©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

コラム

column
描写 | その他

描写

 3年ほど前ある情報システムの企業に訪問しました。訪問したタイミングは新しい人事制度を導入した1年後くらいでした。制度を導入したのですが、効果が実感できないということです。 この企業は顧客からシステム開発を受注する企業であり、業績は大きな成長はないものの、大口の顧客からの安定した受注で堅調でした。しかし新任の社長はより高い成長を目指す方針で、既存の顧客だけでなく、新しい顧客の開拓に力を注ぐということになったそうです。既存の顧客に対するシステム設計開発、運用のノウハウは、他の企業に対しても展開が可能なもので、十分に競合優位性があると判断しています。そのために“ソリューション営業部”という新設の部を設置して、新たな顧客開拓に着手しました。また長らく大口の顧客からの安定した受注があったため、社員の意識も、常に新しいビジネスチャンスを考え新たな顧客開拓を積極的に行うというものではありません。新社長はこの社内の雰囲気、風土、社員の意識を変えることが重要と考え、15年ぶりに人事制度の改定を進めたということです。 この企業の人事制度改革がうまくいかなかったのは、新しい人事制度が、実際の企業のビジネスモデルを忠実に“描写”していないことであると思われます。新たな制度は非常にきれいにできていました。人事の方針として、“新たなビジネスを自律的に創出する人材”を掲げ、“常に環境変化に対応してビジネスを本質的に考える”“失敗しても積極的にチャレンジする”という文言が並んでいます。  実際にこの企業ではビジネスのほとんど大半が、既存顧客からの受注であり、この顧客に対する安定したサービス提供に大半の社員が関与しています。確かに既存顧客に対しても、顧客リレーションを強化したり、周辺システムへの積極的な提案などを行えば、売上の伸長はあるかもしれませんが、それでもこのようなアカウントマネジメント的業務はほんの一部の社員しか関わりません。大半の社員にとって重要なのは、顧客に対し既存の得意分野で誠実、柔軟に対応するマインドやスキルなのです。新たな“ソリューション営業”は今までのビジネスのモデルとは大きく異なります。新たなサービスや新たな顧客を開拓するのは、現在のビジネスを安定して行うことと全く異なるマインドやスキルが求められますが、全体としてはほんの一部なのです。 単純に言えばほんの少数の社員に対する意識や能力の在り方を、全体の人事制度の中心に据えたことが、実態と合わない制度となってしまった最大の原因でした。既存のビジネスを担当している社員に対して、“失敗を恐れずにチャレンジ”であるとか“常に新しいビジネスの創造”、“自律的に行動している”という評価をしようとしても、まったく現実とかけ離れているということです。大半の社員にとっては、失敗は致命的ですし、新しいビジネスネタを探すのではなく目の前のサービスに注力するべきですし、過度に“自律的”である必要はないのです。実態と遊離した考え方で処遇されることに構造的な問題があるのです。 人事制度で美辞麗句が並んでいるものには、現実と遊離しているコンセプト先行で作られているものが多いと感じます。経営の実態を描写することが基本であるということが重要ということです。 以上

藤田田さん | その他

藤田田さん

日本マクドナルドの創始者だった藤田田さんと定期的に会っていたことがある。といっても裏方に過ぎなくて、同社の広報誌に掲載するため、各界の識者との対談をコーディネイトしていたからだ。誰と会っても、臆することなく語る藤田さんの商売哲学は、独自の視点と商売の論理に裏打ちされたゆるぎないインパクトがあった。なにより、その強烈な主張にたいていのゲストがたじろいでしまう様は、見ていて痛快だった。 ある新進気鋭の学者は、アカデミックな観点からの消費論を展開すべく意気込んで対談に臨んだけれども、藤田さんの堅固な商売感覚に対してまさに蟷螂の斧。用意してきた論点や主張は、「それって、いくら儲かります?」という切り替えしに沈んだ。終了後、帰りのエレベータの中で肩をおとし、「何言っても、あれだ。ぜんぜん聞いてくれないんだものなぁ」とぼやいていたものだった。 ある人材派遣会社の社長には、「あんたは鵜匠ですな」と言い放ち、むっとしている相手に一切構わず、とうとうと自説を語ったこともある。ときに、意気投合する相手もいて、そうしたときの盛り上がりは半端ではなかった。当時、社会経済システムをテーマにした話題作を発表していたある小説家とは、日本の植民地支配や共産主義をめぐって、とてもここには書けないような発言を連発しては、「そうそう!」、「まったくそのとおり!」、「世論は、間違っているけど、実は〜〜〜」、「ですよね〜!」と、対談時間は大幅に押したものだった。 まさに天衣無縫の振る舞いで、政治家であれ、企業の社長であれ、高名なジャーナリストであれ、まったく同じように、聞きたいことを聞き、言いたいことを言う。そこには、いつも、一貫した現場の商売論と無邪気なまでの好奇心があった。全店の数字をリアルタイムで把握して、店舗に足を運び、従業員に話しかけるという日々。いつも、ネクタイピンもカフスボタンもマクドナルドマークだし、さまざまなキャンペーンを自ら発想し、指示していた。あるとき、広告の仕上がり見本にあるコピーの「春です、得です」を見た藤田さんは、「得です、ではだめだ。お得です、にしなさい」と広告のコピーさえも、直接変えてしまうのだった。 当時人気の時代劇で“裏の仕事人”役だったある役者には、「毎回結構な謝礼をもらうけど、あれは、どこに貯めているのですか。家族の眼もあるし、あまり使っているように見えないし」と、真剣に、劇中人物への質問をした。返答に窮して、あいまいなことを言うのをさらに追及して困らせていたものだった。こうした無邪気な好奇心は、誰に対しても向けられ、だからこそ、ストレートな物言いや強烈な商売論に辟易としながらも、しだいに藤田さんの筋金いりの商人ぶりが無邪気な好奇心と表裏一体であることが相手にもわかってきて、対談の終わりはいつもよい雰囲気だった。 そして、対談が終わると藤田さんはいつも、お礼としてマクドナルドの店舗で使える無料券の束を手渡すのだった。どのゲストにも例外なく、堂々と。

5年後 | その他

5年後

 日本企業の5年後はどうなっているだろうか。  現在より少子高齢化は着実に進んでいる。高齢化により内需は次第に縮小することになるだろう。さらにオリンピックによる一時的な需要が無くなることになる。税金、社会保障費負担が増すことも確実である。5年後には急速に企業業績の低下が予想されるのだ。そのため現在の日本企業の経営は非常に重要な局面に立たされていると言える。グローバル展開を進め、日本市場が縮小しても力強く成長することを指向しなければならない。国内市場を対象にしている企業は、新たな需要を生み出す商品・サービスの開発投入を急ぐか、競合企業に対しての優位性を高めなければ生き残れない。残り数年で経営の革新をしなければ、今の延長線では魅力的な企業として存続できないばかりか、存続そのものが危機に立たされることにもなりかねない。この状況に対して経営の重要な部品たる人事は十分に対応しているだろうか。今後の環境を予測して、計画的かつ抜本的な改革を行っている企業もあるが、強く意識していない企業も多いと感じる。  5年後急速に業績が低下すると、多くの企業は中高年社員をターゲットとした人員削減をかつてない規模で実施することが予想される。バブル崩壊後のリストラ時に“団塊の世代”の人員削減が行われたが、この規模を大きく上回る大リストラ時代が来るのだ。この背景には日本企業の人事管理が、いまだ年功的であることが大きく影響している。多くの企業の人事制度は“実力・成果主義”を標榜しているが、実際に実力・成果をストレートに反映しきれていない。換言すれば年齢との関係性を断ち切れない状態にあるのだ。そのため年齢が上昇すると人件費が上昇する、管理職が多すぎるなどの問題が放置されているともいえる。業績が悪くなると、人材育成投資を削減するので、この20年間十分な教育がなされたとも言えない。生産性の低い、処遇の高い大量の中高年社員を抱えきれなくなった時に、大規模人員削減を実施することになるだろう。  今後の厳しい環境をチャンスととらえるためにも、人事は思い切った施策を早急に実施する必要がある。社員の能力の向上は待ったなしであろう。新たなビジネスチャンスの獲得、競合優位性の向上のための人材育成を急ピッチで行わなくてはならない。また過去の延長線での制度改定ではなく、5年後、それ以降の環境を予測した“実力主義”の人事制度に早急に転換しなくてはならない。“評価があまい”、“給与を下げるとかわいそう”などと言っている場合ではないのだ。  企業の人事は岐路に立っている。5年後が一つの転換点とすると、今手を打たなければ間に合わないということを再度認識する必要がある。 以上

一言で言え! | その他

一言で言え!

コンセプチャルスキルといえば、ロバート・カッツが提唱した管理職に必要な3つのスキルカテゴリーのひとつで、かつ最重要とされる。日本語では、概念化能力。物事を俯瞰して概念的・抽象的に把握し、本質をとらえる力を意味するというと、なにやら仰々しいが、要は、「要は、〜〜〜〜である」と一言で言える能力ということである。 しかしこれが難しい。一方で、管理職者に必要な能力として、分析能力というものがある。物事を分解して問題を特定し、原因を検討して、その構造を明らかにする。問題解決に際しては、この分析能力も大事だが、それだけだと、ともすれば、分析は見事でありながら、本来の問題解決とは無縁の答えになったりする。 概念化能力の伴わない分析能力の弊害とは、譬えて言えば、問題の事象を分解し、細かく分析をした結果を、もう一度組み立ててみると、あれ、これはもうぜんぜん違う問題じゃないか、といった事態。管理職の方々が、こんなこと指示したっけ? と部下のアウトプットを見て首をひねる時も、得てしてこのようなことが起こっていたりする。つまり、それが目の前の課題であれ、あるいは事業判断の局面であれ、いきなり分析的、要素対応的に対峙してしまい「要は何なんだ」という本質が見えなくなってしまうということである。 顧客や上司に求められ、なんらかの企画提案をするときの失敗の多くは、こうした概念化力の欠如による。その典型例は、相手から「そもそも、欲しい提案と違うけど、何しに来たの?」という気配漂うやるせない失敗の状況。顧客や上司は、課題やニーズをいろいろ言うが、それらは、ほんとうに困っていることなのか、単なる思い付きなのか、レベル感バラバラである。それらの言葉に対して、分析能力だけを発揮したときに悲劇は起こる。 ときに、自分がやりたいこと、実現したいことが、顧客自身や上司自身にわかっていないことさえある。心理カウンセリングの世界には、本人が語る相談目的と「主訴」は異なるという原則がある。同様に、顧客や上司が、自身の真のニーズに気づいていないことだってある。ポイントは、語られる話の全貌や背景となる会社状況を、俯瞰し、本質を仮設すること。顧客の個々の言葉にまどわされず、要は何がしたいのか、何を解決すべきなのか、を把握できさえすれば、少なくとも的外れな企画提案は起こりえない。 では、概念化能力を高めることはできるのか。つねに視点をあげる、WHYをしつこく問う、つねにコミュニケーションのメタレベルを意識する、あるいはコンセプトメイキングのフレームワークを学ぶとか、方法はいろいろあるだろう。一番簡単な方法は、どんな問題も課題もニーズも、常に「一言で言えば、どういうことか」と考え、なにがなんでも、言葉にしてみるということではないか。それを、徹底することで、きっとコンセプトというものが見えてくる。 うだうだ説明する部下にいらだち、「要は何なんだ!? 一言で言え!」とどなる上司は、正しい部下育成を行っているのである。

給与情報の公開レベル | その他

給与情報の公開レベル

コンサルティングをしていると、企業間で、人事上のポリシーに、大きな隔たりがある事を時々、感じさせられる。たとえば、社員の給与や評価結果を社内でどこまで公開するのかという事も、その一つだ。評価結果は、大変、個人的なものであり、ラインの上司と人事部しか知るべきものではなく、他部門であれば、役員クラスでも、公開されないという考え方を持つ企業もあれば、管理職以上であれば、自分の所属階層以下の社員の評価結果については、だれでもアクセス可能で、むしろ積極的に部門間どうしで、評価に対して意見を求めあい、より適正な評価を行っていこうという企業もある。 給与額についても同様で、法的な観点もあり、さすがに、一人ひとりの給与明細を社員全員に公開しているところはあまり見かけないが、人事制度で決められた各等級の給与レンジや賞与額決定ロジックや月数を社員に公開していて、役割やポジションにより、おおよその給与水準が推測可能にしている企業もあれば、給与レンジに加え、誰がどの等級であるかという事さえ、本人以外には、一切、公開していないという企業まである。 このように、処遇に関する情報開示ポリシーは企業により様々であるが、給与額情報をある程度、積極的に公開していこうと考えている企業が、今、徐々に増えているように感じる。その目的は、どんなパフォーマンスや役割を担えば、いくらの給与が期待できるのかを社員に明示する事で、給与支給の透明性が高まり、社員のより高いパフォーマンスを引き出すことにある。他人と比べた自分の給与状況を知らされると、より熱心に働き、業績を伸ばしたという研究結果もあるようだ。また、給与の透明性を高めることで、男女間での給与格差是正にもよい影響が期待できるという声も聞く。 一方、いままで、給与レンジや賞与額決定ロジックを公開してこなかったのは、社員に対して、なぜ、その給与額や賞与額になったのかをうまく説明することができないという理由によるところが多い。給与情報の公開をすることで、適切で合理的な給与・賞与決定メカニズムへ整備を促進していこうと、経営や人事が、一歩、前進していこうとする意思の表れでもある。 そもそも、企業サイドがいくら、給与情報を秘密にしようとしても、社員間で給与明細を見せ合うことまで、止めることはできないし、最近では、匿名で社員や元社員が、給与情報を提供して、ネット上で、かなり具体的な月収や手当額まで、わかってしまう時代である。こうした大きな流れに対抗して、企業サイドで、情報を制御していくことはますます難しくなっていくだろう。社会の情報開示のトレンドが進行する中で、社員のパフォーマンス向上や優秀な社員の獲得・維持のために、給与情報や決定メカニズムの公開がより進んでいくことになるだろう。

休みたくても休めない | その他

休みたくても休めない

 世界に類を見ない少子高齢化社会に突入し労働力不足が懸念される我国では、女性の社会進出機会をより高めようと、さまざまな工夫がなされています。国の主要な制度として育児休業の制度が施行されています。個々の企業においても、子育ての期間は転勤をしなくても済むようにする転勤猶予期間の制度、実家を離れる心配のない地域限定の働き方、通常より短時間の勤務など、さまざまな工夫がされています。保育施設を提供する会社もあります。  こうした努力にもかかわらず、女性にとって働きやすい社会になったという評判は聞いたことがありません。子供を育てながら働くというライフスタイルを諦める人はまだ数多くいるようです。その理由を尋ねてみると、「周りに迷惑をかけたくないから」というのがたいへん多い。育児休業制度があるのだから大いに利用すればいいじゃないか、育児休業から復帰した後も、職場の皆が協力すれば・・といった単純な意見は、現場を知らぬ者の妄言として退けられてしまいます。誰かが勤務を休めば、他の誰かがカバーしなければなりません。育児で休まざるを得ない人がいて、その穴を埋めるべく頑張り過ぎた仲間が、心身の健康を損なうような事例も少なからずあるようです。  調べてみると、職種によっては比較的休みを取りやすいものがあります。育児休業の取得状況を見ると、化粧品等の販売職、航空会社のキャビンアテンダント、看護師、薬剤師、といったような職種においてはその率が高いようです。女性が多い職場なので理解があるというのも理由のひとつでしょうが、業務が標準化されているということも重要なファクターであると考えるべきです。たとえ臨時の補充であれ、きちんと訓練された人が確保でき、定められた業務標準に基づいて仕事をしてもらえれば、業務品質を落とすことなく一定のアウトプットを出すことができます。だから、職場に無理を生ずることなく安心して育児休業の制度を活用したり、子育ての事情に応じて休みを取ったりすることができるということです。  多くの職種においては、これと反対のことが起こっているのでしょう。つまり、業務標準化の程度がたいへんお粗末で、職務標準に則った実務訓練も行われていない。だから、ある特定の担当者がいなければ業務が前に進まない、つまり「余人をもって代えがたい」状態になっているのです。誰もカバーに入れない、無理にカバーしようとすれば担ぎきれない荷物を背負うことになります。  わが国では、もともと、業務量の変動によってたやすく社員を解雇することはできません。会社はどんなことがあっても社員の雇用を守る、その代わり、社員はどんな仕事でも何とかしてこなす、という交換条件が自然に成り立っています。だから、「あなたの仕事はこれとこれ」、「手順はこのようにして」・・というような業務標準化がそもそもなじまないと考える経営者や管理者が多いようです。マニュアルなど作ったら、それ以外の仕事はしません、と言われて仕事にならない、下手な決まり事は作らないほうがよい、などという意見もよく聞きます。なんでも曖昧にしておくほうが、何かと融通が利いて便利だというわけです。これでは、個々の社員に仕事が付いて回り、代替性が損なわれますから、いつまでたっても子育てをしながら働こうという女性の労働力を招き入れることはできません。  時代は変わりました。十分な労働力を確保するため、子育てをする女性が安心して職場に参加できる環境を作らなければなりません。そのためには業務標準化と実務訓練の有り様をもう一回見直す必要があります。業務標準化には、短時間で手早くアウトプットを出し労働生産性を高める効果があります。加えて、人の代替を効かせるという重要な効用があります。したがって、業務標準化は、女性の職場参加にとって不可欠な要素です。もはや、業務標準化と実務訓練というめんどうくさいプロセスを避けるために「なんでも曖昧にしておいたほうが、融通が利いて良い」などと言っていてはいけません。スローガンを掲げて旗を振っているだけでは問題は解決しないのです。

好き嫌い | その他

好き嫌い

 「自分は~~」と話す若者が好きだ。対して、「自分的には~~」、「私的には~~」と話す人々は大嫌いである。  「私的には~~」の、「的」とはいったいなにか。「私に言わせれば~~」と言われれば、あんた何様? とその上から目線が気に入らないものの、まだそのスタンスはわかる。そこまでのきっぱりさもなく、「自分の感覚や好み、考え方からすると、~~~なんだよね、ま、あくまで私としては、なんですけどぉ~~」といったズルさの透けて見える自己主張に虫酸が走る。  と、個人的な好き嫌いで暴言を吐いている私が、さて、期末の評価時期を迎えたとする。この手の人が部下だったら、きっと悪い評価をつけたくなる。業務上のミスをしたとしても、「自分は~~」と話す部下だったら、そんな悪い評価はつけないかもしれない。だって、私は好ましい姿勢だと思っているから。  こんな風に人々が評価されないために評価制度はある。評価制度は、会社として、とってほしい行動、なってほしい人材像を基準として提示して、それに即してのみ、出来不出来を判断してくれ、というメッセージである。会社としての良し悪しを、会社としての基準でみる。これに対して、好き嫌いによる判断は、上司である自分の中の基準(価値観だったり、人生観だったりの)による判断である。  自分の“中にある”基準は、もちろん、信念をもって持ち続ければいいけれども、部下を評価する基準は、自分の“外にある”共通の基準でなければならない。何を当たり前のことを殊更に言っているのかと思われるだろうが、好き嫌いは知らぬ間に、評価者の眼を曇らせることがある。価値観がまったく異なる人の行動は、理解できない分、バイアスがかかったりする。  管理職の方々は誰しも、評価に臨めば好き嫌いの感情で判断しないようにとして自分を律しているはずではあるが、好き嫌いのベースには価値観、ともすれば人としての善悪判断につながる個々人の軸があったりするから、厄介だ。とくに、評価を通じて部下を成長させようと考える真面目な管理職者なればこそ、自身が良かれと信じる指摘、指導をしてしまう。それが、個人的な価値観の押しつけになったりする。  多かれ少なかれ、評価やその結果としての処遇には、好き嫌いが入り込むのが、人々の関係の束=組織の宿命かもしれないし、家族主義経営的な日本企業の良き文化というものもそこにあったかもしれない。しかし現代の組織は、ダイバーシティである。性別や年齢や国籍といった外形以上に、その内面の価値観や嗜好、大げさに言えば生き方のスタンスすらメンバーごとに多様に異なる。  とすれば、今まで以上に自分の“外にある”基準、会社が定める評価制度、評価基準に即した評価を徹底しなければならない。そのためには、管理職たる者、資格等級定義や職位の役割定義は完全に頭に入っているのは当然として、業績評価にしろ、行動評価にしろ、評価基準を理解し、自部門における具体基準を、言葉にして語り、また、それで指導、評価できなければならない。  徹底して、会社が定めた基準だけに準拠する。部下育成とはこうあるべきとの自身の信念をもつ方々には、なんとも窮屈かもしれない。そこは、手あかにまみれたこの言葉を呟いてみたらどうだろう。「たかが仕事、されど仕事」。  マネジャーの仕事は、人を使って、組織目標を達成することだ。その限りの人材の活用、育成だから、自身の価値観との葛藤などいらない。割り切って、組織の基準に従って評価し、そこへ向け指導すればいい。しかしだからこそ、自身の価値観や経験に束縛されない、また相手の価値観も気にしない、自由で創造的な指導方法も生み出しうるのではないか。  個々人の内面や本質なんかに拘泥することなく、人の集団がパフォーマンスをあげることを純粋に考えること。それが、マネジャーにとってのWord of wisdom、「たかが仕事、されど仕事」なのである。

職場の民主主義 | その他

職場の民主主義

「社員のロイヤリティを高め、パフォーマンスを向上させるために、他社ではどんな取り組みをしていますか?」企業経営者や人事部門の責任者から、時々聞かれる。 先般、新聞(4月5日付 ウォールストリート紙)に、ある興味深い記事があった。共和党・民主党の大統領候補選出で沸くアメリカでは、一般企業においても職場の民主主義が広まりつつあるという内容だ。 「オフィスレイアウトをパーティションで仕切るかオープンテーブルにするか」「職場の共有スペースで音楽を流すか否か」あるいは、「本社の引っ越し先のロケーションはA地区かB地区か」等、アンケート調査用のデジタルツールを利用して、一般社員が、職場の運営等について発言の機会を与えられたり、意思決定に参画する会社が増えているようだ。また、さらには、最終意思決定は経営・管理職側にあるものの、意見を参考にするということで、CEO決定や人材の採用の是非まで、社員に問う企業もある。 事の大小に限らず、組織運営上の意思決定を従業員の投票を行って決めることは、会社経営への参画意識が高まり、リテンションやモチベーションにプラス効果をもたらすことにつながるだろう。日本に限らず、米国でも、社員の参画意識を高め、やる気を引き出そうと各企業が腐心しているということだろう。 ただ、こうした取り組みには当然リスクもある。社員に迎合するようなアプローチで行ったり、十分に投票環境を整えておかずに投票を実施したりすると、誤った判断や社内の混乱をもたらすことになる。 社員投票を行う際には、経営・管理職サイドは、適切な情報と意思決定のポイントをよく整理して提供して、それぞれの選択肢のメリット・デメリットやインパクトをよく理解させたうえで投票させることが重要だろう。 我が国では、組織運営上の判断をする際に、社員に積極的に意見を聞こうとする例はそう多く聞かない。一般的には、従業員意識調査として社員アンケートを数年に一度、行っている場合はあるが、それさえ実施していない企業も少なくない。 今や、テクノロジーの発達により、比較的容易に、社員投票やアンケートが実施できる環境が整いつつある状況である。採用難やリテンション対策で頭を悩ます企業や社員のパフォーマンスを最大化することに取り組んでいる企業にとって、投票のテーマは、よく吟味するとともに、適切な段取りと社員に対するメッセージを十分考慮した上で、職場の民主主義を広めていくことは、企業差別化人事施策としても有効に機能するのではないだろうか。

質問に答えろ | その他

質問に答えろ

 質問に対してこちらが求めている答えが返ってこないことが実に多く感じる。たとえば会議の時などでも、質問者の質問に対して、的を得た返答をする人が実に少ないのだ。質問している趣旨を理解したうえで、その質問に対しての回答がうまく行える人は多くないのが現実である。  会議などを行っている中で、参加者から質問が出るというのにはいくつかのパターンがある。代表的なものでは単純な質問である。説明者が話す内容の中で、よくわからない部分があった時など単純にわからないことを聞くというものである。次に確認や強調のための質問がある。これは説明者が話している内容の主旨や一部について、会議参加者に再度確認させたり、強調するための質問である。これは会議の主旨から、特に参加者に理解賛同を得たい場合に行う質問のパターンである。また誤りに対する指摘としての質問もある。クレームに近いものである。説明者の説明の事実認識や論理構成などの誤りを正すためにするための質問である。“痛い”質問である。質問をされた側は、質問の意図を瞬時にもっと深く理解するべきである。質問の意図をよく理解しないで回答されると、質問者は“的外れ”と思い苛立ち、失望が大きい。  質問する側は質問したことに対する明確な回答がほしいことを理解しなくてはならない。質問に対する回答が長すぎたり、まとまっていないとさらに苛立ちや失望が大きくなるのである。そのためには結論から回答することも効果的であろう。“この施策にはリスクはないのか?”と聞いたところ、長々と説明されて結論がよくわからなかったりすることがある。長く説明するのであれば、“まず今の質問に対しては、YESです。なぜならば・・・”などのようにはっきりと結論を明示することも場面によっては効果的である。  逆に会議などで質問を受けた時など、気の利いた、ポイントを突いた回答をする人は優秀であると感じる。会議の主旨や流れ、雰囲気をよく理解して、質問者に対して効果的に対応できれば、参加者の信頼を得ることができるのだ。そのためには、質問を受けた時に即反応することは厳禁である。まず質問の主旨を理解する → 次に今、答えられるかを判断する → 答えるのであれば効果的な答えを考える → そして回答。このような頭の中の作業をしてからでないと答えるべきではないのだ。これは質問されてからできるだけ短い時間、瞬時に判断できるかが重要なのだ。このような頭の作業を行わないで答えると、ピント外れになるのである。この頭の反応をいかに瞬時にした上で、できれば回答は結論から言うと非常にクリアである。  これは会議だけではなく日常の仕事の中でも同じである。実に重要なコミュニケーションスキルであるが、日本ではあまり訓練されていないと感じる。それだけ質問に答えない人、堪えられない人が多いのだ。“質問に答えろ”“結論から言え”と心の中で言われていると痛切に感じるべきである。 以上

絶対評価は絶対か? | 人事制度運用支援

絶対評価は絶対か?

その定義は「基準に照らしての評価」にすぎないから、絶対評価といってもそれが“絶対に”正しいわけではない。評価の納得性や育成の観点からいって、相対評価よりも使い勝手がいいということである。   人事評価における絶対評価とは、被評価者同士を比較して序列化する相対評価に対して、あらかじめ設定された個人目標の達成水準や行動評価項目の評価基準をもって個々人を独立的に評価することをいう。 「君はよくやっているが、あいつに比べると劣っているから、C評価」などと言われて納得できるはずもないが、それ以上に、相対評価では育成に使いづらい。 相対評価でつけられた評点は、つねに他者との関係できまるから、なにをどうすれば、高い評点にいたるのか、つまり、自身が成長するのかがわからない。基準との距離を見る絶対評価であれば、たとえば行動評価で「君の等級では、あとこの2つの項目がBになれば、卒業レベルだ。その2項目がCなのは、要件である〜〜〜〜ができていないこと。だから今後業務で意識すべき課題は〜〜〜〜」といった指導ができる。だから、人事制度を設計する場合、その評価制度は絶対評価とするのが主流になっている。 発揮能力や行動や成果を測定する道具としては、絶対評価であるべきなのは当然であるが、その一方で、絶対評価の弊害もある。評価基準自体があいまいであれば、評価の中心化や高ぶれが起こったりする。かといって、基準を具体化詳細化しようとするとキリがないし、逆に精緻に作りこまれた評価基準は、本来その意思や裁量性が発揮されるべきマネジャーに杓子定規な評価行動を強制したりする。 よく目標管理を運用されている会社で問題とされる「目標レベルのばらつき」とは、要は基準自体がおかしいわけだから、絶対評価の納得性もゆらいでしまう。かくて、目標設定をいかに適正に行うかに腐心し、必然的にそこに時間と手間をかけざるを得ない。個々人の目標という基準に即して独立的に評価する以上、そこが根幹になるからだ。 全社横断的に目標レベルを揃えることは難しいし、行動評価基準に誰しもが迷いなく評価できる明快さを持たせることは至難の業である。基準は、評価制度を使うマネジャーたちが運用のなかで明確化し共有していくしかない。一次評価者同士の目標設定会議や評価会議を地道に繰り返し、「基準」を共有していくことが、絶対評価を適正な評価手法として活用していく最良の方策である。 それでもなお、基準に即して評価することは、難しい。もしかすると、人が人を評価するということの限界がそこにはあるのかもしれない。つまり、どちらがいいか人と人を比べればわかるけれども、「基準」との距離なんて個別正確に測定できない。もしそうだとすれば、賢い方法は、まず相対評価をしてから絶対評価をすればいい。実は、多くのマネジャーがアタマのなかでやっていることである。

組織の整体師 | その他

組織の整体師

ある意味、職業病なのかもしれない。長い間パソコンをたたき続けていたためか、肩こり・首こりが激しくなり、先日のある週末、頼りの整体師に施術を受けに出かけた。 「高柳さん 今日も、相変わらず、すごい硬さですよ」 私の肩をもみながら、整体師のAさんは、そう言った。 「肩こりの主たる原因は、血行不良なんです。長時間、同じ姿勢をしていると、特定の部分の筋肉が緊張状態になり、その周辺の神経や血管を圧迫する。その結果、血液の流れが悪化し、筋肉は酸欠状態となり、老廃物がたまり、こりを感じるようになります。ですから、仕事の合間に首や腕を回したり、軽い運動して、とにかく、血行を良くして、老廃物をためないようにしてください」 長い時間、同じ姿勢で過ごすと筋肉が緊張し続けることになるので、血液の通りが悪くなり、酸素の供給が滞ったり、老廃物を滞留させ、それが慢性化すれば、目まい、頭痛、集中力の低下など、全身に大きな影響を及ぼすことになるだろう。 マッサージサロンのベッドの上で、彼の話を聞きながら、人間の体で起こるこうした現象は、実は日本企業の組織の中でも、よく起こっているのではないかと思った。 組織の血流を停滞させないように、積極的に人事異動を行っている企業ももちろんあるが、組織やその構成人員が硬直的で、一度、ある部署に所属されたら欠員補充のような異動以外は、積極的に人事異動を行わないところは、思いのほか多いのが現実である。 そうした企業が人事異動に消極的な事の主たる理由として、同じ社員が継続して業務を行うほうがノウハウが蓄積され効率的だからという主張である。確かに、新しく移ってきた社員は、従来やっていた社員より、最初は効率が悪いかもしれないが、次第に慣れていくものだし、異動がないと、業務の標準化、マニュアル化の遅れの原因にもなり、業務の属人化が進んでいくことにつながる。あまり長い期間、特定のメンバーに業務を任せ続けてしまうと、仕事の内容がブラックボックス化して、外部で把握できなくなっていく。人事部門は、異動に伴う引継コストという短期的視点ばかりでなく、異動を行わない事による中長期的なリスクも考慮して、人事異動を実行していかなければならないはずである。 もう一つは、本当はもっと積極的に人事異動をしたいのだが、組織が縦割りで一度配属されたら、他部門への異動は現場が受け入れてくれないという理由である。本当は、やりたいのだが、現場の部門も抵抗されるということだ。確かに。現場の各部門の力が強く、人材の放出に、部門長が否定的な企業も少なくないが、これこそ、「全社最適<部門最適」の典型であり、人事主導になって、トップを巻き込みながら、組織全体での血流の活性化の重要性を浸透させていかなければならないところだろう。 ヒトの体と同じで、人事異動を適切に行う事で、組織の血液たる「情報」の流れがよくなるとともに、蓄積された老廃物も取り除かれていく。組織が硬直化し、企業全体が機能不全に陥らぬ前に、人事部門は組織のコリを取り除いていく優秀な整体師の役目も負っている。

ほしいものが、ほしいわ | その他

ほしいものが、ほしいわ

 このキャッチコピーを覚えているだろうか。成熟時代のマーケティングを象徴する広告として、80年代末期に書かれたものである。  当時、躍進を遂げていた西武百貨店は「おいしい生活」というコピーをかかげ、百貨店はモノを売るのではなく、生活提案産業だと謳った。たとえば食器は、食事をするための道具であるけれども、さまざま使い方を見せることで購買を促進できる。その使い方を、新しい暮らし方や格好いいライフスタイルとして見せたのが、その時のマーケティングだった。  部屋は狭いし、十分な収入があるわけではなくても、そこには、豊かな“気分”がある。そうした気分を味わうための道具として、さまざまなモノを売る。現実は変えられないけれども、気分は変えられる。だから、新しい暮らし方やモノの使い方の情報を発信し、つぎつぎと新しい気分の消費=関連するモノやコトの消費を煽っていくということである。  気分を喚起するマーケティングは、ニーズにあった商品を揃えるのではなく、ニーズを作り出す。欲望の対象になる商品を生産するのではなく、欲望そのものを生産するということである。「おいしい生活」から数年後、この事情を消費者にむけてストレートに言い放ったセンセーショナルなキャッチコピーが、「ほしいものが、ほしいわ」だったのである。  つぎつぎと「ほしいもの」を作り出す社会は、いまも続いている。情報ネットワークや先端技術は、新しい欲望を生み出す大きな原動力だし、金融工学の進化は、金持ちの欲望を大衆化した。供給者の思惑どおり、いつの間にか日本にもハロウィンが年中行事化しつつあるように、常に虎視眈々と暮らしのなかに新しい消費を喚起するイベントが仕掛けられる。  働く欲求としてよく聞かれる「自己実現」もまた、その獲得をそそのかされた「ほしいもの」ではないか。社会に出る若者が面接で言う「自己実現ができる仕事がしたい」という一言の違和感くらいなら良いが、働くからには、マズローのいう低次の欲求段階を経ていたる最上位の欲求を目指さねばならないという強迫観念が若年層の転職を後押しているかもしれない。働くうえでは「夢」を持たねば、と喧伝される風潮もそれを煽る。  しかし、実現すべき自己などというものがどこにあるかよくわからない。まさに、「ほしいもの(=自己実現)が、ほしいわ」。こうした呪縛にとらわれるのは、働くことを手段だと思い込んでいるからである。手段だから、目的が要る。なんのために働くのか、それは、生活のためだけではなく、集団欲求や社会性欲求のため、ひいては自己実現という素晴らしい目的のため。だから、頑張ってはたたらく価値がある、となる。  もっと気軽に、働きたいから働く、でよいのではないか。働くことが愉しいから働く。万有引力ならぬ情念引力をもって世界を語ろうとした異端の思想家シャルル・フーリエは、快楽労働と言った。つまり、手段としての労働ではなく、目的としての労働である。  そういえば、消費だって、実はそれ自体が愉しい。メーカーや小売業にそそのかされた気分や欲望のためであろうとなかろうと、モノを買うという行為は、愉しい。それが、交換経済ではない貨幣経済がもたらした快楽だった。「ほしいもの」は、消費であれ、労働であれ、それがなされた時点で、すでに獲得されているのである。だれのものでもない、自分だけのものとして。  だから、その労働の自分だけの面白さを感得することこそが、「ほしいもの」なのではないか。企業組織がやるべきことは、なにより、その仕事の意義と意味、とりわけその従事者当人にとっての意味づけを喚起することだ。ビジョンや戦略はつねに一人ひとりの意味づけに資するという観点から、表現され、また語られ、参照されるべく仕組まれなければならないのだ。  あなたがたの「ほしいもの」は、ほら、目の前にあるじゃないか、と。