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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

評語の標語化 | 人事制度設計

評語の標語化

 評価票の無機質さは、なんとかならないものか。なにより学校の通信簿のような「評語」が大人げない。  コメントはいろいろ書かれているものの自身の評価結果が味気ない評語の羅列で示されている。成績としての良し悪しだけはわかるが、業務遂行や行動におけるリアルなレベルは伝わらないし、だからどうする、が見えない。ゆえに、上司コメントや面談による指導が評価という行為には不可欠とならざるをえない。  評語とは、 1. 批評の言葉。評言。 2. 成績の評価を示す言葉。優・良・可の類。 と辞書にあるが、人事の世界ではもっぱら後者の意味でつかわれる。評語=SABCDとか54321などの評点レベルの表現語、である。ついでに言うと、数字評語は、成績レベルとしては直感的だし、平均処理といったわかりやすい集計処理ができるけれども、アルファベットはいただけない、と常々思う。  評語だけではレベルがわからないから、評価制度ではたいていその説明がついている。それもまた味気ない。たとえば、 S / 5 期待を大きく上回る A / 4 期待を上回る B / 3 期待どおり C / 2 期待を下回る D / 1 期待を大きく下回る といった表現で、味気ないだけでなく、そもそも、4と5、2と1の違いである「大きく」とはなにか。あいまいである。なので、評価者研修では、「期待とは、等級に求められる水準であり、5は、上位等級レベル」だとか、「問題があれば、2。支障があれば、1」などと解説する。  解説がいるくらいなら、評語自体をメッセージ化してしまったらどうか。それならば、見てすぐに自分のステータスがわかる。たとえば、こんな具合に。 ■上位等級レベル。昇格準備  ←S / 5 期待を大きく上回る  ■卒業レベル。要上位課題確認 ←A / 4 期待を上回る   ■等級相応。要ストレッチ   ←B / 3 期待どおり ■問題あり。要確認      ←C / 2 期待を下回る ■業務支障。降格危機     ←D / 1 期待を大きく下回る   いわば、評語の標語化である。標語とは、「主義・主張,運動の目的などを簡潔に示した短い語句。モットー。スローガン」であるから、ここであげた即興例なんかより、もっと自在に、もっと独自表現で、自社にとっての評語表現をメッセージ込めて作ればよい。  評語の一つ目の意味は、「批評の言葉。評言」である。当社にとって、5レベルの優れた人をどう評するか、が標語としての評語作成の出発点である。大げさに言えばそこに、会社の理念や組織哲学が表出するはずであり、味わいのある評価票がうまれるのではないか。  何を評価するかの観点は、多種多様だし、その表現もまたいくらでもある。企業固有でかつ琴線にふれるような文学的表現があってもいいとも思う。最近読んだ本のなかに、人を評する言葉としてこうあった。  佇まいの凛冽、志操の高潔、言動の超俗。

フェミニンリーダーシップ | その他

フェミニンリーダーシップ

 ふたたび、ジェンダーについて書く。  ダイバーシティマネジメントを体現する人材活用の一環として、女性管理職比率を目標設定することがある。それについては賛否両論あって、否定派は、一定数の女性管理職登用を目指すがゆえに、本来の登用基準より低い“女性用基準”が生まれることを危惧する。ひいては、女性の尊厳を傷つける施策だとまで言うむきもある。  しかし多少無理はしても、一定比率の女性管理職を人数枠設けて“外形的に”作ることが早道であることは確かだろう。女性の管理職候補者が育ってきてから同じように選考して、などと言っていたら、女性の管理職が増えるのがいつになるかわからない。だからこその強引な目標設定だったのだから。  そこでの主たる懸念は、このように登用した女性管理職が管理職としてパフォーマンスをちゃんとあげられるか、ということだが、その心配はあたらないのではないか。きっと女性たちは、管理職能力を発揮できるはずだからである。  ある時期から、採用担当者の方々からこんな悩みを聞くことが増えてきた。選考過程で、評価の高いほうから採用していくと、女性ばかりになってしまうので、男性を採るために採用基準を下げざるを得ない、と。これはこれで大丈夫か? という気もするが、それは置くとして、優秀で元気な女性が会社に入ってきている時代である。我々も、研修の場で、女性のほうが自由で創造的な発想をする場面を何度も目撃している。  いやいや確かに女性社員は優秀だけれども、管理職としての能力はどうだろうか、と疑問を呈する方もいるだろう。それなら優秀な女性社員の業務遂行ぶりをよく見てほしい。彼女らの特長は、複数の並行作業の優先順位づけと割り切り、判断の速さである。  仕事も家事もこなすために、定時退社や場合によっては時短勤務を必須として、効率的にかつ割り切った判断で仕事をする。よく言われるようにそもそも家事というシャドウワークは、マルチタスクの並行処理であるから、仕事においても、男性社員のようにうだうだ思い悩まずに進めていくクールさがある。  管理職の仕事の大半は、多種多様な案件の意思決定である。優先順位の高いものから、早く、的確に判断する仕事である。そこには冷徹な割り切りもしつつ、やるべきことを粛々とやっていくことが求められる。かつて女性ならではのリーダーシップを分析し話題なった本『フェミニンリーダーシップ』(マリリン・ローデン)を持ち出すまでもなく、こうした管理職業務が女性に向いていないとはとうてい思えない。問題は、女性の管理職能力ではなく「管理職志向のなさ」にあるにすぎないのだ。  アセスメントセンター方式による昇格アセスメントでは「インバスケット」というシミュレーション演習を使う。管理職の立場でたくさんの案件を短時間で処理するという判断ゲームで、純粋に管理職としての意思決定力を診断するものだ。純粋に、という意味は、会社固有の暗黙知や職場の人間関係や業務情報の多寡によらずに、ということである。  従来の、人事考課の結果と部門長推薦と役員面接による登用決定だけでは見落とすかもしれない管理職能力を診るために、アセスメントの活用が増えてきている。同時に、そうした従来型の登用方式が女性の管理職登用を阻害してきたものでもある。アセスメントによって、予断なく純粋に管理職能力を見極めれば、女性管理職の登用にさほどの無理はなくなっていくだろう。  もちろん、管理職に必要なものは、ここで書いてきた意思決定力、つまり管理能力だけではない。リーダーシップと言ったり、人間力と言ったりする人々に影響を与える力がないと人はついてこないし、管理職としての強い役割意識もまた不可欠だ。それらについての女性たちの適性はまだわからない。もし多くの女性が管理職になりたいと思わないのであれば、その姿勢やマインドからして、このあたりはあるいは不得意かもしれない。  しかしそれも心配はないのではないか。管理職とは役割であって、演じるものである。男性よりも演技に長けているのが女性だという通俗的な女性観が正しいとすれば、リーダーとしての役割を、割り切って演じられるはずだから。

無能の大罪 | その他

無能の大罪

 企業内教育は、個々人のパフォーマンスを高めるために不可欠の施策である。OJTやOff-JTにより、早く求められる成果をだせるようになって、生産性に貢献してほしいから、育成する。しかし、そこで高められる能力とは、企業固有スキルであって、大半は汎用的スキルと重なるけれども、大事なのはその会社ならではの必要スキルである。  だから問われるのは、その会社で成果を出せる能力にすぎない。「あいつは能力が低くて困る」という上司のぼやきは、正確に言えば、パフォーマンスが低い、貢献となる行動をとれていない、という意味で、決して、「能力」そのものを深刻に評価しているのではない。たかだか、いまこの会社で求められる行動発揮に問題があるだけである。  企業で評価されるのは、行動とその結果である。評価制度は通常、業績評価と能力評価のふたつで構成される。その能力評価とは、潜在能力ではなく、発揮能力。その会社で階層別に求められる発揮能力=行動を評価するものである。なので、名称自体も能力評価ではなく、行動評価とする評価制度が増えてきている。  問われるのは、能力ではなく行動である。仮に能力が低くても、行動ができていればいいし、行動ができるレベルにないなら訓練をすればいい。訓練をしても行動ができないなら、その仕事は無理だということだけである。それが、能力が足りないからか、やる気がないからか、あるいは別の何かのせいか、その理由はどうあれ、である。  企業の現場において、個々人の能力の多寡は、重要でない。行動と行動発揮を促進する訓練、つまりはマネジメントが問われるのであって、「あいつは能力が低くて困る」などと、上司に言われる筋合いはないのである。行動発揮が十分でなければ、それなりの評価となり、それなりの処遇になるだけであって、あえて能力を発揮せずに、そうした働き方を選んでいる人だっているかもしれない。  その意味で、従業員の能力のあるなしは、問題ではない。しかし、この上司=管理職者だけは、文字通り能力が問われるではないか。問われるどころか、無能なマネジャーは組織にとって有害といっていい。管理職も役割定義されているから、求められる行動ははっきりしている。ただ、明文化された役割行動をとるだけでは、マネジメントはできない。内外の不測の事態に対応した判断ができるには、「能力」が必要なのである。  その最前線での判断が会社に与える事業的影響もさることながら、たとえば、クレームだったり事故だったりに対して、逃げたり、責任転嫁したり、矢面に立たなかったりする上司を目の当たりにした部下たちはどうなるだろうか。当の管理職者に対してのみならず、任用した会社に対しての落胆、失望、諦観。個々人を活用して、組織としての成果を上げていくしくみである会社にとって大罪である。  管理職役割定義に書かれていることの根幹は、要は、意思をもって、いろいろ工夫して、判断してくれ、ということであり、それには、一定の能力を前提する。そこで必要な能力とは、課題発見力だったり、分析判断力だったり、指導力だったり、育成力だったりいくらでも書き連ねられるけれども、もっとも大事なのは、「意思」と「覚悟」である。  これは、経験によって磨かれるだろうけれども、そもそもそれを持ち得るかどうかは能力だろう。だから、昇格のアセスメントでも、意思決定にかかわるスキルとともに、必ず、「達成意欲」や「姿勢」、「自律一貫性」といったさまざまなスキル名称をもって、それらのレベルを測定しようとする。  よくリーダーシップの要件として、人間力といった言葉が語られる。そこには、ともすれば高邁な人徳や器の大きさのイメージがあるが、それほどのものは必要ない。ただ、意思と覚悟を持てる能力だけは、管理職者には不可欠であり、その意味での無能な管理職者を決して作り出してはいけないのである。

無知は哀しい | その他

無知は哀しい

 恥ずかしながら40歳になるまで、ザルそばの薬味のワサビは、直接そばにつける、あるいは口直しにちょっと舐めるものだとは知らなかった。あるとき、池之端藪の小上がりで独り菊正宗ぬる燗をやりながら、隣の初老の客を見るともなく見ていたら、ワサビをちょんちょんと蕎麦につけると、その部分はつけ汁につけずに手繰った蕎麦の下だけ蕎麦猪口に入れてズズッとすすっている。  真似をしてみたら、その旨いことといったら堪らない。ワサビが引き立て役になって蕎麦の味が香り高く際立ち、口腔をうならせる。後で調べてみたら、薬味のワサビは本来そのためのもので、つけ汁に溶いたらまったく意味がない、と知った。なぜ誰も教えてくれなかったのか、とその時、くやしさに身もだえしたものだった。若い時から蕎麦好きで、たいていの老舗蕎麦屋には通っていた、この20年間は、蕎麦の味を十全には味わえていなかったということなのだから。  なんともったいない時を過ごしたことか。無知のせいで、蕎麦喰いの快楽を実に20年間も味わっていなかったとは。大げさに言えば、食という人生の愉しみについて取り返しのつかない損失である。おそらくは、蕎麦喰いとしては、薬味のインパクトを知っている人が味わう蕎麦の60〜70%の堪能レベルだったに違いない。なぜワサビがそこにあるのかをよく考えもせずに、つけ汁に溶いていた自分が実に情けない。  かくのごとく、無知は哀しい。無知はその本人にとって、豊かになるはずの人生を阻害する。たとえば、歴史の知識がある人とない人では、NHK大河ドラマを面白がる度合いが違うだろう。それもささやかだけれども、人生の豊かさの違いである。知らないからわからない面白さや醍醐味は、きっとあらゆる事柄にある。無知ゆえに、そのこと自体にすら気づかないのだ。  逆にいえば、知識は人の人生を豊かにする。よく研いだ包丁で長葱を切ると細胞をつぶすことがないので、くさみのない、格段に旨い刻み葱になる、あるいはボンゴレビアンコの旨さはちょっと煮立て“乳化”させたソースにあるとか、理屈がわかればしみじみと料理が愉しくなる。漢字や言葉の由来を知れば、それだけで人々の知恵の連鎖に触れ世界は深まる。  どんな事柄でも、理由がわかれば、物事はより面白くなる。企業の階層別研修では、よく、WHY思考というものをテーマとする。WHY=なぜ〜〜を問うことで、たとえば、目の前の業務の意味や、ルールの意味を考える。それが仕事の有意義感や面白さにつながり、また、何をなすべきかがわかる。そうしたWHY思考は、仕事の場だけでなく、実は日常のすべて、生活のすべてのことわりに向けて働かせるべき態度として重要なのである。  「なぜ、この仕事をするのか」、「この仕事の意味は何か」を問うことは、イノベーションの源泉といわれる。ひたすらWHYを突き詰めることで本質まで立ち返って初めて、新しい視点やアプローチ、アイディアが生まれるからだ。もちろん、蕎麦のワサビの意味に気づいたからと言って、生活のイノベーションはうまれない。しかし、暮らしの中のささやかな革新の契機にはなるのではないか。  すくなくとも私はそれ以来、「薬味の効用」に目を開かれ、ステーキを焼くときも、辛子、ワサビ、柚子胡椒、大根おろし、ディル、クミン、ガラムマサラ、梅肉、練唐辛子、晒し玉ねぎ、海苔佃煮、、等々を合わせてみるという、小さなイノベーションに挑戦し続けているのだった。

教え方を教える | 人材開発

教え方を教える

 「共育」という言葉に最初に出会ったのは、2006年「資生堂『共育』宣言」だった。資生堂としては、従業員の成長と会社の成長の重なりという企業が人を育てることの原点を改めて確認するメッセージであったが、それよりも、教育を共育と表現したときに見えてくるシンプルな気づきが、新鮮だった。  なるほど、教え教えられることで、人々は共に育つのだ。教えることによって、教える側も成長するという事情がストレートに喚起される言葉だったからである。  近年、学習手段による学習効果の違いを説明する論として良く聞かれる「ラーニング・ピラミッド」では、もっとも効果が低い方法が「講義を聞く」、次いで「読む」、「視聴する」、「実演してもらう」、「議論する」、「練習する」という順で、学習の定着効果は向上し、もっとも効果的な学習方法は、「教える」とされる。  そんな“理論”を知らなくても、教えるためには、自身の知識を整理し、分かりやすい教える順番を考えなければならないから、結局自分の勉強になることは、誰しも経験のあることだろう。どの会社でも、若手社員がOJTトレーナーや先輩指導員、メンターとして、新入社員を指導するのは、教える彼ら自身の教育も狙いとしている。ただ、この共育事情がたいていは若手社員まででとどまっているのは残念である。  上位階層の従業員が下位階層の後輩を教育するために、「教え方を教える」といったコンセプトの階層別研修があってもよいのではないか。たとえば、仕事は一人前でできるようになった5年目くらいの後輩が目の前の業務に埋没するあまり、疲弊したり、疑問を感じたり、漠然と将来に悩んでいるようなときに、どう指導し、動機付けるか。人が、仕事に前向きに対峙できるための要件の、最大のものは「有意義感」である。だからたとえば、その仕事にどんな意味があるのか、を教えられるようにする。  とすれば、後輩が担っているどんな業務でも、それが、会社全体、事業全体にとってどのような意味があるのか。あるいは、社会に対する自社の価値提供として何を担っているのか。また、自身のキャリアの将来にとって今この仕事をやりぬくことの意味は何か、等々をきちんと教えられるようにするという研修である。そのためには、全社視点や社会視点、あるいはキャリア視点で自社事業と業務を再整理する作業を研修ですることになるから、そのこと自体の本人にとっての教育効果は明らかだろう。  “自分の次の課長の”育成法を教える課長研修は何回か実施させていただいているし、シニア人材が自身の持つ知識や技術を伝承できるようにする研修があっていい。そうした「教え方を教える」研修の一番のポイントは、教えるスキルのインプットではない。そのことももちろん不可欠だが、大事なことは、「自分は“何を”教えるか」、「自分は何を“教えたい”のか」を考えさせることである。ともすれば、言葉になっていない自分固有の方法やスキルを顕在化させることであり、自分の意思や想いを、他者に伝えるべき価値があるかどうか評価することである。  教えることの学習効果とは、経験から学んだことを評価し体系化することである。それが組織の活きたナレッジであり、共育というコンセプトは、昨今喧伝される組織学習やナレッジカンパニーの原点なのである。

新世代が正しい | その他

新世代が正しい

 ここ数年の若手社員に対する評価として、まじめでそつなく振る舞う人が多くて扱いやすいけれども、本音がなかなか見えない、といった声を聞くことがある。いわく「期待されていることをやればいいという態度が、実にさめている感じで、何考えているかわからなくてね」と。  しかしそもそも、働く場で本音を出すことが必要なのだろうか。こういった指摘の前提には、同じ会社で働くかぎりは、本音をぶつけ合いたいという旧世代の“常識”がある。家族主義経営を標榜しないまでも、どこか、職場の仲間同士は、腹を割った人間的な付き合いも含んだ協働関係でありたいと願っている。それは、快適な環境という面もあるだろうが、一方で「本当の自分」を出さねばならないことがストレスになり、メンタル失調に結果するかもしれない。  役割等級という言葉があるように、企業組織とは、個々人が必要な役割を果たすことが求められる場である。だから、職能給でなく職務給、つまり職務(=役割)に報酬が払われる。人事考課で問われるのは、役割を果たせたかどうか、であって、全人格評価ではまったくない。管理職であれ、中堅社員であれ、また新入社員であれ、役割を果たす。要は、きちんと役を演じることを通じて、結果をだせばいい。本音(めいたもの)を出す、出さないもまた、役の演じ方のひとつにすぎないのではないか。その意味で、優秀な管理職者は、優秀な役者ということもできる。  それでは殺伐とするではないか、という指摘は当たらない。同じ組織目標達成に向けて、真剣に役割を果そうする態度が相互信頼をもたらすはずだし、そこに共感や凝集性が生まれる。そこでさらに、本音の表出など必要ないし、その効用があるとも思えない。もし、本音をぶつけ合うことでパフォーマンスがあがることがあるとすれば、それは、そもそもの役割や目標の設定がおかしかったということである。  かつて企業は、船のメタファーで語られた。であれば、社員同士、一蓮托生で突き進むわけだから、まるごとの人間関係の要請も分かる。しかし、今、企業のメタファーはあきらかに船ではない。多様な人々が交通し、かなり多くの時間を共有し、そのビジョンやミッションにもとづく役割を演じる「場」といったイメージだろう。だからこそ、凝集性の要となる、会社のビジョン、ミッション、バリューがきわめて重要であり、だからこそ近年多くの企業が、自社の存在理由を改めて問い、こうした自社のコンセプトの明確化と発信に腐心しているのである。  ときに、新入社員たちが本音を言えないのは、会社の一兵卒としての緊張からだと、本音を言いあえる場を用意することもあるが、そもそも彼らはそんなことを望んではいないだろう。また、きっとそこでは、そつなく、“期待される本音”を話すに違いない。よく言われるように、傷つくのを恐れ、人間関係全般で、役を演じるようなふるまいが新世代の特性なのかもしれないが、そのことは、まだ古い企業観にとらわれている旧世代よりは、いまの企業組織での働き方の適性が高いともいえる。  「最近の若い者は〜〜」として語られる世代間ギャップの多くは、新世代の方が正しい。なぜなら、新しい世代は、未来人の先行モデルだからである。

脱線予防 | その他

脱線予防

 高い能力があれば、経営幹部になれるかといえば、そうではない。  マネジメントスキルがあり、リーダーシップ行動も実践し、必要な経営リテラシーを充分に持ち合わせていても、大事な局面で感情に流された判断をしたり、自身の名誉へのこだわりで失敗したりすることがある。そうした、優秀でありながら経営幹部として道を誤ってしまうような個人特性を、エグゼクティブ・ディレイラ―という。つまり、エグゼクティブとしてのキャリアから脱線(=derail)する要因。  具体的には、依存的、論争的、尊大、目立ちたがり、回避的、奇抜、不感知的、衝動的、完璧主義、リスク嫌い、感情的、といった性格・行動特性があげられる。もちろん、こうした傾向は多かれ少なかれ、誰しもが持ち合わせているから、問題になるのは、その度合いが強すぎる場合である。ともすればそれが、抑えきれず表出し、経営者としての道を誤らせることがある。  だから、そうしたディレイラ―が低いことを確認することが、役員選抜のひとつのポイントになる。経営者としてのスキルレベルの測定は、「アセスメントセンター方式」によるアセスメントが有効である。シミュレーション環境のなかで、意思決定や行動をさせアセスメントすることで、思考面、対人面、資質面の必要スキルレベルを細かく評点化することができる。しかし、その中では、エグゼクティブ・ディレイラ―の測定はできない。  評価されているとわかっているのだから、アセスメントの場ではうまく立ち振る舞おうとするのが当然である。その能力が高いと診断されたとしても、実際の現場でその能力をちゃんと発揮しようとするかはそもそも保証できない。それは、能力の有無とは別の、真摯さや実直さによる。ましてや問題ある(とたいていは本人も気づいている)個人特性は、診断の場では見せないように演じるはずだからである。  性格診断のような心理テストも十分ではない。やってみればわかるように、項目に答えているうちに、ある程度は“演じる”こともできてきたりするからだ。役員によるインタビューや役員による日常の評価でもその検出は難しい。なぜなら、上司に対しては、「うまく振る舞おうとする」。  ディレイラ―のレベルを診るのは、本人の周囲者、とくに部下の声を聴くのが有効である。インタビューや360度診断によって、部下がその人をどう見ているかを把握する。さきに列挙したような、ネガティブな個人特性は、日常の部下指導のなかで、滲み出るものだし、部下は実に敏感に感じ取っているものなのである。  では、エグゼクティブ・ディレイラ―を持っていれば、経営者失格なのか。しばしば天才的な経営者には、ときに、ここであげているような人間的な欠陥もあわせ語られる伝説がある。ディレイラ―がありながら、脱線しない経営者特性はなにか。  先日、あるホールディングスの社長に「社長たるもの」の要件を聞いた。これは社長になってから日々思うのだが、と前置きしながら彼は、なにより経営のサステナビリティを第一に考えることの重要性を強調し、「社長である“自分”を律すること」と言った。社長こそが(自身が退いた後につながる)経営の継続性を体現しなければならない。それができる自己制御能力・姿勢・意思が社長に備わるのでありさえすれば、ディレイラ―は大した問題ではないのかもしれない。

By Communication | その他

By Communication

 目標管理制度は難しい。  目標さえ適切に設定できれば、あとは、達成できたかどうかを見るだけだから、評価に迷いはないのだけれども、このそもそもの目標の設定が悩ましいのだ。適正な目標の設定は、 1. 組織目標の分解  2. 難易度設定(=等級相応の目標)  3. 目標の表現  が3つのポイントとされるが、これがなかなかできない。  組織目標に連動していなければならない(1.)のに、「自身のダイエット」が目標化されるなんて笑い話が現実にあったりする。また、等級が違うのに同じ目標だったりする(2.)ことも多い。とくに、多くの会社で共通してできていないのが、3.の表現の妥当性。目標表現の基本は、「To be」、つまり目指す状態を示さなければならないのに、「To do」が目標として書かれている。プロセスや行動といった手段だけが書かれ、その結果のゴールが示されていないのである。  ゴールとして達成した状態、その達成水準が示されていれば、期末でできたかできなかったかの判断に悩むことはない。そうできるように、目標=目指すゴール、とそのためにやるべき行動、を切り分けて考えよ、ということだ。要は、「手段を目的化するな」ということである。  「To be」表現の重要性は、とくに定性目標でクローズアップされる。たとえば、モチベーション高い組織状況ならES調査結果、効率的な働き方の定着なら、時間外労働時間数など何らかの定量指標が達成水準と設定されるならいいけれども、そういった指標がない目標もある。だからたとえば、部下育成なら、どのような状態(=レベル)にするかの記述が不可欠になる。若手営業担当が部下なら、独力で顧客訪問ができる、独力で顧客ニーズ把握ができる、独力で提案ができるレベル、といった書き分けということだ。  では、目標として、「コミュニケーションのよい状態」というゴール設定はありうるか。  まず、コミュニケーションの良い状態とはなにか。それが特定できなければならない。口数の多い組織、一体感ある組織、和気藹々組織、阿吽の呼吸組織、、等々とあいまいではあるができなくはないかもしれない。しかしそもそもの問題は、コミュニケーションとは、「手段であって目的ではない」ということだ。だから、この目標は成立しない。コミュニケーションもまた、目的と手段が混同され使われがちな言葉である。  人事部の方々から、社内のコミュニケーションを良くする研修をしたいとの御要請をいただくことがある。しかし、コミュニケーションは手段であるから、大事なことは、コミュニケーションをよくすることで解決しなければならない組織課題はなにか、ということである。その課題の内容により、どの種のコミュニケーション機能をつかうか、あるいは、誰に、どのようなコミュンケ―ションスキルを身につけさせるかは変わってくるし、もしかすると解決手段はコミュニケーションではないのかもしれない。  手段としてのコミュニケーションには、明確なさまざまな機能がある。相互理解や伝達、意思疎通、共感形成といった情報の交換・交流だけではなく、行動促進や交渉、さらには情報の創造という機能もある。創出的なディスカッションはよく経験することだし、コミュニケーションするなかで意味が生まれることもある。そのためのスキルを教えることもできる。統合した会社のビジョン作成セッションや風土改革には、複数のコミュニケーション機能を組み活用したりする。  そうしたコミュニケーションのどの機能を使って、あるいはスキルを磨いて、どのような組織状態を実現するのか。組織のコミュニケーション課題とはつまり、「For Communication」ではなく「By Communication」なのである。

「管理」という誤訳 | その他

「管理」という誤訳

 Managementを「管理」と訳すからいけないのである。  マネジメントは「経営」であって、管理ではない。だから、マネジャーは管理職ではなく、経営職である。そのことは、多くの人が分かっているけれども、言葉のもつ力は強い。「管理」というラベルがついているために、ついつい、課長という管理職者は課の経営ではなく、まず管理をしてしまう。役所のような手続きに気を配り、木を見て森を見ないようなマネジメントをしてしまったりする。  だから、管理職階層の名称を経営職層としている会社は正しい。正しいラベルをつけておけば、ときに人事部の方々から管理職研修で要請される「管理職は、非管理職のプレーヤーとはちがい、経営サイドの一員であることを分からせてほしい」といったこともなくなるだろう。名は体を表すのだから、その名称は極めて重要である。  誤訳の最たるものが、「目標管理」ではないか。目標管理がドラッカーの言ったMBO(Management by objectives)の翻訳だとしたら、この誤訳の弊害は甚大である。まず、目標管理という言葉は、「目標を管理する」と読める。部下たちの目標を管理することを目的化してしまい、目標の設定と達成度の把握だけに注力してしまったりする。  原語を知っていれば、逐語的に訳して、「目標による管理」と理解する。これは幾分ましではあるけれども、まだ組織目標を分解して達成を図るという組織のオペレーションや個々人の業務管理のニュアンスに留まる。「目標による経営」と言ってはじめて、マネジャーが部門経営の意思と責任をもって、組織成果と人材活用の最大化をめざし、人々の目標という“ツール”を工夫凝らして駆使することになる。  もちろん、ラベルはどうあれ、そうした含意を理解していればいいだけのことだから、マネジャー昇格時にきっちり教えておけばいい。ただ、繰り返しリマインドしないと、管理という言葉のパワー(言霊?)に侵されかねないから、評価者研修や管理職研修では、目標管理(MBO)の意味を必ず強調し再確認することをお勧めする。  ついでにいえば、そもそもドラッカーは「Management by objectives and self-control」と言った。目標を設定し、自律的な業務遂行を促すということである。いちいち指示しなくても、部下が自分でやるべきことをやっていく、そういうマネジメントのことである。つまりそれにより、マネジャーが楽にならなければならない。  ともすれば、管理的な観点で正しい目標設定に腐心するあまり、目標管理制度の運用で多大な時間と労力がかかったりする。それでも、それにより部下が自律的主体的に動いてくれればいいわけだから、そうした目標たりえているかが一番問うべきポイントだろう。あるいは、決め事やルールに縛られないマネジャーの裁量性と説明責任による目標管理制度の自在な運用が、もっとさまざまに、あってもいいのではないか。  Manageとは、意思をもって、いろいろ工夫して、やりとげる――をもともとの語義とするのだから。

1人7役 | その他

1人7役

 中間管理職は忙しい。  プレイングマネジャーとして、必死に目標達成に邁進する一方で、経営者から「環境が変化しているから、今までのやり方を続けるだけではだめだ。みずから変革をリードしろ」といわれ、絶対に不祥事は起すなとコンプライアンスの徹底とリスク管理を厳命され、さらには、メンタルイッシューに気配りせよ、ダメな部下だろうがくれぐれもパワハラに注意せよ、と要求は増えるばかりだ。  加えて、次世代リーダーが育っていないと気付いたせいか、近年は、「当社は、管理職者の人材育成力が十分でない。人という経営資源を責任もって育てられるようにそのスキルを高めてくれ」といった、経営からの指示がよく人事部門に出たりする。たしかに管理職者の役割は、教科書的にいえば自組織の目標達成と人材育成ではあるけれども、中長期的な育成マインドと人材育成スキルをにわかに高めることは容易ではない。育成が大事なことと痛感しつつも、マネジャーの負荷感は高まるばかりだろう。  たとえば、「キャリア面談」というものが増えてきた。単年度の人材育成という意味では、期首に目標や課題を握り、期中指導し、きちんと人事評価をして、部下の成長課題を含めてフィードバック面談をするといったサイクルが回されているが、それとは別に、中長期の成長の意思確認と指導を明示的にするというものだ。若年層に対しては、リテンション、中堅社員に対しては“複線化”等の進路選択、50歳前後の社員は役職定年や雇用延長のレディネスといった狙いのキャリアマネジメント施策である。  つまり、マネジャーはキャリアカウンセラーの役割も要請されるのだ。「自分のキャリアは自分で決めろ、そんなことまでできるか」という管理職者の声が聞こえてきそうだな、と思っていたら、米国の人材マネジメントの本を見て驚いた。そこには、マネジャーが果たすべき7つの役割としてこうあった。 1. コミュニケーター ・部下と公式および非公式な話し合いを持つ ・部下の本当の悩みに耳を傾け、理解する 2.カウンセラー ・部下がキャリアに関連するスキル、興味、価値観を明確化できるよう援助する ・部下がさまざまなキャリアの選択肢を探せるように援助する ・部下がそれらの選択肢がそれぞれ適切かどうか評価できるよう助ける ・部下がキャリア目標を達成するための行動計画を立てられるよう援助する 3. 評価者 (略) 4. コーチ ・具体的な職務に関連するスキルや専門的スキルを教える ・部下の効率的な働きを促す ・向上のための行動を具体的に提案する 5. アドバイザー ・組織の成長に関する非公式および公式な現実を部下に伝える ・部下のためになりそうな訓練機会を提案する ・キャリア発達のための適切な戦略を提案する 6. 仲介者 ・部下を、キャリアの面で互いに助け合うことができそうな人材に引き合わせる ・部下が適切な教育または雇用機会にめぐり合えるよう援助する ・部下が外部の機関の援助を受けられるように橋渡しし、支援する ・紹介した機関が有効に作用しているかどうか追跡調査する 7. 擁護者 ・経営面での改善策がうまくいかなかった場合、別の戦略を部下と一緒に考える ・代表者として、部下の心配事を経営幹部に伝え、具体的な改善策が取れるように働きかける  仲介者や擁護者の記述には笑ってしまうけれども、数の多さに驚きながらも総じてうなずける役割の整理ではある。7役に書き連ねられると辟易するマネジャーもいるだろうが、人材育成やキャリア支援という意味では、多様な役割が求められるのは事実だろう。問題は、それ以外の、自部門の戦略や業務や不測の事態に応じたたくさんのマネジメントの仕事に加えて、こうした役割を果たさねばならないという負荷である。  中間管理職は組織の要であり、その機能発揮が経営を支える。ゆえに役割と責任の拡大とは仕方がないのだとしたら、まず「武器」を与えるべきではないか。たとえば、ICTによるタレントマネジメントシステムは、その観点から設計されるべきであり、武器のひとつとして、早々にマネジャーの手元に配備されることを期待したい。

ネガティブフィードバック | その他

ネガティブフィードバック

 聞きなれない言葉だが、厳しい評価結果をきちんと伝えることの意味で、そのための面談スキルを教えたい、という御要請が増えている。  そうした面談のテクニックとしては、座る位置は対面でなく斜め、必ず先に席についていてイニシアティブをとる、ねぎらいやほめることから始めるとか、相手の心理フェイズの移行に即した心理学的コミュニケーションのワザとか、いくつかはあるものの、コトの本質は「勝負は、面談前についている」であって、日常のマネジメントがダメであれば、面談の場面だけでどんなスキルを発揮しても効果は望めない。  ネガティブフィードバックとは、LP(ローパフォーマ)に対して、まず前段で低い評価を伝え、処遇が悪くなることを伝え、理解させることである。そのうえで後段、今後の改善に向け、動機付け、アドバイスし、方針を合意することである。日常の指導が不十分であまりコミュニケーションもなく面談に臨んだら、まずは、この前段で紛糾する。つまり、イエローカード出されていないのに、いきなりレッドカード。本人うすうすわかっていたとしても、そこはマネジメント批判という武器を得て反撃に転じる。  多くのマネジャーは、ともすれば、HP(ハイパフォーマ)やAP(アベレージパフォーマ)とのコミュニケーションには時間をとっている反面、見切っているし気分も乗らないからかLPとはほとんどその時間をとっていない。本来は逆で、HPは放っておいてもやるのだから、LPとこそ時間をかけ指導しなければならない。LP指導にある程度の時間をかける効用は、第一に、「見られている、気に掛けられている」という本人認識、第二に問題行動に対するその時点での指摘=イエローカード提示、のふたつ。  こうした日常のマネジメントが留意されれば、心理学も駆使した面談テクニックを使うことで、悪い評価に「納得」はさせられないまでも「理解」はさせられる。自己評価が高いLPは、悪い評価はなにがあっても納得しない。しかし、日常のコミュンケ―ション(=相互確認)を踏まえて、上司がそのように評価することを理解することは、ギリギリできるのである。さらに、自分を気に掛ける日常の態度から、改善を望む上司のスタンスをわかっているから、後段の会話にまでいたることができることがたいへん大きな効用だ。  だから、ネガティブフィードバックスキル研修では、面談テクニックも教えるけれども、日常のLPへの指導、そのコミュニケーションスキルの獲得がポイントになる。大事な日常の指導にこそ、コミュニケーションのワザが効くからだ。そして、もうひとつ必ず扱う内容は、LPを作り出させないための心得だ。単なる業務遂行能力の多寡だけが、パフォーマンスを分けるものではない。LP予備軍には、行動特性や性格、あるいは人間関係面での“LPになりそうなアラームが出ている状態”というものがある。  そうしたアラームをきちんと掴んで、個々人のLP化をどう阻止するか、ということである。すでにいるLP対策もさることながら、LPを生み出さないことこそがマネジメントの要諦だろう。それが本来、マネジャーとして業務と人の両面をマネジメントすることの役割であり、醍醐味のはずである。

マネージャーの意思に始まる | その他

マネージャーの意思に始まる

 誰でもが同じように評価でき、評価される側も納得感のある評価制度を設計することは難しい。  しくみを精緻に作りこもうとして、ともすれば複雑な計算式による評価が、どうも実態と離れた運用となり「評価のための評価」となってしまうことがある。あるいは、抽象度の高い評価項目に対して、基準が分からず曖昧でつけにくいと、現場の管理職者から文句がでたりもする。  いま主流になってきている絶対評価は、基準に即した評価ということだから、基準がはっきりしなければ始まらない。目標管理であれば、目標の達成水準が大事だし、能力評価や行動評価でも何をもって標準的か、標準より高いレベルか、低いレベルかを判断するか評価者を悩ませる。しかし、その答えを評価制度を作った人事部に求めるのは筋違いだろう。  目標の達成水準とは、管理者自身が「この部下には、ここまではやってほしい」と思うレベルである。さらに、ここまでいけば120%だし、この状態なら不十分で80%だと心づもる。「この部下には」、つまり等級や熟練度や給与に相応なレベルということも勘案して、である。その、自分が意思する達成水準を、期首に部下本人とにぎることがMBO(目標管理)の基本だろう。  能力や行動の評価も同じことだ。「この部下には、こういう行動をとって欲しい」という意思を、評価項目に即して具体的に描き、伝えておく。あとは、期中の具体行動をもって評価し、みづからつけた評点についての基準と根拠の説明責任を果たす。説明責任が果たせなければならないのは、もちろん、部下本人の納得感のためでもあるが、それ以上に経営に対する説明と宣言でもある。  目標にしろ能力や行動にしろ、評価運用時の「基準」とは、マネジメントの意思そのものだからだ。自部門では、誰に、何を、どのレベルでやらせることによって、組織目標を達成するという意思の表明である。そこは管理職者自身が、やりたいように自由に、裁量性をもって行えばいいのである。ただし、説明責任を果たせることを絶対条件として。  その意思が独りよがりでないかを確認をするのが、二次評価者の役割だし、意思する「基準」が他と比べてレベルがあっているかどうかは、一次評価者同士の評価会議で、目標達成水準や評価根拠の妥当性を相互検証すればいい。たとえば、いかに抽象的な能力評価項目であっても、この等級でこういった行動なら、「3」じゃなくて「2」だな、といった評価会議での検証・共有が蓄積していくことで、自社のリアルな評価基準が浸透していくことになる。  だから評価制度は、管理職者が意思を持って運用しやすいしくみであることが最重要な要件である。そして、評価者たちがみな、裁量性と説明責任を意識した評価運用をする。評価会議等を通じたその組織的実践が、各社固有の評価品質を高めていくはずである。  各社の人事部の方々を集めて評価セミナーをやることがある。そこではいつも、MBOで目標を立てるのは、上司か部下のいづれかを聞いてみる。すると、たいていは部下が立てる社の方が多い。もちろん、最終決定は上司なのだろうけれども、やはり、部下の目標は上司が設定することを原理原則にして、目標設定というマネジメント意思の表明を突きつけるべきではないか。