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生産性向上と高齢化社会 | 人材開発

生産性向上と高齢化社会

働き方改革が進む中、多数の日本企業が、労働時間の短縮や生産性向上に取り組んでいる。付加価値を生み出さない業務の見直し、ウェブ会議やビジネスチャット等のITツールの導入、さらには、残業時間の少ない社員を高評価する仕組みの検討、等々、どの企業も、様々な視点から生産性向上にむけて、必死に頭を悩ませているところだ。ただ、実のところ、そうした取り組みの多くは、今までも不況の折にも行ってきたものであり、今まで以上に、際立った効果を期待するのは難しいかも知れない。 もちろん、組織として、そうした構造的な生産性向上アプローチは続けていかねばならないのだが、それ以上に重要なことは、社員一人ひとりが、仕事や時間に対する意識を強烈に変えていく事だと思っている。同じアウトプットを出すにも、いかに必要な事だけを行い、いかにそれに対する時間投下を減らしていくかという事に、一人ひとりがどれだけ本気で取り組めるか。 「前回は半日かかったこの業務を、今回は3時間でやってしまおう」「いままで、20時まで残業してやっていた作業を、集中して17時までに終わらせて、定時に帰宅する」等、所定の時間内に必ずアウトプットを出す取り組みは、組織としての施策と言うより、個人の姿勢・マインドによるところが大きい。上長に言われるからやるのではなく、だらだらと時間をかけて仕事をするより、密度の濃い仕事を短時間で集中して行い、さっさと帰る事を良しとする観念や美学?のようなものを個人の信条として身に着けていく事ができないと、我が国は、世界中で繰り広げられている厳しい競争から取り残されてしまうかも知れない。 一方で、我が国では、「高齢化」という大きな社会的トレンドも進行している。 先日、急いでクライアントのオフィスに行く際、ICカードにチャージしようと駅の自動券売機に行くと、ひとりの高齢の男性が前にいて、右往左往していた。使い勝手もよくわからずに、あれやこれやとボタンを押してはやり直し、後ろに私を含め、多くの列ができてしまった。仕事の生産性から言えば、はやくチャージして切符を買い、クライアントに、予定の時刻に到着したいところだが、年老いて、機械の操作に慣れないのだから、仕方ない。ゆっくり操作方法を説明してから、急いでチャージをして、その日はなんとか事なきを得た。 また、別の日には、半休をとって母の診療同行したことがあった。 母も高齢で、いまや軽やかに歩く事もできないし、コミュニケーションの内容を理解するにも時間がかかる。病院への道中、ゆっくりした母の歩行に合わせて歩いたり、大きく明瞭な声で話しかけ、必要であれば、何度か同じ事を何度かくり返し話しなら、同行していたが、その日の午前中は、オフィスで複数のウェブミーティングをしたり、多数のメールや電話でのコミュニケーションをフルスロットルで行ってから、病院にやって来ただけに、流れる時間のスピードギャップが極めて大きく、高速運転からローギアへとチェンジをする事に相応のエネルギーを必要とすることを痛感した。 おそらく、これから高齢化が進行する我が国では、同じ場所に住みながらも、個人間で流れている時間のスピードのギャップが、ますます広がっていく事だろう。国際的な競争が激化する中で、我々は、仕事上ではより強烈に生産性コンシャスなマインドで臨まなければならない一方で、ゆったりとした時間が求められる高齢者ゾーンでは、彼らの生活に配慮し、やさしく寄り添っていかなければならない。状況に応じて時間への向き合い方に柔軟性が求められる訳で、我々は、脳の筋力を、益々、鍛えていかねばならならない時代に突入していく。

概念化力を高める | 人材開発

概念化力を高める

 社会人としての基礎スキルの思考面の力といえば、「課題発見力」「計画力」「創造力」(=経済産業省社会人基礎力の「考え抜く力」)などといわれ、ベーススキル研修として、ロジカルシンキングや課題解決スキル、あるいは段取り力、プロジェクトマネジメントスキルといったテーマがよく取り上げられる。これらは、確かに大事は要素能力ではあるが、ビジネスマン、とくに管理職者にとって、もっとも大事な能力は「概念化力」である。  概念化力とは、状況の本質をとらえ、端的に表現する能力。それはビジネスシーンのあらゆる局面での基盤スキルであり、大半の「困った管理職」はその欠如に起因する。たとえば、大局観のない自部署の方針、目的を逸脱した対症的判断、要を得ない経営報告などなど、経営者を怒らせる管理職者たちはまず第一に概念化力に課題があるのだ。  報告を聞いていていらだち「要は何なんだ、一言で言え!」という怒号や、現状課題や実績から積み上げられた計画に対して「いったいどうしたいんだ、コンセプトがない!」という叱責は、実に日常的によく聞かれることではないか。この能力は、目的志向での職務遂行や的確なコミュニケーションにも直結する、つまりパフォーマンスを左右し、また、経験から学ぶための思考方法(=経験の本質をとらえ、他に展開できる)でもあるから、管理職に限らず、社会において仕事をする際のベーススキルでもある。  さて、そのようなキースキルである概念化力を、どう高めるか。残念ながら、概念化力向上トレーニングといった便利なものがないように、その育成方法は明確ではない。ただ2つの実務的なスキルが強く関係しているので、その向上は概念化力のブラッシュアップにつながる。  ひとつは、文章力だ。採用選考に文章を書かせる試験があるように、文章をみれば、いくつかのアセスメントディメンションでの評定ができる。それは、文章から信条や姿勢や問題意識を読み取れるからではなく、文章には純粋に思考力のレベルが顕れてしまうからだ。文章、とくにビジネス文書を書く能力とは、「本質抽出能力」と「論理展開能力」であり、だから能力評価にも使えるし、文章力を高めることでそれら能力向上のトレーニングができる。  例えば、我々のような仕事であれば、複数の経営幹部のインタビュー記録が大量にあって、それをもとにその会社の課題をまとめ200字以内の報告書に書き上げよ、といった演習をくりかえす。ここでは、情報を精査し、得られた内容を構造化し、関係や因果や相似を見極め、いくつかの課題にまとめ、分かりやすい順番で文章化する、そのプロセスが問われることになるから、このトレーニングによって「要約」というスキルを理解し向上させることができる。  要約力は、文章の内容(=コンテンツ)にかかわる能力だが、文章には内容とともに表現力も問われる。わかりやすく伝えることのベースは、論理展開力であってそれはロジカルライティング研修などで学べるが、もう一段上の表現上のワザがレトリック(=修辞)だ。レトリックは、読み手の印象を操作する法なので、ビジネス文章ではあまり使われないが、提案文書ではここぞという記述で有効だったりする。  レトリックの一つに比喩がある。直喩、隠喩(=メタファー)、換喩(=メトノミ―)など手法はさまざまだが、要は、伝えるべきモノゴトを別のものに置き換えて言うことによって、読み手の気づきや実感を喚起するテクニックだ。この置き換えが適切で成功するためには、置き換えるモノゴトとの共通性が妥当でなければならない。つまり、それぞれのモノゴトの本質をつかむ――概念化力が問われるのである。ゆえに、レトリックの訓練(=例えば相似によって横に跳ぶ演習)もまた、概念化力向上につながる。  もうひとつの、概念化力と関係する実務スキルは、デザイン力である。とりあえずは、パワーポイントの資料を美しく作れるようになるためのトレーニングから始めるのだっていい。「書類として美しくない」イコール「コンセプチャルでない」なのである。デザインとは、構成化と意匠化のワザであり、語源を「de-signare」というように、「脱-しるし(=signare)化」し、意味をカタチにすることなのだから。

愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成 | 人材開発

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成

「業務密着型学習」が増えている。 人材育成体系の構築と運用に取り組む人々にとって、「仕事をしている最中に、必要な情報にアクセスして、学んだものをその場ですぐに用いるという『業務の中で学ぶ』スタイルについて検討すること」は、避けられなくなってきている。 今のところ、業務密着型学習を進めるに際して中心的な役割を担うもののひとつは、マイクロ・ラーニングと呼ばれる、数分程度(モバイル端末では、多くのものが1~3分程度)で視聴できる、データ・サイズの小さな知識や情報を活用した教育・学習方法である。 忘却曲線を意識して、繰り返し学習による「知識の定着」を狙う使い方や、「働き方改革の推進」と相まって「集合研修時間の低減に役立ちそうだ」などとして、注目度が高まっているのが実情だ。 確かに、マイクロ・ラーニングをうまく活用できれば、業務の中で学ぶことが可能になるため、人材育成体系の構築や運用にどのように織り込めばよいのか検討することが、組織能力の向上を図るうえで、重要性を増してきていると思う。 ただし、「万能薬であるかのように、何でもかんでもマイクロ・ラーニングにすればよい」と飛びつくのは、間違いだ!ということを指摘しておきたい。 ここでは、「ハード・スキル」(認知能力)と「ソフト・スキル」(非認知能力※)という切り口を取り上げてみよう。 マイクロ・ラーニングは、「注意を集中させて、情報を処理して、記憶すべき事柄を何度も唱えたり、思い出したり、視覚的に思い浮かべたり…」などといった、「認知能力」の発揮(作業記憶や前頭葉前部皮質などの活動)と相性が良い。認知能力とは、IQで測られるような、理解・判断・論理などの知的機能のことである。 特に、技術的な技能、例えば「新しいソフトウェアの使い方を学ぶ」ようなハード・スキル(形式化された知識を使いこなす技能)を身につける場合には、マイクロ・ラーニングの効果が期待できる。 他方、例えば「自分で何でも処理してしまうのではなく、他者を通して組織業績をあげることのできる管理職や経営職を育成する」には、対象者の(社会情動的スキル、あるいは、非認知能力と呼ばれることもある)ソフト・スキルの向上を狙った、組織をあげての体系的な取り組みが大切である。 管理職や経営職のソフト・スキルを高めるには、「他者の気持ちを感じ取ったり自分の氣持ちを表現したりしながら、建設的な関係を確立して維持する」「責任ある意思決定を行う」などといった「ソフト・スキルを発揮する体験」を実際に積まなければならない。 すなわち、ソフト・スキルを高めるには、「誤りを訂正しながら、状況や関係性に応じた行動を徐々に身につける」などといった「漸進的な学習」(大脳基底核も巻き込んだ活動)が求められるのだ。 このように、「認知」的な能力を発揮することで短期間のうちに身につけやすい「ハード・スキル」と、種々の体験を通して、状況や関係性に応じた「行動」を身につけていく「ソフト・スキル」では、そもそも、学び方や所要時間が生物学的な見地からも異なる。 また、何かを習得する際に同じことを過剰に繰り返して練習すると、状況とセットで記憶してしまい、「状況が変わると思い出せない、応用できない」といった弊害(文脈干渉効果)が生じるという観点からも、「ソフト・スキルの習得にはランダムな順序で様々な練習を行うことが望ましい」ということに配慮したい。(個人的には、没入感のある仮想現実/拡張現実/複合現実シミュレーションを活用して、身体で真似て習得する方法にも興味を覚えている。) マイクロ・ラーニングに飛びつきたい気持ちはわかるが、自社に適した活用の仕方や、経営職・管理職の育成方法について、改めて検討していただきたいと思う。 ※「非認知能力は、先天的知能とはほとんど相関がみられない」と言われている。例:"A Meta-Analysis of the Convergent Validity of Self-Control Measures", Angela Lee Duckworth and Margaret L. Kern, Journal of Research in Personality, 2011 Jun 1; 45(3): 259–268. 以上

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

抽象的思考力を鍛える | 人材開発

抽象的思考力を鍛える

 会議の場などで、「説明が抽象的すぎてわからない。もっと具体的に話せ!」と指摘を受けた経験のある方は多いだろう。この抽象的な表現というのはコミュニケーションの場において、ネガティブな意味で使われるため、仕事の上でも、“抽象的”はダメで“具体的”でなければならない、と勘違いをしている人は少なくない。ところが、実際のところ仕事のできる人間というのは、漏れなくこの物事を抽象化して捉える能力が高い。なぜなら、仕事というのは常に何かしらの意思決定が必要であり、そのためには抽象的思考力が必要不可欠だからである。  抽象的思考力とは、重要なポイントだけを抜き出し、不要な部分は捨てて物事を把握する、すなわち物事の本質を捉える能力である。例えば、料理をする際に、「フライパンに材料をのせて中火で3分焼く」、というように手順で覚えていると、次に同じような料理を行う際に、食材の分量によっては焦げてしまったり、生焼けになったりするかもしれないが、「材料に火が通るまで焼く」と覚えていれば、そのような失敗はしない。  この抽象的思考力は、人間の学習において大きな役割を果たしているといわれている一方で、その仕組みはよくわかっておらず、機械学習においても再現することができていない。過去に起こった事象から、これから起こるだろう事象の結果を予測するのが機械学習だが、人間の知能には遠くおよばないのが実際なのである。いやいや、囲碁や将棋では、もう人間は人工知能に勝てないじゃないか、という人もいるかもしれないが、機械学習のアルゴリズムは、基本的には大量のデータから傾向を探る、という手法であり、ある分野の学習をするためには、人間よりもはるかに膨大なデータを必要とする。また、ある分野での学習を別の分野で活かすことも苦手だ。つまり、機械学習は人間の学習能力のうちの、ある一部分で人間を上回る能力を発揮しているが、人間以上の知能を有しているわけではない。電卓が人間の計算能力を上回る能力を発揮しているが、人工知能とは呼ばないことと同様である。  今後、様々な作業が人工知能に置き換わっていくことが予想されている中で、この抽象的思考力こそ、人が鍛えるべき能力と言える。抽象的思考力は単に経験を積むだけでは鍛えられない。地道なトレーニングが必要だ。ただやみくもに考えればよい、というわけではなく、要は何なのか、を文章にしたり、図式化して考えたりする、ということを習慣づける必要がある。要点を箇条書きにする、ということも立派なトレーニングになるし、会議の議事録作成は、仕事の理解と抽象的思考力の両方が強化できるので、新人には特におすすめだ。中途採用において、業界の異なる人が活躍できるかは、その人が自身の職務経験や業務の知識を抽象化して捉え、それを汎用的に活用できる能力を持っているかがポイントとなる。これからの採用においては、面接の際には経験や実績でも、言語能力や計算能力でもなく、抽象的思考力を見るべきだろう。  冒頭の会議の例では、物事を正しく抽象化できていないからこそ、わかりやすい具体的な説明ができない、と考えるべきだ。正しくは、「具体的に話せ!」ではなく、「抽象化できているか?」なのである。

教え方を教える | 人材開発

教え方を教える

 「共育」という言葉に最初に出会ったのは、2006年「資生堂『共育』宣言」だった。資生堂としては、従業員の成長と会社の成長の重なりという企業が人を育てることの原点を改めて確認するメッセージであったが、それよりも、教育を共育と表現したときに見えてくるシンプルな気づきが、新鮮だった。  なるほど、教え教えられることで、人々は共に育つのだ。教えることによって、教える側も成長するという事情がストレートに喚起される言葉だったからである。  近年、学習手段による学習効果の違いを説明する論として良く聞かれる「ラーニング・ピラミッド」では、もっとも効果が低い方法が「講義を聞く」、次いで「読む」、「視聴する」、「実演してもらう」、「議論する」、「練習する」という順で、学習の定着効果は向上し、もっとも効果的な学習方法は、「教える」とされる。  そんな“理論”を知らなくても、教えるためには、自身の知識を整理し、分かりやすい教える順番を考えなければならないから、結局自分の勉強になることは、誰しも経験のあることだろう。どの会社でも、若手社員がOJTトレーナーや先輩指導員、メンターとして、新入社員を指導するのは、教える彼ら自身の教育も狙いとしている。ただ、この共育事情がたいていは若手社員まででとどまっているのは残念である。  上位階層の従業員が下位階層の後輩を教育するために、「教え方を教える」といったコンセプトの階層別研修があってもよいのではないか。たとえば、仕事は一人前でできるようになった5年目くらいの後輩が目の前の業務に埋没するあまり、疲弊したり、疑問を感じたり、漠然と将来に悩んでいるようなときに、どう指導し、動機付けるか。人が、仕事に前向きに対峙できるための要件の、最大のものは「有意義感」である。だからたとえば、その仕事にどんな意味があるのか、を教えられるようにする。  とすれば、後輩が担っているどんな業務でも、それが、会社全体、事業全体にとってどのような意味があるのか。あるいは、社会に対する自社の価値提供として何を担っているのか。また、自身のキャリアの将来にとって今この仕事をやりぬくことの意味は何か、等々をきちんと教えられるようにするという研修である。そのためには、全社視点や社会視点、あるいはキャリア視点で自社事業と業務を再整理する作業を研修ですることになるから、そのこと自体の本人にとっての教育効果は明らかだろう。  “自分の次の課長の”育成法を教える課長研修は何回か実施させていただいているし、シニア人材が自身の持つ知識や技術を伝承できるようにする研修があっていい。そうした「教え方を教える」研修の一番のポイントは、教えるスキルのインプットではない。そのことももちろん不可欠だが、大事なことは、「自分は“何を”教えるか」、「自分は何を“教えたい”のか」を考えさせることである。ともすれば、言葉になっていない自分固有の方法やスキルを顕在化させることであり、自分の意思や想いを、他者に伝えるべき価値があるかどうか評価することである。  教えることの学習効果とは、経験から学んだことを評価し体系化することである。それが組織の活きたナレッジであり、共育というコンセプトは、昨今喧伝される組織学習やナレッジカンパニーの原点なのである。

ハイパフォーマの要件 | 人材育成方針策定

ハイパフォーマの要件

 人材開発の仕事で、360度診断を使うことが多い。  よく、「部下からの評価などあてにならない」、「考課したことないから基準がバラバラ」、「好き嫌いが入り込む」といった理由をあげ、360度診断を否定する声も聞くが、それは当たらない。確かに、「マネジメントとは何か」を知らない部下が、自分の基準で主観的に付ける上司の「点数」は、うのみにできない。しかし、360度診断は、点数の高低をみるものではない。集計された周囲評価の項目間のバラつき方とその自他ギャップに意味がある。  個々人がつける点数水準はどうあれ、項目間の差を集積した周囲者評価のカタチ(=項目ごとの点数の折れ線グラフ表示)によって、できている(と周囲が感じる)項目とできていない(と周囲が感じる)項目が特定できる。加えて、本人の自己評価のカタチを重ねてみることで、行動課題がさまざま浮かび上がるという仕掛けである。  たとえば、周囲評価の(相対的に)低い項目と自他ギャップの大きい項目にまず着目する。対象者の全体傾向としてみるのであれば、それがその層の育成課題を検討する材料となり、個々人でいえば、本人みずから、その理由を内省し、行動変容へのきっかけとするといった研修内での使い方が一般的だ。  多くの会社で360度診断をやっていて、実に興味深いのは、ハイパフォーマに決まってみられる“外形”があることだ。まず、周囲評価のカタチと自己評価のカタチが相似している人は、だいたいできる営業マンだったり、優秀なマネジャーだったりする。つまり、自己認識がちゃんとできている。  さらに成果を上げている人に特徴的な外形は、自他が相似したうえで、自己評価のカタチは、周囲より大きな振幅になっている。つまり、できている項目は、自身ではもっとできているという高い点だし、できていない項目の自己評価の点は極端に低い。出来不出来のメリハリが、周囲評価よりも効いているのだ。  自己認識が正しいうえで、強い自信と強い課題感の表れと思えば、それが優秀さを示すひとつの要件として納得できるのではないか。このことは会社が違ってもほぼ例外なくあてはまる特徴だが、加えて、ハイパフォーマ分析(=パイパフォーマを特定してもらい彼らに共通する特徴を抽出する分析)を行えば、その会社ならでは優秀人材の要件も分かるから、こうした診断から見えてくることは、能力や行動の課題以外にもさまざまある。  毎年、管理職評価用に診断を実施していたある金融機関では、なかなか含蓄深い特徴がみられた。360度診断は周囲評価としてひとつにまとめてしまう場合と、上司、同僚、部下といった評価者属性ごとに結果をわけて表示する場合がある。この会社では、上司、同僚、総合職部下、一般職部下の4つに分けて周囲評価集計を表示していた。  傾向としては、同僚評価はとくにそうだが、総じて甘い評価で、上司評価以外はあまりメリハリがつきにくい(銀行でしばしば見られる傾向ではある)。そのなかで、ハイパフォーマに共通する特徴がひとつあった。それは、上司評価のカタチと一般職部下のカタチがそっくりだったということである。  これは2つの意味で示唆的である。  まず第一に、上司の目にも、一般職部下の目にも同じに映るような、分け隔てない振る舞いが、ハイパフォーマの特徴だという点。常に、誰に対しても変わらぬ行動、とくにヒエラルキー的役割分担の堅固な組織における振る舞いとして、なるほど、と思わせる。  もう一点、注目したいのは、一般職の方々の観察眼の鋭さである。同僚や総合職部下といった周囲者が、防衛的だからか、互助的なのか、中心化傾向で変化に乏しい評点をつけているなかで、上司同様のエッジが効いた評価をしている。いかにも情緒的でないきっぱりしたメリハリが見える。一般職の方々の雇用環境や仕事スタンス、価値観など、この的確な視線の理由としていろいろ推察できることもまた、360度診断ならではの醍醐味である。

シャドウイングのすすめ | 人材開発

シャドウイングのすすめ

 シャドウイングといっても、ネイティブの発話を聞くそばからそのまま口に出していく(=影のように)英語練習法のことではない。仕事の実態を知るために行うキャリア教育としてのジョブシャドウイングだ。  やり方は、仕事する社会人に半日とか1日間、中学生、高校生や大学生が一人、影のようについて一緒に行動する。それにより、普段見えない仕事の実態や、人が働くということのリアリティを理解できるという効用がある。インターンシップが職業体験であるのに対し、ジョブシャドウイングは、単なる観察である。観察だからこそ、知り、感得することに集中できるし、一対一の関係のなかで、その働く本人の思いや考え方を仕事の合間や事後に聞くことができる。  米国では定着した教育手法であるが、日本でも、キャリア教育として取り組む中学校や高等学校が増えてきた。何人かの人事担当の方々からも、年々、各地の学校からの要請があると聞いた。中高教育なかで浸透しつつあるようだが、むしろ、大学と企業の間で、こうしたシャドウイングの仕組みができるべきではないか。  職業選択の前提となる仕事観やキャリア意識がないから、といって、1、2年生からの「キャリア形成支援」の取り組みが大学では盛んであるが、それに意味があるとは思えない。キャリアの方向性など、仕事を何年か経験してから初めて見えてくるものだ。学生がキャリアデザインするといった矛盾に満ちたキャリア教育や就職予備校めいた指導のおかげで、面接で、「クラブ活動でのリーダーシップの発揮」などをPRする学生ばかりになる。  キャリア形成とは、授業として教えるものではない。大事なことは、自分が興味ある仕事、あるいは、あまり知らないいろいろな仕事の実態やそこで人が何を想い働いているという有様を感得することだ。そのことが職業選択の視界を広げる。それができるジョブシャドウイングのしくみがあれば、ほかに特別なキャリア教育はいらないのではないか。もはや死語のようになってしまった感があるが、学生の本分は勉強である。大学4年間のほとんどの時間を、学問というものに没頭させる経験こそが、将来、長く仕事していくなかで、ボディブローのように効くキャリア形成支援のはずである。  シャドウイングをすすめる理由は、もうひとつある。シャドウイングされる側に対する教育効果があるからだ。それが、CSRを実践することだから、ではない。シャドウイングされる人自身が、改めて自分の仕事の意味や意義に気づくという効用である。キャリアアンカーで知られるエドガー・シャインは、一方で「プロセス・ファシリテーション」というコンサルティング手法を提唱しているが、そのポイントは、「外部の、第三者による素朴な問い」が、組織の構成員たちの暗黙知を顕在化させる効果をもつということだ。  シャドウイングする社外かつ職業社会というものの外部者である学生が発する問いに答える経験は、自身の仕事を再発見する貴重な機会に違いない。キャリアの節目にあるような入社3年目や5年目あたりの若手社員層が学生にシャドウイングされるといった施策は、会社内でよく行うキャリアデザイン研修よりも効き目があるはずである。  エグゼクティブ・コーチングにも、シャドウイングがある。コーチングのプロセスは、1.360度インタビューなどの診断にはじまり、2.解決すべき課題を合意し、3.方策を検討し、4.その実行を定期的に検証・検討しながら促進するというものだが、この4.のフェイズで、コーチが一日“影になって”観察し、フィードバックすることをシャドウイングという。これはなかなか不思議な光景で、かつて外資系企業の日本支社長のコーチングで、影として一緒に会議に出たときの人々の不審な表情をいまでも思い出す。  コーチングにおけるシャドウイングもまた、本人だけでは気づかないことを、顕在化するための方法である。組織もそうだが人も、日々の経験や慣れや繰り返しが地層のように蓄積し、それが判断や思考の前提になりがちである。その“当たり前”という前提を「Why」で揺さぶることが時に必要なのだとしたら、自分自身で行うのが難しいそれを、第三者がやってくれるシャドウイングの効用はもっと注目されていいのではないか。

50歳管理職登用 | 人材開発

50歳管理職登用

 今後65歳までの雇用義務化や70歳までに延長される可能性があることから考えると、ビジネスパーソンの人生は今までに比較すると激変することになるでしょう。終身雇用のように長期雇用を前提とした場合には、極論すると2つのタイプの人事管理スタイルのどちらかになると予想されます。一つのタイプは年齢に関係のない人事管理スタイルです。年齢に関係なく実力によってポジションや職務を決めるというものです。プロ野球のように活躍しているときは年俸が高く、実績を残せなくなると年俸が下がるようなエレベーター式の人事制度ということです。このような実力主義的人事管理スタイルは、企業にとって人材の短期的な有効活用という観点ではメリットのある方法でしょう。デメリットとしては、かつて活躍した社員が降格したり給与がダウンするといった現象が多くなり、モチベーションの維持や雇用の安定、技術の伝承という観点で問題が発生することになります。  このような実力主義に対して、年功序列的な人事管理スタイルがもう一つの考え方です。大学を卒業して65歳まで勤務するということは43年間の在籍ということになりますが、企業の階層をピラミッドにするためにはあまり若い年齢で管理職にすることができなくなります。現在では40歳前後で管理職に登用する企業が多いですが、43年勤務を前提とした場合には、50歳前後で管理職登用くらいのスピードが理論上適正になるはずです。逆に50歳登用くらいのスピードでなければ、企業内に管理職だらけになってしまうのです。  そもそも管理職への登用はビジネスパーソンにとってひとつの成功の象徴的事象であると同時に、人事上も重要な管理事項です。管理職登用の理想的な年齢を聞くと、経営者や人事部門は40歳前後や優秀であれば30歳前半で登用したいという答えが多くあります。この感覚は企業の成長力が高い状況であれば成立する考え方ですが、成長が鈍化した場合には、40歳管理職登用は全く合理性のない感覚にしかすぎません。また、優秀であれば30歳前半で登用できるようにしたいということ自体は非常によいことですので否定するべき話ではありませんが、若くして登用する社員がいるのであれば、管理職の平均登用年齢を維持するためには、遅く登用する社員がいなければバランスしません。要は平均登用年齢と登用の分散をどのように考えるかという構造的な問題だということです。  年齢に関係のないマネジメントスタイルか、ある程度年齢を意識したマネジメントスタイルかはビジネスモデルや企業のおかれている環境によって、どちらが適合しやすいかということでしょう。習熟に長い年月のかかる高度な技術を基盤とした製造業であれば安定した雇用や技術の伝承を重視しますので、必然的に遅い管理職登用型の人事制度になっていくでしょう。一方で、環境変化の激しい小売、サービス、情報産業などは短期の人事パフォーマンスを重視する傾向にあると同時に、労働市場での流動性も高いので年齢に関係のない実力主義的マネジメントスタイルが適合します。  企業が大きくなればなるほど社会的責任が大きくなりますので、終身雇用や安定した処遇が強く求められるようになります。そのため日本企業全体という観点でみると50歳管理職型のようなスタイルに次第に変容していくとも考えられます。50歳管理職登用というのは一見あり得ないという感覚がありますが、理論上は一つの適正なスタイルだということで、一笑に付すことができない重要な論点です。