「人材開発 」の記事一覧(4 ページ目)|コラム|株式会社トランストラクチャ

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人材開発

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どんなパッケージがあるのですか? | 人事制度運用支援

どんなパッケージがあるのですか?

 採用担当をやっている友人が話してくれたエピソード。外資系の開発会社で経験あるシステムエンジニアが採用面接に訪れた時のことだそうだ。志望動機やプログラミングスキルなど、ひととおりの質問の後、そちらから何か質問は、と尋ねてみると、「御社にはどのようなパッケージがあるのですか。」という問いが返ってきた。  パッケージとは一体何のことか、と確認すると、当たり前のことだが、という前置き付で、退職を余儀なくされた際に受け取る、割増退職金、在籍猶予期間、再就職支援など一連のサービスセットのことをいうのだ、との返答だった。この人は、入社する前から退職のことを考えていた。いや、パッケージなるものが整っている会社でないと、怖くて働けない、と言うのだ。  若手社員の離職は、多くの会社に一様な問題になってきた。辞める理由にいろいろあるが、その多くは「うちの会社では将来のキャリア展望が持てない」ということだ。そう考えて、より良いキャリア展望が持てるように人事制度を改変したり、社員に改めて人事制度の内容を周知徹底したりするような企業が増えている。雇い主のほうは、キャリアの道筋が見えるようにさまざまな努力をし、社員の定着を図る。だが、雇われる側は、もはや社内でのキャリア展望を求めていないと見える時がある。かっこよく言えば、社内でのキャリアゴールなど眼中になく、労働市場全体を俯瞰した、転職前提のキャリアプランを考えているのかも知れない。  我が国より先を行っていると言われる米国と中国のIT業界、その労働市場について、それぞれの国のビジネスマンを捕まえて聞いてみた。おおざっぱなところでは、両国の慣習はよく似ていた。  システムエンジニアとしての収入のピークは30~35歳、それを過ぎると、技術知識と経験だけでは収入を伸ばすことができない。同じ会社でその先に進むとすれば、プロジェクトマネージャーの仕事に就き、さらにその先、管理職に進んでいくことが求められる。しかしながら、マネージャーポストには限りがある。そこで、エンジニア諸氏は、30歳を過ぎると、自分で会社を立てて人を雇い、大きな会社の下請けに入って中小企業経営者としての道を歩む。さもなければ、別の業界のシステム部員として再就職する。リスクを抱えるか収入の伸びをあきらめるかといった選択だ。 周りにたくさんのロールモデルがあるのだろう、彼らは、若い頃から労働市場全体の動きに注意を払いながら、現実的なキャリアプランを練っているのだ。  雇用に関するこうした動きは、早晩、我が国にも忍び込んでくるに違いない。たとえば、我が国の高等教育(大学の教育)では、2030年に必要なIT専門人材の4分の3足らずしか満たすことができないだろうという予測がある。不足分は当然、外国の労働力に頼らざるを得ないのだから、我が国の雇用慣習への影響も避けられない、ということだ。そして、このことは、ただIT業界に留まることではないだろう。  我が国の経営者の多くは、「人を大切にする」という表現で、雇用の安定・確保にこだわってきた。会社の中に、さまざまなキャリアの選択肢を準備して、心配しなくてもよい、長く働いてください、というメッセージを送ることができるよう、さまざまな努力をしてきた。ところが、社員のほうがそんなことは求めていませんよ、という社会になりつつある。言われなくてもずいぶん前からわかっていますよ、というコメントが聞こえてくるようだが、私たちが思うより、ずっと早いスピードで、強いマグニチュードで、雇用の地殻変動は進んでいるのではないかという気がする。これからの人事管理を、断層のこちら側で設計するか、あちら側で設計するか、腹の決め時が来ている。

VUCAの中で | 人材開発

VUCAの中で

 新型コロナウィルス感染の第五波は一気に収束した。この事実は、喜ばしいニュースだが、感染者が急速に減少した理由として、専門家は、1)市民の感染対策強化、2)人流、特に夜間の滞留人口減少、3)ワクチン接種率の向上、4)医療機関・高齢者施設での感染者の減少、5)気象の要因という5つ要素を挙げているが、今までの感染者数の波の形や大きさを考えると、挙げられた要因が収束の原因だと素直に納得できる人はあまりいないのではないか。今後、第六波がやってきた際にも、感染者数が増加した要因の説明があるだろうが、結局、本当のところは、専門家でさえも、よくわからないというのが、正直なところだろう。  10年ぐらい前から、社会経済界でもVUCAの時代と言われるようになった。Volatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:曖昧性の4つの頭文字を並べた造語で、変化が激しく、先行きが不透明な状況が同時進行しているという事だ。  その背景には、技術革新のスピードが速まった事や社会のグローバル化やインターネットの普及で、世界中の各地域の様々な事象がリアルタイムで影響を与え合う事などがあると言われている。  今回のコロナ禍もまた、VUCAな状況と言える。複雑に絡み合った要因が感染の拡大に影響を与えていて、なぜコロナ感染者が増減するのか、理由が説明ができない(複雑性)。どのくらい感染者数が増えるとピークに達するのかという変動幅もわからない(変動性)、いつ収束するかもはっきり言えない(不確実性)、どういう対処をすればよいのか正解もわからない(曖昧性)。  コロナ禍は、現存の人々にとっては誰も経験したことがない事象で、判断の参考にするだけの十分な情報もないので、各国の政府は、それぞれ、国の環境や事情を鑑みて、ロックダウンなどの行動制限等、それぞれよかれと思う判断をしている。コロナ感染の収束という目的は同じでも、世界各国の対応方法も当然ながら、かなり開きがあった。  コロナ禍に対する判断と同様、VUCA時代の中で、我々は目の前の課題に、正解を導くだけの十分な情報がない中で、意思決定をしていかなければならない。もちろん、可能な限りの客観情報を集めることは重要だが、大切なことは、自ら、現在の状況を解釈し、仮説を組み立て、自分なりによかれ、という判断をすることだ。  いまや、この時代に、100発100中、正解を目指すことは無理だと割り切ったほうがよい。むしろ、不十分な状況の中でも、ぎりぎりまで、自らの頭で考え、判断し、間違っていたら、速やかに軌道修正する迅速さのほうが重要になってくる。  コロナ禍は、こうした能力を備えた人材の採用や育成が、いかに企業人事の優先課題であるかを、認識させられる機会でもあった。

「役割」の効能と副反応 | 人材開発

「役割」の効能と副反応

 話題になった組織論の本を読んでいたら、進化した組織の素晴らしい点として、従業員が「ありのままの自分」を出せる云々、と書かれているのをみて、唖然として、本を閉じた。仕事をする環境である会社組織で、ありのままの自分をさらけ出すなんて、あまりに息苦しいし、そんな必要もない。むしろ、ありのままの自分ではなく、組織内の役割を演じることだけが問われ、役割発揮度合がパフォーマンスにつながるゲームだから、組織で働くことは面白い。  自分自身≠役割、だからこそ辛い仕事も耐えられ、仕事ならでの醍醐味もある。「たかが仕事、されど仕事」とは、そうした事情を的確に言っているのである。結果、人事評価が低くても、それはたんに役割に必要な能力がないというだけということであって、全人格的評価ではない(と思えばよい)。そもそも、ありのままの自分と仕事を重ねてしまうから、メンタルイッシューも出来するのではないか。  組織とはそもそも、個々人の能力限界を超えた成果を出せるための装置として生まれた。一人ひとりではできることが限られるけれども、うまく役割分担して組織すれば、個々人の能力総和を超えた集団としての能力発揮が可能になる。社会に対してより大きなコトをなすしくみが組織であり、それは役割としての個人=構成員を前提する。テーラーシステムにおける作業分業から、知識創造企業体における機能分業まで、そのコトワリは変わらない。 組 織成果にむけ個々人がやるべきことを自覚し協働でき、なおかつ人々のありのままの姿を守ることができるのが、「役割」の効能である。ただ、この役割は、組織としての成果を高めていくには、きわめてよく効くものなのだが、ときに効きすぎて副反応にいたることがある。役割には、それを熱心に演じることを通じて、「仕事する自分」が別人格としてアイデンティファイされる面があるからだ。役に徹することで、ありのままの自分だったらとうていできないことも、できるようになる、あるいは「しでかしてしまう」ということだ。  かなりむかしのことだが、取材記者をしていたことがある。文章だけでなく写真も入れる記事だったので、カメラを携帯し、よい記事にはインパクトのある写真が不可欠と撮影に力をいれていた。ある企業グループの合同入社式の取材のときのこと。式全体を俯瞰した写真を撮りたくて、ファインダーを覗いあちこち移動しているうちに、ついに決定的な構図をとらえてシャッターを押した。  その時私は、数百人の新入社員が入る広大な式場の壇上、各社の社長・役員が並んで座っている前で会場の全員に向けて訓示をたれているグループ総帥の後ろに立ち、総帥の後頭部越しに、こちらを凝視する会場の新入社員のたくさんの顔が並ぶ絵を撮っていたのだった。カメラを構え、誰にも断らずに、いつの間にか壇上にあがっている――「カメラを覗くと人格が変わる」と我ながらうろたえ、そのとき、職業意識の恐ろしさを知った。  普通なら臆してできないことも、役割に忠実に、役割に徹すればできる。だからよい写真がとれるというならば、効能ともいえるかもしれない。しかしそれは、あきらかな副反応(ときに社会に害をなすような)を起こすことがある。役割に忠実に実直に職務遂行するあまり、生み出された人類史上もっとも悲惨で衝撃的な副反応のメカニズムは、ハンナ・アレントの「エルサレムのアイヒマン」でよく知られる。  そこまで深刻ではなくても、我々は、役割とは単に組織目的に紐づけられた機能分担にすぎないことを忘れ、自分の生活を損なってまでも、社会の常識に反してまでも、役割を全うしようとすることがある。人は、さまざま関係のなかで、アイデンティファイされる。その中で、仕事つまり組織の役割によるアイデンティファイは、関わる時間量においても、責任や達成感や刺激の大きさにおいても、「親としての役割」や「市民としての役割」や「隣人としての役割」よりもインパクトが大きいゆえに、この手の副反応を引き起こしてしまうのだ。  ではどうしたらいいか。ときに、仕事の渦中でたちどまって、「自分はなぜこの行動をとっているのか」と自問すればいい。その問いに、「仕事だから」、「やらねばならぬ役割だから」と自答するなら、さらに、「なぜ自分はこの仕事をやっているのか」、「この役割はなんのためのものなのか」と玉ねぎを剥くようにしつこく自己言及していけばいい。結果、自分にとっての役割を、客観的かつ主観的に意味づけることができればもう、副反応なく仕事しているはずだ。「たかが仕事、されど仕事」と嘯(うそぶ)きながら。

組織をどのように滅ぼすか | 人材開発

組織をどのように滅ぼすか

 衆議院の解散・総選挙が近付いてきた。私もまた、有権者の一人として、誰に投票するか考えることになるだろう。もちろん、どのような判断軸で、誰に投票するかは、有権者の自由だが、限られた選択肢の中で誰を選ぶか、悩ましい場合もあるだろう。ときには「誰に投票すべきでないのか」という消去法になってしまうこともあるだろう。それでも、棄権するよりは遥かにましなのではなかろうか。このように「誰に投票すべきでないのか」を考えるときに、思い出す書がある。ご存じの方もいるだろうが、それは「六韜(りくとう)」という名前の書である。  「六韜」とは「孫子」「呉子」などと並ぶ武経七書に数えられる兵法書である。日本でも飛鳥時代から今日に至るまで、一部の人々に愛読され続けてきた。古代中国周王朝の武王・文王が、軍師太公望呂尚と、政治、外交、軍事などについて対話を交わすスタイルであり、組織論として非常に示唆に富む内容が多く含まれている。 「六韜」の内容は多岐にわたるが、私がよく思い出すのは、「武力を行使しないで敵を征服するにはどうしたらよいであろうか」という文王の質問に、太公望が「おおよそ十二の方法があります」と答える場面である。その十二の方法とは、意訳すると以下のようなものだ。   1)望むままに、その意志に順応して争わない(味方のふりをする)   2)近臣に近づいて親しみ、近臣の権力を君主と二分させる(派閥を作らせる)   3)近臣に賄賂を贈り、その近臣の情を買収する(内通する)   4)君主の淫乱な楽しみを助長させ、その情欲を募らせる(正常な判断ができなくする)   5)相手の忠臣を厚遇し、持たせる贈り物は少なくする(忠臣への疑いを抱かせる)   6)一部の臣下を懐柔し、外と離間させる(内輪揉めを誘導する)   7)本業を軽視させるようにする(大事なことに集中させない)   8)近臣に自国の利益となることをちらつかせる(大義名分を与える)   9)君主を虚栄・虚名で褒め上げる(さかんに持ち上げる)   10)君主に対し、卑下し謙遜して信用を得る(一蓮托生を装う)   11)臣下に厚遇を約束して手なずける(謀反の準備をする)   12)相手を増長させ油断を誘い討つ(タイミングを見て実行させ実権を奪う)  この十二の方法の中には、若干内容が似ているものもあるが、言わんとすることは、敵でありながら友好を装い、上の者を盛んに持ち上げて油断させて判断力を失わせ、徐々に相手の中に内通者を増やすとともに、疑心暗鬼にさせて対立を煽り力を分断し、有能な者が失脚し無能な者が重用されるようにして、大義名分を与えてやがては謀反を誘導する、ということである。現職の国会議員の中にも、「よそから手なずけられた臣下」のような者がいないだろうか、どうだろうか。彼らに投票することは、ゆくゆくは国を滅ぼすことになるだろう。  そしてさらに問題なのは、この手の連中は、しばしば会社のような組織の中にも多く存在するということだ。すなわち、会社のためといいながら自分の利益しか考えておらず、己の立身出世を重視するあまりやたらと派閥で固まっては相手方を追い落とそうとし、上にばかり媚びへつらい良い待遇にありつこうとし、また媚びへつらう者を殊更に重用して引き立て、いざとなれば正当化しながら平気で組織への裏切りを行う者——。彼らは、外部から操られているわけではないだろうし、また意図的ではない場合もあるだろう。しかし組織を内側から壊すという点では結果は一緒だ。組織を守ること、それはまずもって組織の一員を装って組織を内側から突き崩す破壊者を退けることだ。

「型破り」と「形無し」の違い | 人材開発

「型破り」と「形無し」の違い

 タイトルの「型破り」と「形無し」の違いを知ったのは、18代目中村勘三郎の言葉からだ。元々は無着成恭(むちゃく せいきょう)という僧侶が、子ども電話相談番組で「型破りと形無しの違いはなんですか?」という質問に対して、型がある人間が型を破ると「型破り」、型がない人間が型を破ったら「形無し」。と回答した内容となる。  歌舞伎の世界、芸事の世界では幼少期のころから徹底的に基礎を叩き込む。おそらく、その弛まぬ習練によって作り上げた基礎があるからこそ、「型破り」は見るものを魅了するのだろう。洗練された「型」の先にしか「型破り」は存在しないのである。  この「型」は人事制度においても存在する。会社1社1社に経営理念があり、事業規模も業種も様々ではあるが、人事制度に共通する点はないのかと問うと、そうではない。  例を挙げると、同業種、事業規模が同等の企業であれば、組織構成は類似し、給与水準は採用競争力の観点から同水準となる。また、社員に求める知識、スキルも同等であることを想定すると、教育体系は相似し、実施しなければならない研修も似るだろう。  では、人事制度の「型」をどの様に構築すればよいのか。それは適切なプロセスに沿って、人事制度を構築することになる。例えば、以下の様なプロセスで行う。 1.現状把握のための多角的な分析の実施 2.分析に基づいた問題・課題の抽出 3.人事制度設計方針及び領域別施策の検討 4.人事制度設計の構築  「ひらめき」や「勘」ではなく、事実に基づき、適切なプロセスに沿って人事制度を検討していくことを推奨する。抽出した問題や課題は企業によって様々ではあるものの、業種、事業規模、現在の人事制度及び人事制度の運用状態などの観点から分析をすると、傾向があることに気が付く。その傾向から方針・施策を検討することで人事制度の「型」に行き着くのである。  人事制度を構築する上でも、この「型」は非常に重要となる。この「型」がなければ、会社の風土や慣習、経営理念に沿ったオリジナリティの高い人事制度を構築しても、それが正しいどうかの判断がつかない。「型」は新旧の人事制度の比較だけでなく、構築した人事制度が正しいか否かを判断するためにも重要な役割を果たすのである。  一方で、他社の人事制度改定の成功事例から、自社に合った人事制度を導入したいと考える企業もあるだろう。インターネットで検索をすれば、他社の成功事例を目にする。オリジナリティに富んだ、様々な人事制度が存在している。ここで注意をしなければならないのは、成功した企業の事例が絶対の正解とはならない点である。成功した企業の事例を後から分析し、成功要因を抽出することは出来ても、再現性があるかどうかに疑問が残る。成功した企業と自社の状況が異なる以上、同じことを実行し、同じ様に成功するとは限らないのではないだろうか。  改めて伝えると、人事制度設計において重要な事は、適切なプロセスを徹底的に実行していくことである。他社の成功事例をそのまま自社に導入する「形無し」人事制度ではなく、現状の問題や課題を改善するための方針、施策に基づいて人事制度の「型」を固めた上で、社員の従業員満足度や勤続意向を向上させるための「型破り」な人事制度を構築していく。  オリジナリティのある人事制度、洗練された人事制度を構築するために、まずは「型」から固めなければならないのである。

水を飲まない馬 | 人材開発

水を飲まない馬

 正月に里に帰るでしょ、田舎だから親戚が集まるんですよ。こたつで蜜柑食べながらテレビ見てるときにね、「このCM作ったとは俺ばい。」って教えてやると、みんなが目を丸くして「嘘じゃろう!すごかね!」って驚く。それが面白くて今の会社で仕事しとるんですよ。・・TVコマーシャルの制作をしている友人が、にやにや笑いながら、ぼそっと語る。  企業で働く人々に出世欲が無くなったという。パーソル総合研究所の調査によれば、アジア太平洋地域の14の国、地域の主要都市で働く人々の中で、管理職になりたい、という人の比率が、日本は14番目だったとのことだ。また、日本生産性本部の調査によれば、「どのポストまで昇進したいか」という質問に対する答えで最も多かったのが、「専門職」の17.3%、その次が「どうでもよい」の16%だ。  終身雇用のわが国企業では、管理職人材をそれ専用に雇ってくるということをしないから、内部昇進によって管理職を生み出す。プレーヤーたる実務者の中から優秀な者選び出して、マネージャーたる管理職に昇進させるという方法が長く採られてきた。このシステムの下では、いきおい、「良い成果を上げたら褒美として管理職に上げてやろう」というセリフで実務者層の士気を上げてきた。いわば論功行賞としての昇進である。「昇進」をがんばりの動機付けにしていたということだ。  昔は、これでも会社がうまく回っていたのだろう。今の企業組織の基礎が出来上がった大量生産、高度成長時代には、会社の業務は大いに標準化され、社員の一人ひとりは今日何をすればよいか、よくわかっていた。だから、管理職がこと細かな指示をしなくても、組織として成果を上げることができていた。加えて、管理職の給料はそれなりに高く、名誉もあった。 ところが、今の時代、買い手の志向が多様化して、売るモノ、提供するサービスが複雑化した。そして管理職は、部下の一人ひとりに細かい指示を与えなければならなくなった。管理職に昇進した「トッププレーヤー」にとっては、全く違う職種に乗り換えたようなものだ。 よくやった、と褒められて、管理職に昇進したとたん、君はなぜきちんと部下を指導しないか、と責められる。だが、部下を指示指導する訓練など受けていない。これはどうしたものか、と混乱する。これまでより広範で重い責任、慣れない人事評価、ワークよりライフのほうに興味がある部下たち、残業代で部下には抜かれてしまう程度の月収・・・魅力の無いところばかりが目立ってしまう。もはや、昇進なんて「どうでもよい」訳だ。  「昇進」よりは「キャリアアップ」やろうね、と件のCMクリエーターは言う。彼にとっては、「昇進」という言葉には責任だけが重くなって好きな仕事ができないネガティブな印象があり、「キャリアアップ」という言葉には、自分の腕一本で成果を上げ、より面白い仕事を得られるといった、ポジティブな印象があるのだろう。  これを聞くと、「管理職への昇進」を動機付けの主たる因子に置いて能力を発揮させよう、成果を上げさせようとする従来型の仕組みには、限界があるように思える。キャリアゴールは一流専門職であり、それに向かって切磋琢磨しろ、と言ったほうが、より強い動機付けになるような企業が数多くあるのではないだろうか。社員ががんばろうとする意識の源泉に何があるのか、「昇進」に代わる魅力的な誘因は何なのか、時代の変化をよく見定め、人事制度の全体を見直す必要がある。古いイギリスの諺に曰く、馬を水辺に引っ張っていくことはできても、水を飲ませることはできないのだ。

「言葉にする」ための教養 | 人材開発

「言葉にする」ための教養

 美や感性を表現する仕事、写真家や画家、デザイナーといったクリエイティブな職業のスキルのアセスメント(=ポテンシャル把握)は、「言葉にできるかどうか」でなされるという。たとえばこんな試験で、プロフェッショナル予備軍が選別される。   1.有名無名を問わず、自分が好きな作品を50~100点選び出せ。   2.そのそれぞれについて、その理由を記述せよ。  なぜ好きなのか。なにがどうなっているから魅力的なのか。なぜ美しいのか。それをきちんと言葉にできていれば、マネすることができる。良し悪しの理由がわかっていれば、あとはやってみるだけだからだ。テクニカルスキルが問われるのはそのあとだ。言葉にできることは、プロとして「クリエティビティの再現性」を獲得する第一歩ということである。  リーダーシップトレーニングのエクササイズに、「持論を書く」というものがある。管理職たちは、それぞれに経験のなかで、自分なりのマネジメントスタイルや部下をうまく動かす経験則を得ているものだが、それはおうおうにして暗黙知にとどまる。持論として書いてみることによって、それは方法論として形式知化する。つまり、人に教えられるようになる。神戸大学教授の金井さんは、リーダーたちの持論はTPOV(=Teachable Point of View)の宝庫だといった。  言葉にするということは、自分の見ているもの、自分の感じていること、自分がやっていること、を客観化することである。それが、方法論化につながり、再現性やTPOVを可能にする。しかし、その言葉が、個々人の独りよがりの見方ややり方であったらそうした効用には至らない。普遍性を踏まえかつ独自性ある言葉でなければ評価されないし有用でもない。  写真には写真の文法があり、絵画には絵画のスキームがある。リーダーシップにはセオリーがある。絵画の美を、普遍性をもった言葉で語るためには、スキームを知らなければならないし、確立されたリーダーシップ理論を学習しそのうえで自身の経験を意味付けることで、リーダーたち個々人の持論は有効性をもつようになる。  近年、経営リテラシーのなかで「真善美」が語られるようになってきた。ビジネスは、不断の価値創造の取り組みだが、VUCAの時代には、既存の価値の横展開や再利用では通用しない。原点から社会への価値創出を考えなければならない。原点とはつまり社会における自社の有用性の追求。だから真善美からの検討は避けられない。経営リーダーたちはいま、真善美について自分なりの言葉にすることが求められているのだ。  それには、スキームがいる。世界や人間や社会の認識と在りように関して繰り広げられてきた論議の数々、知の格闘の歴史といえる蓄積抜きには、社会に対峙する普遍的な言葉たり得ない。リベラルアーツとは、自分なりのかつ普遍性をもった言葉を書き出すために不可欠のスキームなのである。

「わからない」を許さないオンライン研修 | 人材開発

「わからない」を許さないオンライン研修

 集合型研修は姿を消し、各企業の社内研修は、オンライン研修一色となりつつある。まずは「密を避ける」という社会的要請に合わせられ、かつWEB会議アプリケーションをうまく使えば、集合研修の効果を「集合するコスト」なしに得られるという、いわば対症療法としての一斉実施といえるだろう。  ともすると、集合研修の代替可能性とコスト効果だけが喧伝されるきらいがあるが、オンライン研修ならではの効用は、実はかなりある。そこを意識した設計と運用を行えば、従来型集合研修の多くはもはや戻る気が起こらない旧型研修にみえてしまうほどだ。  オンライン研修の最大の効用は、座学ではなくトレーニングとして手を動かし、参加者一人一人が理解しスキルアップする――つまり、「反復学習」性と「個別指導」性がいかようにも組み込めるということだ。  集合型研修ではときに、「その場ではわかった気になるが、仕事に戻るとわすれてしまう」といった身もふたもない反応や、「なにより他部門の人と話せたのがよかった」と研修目的とはズレた満足度の高さになったりもすることがある。  そうした行事的研修を排し、実効性の高い研修にするためには、①事前の課題把握(調査や測定による受講生の行動課題の特定)を行い、②その課題解決につながる実践的な研修(絞り込んだスキル教育とリアルな職場課題の演習)を組み、③事後の行動実践を踏まえた効果測定、という「事前・事後まで含んだ設計」にするというのが、常套手段だ。つまり、真の課題にミートした研修を行いその実践状況を追っかける。  それでも肝心の研修自体は、集合させ一日で終わらせるという制約上、どうしたって、なるべく多くの人の理解度向上/スキル向上はできても、全員がそれぞれにレベルアップするところまでは追求できない。ところが、オンライン研修では、受講生の理解度を都度把握しながら、レクチャー内容を調整し、個々の演習のアウトプットを踏まえてできるようになるまで反復訓練をすることができる。要は、きめ細かな理解状況適応と個別指導により全員のスキル向上を結果しうる可能性があるのだ。  研修は、A.レクチャーパート(=インプット)とB.演習パート(=アウトプット)とC.演習の解説・指導パート(=フィードバック)の3つで構成される。A.レクチャーパートをとってみても、集合研修でも単に講師が話すだけではなく質疑をうけつつインタラクティブに進めるのが講師ワザだが、オンラインでやるとすれば、多彩な双方向性と個別性を仕込める。  たとえば、講師が15分ほど話したら、全員に理解度や個別課題に関する問い(=アンケート)を出し、全員の回答をすぐにグラフ化して提示したり、題材となる回答を紹介して論じたりする。理解度の低い人たちをグルーピングし、のちのB.演習パートで、そのグループには固有のレクチャーや演習を課して分からせるといった運用をしたりする。  レクチャー中でも、チャット機能で常時質問や不明点を受け付け、講師が必要と判断したら、説明を加えたりする。受講生の表情がはっきり見えるので、首をかしげていたり集中してない顔つきに気づけば、講師から指名して質問したりするから、皆真剣にならざるを得ない。手を変え品を変え、理解度を確認されるから、「よくわからなかったけど、、」、とか「なんか違うと思うけどまぁいいや」と研修を終えることは許されないのだ。  加えてより重要なのは、反復学習の全面展開だ。上記のA→B→Cを小さなサイクルで繰り返したり、都度スキルレベル別にわけたグループごとのサイクルを回わすなどでしつこく習熟を図る。移動して集まる負荷がないだけに、1日研修ではなく、3時間程度の研修を2~3回に分けてやるなど、短時間研修×複数回の連続研修を様々に組むのがよい。  連続研修として組んだら、各研修後に事後課題を課し、そのフィードバックを(とくに課題ある受講者には)個別にWEB面談で行い、意欲喚起とスキル向上を直接支援するとなお効果的だ。こうした反復学習は、とくに、新任管理職向け評価者研修など、徹底した評価の体感理解トレーニングとしてお勧めしたい。  集合研修と同じコンテンツの流用や従来型の職人講師ではこの意味での研修効果は望めない。反復性と双方向性と個別対応を最大化するには、アンケートシステムの組み込みや柔軟なグルーピング法など綿密に設計されたうえで、「状況適応運営に長けたオンラインコーディネータ」と「全員もれなくわからせることに執着する講師」とのタッグでの運用が必須になるのである。

読書の弊害 | 人材開発

読書の弊害

とにかく本を読もう――ビジネスパーソンにとっての読書の効用を何度も書いてきた。 「管理職にとって大事なことは、みな本に書いてある」と強調し、ドラッカーやコッター等の古典的名著を次々読ませる経営幹部育成研修の成功例を紹介した。読書とは結局「自分を読むこと」であって、自己流のやり方を体系づけ整理するのが大人の読書だとも書いた。組織で成果を上げていくには、本を読まなくては始まらない。かつての広告コピーにあったように、そもそも「人は、本を読まねば、サルである」なのだ。 そのうえで、本を読むことには弊害もあることに注意しなければならない。たくさんの本を読むことが、「考える力」の劣化をもたらすことがあるのだ。なぜか。ともすると、情報や知識を求めて本を読む。方法を求めて本を読む。つまり、「答え」を求めて本を読むから、その繰り返しは、自分で考えるという行為をよこにおいてしまいがちだからだ。 結果、有用な知識を獲得できるけれども、自分なりにそれを実践に結び付けることにはならない。自身の固有の状況下で、自分はどうするか、どうすればよいかは、本には書かれていない。そここそを考えるのが、本の情報を消化する――つまりは、本を「使う」ことだが、知識や理屈や一般的答えを知る行為に注力するあまり、そこに至らなかったりする。 何らかの知見や答えを求めて本を読むことは、自分のアタマで考えることとイコールではないから、熱心で集中度の高い読書であるほど、知識は増えるけれども考える力は鍛えられないという悪しき側面を持つのだ。 何らかの企画をするときに、すぐに自分の経験や知識であてはめようとする――つまり、手持ちの処方箋でこなそうとして、その目的や課題の本質を深く考えない結果、的外れなアウトプットを出す輩が、えてしてこの手の「読書家」だったりする。当たり前だが、情報知識をどんなに集めても、思考力そのものは身につかない。知識獲得や整理の効率化や視野が広がるという意味で思考の役には立つけれども、地アタマは鍛えられない。 ではどうするか。受け身ではなく、攻撃的に本を読めばよいのである。知らないことを本から学ぶ、ではなく、自分の都合で本と議論し、本に突っ込みを入れ、分解したり統合したり横へ跳んだりして、本を蕩尽するのだ。本をしゃぶりつくすということもあれば、ほんの少しつまみ食いして読み捨てたっていい。むしろ行儀のわるい食い散らかしこそが、考える読書の醍醐味かもしれない。 たとえば、まず前書き後書きを一読し、目次を眺めて、仮説をたてる。著者の主張や結論の仮説ではない。自分の仕事や生活の問題課題への活用の仮説、どう使えるかの仮説である。あるいは世界認識の仮説、大げさに言えば世界と自己との関係課題を腑に落とす材料たりうるか、の希望的観測である。 その仮説を軸に、本のコンテンツに臨む。読みながら、仮説が修正されたり、仮説が木端みじんにされたりする。うまくいけば、仮説が検証されたり、新しい仮説が見えたりする。つまり、自分なりの仮説検証をもって読むことで、その本を、自分なりに意味づけることができる。  などというといかにも難しそうだが、簡単にコツをいえば、要は本に「答え」を求めるのではなく「問い」を求めればいい。仮説をもって本を読めば、読後には、いくつかの問いが心に浮かぶはずだ。だからむしろ、読み終わったあとに、必ず新たな問いを持つことを自身に強制して読む。つまり、問いを見つけるために読むということである。 本を読んで生まれた「問い(=問題意識)」は、本と読み手の相互作用の結果であり、なにより、自分で考えるからこそ問うことができるのだ。

キャリア研修2.0 | 人材開発

キャリア研修2.0

キャリア研修参加者の満足度は、対象年代を問わず、たいへん高い。 キャリア研修の中では、自分の過去のキャリアを棚卸し、成功や失敗の経験を通じて発揮されたあるいは獲得されたスキル、やりがいの源泉だったこと等を確認する。つまりは、自身の仕事上の価値観や行動の基準を知り、能力発揮のクセ=キャリアを重ねていく上での強み弱みを内省し腹落ちさせる。そうした「自己発見」のよろこびが、高い満足度をもたらす。 近年、リーダーシップ論で盛んに取りざたされるキーワードでいえば「自己認識力」を高める効用があるということだ。自己認識力(=セルフアウェアネス)には、内的自己認識と外的自己認識力の二つがあるといわれる。内的とは、自身の価値観や譲れぬ信念やモチベーションを喚起するものの自己認識。要は、何のために働くのか、仕事を選ぶ判断の軸は何か、どんな仕事をしている時が楽しいのか、といった自己像である。 対して、外的自己認識力とは「他者から見た自己」像を認識する力。 この内的自己認識力をキャリア研修は高める。自覚していないかもしれない自身の行動原理を知ることは、今後のキャリアをデザインしていく上では、まずおさえておくべき大事な前提だ。そのうえで、組織内の役割として求められることを検討し、強み弱みを踏まえて、将来のキャリア開発計画を描くのが、研修の後半で行うことだ。この計画は、ほかならぬ自分起点の計画であることに大きな意義がある。反面、その自分起点であることに起因する限界もある。 研修内の検討を経て「キャリア目標達成のためにどのように行動するか」の意思と覚悟は宣言されているが、その方法の実効性が検討されていないからである。自身のキャリアゴールを目指す行動は、日々の職場内の行動の積み重ねである。当面の役割を果たし、目指す仕事へ向かうためには、成果発揮へむけ的確に行動し、また上司や周囲の人たちをうまく巻き込まなければならない。そのために必要なのはリアルな行動課題をもつことだ。 「自分は」どのように行動すればよいか。その答えを出すには、内的自己認識力に加えて、外的自己認識力の向上が必須である。外的自己認識つまり、自分が人にどう見えるかの認識=自己客観視能力である。それが高ければ、人との関係のなかでの自分の行動のクセ=行動課題が分かり、自分がどうふるまえばよいかを方法論化できるのだ。 その意味の実効性を高めたキャリア研修2.0のためには、まずは、自分が人にどう見えているかを知らなければならないが、さてどうするか。 360度診断(=周囲の上司、同僚、部下に対するアンケート集計分析)がもっとも有効である。診断結果には、鏡のように自身の行動傾向が写し出される。しかしキャリア研修としては、やや手間とコストがかかるというネックがある。いちばん簡単なのは、受講者が自分で周りの人に聞くことである。自分起点の360度インタビューや簡易アンケートをとることで、「自分の知らない自分」を知るステップを検討作業に組み込めばいい。聞き方さえ、きちんと設計すれば、自身の行動を客観的に振り返る材料としては充分使える。 自己認識力、とくに外的自己認識力は、マネージャーにいちばん求められる能力といわれる。リーダーとして人を動かすには、自己客観視つまり他者の目に映る自分が見えていなければならないからだ。マネジメントの役割でなくても、この事情は変わらない。ほかならぬ「自分のキャリア」の実現のためだからこそ、周りの人々への働きかけやチームとしての成果発揮にむけて、「自分にとっての行動課題」を自覚しなければならないのだ。

抽象的思考力を鍛える | 人材開発

抽象的思考力を鍛える

 会議の場などで、「説明が抽象的すぎてわからない。もっと具体的に話せ!」と指摘を受けた経験のある方は多いだろう。この抽象的な表現というのはコミュニケーションの場において、ネガティブな意味で使われるため、仕事の上でも、“抽象的”はダメで“具体的”でなければならない、と勘違いをしている人は少なくない。ところが、実際のところ仕事のできる人間というのは、漏れなくこの物事を抽象化して捉える能力が高い。なぜなら、仕事というのは常に何かしらの意思決定が必要であり、そのためには抽象的思考力が必要不可欠だからである。  抽象的思考力とは、重要なポイントだけを抜き出し、不要な部分は捨てて物事を把握する、すなわち物事の本質を捉える能力である。例えば、料理をする際に、「フライパンに材料をのせて中火で3分焼く」、というように手順で覚えていると、次に同じような料理を行う際に、食材の分量によっては焦げてしまったり、生焼けになったりするかもしれないが、「材料に火が通るまで焼く」と覚えていれば、そのような失敗はしない。  この抽象的思考力は、人間の学習において大きな役割を果たしているといわれている一方で、その仕組みはよくわかっておらず、機械学習においても再現することができていない。過去に起こった事象から、これから起こるだろう事象の結果を予測するのが機械学習だが、人間の知能には遠くおよばないのが実際なのである。いやいや、囲碁や将棋では、もう人間は人工知能に勝てないじゃないか、という人もいるかもしれないが、機械学習のアルゴリズムは、基本的には大量のデータから傾向を探る、という手法であり、ある分野の学習をするためには、人間よりもはるかに膨大なデータを必要とする。また、ある分野での学習を別の分野で活かすことも苦手だ。つまり、機械学習は人間の学習能力のうちの、ある一部分で人間を上回る能力を発揮しているが、人間以上の知能を有しているわけではない。電卓が人間の計算能力を上回る能力を発揮しているが、人工知能とは呼ばないことと同様である。  今後、様々な作業が人工知能に置き換わっていくことが予想されている中で、この抽象的思考力こそ、人が鍛えるべき能力と言える。抽象的思考力は単に経験を積むだけでは鍛えられない。地道なトレーニングが必要だ。ただやみくもに考えればよい、というわけではなく、要は何なのか、を文章にしたり、図式化して考えたりする、ということを習慣づける必要がある。要点を箇条書きにする、ということも立派なトレーニングになるし、会議の議事録作成は、仕事の理解と抽象的思考力の両方が強化できるので、新人には特におすすめだ。中途採用において、業界の異なる人が活躍できるかは、その人が自身の職務経験や業務の知識を抽象化して捉え、それを汎用的に活用できる能力を持っているかがポイントとなる。これからの採用においては、面接の際には経験や実績でも、言語能力や計算能力でもなく、抽象的思考力を見るべきだろう。  冒頭の会議の例では、物事を正しく抽象化できていないからこそ、わかりやすい具体的な説明ができない、と考えるべきだ。正しくは、「具体的に話せ!」ではなく、「抽象化できているか?」なのである。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。