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景気回復基調の中で | その他

景気回復基調の中で

先月発表された、我が国の今年4月~6月期のGDP(一次速報値)は、年率4%の上昇で、11年ぶりの6四半期連続のプラス成長となった。人事コンサルティングの現場においても、この景気回復基調の流れに沿って、『採用強化』と『生産性・付加価値向上』に関する議論が活発にされている。 景気回復による業容拡大に対応するため『採用強化』が、人事の最優先課題となっている企業も多く、採用競争力を高めるため、賃金アップを検討する声もよく聞かれるようになった。 賃金アップをすれば、その分、人件費が上昇するので、経営判断は慎重にならざるを得ないところだが、現状の採用難の中で、背に腹は替えられず、賃金アップを前提とした人事制度設計に取り組む企業の数も増え始めているというのが実感だ。 もうひとつ、最近の主要な課題は、『生産性・付加価値向上』である。このテーマは、従前より長く議論されてきたものではあるが、業務の進め方や社員の取組み姿勢など根本的な領域にメスを入れざるを得ない話であり、その実現には相応の時間と経営のコミットメントが必要な事から、結局、本格的な着手には至らぬまま、集合研修等、表面的な施策に終始して、道半ばで、お茶を濁してきてしまった企業も少なくない。 ただ、そのツケは、しっかり回ってきている。 今更言うまでもないが、バブル期の頃、米国の3分の2程度の水準まで届いていた我が国のGDPは、いまや米国の4分の1の水準程度で落ち着いている。我が国のGDPや生産性も、一定の成長はしているものの、他の主要国の成長率からすれば、ゆっくりとしたスピードであり、その結果、国民全体が生み出す価値のボリュームは世界の中で、相対的にずいぶん、縮んでしまった感がある。 こうした状況にも関わらず、内閣府が先日、公表した「国民生活に関する世論調査」では、現在の生活について過去最高の計73.9%が「満足」または「まあ満足」と回答したとの事。そんなニュースを聞くと、我が国の国民の総意として、『控えめな成長で十分』と考えていると捉えた方がよいのかも知れない。 企業も、今までは、控えめな成長を志向する国民性を前にして、生産性や付加価値向上にむけて、大掛かりな手術や大胆な改革を後回しにしてきたのかも知れないが、最近の議論の盛り上がりは、さすがに、そうはいかないと肌で感じているからなのではないか。 働き方改革が進行し、生産性の低さを労働時間でカバーする事は、もうできない。さらに、採用競争力確保のために賃金が上がり、労働時間だけが減少していくようなことになれば・・・。企業業績がまだ順調な今のうちに、組織の生産性・付加価値向上にむけた改革に取り組もうと考える企業経営者が増えているのも当然の事なのだろう。

CSRの効用 | その他

CSRの効用

 そういえば、メセナという言葉はとんと聞かなくなった。企業の社会貢献が騒がれた時代、メセナ、メセナと騒がれ、採用面接に臨む学生たちがこぞって「御社のメセナ活動は~~~」といった質問を用意したのは、1990年代のこと。同じく社会貢献という意味では、フィランソロピーという言葉もあったが、メセナはとくに、文化・芸術活動支援を指すの一般的だった。  結局のところ、社会貢献活動としてはパトロネージや文化施設投資、あるいはスポンサードといった企業PR的印象にとどまり、バブル崩壊後の企業リストラクチャリングのなかで、いつしか影が薄くなっていったのだった。そもそも企業は、ステークフォルダーズとの関係のなかに存立するから、その社会性が厳しく問われる。文化支援という社会への利益還元も価値あることだが、それ以前に果たすべき社会的責任があるということを考えれば、メセナ偏重が下火になるのは当然ともいえる。  現在ではまさにその社会的責任が、企業の継続的発展(=サステナビリティ)の要件として取り沙汰され、CSRという言葉が定着している。地球環境ヘの配慮、遵法の徹底、企業倫理の維持、よき市民たる企業行動等々、があたりまえのように謳われ、宣言され、内部評価基準としても浸透してきた。ただこれらは、「守りのCSR」であり、それがなされたうえで、「攻めのCSR」こそがこれからは必要だとされている。  攻めのCSRとは、「本業を通じてのCSR」を意味する。ふつうに考えれば、社会的責任を果たすための活動(=守りのCSR)はコストである。フリードマンが批判したようなCSR=フィランソロピーとみての不要コストではなく、企業の存立と継続のための必要コストではあるが、コストであるかぎり利潤とトレードオフである。だからこそ、CSR投資が業績向上をもたらすか否か、といったあたかも広告費的投資とみるような議論がでてきたりもする。攻めのCSRとは、そうではなくて、企業が利潤をうる事業そのものが、社会に対して貢献しているということだ。  よく例に挙げられる住友化学のマラリア感染予防事業では、現地での雇用創出や教育による地域支援を行っていることもさることながら、その中心となる事業そのものがアフリカの人々の命を守る結果となっている。要は、攻めのCSRとは、事業を通じて、社会をよりよくすること(=社会革新)に関わる。もともと企業は、社会に対してなんらかの付加価値を提供して対価を得ているわけだから、社会革新につながる付加価値を創出せよ、ということである。  そこまですべての企業活動に要請すべきか、という議論はあるだろう。フリードマンならずとも、対株主の企業価値を追求するだけでも社会構成単位としての企業の役割は十分に果たしているといえるかもしれない。しかし、企業=人が働く場という観点からは、攻めのCSRへの挑戦は避けて通れないのではないか。  あらゆる業種業態でのAIの急速な実用化やRPA(=Robotic Process Automation)のインパクトは、労働の質を変える。「作業」は人の手をはなれ、高度な判断や思考や創造という「仕事」が労働者に問われる。それは、労働主体である人の側からすれば、役務としての労働ではなく、労働そのもの意義や意味、労働そのものの面白さのための労働という側面が強調されてくるはずだ。そうでなければ、やっていられないから。  そうしたシビアで創造的な仕事のやりがいの源泉はなにか。このコラムでも何度か書いてきたように、組織の構成員のモチベーションを高め、成果達成を促し、様々なアイディアややり方創出を喚起するものは、目の前の業務の「目的」である。つまり、組織の「目的」である。とすれば、社会をよりよくするために何をなし利潤をうるのか、という自社の事業アイデンティティが、自社の構成員を動機付け業務に邁進させる最大のドライバーとなるはずだからである。

10年後の女性管理職比率 | その他

10年後の女性管理職比率

 近年の人事管理では社員を、優秀な社員(ハイパフォーマー、以下HP)、普通の社員(アベレージパフォーマー、以下AP)、優秀でない社員(ローパフォーマー、以下LP)に区分して議論することが多くなった。HP社員、AP社員は会社の主力である。この社員にはできるだけ満足度を高くし、社外への流出を防ぐことが求められる。社員をHP、AP、LPに区分するには、昇格のスピードや評価情報を組み合わせるのが一般的である。その結果HP、AP、LP社員の人数や比率を把握することができる。またどこに存在しているかも明確になる。  この会社全体のHP、AP、LP比率をさらに様々な区分で見ると有益な情報を得ることができる。その代表的なものは“女性活用度”である。男性社員と女性社員の発生率を比較することによって、女性活用がどの程度すすんでいるかがはっきりわかるのだ。同じ総合職社員で女性活用が進んでいると言っている企業は発生率が同じような数字であるはずである。  多くの企業で分析した結果、真に女性活用が進んでいる企業では、この比率が男性とほぼ同じである。このような企業では“女性活用”を大きなスローガンにしていないことが多いのも特徴だ。すでに男女という区分なく人事管理をしているので、あえて高々とスローガンを掲げる必要がないのかもしれない。  活用が進んでいない典型的なケースは、女性のLP比率が高い(HPが少ない)というものだ。女性であると無意識に限定的な仕事をさせている企業もある。その結果成長が男性社員よりも遅く、結果管理職社員の発生も比率も少ない。長い間このような女性の限定的な活用しかしてこなかった企業で、突然女性活用を強力に推進しようとしてもうまくいかない。男性と同じような仕事の機会を与え、同じ評価、育成、処遇を継続的に長期間行うことで、同じようなHP,LP発生率になるのであるから、すでに入社して長い女性社員を無理やり活用しようとしても難しいのだ。  女性活用が二層化している企業も少なくない。近年入社した社員に対しては男女の差をなくす努力をしている企業だ。このような企業では、30歳以上の女性社員はLPが多く、20代の女性社員は男性と同じ発生率になっていることが多く、発生率が二層化しているのである。  このような企業では10年後に女性活用の結果が次第に現れはじめる。10年後には女性管理職比率はまだあまり変わらないことが予想される。20年後にむけて女性管理職比率が次第に改善される段階に入るだろう。30年後にやっと女性活用が企業全体として実現するのである。長い道のりである。  最も不幸な例は、スローガン主導で女性を無理に昇格させたり、管理職ポストに就けることである。女性活用を重視するあまりに、女性であることで昇格や管理職登用に下駄をはかせたりするケースだ。女性活用は今後の人事管理で非常に重要であることは疑いようがない。女性管理職比率を高くすることだけが重要な目標だと思わないが、一つのわかりやすい指標として掲げるのであれば、30年後の目標であることを理解しなくてはならない。そのためには今から男女の差をなくす運用を継続して行っていかなくてはならない。女性活用、女性管理職比率向上をスローガンはいまから30年間変わらずに掲げなくてはならない。10年後の比率は変らない。短期の結果を求めることなどナンセンスなのだ。 以上

「共感」を強制するな! | その他

「共感」を強制するな!

私は、「大自然に接すると、美しいと感じる」ことがありますが、「絵画を見て、美しいと感じる」ことは滅多にありません。 これは、間違ったこと、悪いことなのでしょうか? 私のような感性の持ち主に、「この絵画を見たら、美しいと思いなさい。美しいと思わないと、マズイですよ」という態度で接することは、ある意味、「外から力ずくで、特定の価値観を押し付けようとする非人道的な行為」だと捉えています。 また、反対に「相手の考え方や気持ちがどういったものであれ、それに共感を示す人物」は、「八方美人で、信用できない相手」あるいは「自分なりの考え方や感性を持たず、他者との相乗効果が望めない相手」であって、本音で付き合うには心理抵抗を覚えます。 ところが、人事考課に「共感力に関する評価項目」を設けている企業もあるためか…「相手に共感できないのだけれど、それは自分に『共感力という能力』が欠けているためだ」と悩む、真面目な研修受講生に出会うことがあります。 そんな場合には、まず、「自分とは異なる考え方の相手とのコミュニケーションでは、即座に相手に共感を示すことなんて、できないのが普通です」と話し、少し安心していただきます。 大切なことは、「相手が、どんな考え方や感じ方をしているのか?」「物事をどのように捉えていて、その捉え方には、どんな利点があるのか?」「その解釈や評価の背景には、どんな経緯があるのか?」などについて、「相手や意見の内容をきちんと理解しようと努める」ことだと伝えます。 そういった姿勢で相手に接することで、「自分の内面に、自発的に何らかの感情が生まれ、結果として、相手に共感できる場合もあれば、共感できない場合も生じる」というのが、「自由意志のある人間どうしのコミュニケーション」だと伝えるのです。 この話のミソは、「どんな考え方や気持ちを持っているのだろう?」などと、「自分に関心を持った態度で接してきてくれる人物」は、「異なる意見の持ち主であっても、なかなか嫌いになれない」という点です。 たとえ、こちらが相手の意見に完全に『同意』していなくても、「相手の意見にもそれなりに良い側面があるはずだ」と、関心を持って接していると、相手は「こちらが『共感』してくれている」(共感力のある相手だ)と感じてくれるということです。 このように、「一生懸命に相手の言語・非言語のメッセージを受け取ろうとする姿勢」が、良好な関係構築の基盤となる、「ラポール(※)」と呼ばれる「瞬間的な心身状態」の構築につながります。 そして、さまざまな形で「ラポールを増強していく」ことで醸成されるのが、中長期に渡って安定した「信頼関係」なのです。 今回は、種々のコミュニケーション系研修の基盤となる、「共感力」と「ラポール≠信頼関係」について取り上げてみました。 あなたの会社で実施されている研修は、小手先のテクニック演習になっていませんか? ※ラポール(rapport;「精神感応」と訳される場合もあります) 「この相手となら、今後も話し合っていっても良さそうだという感覚が持てている状態」のことです。 一般には、次の3つの要素がそろったときに「ラポールが形成される」と言います。(1)お互いに対する心の傾注、(2)肯定的な感情の共有、(3)非言語コミュニケーションの同調。 そして、「約束を守る」などいった経験を重ねて、ラポールを強化し、「信頼関係」に育てていくことが重要です。 [ 参考情報: “The Nature of Rapport and its Nonverbal Correlates”, Linda Tickle-Degnan and Robert Rosenthal, Psychological Inquiry 1, No.4(1990), pp.285-293 ]

立川談志さん | その他

立川談志さん

 まだ元気だったころの立川談志さんをよく上野で見かけた。  もう閉店してしまったけれども、上野広小路にあった深夜まで営業している小さな蕎麦屋「さら科」で、夜、呑みつつ蕎麦を手繰っていると、バンダナ巻いた談志師匠が、「オヤジ、生きてるか!?」と入ってきた。客の邪魔にならないよう、厨房よりの小上りにちょこんと腰かけると、親しげに店主と話してる、そのテンポのよさ。高座の噺を聞いているようだった。  いつもは不愛想な店主も嬉しそうで、なにやら写真集を取り出しては、その贔屓にしてるカメラマンのことを話し始めた。ちらと「戦争がはじまる」というタイトルが見える。反骨のカメラマン、福島菊次郎さんの新刊だった。「へえ、そうかい、てえしたもんだな」と合いの手いれながら、愉しげなやり取りがひとしきり続いたと思ったら、唐突に、「じゃあ、またな!」と蕎麦を食べることもなく、出て行った。  恰好よかった。あったかくて、そして小気味よかった。この一瞬、ここに身を置いていた巡り合わせに感謝した。いま思えば、亡くなったあとに夥しい本や追悼番組で語られた家元立川談志の素顔そのものだったし、晩年、噺が語られる時になくてはならないとよく言っていた「江戸の風」が、たしかにそこを吹き抜けたのだった。  なにより、様(さま)になっていたのである。様になるとは、外見や立ち居振る舞いの格好がついていることだ。それは、外側をいくらまねてもなかなかできなくて、経験や取り組みの蓄積だけが可能にする。新入社員のスーツ姿が様になるには、社会人職業人としての物事への取り組み方がわかってきてからだろうし、プロフェッショナルとしての様の裏側には、社会人であれ、芸人であれ、情熱をこめてストイックに打ち込んできた歴史があるはずだ。きっとそこには、技術だったり、製品だったり、ユーザーだったり、対象への深い想い入れや愛情があり、それがその人なりのプレゼンスとして立ち昇るのだろう。  当時、黒門町(文楽)や稲荷町(彦六)の名人たちはもういなかったが、上野界隈には、男振りよい談志が出没していたのだった。縁あってこの地に越してきてよかった、と思ったものである。よく通ったことで有名なのは鰻の「伊豆榮」だが、談志さんにはやはり蕎麦屋が似合う。「池之端藪」や「連玉庵」、少し足を延ばせば、「並木藪」と風情ある蕎麦屋は多いけれども、そんな老舗ではなくて、偏屈親父がやってる小さな「さら科」にいる談志こそが素晴らしい画だった。  最晩年、掠れて出ない声を張り上げて、嬉々として好きで好きでたまらない主人公=佐平次を演じた「居残り」で見せる笑顔が、そこに輝いていたからだ。

ギャランティとベストエフォート | その他

ギャランティとベストエフォート

通信ネットワークでは、ギャランティ型とベストエフォート型というサービスがある。ギャランティ型というのは、通信速度や、中断時間などのサービスの品質が一定以上であることを保証する通信サービスであり、高価ではあるが、安定した通信品質が求められる金融機関や企業の基幹回線などで利用されている。 一方、ベストエフォート型は、インターネット接続サービスが該当する。保証はしないが最大限努力する、というタイプのサービスである。そのような努力がなされていれば、結果に対する責任を負うものではない。たとえば、1Gbpsの回線を契約しても、フルにそのスピードが出るわけではなく、時間帯や周辺の利用状況など、様々な要因によって遅くなることもある。利用する側からすると、フルスペックのサービスは期待できないが、その分低コストに利用できる、ということになる。 これは通信ネットワークに限らず、すべての製品・サービスにおいて同様であり、製品・サービスについてよく理解し、ニーズにあったものを利用することが重要だ。品質を保証するサービスは高価であり、低コストであるということは、品質はそれなりである、というのが原則なのだ。 これを踏まえ、改めて身の回りを見てみると、本当にその価格で良いのだろうか?と思うようなサービスが世の中にはあふれている。 不在でも無料で再配送してくれる宅配便。ほとんど客が来ないのに24時間営業しているコンビニやファミリーレストラン。購入した商品を店の出口まで持って見送ってくれる店員など、このようなサービスは顧客にとっては、確かに便利だったり、気持ちの良いものだったりする。だが、それが企業の収益の向上につながっているのか心配になる。 もともとは、サービスを提供する側の誰かが、顧客のためを思ってはじめたことなのかもしれない。いつの間にか皆がやり始め、当たり前の保証されたサービスになっていく。当たり前になってしまうと付加価値として価格に転嫁できない。だが、現場は過剰なサービスのために疲弊していく。というのはあまりに悲惨だ。価値を保証するのであれば、企業はその分の費用負担を顧客に対して求めるべきだ。そうでなければ、企業はせっかくの努力が利益につながらないし、顧客の要求はますますエスカレートしていき、高品質でありながら低価格という相反するものを追求し続けるだろう。 現在の我が国ではそういった高品質なサービスがあふれており、その利便性、価値を低コストに享受できる、というのは1消費者としては大変ありがたいのだが、このような状態が続くのは健全ではない。 「この商品を今日購入すると、今週中に届きますか?」と問えば、「明日発送しますが、到着は予定より遅れる場合もあります。でも安いです。」というベストエフォートな選択肢があってしかるべきだ。価値あるサービスにはコストが掛かるという当たり前のことを実感できるようになるだろうし、本当に必要な時には「じゃあ、ちょっと高いけど、こっちのサービスにするか」と高品質なサービスを選択することができる。ベストエフォートというサービスが存在することで、ギャランティという選択肢の価値が見えてくるのではないだろうか。

人材育成ミニマリズム | その他

人材育成ミニマリズム

多くのマネージャーの方々は、プレイングマネージャーだ。自組織の目標達成のために、先頭たって邁進し全力を挙げて成果を上げようと日々腐心している。結果、ついつい部下を育てることは後手に回って、「わが社の管理職は、人の育成ができていない」などと社長が不満を漏らし、急遽、社長命令で管理職対象の部下育成スキル研修が組まれたりする。 こうした研修に臨むマネージャーの方々は、部下育成の重要性はもちろんわかっている。人を使って成果を出すのが管理職の役割だなどと講師に言われるまでもなく、そうしたいと思っている。ただ目の前で目標達成が危ういときには、自分が動かなければならないのだ。じゃあ、目標達成できなくても育成を優先しろというのかね、と胸の内でうそぶきつつ、研修会場で身体はいつしか斜めになっていくのだった。 彼らを前向きにするにはどうするか。なにより、教科書的な部下育成論など扱わないことがこの手の研修のポイントである。教えるのは、部下育成ではなく、部下活用。いかに部下たちに、自身の仕事を切り出して渡し、自分がラクになるか。その具体的、実践的、明日からできる方法論である。プレイヤーとして少しでも楽になって初めて、マネジメントに着手できるし、なにより自分にとってメリットがあるスキルを学べる。 一方で、部下活用とは、部下育成の原点である。仕事を渡すとことの延長線上には権限移譲があり、部下にとっては難易度の高い自分の仕事をやらせることは、部下のスキル向上機会の第一歩だ。部下を活用して自分がラクになることは、イコール短期的部下育成に他ならないのである。 問題は長期的な部下育成である。部下活用=短期的部下育成を日々続けているだけでは、なりゆきの育成である。長期的に人を育てるには、ゴールセッティングを必要とする。部下のAさんを何年後にどのレベルに仕上げるか。育成目標と育成計画が、個別に描かれていなければならない。そのためには、個々人のキャリアの将来を意識しなければならないし、強味弱みや志向性にも気を配らなければならない。繁忙極めるプレイングマネージャーにとって、このハードルこそが高い。 部下全員ではなく、ひとりだけの育成ならできるのではないか。手っ取り早いのは、特定部下の育成を強制するしくみにしてしまうことである。つまり、後継者育成。現場起点のサクセッションマネジメントのしくみをもって、自身の後継者候補1~2名に限っての計画的育成をせざるを得なくするということである。たとえば、多国籍企業でよくやられているような、年次で自身の後継者のサクセッションプランを提出させる方式。後継者候補を、所定のアセスメント項目で評定のうえ選び、短期的・中期的に、どんな仕事をさせどう育てていくかを計画化する。それを年次で更新させていくのだ。 部下全員ではなく、特定の1~2名ついてだけでいいから、任務として後継者育成=中期的な部下育成せよ、という限定である。その効用は、単に次のリーダー育成の実践だけではない。特定候補者とはいえ、選び見極め育成を計画化するためには、個々人の能力や志向性、ロイヤリティなど留意し、何をどうできるようにしなければならないかを検討する。その目配りやアサインの配慮こそがマネージャーの部下育成スキルであって、それが強制的に鍛えられるということに意味がある。 おのずとそのスキルや育成意識は他の部下たちにもむく。繁忙なマネジャーたちだからこそ、すぐできる最小限のことからだけ始める。一点突破全面展開の企てを持って。

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー | その他

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー

「情報が共有されない」「レスポンスが遅い(来ない)」「自分も意見を発しない」等、社員のコミュニケーションに課題を感じている企業は少なくない。 組織として、トップと中間層、そして各現場で方針や事実認識が異なってはならないのだが、現実には、社内コミュニケーションが適正に機能せず、トップのあずかり知らぬところで、忖度され、誤った行為が長年行われていたような不祥事が、ここ数年、毎年のように発生している。また、社会的な問題にまで至らないにしても、社内コミュニケーションは、人間でいえば血液のようなもので、組織のどこかで、情報が滞留したり、誤った情報が流通されたり、あるいは、必要な情報発信がされなかったりして、組織全体のパフォーマンスに影響を与えてしまう事態は、多かれ少なかれ、どこの企業でも起こっている。 経営環境が、今まで以上に、予測不能で、かつ急変する中、さらには、働き方改革や生産性向上という国家的課題に取り組んでいく中で、我が国の企業内コミュニケーションの品質向上は最優先課題であり、実際、多数の企業の人事部門が、様々な階層に対するコミュニケーションスキル向上のための研修施策に注力している。ただ、社員一人ひとりのコミュニケーションスキルや意識向上を目指した研修施策に取り組むことは極めて重要なのだが、実のところ、それだけでは十分とは言えない。 より全体的な視点で、組織の情報流通の仕組みやインフラのリデザインといったコミュニケーションの構造にもメスを入れることも当然、必要になって来る。 ただ、こちらの話となると、現状の取組み姿勢に企業間でずいぶんと濃淡があるように感じている。 たとえば、コミュニケーションツールの活用で言えば、TV会議システム。主要な経営機能が複数の地方拠点に分かれている企業等では、日常的に使われているところも多いが、設備は一応あるものの、埃をかぶったまま、ほとんど使われてない企業もかなりある。理由としては、使い方がよくわからない、あるいは、なんとなく、実際に会って話したほうがよいから、といった属人的あるいは漠然とした理由で、せっかくの有効な機器が放置されている。しっかり操作方法を把握し、使いこなせば、もっと業務の生産性は高まるはずだ。 また、電話とメールが、社内コミュニケーションの主要なコミュニケーションツールとして利用されているが、最近では、それに加えてチャットを利用しようという動きがある。チャットは、ラインやフェイスブックメッセンジャーのようなもので、それぞれのテーマごとに、予め複数の相手と共有するチャットルームを設定しておけば、パソコンやスマホで、そのメンバー全員と瞬時にコミュニケーションが出来たり、過去の履歴を遡って、コミュニケーションの経緯を確認することもできるという利点がある。メールだと過去のメールを一件づつ、開けて確認しなければならないが、チャットであれば、その必要はない。また、メールと違い、あいさつ文など、形式ばった文章を書く必要もないところもメリットとして挙げられる。 現時点で、こうした新しいコミュニケーションツールの活用状況は企業により様々だが、これから数年で、こうした新しいツールのバリエーションも増え、今まで以上に急速にビジネス社会に浸透していくというだけは確実だろう。 新ツールの導入に対する主要な障壁は、「使い方が難しい」「従来のやり方の方がやりやすい」といった、おそらく中高年層を中心とした社員のマインドだ。実際、こうした抵抗勢力でも、十分使いこなせるように丁寧に説明することは重要だが、10年後、いや5年後でさえ、いままでのような、電話とメールがコミュニケーションの中心であるということはあり得ないことを認識させることの方が効果的かも知れない。 いずれにせよ、こうした新ツールがビジネス社会に早晩、浸透していく事が、時間の問題なのであれば、組織全体のコミュニケーション力の向上にむけて、他社に先がけ、積極的に導入推進したほうが、経営的に有効と思うのだが、デジタルリテラシーの壁はそれ以上に厚いものなのだろうか。

無駄の効用 | その他

無駄の効用

 働き方改革という波がずいぶんと早いスピードですべての日本企業に寄せてきている。その施策の照準は、ともすればダイバーシティやワークライフバランスに目が行きがちではあるが、要は生産性向上である。  働き方を変えることで生産性を上げ、生み出された時間を、プレイングマネジャーでままならなかったマネジメント業務などの本来業務や、付加価値創出につながるかもしれないアンダーザテーブル研究などに使う。あるいは、個々人が自己啓発や視野拡大の活動に時間を使う。結果、不確実な時代を乗り切れるよう業務品質と人材品質を高めていくということである。  その方法はさほど複雑なものではなく、無駄をなくすための組織や業務の仕組みを変えることと、人々の協業に伴うコミュニケーションの無駄を徹底排除することの2つを検討すればいい。その各社各様の取り組みはさまざまに目にするが、気になるのは、前提されている、生み出された時間の「有意義な」使い方である。その時間を、「無為に」使うことも大事なことなのではないか。  あえて、なにもしないで無為に過ごす時間に使う。個々人があるとき、業務から離れ、あるいは頭の中の思考検討から離れ、今目の前の環境を遠景化して、縁側でお茶を飲むようにぼーっと過ごす。生産性高く密度高く仕事をするなかでの優雅なゆとりは、エアポケットのように心に作用し、もしかすると「ユーリカ!」と叫ぶようなアイディアが生まれるかもしれない。  さらには、生み出された時間を「意味のないコミュニケーション」に使うのもいい。コミュニケーションとは、何らかの目的をもって、人に働きかける、あるいは何かを伝えるということだ。それが自然に円滑にはじめられるきっかけには、意味のない働きかけ=ゼロサイクルが有効だといわれる。例えば、道で近所に人とすれちがうとき、「いい天気ですね?」とか「お出かけですか?」という挨拶。人と人の相互の働きかけをサイクルをかけるというが、そのゼロベース、単に認知し合ったというだけの合図だ。  それは、問いのようでありながら意味も目的もない、ただのコトバのやり取りだ。そこに意味を意識すると、家を出た作家の稲垣足穂さんが「お出かけですか?」といわれて、「よしゃいいんでしょ!」と憤然と家に戻ってしまったというエピソードになってしまう。意味がないことを了解し合ってのゼロサイクルは、交渉や依頼に至る前のコミュニケーションの土壌づくりともいえるだろう。  さしずめ仕事と何の関係もない世間話の時間。縁側(デスクの端?)や井戸端(給湯室?)での無駄話に、生み出された時間を使うのである。無駄にも効用があるから、生産性向上のための無駄取りでそれらの完全排除はすべきでない、と言っているのではない。組織内の、業務上のコミュニケーションの無駄を徹底排除したうえで、改めて生み出された時間をこうした「無為」にも使うこともよいのではないか、と言っている。「なんとなく」ではなく、「自覚的に」である。  無為に使ってもいい時間をうみだすための働き方改革。獲得されたそのゆとりがきっと、付加価値創出や変化対応できる組織づくりにも効くはずである。

MECE自身、モレている | その他

MECE自身、モレている

「Moving Target」(動く獲物)という言葉があります。これは、「狩りに行ったときに、さまざまな情報が集まるまで待って、得た情報を精緻に分析して、正確に銃を撃っても、獲物が動けば銃弾は当たらない」ということを伝える表現として、ビジネスで用いられます。 人々の好みや状況が刻々と変化する市場では、「予測の確度があまり変わらないなら、情報量が少なく、網羅的でなくても、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回し続けることが大切だ」という考えが浸透してきていますね。 また、「渋滞を解消するために道路の拡張を行ったところ、交通量が増え、新たな渋滞および環境汚染を生じた」という話も有名です。 これは、「問題症状の解消(対症療法)は、本質的な問題解決策ではない」という考え方についてお伝えするために、私がコーチを育成する際のテキストで紹介していた例のひとつです。 物事を考えるときに、分解された構成要素のうちの「特定の要素」だけに着目して(要素どうしの「つながり」を考慮に入れず)、問題症状(≠真因)を解消しようとすると、巡り巡って、問題をもっと悪化させてしまうこともあるので、気を付けないといけませんね。 このように、本質的な問題解決に臨む際には、「対象とする事象にどのような因果関係のつながり構造があるのか、システムの境界をどこに設定するか(どの変数を考慮し、どの変数を無視するのか)、想定する時間域はどのくらいか」といった「メンタル・モデル」(Mental Model)についても検討することが大切です。 「動く獲物」の話と「道路拡張」の話について、「MECE」(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの頭字語で、ミーシーあるいはミッシーと発音。意味は、「相互に排他的で、集合的に網羅的で」)の観点から、改めて考えてみましょう。 「論理的思考法を身につける」という場面では、上記のMECEという条件を満たして考えているか、すなわち、「漏れなく、ダブリなく」考えているかを確認するのが大切であると教わることがあります。 ところが、「動く獲物」の話では、「漏れなく」(集合的・網羅的に)考えるのではなく、ある程度のところで、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回すことが大切でしたね。 また、「道路拡張」の話では、「ダブリなく」(相互に排他的に)考えるだけでは、「要素間の相互作用」や「再帰性」などを見落としてしまって、問題が悪化してしまうこともあるのでした。  MECEは、論理思考を進める際の「チェック項目」を意識するうえで優れているのですが、「『種々の要素どうしは相互作用を起こす場合がある』という側面について、考え落としている」ということを認識していないと、「道路拡張」の話のように、安易な問題症状の解消策(問題症状の裏返し)で、逆に事態を悪化させてしまうこともあるというわけです。 取り扱う対象がエンジンや自動温度調節器のようなものであれば、「非生物学的なメンタル・モデル」で考えるのが適切ですが、対象が自己複製や自己展開、自己再帰性などといった特徴を持つ場合、例えば、細胞や動植物、家族や組織、ビジネスや文明などを扱う場合には、「生物学的なメンタル・モデル」の方が有効であることが多いのです。 さまざまなモデルやフレームワークというものは、金科玉条のごとく守らなければならない絶対的なルールではなく、目的や対象に合わせた適切な使い方が大切であること(MECEも常に効果的なわけではないこと)を思い出していただければ幸いです。 以上

見本で気づく | その他

見本で気づく

 『わが子に教える作文教室』という本を読んだ。作者は、清水義範さん。小林信彦、筒井康隆に連なる、注目すべきパロディストと評される小説家だが、この本はいたって真面目に、小学生の作文を個別添削する教室での体験にもとづく“目から鱗”の作文指導術が書かれている。  そのなかで、作文が飛躍的にうまくなるきっかけを発見したエピソードがある。それは、同じ教室の生徒が書いたよくできた作文を見せ、読んで聞かせることだった。それを見た多くの子供たちの作文が、その後各段に良くなったというのだ。なるほど、個別添削という先生と本人の間のやり取りでは分からない、「こんな風に書いていいのか!」、「なんて面白い書き方なんだ!」と思える文章を目の当たりにできる。その気づきが何よりも作文力向上に効くのである。  他者の見本を見て、自分の問題に気づく。このことは、組織人事の世界でも通用する。『わが子に教える作文教室』のこのくだりを読んで、すぐに頭に浮かぶのは人事評価である。一次評価者の評価表を二次評価者がチェックし変更するという閉じた関係では、評価スキルは向上しない。自分のつけた評点が妥当かどうかを判断する材料は、上司である二次評価者の指摘だけであって、しかも上司はむしろ相対評価的視点でのチェックにとどまっていたりするから、自身の評価スキルの問題には気づけない。 作文の例のように、他の一次評価者たちの評価表を見ることによって、自分の評点の付け方が客観視でき、評価のしかたが向上する。人がどう評点を付けているかを知り、自身の問題点やクセに気づき、妥当な評価を共有できるからだ。だから、「評価者会議」(=部下の評価表を公開して行う一次評価者同士の相互検証の場)が、管理職者の評価スキルを上げていくもっとも有効な手法になるのだ。  リーダーシップ開発においても、ロールモデルが大事だといわれる。この人こそ目指すリーダーと思える現実のリーダーを目の当たりすれば、ひるがえって自身とのギャップに気づく。これから自分はなにができるようにならねばいけないかがわかる。このことは、とくに経営人材育成のシンプルな原理である。 社長の方々と会える機会があれば、「いかなる経験が、あなたが社長になるうえで有効だったか」と必ず聞くことにしている。各人各様の、極めて味わい深い見解が語られるけれども、共通する答えの一つは、「優れた社長の側で仕事ができた経験」だった。目の前で社長がどう判断し、どう行動するかを知ること以上の学習機会はない。子供でも大人でも見本例の効用はきわめて大きいのだ。 『わが子に教える作文教室』では冒頭、そもそも子供が作文を書く気になるためのポイントが書かれている。子供がはじめて、しかもしかたなく書いた作文のデキはひどい。字が汚い、言ってることが分からない、接続詞がおかしい、「楽しかったです」とばかりあるけど何があったのか書かれていない、とかとか問題だらけだが、それを指摘してはいけない。まず、ほめる。 「題名がいい」とか「この表現がいい」とか「その場の雰囲気が伝わってくる」とか、どこか見つけてほめる。それによって、書いた子をいい気分にすることが作文指導のもっとも大事な第一歩だという。ただ、なんでもほめればよいわけではない。その子が自分でもよく書けたかな思っているところを正しく読み取ってほめなければならない。そのためには、親が真剣にしっかり読むことが大前提になる。 ここもまた、人材育成で言われる「ほめて伸ばす」に通じるところだ。

諸刃の書物 | その他

諸刃の書物

人は、  本を読まねば  サルである。 こんな出版社の広告コピーを見たことがある。本に書いてあることなんか役に立たない、仕事で大事なことは実践の中で学んでいくものなのだ、とうそぶくビジネスピープルは少なくないが、そんなことはない。本を読むことは、ビジネス以前に、人が人であるために必要な行為だとの挑発的メッセージだった。 優秀なビジネス“ピープル”であるためには、とにかくまず本を読め。そんなしつらえの研修事例をご紹介したい。経営幹部育成の1年間にわたる連続研修なのだが、ひたすら読書を強制する。2か月に一度、経営に関する名著を読ませる。それも、よくある解説本や要約、抄訳ではなく、原著の翻訳、ハードカバー厚さ5センチという重量級本ばかり。 書籍を読むのが事前課題。その理解度確認テストを行い個別成績把握、集合して関連テーマのケーススタディ、終われば実務につなぐ事後課題を提出して1クール。マネジメントや戦略、ファイナンスなど6領域=6クール6冊の本を読むというシンプルな形式だ。全員幹部候補者だから、繁忙である。その中で読みにくい専門書を読まねばならない苦行に悲鳴をあげながらも、やりきった。もちろん、人による明暗、メリハリでるけれども、終われば、実践に役立つとの声が大半だった。 単に知識をうるのではなく、自分なりの、自分の仕事やその将来を踏まえての、「解釈」ができたからだ。著名な著者のマネジメント論や戦略論、リーダーシップ論を真正面から読み込み、事例をもって考え、自身の仕事に引き付ける。そのことによって、自分の業務や役割や自分なりの今まで我流でやってきた方法の「意味」がわかる。知識を得るだけの「子供の学習」ではない、きっちりとした「大人の学習」ということである。 大事なのは、知識獲得ではなく書物を相手どった格闘を通じて自分の考えを整理し深め意味付けることだ。逆に言えば、知識習得にはあまり意味がない。バベルの図書館主たる盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、多くの道具がひとの身体の一部を拡張延長するものーー望遠鏡や顕微鏡は眼の拡大であり、電話は声の、鋤や剣は腕の延長されたものーーしかし書物は、記憶と想像力が拡大延長されたものだといった。 記憶=知識だとすれば、想像力の拡大も含めてこそ、読書の効用なのである。イマジネーションが拡大されるから、解釈ができ意味付けができる。だから、知識だけを獲得すべく本を読むのだったら、それは書物の価値の一部に過ぎず、むしろ余計な知識は邪魔になるかもしれない。中世ヨーロッパのある神学者は、こんなことを言っている。 無知の人の手に書物をゆだねるのは、 子供に剣を持たせるのと同じく 危険なことである。