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ゲートキーパー | その他

ゲートキーパー

窓際族ならぬ「ドア際族」という言葉があったことをご存じだろうか。 いつでも組織パフォーマンスを左右するのは、中間管理職の能力と活力に決まっているけれども、その要件として喧伝されるものは、時々によって一様ではない。異業種交流など社外活動に積極的で、社内にとどまらない知見と人脈をもつ管理職こそが組織の力を高めるとされた時期に、反面その人たちは、ドアを開けて出て行ける=いつでも辞められる、という意味で使われていた。 日本企業がその成長を競い合っていた頃の、企業の自己革新とか現場からのイノベーションには、会社固有の価値観や情報の範囲を超えた知見を持つ管理職の育成が必要だけれども、それは同時にキーマンの流動化を促進することでもあるというジレンマだった。その後、経営にとって長いシュリンクとリストラクチャリングの季節を通過していま、「他流試合」の要請を実に多くの人材開発部門の方々から聞く。 やはり求められているのは、管理職者としての視野の拡大と人脈である。自身の能力や知識の限界への気づいてもらい、また異なる発想に刺激され、以降も継続する人脈も持ってほしい、というのが共通する経営の思いだ。その背景には、防衛戦のなかで堅固になった“企業の壁”の弊害が、顕在化しているからだろう。壁にとらわれない広い視野と柔軟な発想をもつ管理職が、環境変化に即応する経営に必要ということだ。 ドア際族とは、ネットワーク論で言い換えれば、ゲートキーパーである。社内の情報と人脈、社外の情報と人脈、その双方のネットワークの結節点にいる人。(ある知見を)知っている人、ではなく、(社内社外を問わず)知っている人を知っている人、である。あるいは、知っている人を探し出せる人。ネットワークの結節点で企業の境界に臨み、軽快に、小さなゲートをつかさどる人たちである。 経営学の教科書にあるコンティンジェンシー理論(=状況適応論)は、外部環境の不確実性に対応した経営のためには、組織内部に不確実性を持つことが必要だと言った。でも、ここには、企業の壁が前提されている気配がある。大事なことはむしろ、企業の壁自体をすり抜けて、組織の内外の情報が行き来する現場のダイナミズムではないか。ゲートキーパーとは、それをする人である。 ゲートには、関所という意味もある。とすれば、ゲートキーパーは出入りさせる情報かどうかを判断し、場合によっては遮断する機能を担う。はたして個々の従業員が、その会社にとっての情報の重要性を判断してもよいものか。それが、経営にとって資するものと言えるか。個々人の価値観に依存してしまう危険があるのではないか。 といった心配は、しかし、無用である。ゲートキーパーたるその人が採用され、いま活躍されているということ自体が、その会社の価値観と力量を体現しているはずだからである。

タレントマネジメント? | その他

タレントマネジメント?

 最近流行りの言葉で“タレントマネジメント“という言葉があります、またその実行をサポートする”タレントマネジメントシステム“が注目を浴びています。人材の高度な活用を目的とした、人材の育成、配置、発掘などに力点を置いた人事管理手法であり、システムです。 人材活用というテーマはいままでさまざまな議論がされ、多くの企業で意欲的な取り組みがされてきています。今時点で“タレントマネジメント”の中身を聞いても、“いまさら”的なものが多く、至極当然のことを言っているように思います。確かに経営により直結した人材管理という意味で、ある程度体系化されている概念でありシステムです。しかし人事管理を通常議論する者にとっては、新規性が見当たりません。さらにこのような“手垢のついた“概念に対して、わざわざ“タレントマネジメント”と称することが大げさな感じすら受けます。改めて英語で呼ぶことにも逡巡します。  タレントマネジメントは何が新しいのでしょうか。まずこのマネジメントの基本的な考え方は、社員の活用、育成、定着に対するものであり、そのために評価やサーベイや職務履歴や自己申告などを活用するというものです。新規性があるとすると、この高度な人材管理を実際に行うことを強力にサポートする“タレントマネジメントシステム”でしょう。今までの人事システムが、人事の実務処理を効率的に行うことを目的にして利用されてきたものから、より高度な人材管理を行えるようにするという発想で構築されています。社員の発掘や活用や育成、定着などをよりスピーディーに適正に行うべく、そのマネジメントに必要な情報を体系化したものです。今までの人事システムが“人事業務システム”であったものから、経営者や事業管理者なども含めて人材のパフォーマンス向上を直接的に執行する経営幹部も含めて活用する“人材マネジメントシステム”ということになります。今までのシステムの発想や守備範囲という観点からは新たな領域、プロダクトということができます。  このようなシステムが一般的になること自体は、企業の人事管理レベルを押し上げる基盤が提供されるという観点では非常に好ましいことです。しかしプロダクトとしては、今までの人事システムが本来カバーしているべき機能であるはずです。ところが、今までの多くの人事システムがこの機能を十分に顧客にアピールできなかったこともあり、人材活用のための積極的なシステム機能が発達しなかったのです。そのため既存の人事システムとタレントマネジメントシステムは本来一つのシステムであるべきところが、別のプロダクトとして販売されていることが多いのです。人事システムとタレントマネジメントシステムは使用するデータも共通性が高く、別のシステムである必要はないので、人事システムの機能拡張モジュールか、そもそも人事システム内に取り込まれるべき機能です。  人事管理がより高度になるためには、経営に対して人事管理がより重要で有効な管理であることを証明しなくてはなりません。タレントマネジメントシステムが新たなプロダクトとして定着するには、経営における人事管理の有効性が真に認識されなければならないということです。そして“タレントマネジメントシステム”が定着した時には、“タレントマネジメントシステム”などの洒落た名前ではなく、単に“人事管理システム”と呼ばれているはずです。

雑多な専門職 | その他

雑多な専門職

 専門職とは、“高度な専門的知識や経験をベースに企業に貢献する職種”という定義になるでしょう。例えば化学や医薬における高度な研究開発者や技術営業や、アパレルなどのデザイナー、商社におけるバイヤーなどがその代表であり、個人に帰属した極めて高度な専門性が、企業発展にとって不可欠な人材で、そのため部下はいなくとも専門職として高く遇することが本旨であります。有名な小売業で“全員専門職”と称して社員であれば何かしらの専門領域を持つべきである、マネジメントも専門性の一つにすぎないといった優れた人事制度などもあるように、企業のビジネスモデルや社員のコアスキルという観点で、最終的なキャリアゴールが必ずしもラインマネジメントだけでないということです。そのため多くの人事制度では若いうちはいろいろな経験を積み、ラインマネジメントか専門職かに分岐する“複線型”人事制度が導入されています。  しかしこの複線型人事制度における専門職で極めて重大なミスをしている企業があまりにも多くあります。専門職は特定の専門性を追求する職種であることからローテーションに向いていません。一つの分野を深く探求しなければならないからです。それに対してラインマネジメントは最終的に事業や経営を担うことになるため、異なる複数の職場の経験が必須です。そうでなければ複合的な機能をバランスよく統括できないからです。したがってローテーションは必須で、異なる機能の経験がない限り、複合的機能の集合体であるラインマネジメントはできないからです。このようにラインマネジメント職と専門職は別々の育成方針と育成方法であり、双方の互換性は理論上ないのです。  現実の企業で多くみられる専門職は実は雑多な人材の集合体となっていることが多くみられます。正確に言うと、ほんとの専門職と何らかの事情でラインマネジメント職からはずれた人材を一緒にしてしまう例が多いということです。本来はラインマネジメントとして期待し育成したが、ポストに就けることができない社員を専門職として職種転換することなどが多くに見られます。たしかにラインマネジメントと言ってもプレイイングマネージャーが多い企業ですと、このような職種転換はできなくはないのですが、そもそもローテーションをしてマネジメント能力を磨くことを指向する人材と、職場や領域固定で徹底して専門性追求を指向する人材は、根本的に異なります。それを一つの専門職とまとめることが、本当の意味での専門職重視になっていないことになります。要はラインマネジメントから外れた人材は、本来の専門職でなく、本当はラインマネジメント職の一つ下の人材ということだということです。  企業のビジネスモデルによってこの本当の専門職がどの程度必要かが決まってきます。また同じようにラインマネジメント職もビジネスボリュームと組織機構によってその必要数が決定されます。モデルとボリュームによってこの構造が決まっていますが、多くの企業ではラインマネジメント職が多すぎるために、途中で専門職への職種転換や役職定年制度などの理論上は正しくない仕組みが導入されてしまっています。  現在のように管理職の一格、半格下のイメージではなく、本当の専門職とは何かを再定義し、管理職と同様かそれ以上の評価処遇ができる本当の専門職として位置付け再確認する必要があります。

徹夜せよ! | その他

徹夜せよ!

 コンプライアンス観点では主張することができませんが、近年のワークライフバランスなどの議論に本音ベースで真っ向から対立する論点を提示します。週40時間労働や有給取得奨励、在宅勤務などのワークライフバランスの考え方は、多様で豊かになり、高齢化が進行する中で注目を浴びる議論です。この方向自体については全く反対ではありません。また当社はクライアントに対して適正なワークスタイル確立のコンサルティングをしているとも言えますし、自社でも徹底する努力をしています。しかしこの議論に決定的に欠如していることは、勤務時間の短縮、非連続な時間での業務遂行、自宅などオフィス環境が整備されていない場所での業務遂行など働き方への規制を緩めることそのものに焦点が当たりすぎていて、反対に今まで以上の時間生産性や協業生産性を上げることが同じ以上の重さで議論されていないということです。勤務形態の自由化と生産性向上の議論では、後者のほうが相対的に軽視されていると感じるのです。まあストレートに言うと過去に比較して働き方が甘くなったということです。  このような“緩和”が議論される前までは、仕事の仕方や仕事に対する時間投下が今よりもシビアでした。どんなに夜遅くなろうとも仕事が終わらなければだれも帰りませんし、忙しい中プライベートで先に帰る時などは、上司にこっそり事情を告げて周りに気を遣いながら帰ったものです。またどんなに遅くなろうとも、徹夜しようとも翌朝の朝九時には何もなかったかのように振る舞うことがビジネスマンとしてのよきスタイルと思われていました。自分のミスや生産性が低いことから遅くなることについては、超過勤務手当の申請などは自制するのが当たり前で、会社に存在していた時間を超過勤務手当の対象とはだれも考えていなかったのではないでしょうか。もちろん生産や営業などの現場では当時から時間管理は意識されていましたので、上記のような感覚ではなかったと思いますが、企画や管理などのいわゆるホワイトカラー業務では、時間なんて関係ないという感覚が濃厚でありました。  現在では高齢化成熟化していく中での新しい時代の働き方という方向性を強力に推進していかなくてはならないことは当然です。しかし前述のように“緩和”が大きくなった分、生産性を向上させなければなりません。また経営環境は依然厳しく、企業が成長していくためには今まで以上のアウトプットの量と品質が要求されます。現在よりもさらに生産性を向上しなくてはならないということです。このような生産性向上を実現するためには、いくつかの重要なポイントがあると思います。まず単純に時間生産性向上のためのタイムマネジメントの徹底を常態化するということです。これを常態化し、しっかり管理していく企業は未だ多くありません。次にこれだけ情報技術や様々な技術進化をしている環境において、個人及び組織がより高い生産性を実現する手段をもっと研究しなくてはなりません。以前よりオフィス環境の整備の重要性は認識されていますが、環境整備という観点でも、物理的なオフィス構造をより科学的根拠で見直すことも必要でしょうし、音や香や内装、など他分野にわたって生産性向上のための検討範囲に入ります。また会議など複数の人による共同生産性向上のための様々なツールや教育なども、もっと注力しなければなりません。また働く側の生産性向上に対する何らかの処遇反映も必要でしょう。端的に言えばちゃんと評価して処遇しましょうということです。  そして最後にコンプラ違反になる覚悟で言いますが、働く側の権利主張を重視する傾向、就業の終了時間が来れば帰宅してよいなどという甘い考えや、自分の能力やモチベーションが欠如していることから、時間内に十分な生産性で仕事ができない社員に対して、強烈な指導をする文化を創ることが必要です。能力・やる気が欠如している社員に対しては、自己研鑽の指導をするなど、時間外での能力向上を求めることを普通の文化にしなければなりません。時間内にミスや能力、モチベーションの欠如でアウトプットが出せないなら、会社にはわからないように、いくらでも時間を使ってでもアウトプットを出さなくてはならないという文化をもつことも精神論として必要です。徹夜せよ!と会社側からは言いませんが、それでも隠れて徹夜してアウトプットを出し、何食わぬ顔で出勤するくらいの気概がほしいというのが本音ではないでしょうか。

フレームで考える | その他

フレームで考える

 「創造とは、フレームワークだ」と公文俊平さんは言った。  まだインターネットが登場する前、パソコン通信をつかって、当時シアトルに在住していた公文俊平さんにメールインタビューをしたことがある。何回かのやりとりを編集せずに、ライブ感もってそのまま掲載する試みで、マニアックに制作していた企業組織論専門誌の企画だった。「叛企業文化論」と銘打った(なんと青臭い!)特集のなかで、企業文化をテーマに、独自で厳密な論を展開してもらったあと、次号のテーマ「場の創造性」を巡ってまたメール交換したのだが、そのやりとりのときに公文さんが言った印象的な言葉がこれである。  「創造とは、フレームワークだ」という発言の文脈も詳細も忘れてしまったけれども、そのときの指摘はこうだ。何か考え出さなければならないことがあるとする。そこでひとつ、新しいアイディアを思いついたら、例えば、そのアイディアを配置できる、2軸4象限のフレームを創出せよ。そして、空白の3象限を埋めていくようにさらにさらに創り出せ。創造とはそういうものだ。たしかそのようなことを言っていたのだった。  フレームというものは、たしかに、たいへん便利な思考の道具である。  マーケティング環境分析では、お馴染みの『SWOT(Strengths-強み、Weaknesses-弱み、Opportunities-機会、Threats-脅威)』や『3C』(Customer,Company,Competitor)などは必須ツールだし、最近増えてきている経営幹部候補育成の研修では、とくに『PEST』を使うセッションを念入りにやったりする。PESTとは、政治(Politics)、経済(Economy)、社会(Society)、技術(Technology)の枠で、例えば自社に影響与えるマクロトレンドを最も広く考える際に使う。  経営とは、突き詰めれば競争と数字であり、そのリアリティの薫陶が幹部育成には不可欠ではあるが、その前提となる社会と自社の関係と将来についての見識も経営者の大事な要件である。だからこんなセッションをやったりするが、これが結構できないことが多い。PESTの枠内に書き込むべきコトがなにも出てこなかったりする。  このような普段考えないような事柄を考えたり、問題の原因をできるだけ広範に洗い出したりする際には、最初に「発散」という発想技法を使うのが常套手段だ。グループや個人でブレーンストーミング(=発散)をして、たくさんのアイディアを生みだし、そのあと「収束」し構造化するという段取りだが、白紙の状態からの発散はなかなか難しい。そこでフレームを用意して、発散すると、漏れなく、深いアイディアがたくさん出せる。たとえば、職場の問題と原因の洗い出しなら、『7S』(Strategy、Structure、System、Style、Staff、Skill、Shared Value)とか『PDCA』(マネジメントの基本であるPDCAも汎用的なフレームとして使い勝手がよい)が、有効な道具になる。  枠があるほうが新しいモノゴトを発想しやすいということである。  そのことは、事業の課題や戦略を構想する際にたくさんのフレームワークが使われていることでもよくわかる。その紹介だけで本一冊分はゆうにある世の中の創造技法というものも、多くは、フレームワークだ。ただ、公文さんがいったいちばん大事な指摘は「フレーム自体を考え出せ」ということである。  PEST分析がうまくできないケースが多いと書いた。その理由は、ともすれば、「視野が狭い」、「目の前の仕事に思考が埋没している」、「社会的な問題意識がない」といった研修の受講者の意識にあるとされる。その要因ももちろんあるだろうが、もう一つの理由は、一つのフレームが大きすぎるからである。P(政治)ならPの枠のなかで、より細かいフレームを自分で設定していけばいいのだが、それがわかっていないから、漠然と立ち向かい、何も思いつかない羽目になる。  「フレームで考える」ということは、「フレームを考える」ことでもある。  4象限の枠組みでいえば、まず二つの軸をどう設定するか。その組み合わせはいくらでもある。どれだけ自由に、自分なりの軸を思いつけるか。そのうえで発想していく。創造という行為は、まずフレームを創り出し、そのフレームで発想していくことともいえる。ただいきなりフレームを設定せよといっても雲をつかむような話なので、公文さんは、最初のアイディアがまずあれば、それを配置しうる2軸を考え出せ、といったのだろう。  その軸を考え出すための“枠”というものもあるのではないか。いわば、フレームを考えるためのフレーム。一つのヒントは、その枠は、フレームワークにより創り出すアイディアは事業や仕事に結びつくものである、という目的から規定されることにある。つまり、事業や仕事の意味や意義、付加価値から発想される軸、ということである。意味や意義、付加価値とは、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」という本質的な問いの答えだ。  禅問答みたいな分かりにくいことを書いている。こんな例をだせば言いたいことのニュアンスを伝えられるだろうか。  たとえば、鉄道の会社が、自社の事業を「鉄道事業」と思うか、「輸送事業」と思うのでは、例えばそこで思いつくフレームはきっと違ってくる。デパートが「百貨を売る物販業」なのか、「総合生活提案業」なのか、でも違う。あるいはかつて、コカコーラのボトルには「Drink Coca Cola!」と書いてあったが、ある時から「Enjoy Coca Cola!」と変わった。その時に、コカコーラ社の従業員がもし皆でPEST分析を試みて、PとかSとかの中でいろんなフレームを設定するとしたらそれは、「Drink〜〜」時代とは違うフレームが設定されるのではないか。  事業や仕事に関わる創造のためのフレームを考えるには、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」といった本質的な問いがまず必要のはずである。フレームを創りだし、そのなかで発想していく方法を「フレーム思考」と呼ぶとすれば、「フレーム思考」は、本質的な問い=「Why思考」と表裏一体なのである。

中高年は使えない | その他

中高年は使えない

 中高年社員はビジネスの第一線で使えないと言われることがあります。例えば情報産業では一時期に35歳定年説と言われたように一定の年齢ピークを過ぎると技術的にまた体力的に第一線での活躍ができなくなるということです。また広告業では40歳以上の社員の多くは、世の中のトレンドについていけなくなり、センスが古いと言われてしまいます。建設や営業や製造の現場でも体力的に若年社員と同様に働くことが難しくなるとも言われます。このように一定年齢をピークにして次第に現場の主戦力と位置付けなくなる業界や企業が多いと感じます。大企業ではこのような第一線で活躍できなくなった社員を体力的な負担の少ない間接部門などに異動させることによって、社内のアウトプレースメント場所として吸収している例も多くみられます。また小売業やサービス業などでは中高年社員に対して退職促進するスタンスの企業も散見されます。  この中高年社員は使えないということ自体が本当であるのか強く疑問に感じるとともに、今後高齢化成熟化する社会において、逆に中高年社員の活用や再活性化が企業の成長を支える大きな原動力になる可能性も議論しなくてはなりません。65歳までの雇用を考えると、この中高年社員の戦力化の問題はさらに深刻です。  中高年社員は本当に使えなくなるのかということについて大いに疑問であると論じましたが、この使えなくなる現象は企業の努力不足によるところが大きいとも推測できます。例えば情報産業では中高年社員は技術進化についてこれないという理由を挙げる企業が多いですが、若手社員と同様のまたはそれ以上の技術教育と意識改革を継続して行っている企業は非常に少ない状況です。常に新たに若い技術者を採用して中高年は使い捨てにしているともいえます。本当に技術やマインドの教育をした結果使えないのであれば仕方ないのでしょうが、努力を怠っている企業は雇用責任を軽視しているとも言えるでしょう。広告業などでもセンスが古くなるといわれていますが、常に最新のトレンドに鋭敏さを持つべく教育努力は十分なのでしょうか。社員側も厳しい第一線で仕事をした後にはのんびりとした中高年用のポジションに就くことを暗に期待しているのではないかとも感じます。  体力的に厳しいという現象についても議論しなくてはなりません。確かに中高年になれば健康上の問題が多く発生することになります。しかし日本の労働市場では第一次産業のように最も体力的に厳しい職場(農業や漁業など)の平均年齢は非常に高く、それでも第一線で活躍している人が大半です。また中小中堅企業では中高年といえども若年社員と同様の働きをしている人が多いのです。中高年社員が使えないと言っているのは大企業や労働市場が発達をして若年社員の採用が容易な業界だけの話とも考えられます。このような業界や企業では企業側の努力も足りませんし、中高年社員自身も甘えています。体育の時間ではありませんが体力強化を研修に加えたほうがよいかもしれません。  日本の高齢化成熟化が急速に進行することに対応して、人事制度や教育も中高年社員に照準をあてた抜本的な見直しが必要になるのではないでしょうか。中高年社員は使えないというスタンスや社員の甘えの構造を抜本的に正さなくては雇用に魅力があり責任のある企業と言えなくなる時代が来ています。中高年こそ主戦力となる人事管理を早急に検討しなくてはなりません。

集まる力 | その他

集まる力

 教育研修は、実践的でなければならない。実践的とは、研修の効果がはっきり出ることを意味する。  “効果”には二つあって、第一に、学んだスキルを実務で実際に活かす、あるいは以降の行動が変わることだ。そのためには、研修のなかでは、机上のケースではなく、実際の職場や個人の課題の解決策をアウトプットさせるのはもちろん、研修の後には事後課題を課し、職場での実践を強制し、結果をレポートさせ指導する。あるいは、作成した行動計画を定点チェックで指導するといった、研修だけで終わらせないマネジメントラインに組み込んだフォローの仕掛けを用意することが不可欠だ。  もう一つの効果とは、個々人が実際に成長することである。そのためには、一連の研修を通じて、個別評価、個別指導を行いながら、一人ひとりの育成課題の可視化と弱点補強を行っていく方法をとる。評価は、研修行動をアセスし、また事後課題や論文課題などの評定を通じて行い、個別カルテ化する。次世代リーダー育成プログラムなどがその典型で、そうしたOff-JTでの評価と業務遂行上の評価結果を定期的にすり合わせ検証することも重要である。  こうした方法により、“効果”に腐心しながら、多くの企業の人材育成のお手伝いをさせていただいているが、一方で、研修そのもののイベントとしての価値が、実は一番大事なのではないか、と日々思う。つまり、業務を離れわざわざ人が集まるイベントであることの意味、意義をもっともっと追究すべきではないか。  集合研修のひとつの醍醐味は、個々人の相互作用(大げさにいえばグループダイナミクス)である。グループワークの中で、たとえば、言葉にすることで自分の考えが整理され、他者の想いや考えで触発され、議論により正答率の向上を体感する。どんな話し合いでも、コミュニケーションの仕方によって、アウトプットのレベルも変われば、胎落ち度合いがちがう。そうしたダイナミズムが目に見えるかどうかが、研修の成否をわける。  その効果にあらためて気付かされたのは、アウトプレースメントの現場にいた頃のことだ。当時、離職した人々の再就職を支援するサービスは、担当キャリアカウンセラーがついて、個々人との面談をしながら個別活動をサポートするという形態だった。中高年社員のリストラの結果だから、少なからず悄然とした人もいる中での“個別”カウンセリングというのが常識だった。  しかし海外ではグループカウンセリングが主体だったので、それをおそるおそる導入してみたところ、はっきりと彼らの活動は“アクセルレイト(加速)”した。目的を同じくする人たちが、不遇の嘆きや怒りを早々に脱し、前向きに活動することを、皆で愉しんでいるようなグループもでてきた。後日、多くの“同窓会”がうまれたりもした。  考えてみれば、通常は、一人のカウンセラーの意見を聞くだけなのに対し、たくさんの意見や見解や経験に触れられるのだから、良いに決まっている。会社選びや面接といった就職活動も、成功や失敗を共有する学習効果も集団なら大きいし、就職が決まっていく仲間がでてくると、ある種ゲーム的な競争のエネルギーが生まれるという副次的効果もあった(のちにこれは、米国のキャリアセンターで行われる“ジョブクラブ”というやり方と知った)。  集団のダイナミズムに加えて、非日常的なイベントである点もさまざまなやりようがある。といっても、野外のオリエンテーリングや深夜登山といった安易な非日常イベントでチームワークの原点を学ぶといったたぐいのものには興味がない。あくまでも、仕事の意味や実務のやり方を考える上での刺激になる非日常性の演出だ。  普段接することのない社長とのセッションにも価値があるし、小学校にいって会社のコア技術を教えるとか、海外からの留学生むけに企業PRするとかも面白い。社会問題と自社の関係についてのチームディベートや、演劇をつくり演じる研修も刺激的だった。ある大企業の管理職研修で、複数の他社の管理職者を映像取材し作成した “番組”を見ながらリーダーシップの議論をしたときも大きな気付きがあり、行動の変容ももたらしたりした。  研修は、あくまでも、実務での成果を高めるためのものであるけれども、逆に、実務で成果を出した人だけが参加できるような、魅力的で刺激的なイベント(研修)をつくってみたいものである。

平知盛 | その他

平知盛

 日本史に登場する人物の中で、平知盛の生き様には考えさせられるものがあります。平知盛は平家物語の平家側の主役とも言える人物です。清盛の四男として生まれ、34年という若さで自害した人物です。平家の衰退がはじまり清盛が死亡すると、兄の宗盛が家督を継ぎます。宗盛の戦略性のなさと優柔不断さにより、源氏に次第に追い詰められていく過程において、知盛はそれこそ平家再興のために奮迅の働きをします。もともと病弱であり戦場の第一線に出られる体力を持ち合わせなかったと言われていますが、優れた軍事的才能と統率力で源氏の軍勢を幾たびか打ち破ります。しかし時勢には逆らえず一の谷で源義経に敗れ、さらには屋島でも敗戦します。この決定的ないくつかの敗戦の中で知盛はなんとか残る平家の支柱として、宗盛の代わりに指揮を執り続けます。壇ノ浦の戦い時ではとても戦える体調でなかったといわれていますが、最後まで戦い抜き、そして敗戦濃厚となった時点で自害します。その時に言ったのが、“見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん”というあまりにも有名な言葉です。鎧を二重に着てさらに碇を持って海に入水したと言われ、歌舞伎の“義経千本桜“での“碇知盛”といわれる名場面になります。  このように世の中の時勢という運命に対して、自己の存在をかけて最後まで抵抗する姿が、“悲劇”として人の心を打つのでしょう。最終的には運命には勝てない自分がいるのに対して、それを肯定することができずに最後まで自己の存在を運命に徹底して逆らうということです。そして最後にはこの運命を受け入れざるを得ない自分を肯定できずに碇をもって入水するという生き方です。  逆に時勢に乗り勢いがあり成長するときの成功話に人はあまり劇的さを感じません。ともすると自慢話的になり、これが過ぎるとたまたま時勢に乗った幸運な人物と評されてしまいます。人はこのような成功話にはあまり大きな感動を持ちませんが、知盛のような悲劇的な人物にはいたく心を打たれる感性を持っています。このような劇的な生き方をする日本人が歴史上には何人も見ることができます。命を懸けて自己の存在を証明しようとし、そしてその証明ができなくなることにより、自己を否定しなければならない。これは架空の話ではなく現実の日本で起きた実話なのです。  このような悲劇的人物は戦後日本であまり見当たらなくなってしまいました。環境の変化に対して大幅な構造転換をしなければ生き残れない企業でも、将来の予測から徹底したリストラをしなければならない状況と頭でわかっていても実行する人物は少ないのです。また逆らうことのできない環境変化に徹底して反抗し、その結果回復する企業もありますが、最終的には企業が存続できない事例も多くあります。自己の存在をかけて環境や運命に徹底して抵抗することを通じて活路を見い出だす可能性に賭けるわけでもなく、なんとなくリストラをしてそしてまた衰退して中途半端なリストラを繰り返す。そして最終的にはどこかの企業に吸収されたり清算されてしまうという、あまり締まりのないリストラ劇が多すぎます。このようなリストラ劇は劇としては生ぬるく面白い舞台ではありません。主役が誰かもわからなかったり、主役のキャラクターや意思が不明であり、役として成立していないのです。脇役も舞台上で果たすべき役を演じないばかりか、舞台から降りてしまう人までいます。  企業はリストラによって再生することが望ましいに決まっていますが、これは環境に徹底して逆らい新たな価値を見出した企業のみが生き残るのであって、環境に対して徹底した自己存在意義を問い直さないリストラは失敗します。さらに失敗したリストラ劇の結末には、現代日本人の“日本人らしさ”がなくなったゆるい結末で、だれも責任を果たしたと言える状況ではないのです。“見るべき程の事をば見つ”と言えるリストラは非常に少なく、徹底した戦略再構築や経営施策を断行するという命を懸けるような深刻さがなく、単に経営ゲームとして負けたというような感覚にすら感じることがあります。真剣に経営をしているかと問われて命がけでやっていると胸を張って言える経営人が少なくなっているのではないか。日本的な重要な特性が失われているのではないかと感じることがあります。

関係のマネジメント | その他

関係のマネジメント

 たいへん優秀で、皆が嫌がるような困難な仕事を進んでやり、見事に仕上げた部下の管理職者がいた。その後、私が会社を離れ、半年後に複数の人から彼の話を聞いたら、今は仕事ができない問題社員だという評判に驚いたことがある。  そんな風に、あるリーダーのもとで、“意気に感じて”自分の業務範囲を超えて縦横に働き、高いパフォーマンスを上げていた人が、リーダーが変わったらいきなりローパフォーマーになることがある。もともと持っていた能力以上の行動発揮を引き起こすのは、上司のリーダーシップ能力が高いからではない。そのリーダーの部下になれば、誰もが能力以上に働くわけではないからだ。特定の上司部下関係のなかの、何かが、その人を励起したのだろう。  そうした関係の力は、リーダーとの間だけでなく、同僚との間でも働く。組織診断でみる「組織市民性」という項目がある。ひらたくいえば、職場の仲間が困っていれば手伝う、といった健全な協働意識の度合いを、組織ごとに診る指標だ。部門によって、驚くほどその点が低いと出ることがあるが、その要因はなかなかわからない。マネジャーやメンバー個々人の問題ではない、関係の病理があるように見える。  臨床心理の家族療法でよく知られるように、錯綜した人間関係はさまざまな心の病を引き起こすきっかけのひとつとされる。たとえば、子供の発症のトリガーは、親の夫婦関係の歪さにあったりする。家族ですら、父と子、母と子、父と母、兄弟との関係、、、等々、複数の関係が錯綜する。組織にある人々の関係の多彩さを考えれば、関係の力は、組織におけるメンタルイッシュ―の多さをみるまでもなく、良くも悪しくも、組織のパフォーマンスに大きく影響するはずである。  タレントマネジメントという言い方が含意する個別人材力の強化だけではなく、組織力を高めるような関係のマネジメントを改めて考えるべきではないか。タレントマネジメントの観点でいえば、組織力を高めるには、個々人のリーダーシップ力を育成するのだということになる。それに対していえば、役割や分担や損得を超えた行動をもたらす“つながり”をいかにして生成するか、ということになろうか。  それはきっと、会社という、権限や分業や雇用という公式な「関係の体系」の側面を片目でにらみつつ、おそらくは信頼や互酬性を原理とする非公式な「関係の束」をマネジメントすることだろう。とすれば、それはいかにも難しい。ただ、その原理や方法はまだ整理されていないけれども、ヒントぐらいは散見される。キーワードでいえば、自尊心の尊重、自己効力観の励起、スポーツマンシップの醸成。。。要は、人は関係の中でアイデンティファイされ、生きがいや働きがいを感じるという当たり前の原理に立ち返ればいい。  一方で、ここでいうような“つながり”を嫌悪する人たちもいるだろう。役割の中で自身の能力で、自身に期待される成果を出すことだけに腐心する人たちには、会社の中のべたついた“つながり”(=絆)なんかきっと気持ち悪い。成果を出し自身を成長させるのに、精神的な依存関係なんかいらない。そのように個を屹立させる人々が存在することで生まれる他者との軋轢や共感も、多様な関係の束の一部である。  一様でないさまざまな関係が集積するという組織の“複雑性”もまた、組織の力を高めるキーワードだろう。それは、異質性やゆらぎを要件とする情報創造型組織につながるだろうし、一時期、組織の不活性をしめす原因として取りざたされた「学習性無力感」は、ネガティブな関係の一様性がもたらす現象ともいえる。  脳の正体をつかもうと、脳をどんどん解剖し、生体砕片にまで分解しても、脳の本質はつかめない。脳の本質は、脳内の複雑な信号伝達、つまり「関係」にある。脳の圧倒的なパフォーマンスは、その複雑な関係が生みだしている。組織の複雑性もまた、組織のコンピタンスを高める条件だとすれば、関係のマネジメントの第一歩は、メンバー個々人のダイバーシティではなく、その結果生まれる複雑な関係のダイバーシティに目を向けることである。

手口をばらす | その他

手口をばらす

ここ数年、多くの企業でコンプライアンス研修が行われている。労働時間やハラスメントといった組織問題から、公正取引や反社会勢力との関係など社外の問題まで遵法面で留意すべきことは増える一方で、大小さまざまな事件の発生は珍しくない。その対策として、意識づけと行動徹底を目的とする研修施策ということである。 こうした研修は、ともすれば、経営にとってのコンプライアンスの重要性と仕事における原理原則の再確認に終始しがちである。それは不可欠ではあるけれども、一方で、現場のリアリティへの肉薄がないとお題目の確認だけで実効性にかけることなる。 仕事によっては、例えば労働時間に関して、収益性とコンプライアンスのぎりぎりのせめぎ合いで日々のマネジメントがなされるような場合もあるからだ。経営意思として、研修の場で、どこまでつきつめるかを事前に決めたうえで、自社の現場のリアルなコンプライアンスを教えることがもっとも大事である。 教育の実効性を高めるためには、まず、自社で起こった事件の事例を詳細に開示をしたうえで、どのように対処すべきかを、自社の現場に即して学習する。なぜ、そうした問題がおこったか、どんなやり方がされたのか、なにをしてはいけないのか、を具体的に受講者自身が検討することで、“自社のコンプライアンス”が胎落ちするわけである。 何をしてはいけないか、が具体的わかればそれが、抑止効果となる。その意味では、さらに、過去のコンプライアンス違反事例の共有だけでなく、自社でありうる具体的可能性を洗い出すことができれば、抑止効果はより大きくなるはずだ。 たとえば、研修の中で、「露見しないコンプライアンス違反の手口」をできるだけたくさん考えるといったグループディスカッションはどうだろう。こうすればバレずに〇〇〇〇が△△△できる・・・と例示するのは差し控えるけれども、ここでアウトプットされるさまざまな実践可能性の公開と共有は、いかにも有効ではないか。 コンプライアンスの原理原則を教える箇所を教科書だとすれば、このセッションは、いわばそれと一対にすべき逆説的問題集である。人事のご担当とすれば実施するには差しさわりがあるかもしれないが、コンプライアンスの現場徹底の一法ではあると思う。

老人力を向上する | その他

老人力を向上する

昔見た映画の話をしていて「あの、ほら監督、誰だっけ、えーと、あれあれほら、あーもどかしい」などといった事態が頻出するようになるから、加齢は哀しい。しかし、こんな風に物忘れがひどくなってきたのは、「やっと老人力がついてきた」と喜ぶべきことなのだ。。。 少し前に赤瀬川原平さんの本で話題になった“老人力”は、逆説に満ちたポジティブシンキング処世術だけれども、たとえば、物忘れを、「忘れることができる能力」というと何やら含蓄深い気がする。豊富な情報あふれる社会では、情報を取捨選択する力こそ大事になるといったコトワリに通じる気配もあったりするからだ。 いずれは「死ぬまで働く」に至るだろう高齢者雇用が始まっている昨今、本当の老人力、つまり加齢により向上する能力はあるのだろうか。 年齢とともに、ほとんどの能力は下降するなかで、創造力だけは維持ないし向上する可能性があるとする説がある。よく知られるように、創造とは無から有を生みだすことではなく、関係のなかからの創出である。ようは、脳の中の編集作業だから、その素材=脳内情報や思考法=脳内バイパスの豊富さは、創造に資することになる。 だから、経験つんだ脳は創造力発揮の可能性があるということだが、それだけでは、創造には足りない。矛盾するようだが、一方で、固定観念や従来のパラダイムに縛られない発想ができなければならないとされる。その原動力となるのは、強烈な目的志向と貫徹の意思ではないか。ある目的を達成するために、なにがなんでも生み出さねばならないと、脳をスクィーズ(squeeze)したときに、飛躍が生まれるのだろう。 スクィーズしきるには気力がなければない。気力は、身体の元気さ=体力に依存するから、健康でなければならない。とすれば、シニア人材の動機付け=気力ブラッシュアップと、健康の維持増進という当たり前の高齢者対策にも、創造性発揮の可能性の前提として意味がある。 そのうえで、しかしいちばん大事なことは、その目の前の仕事の目的が、なにがなんでも達成すべきことと本人に思えることではないか。 人は、目的の意味に共感したときに、創造力を発揮する、と言われる。会社がシニア人材に期待する役割、達成してほしい目標の“企業としての本気度”と自身への胎落ち感こそが、彼らの創造性を刺激する。その観点もまた高齢者活用に必要なのではないか。 単に過去の経験や知識を活かすだけでない能力発揮、高齢者ならではの創造力の発揮=仕事や事業の新しいやりかたの創出、といった付加価値を求めるのであれば。

背水の陣 | その他

背水の陣

 背水の陣とは昔の中国での漢と趙という国の戦争の話です。このとき漢は兵力が少なく圧倒的に不利な状況でした。漢の将軍韓信は圧倒的な兵力の趙軍に勝利するために、常識では考えられない戦術を用います。川を背にして布陣するという当時の兵法の常識では考えられない先方です。当時では“水を背にして陳すれば絶地となる”と言われていたからです。しかし韓信は少ない兵力が大軍を打ち破るためには、兵たちが通常の精神状態では無理だと考え、あえてタブーとされている背水の陣で臨みます。趙軍は敵の将軍は軍事の常識を知らないと嘲笑し、攻撃を開始します。しかし漢軍は後ろに川が流れている状況で一歩も引くことができません。生きて帰るには目の前の敵を倒さなくてはなりません。その必死さが趙の大軍を打ち破りました。背水の陣とは必死に努力することを表す熟語として今でも定着しています。  さて企業のビジネスの現場ではこのような“背水の陣”的な感覚がどこまであるでしょうか。当然命をかけた戦争とビジネスを直接比較するものではありませんが、現代の日本人の多くは商業の世界で生きており、これを生業としている以上どこまで必死かということも問われてしまします。ビジネスマンの多くは生活も決して貧しくなく豊かです。基本的に終身雇用ですので定年までの雇用は保障されています。また一つの会社で失敗しても他社に転職することができます。しかし個人レベルでは一生懸命働き高い成果を出しても十二分に報いてもらえる企業は多くありません。さらには所得が高くなると税金の負担も一層増し、成果の割に所得は増えないのです。  そういう観点では一つの会社や一つの仕事に必死になる要素は以前に比較してだいぶ少なくなってきたのではないかと思います。これは会社を経営するというレベルでも、一担当が業務を行うというレベルでも、その仕事を絶対に成功させるという気概を持ち続けることが、経済的に困難な環境になってきたのではないかと危惧します。また仕事に失敗しても、首になることもないですし、ましてや命を失うことなどありません。何に依拠して必死に仕事をするのでしょうか。  仕事で成功している人の多くは、このような経済的な動機や生命の危機回避的な動機ではなく、それこそ自己の存在証明としての動機のように思えます。仕事を通じて生命や経済的困窮などのリスクがほとんどない以上、なんらかの“価値観“が背水の陣的な必死さを生み出すのではないでしょうか。現在の日本企業における人事制度の議論においての成果主義などは、効果はあるが根本的に働き方を変貌させるだけの力はなく、だからこそ企業の理念や方針や職業人としてのプライドが重要性を増しているのです。そのため評価制度などでも、単に成果を数字で測るような仕組みは、重要な本質的議論を避けているようにも思えます。日本企業がグローバルに輝きを取り戻すためにも、背水の陣的な必死さがほしいものです。