©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

その他

column
藤田田さん | その他

藤田田さん

日本マクドナルドの創始者だった藤田田さんと定期的に会っていたことがある。といっても裏方に過ぎなくて、同社の広報誌に掲載するため、各界の識者との対談をコーディネイトしていたからだ。誰と会っても、臆することなく語る藤田さんの商売哲学は、独自の視点と商売の論理に裏打ちされたゆるぎないインパクトがあった。なにより、その強烈な主張にたいていのゲストがたじろいでしまう様は、見ていて痛快だった。 ある新進気鋭の学者は、アカデミックな観点からの消費論を展開すべく意気込んで対談に臨んだけれども、藤田さんの堅固な商売感覚に対してまさに蟷螂の斧。用意してきた論点や主張は、「それって、いくら儲かります?」という切り替えしに沈んだ。終了後、帰りのエレベータの中で肩をおとし、「何言っても、あれだ。ぜんぜん聞いてくれないんだものなぁ」とぼやいていたものだった。 ある人材派遣会社の社長には、「あんたは鵜匠ですな」と言い放ち、むっとしている相手に一切構わず、とうとうと自説を語ったこともある。ときに、意気投合する相手もいて、そうしたときの盛り上がりは半端ではなかった。当時、社会経済システムをテーマにした話題作を発表していたある小説家とは、日本の植民地支配や共産主義をめぐって、とてもここには書けないような発言を連発しては、「そうそう!」、「まったくそのとおり!」、「世論は、間違っているけど、実は〜〜〜」、「ですよね〜!」と、対談時間は大幅に押したものだった。 まさに天衣無縫の振る舞いで、政治家であれ、企業の社長であれ、高名なジャーナリストであれ、まったく同じように、聞きたいことを聞き、言いたいことを言う。そこには、いつも、一貫した現場の商売論と無邪気なまでの好奇心があった。全店の数字をリアルタイムで把握して、店舗に足を運び、従業員に話しかけるという日々。いつも、ネクタイピンもカフスボタンもマクドナルドマークだし、さまざまなキャンペーンを自ら発想し、指示していた。あるとき、広告の仕上がり見本にあるコピーの「春です、得です」を見た藤田さんは、「得です、ではだめだ。お得です、にしなさい」と広告のコピーさえも、直接変えてしまうのだった。 当時人気の時代劇で“裏の仕事人”役だったある役者には、「毎回結構な謝礼をもらうけど、あれは、どこに貯めているのですか。家族の眼もあるし、あまり使っているように見えないし」と、真剣に、劇中人物への質問をした。返答に窮して、あいまいなことを言うのをさらに追及して困らせていたものだった。こうした無邪気な好奇心は、誰に対しても向けられ、だからこそ、ストレートな物言いや強烈な商売論に辟易としながらも、しだいに藤田さんの筋金いりの商人ぶりが無邪気な好奇心と表裏一体であることが相手にもわかってきて、対談の終わりはいつもよい雰囲気だった。 そして、対談が終わると藤田さんはいつも、お礼としてマクドナルドの店舗で使える無料券の束を手渡すのだった。どのゲストにも例外なく、堂々と。

組織の整体師 | その他

組織の整体師

ある意味、職業病なのかもしれない。長い間パソコンをたたき続けていたためか、肩こり・首こりが激しくなり、先日のある週末、頼りの整体師に施術を受けに出かけた。 「高柳さん 今日も、相変わらず、すごい硬さですよ」 私の肩をもみながら、整体師のAさんは、そう言った。 「肩こりの主たる原因は、血行不良なんです。長時間、同じ姿勢をしていると、特定の部分の筋肉が緊張状態になり、その周辺の神経や血管を圧迫する。その結果、血液の流れが悪化し、筋肉は酸欠状態となり、老廃物がたまり、こりを感じるようになります。ですから、仕事の合間に首や腕を回したり、軽い運動して、とにかく、血行を良くして、老廃物をためないようにしてください」 長い時間、同じ姿勢で過ごすと筋肉が緊張し続けることになるので、血液の通りが悪くなり、酸素の供給が滞ったり、老廃物を滞留させ、それが慢性化すれば、目まい、頭痛、集中力の低下など、全身に大きな影響を及ぼすことになるだろう。 マッサージサロンのベッドの上で、彼の話を聞きながら、人間の体で起こるこうした現象は、実は日本企業の組織の中でも、よく起こっているのではないかと思った。 組織の血流を停滞させないように、積極的に人事異動を行っている企業ももちろんあるが、組織やその構成人員が硬直的で、一度、ある部署に所属されたら欠員補充のような異動以外は、積極的に人事異動を行わないところは、思いのほか多いのが現実である。 そうした企業が人事異動に消極的な事の主たる理由として、同じ社員が継続して業務を行うほうがノウハウが蓄積され効率的だからという主張である。確かに、新しく移ってきた社員は、従来やっていた社員より、最初は効率が悪いかもしれないが、次第に慣れていくものだし、異動がないと、業務の標準化、マニュアル化の遅れの原因にもなり、業務の属人化が進んでいくことにつながる。あまり長い期間、特定のメンバーに業務を任せ続けてしまうと、仕事の内容がブラックボックス化して、外部で把握できなくなっていく。人事部門は、異動に伴う引継コストという短期的視点ばかりでなく、異動を行わない事による中長期的なリスクも考慮して、人事異動を実行していかなければならないはずである。 もう一つは、本当はもっと積極的に人事異動をしたいのだが、組織が縦割りで一度配属されたら、他部門への異動は現場が受け入れてくれないという理由である。本当は、やりたいのだが、現場の部門も抵抗されるということだ。確かに。現場の各部門の力が強く、人材の放出に、部門長が否定的な企業も少なくないが、これこそ、「全社最適<部門最適」の典型であり、人事主導になって、トップを巻き込みながら、組織全体での血流の活性化の重要性を浸透させていかなければならないところだろう。 ヒトの体と同じで、人事異動を適切に行う事で、組織の血液たる「情報」の流れがよくなるとともに、蓄積された老廃物も取り除かれていく。組織が硬直化し、企業全体が機能不全に陥らぬ前に、人事部門は組織のコリを取り除いていく優秀な整体師の役目も負っている。

無知は哀しい | その他

無知は哀しい

 恥ずかしながら40歳になるまで、ザルそばの薬味のワサビは、直接そばにつける、あるいは口直しにちょっと舐めるものだとは知らなかった。あるとき、池之端藪の小上がりで独り菊正宗ぬる燗をやりながら、隣の初老の客を見るともなく見ていたら、ワサビをちょんちょんと蕎麦につけると、その部分はつけ汁につけずに手繰った蕎麦の下だけ蕎麦猪口に入れてズズッとすすっている。  真似をしてみたら、その旨いことといったら堪らない。ワサビが引き立て役になって蕎麦の味が香り高く際立ち、口腔をうならせる。後で調べてみたら、薬味のワサビは本来そのためのもので、つけ汁に溶いたらまったく意味がない、と知った。なぜ誰も教えてくれなかったのか、とその時、くやしさに身もだえしたものだった。若い時から蕎麦好きで、たいていの老舗蕎麦屋には通っていた、この20年間は、蕎麦の味を十全には味わえていなかったということなのだから。  なんともったいない時を過ごしたことか。無知のせいで、蕎麦喰いの快楽を実に20年間も味わっていなかったとは。大げさに言えば、食という人生の愉しみについて取り返しのつかない損失である。おそらくは、蕎麦喰いとしては、薬味のインパクトを知っている人が味わう蕎麦の60〜70%の堪能レベルだったに違いない。なぜワサビがそこにあるのかをよく考えもせずに、つけ汁に溶いていた自分が実に情けない。  かくのごとく、無知は哀しい。無知はその本人にとって、豊かになるはずの人生を阻害する。たとえば、歴史の知識がある人とない人では、NHK大河ドラマを面白がる度合いが違うだろう。それもささやかだけれども、人生の豊かさの違いである。知らないからわからない面白さや醍醐味は、きっとあらゆる事柄にある。無知ゆえに、そのこと自体にすら気づかないのだ。  逆にいえば、知識は人の人生を豊かにする。よく研いだ包丁で長葱を切ると細胞をつぶすことがないので、くさみのない、格段に旨い刻み葱になる、あるいはボンゴレビアンコの旨さはちょっと煮立て“乳化”させたソースにあるとか、理屈がわかればしみじみと料理が愉しくなる。漢字や言葉の由来を知れば、それだけで人々の知恵の連鎖に触れ世界は深まる。  どんな事柄でも、理由がわかれば、物事はより面白くなる。企業の階層別研修では、よく、WHY思考というものをテーマとする。WHY=なぜ〜〜を問うことで、たとえば、目の前の業務の意味や、ルールの意味を考える。それが仕事の有意義感や面白さにつながり、また、何をなすべきかがわかる。そうしたWHY思考は、仕事の場だけでなく、実は日常のすべて、生活のすべてのことわりに向けて働かせるべき態度として重要なのである。  「なぜ、この仕事をするのか」、「この仕事の意味は何か」を問うことは、イノベーションの源泉といわれる。ひたすらWHYを突き詰めることで本質まで立ち返って初めて、新しい視点やアプローチ、アイディアが生まれるからだ。もちろん、蕎麦のワサビの意味に気づいたからと言って、生活のイノベーションはうまれない。しかし、暮らしの中のささやかな革新の契機にはなるのではないか。  すくなくとも私はそれ以来、「薬味の効用」に目を開かれ、ステーキを焼くときも、辛子、ワサビ、柚子胡椒、大根おろし、ディル、クミン、ガラムマサラ、梅肉、練唐辛子、晒し玉ねぎ、海苔佃煮、、等々を合わせてみるという、小さなイノベーションに挑戦し続けているのだった。

無能の大罪 | その他

無能の大罪

 企業内教育は、個々人のパフォーマンスを高めるために不可欠の施策である。OJTやOff-JTにより、早く求められる成果をだせるようになって、生産性に貢献してほしいから、育成する。しかし、そこで高められる能力とは、企業固有スキルであって、大半は汎用的スキルと重なるけれども、大事なのはその会社ならではの必要スキルである。  だから問われるのは、その会社で成果を出せる能力にすぎない。「あいつは能力が低くて困る」という上司のぼやきは、正確に言えば、パフォーマンスが低い、貢献となる行動をとれていない、という意味で、決して、「能力」そのものを深刻に評価しているのではない。たかだか、いまこの会社で求められる行動発揮に問題があるだけである。  企業で評価されるのは、行動とその結果である。評価制度は通常、業績評価と能力評価のふたつで構成される。その能力評価とは、潜在能力ではなく、発揮能力。その会社で階層別に求められる発揮能力=行動を評価するものである。なので、名称自体も能力評価ではなく、行動評価とする評価制度が増えてきている。  問われるのは、能力ではなく行動である。仮に能力が低くても、行動ができていればいいし、行動ができるレベルにないなら訓練をすればいい。訓練をしても行動ができないなら、その仕事は無理だということだけである。それが、能力が足りないからか、やる気がないからか、あるいは別の何かのせいか、その理由はどうあれ、である。  企業の現場において、個々人の能力の多寡は、重要でない。行動と行動発揮を促進する訓練、つまりはマネジメントが問われるのであって、「あいつは能力が低くて困る」などと、上司に言われる筋合いはないのである。行動発揮が十分でなければ、それなりの評価となり、それなりの処遇になるだけであって、あえて能力を発揮せずに、そうした働き方を選んでいる人だっているかもしれない。  その意味で、従業員の能力のあるなしは、問題ではない。しかし、この上司=管理職者だけは、文字通り能力が問われるではないか。問われるどころか、無能なマネジャーは組織にとって有害といっていい。管理職も役割定義されているから、求められる行動ははっきりしている。ただ、明文化された役割行動をとるだけでは、マネジメントはできない。内外の不測の事態に対応した判断ができるには、「能力」が必要なのである。  その最前線での判断が会社に与える事業的影響もさることながら、たとえば、クレームだったり事故だったりに対して、逃げたり、責任転嫁したり、矢面に立たなかったりする上司を目の当たりにした部下たちはどうなるだろうか。当の管理職者に対してのみならず、任用した会社に対しての落胆、失望、諦観。個々人を活用して、組織としての成果を上げていくしくみである会社にとって大罪である。  管理職役割定義に書かれていることの根幹は、要は、意思をもって、いろいろ工夫して、判断してくれ、ということであり、それには、一定の能力を前提する。そこで必要な能力とは、課題発見力だったり、分析判断力だったり、指導力だったり、育成力だったりいくらでも書き連ねられるけれども、もっとも大事なのは、「意思」と「覚悟」である。  これは、経験によって磨かれるだろうけれども、そもそもそれを持ち得るかどうかは能力だろう。だから、昇格のアセスメントでも、意思決定にかかわるスキルとともに、必ず、「達成意欲」や「姿勢」、「自律一貫性」といったさまざまなスキル名称をもって、それらのレベルを測定しようとする。  よくリーダーシップの要件として、人間力といった言葉が語られる。そこには、ともすれば高邁な人徳や器の大きさのイメージがあるが、それほどのものは必要ない。ただ、意思と覚悟を持てる能力だけは、管理職者には不可欠であり、その意味での無能な管理職者を決して作り出してはいけないのである。

フェミニンリーダーシップ | その他

フェミニンリーダーシップ

 ふたたび、ジェンダーについて書く。  ダイバーシティマネジメントを体現する人材活用の一環として、女性管理職比率を目標設定することがある。それについては賛否両論あって、否定派は、一定数の女性管理職登用を目指すがゆえに、本来の登用基準より低い“女性用基準”が生まれることを危惧する。ひいては、女性の尊厳を傷つける施策だとまで言うむきもある。  しかし多少無理はしても、一定比率の女性管理職を人数枠設けて“外形的に”作ることが早道であることは確かだろう。女性の管理職候補者が育ってきてから同じように選考して、などと言っていたら、女性の管理職が増えるのがいつになるかわからない。だからこその強引な目標設定だったのだから。  そこでの主たる懸念は、このように登用した女性管理職が管理職としてパフォーマンスをちゃんとあげられるか、ということだが、その心配はあたらないのではないか。きっと女性たちは、管理職能力を発揮できるはずだからである。  ある時期から、採用担当者の方々からこんな悩みを聞くことが増えてきた。選考過程で、評価の高いほうから採用していくと、女性ばかりになってしまうので、男性を採るために採用基準を下げざるを得ない、と。これはこれで大丈夫か? という気もするが、それは置くとして、優秀で元気な女性が会社に入ってきている時代である。我々も、研修の場で、女性のほうが自由で創造的な発想をする場面を何度も目撃している。  いやいや確かに女性社員は優秀だけれども、管理職としての能力はどうだろうか、と疑問を呈する方もいるだろう。それなら優秀な女性社員の業務遂行ぶりをよく見てほしい。彼女らの特長は、複数の並行作業の優先順位づけと割り切り、判断の速さである。  仕事も家事もこなすために、定時退社や場合によっては時短勤務を必須として、効率的にかつ割り切った判断で仕事をする。よく言われるようにそもそも家事というシャドウワークは、マルチタスクの並行処理であるから、仕事においても、男性社員のようにうだうだ思い悩まずに進めていくクールさがある。  管理職の仕事の大半は、多種多様な案件の意思決定である。優先順位の高いものから、早く、的確に判断する仕事である。そこには冷徹な割り切りもしつつ、やるべきことを粛々とやっていくことが求められる。かつて女性ならではのリーダーシップを分析し話題なった本『フェミニンリーダーシップ』(マリリン・ローデン)を持ち出すまでもなく、こうした管理職業務が女性に向いていないとはとうてい思えない。問題は、女性の管理職能力ではなく「管理職志向のなさ」にあるにすぎないのだ。  アセスメントセンター方式による昇格アセスメントでは「インバスケット」というシミュレーション演習を使う。管理職の立場でたくさんの案件を短時間で処理するという判断ゲームで、純粋に管理職としての意思決定力を診断するものだ。純粋に、という意味は、会社固有の暗黙知や職場の人間関係や業務情報の多寡によらずに、ということである。  従来の、人事考課の結果と部門長推薦と役員面接による登用決定だけでは見落とすかもしれない管理職能力を診るために、アセスメントの活用が増えてきている。同時に、そうした従来型の登用方式が女性の管理職登用を阻害してきたものでもある。アセスメントによって、予断なく純粋に管理職能力を見極めれば、女性管理職の登用にさほどの無理はなくなっていくだろう。  もちろん、管理職に必要なものは、ここで書いてきた意思決定力、つまり管理能力だけではない。リーダーシップと言ったり、人間力と言ったりする人々に影響を与える力がないと人はついてこないし、管理職としての強い役割意識もまた不可欠だ。それらについての女性たちの適性はまだわからない。もし多くの女性が管理職になりたいと思わないのであれば、その姿勢やマインドからして、このあたりはあるいは不得意かもしれない。  しかしそれも心配はないのではないか。管理職とは役割であって、演じるものである。男性よりも演技に長けているのが女性だという通俗的な女性観が正しいとすれば、リーダーとしての役割を、割り切って演じられるはずだから。

密室の実力主義 | その他

密室の実力主義

 社員の人事制度に“実力”“成果”度合いを強める流れは、今後も強くなっていくだろう。実力、成果主義的な人事制度は、今までよりもより多くの“差”を生み出すことになる。この差は単純に単年度の賞与だけではなく、中長期の昇格のスピードにも表れる。入社して定年を迎えるまで、優秀な成果を出しかつ早く昇格する社員とその逆の社員では生涯の収入差がさらに大きくなる。この差はしばらくすると、成果が普通以上の社員のモチベーションを向上させ、成果の低い社員のモチベーションを今までよりも下げることが顕著になってくる。社員にとっては会社に在籍し続けるか否かも含めて、自己の評価とその結果の処遇は、今までに比較にならないくらい大きな意味を持つ。経営としての狙いは、“信賞必罰”によって、結果として全体のパフォーマンスを向上させるということである。実際には成果の低い社員のモチベーション低下の分を、普通以上の社員に傾斜配分することによって、これが実現するということだ。  この“差”を生み出す人事管理が適正に機能するためには、“成果”と“処遇”の関係が社内で十分な納得性を持って認知されなくてはならない。これだけ大きい“差”を作るのであるから、社員からするとわかりやすく納得できるものでなくてはならない。ルールが明示されていることと、そのルール通りに運用され、それが社員に“適正”であると感じさせなくてはならない。適正に評価を行い、適正な処遇を実現するためには、いくつかの大きな障壁がある。その最大のものは、“結果の公開“であろう。実力、成果主義と標榜するからには、評価とその結果の処遇が自分だけでなく他の社員も含めてわかりやすく公開されることだ。スポーツの世界は非常にわかりやすく、当年度の成績によって査定され、次年度の年俸が決まる。成績によって年俸の増減や額がわかるというオープンな世界である。このような公開された世界では査定そのものや処遇への反映の妥当性が常に衆目にさらされることになる。そのため査定する側も、適正に評価する圧力がかかるのだ。  現在の日本企業の“成果・実力主義”は“密室”で行われている。確かに自分の評価とその結果としての処遇は上司から伝えられるが、他の社員の評価や処遇については全く公開されておらずわからない状態である。自分の評価はわかるが、それが全体の中での位置づけや特定の他の社員と比較したときに妥当性があるかを検証する術がない。成果・実力で処遇すると言っておきながら、情報の公開が十分でないため、制度本来の機能が発揮されていないのではないか。この情報の公開の壁を何らかの形で乗り越えなければ、本当の成果・実力主義とは言えないだろう。 以上

ほしいものが、ほしいわ | その他

ほしいものが、ほしいわ

 このキャッチコピーを覚えているだろうか。成熟時代のマーケティングを象徴する広告として、80年代末期に書かれたものである。  当時、躍進を遂げていた西武百貨店は「おいしい生活」というコピーをかかげ、百貨店はモノを売るのではなく、生活提案産業だと謳った。たとえば食器は、食事をするための道具であるけれども、さまざま使い方を見せることで購買を促進できる。その使い方を、新しい暮らし方や格好いいライフスタイルとして見せたのが、その時のマーケティングだった。  部屋は狭いし、十分な収入があるわけではなくても、そこには、豊かな“気分”がある。そうした気分を味わうための道具として、さまざまなモノを売る。現実は変えられないけれども、気分は変えられる。だから、新しい暮らし方やモノの使い方の情報を発信し、つぎつぎと新しい気分の消費=関連するモノやコトの消費を煽っていくということである。  気分を喚起するマーケティングは、ニーズにあった商品を揃えるのではなく、ニーズを作り出す。欲望の対象になる商品を生産するのではなく、欲望そのものを生産するということである。「おいしい生活」から数年後、この事情を消費者にむけてストレートに言い放ったセンセーショナルなキャッチコピーが、「ほしいものが、ほしいわ」だったのである。  つぎつぎと「ほしいもの」を作り出す社会は、いまも続いている。情報ネットワークや先端技術は、新しい欲望を生み出す大きな原動力だし、金融工学の進化は、金持ちの欲望を大衆化した。供給者の思惑どおり、いつの間にか日本にもハロウィンが年中行事化しつつあるように、常に虎視眈々と暮らしのなかに新しい消費を喚起するイベントが仕掛けられる。  働く欲求としてよく聞かれる「自己実現」もまた、その獲得をそそのかされた「ほしいもの」ではないか。社会に出る若者が面接で言う「自己実現ができる仕事がしたい」という一言の違和感くらいなら良いが、働くからには、マズローのいう低次の欲求段階を経ていたる最上位の欲求を目指さねばならないという強迫観念が若年層の転職を後押しているかもしれない。働くうえでは「夢」を持たねば、と喧伝される風潮もそれを煽る。  しかし、実現すべき自己などというものがどこにあるかよくわからない。まさに、「ほしいもの(=自己実現)が、ほしいわ」。こうした呪縛にとらわれるのは、働くことを手段だと思い込んでいるからである。手段だから、目的が要る。なんのために働くのか、それは、生活のためだけではなく、集団欲求や社会性欲求のため、ひいては自己実現という素晴らしい目的のため。だから、頑張ってはたたらく価値がある、となる。  もっと気軽に、働きたいから働く、でよいのではないか。働くことが愉しいから働く。万有引力ならぬ情念引力をもって世界を語ろうとした異端の思想家シャルル・フーリエは、快楽労働と言った。つまり、手段としての労働ではなく、目的としての労働である。  そういえば、消費だって、実はそれ自体が愉しい。メーカーや小売業にそそのかされた気分や欲望のためであろうとなかろうと、モノを買うという行為は、愉しい。それが、交換経済ではない貨幣経済がもたらした快楽だった。「ほしいもの」は、消費であれ、労働であれ、それがなされた時点で、すでに獲得されているのである。だれのものでもない、自分だけのものとして。  だから、その労働の自分だけの面白さを感得することこそが、「ほしいもの」なのではないか。企業組織がやるべきことは、なにより、その仕事の意義と意味、とりわけその従事者当人にとっての意味づけを喚起することだ。ビジョンや戦略はつねに一人ひとりの意味づけに資するという観点から、表現され、また語られ、参照されるべく仕組まれなければならないのだ。  あなたがたの「ほしいもの」は、ほら、目の前にあるじゃないか、と。

描写 | その他

描写

 3年ほど前ある情報システムの企業に訪問しました。訪問したタイミングは新しい人事制度を導入した1年後くらいでした。制度を導入したのですが、効果が実感できないということです。 この企業は顧客からシステム開発を受注する企業であり、業績は大きな成長はないものの、大口の顧客からの安定した受注で堅調でした。しかし新任の社長はより高い成長を目指す方針で、既存の顧客だけでなく、新しい顧客の開拓に力を注ぐということになったそうです。既存の顧客に対するシステム設計開発、運用のノウハウは、他の企業に対しても展開が可能なもので、十分に競合優位性があると判断しています。そのために“ソリューション営業部”という新設の部を設置して、新たな顧客開拓に着手しました。また長らく大口の顧客からの安定した受注があったため、社員の意識も、常に新しいビジネスチャンスを考え新たな顧客開拓を積極的に行うというものではありません。新社長はこの社内の雰囲気、風土、社員の意識を変えることが重要と考え、15年ぶりに人事制度の改定を進めたということです。 この企業の人事制度改革がうまくいかなかったのは、新しい人事制度が、実際の企業のビジネスモデルを忠実に“描写”していないことであると思われます。新たな制度は非常にきれいにできていました。人事の方針として、“新たなビジネスを自律的に創出する人材”を掲げ、“常に環境変化に対応してビジネスを本質的に考える”“失敗しても積極的にチャレンジする”という文言が並んでいます。  実際にこの企業ではビジネスのほとんど大半が、既存顧客からの受注であり、この顧客に対する安定したサービス提供に大半の社員が関与しています。確かに既存顧客に対しても、顧客リレーションを強化したり、周辺システムへの積極的な提案などを行えば、売上の伸長はあるかもしれませんが、それでもこのようなアカウントマネジメント的業務はほんの一部の社員しか関わりません。大半の社員にとって重要なのは、顧客に対し既存の得意分野で誠実、柔軟に対応するマインドやスキルなのです。新たな“ソリューション営業”は今までのビジネスのモデルとは大きく異なります。新たなサービスや新たな顧客を開拓するのは、現在のビジネスを安定して行うことと全く異なるマインドやスキルが求められますが、全体としてはほんの一部なのです。 単純に言えばほんの少数の社員に対する意識や能力の在り方を、全体の人事制度の中心に据えたことが、実態と合わない制度となってしまった最大の原因でした。既存のビジネスを担当している社員に対して、“失敗を恐れずにチャレンジ”であるとか“常に新しいビジネスの創造”、“自律的に行動している”という評価をしようとしても、まったく現実とかけ離れているということです。大半の社員にとっては、失敗は致命的ですし、新しいビジネスネタを探すのではなく目の前のサービスに注力するべきですし、過度に“自律的”である必要はないのです。実態と遊離した考え方で処遇されることに構造的な問題があるのです。 人事制度で美辞麗句が並んでいるものには、現実と遊離しているコンセプト先行で作られているものが多いと感じます。経営の実態を描写することが基本であるということが重要ということです。 以上

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

抑止力としてのパワハラ | その他

抑止力としてのパワハラ

 パワハラとは、”同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為”ですが、正直どこまでがパワハラでなくどこからがパワハラかよくわかりません。企業を経営してよりよい会社にし、より社会貢献し、社員により処遇をよくしていこうとすると、いろいろなこだわりが出てきますので、どうも納得できないことがあるとかなりストレートな物言いになることがあります。このストレート度合いがパワハラか否かというかということなのでしょうが、正直はっきりとした線引きはできません。  経営の方針や行動規範などに抵触する発言や行動に対しては、当初はやんわりとストレートに話をするのですが、それでも改善しないのであれば次第に強くなります。挙げ句の果てには机を叩いて怒ることもあるでしょう。しかし頭の片隅ではこれはパワハラであろうかと常に自問する自分もいます。企業を経営するまたは部門の管理をする人たちにとって、方針の明示とその徹底は生命線ですので、これに反することがあるのは、経営者管理者としては看過できないはずです。そのため勢い激しい言動になってしまうのでしょう。  このパワハラの議論はいろいろな文献を見るとどうも働く側にある意味過保護だと思うところが多すぎます。こんなに気を遣って管理監督しなくてはならないのかとも思うような事例も目にします。しかし現在の社会の常識上仕方ないのかもしれません。 あるクライアントの取締役がこんな話をしていました。この取締役は以前社員に対して罵声を浴びせパワハラであると社内で問題になったことがあります。当の取締役は昔の厳しい社風で育った人物で、強い指導=パワハラと言われてしまうようなことが感覚的に理解できないといっていました。その後この取締役は言葉使いには非常に気を遣っていると言っていましたが、鋭い目つきとなんとなく醸し出す苛立ちなどから、”存在がパワハラ”と言われているそうです。  さてこの取締役の凄いところは、自分の方針や計画については妥協しないで実行することに強い意志を持っているところです。部下が明らかに準備を怠ったり、やる気がない場合には、最後はパワハラ覚悟で徹底させようと思っていると言っていました。”抑止力としてのパワハラ”と名付けましたが、会社として組織として守るべき一線を守るためには、最後はパワハラも辞さずというスタンスです。こんなことしたらまずいことになる、という価値観を、過去に実際に見せたパワハラの姿で抑止するという新たな武器のようなものです。  パワハラを肯定しているのではありません。しかし譲れない一線もあることがビジネスマンとしての価値なのではないかと思うということです。

組織を編集する | その他

組織を編集する

経営をしていたころ、いちばんの愉しみは、組織図を描くことだった。 まず第一の醍醐味は、組織のガラを決めるところにある。あぁでもないこうでもないと、いかに最適な組織図を描くかに腐心する。なにより組織図は、形として美しくなければならない。どうやっても美しくない組織図しかできなければ、それは戦略がおかしいといってよい。組織と戦略はそうした表裏の関係にあるものだからこそ、この作業は面白い。 組織の形が決まったら、次は、各組織のリーダーの配置である。これが第二の、よりスリリングな醍醐味だ。誰を登用するか、誰の役割を変えるか・・・組織構造を決めるよりもはるかに頭を悩ますことも多いけれども、ときに、一瞬にして決まることもある。ポイントは、個別組織の人事と“全体”を常に同時に考えることである。 ある部門に適材が思いつかなくて、ふと、まったく候補でない人物を置いてみると、予想外に全体が様(さま)になり、またその部門の可能性が広がったりすることがあったりする。大げさにいえば、天の配剤めいたこうした瞬間があるからやめられない。ここまでは必ず、経営企画担当にも人事担当にも任せず、また外資系企業だったけれどもヘッドクォーターの横やりも排して、自分で描き上げたものだった。 間違えてはいけないことは、組織のガラづくりと人事の検討は必ず分けて行うということである。さもないと、人を先に想定して組織を考えてしまうからだ。そうした組織は、そもそも、美しくないし、変に飛び出た箱があったりして奇妙な組織図になることが多い。また、現状の人材レベルの範囲を超えない組織(=戦略)になりがちである。 ガラとしての組織図は、戦略を実現するコンセプトそのものだから、その限りで最適解を検討しなければならない。次に、人材を配置していくときには、当然、適する能力や経験の人材が足りなかったりするから悩むことになる。でも、それこそが考えどころであり、新しい組み合わせや育成面でチャレンジングな配置が生まれる契機になる。 雑誌やメディアの“編集”という作業は、コンセプトメイキングとエディティングからなる。それにより、個々の情報素材(=識者の寄稿やインタビューや文献情報などなど)を、総合したときに、単なる個々の集合を超えたメッセージや情報価値を生成させることを目指すものだ。経営にとっての組織図もまた、個々人の力の集合を超えた組織の総合力を発揮させるという意味での編集に他ならない。 そういえば、組織とはそもそも、個人の能力限界を超えるものとして生まれたものだった。組織図を持ち出すまでもなく、すべての組織は、もともと編集されるべきものなのである。

直間比率を気にするな | その他

直間比率を気にするな

 よく経営者や管理部門責任者などから、”直間比率”について質問を受けます。直間比率とは、要は直接収益に貢献している人材とバックオフィスやサポート業務のように間接的に収益に貢献している人材の比率を言います。正確には人数比率で算出することもありますし、また直接部門と間接部門の人件費比率で算出することもあります。  この直間比率は正確な統計がありませんので、明確な議論はできないのですが、多くの経営者は他社との比較を非常に気にしています。おそらく間接比率が高いと思っているからでしょう。収益拡大を行うには、直接部門の人員を増やし間接部門の人員を削減することが、効率的であるという認識からです。まあ間接部門の人員や人件費が多いと思っているのです。  現在の高度に発達したビジネスモデル下では、直接部門と間接部門のような区分け自体に大きな意味がなくなってきています。例えば営業部門などは、営業人員数の増員が確かに重要ですが、人が営業するだけでなく、広告やネットでの営業、または提携などのコラボレーションによる営業なども重要な手段です。なんとなく営業マンは直接部門ですが、ネットの企画や運用をしている人材は直接とはストレートに言わないかもしれません。各社によりビジネスモデルも異なりますし、また直接、間接の定義自体も大きく異なります。  間接比率が高いことが、問題であるとストレートに導かれるものではなく、収益に貢献していない人材が多く存在しそうであることが問題です。そのために直間比率で判断するのは、あまり論理的ではないのです。  直間比率を気にする企業の多くは、高齢化で営業や生産の第一線で活躍が困難な社員を、間接業務に配置するなどのような、間接部門を活性化しない人材の配置場所に使っているようなケースが多く見られます。このような企業では間接部門の人材は、本当に間接業務の屋台骨を背負っている優秀な人材と、直接では使えない人材が入り交じっています。間接部門のコア社員、ハイパフォーマー社員にとっては非常に迷惑な話でもあります。  不健康な人ほど他人を気にするように、不健康と分かっているのですが、その不健康さを証明する手段が十分でないために、理論的な検証ができない”直間比率”の他社比較に頼ろうとするのです。実際には他社比較よりも自社の直間比率の推移のほうが分かりやすいでしょう。さらに直接と間接の境界線がわかりづらくなってきているため、各部門や機能の人員数比率や人件費比率を管理した方が現実的です。過去の自社の比率を管理していないで、突然定義が曖昧な他社との比較を用いてもほとんど有意な情報は得られません。  多くの企業の場合、問題は直接、間接の比率ではないのです。別なところに問題があります。直間比率を気にする必要は全くないということです。