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コラム

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プレイングマネージャー禁止論 | 人事制度設計

プレイングマネージャー禁止論

 「生産性の動向2015年度版(日本生産性本部)」によると、2014年の我が国の労働生産性は約73,000ドルで、OECD加盟34カ国の中21位、主要先進7カ国で最も低い水準が2005年より続いている。我が国の企業の生産性が低い水準で留まっている背景に何があるのだろうか。  コンサルティングの現場、肌で感じている事をいくつか挙げてみよう。例えば、「業務の分担」の問題。多くの企業で、正社員が非正社員と同様の業務を行っている状況が少なからず見受けられる。非正社員より労働コストの高い正社員が、非正社員と同様の業務を行い続ければ、生産性が低下するのは当然である。そこにメスをいれることができていないのは、誰が、どのレベルの業務を行うべきかというモノサシが現場で確立されないまま、放置されているという事だろう。  次に、「不要な残業」が行われ、それが見過ごされているという現実。なぜ、残業が必要なのか、どのくらいの追加時間が必用なのか、誰もよくわかっていない。残業をマネジメントするための環境が整っていないので、本来は就業時間内に当然完了すべき業務が残業時間に回されたりしても、気付かなかったり、否定することができない。適切な残業基準ができれば、就業時間内に仕事をかたずけてしまおうという意識が高まり、業務の生産性は高まっていくはずである。  もう一つは、「不適切な意思決定プロセス」である。意思決定に無関係な人物まで会議に召集されたり、せっかく会議を招集したのに、延々議論の末、結論をださなかったり、逆に、しかるべき時に、意思決定の場が設けられず、何度も先送りされたり・・。こうした不適切な意思決定プロセスのために、関与者の多くの作業と時間が無駄に使われていることを深刻に受け止めなければならない。  さらには、部下と上司の間で、「適切なコミュニケーションがされないこと」で、無駄な作業ややり直し作業が発生したり、現場における「業務の標準化やシステム化への主体的取り組みマインドの低さ」なども、我が国の生産性向上を阻害する要因といえるだろう。  実際のところ、大多数の企業では、それらを問題として認識している。が、現場の管理職がその他の業務で忙しすぎて、結果、本格的に手が付けられていないというのが実情なのではないか。本来、管理職は日々の実務を行わず、配下の実務者のアウトプットを最大化するためのマネジメントを行うことがミッションであるはずだが、我が国では、バブル経済崩壊以降、長きにわたり、合理化推進の旗印のもと、組織の頭数を抑えるために、管 理職をいわゆるプレイングマネジャーと位置づけ、非管理職が行うべき実務まで、管理職に多大に追わせてきたことで、管理職本来のミッションが機能不全に陥ってしまっている面があるのではないか。また、当の管理職も、非管理職時代から慣れ親しんだ実務を引き続き行うことを会社から許容されている事で、本来のマネジメントはほどほどでよいという免罪符を与えられた感覚になっているのではないか。  厳格に管理職と非管理職のミッションを切り分け、管理職から一切のプレイヤー的業務を取り上げ、四六時中、配下の組織パフォーマンスを高めるためのマネジメント業務にだけ集中させるぐらいの覚悟で、生産性向上に正面から取り組める環境を整えていかなければ、我が国の生産性問題は本質的に解決されないだろう。

評語の標語化 | 人事制度設計

評語の標語化

 評価票の無機質さは、なんとかならないものか。なにより学校の通信簿のような「評語」が大人げない。  コメントはいろいろ書かれているものの自身の評価結果が味気ない評語の羅列で示されている。成績としての良し悪しだけはわかるが、業務遂行や行動におけるリアルなレベルは伝わらないし、だからどうする、が見えない。ゆえに、上司コメントや面談による指導が評価という行為には不可欠とならざるをえない。  評語とは、 1. 批評の言葉。評言。 2. 成績の評価を示す言葉。優・良・可の類。 と辞書にあるが、人事の世界ではもっぱら後者の意味でつかわれる。評語=SABCDとか54321などの評点レベルの表現語、である。ついでに言うと、数字評語は、成績レベルとしては直感的だし、平均処理といったわかりやすい集計処理ができるけれども、アルファベットはいただけない、と常々思う。  評語だけではレベルがわからないから、評価制度ではたいていその説明がついている。それもまた味気ない。たとえば、 S / 5 期待を大きく上回る A / 4 期待を上回る B / 3 期待どおり C / 2 期待を下回る D / 1 期待を大きく下回る といった表現で、味気ないだけでなく、そもそも、4と5、2と1の違いである「大きく」とはなにか。あいまいである。なので、評価者研修では、「期待とは、等級に求められる水準であり、5は、上位等級レベル」だとか、「問題があれば、2。支障があれば、1」などと解説する。  解説がいるくらいなら、評語自体をメッセージ化してしまったらどうか。それならば、見てすぐに自分のステータスがわかる。たとえば、こんな具合に。 ■上位等級レベル。昇格準備  ←S / 5 期待を大きく上回る  ■卒業レベル。要上位課題確認 ←A / 4 期待を上回る   ■等級相応。要ストレッチ   ←B / 3 期待どおり ■問題あり。要確認      ←C / 2 期待を下回る ■業務支障。降格危機     ←D / 1 期待を大きく下回る   いわば、評語の標語化である。標語とは、「主義・主張,運動の目的などを簡潔に示した短い語句。モットー。スローガン」であるから、ここであげた即興例なんかより、もっと自在に、もっと独自表現で、自社にとっての評語表現をメッセージ込めて作ればよい。  評語の一つ目の意味は、「批評の言葉。評言」である。当社にとって、5レベルの優れた人をどう評するか、が標語としての評語作成の出発点である。大げさに言えばそこに、会社の理念や組織哲学が表出するはずであり、味わいのある評価票がうまれるのではないか。  何を評価するかの観点は、多種多様だし、その表現もまたいくらでもある。企業固有でかつ琴線にふれるような文学的表現があってもいいとも思う。最近読んだ本のなかに、人を評する言葉としてこうあった。  佇まいの凛冽、志操の高潔、言動の超俗。

密室の実力主義 | その他

密室の実力主義

 社員の人事制度に“実力”“成果”度合いを強める流れは、今後も強くなっていくだろう。実力、成果主義的な人事制度は、今までよりもより多くの“差”を生み出すことになる。この差は単純に単年度の賞与だけではなく、中長期の昇格のスピードにも表れる。入社して定年を迎えるまで、優秀な成果を出しかつ早く昇格する社員とその逆の社員では生涯の収入差がさらに大きくなる。この差はしばらくすると、成果が普通以上の社員のモチベーションを向上させ、成果の低い社員のモチベーションを今までよりも下げることが顕著になってくる。社員にとっては会社に在籍し続けるか否かも含めて、自己の評価とその結果の処遇は、今までに比較にならないくらい大きな意味を持つ。経営としての狙いは、“信賞必罰”によって、結果として全体のパフォーマンスを向上させるということである。実際には成果の低い社員のモチベーション低下の分を、普通以上の社員に傾斜配分することによって、これが実現するということだ。  この“差”を生み出す人事管理が適正に機能するためには、“成果”と“処遇”の関係が社内で十分な納得性を持って認知されなくてはならない。これだけ大きい“差”を作るのであるから、社員からするとわかりやすく納得できるものでなくてはならない。ルールが明示されていることと、そのルール通りに運用され、それが社員に“適正”であると感じさせなくてはならない。適正に評価を行い、適正な処遇を実現するためには、いくつかの大きな障壁がある。その最大のものは、“結果の公開“であろう。実力、成果主義と標榜するからには、評価とその結果の処遇が自分だけでなく他の社員も含めてわかりやすく公開されることだ。スポーツの世界は非常にわかりやすく、当年度の成績によって査定され、次年度の年俸が決まる。成績によって年俸の増減や額がわかるというオープンな世界である。このような公開された世界では査定そのものや処遇への反映の妥当性が常に衆目にさらされることになる。そのため査定する側も、適正に評価する圧力がかかるのだ。  現在の日本企業の“成果・実力主義”は“密室”で行われている。確かに自分の評価とその結果としての処遇は上司から伝えられるが、他の社員の評価や処遇については全く公開されておらずわからない状態である。自分の評価はわかるが、それが全体の中での位置づけや特定の他の社員と比較したときに妥当性があるかを検証する術がない。成果・実力で処遇すると言っておきながら、情報の公開が十分でないため、制度本来の機能が発揮されていないのではないか。この情報の公開の壁を何らかの形で乗り越えなければ、本当の成果・実力主義とは言えないだろう。 以上

フェミニンリーダーシップ | その他

フェミニンリーダーシップ

 ふたたび、ジェンダーについて書く。  ダイバーシティマネジメントを体現する人材活用の一環として、女性管理職比率を目標設定することがある。それについては賛否両論あって、否定派は、一定数の女性管理職登用を目指すがゆえに、本来の登用基準より低い“女性用基準”が生まれることを危惧する。ひいては、女性の尊厳を傷つける施策だとまで言うむきもある。  しかし多少無理はしても、一定比率の女性管理職を人数枠設けて“外形的に”作ることが早道であることは確かだろう。女性の管理職候補者が育ってきてから同じように選考して、などと言っていたら、女性の管理職が増えるのがいつになるかわからない。だからこその強引な目標設定だったのだから。  そこでの主たる懸念は、このように登用した女性管理職が管理職としてパフォーマンスをちゃんとあげられるか、ということだが、その心配はあたらないのではないか。きっと女性たちは、管理職能力を発揮できるはずだからである。  ある時期から、採用担当者の方々からこんな悩みを聞くことが増えてきた。選考過程で、評価の高いほうから採用していくと、女性ばかりになってしまうので、男性を採るために採用基準を下げざるを得ない、と。これはこれで大丈夫か? という気もするが、それは置くとして、優秀で元気な女性が会社に入ってきている時代である。我々も、研修の場で、女性のほうが自由で創造的な発想をする場面を何度も目撃している。  いやいや確かに女性社員は優秀だけれども、管理職としての能力はどうだろうか、と疑問を呈する方もいるだろう。それなら優秀な女性社員の業務遂行ぶりをよく見てほしい。彼女らの特長は、複数の並行作業の優先順位づけと割り切り、判断の速さである。  仕事も家事もこなすために、定時退社や場合によっては時短勤務を必須として、効率的にかつ割り切った判断で仕事をする。よく言われるようにそもそも家事というシャドウワークは、マルチタスクの並行処理であるから、仕事においても、男性社員のようにうだうだ思い悩まずに進めていくクールさがある。  管理職の仕事の大半は、多種多様な案件の意思決定である。優先順位の高いものから、早く、的確に判断する仕事である。そこには冷徹な割り切りもしつつ、やるべきことを粛々とやっていくことが求められる。かつて女性ならではのリーダーシップを分析し話題なった本『フェミニンリーダーシップ』(マリリン・ローデン)を持ち出すまでもなく、こうした管理職業務が女性に向いていないとはとうてい思えない。問題は、女性の管理職能力ではなく「管理職志向のなさ」にあるにすぎないのだ。  アセスメントセンター方式による昇格アセスメントでは「インバスケット」というシミュレーション演習を使う。管理職の立場でたくさんの案件を短時間で処理するという判断ゲームで、純粋に管理職としての意思決定力を診断するものだ。純粋に、という意味は、会社固有の暗黙知や職場の人間関係や業務情報の多寡によらずに、ということである。  従来の、人事考課の結果と部門長推薦と役員面接による登用決定だけでは見落とすかもしれない管理職能力を診るために、アセスメントの活用が増えてきている。同時に、そうした従来型の登用方式が女性の管理職登用を阻害してきたものでもある。アセスメントによって、予断なく純粋に管理職能力を見極めれば、女性管理職の登用にさほどの無理はなくなっていくだろう。  もちろん、管理職に必要なものは、ここで書いてきた意思決定力、つまり管理能力だけではない。リーダーシップと言ったり、人間力と言ったりする人々に影響を与える力がないと人はついてこないし、管理職としての強い役割意識もまた不可欠だ。それらについての女性たちの適性はまだわからない。もし多くの女性が管理職になりたいと思わないのであれば、その姿勢やマインドからして、このあたりはあるいは不得意かもしれない。  しかしそれも心配はないのではないか。管理職とは役割であって、演じるものである。男性よりも演技に長けているのが女性だという通俗的な女性観が正しいとすれば、リーダーとしての役割を、割り切って演じられるはずだから。

無能の大罪 | その他

無能の大罪

 企業内教育は、個々人のパフォーマンスを高めるために不可欠の施策である。OJTやOff-JTにより、早く求められる成果をだせるようになって、生産性に貢献してほしいから、育成する。しかし、そこで高められる能力とは、企業固有スキルであって、大半は汎用的スキルと重なるけれども、大事なのはその会社ならではの必要スキルである。  だから問われるのは、その会社で成果を出せる能力にすぎない。「あいつは能力が低くて困る」という上司のぼやきは、正確に言えば、パフォーマンスが低い、貢献となる行動をとれていない、という意味で、決して、「能力」そのものを深刻に評価しているのではない。たかだか、いまこの会社で求められる行動発揮に問題があるだけである。  企業で評価されるのは、行動とその結果である。評価制度は通常、業績評価と能力評価のふたつで構成される。その能力評価とは、潜在能力ではなく、発揮能力。その会社で階層別に求められる発揮能力=行動を評価するものである。なので、名称自体も能力評価ではなく、行動評価とする評価制度が増えてきている。  問われるのは、能力ではなく行動である。仮に能力が低くても、行動ができていればいいし、行動ができるレベルにないなら訓練をすればいい。訓練をしても行動ができないなら、その仕事は無理だということだけである。それが、能力が足りないからか、やる気がないからか、あるいは別の何かのせいか、その理由はどうあれ、である。  企業の現場において、個々人の能力の多寡は、重要でない。行動と行動発揮を促進する訓練、つまりはマネジメントが問われるのであって、「あいつは能力が低くて困る」などと、上司に言われる筋合いはないのである。行動発揮が十分でなければ、それなりの評価となり、それなりの処遇になるだけであって、あえて能力を発揮せずに、そうした働き方を選んでいる人だっているかもしれない。  その意味で、従業員の能力のあるなしは、問題ではない。しかし、この上司=管理職者だけは、文字通り能力が問われるではないか。問われるどころか、無能なマネジャーは組織にとって有害といっていい。管理職も役割定義されているから、求められる行動ははっきりしている。ただ、明文化された役割行動をとるだけでは、マネジメントはできない。内外の不測の事態に対応した判断ができるには、「能力」が必要なのである。  その最前線での判断が会社に与える事業的影響もさることながら、たとえば、クレームだったり事故だったりに対して、逃げたり、責任転嫁したり、矢面に立たなかったりする上司を目の当たりにした部下たちはどうなるだろうか。当の管理職者に対してのみならず、任用した会社に対しての落胆、失望、諦観。個々人を活用して、組織としての成果を上げていくしくみである会社にとって大罪である。  管理職役割定義に書かれていることの根幹は、要は、意思をもって、いろいろ工夫して、判断してくれ、ということであり、それには、一定の能力を前提する。そこで必要な能力とは、課題発見力だったり、分析判断力だったり、指導力だったり、育成力だったりいくらでも書き連ねられるけれども、もっとも大事なのは、「意思」と「覚悟」である。  これは、経験によって磨かれるだろうけれども、そもそもそれを持ち得るかどうかは能力だろう。だから、昇格のアセスメントでも、意思決定にかかわるスキルとともに、必ず、「達成意欲」や「姿勢」、「自律一貫性」といったさまざまなスキル名称をもって、それらのレベルを測定しようとする。  よくリーダーシップの要件として、人間力といった言葉が語られる。そこには、ともすれば高邁な人徳や器の大きさのイメージがあるが、それほどのものは必要ない。ただ、意思と覚悟を持てる能力だけは、管理職者には不可欠であり、その意味での無能な管理職者を決して作り出してはいけないのである。

無知は哀しい | その他

無知は哀しい

 恥ずかしながら40歳になるまで、ザルそばの薬味のワサビは、直接そばにつける、あるいは口直しにちょっと舐めるものだとは知らなかった。あるとき、池之端藪の小上がりで独り菊正宗ぬる燗をやりながら、隣の初老の客を見るともなく見ていたら、ワサビをちょんちょんと蕎麦につけると、その部分はつけ汁につけずに手繰った蕎麦の下だけ蕎麦猪口に入れてズズッとすすっている。  真似をしてみたら、その旨いことといったら堪らない。ワサビが引き立て役になって蕎麦の味が香り高く際立ち、口腔をうならせる。後で調べてみたら、薬味のワサビは本来そのためのもので、つけ汁に溶いたらまったく意味がない、と知った。なぜ誰も教えてくれなかったのか、とその時、くやしさに身もだえしたものだった。若い時から蕎麦好きで、たいていの老舗蕎麦屋には通っていた、この20年間は、蕎麦の味を十全には味わえていなかったということなのだから。  なんともったいない時を過ごしたことか。無知のせいで、蕎麦喰いの快楽を実に20年間も味わっていなかったとは。大げさに言えば、食という人生の愉しみについて取り返しのつかない損失である。おそらくは、蕎麦喰いとしては、薬味のインパクトを知っている人が味わう蕎麦の60〜70%の堪能レベルだったに違いない。なぜワサビがそこにあるのかをよく考えもせずに、つけ汁に溶いていた自分が実に情けない。  かくのごとく、無知は哀しい。無知はその本人にとって、豊かになるはずの人生を阻害する。たとえば、歴史の知識がある人とない人では、NHK大河ドラマを面白がる度合いが違うだろう。それもささやかだけれども、人生の豊かさの違いである。知らないからわからない面白さや醍醐味は、きっとあらゆる事柄にある。無知ゆえに、そのこと自体にすら気づかないのだ。  逆にいえば、知識は人の人生を豊かにする。よく研いだ包丁で長葱を切ると細胞をつぶすことがないので、くさみのない、格段に旨い刻み葱になる、あるいはボンゴレビアンコの旨さはちょっと煮立て“乳化”させたソースにあるとか、理屈がわかればしみじみと料理が愉しくなる。漢字や言葉の由来を知れば、それだけで人々の知恵の連鎖に触れ世界は深まる。  どんな事柄でも、理由がわかれば、物事はより面白くなる。企業の階層別研修では、よく、WHY思考というものをテーマとする。WHY=なぜ〜〜を問うことで、たとえば、目の前の業務の意味や、ルールの意味を考える。それが仕事の有意義感や面白さにつながり、また、何をなすべきかがわかる。そうしたWHY思考は、仕事の場だけでなく、実は日常のすべて、生活のすべてのことわりに向けて働かせるべき態度として重要なのである。  「なぜ、この仕事をするのか」、「この仕事の意味は何か」を問うことは、イノベーションの源泉といわれる。ひたすらWHYを突き詰めることで本質まで立ち返って初めて、新しい視点やアプローチ、アイディアが生まれるからだ。もちろん、蕎麦のワサビの意味に気づいたからと言って、生活のイノベーションはうまれない。しかし、暮らしの中のささやかな革新の契機にはなるのではないか。  すくなくとも私はそれ以来、「薬味の効用」に目を開かれ、ステーキを焼くときも、辛子、ワサビ、柚子胡椒、大根おろし、ディル、クミン、ガラムマサラ、梅肉、練唐辛子、晒し玉ねぎ、海苔佃煮、、等々を合わせてみるという、小さなイノベーションに挑戦し続けているのだった。

教え方を教える | 人材開発

教え方を教える

 「共育」という言葉に最初に出会ったのは、2006年「資生堂『共育』宣言」だった。資生堂としては、従業員の成長と会社の成長の重なりという企業が人を育てることの原点を改めて確認するメッセージであったが、それよりも、教育を共育と表現したときに見えてくるシンプルな気づきが、新鮮だった。  なるほど、教え教えられることで、人々は共に育つのだ。教えることによって、教える側も成長するという事情がストレートに喚起される言葉だったからである。  近年、学習手段による学習効果の違いを説明する論として良く聞かれる「ラーニング・ピラミッド」では、もっとも効果が低い方法が「講義を聞く」、次いで「読む」、「視聴する」、「実演してもらう」、「議論する」、「練習する」という順で、学習の定着効果は向上し、もっとも効果的な学習方法は、「教える」とされる。  そんな“理論”を知らなくても、教えるためには、自身の知識を整理し、分かりやすい教える順番を考えなければならないから、結局自分の勉強になることは、誰しも経験のあることだろう。どの会社でも、若手社員がOJTトレーナーや先輩指導員、メンターとして、新入社員を指導するのは、教える彼ら自身の教育も狙いとしている。ただ、この共育事情がたいていは若手社員まででとどまっているのは残念である。  上位階層の従業員が下位階層の後輩を教育するために、「教え方を教える」といったコンセプトの階層別研修があってもよいのではないか。たとえば、仕事は一人前でできるようになった5年目くらいの後輩が目の前の業務に埋没するあまり、疲弊したり、疑問を感じたり、漠然と将来に悩んでいるようなときに、どう指導し、動機付けるか。人が、仕事に前向きに対峙できるための要件の、最大のものは「有意義感」である。だからたとえば、その仕事にどんな意味があるのか、を教えられるようにする。  とすれば、後輩が担っているどんな業務でも、それが、会社全体、事業全体にとってどのような意味があるのか。あるいは、社会に対する自社の価値提供として何を担っているのか。また、自身のキャリアの将来にとって今この仕事をやりぬくことの意味は何か、等々をきちんと教えられるようにするという研修である。そのためには、全社視点や社会視点、あるいはキャリア視点で自社事業と業務を再整理する作業を研修ですることになるから、そのこと自体の本人にとっての教育効果は明らかだろう。  “自分の次の課長の”育成法を教える課長研修は何回か実施させていただいているし、シニア人材が自身の持つ知識や技術を伝承できるようにする研修があっていい。そうした「教え方を教える」研修の一番のポイントは、教えるスキルのインプットではない。そのことももちろん不可欠だが、大事なことは、「自分は“何を”教えるか」、「自分は何を“教えたい”のか」を考えさせることである。ともすれば、言葉になっていない自分固有の方法やスキルを顕在化させることであり、自分の意思や想いを、他者に伝えるべき価値があるかどうか評価することである。  教えることの学習効果とは、経験から学んだことを評価し体系化することである。それが組織の活きたナレッジであり、共育というコンセプトは、昨今喧伝される組織学習やナレッジカンパニーの原点なのである。

高難易度の管理部門人事 | その他

高難易度の管理部門人事

 企業内で管理部門に所属している社員は、営業や製造といった直接部門に比較すると非常に低い比率です。業態や規模にもよりますので比率を正確に出すことは正確ではありませんが、5%から10%程度ではないでしょうか。たとえば人事部門などは社員100名に対して1名程度が適正な人数と言われていますので、社員の中では1%程度の比率ということになります。非常にマイナーな職種といえます。  人事制度を設計するうえで、この管理部門人材のキャリア設計は非常に難易度が高いといえます。これは人数が少ないことと、管理部門のキャリアといっても、いくつかの専門的な分野に分化しており、様々な研修や経験を積まないと優秀な管理部門社員や管理職になれないからです。一般に管理部門では、経理、人事、総務、法務、情報システム、広報などが挙げられます。この中では経理や法務は専門的な知識や様々な経験がなければ実務を遂行することができません。情報システムも他の分野と比較して独立した分野であり、管理部門人材といってもまったく別の職種の人材といえるでしょう。  この管理部門人材の調達育成の難しさは、その人数が大きな影響を与えています。たとえば1000名の企業で経理部が20名だとします。この20名は経理の経験がそれなりになければ決算や財務の仕事などを遂行できません。したがってちょっと経理が忙しいからといって他部門からローテーションで配属しても戦力になりません。また20名であれば毎年新人を配属することできませんので、2年ごとに1名か4年ごとに2名などの配属ペースとなるでしょう。この難しい分野の仕事を行うために1名や2名のために研修を行わなくてはならず、非常に非効率です。営業や生産部門のように多くの新人が毎年配属される部門では新人教育も十分な時間、コストをかけても、効率的にできますが、管理部門ではそうはいきません。  1000名の企業ですらそうこうであるのに200名の企業ではもっと深刻な問題となります。200名の企業で経理部門が5名だとします、計画的に配属するならば8年に1名の配属ということになります。こうなるとよほど長期の視点で持って配属を考えなければうまく循環しません。しかも経理部の社員が一人退職すると営業や生産と比較して極めてダメージが大きいのです。これは経理だけでなく、他の部門すべてがこういった状況ですので、人事管理としては難易度が非常に高いのです。  2000名以下、1000名以下の企業では、管理部門人材を新卒から配属して育成することが本当に妥当なのかということです。このような難しい管理、高いリスクを抱えるのであれば、できるだけ社員が行う業務を少なくして、アウトソーシングや派遣社員の活用を行うほうが合理的です。外に出せない意思決定業務やコアの業務については社員が行うのは仕方ないにしても、他の業務でアウトソーシングできない業務はほとんどないはずです。管理部門人材の調達と育成について再度考える必要がありそうです。 以上

新世代が正しい | その他

新世代が正しい

 ここ数年の若手社員に対する評価として、まじめでそつなく振る舞う人が多くて扱いやすいけれども、本音がなかなか見えない、といった声を聞くことがある。いわく「期待されていることをやればいいという態度が、実にさめている感じで、何考えているかわからなくてね」と。  しかしそもそも、働く場で本音を出すことが必要なのだろうか。こういった指摘の前提には、同じ会社で働くかぎりは、本音をぶつけ合いたいという旧世代の“常識”がある。家族主義経営を標榜しないまでも、どこか、職場の仲間同士は、腹を割った人間的な付き合いも含んだ協働関係でありたいと願っている。それは、快適な環境という面もあるだろうが、一方で「本当の自分」を出さねばならないことがストレスになり、メンタル失調に結果するかもしれない。  役割等級という言葉があるように、企業組織とは、個々人が必要な役割を果たすことが求められる場である。だから、職能給でなく職務給、つまり職務(=役割)に報酬が払われる。人事考課で問われるのは、役割を果たせたかどうか、であって、全人格評価ではまったくない。管理職であれ、中堅社員であれ、また新入社員であれ、役割を果たす。要は、きちんと役を演じることを通じて、結果をだせばいい。本音(めいたもの)を出す、出さないもまた、役の演じ方のひとつにすぎないのではないか。その意味で、優秀な管理職者は、優秀な役者ということもできる。  それでは殺伐とするではないか、という指摘は当たらない。同じ組織目標達成に向けて、真剣に役割を果そうする態度が相互信頼をもたらすはずだし、そこに共感や凝集性が生まれる。そこでさらに、本音の表出など必要ないし、その効用があるとも思えない。もし、本音をぶつけ合うことでパフォーマンスがあがることがあるとすれば、それは、そもそもの役割や目標の設定がおかしかったということである。  かつて企業は、船のメタファーで語られた。であれば、社員同士、一蓮托生で突き進むわけだから、まるごとの人間関係の要請も分かる。しかし、今、企業のメタファーはあきらかに船ではない。多様な人々が交通し、かなり多くの時間を共有し、そのビジョンやミッションにもとづく役割を演じる「場」といったイメージだろう。だからこそ、凝集性の要となる、会社のビジョン、ミッション、バリューがきわめて重要であり、だからこそ近年多くの企業が、自社の存在理由を改めて問い、こうした自社のコンセプトの明確化と発信に腐心しているのである。  ときに、新入社員たちが本音を言えないのは、会社の一兵卒としての緊張からだと、本音を言いあえる場を用意することもあるが、そもそも彼らはそんなことを望んではいないだろう。また、きっとそこでは、そつなく、“期待される本音”を話すに違いない。よく言われるように、傷つくのを恐れ、人間関係全般で、役を演じるようなふるまいが新世代の特性なのかもしれないが、そのことは、まだ古い企業観にとらわれている旧世代よりは、いまの企業組織での働き方の適性が高いともいえる。  「最近の若い者は〜〜」として語られる世代間ギャップの多くは、新世代の方が正しい。なぜなら、新しい世代は、未来人の先行モデルだからである。

脱線予防 | その他

脱線予防

 高い能力があれば、経営幹部になれるかといえば、そうではない。  マネジメントスキルがあり、リーダーシップ行動も実践し、必要な経営リテラシーを充分に持ち合わせていても、大事な局面で感情に流された判断をしたり、自身の名誉へのこだわりで失敗したりすることがある。そうした、優秀でありながら経営幹部として道を誤ってしまうような個人特性を、エグゼクティブ・ディレイラ―という。つまり、エグゼクティブとしてのキャリアから脱線(=derail)する要因。  具体的には、依存的、論争的、尊大、目立ちたがり、回避的、奇抜、不感知的、衝動的、完璧主義、リスク嫌い、感情的、といった性格・行動特性があげられる。もちろん、こうした傾向は多かれ少なかれ、誰しもが持ち合わせているから、問題になるのは、その度合いが強すぎる場合である。ともすればそれが、抑えきれず表出し、経営者としての道を誤らせることがある。  だから、そうしたディレイラ―が低いことを確認することが、役員選抜のひとつのポイントになる。経営者としてのスキルレベルの測定は、「アセスメントセンター方式」によるアセスメントが有効である。シミュレーション環境のなかで、意思決定や行動をさせアセスメントすることで、思考面、対人面、資質面の必要スキルレベルを細かく評点化することができる。しかし、その中では、エグゼクティブ・ディレイラ―の測定はできない。  評価されているとわかっているのだから、アセスメントの場ではうまく立ち振る舞おうとするのが当然である。その能力が高いと診断されたとしても、実際の現場でその能力をちゃんと発揮しようとするかはそもそも保証できない。それは、能力の有無とは別の、真摯さや実直さによる。ましてや問題ある(とたいていは本人も気づいている)個人特性は、診断の場では見せないように演じるはずだからである。  性格診断のような心理テストも十分ではない。やってみればわかるように、項目に答えているうちに、ある程度は“演じる”こともできてきたりするからだ。役員によるインタビューや役員による日常の評価でもその検出は難しい。なぜなら、上司に対しては、「うまく振る舞おうとする」。  ディレイラ―のレベルを診るのは、本人の周囲者、とくに部下の声を聴くのが有効である。インタビューや360度診断によって、部下がその人をどう見ているかを把握する。さきに列挙したような、ネガティブな個人特性は、日常の部下指導のなかで、滲み出るものだし、部下は実に敏感に感じ取っているものなのである。  では、エグゼクティブ・ディレイラ―を持っていれば、経営者失格なのか。しばしば天才的な経営者には、ときに、ここであげているような人間的な欠陥もあわせ語られる伝説がある。ディレイラ―がありながら、脱線しない経営者特性はなにか。  先日、あるホールディングスの社長に「社長たるもの」の要件を聞いた。これは社長になってから日々思うのだが、と前置きしながら彼は、なにより経営のサステナビリティを第一に考えることの重要性を強調し、「社長である“自分”を律すること」と言った。社長こそが(自身が退いた後につながる)経営の継続性を体現しなければならない。それができる自己制御能力・姿勢・意思が社長に備わるのでありさえすれば、ディレイラ―は大した問題ではないのかもしれない。

By Communication | その他

By Communication

 目標管理制度は難しい。  目標さえ適切に設定できれば、あとは、達成できたかどうかを見るだけだから、評価に迷いはないのだけれども、このそもそもの目標の設定が悩ましいのだ。適正な目標の設定は、 1. 組織目標の分解  2. 難易度設定(=等級相応の目標)  3. 目標の表現  が3つのポイントとされるが、これがなかなかできない。  組織目標に連動していなければならない(1.)のに、「自身のダイエット」が目標化されるなんて笑い話が現実にあったりする。また、等級が違うのに同じ目標だったりする(2.)ことも多い。とくに、多くの会社で共通してできていないのが、3.の表現の妥当性。目標表現の基本は、「To be」、つまり目指す状態を示さなければならないのに、「To do」が目標として書かれている。プロセスや行動といった手段だけが書かれ、その結果のゴールが示されていないのである。  ゴールとして達成した状態、その達成水準が示されていれば、期末でできたかできなかったかの判断に悩むことはない。そうできるように、目標=目指すゴール、とそのためにやるべき行動、を切り分けて考えよ、ということだ。要は、「手段を目的化するな」ということである。  「To be」表現の重要性は、とくに定性目標でクローズアップされる。たとえば、モチベーション高い組織状況ならES調査結果、効率的な働き方の定着なら、時間外労働時間数など何らかの定量指標が達成水準と設定されるならいいけれども、そういった指標がない目標もある。だからたとえば、部下育成なら、どのような状態(=レベル)にするかの記述が不可欠になる。若手営業担当が部下なら、独力で顧客訪問ができる、独力で顧客ニーズ把握ができる、独力で提案ができるレベル、といった書き分けということだ。  では、目標として、「コミュニケーションのよい状態」というゴール設定はありうるか。  まず、コミュニケーションの良い状態とはなにか。それが特定できなければならない。口数の多い組織、一体感ある組織、和気藹々組織、阿吽の呼吸組織、、等々とあいまいではあるができなくはないかもしれない。しかしそもそもの問題は、コミュニケーションとは、「手段であって目的ではない」ということだ。だから、この目標は成立しない。コミュニケーションもまた、目的と手段が混同され使われがちな言葉である。  人事部の方々から、社内のコミュニケーションを良くする研修をしたいとの御要請をいただくことがある。しかし、コミュニケーションは手段であるから、大事なことは、コミュニケーションをよくすることで解決しなければならない組織課題はなにか、ということである。その課題の内容により、どの種のコミュニケーション機能をつかうか、あるいは、誰に、どのようなコミュンケ―ションスキルを身につけさせるかは変わってくるし、もしかすると解決手段はコミュニケーションではないのかもしれない。  手段としてのコミュニケーションには、明確なさまざまな機能がある。相互理解や伝達、意思疎通、共感形成といった情報の交換・交流だけではなく、行動促進や交渉、さらには情報の創造という機能もある。創出的なディスカッションはよく経験することだし、コミュニケーションするなかで意味が生まれることもある。そのためのスキルを教えることもできる。統合した会社のビジョン作成セッションや風土改革には、複数のコミュニケーション機能を組み活用したりする。  そうしたコミュニケーションのどの機能を使って、あるいはスキルを磨いて、どのような組織状態を実現するのか。組織のコミュニケーション課題とはつまり、「For Communication」ではなく「By Communication」なのである。

「管理」という誤訳 | その他

「管理」という誤訳

 Managementを「管理」と訳すからいけないのである。  マネジメントは「経営」であって、管理ではない。だから、マネジャーは管理職ではなく、経営職である。そのことは、多くの人が分かっているけれども、言葉のもつ力は強い。「管理」というラベルがついているために、ついつい、課長という管理職者は課の経営ではなく、まず管理をしてしまう。役所のような手続きに気を配り、木を見て森を見ないようなマネジメントをしてしまったりする。  だから、管理職階層の名称を経営職層としている会社は正しい。正しいラベルをつけておけば、ときに人事部の方々から管理職研修で要請される「管理職は、非管理職のプレーヤーとはちがい、経営サイドの一員であることを分からせてほしい」といったこともなくなるだろう。名は体を表すのだから、その名称は極めて重要である。  誤訳の最たるものが、「目標管理」ではないか。目標管理がドラッカーの言ったMBO(Management by objectives)の翻訳だとしたら、この誤訳の弊害は甚大である。まず、目標管理という言葉は、「目標を管理する」と読める。部下たちの目標を管理することを目的化してしまい、目標の設定と達成度の把握だけに注力してしまったりする。  原語を知っていれば、逐語的に訳して、「目標による管理」と理解する。これは幾分ましではあるけれども、まだ組織目標を分解して達成を図るという組織のオペレーションや個々人の業務管理のニュアンスに留まる。「目標による経営」と言ってはじめて、マネジャーが部門経営の意思と責任をもって、組織成果と人材活用の最大化をめざし、人々の目標という“ツール”を工夫凝らして駆使することになる。  もちろん、ラベルはどうあれ、そうした含意を理解していればいいだけのことだから、マネジャー昇格時にきっちり教えておけばいい。ただ、繰り返しリマインドしないと、管理という言葉のパワー(言霊?)に侵されかねないから、評価者研修や管理職研修では、目標管理(MBO)の意味を必ず強調し再確認することをお勧めする。  ついでにいえば、そもそもドラッカーは「Management by objectives and self-control」と言った。目標を設定し、自律的な業務遂行を促すということである。いちいち指示しなくても、部下が自分でやるべきことをやっていく、そういうマネジメントのことである。つまりそれにより、マネジャーが楽にならなければならない。  ともすれば、管理的な観点で正しい目標設定に腐心するあまり、目標管理制度の運用で多大な時間と労力がかかったりする。それでも、それにより部下が自律的主体的に動いてくれればいいわけだから、そうした目標たりえているかが一番問うべきポイントだろう。あるいは、決め事やルールに縛られないマネジャーの裁量性と説明責任による目標管理制度の自在な運用が、もっとさまざまに、あってもいいのではないか。  Manageとは、意思をもって、いろいろ工夫して、やりとげる――をもともとの語義とするのだから。