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脱!自前主義 | その他

脱!自前主義

 ここ10年あまりの間に、産業の水平分業化が著しく進んできたように思える。水平分業とは、企業を構成する諸機能を複数の会社が分担し、相互に補完することだ。ある会社が自社の経営に必要な機能の多くの部分を他の専門企業に委ねる。他方、自らも強みを生かした専門機能業者となって、他社の経営を補完する。そんな産業構造のことを指す。「餅は餅屋」というやつだ。古くからあった元請・下請関係と異なるのは、水平分業するそれぞれの企業が一定の業界標準を形成する力のある企業であって、高い市場シェアを持つところだ。特定の発注者に売上の多くを依存することなく、常に対等の関係で取引する。  たとえば、多くの製薬会社が、SEO(臨床試験受託会社)に臨床試験を委ねたり、CSO(医薬品マーケティング・販売支援会社)に医薬情報提供や営業の機能を任せたりして、自らは創薬の仕事に集中しようとしている。食品業界や飲料業界では競合他社と協力して物流機能を統合・再構成し、製品物流をこれに任せ、製品企画力と販売力で勝負しようという流れになってきている。電子機器産業の数社が製造を専門アウトソーシング会社(EMS)に任せ、実質的には研究開発会社になりつつあるのは周知の例である。管理間接機能においても、経理、ファシリティマネジメント、給与計算、採用、研修などの領域で力を持ったアウトソーシング受託会社を数多く見ることができる。  水平分業を有効活用したビジネスモデルにおいては、自社の付加価値の核心と位置付ける機能に経営資源を集中投下し、その機能をさらに鍛え上げることができる。その他の部分は他社が提供する「部品」を組み合わせて会社を経営することから、産業のモジュール化とか、レゴ型経営といった表現も一般的になってきている。  おそらく今後、グローバル標準機能を提供する強大な機能会社が数多く出現し、多かれ少なかれこれを活用したビジネスモデルで成長と利益を獲得していかねばならない時代になっていくと思われる。自前主義に拘っていてはもう勝てないということだ。  さて、ここまでは良しとしよう。ここから先が問題だ。周知のとおり、わが国の法制と人事慣行の下では、ビジネスモデルへの転換は容易ではない。これまで自前主義で抱えてきた機能を廃止しようとすれば、長く雇用してきた社員を一定程度削減しなければならない。他方、自社の機能を世界標準に育て上げるためには、これまでに増して豊かな能力を備えた社員を数多く雇用していかなければならない。どちらも不可欠であり、かつ困難な仕事である。  このように考えていくと、これから先、人事部のミッションが高度化していくことは容易に想像できる。まずは自社の核心的機能は何なのか、それを再定義することが第一歩だ。次に、それ以外の機能の何を外部化していくのかを現実的に判断しなければならない。  核心的機能を維持発展させるためには、どのような能力を持った人をどれだけの人数抱えればよいのか。そのための社内人材の育成強化をどのように行っていくか。新規採用はどの程度必要か。役員クラスのヘッドハンティングすら必要かも知れない。  反対に、いくつかの機能を外部化することでどれだけの人員が余剰するのか。自然な退職がどれだけこれに寄与するのか。そのスピードが遅ければ、一定の雇用調整を実行しなければならない。こうしたことを考え、ひとつの計画にまとめ上げる力が求められてくる。会社分割や出向・転籍に関する実務知識も不可欠のものになってくることだろう。  自前主義から水平分業への転換。その大局を構想し、手順とスピードを考え、適切なロードマップを描くことは、これからの人事部長に課せられた重大な責務だ。

空気が読めない | その他

空気が読めない

 「あいつは、ほんとにKY(=空気が読めない)だから」などと揶揄されることがある。会議や顧客との商談場面で、(たいていは暗黙の了解があるはずの)状況を踏まえないで、言ってはいけないことを口走ったり、余計な発言をしたりする人物。しょうがねぇなあ、と半分諦め交じりの人物評として笑い話で終わったりするが、もしそれが「KY管理職者」であるとそれではすまない。ピープルマネジメント問題として、組織的被害は甚大なはずだからだ。  ビジネスや組織という環境において、空気が読めない、とは、状況と自身の関係が読めない。その状況のなかで、いま自分がどんな立場にあるか、がわかっていないということである。その状況のなかで、自分のふるまいの意味に気づかない。いま自分がどう見られているかにも気づかないし、いままさになそうとする自身の言動がどう見られるかもわからない。つまりは、自己客観視ができないのである。そんな人物の管理職としての「判断」があてにならないのは当然だが、とりわけ、部下指導がうまくいくはずがない。  自己客観視ができない管理職者はピープルマネジメントができない。この事情は、360度診断をおこなうと残酷なまでに可視化される。例えば、業務分担や人材育成、部下指導、エンパワーメントといった項目の周囲評価者平均が軒並み低い。とくに上司/同位者平均よりも下位者平均があきらかに低い。反面、自己評価はかなり高いというギャップが顕著に出ている。自分がやれていないこと、部下たちが自分の行動を不十分だと感じていること、そのことを自分ではわかっていないことが、数字のギャップとして定量的に突き付けられてしまうのだ。  部下評価平均が低いことが問題なのではなく、そのことに気づいていないことが問題なのである。気づかないから、自分の行動是正ができない。結果、部下たちをうまく動かすマネジメントができていないということである。360診断でそうした自他ギャップに気づけば、自身のふるまいを内省し、常に客観視を心掛け、行動を変えていくようにできる。しかし、そうした事実の突き付けなしには、「空気が読めない」のだから、ほっといても、いきなりあるとき読めるようになるとは思えない。よって、KY管理職の放置は危険なのである。  360度診断のフィードバックを行っていると、よくこんなことをいう管理職者がいる。「この項目の下位者平均が低いのは、今期はこんな方針で、こういう言動で彼らにあたったから当然」と想定内の低スコアだったと、動じない。まれに単なる負け惜しみの発言のこともあるが、総じて、ハイパフォーマー管理職に共通する。  つまり、自己客観視ができるということは、周囲者をよくコントロールできることでもあるのだ。

階層別研修の復権 | 人材開発

階層別研修の復権

 ときに、「社長塾」といった選抜育成施策がある。その多くは、次期経営人材の育成を目指し、管理職層からの選抜メンバーを社長自らが鍛えるといったしつらえだ。その背景には、現状の管理職スキルレベルに対する社長の不満と危機感があり、その事態を招いたであろう従来の管理職教育や人事部任せの階層別研修への不信がうかがえる。  教育研修がかつて作られたしくみのままで行事的な運用をされてきたとすれば、その社長の想いも当然だが、だからといって、選抜育成施策だけが解決策ではないだろう。「社長塾」そのものは有効で成功例も多いが、中長期的な管理職育成の仕組みとして階層別教育がベースとして機能していなければ、短期的対症療法的施策にとどまらざるを得ない。いま目につく限りの予備軍たちをなんとか経営人材に育てたとしても、そのあとが続かないからだ。  やるべきことは、経営人材予備軍を一定数輩出すべく階層別研修を刷新することではないか。それには、二つのポイントがある。まず、最初に行うことは、「あるべき論にもとづく一律教育」からの脱却である。昇格後研修(=新任管理職研修など)は、あるべき知識・スキルのインプットだが、当該階層の既任者に対しては、現状のスキル課題に応じた育成施策を組むことこそが実践につながる教育である。  たとえば、課長たちのスキル課題には、共通するものと個別的なものがある。そうした課題の状況を可視化し、「育成が必要な対象者」に、「必要なスキル教育」を、「適正な方法」でおこなうということである。必要なスキル教育とは、「コーチングが注目されているから、今年の課長研修はコーチングスキルを」などといった行事的運用ではなく、「課長の課題は、部下育成、とくに業務指示スキルと権限委譲」と把握しての研修設計である。適正な方法とは、共通するスキル課題なら集合研修だし、特定対象者ならコーチング、あるいは評価運用に組み込むか、といった使い分けである。  現状課題対応だから、既任者研修は、テーマも方法も一律ではなくかつ年次で変わっていく。つまり、期首に階層ごとにスキルギャップ(=必要なスキルに対する現従事者のスキル過不足)を測定し、状況を可視化し、期中の教育施策をくむことが階層別教育にまず埋め込むべきしくみとなる。  もう一つのポイントは、昇格前教育の連鎖として階層別研修を設計することである。たとえば既任課長研修であれば、スキルギャップ把握のために基準とするスキル要件を、いま発揮すべき課長スキルではなく、近い将来担う部長の必要なスキルとする。あるいは、一定年数を経た課長既任者には、部長で必要なスキルを先行教育するといった具合に、上位階層の要件をもって、教育施策をする。それを階層連鎖的に設計するのである。  管理職手前の階層では、管理職先行教育をしながら、その適性も見極めるといった施策は増えている。たとえば、通常は管理職昇格審査でなされるセンター方式アセスメントを管理職前等級への昇格後に行って、「管理職としてのスキル課題」を本人、上司ともに把握し、以降、業務遂行のなかで、管理職としての先行ブラッシュアップを自己啓発し指導されるような施策が、管理職昇格者の質と量の向上に資することはあきらかだろう。  こうした「昇格レディネス」の醸成を旨として、全階層の教育施策に組まれることが、経営人材予備軍輩出につながるベースとなるはずである。

評価して! | その他

評価して!

 当社では一週間に一つ以上のコラムを掲載させていただいています。定期的に出させていただくこのコラムに対しては、多くの方に読んでいただき、直接コメント、感想をいただくこともあり、ありがたい限りです。またコラムの評価をしていただくことによって、その結果がわれわれにとって非常に参考になるのです。  コラムを評価いただくと平均の評価点がでます。これはコラムの“出来”を表しています。 点が高ければ総じて良い内容であるということです。しかし単純な平均点だけでなく、評価の分かれ方も非常に重要で参考になります。挑戦的、攻撃的、刺激的な内容のコラムは総じて点が分かれます。同じ平均点のコラムでも、全員が同じ評価の場合と良い評価と悪い評価に分散する場合とがあり考えさせられるものがあります。  平均点のほかに、総点数も重要視しています。総点数とは評価点の総合計点であり、多くの人が高い評価をしてくれれば高くなります。コラムは読者が読んだ後に評価する行動をしてもらえるものと、評価ボタンを押さないものがあります。面白くない、的外れなものは評価の投票数が少ない傾向にあります。少ない人数が高い評価をしているコラムは、限られたセグメントのみに“ウケ”ていることになるでしょうし、少ない人数が低い評価の総点数の非常に低いコラムは反省しきりです。総点数はインパクトの大きさですので、この点も大変参考になる数字なのです。  皆様が行うコラムの評価を毎週見ることによって、人事管理として関心のある分野や、議論が分かれる論点などを理解できます。コラム読者が日本企業の経営者、人事責任者、人事従事者ですので、この反応はあるべき人事管理、必要な人事ソリューションを考える上で、当社の重要な財産なのです。コラムという対外発信を通じて、当社は人事業界という市場の貴重な“声”を聴かせていただいているという感覚なのです。  書籍や雑誌、講演・セミナーなどの手段とともにこのコラムは当社の重要なアンテナであり、今後も継続して行っていきます。コラムが途絶えると、“ネタ切れになった”とか“体調が悪くなったのか”果ては”死んだのか“と思われそうですので、継続せざるを得ないという面もあります。  結論は非常にシンプルです。ぜひ今後ともコラムを読んでいただき、他の方に勧めていただき、そして評価していただきたいのです。皆様の評価によって人事管理のあるべき姿を研究し、またそれを何らかの対外発信でお返しすることが一つの重要な義務であると思っているからです。コラム読んだら評価ボタンを!よろしくお願いします。 以上

次世代リーダー | 人材開発

次世代リーダー

 “次世代リーダー”という言葉を意識している企業には、様々な背景があるのだろう。 以前の経営環境が大きく変化して、新しい発想や管理手法で経営をリードしなくてはならない企業などでは“次世代”という言葉はよく理解できる。技術の進化により以前のビジネスモデルが通用しなくなるような業界などでよく見られる。近年ではネットの発達によって、流通や広告などのビジネスモデルが大きく変化したが、これを牽引している人材の多くは旧環境の人材ではない。旧モデル化の人材と新モデル化の人材の別な層があるために、新たな層の中でリーダー育成が必要となり、それを急ぐために次世代リーダーの選抜と育成が必要となるのだ。  上記のような“真性”の次世代リーダーは、市場や業界の大きな変革期における重要で適正な経営課題である。しかし最近の“次世代リーダー”の議論はこのような真性のものだけでなく、不純、不適正なものが混じっているように感じることがある。それは、現在の管理職社員が十分なパフォーマンスを出しておらず、役員候補もいないために、その下の層に期待するというものである。要は今の管理職社員では不十分であり、主力の管理職としても、ましてや経営者として期待しないと言っているようなものである。このようなタイプの企業は、社員の年齢構成が歪であることが共通してみられる現象だ。中長期にわたる人材管理がうまく機能していないことが、“次世代リーダー”という言葉に置き換えられているともいえる。  企業の安定した継続性は、人事的に言えば必要人材を持続的に提供することといえる。正社員一人採用すると大卒であれば38年間(プラス再雇用5年間)の拘束がある。特に企業のコアスキルや文化を継承する総合職社員などは短期の業績で採用の増減など行ってはならない。また業績によって育成施策も影響してはならない。こうなると必要な人材を持続的に提供できないからである。短期的な業績コントロールと中長期の経営の持続性を混同しているともいえる。  業績の良い特に大量の新卒採用を行い、悪くなるとストップする。業績の良い時には教育をするが、悪い時にはしない。このような施策は企業の持続性がないばかりか、社員に対して雇用責任を果たしていないとも解釈されてしまう。長年間育成施策を講じてこなかった今の大量の中高年社員からは優秀な経営者や管理職が多くは出現しないと予測し“次世代”に期待をすることが、強い違和感をもたせるのである。  悪くとらえると中長期の雇用責任を特定の世代に果たしていない上に、これからも継続的な育成を行わないと解釈もできる。本来は常に企業の文化やコアスキルを継承し、優秀な人材を多く出現させることが重要であるが、今いないから特別な施策で育成するという感覚が、人事マネジメント的には短期的視点に偏っているように感じる。  “次世代リーダー”育成を否定しているのではないが、これは環境の激変などを除いては、継続的恒常的施策であり、単に通常の教育研修の一部であるという認識が必要ではないだろうか。

寛容な「顧客」になろう | その他

寛容な「顧客」になろう

政府の働き方改革の主要テーマである長時間労働の是正は、今まで継続的に取り組まれてきた課題であるが、なかなか解決できないまま、現在に至っている。その背景には様々あるのだが、「過度な顧客第一主義」という観念が、我が国の意識の中に強くある事が、解決の障害の一つになっていると考えている。 「過度な顧客第一主義」という観念においては、お客様は神様であり、サービスの提供者よりも、とにかく受益者の利害を最優先させるべきであり、それは社会にとっても良い事という前提に立っている。ビジネスの目的は、顧客創造であり、顧客への価値提供を最大化しようとする事は当然なのだが、サービスの提供者の利害を犠牲にしてでも、それを優先するべきという考え方が根強い。 深夜や明け方でも利用できるように、店舗は24時間オープンにするべきだ。どんな商品も絶えず、在庫を切らしてはいけない・・・等、顧客の価値提供を最大化するために、我が国の企業は努力を続けてきた。実際には、明け方に利用する客数はごく少数だったとしても、顧客の利便性が高まるなら、社員の負荷が多少、増えても行うべきだ、あるいは、正月1日からでも買い物をしたいという顧客がいるなら、社員の家族との時間を犠牲にしてでも、元旦からオープンするのが世の中のためだ、等、なによりも顧客を優先しようというマインドが存在している。一方、我々日本人は、顧客としての立場になると、商品に少しでも傷があれば交換する、丁寧に包装されている事は当然である、等など、商品やサービスの品質に関しては、妥協を許さない傾向にある。 また、この事は、社内顧客に対しても同様で、社内におけるサービスの受益者は、利用する可能性が低い資料の作成を依頼したり、必ずしも同席する必要のない社員にもミーティングへの参加を求めたり、重要性の低い、細かなミスでもやり直しを命じたり・・等、必要以上のサービスを提供者側に求めていく風潮が少なからずあるように感じる。 我々は、社会の中で、労働者たるサービスの「提供者」の側面と、顧客たるサービスの「受益者」の側面の両方を担っていて、時と場合によって、我々は「提供者」であったり、「受益者」であったりするのだが、我が国においては、受益者の利益を最大化すれば、とにかく社会にとっても善であるという単純な発想になってしまっていて、提供者の利害の優先順位を下げてしまっている。我々は、顧客としては、至れり尽くせりのサービスを受けられて、とても居心地がよい国なのだが、労働者としては、逆に、至れり尽くせりのサービスを提供しなければならない、結構しんどい国という事になる。 欧米の諸外国では、サービスの受益者である「顧客」より、提供者である「社員」の視点をより尊重している。多少、営業時間が短かろうと、夏季休暇で4週間以上、店舗が休業しようと、諸外国の人々は、顧客として我々以上に、寛容で、忍耐強く振る舞うことができるようである。 今後、長時間労働の是正を進める上では、このサービスの提供者と受益者のスタンスの見直しに踏み込まざるを得ないだろう。つまり、我々が、サービスの提供者としての生活や立場をより尊重するという事は、逆に、受益者の立場たる顧客として、サービスの提供者に過度な期待や必要以上の要求をせず、今以上に寛容になっていくことを期待されているということでもあるのだ。

次期役員育成の方法 | 人材開発

次期役員育成の方法

 役員の選抜方法の見直しや役員の育成のしかたが人事施策として多くの会社で議論されるようになったのは、つい最近、この3~4年くらいのことではないか。それまで役員育成というテーマは、人事部門の担当外であって、制度化されない経営マター、人事管理上のブラックボックスだったからである。  「本当は、まず役員教育から始めないといけないのだけどね、、、」といった言葉は、それができないもどかしさをにじませた人事担当の方々から、しばしば聞かされたものである。役員昇格基準も明確でなく、経営陣の衆目の一致する「役員にふさわしい」人材が上級管理職の中から任命されるのがふつうであり、ともすれば、管理職としての「あがり」処遇の気配がある場合もあった。  結果、「職能の頂点」としての力量はあるが、「経営者」としてはものたりない、営業や技術といった職種一筋で役員になった経営陣では経営会議が成立しない、つまり経営リテラシーが足りない。とくに、経営環境変化の中で、戦略の立案と実行こそが経営リーダーの役割であるのに、その任が果たせない。こうした反省と危機感が、近年の役員育成施策見直しトレンドの背景にある。  役員の見極めと育成といえば、候補者を見極める手法をどうするか、必要な経営リテラシーや経営力をどう育成するか、を方法論化することだが、最も重要なのは、その前提=自社のあるべき役員の要件とはなにか、を可視化することである。  そもそも役員要件は明確ではない。人事制度で規定する人材定義には役員は含まれないし、別に役員の人材基準が言語化されていることも少ないから、そこを明確化しなければ、見極めのための基準も、育成施策により埋めるべきギャップを図る基準もありえない。要件として定めていなくても、事業特性や企業風土、経営方針を踏まえて、どの会社にもきっと経営陣の暗黙知として共有された基準があるはずで、それを言語化すればいい。  具体的には社長以下経営陣の方々から、インタビューやセッションを通じて、「あるべき役員の要件」をスキルや行動や経験や姿勢等々の視点で仮設し抽出し整理し、新たに設計することである。その際にいちばん大事なことは、その要件は、「現状視点」ではなく「未来視点」であることだ。今後10年間の経営をリードするリーダーの要件は、いままでの要件とは異なるはずだからである。  ちょうど5年前、ある会社で要請された役員育成施策は、そうしたリアルな事情がきわめてはっきりしていた。その会社は、ある業界で長年トップの座であったが、数年前に2位に転落し現在にいたる。その状況を脱しなければならない状況下の役員育成。つまり、業界1位を維持し続ける経営と、1位の座を奪還する経営では、そのリーダーの要件は異なるから、それに合わせて役員の選抜育成施策を一新せねばならないということだった。  問われているのは「今まで」ではなく、「これからの」要件である。次期役員の選定は、過去の成功体験やいま確信している自身の見解から「あいつは、次の役員の器だ」と自信をもって語る現状の役員たちの判断だけに任せるわけにはいかないのである。

がんばります | その他

がんばります

 “がんばります”という言葉はどういう意味なのか疑問に思うことがしばしばだ。何かの仕事を誰かに依頼すると、“がんばります”という返事をもらうことが多い。これは快く了解したという意味でしょうからあまり疑問に感じない。しかし仕事に対して指摘する、ミスを指摘するなど、こちらが期待している水準に満たない場面で、“がんばります”と言われると、この言葉の意味がよくわからず、果ては発言者のこの仕事の取組み自体や、さらにそもそも仕事に対する姿勢にまでさかのぼり疑問を感じることすらある。  “がんばる”という意味を逆さにとると、いつもは通常のレベルで仕事をしていると聞こえる。“通常”のレベルと、“がんばる”のレベルの二つのレベルがあるのか。仕事の品質や生産性が高くなかったのは、通常レベルで仕事をしていたからなのだろうか、そうなると通常レベルでは品質生産性は高くないということなのか、などと勘ぐってしまうのだ。  そもそも仕事に対する指摘や指導をした時に問題としているのは、その仕事の成果である。成果を判定するにはアウトプットのレベルと時間などの投下資源の量である。成果が十分でないという指摘に対して、がんばる、がんばらないということには何ら意味はなく、興味もない。何の返答にもなっていないのだ。あえて言うならがんばらないで成果を出してほしい。  日本は欧米に比較すると生産性が低い。日本のビジネスマンは勤勉であるが、驚くほど長く働く。生産性が改善されれば、企業も社員も大いにメリットがある。社員一人の生産性が増加すれば、企業は利益が増えると同時に社員への配分も多くなるからだ。日本企業は生産性を強く意識しなければならないが、生産性を“数字”で管理している企業が実に少ないのが現状である。これでは生産性向上といっても、効果が測定できない。そのため生産性向上という壮大な課題は、往々にして残業時間削減という矮小な課題に転換されてしまうのである。  重要なのは成果を出すことである。これは高いアウトプットと、より効果的な資源投下をすることであり、数字で測定することが重要だ。残業時間削減のような狭い議論から脱却し、真に生産性向上に真正面からの取り組みが重要ということだ。生産性向上、成果を上げることは、もっと技術論として議論されなければならない。そのためには社員への能力開発を思い切ったレベルと範囲で行う必要がある。今までの能力開発で生産性は大幅に向上していない。このことは能力開発の量と範囲が間違っていたと考えることもできる。また生産性向上のための様々なシステムやツールももっと積極的に導入するべきであろう。  経営者や管理職社員は、成果、生産性の話に対して、“がんばります”という返事をする文化をなくす努力をしなければならない。何の返事もしていないのと同じであり、もっと言えば違う話にすり替わっているのだ。“がんばります”はできていないことに対する免罪符のように聞こえるのだ。“がんばります”という言葉を聞かないようにしたいものである。

PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員だ!… | その他

PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員だ!…

 「PDCAサイクルを回すとき、もっとも厄介な存在が管理職であり、役員だ!…。それを破壊する人すらいる」  と2011年、あるセミナーで話したところ、聴衆である会社員50~60人のうち、半分近くが笑っていた。  PDCAが、「計画(plan)→実行(do)→評価(check)→改善(act)」を意味するのは、多くの人がわかっている。当然のごとく、仕事をするうえでは、誰もが改良を重ね、成果を高めようとする。  しかし、会社や部署で組織としてPDCAを回そうとすると、難しくなる。そのとき、壁として立ちはだかるのが、管理職であり、役員だ。特にPDCAの「C」、つまり、「評価」のところで意見をはさんだりしてかき回す。 「いや、それはそんなに悪い状況ではない」 「そこは、見直すべきではない。むしろ、このまま、進んでいくべきだろう」 「むしろ、ここが改良すべきところだ」  管理職や役員にそんなつもりはないのかもしれないが、非管理職からすると、自分の意見をごり押ししているにしか映らない。しかも、その意見が事実に基づくものとは必ずしもいえない。管理職や役員が感覚的に(ときには思いつきで…)口にしているように見えることもあるだろう。    会社として、部署として大きな成果を狙うならば、PDCAを機会あるごとに回し続けなければいけない。PDCAをきちんと回し、成果を上げていくためには、ある意味での「自己否定」が必要になる。  管理職や役員は、自分の考えや判断に誤りがあったと認めることができるか、どうかー。「自分たちの仕事の進め方ややり方のここが誤りであり、こうあらためていく」といえなければいけない。  非管理職は、それを受け入れることができるかどうか。管理職や役員は考えや判断などに誤りがあったことを認めたのであり、自らを否定したのではない。その区別が本当にできているか、どうか。  PDCAサイクルが回らないならば、社長以下、末端の社員にいたるまで、そのような考えや心がまえに問題があるのではないだろうか。  徹底してクールに、突き放して事実をとらえ、わだかまりなく、皆が「自己否定」できるかどうかこそが大切なのだ。その「自己否定」は、実は「自己肯定」であり、決して「敗北」でも「譲歩」ではない。  しかし、ここまで深く考えることができる人はごく少数だろう。そこで、マネジメントが必要になる。  たとえば、管理職や役員が、常に「自己否定」をする仕掛けをつくることだ。 まずは、管理職や役員の人事異動の回数を大胆に増やしていくべきだろう。異動となる人数も増やし、状況いかんでは降格もするべきだ。社員数が300人以上ならば、それができるはずである。業績がよかろうと、リストラも常に行いたい。少なくとも年に数回は、希望退職を募るのが望ましい。  代わりの人材は、非管理職から抜擢してもよいではないか。外部から招いてもいい。ハンティングは、もっと頻繁に行うべきである。  結局、会社や部署が流動化し、「下剋上」の職場にならない限り、管理職や役員は「自己否定」などしない。マネジメントとしては、この人たちが自分を正しく振り返るように仕向けるのである。  PDCAを回さなければ、業績は上がらない。そのためには「自己否定」を繰り返すこと。そして、管理職や役員の根拠なき自信を徹底して打ち砕くこと。既得権の上にあぐらをかき、結果を出すことができない管理職や役員はいらない。  あらためて問いたい。 PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員ではないだろうか…。

会議の風景 | その他

会議の風景

 会議は複数の参加者によって意思決定、情報共有、意思統一などを目的に実施する。組織的に業務を遂行するために、非常に重要な“アクティビティ”である。この会議がうまく機能しなければ、会議の目的を達しないという問題とともに、多くの参加者の時間を無駄にするということになってしまう。そのため会議は、目的を明確にし、その目的達成のためのシナリオを練り、コンティンジェンシーへの対応も想定しておくべきであろう。うまく企画され、うまくコーディネートされている会議は非常に充実感がある。複数の参加者がこういった充実感を持つことが、会議の成功と言えるのだ。会議の成否は会議主催者やコーディネート役の力量にかかっている。よりよい意思決定、高いレベルでの情報共有、納得する意思意識の統一がなされるためには、相当な準備と会議の場でのコーディネートが必須である。日々多くの会議が実施されるが、“よい会議“はどの程度あるだろうか。集団の知的作業である会議がうまく機能することによって、組織的な活動が促進される。そのため”よい会議“が大半でなければならない。  この会議の”品質“に対して非常に鋭敏な感覚を持っている企業にたまに出くわすことがある。会議の目的、参加者、進行、資料などに対して厳格な指導をし、問題のある会議については、会議主催者、進行者に報告書を提出させることまでしている。組織の活性化、組織の生産性向上のための取組みとして大変面白いと感じる。このように厳格に管理していない企業では、実施される多くの会議が十分なレベルに達していない可能性が高いだろう。例えばこんな状況が散見される。  まず致命的であるのが、目的が不明、曖昧な会議である。決定するのか、事実認識を統一するのか、共通認識を持つための意見交換をするのかが不明であったり、甘かったりするために、会議の体をなさない。また目的・ゴールが明確でも進行のコントロールが甘いと、目的・ゴールを達成できないか低いレベルの結論になる。しかも参加者の満足度も高くないのだ。会議を進めるために資料などを用意するが、この資料が的を得たものでなかったり、資料の説明が“読み上げ”的であったりすると、とたんに参加意欲を低減させ、活発な議論にならない。そうなると参加者も、座っているだけの人も多く発生する、熱心に説明を聞いている風であるが、頭脳は動いていなさそうである。果ては“メモ魔”なども出てくる。会議の内容を詳細に紙やPCに記録するのだ。一見真面目に会議に参加しているように見えるが、共同の知的作業であることを放棄しているとも言える。  多くの日本企業ではコミュニケーションスキルに対する教育や指導がもっと必要であろう。会議などはその代表的なものであるが、会議の進行・コーディネートは高い意識で訓練しなければ身につかないスキルである。環境変化が激しくなりスピーディーな情報認識、意思決定がより強く求められている。また複雑なビジネスモデルを組織的に進めていかなくてはならない。さらにはグローバル化の進行や様々なタイプの関与者と会議をしなければならない。会議のスキルをさらに磨かねばならないはずであるが、現状ではそこまで重要視をされているとは言えない。社内の会議の風景を見て十分な品質と思えればいいのであるが、そうでなければ会議を行うごとに、組織力を劣化させてしまっているくらいの認識が必要ではないだろうか。 以上

ゆるくてドライな関係 | その他

ゆるくてドライな関係

最近、企業が、社員の副業・兼業を解禁したという記事をよく目にするようになった。 政府も、働き方改革の一環として「副業・兼業」の解禁に関する研究会を今月中に経済産業省内に設置する方向だ。副業・兼業の解禁は、今、我が国が直面している働き方の改革の主要なテーマのひとつといえる。 副業・兼業の禁止は、終身雇用制とともに、我が国の多くの企業において長年続けられてきた慣習である。その理由として、企業固有の知識・ノウハウの社外流出リスク、本業のパフォーマンスがおろそかになるリスク、さらには、犯罪やトラブルの発生により、本業の会社のリピュテーションが低下するリスク等を回避したいという事がある。企業側は、こうしたリスクを避けるため、定年まで雇用を保証する見返りに、副業・兼業などせず、本業に専心して取り組んでください、といったバーター的取引が今まで、労使の間で成り立ち、機能してきた。 だが今や、経営環境は大きく変化し、それがうまく機能する状況ではなくなってきている。まずは、終身雇用制が実質的に崩壊している事がある。企業にとって、入社した社員を、安定した賃金を払って定年まで雇用していくことが難しくなってきた。社員が一つの会社に忠誠を誓い、人生を託す代わりに、企業が生涯の生活を保障することが出来ない状況の中では、社員と会社の関係も、もう少し“緩い関係”のほうが、双方にとって都合がよくなってきた。業績低迷期は、どうぞ副業・兼業のほうで、頑張って稼いでくださいという思いや、中高年の世代においては、在籍しながら、セカンドキャリアを模索してもらう期間や準備期間を提供しますよ、という意味合いもある。先の見えない状況下で、今までのようなベタベタな関係よりも、もう少しドライで、緩い関係を志向することが、企業、社員、双方にとって都合がよくなってきたというわけだ。 もうひとつは、我が国の大多数の企業が、不透明な経営環境下で、これが成長戦略だと明確に言えない悩ましい状況に陥っていることにある。従来の延長線上に、今後の成長の道筋が見えてこない中で、従来の優等生的社員だけではなく、多様で新しい発想を持った、いわばエッジの効いた人材を確保・登用しなければ、将来は見えてこないという危機感が企業にはある。そのためには、副業・兼業を認め、そうした幅広い経験の中から自由な発想や本業の新たな成長エンジンとなりうる人材を輩出したいという期待がある。 かつては、一対一であった国と企業の関係が、グローバル化が進む中で変容し、企業に特定の国のレッテルを張ることが難しくなってきたのと同様、企業と社員も、今後、より「あいまいな関係」になっていくだろう。グローバル企業の拠点が、より税金の安い国やより調達コストが低い国などへ流れていくように、企業と社員の関係が「緩く」なると、両者の間でも、よりよい緊張感が生まれてくるはずだ。 企業側に本業としての魅力がなくなっていけば、社員は、その企業を本業としてみなさなくなっていく事になるので、企業は、絶えず、社員にとって魅力的な事業や職場でありつづける努力が求められるだろうし、社員は、副業・兼業を認められた以上、本業で相応のパフォーマンスを上げられない限り、雇用の維持や処遇の改善は期待されないという覚悟がより求められることになっていくだろう。  現在の社会・経済の流れをみる限り、今後、我が国の企業にとって、副業・兼業の解禁は、やはり、必然的なものと言わざるを得ない。 この人事的慣習が上手に破壊され、企業と社員の相互依存的なベタベタな関係が払しょくされ、適度な緊張感のある関係の中で、我が国の企業がより高いパフォーマンスを生み出す状況を作っていくことが、今、求められている。

センスが大事 | その他

センスが大事

 いくつかの会社で取締役をしてきたが、あるとき不思議な体験をした。財務責任者から、明らかに計算間違いがあったとしか思えない経営数字が上がってきたのである。仕上がりの数字の並びを見れば、「これはおかしい」とすぐにわかるのに、見逃されている。指摘して、算出プロセスをチェックさせ、間違いを訂正させたのだったが、いったいどうしてそのようなことが起こるのか、信じられなかった。  同様なことは、経理担当がまとめた各種の数字についても何度か経験した。複数の会社で、である。みな会計の専門家である。専門教育を受け、経験も豊富で、十分な知識を持っているはずなのに、計算間違いに気付かない。一所懸命、手順に沿った正確な計算に腐心し、よし、ちゃんと算出できた、と満足し、出来上がったアウトプットは見ていないのか。いやそんなことはない、結果検証をしないはずはない。だとすれば、なぜか。  彼らは、財務会計や管理会計に関する計数知識はあるけれども、計数センスがないのである。計数センスとは、目的達成や判断のために、数字で確認し数字で考える感覚、その感度をいう。たくさんの指標を正確に算出する知識は必要だが、何のために、何の数字があるのかという意味こそが大事であり、その理解を「感覚」として持てるかどうかが計数センスの有無だろう。それがないから、冒頭のようなばかげたミスが起こるのではないか。おそらく、項目別に手順を検証するにとどまり、「全体に対する個別項目の意味」の観点が失念されているだろう。  計算や指標の意味が分かっているから、実際の目的に即して、必要な指標を特定し、またときには、新たな指標を設定することができる。経営や組織マネジメントに必要なスキルは、こうした計数センスである。経営幹部候補や管理職にはもちろん、中堅社員の段階でもベーススキルとして会計知識、計数知識、計数管理スキルが必要とよくいわれる。結果、そうした研修も多く実施されているが、計数センスの醸成ができなければ、役に立たない断片的知識獲得にすぎない。  計数センス向上教育のポイントは、会計手法の本質の理解と経営リアリティの喚起である。  経営分析の基本原理は、差異分析と比率分析である。つまり、考えなければいけないのは、「何と何の差なのか」、「何と何の比なのか」ということである。差は、量や幅や増減を意味し、比は、比較(=対比)や全体と部分の関係(=比率)や変化の度合いを意味する。たとえば、利益は「差」によって求められる。たとえば、成長率は「対比」であり、労働分配率は「比率」である。  その基本理解を出発点に、たくさんある指標の定義式を覚えることではなく、何と何を対比するか、何を分母とし何を分子とするか、の感覚を身に着けることこそが大事なのだ。そのうえで経営分析するにあたっては、差をもってみるのか、比をもってみるのかを判断する。この判断の違いは、変化を何をもって認識するか、の違いであり、だから、「何をどうみようとするか」はある状況における経営の意思による。それが経営のリアリティである。  たとえば、あなたが独立してラーメン屋を開業したとしたら、どんな指標を見て経営判断するか。そんなシミュレーションをやってみるといい。客の男女比、年齢別割合、時間帯別来店者数、リピート率、品目別利益率、回転率、原材料費推移、、、、等々、限りなくありうる指標のどれを使うか、に正解はない。そのラーメン屋の環境、事業方針、経営方針によって変わってくる。めざすビジョンをどのように実現しようとするかという店主の意思が、計数センスの前提になるのだ。  つまり、計数センスとは経営センスに直結する。経営センスを形成する不可欠な要素である。そういえば、冒頭の財務責任者に驚かされたもう一つの事件は、予算策定の時におこった。来期の予算をつくるとなると、彼はまず、前期の数字を項目別にみて、個別のその増減を予測し、積み上げたのだった。予算策定の前提には戦略や方針があり、そのストーリーに基づいてしか、予算は作りえないはずなのに、である。