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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

行儀の悪いイノベーション | その他

行儀の悪いイノベーション

 研修のテーマを「イノベーション」としてくれ、と頼まれることが少なくない。階層別研修の実施をお手伝いしている場合など、すべての階層でイノベーションを扱いたい、とまで言われることがある。その背景には、新規事業開発といったことだけでなく、すべての事業、日々の仕事を通じて従来とは別の付加価値を出していかなければ生き残れないという経営者の切実な想いがある。  それまでのやり方に縛られずに新しい視点や方法をもって、サービスや製品や仕事の変革を実現するには、まず最初に「発想」が求められるから、さまざまな創造技法やHowではなくWhyを問う思考技法等々、先入観を排し既存の常識を疑う方法を研修で教えることは可能である。しかし、生み出された優れたアイディアや卓越した発想を企業内でカタチにしてくことこそがイノベーションの要諦であるとすれば、そこは、研修の範囲を大きく超えざるを得ない。  通常の組織はそもそもその構造からして、イノベーションが生まれる環境ではないからだ。付加価値創出が求められるとはいえ一方で、ベースとして生産性と効率の追求が組織の宿命であり、そのため企業組織は、制御と管理の構造=部門の壁とヒエラルキーからなる。そこでは、新しい発想=異質性はそもそも排除されがちであり、「イノベーションせよ」との社員へのメッセージは、ダブルバインドにもなりかねない。  そうした硬直性を打破すべく、組織をフラット化したりクロスファンクションを設定したりといった組織論的取り組みも出てきているから環境改善はすすんでいるものの、「旧パラダイム」は根強く暗黙知として組織に張り付いていて、人々の動きはいつの間にか縛られていたリする。  その背理を超えるヒントの一つは、「ネットワーキング」にある。中間管理職が主導したイノベーションの成功事例でよく知られるのは、自律的に生まれたイノベーションが全社的に波及するときには、必ずネットワーキング活動を伴っていることだ。そのプロジェクトを企てた人は、通常の権限経路やコミュニケーション経路をどこかで無視しながら、しかし経営陣の誰かのサポートをうけ、どこかでうまく資源を調達する。  会社内の(場合よっては社外の)人的ネットワークを駆使し、必要な人に接触する。ネットワーク論でいう「弱連結」ネットワークを軽やかに組み、活用することを通じて、通常の予算経路以外の費用調達をしたり、闇研究で地下に潜行したり、必要な人材を引っ張ったりとか、ある意味で行儀の悪いリーダーシップがイノベーションを実現しているのだ。なにより、その行儀の悪さを許容するトップの存在が大きい。  全社員にイノベーションの喚起を要請するある社長は、管理職に対して、「君たちのアタマからはもはや新しい発想が生まれない。若い世代の新しい発想の芽を、注意深く見出し、なにより潰すことなく、育て活かすことが、君たちの役割だ」と言った。新しい発想は、新しい人材から生まれる。まずは、異質性の重視、とんがった人材の温存がイノベーションの大前提ということだ。加えて、それをカタチにしていこうとするやみくもなリーダーシップ行動を促進することが必要だとすれば、トップは腹をくくって、その行儀の悪さに目をつぶり、ときにインフォーマルな支援をするといった鷹揚な態度が求められるのだろう。  では、もっとも大事な、必死でイノベーションを実現しようする個々人のやみくもな意志、強烈な目的志向は、いかにして喚起できるか。それには、まず会社や事業が社会に対して新たな価値を提供しようとする経営の想いが、ひたひたと社内に浸透し、人々をエンゲージする場ができていなければならない。つまりはそれも、そうした場を作り出すトップの本気の姿勢と「志」の問題なのである。

宴席の闘い | その他

宴席の闘い

呑めないムキにはしんどいが、酒好きには愉しい、宴席続きの季節がやってきた。 酒を“酒として”愉しむようになったのは、40歳を超えてからだ。今思うと、20代のころは、間違いなく酒自体を味わってはいなかった。人と酒を飲む状況がただ面白かっただけである。他愛ない話で盛りあがり、笑い、たまに泣きや怒りがあるも結局は酔っぱらって沈没する馬鹿馬鹿しさが楽しかった。 そんななんでもありの酒宴でも、一つだけ許せないふるまいがあった。「まあまあ、ほらあけて」などと言いながら、無理やり酒を注ぐ輩である。概して酒が弱いメンツがターゲットになったりするから、そこに会社の上下関係があれば、ある種のパワハラである。こうした不快な輩に対しては、ゲリラ戦を仕掛けることにしていた。 注がれた酒を飲むふりをしつつすきを見て脇の植木にでも飲ましてやって、グラスを空ける。すかさず注がれれば、「礼儀として直ちに注ぎ返す」を繰り返して、その当人を泥酔させ潰して差し上げるのである。えてして、宴席パワハラ男は、酒に強いことだけがよりどころなので、ギブアップさせたところで「え、もう飲めないの? まだまだ、これからじゃない」などと言ってあげれば、もう二度と誘ってこなくなるのだった。 こんな禁じ手は別にしても、文字通り勝負というような宴席もある。たとえば、商談中の顧客との飲みの場だ。かつて同僚だった営業部長は、商談の最終局面でかならず宴席を設けた。彼の目的は、接待の場で成約を促すべく歓待すること、ではまったくない。表面的には「接待」をきわめつつ、見事な運びをもって相手が酔い潰れるまで飲ませ、介抱し、ともすれば家まで送り届けることであった。男同士の間では、たかが酒、されど酒である。「どちらがえらいかをわからせてあげればいいんだよ」と彼はいつも嘯いていた。 こうしたわかりやすい勝負ではない、孤独な闘いもあることをあるときに知った。それは、30代のころ在籍していた会社の同僚10人くらいで飲んでいたある時のことだった。なみなみ注がれたビールグラスにいつまでたっても口をつけない男がいたので、聞いてみた。 「あれ? 飲んでないけど酒だめだったんだ?」 「何言ってんの、大好きだよ。だって注いでくれないから」 あ、ごめんごめんと、注ごうとすると、まだ入っているから言って、口をつけようともしない。このやり取りが何回か繰り返されて、彼は、あきらかに一滴も飲まないまま宴席は終わったのだった。もう一回、また別の男で同じ光景があった。言い方は別だったが、本人は酒好きといいながら、実際には一切口にしないという点は、まったく同じだった。そして、この二人には、見事な共通性があったのである。 ふたりとも、詐欺師だったのだ。一人は、結婚詐欺、もう一人は金銭詐欺、ともに詐欺常習犯だった。実は、一人目の男の詐欺が露見して何年かあとに、もう一人の「飲まない男」に出会ったので、もしやと思って調べてみたら案の定で、結果、被害には合わずに済んだのだった。人を評価する、まったく新しい判断基準(かもしれないもの)をこの時知った。 嘘をナリワイとする人たちにとっては、なるほど酒は厳禁だろう。少しでも酔ってしまえば、組み上げた虚構の一角を不覚にも崩してしまうかもしれないからだ。であれば、「自分は酒が飲めない体質」といえばよいのに、そこをまた嘘のやりとりというきわどい闘いを挑んでしまうのが、さすが詐欺師の本能と感服したのだった。

組織の病理 | その他

組織の病理

 仕事はすごく面白いのに、会社が嫌で嫌でたまらない。なぜか、そんな愚痴を聞くことが多い。民間企業から公益法人まで所属は様々で、また年齢も異なる複数の知人たちが口を揃えるから、経験やキャリアの違いに帰着させられないことなのだろう。何がそんなに嫌かと聞けば、状況は異なるものの要は人間関係が耐えられないという。  まず多いのは、上司の問題。感情的、場当たり的、パワハラ的、ただのヒラメ、あるいは、とにかく無能。と表現は様々なれど、言っていることは一つだ。まず自分で判断をしない、また判断したとしても間違った判断をする。組織視点からの判断業務をするのが管理職だから、つまりは管理職としての役割を果たしていない。加えてなによりも、それで仕事上支障があるからたまらないというのだ。  ユーザーや顧客にサービスを提供するなかで、やりがいや使命感、手ごたえを得て、自分は仕事をしている(=だから仕事は面白い)のに、ダメな上司との不毛なやり取りがその邪魔をする(=だから会社は嫌だ)。あるべき問題意識や意義、責任感が共有されない上司(あるいは同僚、部下)とのやりとりに辟易し、それが、せっかくやりがいのある仕事そのものを棄損するようにすら感じさせるのである。  サービスや事業の目的は、ユーザーや顧客やあるいは社会に対して役に立つことである。民間企業ならそれによって収益を得、公益法人なら役立つこと自体が存在理由である。だから、上司や同僚がそもそも論を逸脱して平然とおかしな判断や判断停止をすると、「おめえら、なんのための仕事かわかってんのか!」とさけびたくなる。仕事に真摯に向かい合っているからこその、上司その他へのいらだちともいえるのだろう。  ひとりの人間という能力限界を超えて、より大きな働きかけを社会に対してなすために「組織」は生まれた。機能として分業し、統制することで組織力は高まるはずなのに、同時に、異なる志向や想いや価値観をもつ人間の集団ゆえの軋轢もあわせもつ。それが、組織目的、つまりなんのための仕事か、ということに関わる齟齬であればあるほど、モチベーション低下や場合によってはメンタル失調に結果するのではないか。  もしかすると、事業や仕事の目的を意識するかしないか、の違いは結局、就労価値観の違いに帰着するのかもしれない。自分の時間を売って生活費を稼ぐのか、やりがいのある面白い仕事をしたいのか。手段としての労働と目的としての労働の違いである。価値観はそれぞれだから、どちらが良いということもない。ゆえに、その混在から起こる組織の病理なのだとしたら、いかんともしがたい。せいぜいが、ビジョンや理念の徹底した組織浸透、バリュー評価の活用による行動制御により、最低限の管理職役割として「何のための仕事か」との反芻を判断や業務指示の原理にせよと教え込むことぐらいしかできないだろう。  かくて、このような愚痴に対しては、こう答えることにしている。仕事が楽しいのに組織が嫌になる、ではなくて、嫌なことがあるからこそ仕事の楽しさが一層輝くんじゃないの。それがコインの裏表のようにいつもセットなっていて味わえるのだから、幸せだよねー。その人たちには、決して味わえない労働の快楽なんだから。

CSRの効用 | その他

CSRの効用

 そういえば、メセナという言葉はとんと聞かなくなった。企業の社会貢献が騒がれた時代、メセナ、メセナと騒がれ、採用面接に臨む学生たちがこぞって「御社のメセナ活動は~~~」といった質問を用意したのは、1990年代のこと。同じく社会貢献という意味では、フィランソロピーという言葉もあったが、メセナはとくに、文化・芸術活動支援を指すの一般的だった。  結局のところ、社会貢献活動としてはパトロネージや文化施設投資、あるいはスポンサードといった企業PR的印象にとどまり、バブル崩壊後の企業リストラクチャリングのなかで、いつしか影が薄くなっていったのだった。そもそも企業は、ステークフォルダーズとの関係のなかに存立するから、その社会性が厳しく問われる。文化支援という社会への利益還元も価値あることだが、それ以前に果たすべき社会的責任があるということを考えれば、メセナ偏重が下火になるのは当然ともいえる。  現在ではまさにその社会的責任が、企業の継続的発展(=サステナビリティ)の要件として取り沙汰され、CSRという言葉が定着している。地球環境ヘの配慮、遵法の徹底、企業倫理の維持、よき市民たる企業行動等々、があたりまえのように謳われ、宣言され、内部評価基準としても浸透してきた。ただこれらは、「守りのCSR」であり、それがなされたうえで、「攻めのCSR」こそがこれからは必要だとされている。  攻めのCSRとは、「本業を通じてのCSR」を意味する。ふつうに考えれば、社会的責任を果たすための活動(=守りのCSR)はコストである。フリードマンが批判したようなCSR=フィランソロピーとみての不要コストではなく、企業の存立と継続のための必要コストではあるが、コストであるかぎり利潤とトレードオフである。だからこそ、CSR投資が業績向上をもたらすか否か、といったあたかも広告費的投資とみるような議論がでてきたりもする。攻めのCSRとは、そうではなくて、企業が利潤をうる事業そのものが、社会に対して貢献しているということだ。  よく例に挙げられる住友化学のマラリア感染予防事業では、現地での雇用創出や教育による地域支援を行っていることもさることながら、その中心となる事業そのものがアフリカの人々の命を守る結果となっている。要は、攻めのCSRとは、事業を通じて、社会をよりよくすること(=社会革新)に関わる。もともと企業は、社会に対してなんらかの付加価値を提供して対価を得ているわけだから、社会革新につながる付加価値を創出せよ、ということである。  そこまですべての企業活動に要請すべきか、という議論はあるだろう。フリードマンならずとも、対株主の企業価値を追求するだけでも社会構成単位としての企業の役割は十分に果たしているといえるかもしれない。しかし、企業=人が働く場という観点からは、攻めのCSRへの挑戦は避けて通れないのではないか。  あらゆる業種業態でのAIの急速な実用化やRPA(=Robotic Process Automation)のインパクトは、労働の質を変える。「作業」は人の手をはなれ、高度な判断や思考や創造という「仕事」が労働者に問われる。それは、労働主体である人の側からすれば、役務としての労働ではなく、労働そのもの意義や意味、労働そのものの面白さのための労働という側面が強調されてくるはずだ。そうでなければ、やっていられないから。  そうしたシビアで創造的な仕事のやりがいの源泉はなにか。このコラムでも何度か書いてきたように、組織の構成員のモチベーションを高め、成果達成を促し、様々なアイディアややり方創出を喚起するものは、目の前の業務の「目的」である。つまり、組織の「目的」である。とすれば、社会をよりよくするために何をなし利潤をうるのか、という自社の事業アイデンティティが、自社の構成員を動機付け業務に邁進させる最大のドライバーとなるはずだからである。

沈黙のインタビュアー | その他

沈黙のインタビュアー

 若い頃、ビジネス誌の記者をやったことがある。日々、多種多様な企業関係者への取材、つまり話を聞くことが仕事だった。話すほうも誇らしいような出来事なら、気持ちの良いインタビューとなるわけだが、時には話したくないことを無理やり聞き出さなければならないことがある。  例えば、極秘に進めたい提携や買収の真偽や進捗、あるいは不祥事など、隠しておきたいことだからこそ、こちらとしては記事にしたい。でも当事者は絶対に口にしたくない。そこでさまざまなインタビューのワザが駆使されることになる。  Aという会社が、異業種のB社を買収しようとしているらしい。それを推察しうる情報はいろいろつかんだが、この段階で記事してしまってよいものか。確証がほしい。そのために、まずは、まったく関係のないテーマでA社の社長にインタビューを申し込む。もちろんそのテーマは同社にとって広報的にメリットあるものをしつらえるから、取材OKとなる。  さて、つつがなくインタビューが終了する。ありがとうございました、と言って、テープレコーダーのスイッチをカチッと切る。一呼吸おいて、世間話のように社長にこう投げかける。 「そういえば、B社の買収はもうすみました?」 「いや、まだ、だけど、、、」  さすがに社長はすぐ口をつぐんだけれども、しっかりと確認ができた。翌日には、買収スクープ記事が紙面をかざったのだった。  こうした「不意の問い」は常套手段で、業界トップが集うパーティがあれば、カメラマンを連れて潜入し、撮影のお願いをしながら、「英国X社との提携は調印された・・・」「Y社の株式はどれくらい取得され・・・」「例の係争について次はどんな・・・」などと囁いたりしたものだった。もちろん胸にはピンマイクを潜ませて。  しかし、この方法は騙し打ちめいた荒技で、さすがに行儀のよいものではない。やはり正攻法は、話したくないその問題を堂々と問い、答えを得ることである。その原理は、意外と単純なもので、ひたすら「WHY?」と問い続けるのだ。クレバーで論理的な人物ほど、これには弱い。真実を隠そうとして理屈に合わないことを言い続けるのは苦しくてできないのだ。  そして最大のポイントは、「WHY?」と問うたら、その後沈黙することである。聞かれたほうは、すぐに答えられない(=答えてはまずい)から一瞬黙る。それをこちらも黙ってじっと待つのだ。決して言葉を重ねたり、問いを言い変えてはいけない。ただただ黙って待つ。多くの人は沈黙が我慢できずに、なんらか口にしてしまう。その言葉に対して、さらに「WHY?」を問えばよいのだ。とくにこの「沈黙のインタビュアー」は、電話取材でパフォーマンスを最大限に発揮する。電話での沈黙に耐えられる人はまずいないからである。  たとえば、取材先から記事に関する抗議の電話がかかってきたとする。「なんだあの記事は!? 大迷惑だ!」との怒りの声に対して、何はともあれまずは、録音ON。丁重に聞きつつも「WHY?」と「沈黙」をフルに駆使する。なぜ、どのように、困るかを聞いていけば、おのずと、そこから新しい情報が聞き出せるのだ。しかも抗議だから言い募りがちで、沈黙という呼び水がひときわ効く。で、その情報をもとに、首尾よく、また記事にするといった具合である。  「WHY?」と問う有効性は、質問技法としてよく知られる。顧客との営業局面でも部下との評価面談で役立つものだ。加えて、沈黙のインタビュアーに扮すると、さらに効果的な場合もあるからワザとして覚えておいて損はない。ただその場合、注意すべきは、その人が今ここで「インタビューに応じる」あるいは「なにか話をする」ということ自体が、前提として合意されていなければならないということだ。  当たり前だが、電話セールスでいきなり架電してきた側が、「え、ご興味ない? なぜですか?」とかいって沈黙してたら、ただちに電話切られるに決まっている。忙しい上司を捕まえて、何かを聞き出そうとするときも、もちろん、やめたほうがいい。

業務指示の極意 | 人材開発

業務指示の極意

 部下に業務を分担しアウトプットを出させる。期待通りの品質の成果を適正な時間で出させるためには、的確な業務指示が必要である。そのポイントは、単に、正しい業務の進め方や技法を教えるということではない。いちばん大事なことは、「業務の目的」を伝えることだ。その業務は、なんのためにあるか、を理解させる。目の前の小さな業務が、組織として何につながるか。ひいては、会社にとってどんな意味があるか、をわからせる。  目的(=purpose)とは、「意味」や「意義」である。その具体的な成果指標が、目標(=objective)である。それらを伝えたうえで、あとは、有名なSL理論(=Situational Leadership)を思い出して、部下の経験や能力レベルに合わせて、概要指示から詳細指示の幅のなかで的確な説明を行えばいい。業務遂行では、不測の事態も起こるかもしれないが、「意味」が分かっていれば、ある程度の応用もできるし、何をやるべきか、何をやってはいけないかも想像がつくものである。  個別業務指示の集積であるOJTは、もっとも有効な人材育成手法である反面、その属人性が課題とされる。つまり、上司である管理職者によって、教える内容が異なるということだ。業務の方法や技術が人によって異なる点は、階層別の必要技能を組織として整理し可視化し共有することやOff-JTを組み合わせることで解消できる。 階層別研修のようなOff-JTではなく、もっと短サイクルでOJTを補完する研修、かつて小池和夫さんが造語した「ショート・インサーティッドOff-JT」によって、経験を裏付け、技能を体系化するといったやり方である。  問題なのは、目的、つまり意味付け自体が上司によって異なってしまうことのほうである。そうならないためには、企業目的から各組織目的への展開が、管理職者のなかで胎落ちしていなければならない。その意味でのリーダーシップの連鎖がなされるような、管理職層育成が恒常的になされていることが、的確な業務指示の前提になるのだ。  さらに、人材育成の最前線である業務指示には、実はもう一つの意味付けが不可欠である。業務を行う部下本人にとっての「意味」である。会社や経営にとっての意味や意義を意識できたとしても、最終的には、自分のためになるという動機付けがなければ、人は未知なるものに挑戦的に臨めない。自分にとっての意味を自覚したとき人は変わる。かならず、その業務をいま自分が経験することが次の成長へのステップであり、将来のキャリアにいかにつながるか、をわからせなければならないのである。  それがなされるためには、やはり、管理職者自身が自身の経験を踏まえたキャリアの意味付けができていなければならないし、自社が求める人材像や人材育成の方針と仕組みを理解していなければならない。結局のところ、業務指示に始まる人材育成では「会社にとって」と「自分にとって」のふたつの意味を語ることが方法論としての大原則であり、そのためにはまず、管理職者自身に対する意識付けが徹底される必要があるということだ。  ゆえに、初級管理職者に対する「業務指示/OJTスキル研修」とは、部下に対する業務指示の要諦である意味付けを方法として学ぶとともに、「意味を語りうるマネジャー」育成こそを、ヒドゥンアジェンダとしているのである。

惨劇のプレゼン | 人材開発

惨劇のプレゼン

 社会に出てからやってきた仕事は、分野は異なるものの、いずれも顧客に企画提案して受注を獲得するというタイプだった。ゆえに、数えきれないほどのプレゼンテーションの場に身を置いてきた。何回かは、会心の成功を収めたことはあるものの、その何倍もの失敗があり、なかでも惨憺たる状況として今も忘れられないいくつかの事件がある。  まずは、あまりにもばかばかしいミスである社名の間違い。社長以下役員が揃うプレゼンの場で、配られた分厚い提案書の表紙を見たとたんに社長が席を立ち役員を引き連れ、なにも言わずに部屋を出ていったのだった。一瞬呆然としつつ、瞬時に悟り顔面蒼白の企画担当者。その後の顧客側担当者を含む提案チームがどのような惨劇となったかはいうまでもない。  あるビール会社の社長に向けたプレゼンでは、プレゼンターがきわめつけの失言をした。出たばかりの、同社肝いりの新製品を「~~~といったキワモノを出されて、、、」と口にすると、間髪をいれず社長は席をけって仁王立ちになると「失敬な! 出ていけ」と怒鳴ったのだった。当然その商談はなくなったが、直後に社長室に駆けつけ責任者として謝罪すると社長は、ふだんと変わらぬ調子で「立場上ああせざるを得ないだろ」とにやりと笑った。ああこの社長と仕事がしたい、と必死の思いで次の提案機会をなんとか得て、翌年は契約を得ることができたという後日談も忘れ難い。  とても現実とは思えない出来事もあった。成功者として名高い創業社長の二代目、代替わりしたばかりのまだ30歳代の若社長に向けての提案だった。プレゼンターが実直かつ口下手な男であったことも災いし、冗長な説明を聞かされている社長は、つまらなそうにぺらぺらと手元の提案書を先のほうまでめくっている。その光景にさらに焦り、説明自体がしどろもどろになっていく中で、なぜか社長は、提案書のステープルを外し、バラし始めたのだった。  と、そのバラされた提案書の一枚を熱心に折り始める。プレゼンターの悲壮な声がむなしく響く。しばらくして出来上がった紙飛行機を、社長はまったく無表情のままで、我々に向かって静かに投じたのである。かくて、ゆらりゆらりとプレゼン会場を蛇行して飛ぶ紙飛行機の光景は、当時の同僚たちの間でいまも語り継がれるシュールな伝説となった。  といった様々な惨劇がプレゼンテーションという儀式には生まれる。しかし、いちばんつらいのは、こうした、分かりやすい外形的なダメージではない。最大級の惨状は、内容的に切り捨てられることである。ともすればわかりにくくてその場にいる人たち全員は気づかないこともあるが、当人同士では勝負がついている。つまり、提案者が負けている。  例えばこんなことがあった。 企画提案というものは、一言でいえば、ニーズやゴールを実現するソリューションの妥当性と差別性を主張するものだが、そのポイントの一つは、前提となるニーズやゴールの設定。そこは「仮説」であるが、その仮説をどう組むかが勝負どころになる。的確な仮説とそのためのソリューションが合理的に整合し、かつ魅力的であることが勝てる提案の条件ということだ。  プレゼン後7人の評定者からそれぞれに質問があり、大過なく進んでいたなかで、それまで興味なさげにしていた責任者と思しき人物は、ただ一点、仮説そのものの妥当性に疑義を表明したのだった。ときに、ソリューションの魅力や差別性を強調したいがために、ニーズやゴールのレベルを少しだけ高く仮説することがある。この提案もそうで、そこだけを彼は突いてきたのだった。  じーっとこちらを見つめ、馬鹿にした嗤いを口元に浮かべた彼は「仮説が違えば、あとは瓦解しちゃうよねぇ」と言った。

関係の体系としての企業 | その他

関係の体系としての企業

 いつのころからか、「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われるようになった。情報つまり企業固有の知識・技術が経営資源であることは、昔から変わりはないが、それらは、ヒトに属するものだった。それを、情報という独立項目として外出ししたのは、ICTの進化により、情報の蓄積と活用がしくみとして可能になったからだろう。ナレッジマネジメントという概念もまた、そこに生まれている。  ナレッジマネジメントがすでにある情報・知識を管理し活用するだけだったら、情報をそのようなもうひとつの経営資源とみて、高度活用の術を追及すればいい。しかし、組織を情報知識体系とみるときの眼目は、「情報創造」にある。経営にとって、会社が存続し、また存立する価値を持ちうるためには、新しい情報や知識を創出し続けることの重要性が含意されている。  AIがヒトを超えるという事態が迫っているからには、もはやそうではなくなるかもしれないけれども、情報を創造する主体は、どこまで行っても、ヒトである(と信じたい)。とすれば、ナレッジマネジメントが本来的に機能するためには、「独自の情報・知識をどう管理するか」の対極にある、創造性の喚起に関わる二つの問題が議論されなければならないだろう。  一つは、個々人にどう創造させるか、である。創造のためのフレームワークの活用や創造技法をあるものの、人々の内発的な創造性開発研修といったものが存在しないように、創造をもたらす方法はテクニカルにはつかみがたい。人がある事象を、考えに考え抜いたその先に生まれるブレークスルーの理屈はわからないけれども、ただ、寝食忘れて考え抜くという情熱と持続力が要件になることは確かだろう。  それができるのは、その創造せねばならないことが、自分にとって大きな意味と意義があるからである。人は、目的の意味に共感するときにはじめて創造を可能にするといわれる。とすれば、従業員が創造するためには、その目的、事業的な意味とか社会に対してどのような価値を提供したいのか、といった会社や仕事の目的が共感でき、真剣にその達成を願えるものでなければならない。  会社は利潤追求装置である。自身の仕事で問われる創造性=新しい効果的な方法の創出、が会社の利潤拡大に大きなインパクトを持つことだけでも、やりがいはある。さらに、その利潤獲得のための事業そのものに意味と意義があれば、ヒトはその行為に大げさにいえば、“全存在かけて”投企するのではないか。  つまり、本業そのもののCSR性がそこに要請され、また、従業員がそれを体感できていることが大事になる。これが、一つ目の議論であり、それは自社のアイデンティティを問うことに至らざるを得ない。しかし一方で、そのアイデンティティは、全社一丸、固有の価値観を共有し、自社独自の情報資源を守り、再生産するための「自社の枠組み」として“閉じて”いてはならない。  これが、創造性を喚起するための、もうひとつの議論である。新しい発想は、他の発想との相互刺激によって、創出促進される。ヒトの発想行為では、相似性の追求や異質性と交換が有効ともいわれる。またそもそも現代社会では、新しい知識や技術はそれ単体としてよりも、他との連関性のなかで活用され、そこにさらなる知識・技術を生み出していく。  とすれば、自社内を越えた情報創造、たとえば他社の知識・技術をもつ人との情報連関と相互作用こそがブレークスルーの鍵かもしれないし、企業の壁をこえたCSRがそこに生まれるかもしれないのだ。そうした自在なやりとりには、堅固な“わが社アイデンティティ”は、邪魔でしかない。  つまり情報知識体系としての組織は、オープンシステムであることを要請する。さて、そのように情報が、その担い手であるヒトが、自在に交通する組織は、いかにして可能か。その組織論や戦略論、制度論や人材マネジメント論はおそらく、「個別企業の壁をどう超えるか」ではなく、「(社内外を通底する)関係の体系としての企業」という企業観から始めなければならないだろう。

桜の宴 | その他

桜の宴

 まだ寒さも続き桜の開花も遅々としていたころ、誘われて、屋形船での隅田川花見に行った。どんなグループかは知らないまま、30人ほどの宴席に加わった。三々五々と岸辺の集合場所に集う様を見ているときから、風体とオーラが普通でない方々ばかりと訝っていたが、あとで全員のあいさつを聞いて腑に落ちた。ほぼ全員が、詩人、歌人、俳人といった創作に携わる人々だったのである。  企業の方々と、あるいは仕事仲間たちとの日常の宴席と、大きく異なる点が興味深かった。たとえば、挨拶のコメントの妙。宴の冒頭、全員がひとことずつ自己紹介をしたのだが、そこには、揺蕩う美学と狼藉があった。ふだん耳にしない言葉や文脈がいちいち面白くて、アウェイの醍醐味を満喫したのだった。  あいさつの皮切りは、77歳の詩人。著名な彼は、詩と俳句と短歌を生涯生業としつつ、小説や戯曲、評論も手掛けることで知られる。満開ではない桜を「おぼおぼしているね」と評し、三分咲き、五分咲きこその風狂を語るさまが実に恰好いいものだった。続く各人の言葉もまた、控えめながら創作に携わる矜持を醸し出し、常ならぬこの場に彩を添えるようと腐心していた。  なにより、企業人たちとの日常の宴席とのいちばんの違いは、みなさん、たいそうおしゃれだったことである。ちょっとこぎれいといった体ではなくて、かなり個性的というか人目を惹く姿ぞろい。とくに、男たちの服装は異様で、しかし美しかった。いちいち詳述するのも野暮なので書かないけれども、一点共通しているのは、「靴」である。高齢の人たちも多かったけれども、みな例外なく、ただならぬこだわりを感じさせるブーツ系の靴で足元を固めていたのだった。 花見の宴席というイベント(=ハレの場)に臨むうえでの「表現者」としての姿勢だろうが、ファッショナブルな年寄りが集うさまはなんとも愉しい風景だった。ひるがえって思い起こすと、企業人の宴席の、服装のなんともつまらないことか。例えば、各所で年中行事のようになされ、場所取りばかりが課題となる花見の宴会。会社を終えてからの花見だからスーツ姿もやむなしかもしれないが、もっと自在に、見た目からして非日常を愉しんでもよいのではないか。 多様性のマネジメントが喧伝されるけれども、場に合わせてプレゼンスを変えるというような自身の多様性を仕掛けることも、ささやかにしてかつチャレンジングなダイバーシティである。大げさに言えば、多くの会社に根強い同質性カルチャーを変えていくとっかかりになるかもしれない。 いやいや、勤め人でいる間はそこまで服装に気遣わなくてもいい、定年退職後に「恰好いい年寄り」たるべく頑張りたい、というムキもあるかもしれない。しかし、そううまくはいかないのだ。ハレの場をどう愉しむか、ちょっと服装でエッジを効かせてみたい、といった工夫(=訓練)をバリバリの会社員時代にこそやっていなければ、定年後、ゴルフウェアまがいのカジュアルウェアにちょっと高そうなジャケット、足元は、アディダスのスニーカーといった姿にならざるを得ないのである。

後期高齢者のコンピテンシー | 人材開発

後期高齢者のコンピテンシー

 ある会社の「快挙」について書きたい。  先端技術領域を舞台に俊敏でフットワークよい事業展開で好業績を続けているその会社は、創業2代目社長が率いている。高い専門性を保持し、少数精鋭で迅速なビジネス展開を行ううえでは、自社独自の人事制度であるべきとの想いから、みずから制度設計の陣頭に立ち3年をかけて慎重な新制度導入を行ってきた。その要となるコンピテンシーの設計と検証には、全マネジャーを巻き込んで多大な時間をかけ、何度も試行し、このほど完成を見た。  そのようにつくられたから、自社固有のスペシャリティとマネジメントレベルを測るこのモノサシは、マネジャーたちが部下を測定し処遇し育成する道具としてしっかり定着していて、機会あって彼らとの宴席に連なった際に、呑みながらのくだけた会話のなかでもごくごく自然に「コンピテンシーベースの育成」が話される情景を目の当たりにしたものだった。  社内と事業パートナーに向けた今期の方針発表の場で、社長はこんなことを報告した。この会社は、専門性が極めて高い先端技術の最前線でビジネスするから、分化された領域にあわせたくさんの顧問を有している。顧問としてそれぞれの方と長い付き合いではあるが、その中の2人をこのほど社員として登用した、というのだ。一人は、72歳。もう一人は、84歳。3年契約ということなので、後者は87歳までの雇用である。  多くの企業が、60歳以降65歳までのシニア人材再雇用の方針と仕組みづくりに右往左往しているなかで、いきなり超シニアの雇用である。「労働法の範囲を超えているので、どんな契約にするか分からなくて、、、、とりあえず、パソコンとiPhoneと名刺を渡しました」と社長は笑った。  かなりの高齢者を採用する英断もさることながら、刮目するのは、冒頭にあげたような、社員のコンピテンシーを厳しく問い処遇し育成することに執念を燃やすこの会社が、この年齢の人物を採用したという事実。つまり、このお二人のコンピテンシーは、組織の構成員として必要なレベルだと判断したということだ。それが、高度に専門的で特殊な領域こその知見やスキルや人脈だから、年齢を超えて活用できるということかもしれないが、だとしてもここには、高齢=能力劣化=組織貢献不能、といった「常識」をひっくり返す痛快さがある。  そういえば以前、外資系のコンサルティング会社にいたときに、70歳代後半の営業マンを雇用していたことがある。経験した会社と立場で培われたせいか上品な営業スタイルが魅力的で、成約力も優れ、高いパフォーマンスをあげていた。年齢によらず劣化しないコンピテンシー、さらには、高年齢だからこそ高まるコンピテンシーもあるかもしれない。その追究もまた、各社各様の課題となっている雇用延長=シニア活用に必要なのではないか。  この会社には、ぜひ、雇用契約を更改していただき、90歳を超える社員の雇用への挑戦も見せてもらいたいと思う。

従業員満足はいらない | その他

従業員満足はいらない

 いつのころからか登場したES(Employee Satisfaction)調査というものには、やや違和感を感じる。かつては、従業員意識調査はモラールサーベイといった名称で従業員の職務責任意識や士気、結束力の高低をみる調査であり、軍隊アナロジーで経営が従業員に要請する状態として分かりやすいものだった。つまり、業務遂行にそれが影響する。しかし、「従業員満足」というと、それがストレートにパフォーマンス発揮に直結するようには思えないからだ。  すべてのステークフォルダーズとの関係を良好に持つことが企業の社会存立構造であり、その一環として対従業員関係の良好度合いをそれで測るというのは分かる。「ESなくして、CS(Customer Satisfaction)なし」ということも、まぁ理解できる。だが、従業員がその会社にいることに満足していることが、各人の仕事の成果を高め、また組織としての生産性を高めることに結果するのだろうか。  おそらく「衛生要因」であることは確かだろうが、はたして「動機づけ要因」たりえているかどうか。満足しているからといって、職務遂行レベルを向上させ、更なる成果発揮を目指そうという姿勢をもたらすとは限らない。賃金がたかく非金銭的報酬も魅力的で、会社の構成員であることに本当に満足しているからこそ、無理をせず、つまりリスクをおかさずほどほどに仕事をして、その状態を満喫しようとするかもしれない。問うべきは、満足度ではなく、モチベーションの高低とその誘因なのではないか。  さらにいえば、モチベーションが高ければいいというわけでもない。大事なことは、「パフォーマンスにつながるモチベーション」の度合である。もしかすると、誰よりも高いモチベーションで仕事に臨んでいるローパフォーマもいるかもしれないからだ。だから、こうしたサーベイでは、誰の満足度か、どのようなモチベーションか、を見極められる分析枠組みが不可欠であり、従業員全体の満足度の高低やその因子に一喜一憂する必要はない。  こうした観点ではやはり欧米企業はプラグマティックで、ある米国のコンサルティングファームが各国の複数企業で実施した調査は、極めて興味深いものだった。「Employment Branding」調査と銘打って、「会社を辞めないでいる理由」を、仕事の属性やさまざまな就労条件、人間関係など網羅的な項目で調べた。会社の枠を超えて、人々を引き付ける「雇用のブランド」とはなにか、を明らかにしようというものだった。ただ調査分析の対象にしたのは、各社のハイパフォーマたちだけだったのである。  大事なのは、高業績者が、会社にとどまり成果を上げつづける、そのモチベーション因子、満足因子であって、全従業員のそれではないということである。ハイパフォーマにとってのブランドを構成するものを知り、それを強化することができれば、彼らの確保が促進され、業績が向上する。それこそが、業績に資するESであるという合理的な割り切りが小気味よい。  ちなみに、このマルチクライアント調査の結果は、たいへん示唆的なものだったが、明らかになったブランド構成項目はここでは書けない。ただ一点、あまりにも当たり前の事情ともいえるが、ハイパフォーマたちを引き付けるブランディングの最大の因子はやはり、金銭やさまざまなベネフィットではなく、仕事の意義や意味に関するものだったことだけを付記しておきたい。

選抜育成の光と影 | 人材開発

選抜育成の光と影

 選抜されなかった人材のモチベーションダウンが心配だ。選抜育成プログラムをやるかどうかの逡巡として、かつてはよくこうした声を聞いた。一方的に選抜され、閉鎖的に運用されれば、そうした事態も確かにありうるだろうが、自発性をベースとしたノミネーションプロセスを念入りに組み、プログラムの主旨と受講機会を周知し、恒常的な教育施策としてしつらえれば、その危惧はあたらない。かくて多くの会社で、管理職や管理職前の層からの選抜者教育がなされるようになった。  選抜するということ自体はもはや問題にはならない。しかし、選抜者への育成方法にはまだまだ問題がある。たとえば、こうした育成プログラムは、やりよういかんによって、まったく正反対の結果になることがあるからだ。受講した優秀な人材が、さらに自己成長し会社のなかで成果を出していきたいと動機づけられたか、研修の徒労感と会社への諦観すらある冷めた心理状態となったか、という違い。つまり、受講後、エンゲイジされるか、されないか、という全く逆の結果である。  それを分けるのは、研修コンテンツの良し悪しだけではない。選抜プログラムにかける経営の意思や想い、つまり、人材育成の本気度が受講生や従業員たちに伝わるかどうかに大きく影響される。  選抜育成プログラムは6か月間で月一回づつの連続研修といった形式が多い。たいていは、経営リテラシーの先行教育で、毎回の学習を経て、最終日に経営陣に対してプレゼンテーションを行う。次期リーダー予備軍として育成しながら見極めるべく、研修だけではなくアセスメント的アプローチも加え、何らかの成績管理をする。各研修の事前事後に課題を課すなど負荷をかけるのも常套的だ。さて、こうしたプログラムをどう運用するか。  ある会社では、受講生をグループに分けグループごとに2人づつ役員をメンターとしてつけた。彼らは、時々は研修をオブザーブし、場合によっては担当グループのディスカッションに介入したり、全体に対してコメントしたりした。加えて、担当グループのメンバー個々人の事後課題評価を行う。つまり、採点してフィードバックコメントを書く。受講生の側からいえば、講師以外に2人のメンター役員のコメントを受け取る。最終のプレゼンのための施策立案の相談にものり、最終日は社長以下役員全員が各発表に対してコメントし、また役員同士で議論がおこり、長い時間を費やした。  ある会社では、初日に社長のメッセージがあるはずが、来れずに2回目の研修で、来れなかった弁解とともに挨拶された。その後、人事部主催者と担当講師により粛々と研修が進んだが、欠席者の多さが問題になり、事後課題の提出が遅れがちだった。最終日のプレゼンテーションには、社長以下全役員が参加したが、社長だけが短いコメントをするだけで、予定より早く終了した。優れた提案に対しては、プロジェクト化して推進することになっており、優秀施策案が1つ選ばれた。当該の受講生は研修以降熱心にプロジェクト遂行に臨んだが、盛り上がらずに立ち消えになった。  この2社の研修プログラム自体はよく似ていて、受講生の負荷も同様に高いものだった。業務繁忙のため、どちらも研修は土曜日に行われた。経営陣の参画度合いだけが異なっていたのである。  両極端な例をあげた。前者の場合、経営陣の負荷は半端なく高かったから、ここまでの参画はなかなかできない。通常は、この両者間の距離のどこかに、「経営陣参画度合」があるのだろう。ただ、どの程度までかかわるかという姿勢は、そのまま、次期リーダー育成への経営者の本気度を示してしまうと覚悟すべきだろう。