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社員の幸福感が経営にもたらすもの | その他

社員の幸福感が経営にもたらすもの

 皆さんは「幸福」と聞くと何を思い浮かべますか?お金、地位、健康…人によって幸福の捉え方は様々です。では、皆さんは幸福ですか?と聞かれたら、何と答えるのでしょうか。  ご存知のように、近年様々な国・機関・団体で、幸福に関する調査が行われています。例えば、国連は「World Happiness Report」を作成しており、2013年の調査結果を見ると、1位デンマーク、2位ノルウェー、3位スイスとなっており、日本は43位です。また、OECDが発表している「Better Life Index」における日本の順位は21位(2013年)です。調査によってその視点や対象が違うため一概に言えないものの、日本の順位は高いとは言えません。  このような幸福に関する調査が数多く行われるようになった背景には、調査対象者が感じている「幸福感」が、その人の人生だけでなく、地域社会や経済活動に対しても、良い影響を与えているということが分かってきたからです。  幸福感に関する研究は、従来ポジティブ心理学の領域でなされていましたが、現在は組織行動論の領域に取り入れられはじめ、「ポジティブ組織行動論(Positive Organizational Behavior)」として、ビジネスで活かすための研究が進んでいます。研究の視点としては「幸福感とは何か」「幸福と成功との関係」「幸福感は何に影響を与えているのか」「何が幸福感を高めるのか」などが挙げられますが、今回のコラムでは「幸福感とは何か」「幸福と成功との関係」について触れさせていただきます。  幸福感は、さきにも述べたように人によって感じ方が異なるため、測定することは簡単なようで難しいと言われています。心理学者による幸福感の研究ではSWLS(ディーナーらの人生満足度尺度)が多く使われていますが、一方で欧米人と日本人といった特性による違いを考慮する必要があるといった考えもあります。これに対し、内田・城戸(2012、2013)は、日本のビジネスパーソンを対象とした幸福感の調査・研究を行い、幸福感は「自分の人生を順調とみなし満足していること」、「自分の将来に対して希望をもっていること」、「周囲の人たちと良好な人間関係を築いていること」から構成されることを明らかにしています。つまり、過去から現在までの時間軸の中で蓄積されてきた満足感や、将来に対する期待や希望。そして、周囲の人との良好な対人関係が日本のビジネスパーソンの幸福感を構成しているというわけです。  では、その幸福感と成功はどのような関係にあるのでしょうか。「何かしら成功したから幸福なのだ」と思われている人も多くいらっしゃいますが、心理学と脳科学の研究によって、幸せは「成功に先行する」のであり、単なる成功の結果ではないということが明らかになっています。  仮に、成功が幸せをもたらすのであれば、期初にたてた目標を達成した社員、昇進した社員など、何らかの目標を達成した人達はみな幸せになっているはずです。しかし実際には、勝利を勝ち取るたびに、成功のゴールポストはさらに前方へと押しやられていきます。悲しいことですが、こうして私たちの幸せは、地平の彼方にどんどん遠ざかっていくのです。  これに対し、幸福だから成功するという「ハピネス・アドバンテージ(幸福優位性)」の考え方は、前向きで受け入れられやすく、私たちの組織への応用展開が可能と言われています。今後は、幸福感によるビジネス上の効果と言われる「欠勤が少なくなる」「離職率が下がる」「生産性が高まる」「高業績をあげる」などを得るための取り組みが、企業内で広がってくるものと思われます。  幸福感がもたらす具体的な効果や、何が社員の幸福感を高めるのかについては、次回のコラムにてご紹介をさせていただきます。 以上

企業の安楽死 | その他

企業の安楽死

 全ての企業が、ゴーイング・コンサーンであるべきなのか。  なくなった方がいいような反社会的な企業は論外としても、業績不振でどうあがいても立ちいかず瀕死の状態が長く続いている企業や、一時代を経てその役割を終えている企業もある。場合によっては、意志して企業をいったん終息させたほうがよいかもしれない。  そうした「企業の安楽死プログラム」を逆説的につくって、関わっていた企業組織論専門誌に掲載しようと思ったことがある。といってもそれは、容易ではない。企業は、ステークホルダーズに支えられた社会的存在だから、経営者の勝手にはできない。投資家や顧客に対する手立てはいろいろ考えられるものの、従業員の存在がある以上、会社がなくなって従業員がいきなり生活できなくなったら“安楽”とはいえない。  そんなことを夢想しては、経営学や組織論の論客と議論したけれどもどうもうまく方法論化できない。そんな奇をてらったプログラム仮説作成はあきらめようとしていたら、なんと、実業のほうが危機的状況を迎え、自分の会社の安楽死を検討せざるを得ない状況となったのだった。  状況はこうだ。20年くらい前、社員数200人売上100億円の会社がバブル崩壊後に、3分の1の規模に縮小。しかもバブル崩壊直前に分不相応に立派な自社ビルを建てていたため、その負債で半永久的に黒字化は不可能という羽目に陥っていた。瀕死の状態で会社を死守し、消耗戦のなかで金利を支払っていくことの展望のなさから、真剣に「安楽死」計画を練ることにした。  ベンチャー事業としての存在理由、いわば魂(=事業コンセプト)は捨てたくないし、仲間たちが路頭に迷ってしまっては、安楽死ではなく悲惨な会社の最期になってしまう。かくて、不良債権ごと会社を消滅させながら、事業と人を生きながらえさせる計画をたてたのだった。「社員全員雇用の条件をつけた、営業権譲渡」と「訴訟覚悟の会社清算の実行」というシナリオである。  そのためには、単年度黒字化が必須である。現状赤字であり、営業権は、事業展望とともに買い手がつくわけだから、その証としての単年度収益の確保は、絶対条件だった。あまり詳しくは書けないけれども、メインバンクとももろもろ謀りながら、アクロバティックではあるが、実態としての事業の黒字化を実現し、その発展としての事業計画をもって、いくつかの会社の経営陣に対しての“営業”を行った。  いま我々の研修事業で提供している「上級プレゼンテーション研修」のコンテンツであるところの“タフ・クエスッチョン”の最大級版を浴びせられる場面を何度も経験したなかで、ようやくある会社の社長が、買ってくれることになった。売却価格の妥当性は当事者としてはなんとも言えないものの、なにより全員雇用や訴訟案件としてのリスクも含んでまるごと受け入れたその社長の判断には、大胆にして思い切りのよい経営判断として感謝し感服をしたものだった。  しかもその会社にとって、購入した事業はもともとのその会社のドメイン範囲外のものだった。その会社の一員となって何か月かたったとき、社長に、なぜ買う気になったのかを聞くと、「知らない領域の事業だし、聞いても良くわからなかった。採算性も不確かだし。とくに、事業展開の今後の広がりは、何を言っているか意味不明。でも、君たちがそれを確信持っていろいろ語っているのが、なんか面白くてね、その構想自体にも興味が湧いたんだ」と笑った。  経営者の意思決定とは、教科書的な意思決定の常識とは全く別物なのだと、このとき知った。つまり、そこに有効な「企業の安楽死プログラム」を作り得たからではなくて、ある一人の、独自の経営意思と出会えたことによって、私のいた会社の安楽死は実現したのだった。

脱線予防 | その他

脱線予防

 高い能力があれば、経営幹部になれるかといえば、そうではない。  マネジメントスキルがあり、リーダーシップ行動も実践し、必要な経営リテラシーを充分に持ち合わせていても、大事な局面で感情に流された判断をしたり、自身の名誉へのこだわりで失敗したりすることがある。そうした、優秀でありながら経営幹部として道を誤ってしまうような個人特性を、エグゼクティブ・ディレイラ―という。つまり、エグゼクティブとしてのキャリアから脱線(=derail)する要因。  具体的には、依存的、論争的、尊大、目立ちたがり、回避的、奇抜、不感知的、衝動的、完璧主義、リスク嫌い、感情的、といった性格・行動特性があげられる。もちろん、こうした傾向は多かれ少なかれ、誰しもが持ち合わせているから、問題になるのは、その度合いが強すぎる場合である。ともすればそれが、抑えきれず表出し、経営者としての道を誤らせることがある。  だから、そうしたディレイラ―が低いことを確認することが、役員選抜のひとつのポイントになる。経営者としてのスキルレベルの測定は、「アセスメントセンター方式」によるアセスメントが有効である。シミュレーション環境のなかで、意思決定や行動をさせアセスメントすることで、思考面、対人面、資質面の必要スキルレベルを細かく評点化することができる。しかし、その中では、エグゼクティブ・ディレイラ―の測定はできない。  評価されているとわかっているのだから、アセスメントの場ではうまく立ち振る舞おうとするのが当然である。その能力が高いと診断されたとしても、実際の現場でその能力をちゃんと発揮しようとするかはそもそも保証できない。それは、能力の有無とは別の、真摯さや実直さによる。ましてや問題ある(とたいていは本人も気づいている)個人特性は、診断の場では見せないように演じるはずだからである。  性格診断のような心理テストも十分ではない。やってみればわかるように、項目に答えているうちに、ある程度は“演じる”こともできてきたりするからだ。役員によるインタビューや役員による日常の評価でもその検出は難しい。なぜなら、上司に対しては、「うまく振る舞おうとする」。  ディレイラ―のレベルを診るのは、本人の周囲者、とくに部下の声を聴くのが有効である。インタビューや360度診断によって、部下がその人をどう見ているかを把握する。さきに列挙したような、ネガティブな個人特性は、日常の部下指導のなかで、滲み出るものだし、部下は実に敏感に感じ取っているものなのである。  では、エグゼクティブ・ディレイラ―を持っていれば、経営者失格なのか。しばしば天才的な経営者には、ときに、ここであげているような人間的な欠陥もあわせ語られる伝説がある。ディレイラ―がありながら、脱線しない経営者特性はなにか。  先日、あるホールディングスの社長に「社長たるもの」の要件を聞いた。これは社長になってから日々思うのだが、と前置きしながら彼は、なにより経営のサステナビリティを第一に考えることの重要性を強調し、「社長である“自分”を律すること」と言った。社長こそが(自身が退いた後につながる)経営の継続性を体現しなければならない。それができる自己制御能力・姿勢・意思が社長に備わるのでありさえすれば、ディレイラ―は大した問題ではないのかもしれない。

新世代が正しい | その他

新世代が正しい

 ここ数年の若手社員に対する評価として、まじめでそつなく振る舞う人が多くて扱いやすいけれども、本音がなかなか見えない、といった声を聞くことがある。いわく「期待されていることをやればいいという態度が、実にさめている感じで、何考えているかわからなくてね」と。  しかしそもそも、働く場で本音を出すことが必要なのだろうか。こういった指摘の前提には、同じ会社で働くかぎりは、本音をぶつけ合いたいという旧世代の“常識”がある。家族主義経営を標榜しないまでも、どこか、職場の仲間同士は、腹を割った人間的な付き合いも含んだ協働関係でありたいと願っている。それは、快適な環境という面もあるだろうが、一方で「本当の自分」を出さねばならないことがストレスになり、メンタル失調に結果するかもしれない。  役割等級という言葉があるように、企業組織とは、個々人が必要な役割を果たすことが求められる場である。だから、職能給でなく職務給、つまり職務(=役割)に報酬が払われる。人事考課で問われるのは、役割を果たせたかどうか、であって、全人格評価ではまったくない。管理職であれ、中堅社員であれ、また新入社員であれ、役割を果たす。要は、きちんと役を演じることを通じて、結果をだせばいい。本音(めいたもの)を出す、出さないもまた、役の演じ方のひとつにすぎないのではないか。その意味で、優秀な管理職者は、優秀な役者ということもできる。  それでは殺伐とするではないか、という指摘は当たらない。同じ組織目標達成に向けて、真剣に役割を果そうする態度が相互信頼をもたらすはずだし、そこに共感や凝集性が生まれる。そこでさらに、本音の表出など必要ないし、その効用があるとも思えない。もし、本音をぶつけ合うことでパフォーマンスがあがることがあるとすれば、それは、そもそもの役割や目標の設定がおかしかったということである。  かつて企業は、船のメタファーで語られた。であれば、社員同士、一蓮托生で突き進むわけだから、まるごとの人間関係の要請も分かる。しかし、今、企業のメタファーはあきらかに船ではない。多様な人々が交通し、かなり多くの時間を共有し、そのビジョンやミッションにもとづく役割を演じる「場」といったイメージだろう。だからこそ、凝集性の要となる、会社のビジョン、ミッション、バリューがきわめて重要であり、だからこそ近年多くの企業が、自社の存在理由を改めて問い、こうした自社のコンセプトの明確化と発信に腐心しているのである。  ときに、新入社員たちが本音を言えないのは、会社の一兵卒としての緊張からだと、本音を言いあえる場を用意することもあるが、そもそも彼らはそんなことを望んではいないだろう。また、きっとそこでは、そつなく、“期待される本音”を話すに違いない。よく言われるように、傷つくのを恐れ、人間関係全般で、役を演じるようなふるまいが新世代の特性なのかもしれないが、そのことは、まだ古い企業観にとらわれている旧世代よりは、いまの企業組織での働き方の適性が高いともいえる。  「最近の若い者は〜〜」として語られる世代間ギャップの多くは、新世代の方が正しい。なぜなら、新しい世代は、未来人の先行モデルだからである。

高難易度の管理部門人事 | その他

高難易度の管理部門人事

 企業内で管理部門に所属している社員は、営業や製造といった直接部門に比較すると非常に低い比率です。業態や規模にもよりますので比率を正確に出すことは正確ではありませんが、5%から10%程度ではないでしょうか。たとえば人事部門などは社員100名に対して1名程度が適正な人数と言われていますので、社員の中では1%程度の比率ということになります。非常にマイナーな職種といえます。  人事制度を設計するうえで、この管理部門人材のキャリア設計は非常に難易度が高いといえます。これは人数が少ないことと、管理部門のキャリアといっても、いくつかの専門的な分野に分化しており、様々な研修や経験を積まないと優秀な管理部門社員や管理職になれないからです。一般に管理部門では、経理、人事、総務、法務、情報システム、広報などが挙げられます。この中では経理や法務は専門的な知識や様々な経験がなければ実務を遂行することができません。情報システムも他の分野と比較して独立した分野であり、管理部門人材といってもまったく別の職種の人材といえるでしょう。  この管理部門人材の調達育成の難しさは、その人数が大きな影響を与えています。たとえば1000名の企業で経理部が20名だとします。この20名は経理の経験がそれなりになければ決算や財務の仕事などを遂行できません。したがってちょっと経理が忙しいからといって他部門からローテーションで配属しても戦力になりません。また20名であれば毎年新人を配属することできませんので、2年ごとに1名か4年ごとに2名などの配属ペースとなるでしょう。この難しい分野の仕事を行うために1名や2名のために研修を行わなくてはならず、非常に非効率です。営業や生産部門のように多くの新人が毎年配属される部門では新人教育も十分な時間、コストをかけても、効率的にできますが、管理部門ではそうはいきません。  1000名の企業ですらそうこうであるのに200名の企業ではもっと深刻な問題となります。200名の企業で経理部門が5名だとします、計画的に配属するならば8年に1名の配属ということになります。こうなるとよほど長期の視点で持って配属を考えなければうまく循環しません。しかも経理部の社員が一人退職すると営業や生産と比較して極めてダメージが大きいのです。これは経理だけでなく、他の部門すべてがこういった状況ですので、人事管理としては難易度が非常に高いのです。  2000名以下、1000名以下の企業では、管理部門人材を新卒から配属して育成することが本当に妥当なのかということです。このような難しい管理、高いリスクを抱えるのであれば、できるだけ社員が行う業務を少なくして、アウトソーシングや派遣社員の活用を行うほうが合理的です。外に出せない意思決定業務やコアの業務については社員が行うのは仕方ないにしても、他の業務でアウトソーシングできない業務はほとんどないはずです。管理部門人材の調達と育成について再度考える必要がありそうです。 以上

質問に答えろ | その他

質問に答えろ

 質問に対してこちらが求めている答えが返ってこないことが実に多く感じる。たとえば会議の時などでも、質問者の質問に対して、的を得た返答をする人が実に少ないのだ。質問している趣旨を理解したうえで、その質問に対しての回答がうまく行える人は多くないのが現実である。  会議などを行っている中で、参加者から質問が出るというのにはいくつかのパターンがある。代表的なものでは単純な質問である。説明者が話す内容の中で、よくわからない部分があった時など単純にわからないことを聞くというものである。次に確認や強調のための質問がある。これは説明者が話している内容の主旨や一部について、会議参加者に再度確認させたり、強調するための質問である。これは会議の主旨から、特に参加者に理解賛同を得たい場合に行う質問のパターンである。また誤りに対する指摘としての質問もある。クレームに近いものである。説明者の説明の事実認識や論理構成などの誤りを正すためにするための質問である。“痛い”質問である。質問をされた側は、質問の意図を瞬時にもっと深く理解するべきである。質問の意図をよく理解しないで回答されると、質問者は“的外れ”と思い苛立ち、失望が大きい。  質問する側は質問したことに対する明確な回答がほしいことを理解しなくてはならない。質問に対する回答が長すぎたり、まとまっていないとさらに苛立ちや失望が大きくなるのである。そのためには結論から回答することも効果的であろう。“この施策にはリスクはないのか?”と聞いたところ、長々と説明されて結論がよくわからなかったりすることがある。長く説明するのであれば、“まず今の質問に対しては、YESです。なぜならば・・・”などのようにはっきりと結論を明示することも場面によっては効果的である。  逆に会議などで質問を受けた時など、気の利いた、ポイントを突いた回答をする人は優秀であると感じる。会議の主旨や流れ、雰囲気をよく理解して、質問者に対して効果的に対応できれば、参加者の信頼を得ることができるのだ。そのためには、質問を受けた時に即反応することは厳禁である。まず質問の主旨を理解する → 次に今、答えられるかを判断する → 答えるのであれば効果的な答えを考える → そして回答。このような頭の中の作業をしてからでないと答えるべきではないのだ。これは質問されてからできるだけ短い時間、瞬時に判断できるかが重要なのだ。このような頭の作業を行わないで答えると、ピント外れになるのである。この頭の反応をいかに瞬時にした上で、できれば回答は結論から言うと非常にクリアである。  これは会議だけではなく日常の仕事の中でも同じである。実に重要なコミュニケーションスキルであるが、日本ではあまり訓練されていないと感じる。それだけ質問に答えない人、堪えられない人が多いのだ。“質問に答えろ”“結論から言え”と心の中で言われていると痛切に感じるべきである。 以上

職場の民主主義 | その他

職場の民主主義

「社員のロイヤリティを高め、パフォーマンスを向上させるために、他社ではどんな取り組みをしていますか?」企業経営者や人事部門の責任者から、時々聞かれる。 先般、新聞(4月5日付 ウォールストリート紙)に、ある興味深い記事があった。共和党・民主党の大統領候補選出で沸くアメリカでは、一般企業においても職場の民主主義が広まりつつあるという内容だ。 「オフィスレイアウトをパーティションで仕切るかオープンテーブルにするか」「職場の共有スペースで音楽を流すか否か」あるいは、「本社の引っ越し先のロケーションはA地区かB地区か」等、アンケート調査用のデジタルツールを利用して、一般社員が、職場の運営等について発言の機会を与えられたり、意思決定に参画する会社が増えているようだ。また、さらには、最終意思決定は経営・管理職側にあるものの、意見を参考にするということで、CEO決定や人材の採用の是非まで、社員に問う企業もある。 事の大小に限らず、組織運営上の意思決定を従業員の投票を行って決めることは、会社経営への参画意識が高まり、リテンションやモチベーションにプラス効果をもたらすことにつながるだろう。日本に限らず、米国でも、社員の参画意識を高め、やる気を引き出そうと各企業が腐心しているということだろう。 ただ、こうした取り組みには当然リスクもある。社員に迎合するようなアプローチで行ったり、十分に投票環境を整えておかずに投票を実施したりすると、誤った判断や社内の混乱をもたらすことになる。 社員投票を行う際には、経営・管理職サイドは、適切な情報と意思決定のポイントをよく整理して提供して、それぞれの選択肢のメリット・デメリットやインパクトをよく理解させたうえで投票させることが重要だろう。 我が国では、組織運営上の判断をする際に、社員に積極的に意見を聞こうとする例はそう多く聞かない。一般的には、従業員意識調査として社員アンケートを数年に一度、行っている場合はあるが、それさえ実施していない企業も少なくない。 今や、テクノロジーの発達により、比較的容易に、社員投票やアンケートが実施できる環境が整いつつある状況である。採用難やリテンション対策で頭を悩ます企業や社員のパフォーマンスを最大化することに取り組んでいる企業にとって、投票のテーマは、よく吟味するとともに、適切な段取りと社員に対するメッセージを十分考慮した上で、職場の民主主義を広めていくことは、企業差別化人事施策としても有効に機能するのではないだろうか。

好き嫌い | その他

好き嫌い

 「自分は~~」と話す若者が好きだ。対して、「自分的には~~」、「私的には~~」と話す人々は大嫌いである。  「私的には~~」の、「的」とはいったいなにか。「私に言わせれば~~」と言われれば、あんた何様? とその上から目線が気に入らないものの、まだそのスタンスはわかる。そこまでのきっぱりさもなく、「自分の感覚や好み、考え方からすると、~~~なんだよね、ま、あくまで私としては、なんですけどぉ~~」といったズルさの透けて見える自己主張に虫酸が走る。  と、個人的な好き嫌いで暴言を吐いている私が、さて、期末の評価時期を迎えたとする。この手の人が部下だったら、きっと悪い評価をつけたくなる。業務上のミスをしたとしても、「自分は~~」と話す部下だったら、そんな悪い評価はつけないかもしれない。だって、私は好ましい姿勢だと思っているから。  こんな風に人々が評価されないために評価制度はある。評価制度は、会社として、とってほしい行動、なってほしい人材像を基準として提示して、それに即してのみ、出来不出来を判断してくれ、というメッセージである。会社としての良し悪しを、会社としての基準でみる。これに対して、好き嫌いによる判断は、上司である自分の中の基準(価値観だったり、人生観だったりの)による判断である。  自分の“中にある”基準は、もちろん、信念をもって持ち続ければいいけれども、部下を評価する基準は、自分の“外にある”共通の基準でなければならない。何を当たり前のことを殊更に言っているのかと思われるだろうが、好き嫌いは知らぬ間に、評価者の眼を曇らせることがある。価値観がまったく異なる人の行動は、理解できない分、バイアスがかかったりする。  管理職の方々は誰しも、評価に臨めば好き嫌いの感情で判断しないようにとして自分を律しているはずではあるが、好き嫌いのベースには価値観、ともすれば人としての善悪判断につながる個々人の軸があったりするから、厄介だ。とくに、評価を通じて部下を成長させようと考える真面目な管理職者なればこそ、自身が良かれと信じる指摘、指導をしてしまう。それが、個人的な価値観の押しつけになったりする。  多かれ少なかれ、評価やその結果としての処遇には、好き嫌いが入り込むのが、人々の関係の束=組織の宿命かもしれないし、家族主義経営的な日本企業の良き文化というものもそこにあったかもしれない。しかし現代の組織は、ダイバーシティである。性別や年齢や国籍といった外形以上に、その内面の価値観や嗜好、大げさに言えば生き方のスタンスすらメンバーごとに多様に異なる。  とすれば、今まで以上に自分の“外にある”基準、会社が定める評価制度、評価基準に即した評価を徹底しなければならない。そのためには、管理職たる者、資格等級定義や職位の役割定義は完全に頭に入っているのは当然として、業績評価にしろ、行動評価にしろ、評価基準を理解し、自部門における具体基準を、言葉にして語り、また、それで指導、評価できなければならない。  徹底して、会社が定めた基準だけに準拠する。部下育成とはこうあるべきとの自身の信念をもつ方々には、なんとも窮屈かもしれない。そこは、手あかにまみれたこの言葉を呟いてみたらどうだろう。「たかが仕事、されど仕事」。  マネジャーの仕事は、人を使って、組織目標を達成することだ。その限りの人材の活用、育成だから、自身の価値観との葛藤などいらない。割り切って、組織の基準に従って評価し、そこへ向け指導すればいい。しかしだからこそ、自身の価値観や経験に束縛されない、また相手の価値観も気にしない、自由で創造的な指導方法も生み出しうるのではないか。  個々人の内面や本質なんかに拘泥することなく、人の集団がパフォーマンスをあげることを純粋に考えること。それが、マネジャーにとってのWord of wisdom、「たかが仕事、されど仕事」なのである。

休みたくても休めない | その他

休みたくても休めない

 世界に類を見ない少子高齢化社会に突入し労働力不足が懸念される我国では、女性の社会進出機会をより高めようと、さまざまな工夫がなされています。国の主要な制度として育児休業の制度が施行されています。個々の企業においても、子育ての期間は転勤をしなくても済むようにする転勤猶予期間の制度、実家を離れる心配のない地域限定の働き方、通常より短時間の勤務など、さまざまな工夫がされています。保育施設を提供する会社もあります。  こうした努力にもかかわらず、女性にとって働きやすい社会になったという評判は聞いたことがありません。子供を育てながら働くというライフスタイルを諦める人はまだ数多くいるようです。その理由を尋ねてみると、「周りに迷惑をかけたくないから」というのがたいへん多い。育児休業制度があるのだから大いに利用すればいいじゃないか、育児休業から復帰した後も、職場の皆が協力すれば・・といった単純な意見は、現場を知らぬ者の妄言として退けられてしまいます。誰かが勤務を休めば、他の誰かがカバーしなければなりません。育児で休まざるを得ない人がいて、その穴を埋めるべく頑張り過ぎた仲間が、心身の健康を損なうような事例も少なからずあるようです。  調べてみると、職種によっては比較的休みを取りやすいものがあります。育児休業の取得状況を見ると、化粧品等の販売職、航空会社のキャビンアテンダント、看護師、薬剤師、といったような職種においてはその率が高いようです。女性が多い職場なので理解があるというのも理由のひとつでしょうが、業務が標準化されているということも重要なファクターであると考えるべきです。たとえ臨時の補充であれ、きちんと訓練された人が確保でき、定められた業務標準に基づいて仕事をしてもらえれば、業務品質を落とすことなく一定のアウトプットを出すことができます。だから、職場に無理を生ずることなく安心して育児休業の制度を活用したり、子育ての事情に応じて休みを取ったりすることができるということです。  多くの職種においては、これと反対のことが起こっているのでしょう。つまり、業務標準化の程度がたいへんお粗末で、職務標準に則った実務訓練も行われていない。だから、ある特定の担当者がいなければ業務が前に進まない、つまり「余人をもって代えがたい」状態になっているのです。誰もカバーに入れない、無理にカバーしようとすれば担ぎきれない荷物を背負うことになります。  わが国では、もともと、業務量の変動によってたやすく社員を解雇することはできません。会社はどんなことがあっても社員の雇用を守る、その代わり、社員はどんな仕事でも何とかしてこなす、という交換条件が自然に成り立っています。だから、「あなたの仕事はこれとこれ」、「手順はこのようにして」・・というような業務標準化がそもそもなじまないと考える経営者や管理者が多いようです。マニュアルなど作ったら、それ以外の仕事はしません、と言われて仕事にならない、下手な決まり事は作らないほうがよい、などという意見もよく聞きます。なんでも曖昧にしておくほうが、何かと融通が利いて便利だというわけです。これでは、個々の社員に仕事が付いて回り、代替性が損なわれますから、いつまでたっても子育てをしながら働こうという女性の労働力を招き入れることはできません。  時代は変わりました。十分な労働力を確保するため、子育てをする女性が安心して職場に参加できる環境を作らなければなりません。そのためには業務標準化と実務訓練の有り様をもう一回見直す必要があります。業務標準化には、短時間で手早くアウトプットを出し労働生産性を高める効果があります。加えて、人の代替を効かせるという重要な効用があります。したがって、業務標準化は、女性の職場参加にとって不可欠な要素です。もはや、業務標準化と実務訓練というめんどうくさいプロセスを避けるために「なんでも曖昧にしておいたほうが、融通が利いて良い」などと言っていてはいけません。スローガンを掲げて旗を振っているだけでは問題は解決しないのです。

給与情報の公開レベル | その他

給与情報の公開レベル

コンサルティングをしていると、企業間で、人事上のポリシーに、大きな隔たりがある事を時々、感じさせられる。たとえば、社員の給与や評価結果を社内でどこまで公開するのかという事も、その一つだ。評価結果は、大変、個人的なものであり、ラインの上司と人事部しか知るべきものではなく、他部門であれば、役員クラスでも、公開されないという考え方を持つ企業もあれば、管理職以上であれば、自分の所属階層以下の社員の評価結果については、だれでもアクセス可能で、むしろ積極的に部門間どうしで、評価に対して意見を求めあい、より適正な評価を行っていこうという企業もある。 給与額についても同様で、法的な観点もあり、さすがに、一人ひとりの給与明細を社員全員に公開しているところはあまり見かけないが、人事制度で決められた各等級の給与レンジや賞与額決定ロジックや月数を社員に公開していて、役割やポジションにより、おおよその給与水準が推測可能にしている企業もあれば、給与レンジに加え、誰がどの等級であるかという事さえ、本人以外には、一切、公開していないという企業まである。 このように、処遇に関する情報開示ポリシーは企業により様々であるが、給与額情報をある程度、積極的に公開していこうと考えている企業が、今、徐々に増えているように感じる。その目的は、どんなパフォーマンスや役割を担えば、いくらの給与が期待できるのかを社員に明示する事で、給与支給の透明性が高まり、社員のより高いパフォーマンスを引き出すことにある。他人と比べた自分の給与状況を知らされると、より熱心に働き、業績を伸ばしたという研究結果もあるようだ。また、給与の透明性を高めることで、男女間での給与格差是正にもよい影響が期待できるという声も聞く。 一方、いままで、給与レンジや賞与額決定ロジックを公開してこなかったのは、社員に対して、なぜ、その給与額や賞与額になったのかをうまく説明することができないという理由によるところが多い。給与情報の公開をすることで、適切で合理的な給与・賞与決定メカニズムへ整備を促進していこうと、経営や人事が、一歩、前進していこうとする意思の表れでもある。 そもそも、企業サイドがいくら、給与情報を秘密にしようとしても、社員間で給与明細を見せ合うことまで、止めることはできないし、最近では、匿名で社員や元社員が、給与情報を提供して、ネット上で、かなり具体的な月収や手当額まで、わかってしまう時代である。こうした大きな流れに対抗して、企業サイドで、情報を制御していくことはますます難しくなっていくだろう。社会の情報開示のトレンドが進行する中で、社員のパフォーマンス向上や優秀な社員の獲得・維持のために、給与情報や決定メカニズムの公開がより進んでいくことになるだろう。

一言で言え! | その他

一言で言え!

コンセプチャルスキルといえば、ロバート・カッツが提唱した管理職に必要な3つのスキルカテゴリーのひとつで、かつ最重要とされる。日本語では、概念化能力。物事を俯瞰して概念的・抽象的に把握し、本質をとらえる力を意味するというと、なにやら仰々しいが、要は、「要は、〜〜〜〜である」と一言で言える能力ということである。 しかしこれが難しい。一方で、管理職者に必要な能力として、分析能力というものがある。物事を分解して問題を特定し、原因を検討して、その構造を明らかにする。問題解決に際しては、この分析能力も大事だが、それだけだと、ともすれば、分析は見事でありながら、本来の問題解決とは無縁の答えになったりする。 概念化能力の伴わない分析能力の弊害とは、譬えて言えば、問題の事象を分解し、細かく分析をした結果を、もう一度組み立ててみると、あれ、これはもうぜんぜん違う問題じゃないか、といった事態。管理職の方々が、こんなこと指示したっけ? と部下のアウトプットを見て首をひねる時も、得てしてこのようなことが起こっていたりする。つまり、それが目の前の課題であれ、あるいは事業判断の局面であれ、いきなり分析的、要素対応的に対峙してしまい「要は何なんだ」という本質が見えなくなってしまうということである。 顧客や上司に求められ、なんらかの企画提案をするときの失敗の多くは、こうした概念化力の欠如による。その典型例は、相手から「そもそも、欲しい提案と違うけど、何しに来たの?」という気配漂うやるせない失敗の状況。顧客や上司は、課題やニーズをいろいろ言うが、それらは、ほんとうに困っていることなのか、単なる思い付きなのか、レベル感バラバラである。それらの言葉に対して、分析能力だけを発揮したときに悲劇は起こる。 ときに、自分がやりたいこと、実現したいことが、顧客自身や上司自身にわかっていないことさえある。心理カウンセリングの世界には、本人が語る相談目的と「主訴」は異なるという原則がある。同様に、顧客や上司が、自身の真のニーズに気づいていないことだってある。ポイントは、語られる話の全貌や背景となる会社状況を、俯瞰し、本質を仮設すること。顧客の個々の言葉にまどわされず、要は何がしたいのか、何を解決すべきなのか、を把握できさえすれば、少なくとも的外れな企画提案は起こりえない。 では、概念化能力を高めることはできるのか。つねに視点をあげる、WHYをしつこく問う、つねにコミュニケーションのメタレベルを意識する、あるいはコンセプトメイキングのフレームワークを学ぶとか、方法はいろいろあるだろう。一番簡単な方法は、どんな問題も課題もニーズも、常に「一言で言えば、どういうことか」と考え、なにがなんでも、言葉にしてみるということではないか。それを、徹底することで、きっとコンセプトというものが見えてくる。 うだうだ説明する部下にいらだち、「要は何なんだ!? 一言で言え!」とどなる上司は、正しい部下育成を行っているのである。

5年後 | その他

5年後

 日本企業の5年後はどうなっているだろうか。  現在より少子高齢化は着実に進んでいる。高齢化により内需は次第に縮小することになるだろう。さらにオリンピックによる一時的な需要が無くなることになる。税金、社会保障費負担が増すことも確実である。5年後には急速に企業業績の低下が予想されるのだ。そのため現在の日本企業の経営は非常に重要な局面に立たされていると言える。グローバル展開を進め、日本市場が縮小しても力強く成長することを指向しなければならない。国内市場を対象にしている企業は、新たな需要を生み出す商品・サービスの開発投入を急ぐか、競合企業に対しての優位性を高めなければ生き残れない。残り数年で経営の革新をしなければ、今の延長線では魅力的な企業として存続できないばかりか、存続そのものが危機に立たされることにもなりかねない。この状況に対して経営の重要な部品たる人事は十分に対応しているだろうか。今後の環境を予測して、計画的かつ抜本的な改革を行っている企業もあるが、強く意識していない企業も多いと感じる。  5年後急速に業績が低下すると、多くの企業は中高年社員をターゲットとした人員削減をかつてない規模で実施することが予想される。バブル崩壊後のリストラ時に“団塊の世代”の人員削減が行われたが、この規模を大きく上回る大リストラ時代が来るのだ。この背景には日本企業の人事管理が、いまだ年功的であることが大きく影響している。多くの企業の人事制度は“実力・成果主義”を標榜しているが、実際に実力・成果をストレートに反映しきれていない。換言すれば年齢との関係性を断ち切れない状態にあるのだ。そのため年齢が上昇すると人件費が上昇する、管理職が多すぎるなどの問題が放置されているともいえる。業績が悪くなると、人材育成投資を削減するので、この20年間十分な教育がなされたとも言えない。生産性の低い、処遇の高い大量の中高年社員を抱えきれなくなった時に、大規模人員削減を実施することになるだろう。  今後の厳しい環境をチャンスととらえるためにも、人事は思い切った施策を早急に実施する必要がある。社員の能力の向上は待ったなしであろう。新たなビジネスチャンスの獲得、競合優位性の向上のための人材育成を急ピッチで行わなくてはならない。また過去の延長線での制度改定ではなく、5年後、それ以降の環境を予測した“実力主義”の人事制度に早急に転換しなくてはならない。“評価があまい”、“給与を下げるとかわいそう”などと言っている場合ではないのだ。  企業の人事は岐路に立っている。5年後が一つの転換点とすると、今手を打たなければ間に合わないということを再度認識する必要がある。 以上