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人事制度

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生涯現役というソリューション | 関連制度設計

生涯現役というソリューション

生涯現役というソリューション 栄養、医療等のイノベーションで、我々は、今よりも健康で長寿になると言われている。現在の日本の中学生は、2人に1人が107歳まで生きると言う予測もある。長寿自体は喜ばしい事だが、我々が長寿化することで、従来の社会システムのバランスが崩れ、今までは気にせずに済んだ悩ましい問題に向き合わざるを得なくなる。端的に言えば、我々が、今まで80歳まで生きることを前提に人生設計を組んでいたとして、実際は100歳まで生きる状況になった時、追加された20年間の経済的基盤をどう確保するかと言う事だ。 我々の一生を教育ステージ、就業ステージ、引退ステージの3ステージに区分すると、現在のそれぞれの期間は、おおよそ20年、40年、20年と考えられる。引退ステージの後にさらに20年追加されると、当然、この人生の3ステージ全体のバランスを改めて取っていかねばならない。人生80年と想定し、リタイア後の20年を年金とそれまで蓄えていた貯金を使ってやり繰りしながら80歳まで生きてきた時、「おめでとうございます。追加であと20年生きられます!」と言われたら、我々は一体、どうすればよいのだろうか?少子化の中で、政府に何かを期待できる時代ではない。もし、残り20年分の経済的準備ができていなければ、その後の人生は、かなり憂鬱なものとなってしまうかも知れない。もっとも、実際は、ある日突然、一気に平均寿命が延びるわけではなく、年齢が若くなるにしたがって、徐々に平均寿命も延びていくので、現実は、これほど極端ではないが、いずれにせよ、我々ほぼ全員が、いままで以上に長生きする前提で、これからの人生設計をしていかねばならない。 私が20代の頃、若いうちから、かなりハードに働いて、そこそこの額の貯金をため、定年を待たずに4~ 50代までにリタイアして、あとは時折、旅行でもしながら、悠々自適に暮らしたいと話す友人達が、周囲に少なからずいた。「君は一体いくつまで働くの?」飲み会の席などで、友人達からそんな質問を時折受けたことを覚えている。当時は、短期間に強烈に働いて、早々にリタイアする人生を目指す事は、将来の人生を考えるスタンスとして、それほど不適切なものではなく、実際に実現できるかどうかは別として、概ねポジティブに受け入れられていたように思う。 ただ、そうした計画を立て、中には実際に実現できた人々もいるだろうが、今になって、さらに20年分の生活が追加されるとなれば、どうだろう? 再度、収入を得るための活動を再開する必要が出てくるかも知れないし、何より100歳まで生きるのに、4~50歳で、リタイアしたら、引退後の人生の期間は、あまりに長く、時間を持て余してしまうに違いない。当時は、早期リタイアを目指す人生は肯定的であったかも知れないが、やがて来る長寿化時代を見据えると、今や、そうした人生設計はリスクが高く、あまり魅力的とも賢明な選択とも言えなくなってくる。 今後、医療の進歩等で、さらなる長寿化やアンチエイジングが進む事も考えられ、将来の自分の身体能力がどこでどのように変化していくのかも、過去の人々のケースを参考には出来なくなくなって来る。また、どの仕事がAIにとって代わっていくか、明確には予測ができない事などを考えると、これからの人生で、いつまで働こうか、どんな仕事をしていこうか、と算段することが極めて難しい現実に直面する。先を見越して計画を立てるには、自分自身も含めて、将来の環境や前提を安易に見定められない状況がそこにはある。 それならば、いっそ、潔く、生涯現役宣言をして、死ぬまで働く覚悟を持って、健康に留意しつつ生きていく方がよっぽど、気分がよいと思うのだがどうだろうか。 また、どの仕事が今後生き残るか、高い収入が得られるかと検討する事も大切だが、それも不確実性が高く、当てが外れる事も大いにあるだろう。であれば、何より、自分がやっていて楽しく感じられ、自分の特性が最大限、発揮できることで他者に貢献ができると思える仕事が何なのかを今からでも、真剣に自問し、見つけていく事が、何よりも重要なのかもしれない。そんな仕事を見つけられれば、仮に収入は多くなくとも、やりがいを感じ、大きなストレスなく、働いていけるし、より幸せを感じて過ごしていけるだろう。 この問題に対する答えは、どこかで誰かが用意してくれることはない。自分自身をよく理解し、自らその答えを見つけるしかない。今までは、そこまで深刻に考えなくても、ほど良いタイミングで寿命がやって来たが、これからは、社会を大きく変化していく環境の中で、老後を生きていかなければならないのだ。そんな未来を見据えて、我々は、早期リタイアを目指すマインドから、生涯を通じて、考え、学び、働き、そして、それを楽しむ・・そんなマインドセットに切り替えていく事になるのだろう。

飲み会のスタンス | 人事制度

飲み会のスタンス

 私も50歳弱の年齢となりましたが、最近、飲み会での風景やマナーや礼儀が以前に比較してずいぶんと変わってきたと実感します。我々の年代がまだ駆け出しだった頃は、クライアントとの会食でも社内での飲み会でも、ずいぶんと気を遣った記憶があります。クライアントとの会食は年輩の方との会食が多いため、私自身の振る舞いなどは以前と変わらないのですが、同席する社員の言動やスタンスなどにははらはらすることがあります。また、社内を意識的にフラットにしていることもありますが、それにしてもあまりに気を遣わない、気が利かないなどという感覚を強く感じます。これはよい面と悪い面がありますので一概に以前に比較して問題だと思わないのですが、個人の感覚との差として驚くことも多くあります。  具体的にギャップを感じることを列挙してみます。まず第一に、酒を注ぐことをしなくなったなと思います。酒を注ぐという行為は相手に対する慰労や感謝、親近感の現れの一行為です。接待側であればお客さんに対する礼儀として、常に杯やグラスの状況から適度なタイミングで酒を注ぐのが気遣いというものです。当社の社員は比較的女性比率が高く、また、人事関連サービスをしている企業ですので、女性がお酌をするのも妥当認識は全くありません。フラットな企業文化にするためにも、男女とも基本的には社内での飲み会は酒を注ぐことはしないようにと指導しています。そのため社内での飲み会では酒を注がれることは稀です。この感覚をクライアントとの会食に持ち込まれると、世の中の常識と異なることにすら気づかないことのではないかとも思います。接待の席で静かに座っており、酒も注ぐという感覚がないのです。マニュアル的に酒を注ぐ注がないと言っているのではなく、酒を注ぐという行為の意味や自分の位置付けがあまり理解されないようです。  次に、飲み会の主旨の理解です。飲み会はいろいろな意味で絶好なタイミングであることを理解していません。これも我々が若いときは、飲み会は普段話さない相手や話さないことを会話できる絶好のチャンスなのです。コンサルティング会社は基本的にはプロジェクト単位で組織編成しますので他の社員と日常コミュニケーションを十分にとれません。ノウハウや情報を共有するという観点からも、もっと積極的にいろいろな人といろいろな話しをする絶好のチャンスであるということを認識していない人もいます。仲のよい数名の社員が固まって酒を飲んでいることなどもありますが、別の機会に数名でいけばよいのであってチャンスを生かしているといえません。クライアントに対してもそうです。クライアントの経営者や幹部との会食ですので、様々な話を聞ける絶好のチャンスです。チャンスを生かせるか否かは本人のスタンスによります。  第三には、場の雰囲気を見ないということです。テーブルに料理が運ばれてくれば、気が付いた者が率先してテーブルに置いたり、スペースがなければ少量残っている料理を皿を取り分けてスペースを空けるなどの配慮ができないようです。自分に取り分けられた料理を食べるか、自分の食べるものを自分で取るくらいで、テーブルにいる他の社員への配慮やテーブルの状態などへの場を見ることができないのです。遅れてきた社員に対しては、まずは席を指定して用意することがその社員への礼儀ですのに、あまり気を遣ってはいないのではと思えることが多くあります。  この他にもいくつか気になることはありますが、クライアントにせよ社内にせよ、宴会や飲み会の行動やマナーや礼儀がずいぶんと感覚が違うなと感じます。これは職場を離れて飲食をともにするという意味やスタンスが違うのだと感じます。クライアントとの会食時には口うるさく言いますが、社内の飲み会ではこれも自然な文化の一つかなと思ってしまいます。ですので、飲み会始まりますと、食べ物飲み物への配慮などは私がしていることが多いことに気が付きます。最近ではいたずら心もあり、酒の瓶やボトルは私の横に確保して私が他のメンバーに注ぐようにしています。たまに私に注ごうとする社員はいますが、断りますとすぐに引き下がります。形式の問題ではなく、酒を注ぎたいと思ったら、私から瓶やボトルを奪っても注ぐくらいの気合いがなければ、注いでもらわないで結構だということなのです。  お酒を飲まない社員の比率も高くなってきている中で、宴会や飲み会のスタンスやマナーを論じること、特に社内での飲み会などはそうですが、昔の飲み会の方が人間味があったなと感じてしまいます。クライアントとの会食などは、普段は話せない普段では聞けない仕事や人としての話が聞けます。時代とともに変わるのでしょうが、最低限のマナーや礼儀はビジネスマンとして意識するのが当然です。私などはクライアントとの会食で本当にいろいろなことを教えていただきましたし、親交を深められました。せっかくの機会ですので、気持ちよく、さらには勉強になるような、いい酒を飲みたいと思っています。

偶数段階評価 | 人事制度設計

偶数段階評価

 日本人は幼いころからの学校教育の影響か、何かを評価するときに五段階で行うことが好きなようです。この五段階とは、例えばS、A,B,C,Dや5、4、3、2、1のようなもので、長年慣れ親しんできています。この感覚が企業の人事にもそのまま持ち込まれているように感じます。  この5段階評価は、特徴的であるのはBや3などの“ふつう”という概念です。平均的、まあ合格レベル的な感覚ではないでしょうか。なぜ特徴的であるかというと、非常に難しい概念であるからです。それは“ふつう”の上下の境界線が決まらなければ“ふつう”が決まらないからです。要は“ふつう”という概念は、二つの境界線を設定しなければ成立しないのです。AとB、BとCの境界線の間が“ふつう”ということだからです。Bの概念には厳密に言えば求められている基準に対して多少上回っていることと、多少下回っていることが混在している、非常にわかりづらい構造なのです。  人事管理の評価でもこの日本的な慣行は一般的で、評価を“ふつう”を中心とした5段階にする傾向が非常に強くあります。もっと言えば慣れ親しんでいる5段階で評価することになんら疑いを持っていないのです。  企業の人材管理で非常に重要であるのは、企業が求めるレベルの人材が適正数在籍しているかということです。これを制度的に言えば、昇格が最も重要と言うことになります。昇格を判断するためには、現在の等級の基準をクリアしているかが問題であります。従ってBとか普通という概念ではなく、大学を卒業すると同じように、等級を卒業するために、昇格基準を越えているかいないかが問題なのです。従って極論すれば“越えている”“越えていない”を判断することが基本的な機能として必須になるのです。これは究極には“○”か“×”かということですが、○にも段階があるでしょうし、×も同じですからそれぞれ2つに分割したら4段階評価ということになるでしょう。  要は人材管理の非常に重要な機能の昇格の判断には今までの5段階評価は合理性が全くないということなのです。基準をクリアしているかいないかが昇格の候補者であり、それがはっきりわかる評価方法に変えなければ機能しないのです。  社員の能力の評価は、昔風の5段階ではなく、クリアしているかいないかが明示できる偶数段階評価が必要になるのです。たまに昔から親しんでいる奇数段階評価でないと社員が理解できないと言う企業もありますが、大学卒業は単位が取れるかとれないかで判断される訳であり、なにも小中高校の感覚でなければ評価しづらいというのもどうかと思います。実務的にもBや普通のある概念は難しさを倍以上にします。評価の目線が合わないと言っているのであれば、合いやすいように偶数段階評価にすれば、合わない部分はたちどころに半分以下になるでしょう。 以上

絶対評価は絶対か? | 人事制度運用支援

絶対評価は絶対か?

その定義は「基準に照らしての評価」にすぎないから、絶対評価といってもそれが“絶対に”正しいわけではない。評価の納得性や育成の観点からいって、相対評価よりも使い勝手がいいということである。   人事評価における絶対評価とは、被評価者同士を比較して序列化する相対評価に対して、あらかじめ設定された個人目標の達成水準や行動評価項目の評価基準をもって個々人を独立的に評価することをいう。 「君はよくやっているが、あいつに比べると劣っているから、C評価」などと言われて納得できるはずもないが、それ以上に、相対評価では育成に使いづらい。 相対評価でつけられた評点は、つねに他者との関係できまるから、なにをどうすれば、高い評点にいたるのか、つまり、自身が成長するのかがわからない。基準との距離を見る絶対評価であれば、たとえば行動評価で「君の等級では、あとこの2つの項目がBになれば、卒業レベルだ。その2項目がCなのは、要件である〜〜〜〜ができていないこと。だから今後業務で意識すべき課題は〜〜〜〜」といった指導ができる。だから、人事制度を設計する場合、その評価制度は絶対評価とするのが主流になっている。 発揮能力や行動や成果を測定する道具としては、絶対評価であるべきなのは当然であるが、その一方で、絶対評価の弊害もある。評価基準自体があいまいであれば、評価の中心化や高ぶれが起こったりする。かといって、基準を具体化詳細化しようとするとキリがないし、逆に精緻に作りこまれた評価基準は、本来その意思や裁量性が発揮されるべきマネジャーに杓子定規な評価行動を強制したりする。 よく目標管理を運用されている会社で問題とされる「目標レベルのばらつき」とは、要は基準自体がおかしいわけだから、絶対評価の納得性もゆらいでしまう。かくて、目標設定をいかに適正に行うかに腐心し、必然的にそこに時間と手間をかけざるを得ない。個々人の目標という基準に即して独立的に評価する以上、そこが根幹になるからだ。 全社横断的に目標レベルを揃えることは難しいし、行動評価基準に誰しもが迷いなく評価できる明快さを持たせることは至難の業である。基準は、評価制度を使うマネジャーたちが運用のなかで明確化し共有していくしかない。一次評価者同士の目標設定会議や評価会議を地道に繰り返し、「基準」を共有していくことが、絶対評価を適正な評価手法として活用していく最良の方策である。 それでもなお、基準に即して評価することは、難しい。もしかすると、人が人を評価するということの限界がそこにはあるのかもしれない。つまり、どちらがいいか人と人を比べればわかるけれども、「基準」との距離なんて個別正確に測定できない。もしそうだとすれば、賢い方法は、まず相対評価をしてから絶対評価をすればいい。実は、多くのマネジャーがアタマのなかでやっていることである。

評語の標語化 | 人事制度設計

評語の標語化

 評価票の無機質さは、なんとかならないものか。なにより学校の通信簿のような「評語」が大人げない。  コメントはいろいろ書かれているものの自身の評価結果が味気ない評語の羅列で示されている。成績としての良し悪しだけはわかるが、業務遂行や行動におけるリアルなレベルは伝わらないし、だからどうする、が見えない。ゆえに、上司コメントや面談による指導が評価という行為には不可欠とならざるをえない。  評語とは、 1. 批評の言葉。評言。 2. 成績の評価を示す言葉。優・良・可の類。 と辞書にあるが、人事の世界ではもっぱら後者の意味でつかわれる。評語=SABCDとか54321などの評点レベルの表現語、である。ついでに言うと、数字評語は、成績レベルとしては直感的だし、平均処理といったわかりやすい集計処理ができるけれども、アルファベットはいただけない、と常々思う。  評語だけではレベルがわからないから、評価制度ではたいていその説明がついている。それもまた味気ない。たとえば、 S / 5 期待を大きく上回る A / 4 期待を上回る B / 3 期待どおり C / 2 期待を下回る D / 1 期待を大きく下回る といった表現で、味気ないだけでなく、そもそも、4と5、2と1の違いである「大きく」とはなにか。あいまいである。なので、評価者研修では、「期待とは、等級に求められる水準であり、5は、上位等級レベル」だとか、「問題があれば、2。支障があれば、1」などと解説する。  解説がいるくらいなら、評語自体をメッセージ化してしまったらどうか。それならば、見てすぐに自分のステータスがわかる。たとえば、こんな具合に。 ■上位等級レベル。昇格準備  ←S / 5 期待を大きく上回る  ■卒業レベル。要上位課題確認 ←A / 4 期待を上回る   ■等級相応。要ストレッチ   ←B / 3 期待どおり ■問題あり。要確認      ←C / 2 期待を下回る ■業務支障。降格危機     ←D / 1 期待を大きく下回る   いわば、評語の標語化である。標語とは、「主義・主張,運動の目的などを簡潔に示した短い語句。モットー。スローガン」であるから、ここであげた即興例なんかより、もっと自在に、もっと独自表現で、自社にとっての評語表現をメッセージ込めて作ればよい。  評語の一つ目の意味は、「批評の言葉。評言」である。当社にとって、5レベルの優れた人をどう評するか、が標語としての評語作成の出発点である。大げさに言えばそこに、会社の理念や組織哲学が表出するはずであり、味わいのある評価票がうまれるのではないか。  何を評価するかの観点は、多種多様だし、その表現もまたいくらでもある。企業固有でかつ琴線にふれるような文学的表現があってもいいとも思う。最近読んだ本のなかに、人を評する言葉としてこうあった。  佇まいの凛冽、志操の高潔、言動の超俗。

プレイングマネージャー禁止論 | 人事制度設計

プレイングマネージャー禁止論

 「生産性の動向2015年度版(日本生産性本部)」によると、2014年の我が国の労働生産性は約73,000ドルで、OECD加盟34カ国の中21位、主要先進7カ国で最も低い水準が2005年より続いている。我が国の企業の生産性が低い水準で留まっている背景に何があるのだろうか。  コンサルティングの現場、肌で感じている事をいくつか挙げてみよう。例えば、「業務の分担」の問題。多くの企業で、正社員が非正社員と同様の業務を行っている状況が少なからず見受けられる。非正社員より労働コストの高い正社員が、非正社員と同様の業務を行い続ければ、生産性が低下するのは当然である。そこにメスをいれることができていないのは、誰が、どのレベルの業務を行うべきかというモノサシが現場で確立されないまま、放置されているという事だろう。  次に、「不要な残業」が行われ、それが見過ごされているという現実。なぜ、残業が必要なのか、どのくらいの追加時間が必用なのか、誰もよくわかっていない。残業をマネジメントするための環境が整っていないので、本来は就業時間内に当然完了すべき業務が残業時間に回されたりしても、気付かなかったり、否定することができない。適切な残業基準ができれば、就業時間内に仕事をかたずけてしまおうという意識が高まり、業務の生産性は高まっていくはずである。  もう一つは、「不適切な意思決定プロセス」である。意思決定に無関係な人物まで会議に召集されたり、せっかく会議を招集したのに、延々議論の末、結論をださなかったり、逆に、しかるべき時に、意思決定の場が設けられず、何度も先送りされたり・・。こうした不適切な意思決定プロセスのために、関与者の多くの作業と時間が無駄に使われていることを深刻に受け止めなければならない。  さらには、部下と上司の間で、「適切なコミュニケーションがされないこと」で、無駄な作業ややり直し作業が発生したり、現場における「業務の標準化やシステム化への主体的取り組みマインドの低さ」なども、我が国の生産性向上を阻害する要因といえるだろう。  実際のところ、大多数の企業では、それらを問題として認識している。が、現場の管理職がその他の業務で忙しすぎて、結果、本格的に手が付けられていないというのが実情なのではないか。本来、管理職は日々の実務を行わず、配下の実務者のアウトプットを最大化するためのマネジメントを行うことがミッションであるはずだが、我が国では、バブル経済崩壊以降、長きにわたり、合理化推進の旗印のもと、組織の頭数を抑えるために、管 理職をいわゆるプレイングマネジャーと位置づけ、非管理職が行うべき実務まで、管理職に多大に追わせてきたことで、管理職本来のミッションが機能不全に陥ってしまっている面があるのではないか。また、当の管理職も、非管理職時代から慣れ親しんだ実務を引き続き行うことを会社から許容されている事で、本来のマネジメントはほどほどでよいという免罪符を与えられた感覚になっているのではないか。  厳格に管理職と非管理職のミッションを切り分け、管理職から一切のプレイヤー的業務を取り上げ、四六時中、配下の組織パフォーマンスを高めるためのマネジメント業務にだけ集中させるぐらいの覚悟で、生産性向上に正面から取り組める環境を整えていかなければ、我が国の生産性問題は本質的に解決されないだろう。

時代遅れの二次評価 | 人事制度設計

時代遅れの二次評価

 多くの企業では人事評価を行う上で、数回に渡り評価の見直しを行うことが普通に行われています。直属の上司がつける評価を一次評価とし、より上位の社員役員による再評価を二次評価、三次評価として運用している企業が実に多くあります。長期雇用、年功序列の人事管理の中では、この二次評価、三次評価はそれなりに機能を果たしてきましたが、実力、成果主義の人事管理を指向しようとすると、とたんにこの二次、三次評価はマイナス以外の何者でもなくなります。  かつての人事管理は、長期に安定して勤務することが非常に重要であり、そのため社員の大多数がある程度満足する評価でなければなりませんでした。評価自体も口当たりの良い甘い傾向であることが当然ですし、また二次評価以降でも組織間のバランスなどの視点から、全社的に多くの社員が満足するバランスをとるための評価調整がなされるのです。もっと言えば社員個々の評価について厳格に管理するという視点はそもそもなく、多くの社員が満足するバランス作りが必要だったのです。したがって一部の優秀な社員と大半のまあ優秀な社員と、ほんの少数の優秀でない社員という暗黙のバランスを指向していたとも言えます。二次評価以降はこの全体バランスという視点で調整することが主たる役割であり、上位の管理職や役員からみて、うまいバランスであるかを検討する場として、それなりの意味があったのです。  しかし経営、人事を取り巻く環境は、大きく変わりました。企業の成長のためにハイパフォーマーをできるだけ育成しなければなりません。労働市場の発達はメリハリのない企業にとっては人材流出のリスクが高まっています。また人件費にも限りがあります。有効な配分をしなければなりません。環境は全員を最後まで雇用することを前提としない、労働市場的にも社内的にも実力主義的人事管理を求めているのです。この環境の変化に対して現在の人事制度はあまりにも旧式です。実力成果主義人事を行うための人事制度に切り替えなくてはならないのですが、未だに実質年功給的な昇給があったり、適正な人員構成実現という観点の昇格になっていない、賞与などの配分に論理性がないなど様々な問題が発生し、新たニーズに対応できていないのが実際でしょう。  実力、成果主義人事制度のもとでは、社員に対する評価は常に“絶対”でなくてはなりません。そうでなければ社員の理解を得ることができないからです。そのためには昔の評価制度風に言えば、一次評価のみが重要であるということです。要は評価を適正に行うためには、直接の業務指示者が正確な評価を行うことに尽きるということです。直接の上司でなければ実際の能力や貢献がわからないからです。この一次評価の品質をいかに上げるかが極めて重要で、一次評価の品質が低い企業は、二次評価以降の評価で品質がよくなることはありません。一次評価の結果を上位者により変更することは、一次評価者、被評価者の理解賛同を得られずらく、混乱し不満に思うだけでしょう。実力、成果主義的人事では二次評価はその存在がそのものに意味がありませんし、逆にマイナスなのです。  よく“一次評価者のレベルが低く、二次評価で修正しなければならない”などという声も聞きます。そのために二次評価をするのだと。しかしそんな社員を管理職として遇し、また適正な評価ができないことを黙認してはいけません。今後の人事管理では二次評価という言葉自体も存在しないということです。 以上