われる。教科書的な管理職役割、「マネジメント=成果をだすための組織の統制」と「リーダーシップ=変革に向けての組織の主導」が、文字通りともに求められるのだ。さらには、ハラスメントは絶対するなと脅され、メンバーの働き方改革をとにかく促進せよと強制される。    もちろん研修の趣旨は、武器=スキル/手法を与え必要に応じて使ってほしいということではあるが、研修テーマのひろがりは、管理職への役割期待が高まる一方であることを示しているともいえる。さらなる期待となりそうなのが、いまはやりの「心理的安全性」だ。グーグルの調査「Project Aristotle」で、チームの生産性に一番影響するのが心理的安全性(=誰もが率直に意見を言い合える組織環境)だと言われて以来、「心理的安全性の高いチーム作り」もホットなマネジメントテーマとなった。  心理的安全性が高い組織は、生産性向上だけでなく、離職率の低下やコンプライアンス維持、あるいはイノベーションのタネになる創発的な意見喚起などの効用があるので、その実現が望ましいのは確かである。しかし経営が、さらなる期待役割として、自組織の心理的安全性向上をマネジャーに命ずるとしたら、目標達成にむけチームをときに厳しく統制し、改革を主導・牽引しなければならないマネジャーにとってはダブルバインドになるのではないか。  「誰もが率直に意見を言い合える」とは、平たく言えば、「こんなこと聞いたら無能(無知)だと思われる」とか「批判していると思われるから黙っておこう」とか「これを頼んだら邪魔することになるからやめよう」という躊躇がなく、自分自身の意見や想いを表明できることだ。とすれば、マネジャー行動としては、個々人の意思・想いへの配慮や、まずは傾聴といった姿勢などが求められ、目標達成にむけシビアなタスクマネジメントに尽力しているマネジャーには、余計なコミュニケーション負荷にもなりかねないからだ。  たとえば、メンバー各人の意思や想いや意見を尊重すべく、マネジャーが ・報告を徹底せよと命じるより、こちらから「どうだった?」「何があった?」と部下に聞く ・上手くいかなかった原因を追求するよりさきに、まず「それは大変だったね」と共感を示す ・本筋と関係ない意見を切り捨てずに、まず「なるほど。ということは……なの?」と意見を聞く といった部下対応を意識的にやろうとするとしたら、繁忙のなかで適時的確な判断を強いられている身としてはいらだつかもしれない。もしかすると「端的に結論だけ言え!」と言いたいこのマネジャー自身の「率直な意見」は言えてなくて、「自分たちの心理的安全性はどうしてくれる」との声があがるかもしれない。  当たり前だが、業務特性やメンバー編成によっても、マネジャーの組織方針やリーダーシップスタイルの違いによっても、心理的安全性のインパクトは異なるから、とにかくその向上をすればよいということではない。実際「Project Aristotle」でも、「チームへの信頼の高さ」「チームの構造の明瞭さ」「チームの仕事の意味の共有」「チームの仕事の社会的意義の共有」が、心理的安全性とともに高生産性チームの特性だとされているから、生産性に資するチームビルディングは一様ではない。  冒頭にあげた様々なスキルと同様に組織力を高める一つの武器として、心理的安全性のメカニズムも知り、状況に応じて使う裁量こそがマネジャーに与えられなければならないのだろう。マネジャーが、自組織をどうしていくべきか経営に対して率直に意見が言え、経営がマネジャーの意思と想いを尊重し、マネジャーは裁量をもって組織マネジメントを行う。チームにおける心理的安全性とともに、経営におけるマネジャーの心理的安全性向上もまた、きわめて重要なはずである。つまり心理的安全性とは、チームビルディングの問題以前に、「全社の心理的安全性」が検討されるべき経営テーマなのである。

評価制度に求められる「誠実さ」「真摯さ」とは | その他

評価制度に求められる「誠実さ」「真摯さ」とは

 時代の変化に対応すべく、従来の横並びの人事評価から、メリハリのある人事評価へと舵を切る企業が増えている。組織の期待に応え、高い成果を上げる社員には高い評価と処遇を、期待に届かず、成果の振るわない社員には低い評価と処遇を行う人事制度が主流となりつつある。  人事評価が自身のキャリアや収入、ひいては人生設計に、これまで以上に影響を及ぼすことになると、評価に関する不平不満の声も強まることは想像に難くない。制度上の公平性や透明性の担保、運用面の評価スキル向上は当然のことながら、組織および評価者のスタンス・マインドセットにおいては「誠実さ」「真摯さ」が極めて重要になると考える。  例えば、被評価者の昇格がかかった評価において、残念ながら低評価を付けざるを得ない場面がある。そのとき、低評価を付けるに至った理由・根拠を、可能な限り抜け漏れなく指し示すことができるか。また単に事実を羅列するのではなく、等級定義の深い理解に基づき、評価制度を貫く思想を正しく汲み取るとともに、さらに事業環境や経営状況、経営計画等に照らした複眼的な見地から、血肉の通ったフィードバックができるか。社員一人の評価にかける熱量(思考の広さ深さ)が組織における評価の「誠実さ」「真摯さ」として現れる。  これは低評価者に対する温情や納得させるための方便ではない。単に手間暇をかければ良いという話でもない。社員が「組織の理念・戦略・方針・価値観を体現できるか」の問題である。従って高評価者に対するフィードバックにも同様のスタンス・マインドセットが求められる。評価時期になって慌てて準備するようでは足りない。  時代に即応した厳しい人事評価を「誠実さ」「真摯さ」抜きで運用したとしたら、組織はどうなるだろうか。低評価者はふてくされて管理者の見えないところで組織に悪影響をもたらすかもしれない。高評価者は見切りをつけ、より年収水準の高い同業他社に転職するかもしれない。はたまた、厳しい評価をつけて辞められでもしたら困るからと、どうにかして評価を調整しようと間違った努力に走るマネージャーが出てくるかもしれない。この点、評価をする側、される側、それぞれに求められる基本姿勢や考え方を「評価者研修」「被評価者研修」という形で学ぶ機会を提供することも組織力向上の有効な手段となる。  厳しい外部環境に対応するために、企業は絶えず変化を求められる。その中でも変わることのない理念や価値観、そして変化に即応した戦略や方針を、人事評価において忠実に体現する。新たにパーパスを策定したり、組織的な1on1を行ったりするリソースがなくても、組織力を向上させるチャンスは私たちの身近なところにある。

富山県人 | その他

富山県人

 経営者、人事部門は社員に対して厳しい目で見ている。活躍する社員や活躍しない社員に対して、類型化するのが好きである。経歴や性格、ライフスタイルなどを分析して、活躍するタイプ、活躍しないタイプを見極めようとする。新卒にせよ中途にせよ人材のセレクションは、自分が重要視している“尺度”によって判断することが多い。平板な採用基準では語れない、実例の蓄積からの“感覚”が重要なのである。それだけ経営資源たる“人材”は複雑であり解明が困難な存在と言えるのだ。  国内市場がシュリンクしていくことが予想され生き残りをかけた競争が激化する。グローバル展開は海外の競争相手と戦わなくてはならない、そのためには人材も変化に柔軟に対応し、新たな価値を生み出し、スピード感ある人材が必須となる。このような人材に育つには、安定志向が強い人材は向かないだろう。異なる環境を理解し、多様な経験、交流を持つ人材のほうが適している。時にグローバル展開をしている企業や競争の激しい環境の中にいる企業の経営者や人事部門は、人材に対して強い危機意識を持っているため、現在の人材では満足せず、新たな価値を創造できる素養のある人材がほしいのだ、もっと言えばそれ以外の人材には高い価値を感じないともいえる。  “富山県の人材は採用しない”といった不二越の本間会長に対して否定的な意見が強い。富山県人は保守的で進取の気風がないという発言に対してである。富山で生まれ、富山で育ち、富山の学校を卒業した人材は“革新性”、“創造性”、”攻撃性“で物足りないと感じるのであろう。この発言に対しての批判は痛烈である。差別的、公平感がない、富山純正人材も優秀だといった意見である。たしかにこの批判は一面の説得性はあるが本質を突いているのか疑問である。  不二越の会長には面識はないので人となりはわからないが、発言の主旨はよく理解できる。経営の一線で活躍してきた独自の“尺度”で判断したときに、“純富山人材”は活躍する人材の比率が低いということだ。実例に基づく重要で意味のある発言である。純富山人材の傾向が明確なのであろう。 営利を追求する企業が自社の基準で採用を判断することの自由は確保されなければならない。全責任を負って経営を担う立場の人が“求める人材”を語るのであるから相当重い発言であり、説得力がある。一民間企業の採用が過度に公平であり、一般人の感覚の“常識”である必要はない。批判する側の“公平”という言葉が暴力的にすら感じる。  発言が仮に“特定の価値観にとらわれない”、“様々な環境を享受できる”、“異文化を受け入れられる”という表現で、”国内一か所だけでなく海外留学経験がある”、“英語がネイティブに近い”などのようにポジティブに表現すれば問題なかったではないか。この表現であればだれでもが賛同するだろう。しかしその主旨で一歩踏み込み、妙な具体性のある“純富山人材はいらない”という表現をしたので過度な批判をされてしまう。一線で活躍してきた経営者の発言の“主旨”に重点を置くべきで、ほしい人材に対して“世間”、“常識”を意識せず尖るべきだ。ユニークなビジネスモデルの企業にはユニークな人材が必要である。普通の要求ではないのだ。世の中の“常識”的な感覚など関係なく、独自に価値観、独自の基準を貫くことが生命線である。  経営者、人事部門は日本の小さな常識など意識せず、もっと尖った基準で判断することに恐れを抱くことはない。強い企業は他にはない強いモデルで、他と比較するものではない、人材も他と比較するものではなく公平などの観点でなくユニークでなくてはならないからだ。

トイレの張り紙 | その他

トイレの張り紙

 クライアントや営業先の会社に訪問する時によくトイレを拝借します。特に初訪のクライアントでは意識的にトイレを拝借するようにしていると言っても過言ではありません。 “いつもきれいに使っていただきありがとうございます” トイレにこのような張り紙があったりします。この張り紙はとても好感が持てます。会社と社員の関係が良好な関係であると感じるからです。社員もトイレをきれいに使っているし、そういう社員に対して感謝をする会社側という関係は高い信頼レベルにあると思うからです。このような会社の管理部門は、管理レベルが高く、社員に対するケアを常に意識しているのだろうと。  “タバコはご遠慮ください”このような張り紙も目にします。このメッセージは、管理部門が社員に強く言えないのではないかと勘ぐってしまいます。本当は禁止したいのだが、禁止と強く言えない立場の弱さの表れかと疑ってしまいます。もしかしたら管理部門が営業や製造部門などの直接部門に比較して弱い立場なのかと。人の採用や配置に対して直接部門が権限を持っている、評価が部門によってばらついている、昇格などが公平ではない、このような状況にストレートに意見を言えない情景を想像してしまうのです。  もっとも警戒するメッセージは次のようなものです。“タバコは吸えないことになっております”このメッセージは危険だと感じます。会社の施設を管理する管理部門が、自分の意志で禁止していないのです。誰かほかの人が決めたルールを伝えているのであり、自らの意思を感じません。“人事考課は公平に行うことになっております”と人事部が言ったら顰蹙(ひんしゅく)を買います。自分の責任でしっかり管理しろと言われそうです。他責、他動的なのです。この後のミーティングに出席する管理部門、人事部門は、主体的に管理をしないのではないかと心配するのです。  会社や社員がよりよい状態になるために管理部門、人事部門はいろいろ考え、さまざまな施策を実施します。新しいことをやるにはそれなりの社内の抵抗などもあるでしょう。このような抵抗を乗り越えて自分の責任で施策を実行してこそ成果が上がります。そのような姿勢と“吸えないことになっております”の姿勢にギャップを感じるのです。  トイレの張り紙を見て、管理部門、人事部門の姿勢を推測し、会議に向かうことがたびたびあります。張り紙と管理部門、人事部門の姿勢にどの程度の関係性があるかは統計的にわかりませんが、“吸えないことになっております”を見ると、実は疑いながら会議に出ています。 以上

組織の病理 | その他

組織の病理

 仕事はすごく面白いのに、会社が嫌で嫌でたまらない。なぜか、そんな愚痴を聞くことが多い。民間企業から公益法人まで所属は様々で、また年齢も異なる複数の知人たちが口を揃えるから、経験やキャリアの違いに帰着させられないことなのだろう。何がそんなに嫌かと聞けば、状況は異なるものの要は人間関係が耐えられないという。  まず多いのは、上司の問題。感情的、場当たり的、パワハラ的、ただのヒラメ、あるいは、とにかく無能。と表現は様々なれど、言っていることは一つだ。まず自分で判断をしない、また判断したとしても間違った判断をする。組織視点からの判断業務をするのが管理職だから、つまりは管理職としての役割を果たしていない。加えてなによりも、それで仕事上支障があるからたまらないというのだ。  ユーザーや顧客にサービスを提供するなかで、やりがいや使命感、手ごたえを得て、自分は仕事をしている(=だから仕事は面白い)のに、ダメな上司との不毛なやり取りがその邪魔をする(=だから会社は嫌だ)。あるべき問題意識や意義、責任感が共有されない上司(あるいは同僚、部下)とのやりとりに辟易し、それが、せっかくやりがいのある仕事そのものを棄損するようにすら感じさせるのである。  サービスや事業の目的は、ユーザーや顧客やあるいは社会に対して役に立つことである。民間企業ならそれによって収益を得、公益法人なら役立つこと自体が存在理由である。だから、上司や同僚がそもそも論を逸脱して平然とおかしな判断や判断停止をすると、「おめえら、なんのための仕事かわかってんのか!」とさけびたくなる。仕事に真摯に向かい合っているからこその、上司その他へのいらだちともいえるのだろう。  ひとりの人間という能力限界を超えて、より大きな働きかけを社会に対してなすために「組織」は生まれた。機能として分業し、統制することで組織力は高まるはずなのに、同時に、異なる志向や想いや価値観をもつ人間の集団ゆえの軋轢もあわせもつ。それが、組織目的、つまりなんのための仕事か、ということに関わる齟齬であればあるほど、モチベーション低下や場合によってはメンタル失調に結果するのではないか。  もしかすると、事業や仕事の目的を意識するかしないか、の違いは結局、就労価値観の違いに帰着するのかもしれない。自分の時間を売って生活費を稼ぐのか、やりがいのある面白い仕事をしたいのか。手段としての労働と目的としての労働の違いである。価値観はそれぞれだから、どちらが良いということもない。ゆえに、その混在から起こる組織の病理なのだとしたら、いかんともしがたい。せいぜいが、ビジョンや理念の徹底した組織浸透、バリュー評価の活用による行動制御により、最低限の管理職役割として「何のための仕事か」との反芻を判断や業務指示の原理にせよと教え込むことぐらいしかできないだろう。  かくて、このような愚痴に対しては、こう答えることにしている。仕事が楽しいのに組織が嫌になる、ではなくて、嫌なことがあるからこそ仕事の楽しさが一層輝くんじゃないの。それがコインの裏表のようにいつもセットなっていて味わえるのだから、幸せだよねー。その人たちには、決して味わえない労働の快楽なんだから。

テレワークの落とし穴 | その他

テレワークの落とし穴

働き方改革一連の施策としてテレワークを導入する企業が増えている。 テレワークとは、情報通信技術を活用した、時間や場所にとらわれない柔軟な働き方で、Tele(遠く離れた)+Work(仕事)の造語である。TelephoneやTelevisionと同じ使い方だ。 テレワークには「雇用型」「自営型」「在宅」に分類される就業形態があり、環境負荷への軽減や企業変革の促進、そしてワークライフバランス向上等の効果があると言われている。 この在宅テレワークを導入した会社があり、導入の際に様々な問題が出たことを聞く機会があった。 この会社は、まず時期を定めてテレワークを導入するステップを定めた。その後プロジェクトチームを発足させ、その目的を明確にし、対象部署を決定していく。 その過程の中で、なぜ会社に出勤するのだろうという理由を挙げて、それを解消することが一番の近道と考えた。理由としては、会社に自席があるから、会議があるから、資料があるから、仲間がいるから、働いている実感があるから等々が並んだ。 それを解消すべくインフラも整え、テレワークをスタートさせようとした際に大事なことを忘れていた。 「テレワークで具体的に何の業務をさせれば良いのか」だ。部課長が揃って何となく考えていたが、結局ルーティン業務しか思いつかない。なぜなら部課長は一度もテレワークを体験していなかったのだ。 結局、テレワークを実際にする社員に何をするのかを考えさせ、周りに宣言させることで仕事の内容は決まった。 次に人事考課だ。人事考課は公平さが要求されることはもちろんだが、部下一人ひとりの仕事ぶりや人間性を的確に把握、洞察する眼が欠かせない。テレワークすることで、日頃の部下の仕事能力、行動力、長所や短所をきっちりとつかまえていないことから起きる考課ミスのケースが出てきたのだ。これは単なるコミュニケーション不足では済まされない、歪んだ主観がまかり通るような低次元の考課レベルに戻ってしまったと再度評価について教育をする必要があるだろう。 人事考課で部下を査定することは自分を査定することだ、いかなる環境下でも自分が部下をどう指導し、育成したかが問われているのだと。 テレワークは今後も普及していくことだろう。それには管理職のマネジメントスタイルの転換が不可欠だ。 慣れ親しんだ目で見える管理手法から、離れた場所でも適切かつ効果的なマネジメントが求められる。 テレワークをすることによって評価が下がったり、あるいはマミートラックに陥るようだと部下はたまったものじゃない。こういった評価がまかり通るようでは職場も有能な人材も壊してしまう。 ぜひ他山の石としたいものだ。 以上

シェアリングオフィスという選択肢 | その他

シェアリングオフィスという選択肢

『民泊』や一般ドライバーの自動車で目的地まで行く移動サービス等、大勢の人々がモノや場所を共有し、必要な時に必要な分利用する、という『シェアリング・エコノミー』は、オフィスワークをする場所にも広がりを見せていて、アメリカを中心に、所謂『コワーキング・スペース』を提供する企業の数が、ここ数年、拡大している。 『コワーキング・スペース』では、一般に、交通の便のよい場所に、セキュリティを確保したプライベートなオフィス空間やミーティングルームを提供すると共に、インターネット等の通信設備やプリンター、TV会議等のオフィス機器を備えている他、カフェ、軽食などリフレッシュメントや心身の健康増進のためのヨガ、瞑想スペースなども提供している他、利用者同士の勉強会など、交流をはかるイベントやセミナー等も開催される。また、同様の拠点を異なる地域に複数持ち、利用者は、その時々で最も都合のよい場所のスペースが利用できる。 フリーランサーやスタートアップ企業などを対象としたレンタルオフィスは、従来から存在していたが、シェアリングエコノミーが拡大する中、Fortune 500にランクインするような大企業の社員の間にも『コワーキング・スペース』の利用が徐々に広がっているようで、情報セキュリティに敏感なIT業界やコンサルティング業界の著名企業でも、『コワーキング・スペース』を利用する社員の数が相当数いると言う。 自社オフィスを持つ一定規模以上の企業の間でも、『コワーキング・スペース』の利用が広がっている背景として、遠隔地に居住している社員、あるいは、クライアント往訪や出張の多い社員が、わざわざ自社オフィスに立ち寄るよりも出先の近くにあるコワーキングスペースで仕事をした方が、無駄な移動時間を節約でき、生産性の向上は図れるという事がある。 また、『コワーキング・スペース』を活用することで、同じスペースを利用する社外人材との交流を通じ、社内では得られない情報や刺激が得られる可能性が広がることを指摘する声もある。毎日、自社オフィスでいつもの同僚と、同じような視点の会話をしているよりも、様々なタイプの社外人材の間で働くことで、よい刺激が生じ、新たな知識の習得やアイデアの創出にポジティブに作用することは想像できる。社員の成長を促すために兼業を解禁する企業もぼつぼつ増えはじめているが、『コワーキング・スペース』の活用の広がりも、そうした考えに通じるところもあるのだろう。 少し前までは、こういう話を企業の人事と話すと、『オフィス以外の仕事場として検討するのは、せいぜい在宅勤務ぐらいで、他社は知らぬが、当社の文化や状況では、『コワーキング・スペース』の利用は到底、考えられない。』と言ったレスポンスが返ってくることは多かった。 だが、最近は、従来の常識や前例にとらわれず、ゼロベースで、本質的な議論をしたいという企業が増えて来ているように感じる。 働き方改革が進行とともに、各企業が労働時間削減や生産性向上の実現に向けて、検討はしているものの、効果的な施策を打ち出せている企業は、まだ数少ない。従来までの価値観や常識の延長線上で、よい施策を見つけるというのは、土台無理だという認識が広まりつつあるようにも感じる。 『最も生産性が高まる働く場所はどこか?』という問いに真摯に向き合っていく中で、自社オフィスでも自宅でもなく、『コワーキング・スペース』の活用が、人事パフォーマンス向上の一つの有効なアプローチとなる企業は少なからずあるような気がするし、この事に限らず、常識や前提をまず否定して、ゼロベースで議論を始めないと改革は進めることは難しい。

身銭を切る覚悟はあるか | その他

身銭を切る覚悟はあるか

 以前、IT企業にいた時の話しである。新卒採用の面接官を担当したことが何度かあった。一通りの質問を終え、最後に、何か質問はあるか、と問うと、様々な質問が返ってくるが、「御社の研修制度について教えてください。」と聞かれることがしばしばあった。  自分自身の成長を考えたときに、会社の研修制度というのは確かに重要な要素だ。学生が気になるのもよくわかる。少しでも充実していた方がよいと思うのも無理はない。しかし、少々引っかかるものがある。今の自分に知識・技術がなくても会社に入ってから、ちゃんと教えてもらえるかどうか、という点を気にしているように感じるのだ。  IT企業ということもあり、新卒採用とはいえ、コンピュータやネットワークに関する知識・スキルが求められるのは当然だが、意外なことに、全く知識を持たずに面接に臨んでくる学生もいる。平然と「これから勉強します。」というのには驚かされる。プロフェッショナルとしてのスタートはすでに始まっているということに気が付いていないのだろうか。  会社が用意している人材育成プランは、会社の戦略を実現するために必要な人材を育成することを目的としている。もちろん、新卒社員向けのカリキュラムを用意している企業は多いが、全くの初心者がそれだけでプロフェッショナルになれるものではない。足りないところは自分で何とかするという気概・覚悟が必要だ。  さて、そういう私もあるとき研修業務のマネージャーに任ぜられることとなり、ITエンジニアとしてのキャリアに区切りをつけ、人材育成にかかわる仕事に転身することとなった。  いざ、新しい仕事にとりかかってみると、圧倒的に知識が足りない。何がわからないのかがわからず、ただ目の前の作業をひたすらこなしている状態だ。  このままではまずい、と、外部の人材育成に関する研修プログラムに参加すべく、社長にお伺いを立てたのであるが、社長から返って来たのはただ一通のメールだった。どうやら私も面接に来た学生と同じことを考えていたようだ。仕事を甘く見ていたのは自分自身だった。 そこにはただ一言、「身銭を切る覚悟のない者は何事も身につかない」とあった。

宴席の闘い | その他

宴席の闘い

呑めないムキにはしんどいが、酒好きには愉しい、宴席続きの季節がやってきた。 酒を“酒として”愉しむようになったのは、40歳を超えてからだ。今思うと、20代のころは、間違いなく酒自体を味わってはいなかった。人と酒を飲む状況がただ面白かっただけである。他愛ない話で盛りあがり、笑い、たまに泣きや怒りがあるも結局は酔っぱらって沈没する馬鹿馬鹿しさが楽しかった。 そんななんでもありの酒宴でも、一つだけ許せないふるまいがあった。「まあまあ、ほらあけて」などと言いながら、無理やり酒を注ぐ輩である。概して酒が弱いメンツがターゲットになったりするから、そこに会社の上下関係があれば、ある種のパワハラである。こうした不快な輩に対しては、ゲリラ戦を仕掛けることにしていた。 注がれた酒を飲むふりをしつつすきを見て脇の植木にでも飲ましてやって、グラスを空ける。すかさず注がれれば、「礼儀として直ちに注ぎ返す」を繰り返して、その当人を泥酔させ潰して差し上げるのである。えてして、宴席パワハラ男は、酒に強いことだけがよりどころなので、ギブアップさせたところで「え、もう飲めないの? まだまだ、これからじゃない」などと言ってあげれば、もう二度と誘ってこなくなるのだった。 こんな禁じ手は別にしても、文字通り勝負というような宴席もある。たとえば、商談中の顧客との飲みの場だ。かつて同僚だった営業部長は、商談の最終局面でかならず宴席を設けた。彼の目的は、接待の場で成約を促すべく歓待すること、ではまったくない。表面的には「接待」をきわめつつ、見事な運びをもって相手が酔い潰れるまで飲ませ、介抱し、ともすれば家まで送り届けることであった。男同士の間では、たかが酒、されど酒である。「どちらがえらいかをわからせてあげればいいんだよ」と彼はいつも嘯いていた。 こうしたわかりやすい勝負ではない、孤独な闘いもあることをあるときに知った。それは、30代のころ在籍していた会社の同僚10人くらいで飲んでいたある時のことだった。なみなみ注がれたビールグラスにいつまでたっても口をつけない男がいたので、聞いてみた。 「あれ? 飲んでないけど酒だめだったんだ?」 「何言ってんの、大好きだよ。だって注いでくれないから」 あ、ごめんごめんと、注ごうとすると、まだ入っているから言って、口をつけようともしない。このやり取りが何回か繰り返されて、彼は、あきらかに一滴も飲まないまま宴席は終わったのだった。もう一回、また別の男で同じ光景があった。言い方は別だったが、本人は酒好きといいながら、実際には一切口にしないという点は、まったく同じだった。そして、この二人には、見事な共通性があったのである。 ふたりとも、詐欺師だったのだ。一人は、結婚詐欺、もう一人は金銭詐欺、ともに詐欺常習犯だった。実は、一人目の男の詐欺が露見して何年かあとに、もう一人の「飲まない男」に出会ったので、もしやと思って調べてみたら案の定で、結果、被害には合わずに済んだのだった。人を評価する、まったく新しい判断基準(かもしれないもの)をこの時知った。 嘘をナリワイとする人たちにとっては、なるほど酒は厳禁だろう。少しでも酔ってしまえば、組み上げた虚構の一角を不覚にも崩してしまうかもしれないからだ。であれば、「自分は酒が飲めない体質」といえばよいのに、そこをまた嘘のやりとりというきわどい闘いを挑んでしまうのが、さすが詐欺師の本能と感服したのだった。