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誰を昇格させるか | その他

誰を昇格させるか

昇格審査に関するご相談が増えている。 勝ち組を目指すための人材力強化の機運のなかで、やはり、まず第一の課題は次世代リーダー育成。それには、きちんとした計画的で合理的な昇格が必要ということだが、その背景には、「なぜ、彼が管理職なんだ!?」といった昇格の失敗経験も少なくない。名プレーヤーは必ずしも名マネジャーではない、といった話もよく聞かれる。 昇格の判断は、2段階で行われる。第1段階は、人事考課による昇格候補者の選定。評価項目は、資格等級ごとに決められた能力や行動の要件だから、その基準を満たしていれば、その等級は“卒業”ということになる。通常は、能力評価結果がその材料だ。業績評価結果も考慮されることもあるが、業績評価は本来、賞与に反映され単年度で報われるべきものだから、その材料にはしない方が合理的だ。 ここまでは、評価の制度と運用に問題なければOKだが、難しいのが次の第2段階。上位資格の役割を担えるかどうかの判断、いわば、“入学”の審査である。とくに管理職昇格で悩ましいのがここのところで、卒業要件満たした人のなかから、部門長推薦⇒筆記試験(&適性テスト、論文)⇒役員面接、といったよくあるプロセスでは、どうもうまくない。見極めなければいけないのは、マネジメントができるかどうか。しかし、その役割にないのだから、やったことがないからわからない。これを、筆記試験や役員面接で見極められるのか、という問題である。 そういった未経験状況における能力発揮可能性を測る方法として使われるのが、アセスメントセンター方式というアセスメントである。シミュレーション環境を用意して、その中で各人の意思決定や行動を評価するというもの。2日間の研修形式でじっくり見極めるか、センター方式のアセスメントツールを個別や組み合わせて使うなどで一定精度の診断ができる。 かくて、人事考課とアセスメントセンター方式によって、在籍資格の要件を満たし、かつ、管理職としてやれる可能性レベルがみれるから、昇格者選定の客観的材料ができるということになる。しかしこれは、スキルだけの話である。加えて、自社のコア人材たるマインドをどうみるか。それを診る意味で、役員面接や論文が機能するというわけである。 近年増えてきたのは、そこに、バリュー評価を考慮することだ。企業理念にもとづく行動こそが大事だから、どんなに能力やスキルが優れていても、バリュー評価に問題があれば、昇格させない、といった運用ルールの会社も少なくない。ちなみに、バリュー評価を賞与反映するようなケースもあり、自社のコア人材の要件は、能力やパフォーマンスだけではないというスタンスは根強い。 能力的にできそうかどうかが問われるけれども、能力発揮可能性だけあっても、姿勢や意欲・意思の面で問題あれば昇格には及ばないというわけである。大事なことは、一方で客観的にスキルを評価・測定したうえで、加えて自社固有の価値観や必要な姿勢を共有・体現している人材を見極めるということだ。役員や部門長が「あいつは“人物として”管理職をやらせても大丈夫だ。俺の眼に狂いはない」と、後者だけで選ぶことでは、昇格の失敗の根絶は難しい。

もっとユニバーサルデザインを | その他

もっとユニバーサルデザインを

教育研修の世界では、米国海兵隊の訓練方法がよく取沙汰される。 映画「フルメタル・ジャケット」の異常に圧迫的な訓練光景イメージの裏側で、ロイヤリティやスキルを高める考え抜かれた方法があるからで、例えば、個人特性に応じたチームの編成の仕方を学ぶ研修で教えるメソドロジーを、米国海兵隊に借りたりする。 これは、戦争という極限状態のなかで生まれた組織論だからこそ、その実践性が高いということだが、テクノロジーの革新という点では、さらに戦争の“貢献”はよく知られている。いろいろな分野に応用されるIT技術や電子工学の高度利用はもちろんのこと、インターネットもたしか軍の内部コミュニケーションシステムとして生まれたと聞く。世の中からなくなってほしい戦争ではあるが、それが技術革新の契機であったことも事実だ。 同様にクリティカルな状況打破を目指す、もう一つの技術革新の契機が、ユニバーサルデザインの追及である。つまり、障がいのある方々の生活を支援する技術。かつて、Coup d’Etat(クーデター)ならぬCoup d’Tech(クーデテック)という、多くのIT会社が参画した運動があった。「障がい者の生活を革命せよ」と “技術へ一撃”いれて、新機能や新しい道具を生み出そうという動きであり、その後、実際にたくさんの支援機器や支援環境システムが生まれている。 ウォッシュレットやTVのリモコンの例を持ち出すまでもなく、また、「バリアフリー」ではなく「ユニバーサルデザイン」という言葉になったことにも象徴されるように、障がい者支援を契機に生まれた便利な道具を我々全員が享受している。戦争ではない、こうした技術革新こそ、Coup de Tecの思想の実践こそ、もっともっと進むべきだろう。 障がいある方々のために、ICTや先端技術を使った生活や仕事の道具はずいぶんとできてきているが、まだまだ十分でない。必要な人なら誰しもが、ホーキンズ博士並みの車いすが使えるようなローコスト化技術は生まれないものか。また、日常生活の不都合をなくすための道具はある程度あるものの、生活を楽しむ道具は、まったく足りないのではないか。 たとえば、失われた五感の補完や増幅、もっと言えば新しい感覚の創出に基づく、障がい者の方々にとってのエンターテイメントの世界といったものが、技術の粋を結集して切り開かれるべきではないか。それらは、高齢化社会のQOL(Quality of Life)を高めるだろうし、また、結果エンタテイメントの世界を拡充することになるだろう。 道具や環境整備だけが、技術革新ではない。ユニバーサルデザインとしての、組織論や組織管理技術、人材マネジメント技術もあるのではないか。たとえば、さまざまな障がいをもつ人々や超高齢者をメンバーとして前提した組織のマネジメントの技術。それはきっと、海兵隊のメソッドよりもう一段高度化されたダイバーシティ・マネジメントの方法となるはずである。

無音を制する | その他

無音を制する

 アルゼンチンタンゴの全盛期の代表的な指揮者として有名なファン・ダリエンソは、“無音”の天才でした。ダリエンソの演奏は曲の途中で突然無音になります。あたかも次の音やメロディーを強調するかのように突然無音になるのです。この“無音”の効果が余すことなく発揮されている代表作は、“ラ・クンパルシータ“とう名曲です。曲名は知らなくとも、この曲を聞いたことがない人はいないくらいのタンゴの名曲です。この曲の中でも“無音”の効果は絶大なものがあります。音を強調するに大きな音を出すのではないという手法に改めて驚かされます。  会議やプレゼンテーションをする中で、強調して話したい、話さなくてはならない状況があります。このような場合には自然と声を大きく話すことになる傾向にあります。確かに心情的にも自然に声が大きくなってしますのは当然と言えば当然です。しかし強調したい部分をより効果的に伝えるには、“間”をとることも非常に効果的です。“間”を取るとは、「この場でお話ししたいことは、(ちょっとした間)○○ということです」のように、強調したい部分の前に“無音”の時間を作るということです。通常話をしているときは一定のスピードで話をしていますので、いわゆる緩急があまりありません。効果的な話をするにはこの緩急を意識するとよいということです。その究極が“間”であり、これは“無音”ともいうことができます。  プレゼンテーションにせよ会議にせよ、話すことで何かをより効果的に伝えるには、さまざまな準備や工夫が必要です。話すという行為は、話し言葉が順番に耳に入ってくるだけですので、そもそも全体の構造が分かりづらいのです。そのためプレゼンテーション資料などを用意して、図やグラフなどを使用しながら話すことは、この話すという行為を強力にサポートしてくれます。図やグラフや目次や話のポイントなどが目に入ることによって、話し言葉だけでは伝えきれない、伝えられないものが伝えられるからです。そういう意味では本質的に話だけで相手に何かを伝えることは、相当な制約があるということです。  しかし聞き手は、図やグラフやパワーポイントの資料を見に来ているのではなく、これらの補助物は使用しながらも、その人の“話”を聴きに来ています。したがって資料の説明を頭から読むようにやられると全く面白くありません。やはり“話”そのものの面白さと技術が根底にあり、資料などはそのサポートにすぎないのです。  うまく話す、面白く話すという手法やポイントはたくさんあると思いますが、多用して非常に効果的で使いやすいのは、この“無音”の技術です。話にメリハリが出て、また構造的にもわかりやすく、また誰でもが使える技術です。限られた時間で効果的に伝えなくてはならないプレゼンや会議などで、意識的に使用すると、その効果が実感できます。“無音を制する”人は話がうまい人であると評価されるのではないかと思います。

富士越え龍の凄み | その他

富士越え龍の凄み

 葛飾北斎は、73歳になったときに我が人生を振り返り、「70歳までに描いたものの中には、見るべきものは何も無い」と言ったと伝えられています。北斎がかの富嶽百景を作成したのが50歳を超えたころだと言われていますから、世界に名だたるこの傑作さえ、本人にとっては「見るべきもの」ですらなかったということです。また、「この歳になって鳥や獣、虫や魚などの本当の姿がどうやら見えてきた。80歳になればもっと進歩し、90歳にはいっそう奥まで写すことができるだろう。そして100歳には思い通りに描き、110歳には瞬時にまるで生きているような姿を描くことができるだろう。」と言ったそうです。  北斎は、実際には1849年に89歳で亡くなっています。亡くなるときには、「あと5年あれば」と言って、やり残した仕事への無念を表現したそうです。江戸時代の庶民の平均的な死亡年齢がだいたい60歳くらいだとされていますから、89歳というのは長寿の中の長寿です。しかもこの世を去る直前まで仕事をして、さらに5年あればと悔恨の言葉を残して去った天才には、頭が下がる思いです。  65歳を超えて70歳まで働くことがおそらく普通の状態になるだろう世の中です。体力はかなり落ちてきたが、歯を食いしばって、不平不満を言わずにがんばろう、というような「気力の人」は数多くいると思います。反対に、どこといって悪いところはなく、いたって健康ではあるが、どうも頑張りがきかなくなったという意気地の無い話もよく耳にします。北斎の凄いところは、どんな年齢においても、今よりもっと良くなろうと挑戦するところだと思います。常に何らかのビジョンを持っていて、何歳までにここまで、その次の何歳までにここまで、というような目論見を抱いています。こうした気の持ちようが、元気な仕事の源であるという気がします。  考えてみれば、今の世の中、新しいことにどんどん挑戦していかないと、すぐに先が見えてきてしまいます。高齢者は長年の経験を生かして大いに社会に貢献できる、などと言いますが、経験を切り崩すだけで世の中の価値に置き換えられる部分は思ったより少ないかも知れません。切り崩すのではなく、経験を新しい価値の創造につなげるくらいの気迫を持って仕事に臨まなければならないでしょう。なにせ体力のほうが追いつかないのですから。  時間があれば、インターネットか何かで調べて、「富士越えの龍」という絵を見ていただきたい。この作品は、葛飾北斎の絶筆に近いものと言われています。身をよじるようにして天に昇ろうとする龍の姿は、老いてなお、さらに上へ、さらに上へと苦しみもがく北斎が、自らの姿を描いたもののように思えます。一種の凄みすら感じます。画狂老人と自らを称した天才の最高傑作です。

暗黙知を引き出す | その他

暗黙知を引き出す

“子供の学習”と“大人の学習”は違う、という説がある。 それによれば、子供の学習は新しい知識を学ぶことだが、大人の学習は知識を整理し体系化することとされる。大人は、いろいろな経験をし、自覚的ではないかもしれないけれども知っていることも多い。その、自身のなかに散在する知識や経験を、意味づけ、体系化し、コトの原理がわかることで、再現化できるようになる。 つまり、経験を踏まえて自身としての方法論化ができるのが、大人の学習ということである。それこそが、企業研修(Off-JT)が大事である理由であり、そこでは学校の授業とは、まったく異なる教育手法が必要になる理由でもある。企業研修は通常、レクチャーにはほとんど時間を割かずに、ディスカッションや考えさせる演習に腐心する。それにより、自身の経験や知見を引き出し、多様な意見により相互に触発し、暗黙知を形式知化させていくことがその狙いである。 暗黙知を引き出すための一番のポイントは、「言葉にする」ことである。言葉にして伝えるために、あいまいな考えや印象的な経験を整理し、形にしなければならないからだ。それにより人に伝えられるし、自分で行動することもできる。 たとえば理念浸透のための教育では、各部門長がメンバーに対する行動指示のメッセージを具体的に作成する、といったことをする。企業理念や行動指針の項目ごとに、例えば、「地域社会への貢献」という項目に対して、個々の部下の担当業務に即して、「こういったことをしろ」、「これだけはするな」といった具体的な行動指示をつくらせる。その際に大事なことは、そのメッセージには、必ず自分の経験を盛り込むというルールを課すことである。 具体的行動を考えるにあたって、自分の体験や知見を振り返る。その上で、「こんな時はこうしろ、なぜなら自分もかつてこんなことがあって〜〜〜」といったメッセージを作成することで、誰でもないその上司だけの行動メッセージができあがる。 たとえば評価者研修で、部署別に能力評価やバリュー評価の項目ごとに行動例を皆で作成するセッションも効果的だ。あいまいで抽象度が高い評価項目でも、マネジャーたちが自身の経験に即して具体例を出し合い、そのレベル感を議論することで、実態的な行動と暗黙の基準が共有されていくという効果がある。 大人の学習とは、教えるのではなく、引き出すことである。管理職とはどうあるべきか、どう行動すべきか、というレクチャーに対しては「そんなことわかってるぜ」と斜に構えるマネジャーたちも、「あなたのマネジメントの持論を語ってくれ」というセッションをすれば、時間が足りなくなるぐらい白熱するものなのである。

試合と練習 | その他

試合と練習

 スポーツなどの競技では、正式な試合に出て相手に勝つためには、相応の練習をするのがあたりまえです。試合に勝つためには相手よりもより多くの練習をより効果的な練習を行わなくてはなりません。練習ではミスや試行錯誤があってよいですが、試合では相手に勝つためにミスなく実力を十分に出し切らなければ勝利という成果が上がらないのです。  このスポーツにおける試合と練習の感覚とビジネスにおける感覚は極めて大きく異なります。ビジネスにおいては競合会社に勝ったり、業績が伸びることが勝利ということになりますが、この勝利に向けての実際の活動は、試合と練習が混在しているともいえます。OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)は、実戦で鍛えるということですので、練習しながら試合するようなものでしょう。確かにスポーツの世界では試合などのように限られた特別な場面が設定されます。ビジネスにおいては長い勤務時間がすべて試合のようなものですので、試合に出て別な時間で十分な練習などはできません。スポーツでは膨大な練習時間に対して試合時間は非常に短いですが、ビジネスでは練習を十分に行うだけの時間的な余裕はなく、そのため実戦の中で練習もしなければならないのです。  新卒で入社した社員は十分な知識・スキルがありませんので、最低限の実戦活動ができるようなトレーニング必要です。多くの企業では最低限のトレーニングをして、すぐに実務に投入します。そして経験させながら成果を出しながら学ばなければならいのです。実戦投入後は毎年評価を受け、個別に指導され、またたまに行われる集合研修で最低限の知識・スキルを学びます。ビジネスマンとして成長するために、換言すれば試合に勝つためには、仕事をしながらいかに学ぶかということが重要なのです。  この最低限の教育で実戦に投入するという育成方法は、本当に効率的であるのかが疑問です。成長するかしないかは本人のスタンスや配属された部署によって大きく異なり、育成のスピードに大きなムラが発生します。確かに最低限の教育のあとは実戦で成長するということは、自己責任という意味では重要です。しかし組織として見たときに試合に勝てるビジネスマンを多く確実に育成しようとしたならば、この方法の効果が疑われます。十分な練習を積んだ者しか実戦に出さないほうが、組織のパフォーマンスを上げるという意味では効率的なのかもしれません。そのため管理職は自組織の成果を上げるのと同時に、練習の指導もしなくてはならないという重荷を負っているのです。働く側にも試合と練習が混在している中での甘えも発生します。OJTは知識・スキルが十分でない社員を実戦に投入するということになりますので、どこまでが試合でどこまでが練習化が分からないという感覚になります。練習中だからできなくて当たり前であるような感覚です。  OJTは大切だと思います。ベテランからの指導は短期間で人のパフォーマンスを上げることができる有効な手段だからです。しかしOJTに頼りすぎるもの大いに問題があります。もっといえば最近の企業はあまりにもOffJTを軽視しすぎていますし、自己学習、自己研鑽に対する意識付けも強烈さがありません。十分な練習を積んだ社員ばかりであれば、常に試合に勝てる組織になれるはずです。業務は試合であるとするならば、会社が十分な練習を提供するか自主トレを強力に推奨することが必要かもしれません。

上司のモチベーション | その他

上司のモチベーション

 とかく制約の多い職場環境になり、役員や管理職の方はさまざまな気遣いが必要になりました。時間管理の厳格化、パワハラやセクハラへの注意、多様な雇用形態への配慮、退職リスクの回避など、部下に対していろいろと気を使わなくてはなりません。ある意味では成熟した社会になったと言うことですが、逆に言えば個人の権利主張が強くなり、会社の方針の徹底や部下への指導がゆるくなってしまうのかもしれません。  上司の方針や指示を十分に理解して積極的に業務を推進する社員ばかりであればよいのですが、残念ながら社員一人一人個性や特徴があるので、上司の考えに賛同して、上司が求めている行動をとる人ばかりではありません。期待しても裏切られることも多くあるでしょう。このように期待する行動や成果が出ない社員に対しては、十分なコミュニケーションをとることは教科書的に重要ですが、平穏で対等なコミュニケーションをとり続けても、なかなか行動変容しない、成果が現れない社員に対しては、強い指導になっていきます。しかし指導の強弱の度合いは、部下のモチベーションを配慮しなければなりません。あまりにも強い指導をする事で、モチベーションが低下して離職してしまうリスクもあるからです。部下のモチベーションを過度に気にすると、上司のフラストレーションも上昇します。そもそも組織の目標を明示して、妥当な計画を提示し、日常の業務の指示を行う中で、ついてこれない、ついてくる意思が稀薄な社員に、ある意味迎合しなければならない状況とも言えます。  企業がより活性化しより成長していくためには、役員や管理職の能力が高いとともに、モチベーションが高くなければなリません。組織内では上司部下ともモチベーションが高いことが理想ですが、敢えて優先順位付ければ、上司のモチベーションのほうが重要ではないでしょうか。上司のモチベーションが低ければ、その組織は目的的でなくなり、パフォーマンスは向上しないでしょう。事業に対する高い意識があってこそ、活性化した組織になるのです。しかし現実には権利主張が強い、能力が足りない、モチベーションが高くない部下が存在します。その部下に対して多くの制約を感じながら指導しなければならないことが上司の組織運営のモチベーションを低下させていいます。 人事管理の議論の中でモチベーションに関する議論は非常に多く見られますが、部下のモチベーションよりも上司のモチベーションがあまり重要視されていないように感じます。流動化が進んだ現在においては、仕事への意欲や能力が足りない社員、しかもいつ辞めるかわからない社員に対し、上司のモチベーションを減殺してまで、雇用をする必要があるのかという議論までも耳にするようになりました。企業が営利団体である以上、方針や計画を徹底することが重要なマネジメントとなります。まさに企業の生命線です。世の中のあまい就業意識やローパフォーマー社員への過度な配慮で、役員や管理職の貴重な時間や能力を使うのは全くの無駄です。部下のモチベーションより上司のモチベーションが重要ではないでしょうか。

キャリアコンサルタントの憂鬱 | その他

キャリアコンサルタントの憂鬱

 平成28年に、キャリアコンサルタントという国家資格が発足した。ベトナム帰りの若者向けの職業相談の仕組みを米国から輸入し、改造してできた制度のようだ。訓練された専門家が、職場で悩みを抱える人々の相談に乗り、問題解決の後押しをする。我が国において、このことは、政府の働き方改革の政策と軌を一にしている。すなわち、女性、高齢者、外国人、病気治療者等の労働参画をより容易にしようとする狙いが、その底流にある。    国家試験に向けて訓練中の人に話を聞く機会があった。キャリアコンサルタントは、「傾聴」をそのスキルの中心に置くのだそうだ。悩みを抱える人の話をひたすら聞く。本人の立場にたって、本人と思いを共有しながら聞く。そうしたプロセスを通じて、本人は悩みから解放され、課題に立ち向かう勇気を得、自ら解決策を見出すという段取だ。  数多くの傾聴演習をこなしてきた30代の彼は、しかしながら、相談者が投げかける悩みに寄り添うどころか、早々に愚痴を吐露する。  「彼らは甘いですよ。『定年後のキャリアプランって一体何のことだ、考えもつかない』とか、『事業を閉じるから別のキャリアを考えろ、なんて約束が違う』とか、自立的にキャリアを考えることを放棄して、全部会社や世の中の仕組みのせいにしているんですよ。」  このキャリアコンサルタントと相談者との間には、キャリア形成に関する大きな断層が生じてしまっているようだ。  今定年を迎える年代は、経済成長期の終わりごろに会社に入った人々。定年まで勤め上げ、職場のみんなから花束で送られて、普段は入れない会社の迎賓館で食事をしたり、二泊三日の旅行券をもらったりして、ハッピーリタイアをするのが当然のシナリオだ。しかし、高齢化と産業構造転換の時代にあって、様子ががらりと変わってしまった。「約束が違う」と感じるのも無理はない。  だが、考えてみると、仕事上の事柄であれ、何であれ、ものごとが思いどおりに運ぶことなどあまり無いではないか。仕事の九割方は、何やら予測もつかなかったことが起きて、邪魔が入り、思わぬ苦労を強いられたり、失敗したりするのが常だ。まして将来のキャリアプランなど、うまく行かなくて当たり前だ。  特定のキャリアゴールに強く固執し過ぎると、環境が変化するたびに右往左往し、文句を言い、気を落とすことになる。これでは、幸福な職業生活など望むべくもない。何かが起こった時、自ら考え、自らの価値観に立ち返り、キャリアゴールを変化させられるような柔軟性と胆力を身に付けることが、今の時代の職業人に必須なのではなかろうか。  さて、「傾聴」の技が、どこまで相談者のキャリア問題の解決につながるのか、筆者にはどうもよく解らない。だが、もし、キャリアコンサルタントが、「人生何が起こるかわからりませんから、今のゴールにそんなに拘らなくてもいいのですよ」と語りかけてくれるのならば、きっと多くの相談者の役に立つことだろう。  俳人の正岡子規は亡くなる一年前から日記をつけたが、その中に、「悟りというのは平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、何があっても平気で生きることであった。」というような意味のことを書いている。何があっても平気で生きているようなビジネスマンが増えたら、仕事の世界はもう少し活き活きとした場所になるかも知れない。 以上