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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

企業の安楽死 | その他

企業の安楽死

 全ての企業が、ゴーイング・コンサーンであるべきなのか。  なくなった方がいいような反社会的な企業は論外としても、業績不振でどうあがいても立ちいかず瀕死の状態が長く続いている企業や、一時代を経てその役割を終えている企業もある。場合によっては、意志して企業をいったん終息させたほうがよいかもしれない。  そうした「企業の安楽死プログラム」を逆説的につくって、関わっていた企業組織論専門誌に掲載しようと思ったことがある。といってもそれは、容易ではない。企業は、ステークホルダーズに支えられた社会的存在だから、経営者の勝手にはできない。投資家や顧客に対する手立てはいろいろ考えられるものの、従業員の存在がある以上、会社がなくなって従業員がいきなり生活できなくなったら“安楽”とはいえない。  そんなことを夢想しては、経営学や組織論の論客と議論したけれどもどうもうまく方法論化できない。そんな奇をてらったプログラム仮説作成はあきらめようとしていたら、なんと、実業のほうが危機的状況を迎え、自分の会社の安楽死を検討せざるを得ない状況となったのだった。  状況はこうだ。20年くらい前、社員数200人売上100億円の会社がバブル崩壊後に、3分の1の規模に縮小。しかもバブル崩壊直前に分不相応に立派な自社ビルを建てていたため、その負債で半永久的に黒字化は不可能という羽目に陥っていた。瀕死の状態で会社を死守し、消耗戦のなかで金利を支払っていくことの展望のなさから、真剣に「安楽死」計画を練ることにした。  ベンチャー事業としての存在理由、いわば魂(=事業コンセプト)は捨てたくないし、仲間たちが路頭に迷ってしまっては、安楽死ではなく悲惨な会社の最期になってしまう。かくて、不良債権ごと会社を消滅させながら、事業と人を生きながらえさせる計画をたてたのだった。「社員全員雇用の条件をつけた、営業権譲渡」と「訴訟覚悟の会社清算の実行」というシナリオである。  そのためには、単年度黒字化が必須である。現状赤字であり、営業権は、事業展望とともに買い手がつくわけだから、その証としての単年度収益の確保は、絶対条件だった。あまり詳しくは書けないけれども、メインバンクとももろもろ謀りながら、アクロバティックではあるが、実態としての事業の黒字化を実現し、その発展としての事業計画をもって、いくつかの会社の経営陣に対しての“営業”を行った。  いま我々の研修事業で提供している「上級プレゼンテーション研修」のコンテンツであるところの“タフ・クエスッチョン”の最大級版を浴びせられる場面を何度も経験したなかで、ようやくある会社の社長が、買ってくれることになった。売却価格の妥当性は当事者としてはなんとも言えないものの、なにより全員雇用や訴訟案件としてのリスクも含んでまるごと受け入れたその社長の判断には、大胆にして思い切りのよい経営判断として感謝し感服をしたものだった。  しかもその会社にとって、購入した事業はもともとのその会社のドメイン範囲外のものだった。その会社の一員となって何か月かたったとき、社長に、なぜ買う気になったのかを聞くと、「知らない領域の事業だし、聞いても良くわからなかった。採算性も不確かだし。とくに、事業展開の今後の広がりは、何を言っているか意味不明。でも、君たちがそれを確信持っていろいろ語っているのが、なんか面白くてね、その構想自体にも興味が湧いたんだ」と笑った。  経営者の意思決定とは、教科書的な意思決定の常識とは全く別物なのだと、このとき知った。つまり、そこに有効な「企業の安楽死プログラム」を作り得たからではなくて、ある一人の、独自の経営意思と出会えたことによって、私のいた会社の安楽死は実現したのだった。

自分の可視化 | その他

自分の可視化

 行動を変えるには、まず自分を知らなければならない。だから、自身の行動や性格、思考のクセ、対人関係のスタイルなどを可視化するツールを、研修でよく活用する。  360度診断では、自分の行動が周囲の人たちからどう見られているかが分かる。パーソナリティ診断では、コミュニケーションや判断、好き嫌いの特徴やビジネス行動の得意不得意を知る。言動のスタイルを4分類して、自分がどのスタイルにあたり、他のスタイルの人たちとの接し方を学んだりするのは、コミュニケーションスキル研修の常套手段だ。  スタイル分類はいろいろな流派があるけれども、理論的出自は共通なのでスタイル名称は異なるものの意味していることがあまり変わらないから、一度知ると、結構共通言語的に使える。そのトラディショナルなものを初めて体験したときは、驚愕したものだった。  先にチェックリストに答えることで、自分が知らないうちにスタイル分けがされている。同じスタイルでグルーピングされて、演習をやるのだけれども、その振る舞いやアウトプットが、自分たちのスタイルを教えられた後で振り返ると、その特性をあまりにも如実に示していたからだった。  ちなみに私のグループは、例えば営業相手の顧客タイプでいえば、「結論から言え」、「世間話はいらない」、「余計な挨拶は不要」、「長々と理由は言うな」という“単刀直入すぐに決めたい”派。その特性は知らないまま、演習をするという仕掛けで、演習のお題は、(1)自分達を一言でいうと何か (2)自分たちの好きなもの とか他愛ない事柄を話し合って決めるといったものだった。  まず、われわれのグループは、いちばん早く演習が終わっている、というのが後で知る特徴のひとつ。他のたとえば“社交派”グループは声高にうるさく熱く議論をしているし、“親密派”は無駄話ばかりして時間超過といったわかりやすさ。さらにわがグループでは、(1)自分達を一言でいえば、「唯我独尊」だったし、(2)好きなものは「ドイツ製品」という見事にスタイル特性に符合するアウトプットだったのである。  こういった自分の特性の可視化は、それを知ることで、自覚的に行動を変えることができる。360度診断の結果から、なぜ周囲はそう感じているのかを考え、行動改善を図る。資質的にチームワークが苦手ならそういう自分を意識して行動する。スタイル特性を知れば、その活かし方、留意点を踏まえ、ビジネス行動を意図する、といった具合。  たいていはこんな風に行動に生かせるのだけれども、どうやら、自己認識ができても変えられない特性もありそうだということもわかってきた。それは、「対人感受性」。これが、低い人は、なかなか行動変容は難しい。そもそも感受しないのだから、気を付けようがないということもあるけれども、それ以前にその点に気を付けようという気にならないらしい。  あるとき、コミュニケーション不全者だけを集めた研修をしたことがある。2日間、手を変え品を変え対人行動のアセスメントを行い、厳しいフィードバックをした。多くは、以降の行動改善に結びついたけれども、もっとも重篤な受講者は変わらなかった。いわば、筋金入りの確信犯として、行動を変えようとしないのだった。  対人感受性が極度に低いから、対人問題そのものがその人にとっては存在しないのである。つまり、自分にとって、大きな問題ではない。自分の可視化に意味があるのは、それが、自身の問題認識に結びつく限りにおいてだろう。とすればまず、組織として他者とともに仕事し成果を上げていくことに必要な振る舞いは何か、その基本中の基本の問題意識の喚起から始めなければ、コミュニケーション不全の根絶はできないのかもしれない。 以上

マズローの罪 | その他

マズローの罪

 入社2年目や3年目社員の研修で決まって要請されることがある。それは、「初任配属が希望と違うかもしれないけれども、目の前の仕事を全力でやることが次のキャリアにつながる」というメッセージを伝えてほしいということだ。  現場の仕事が予想以上にしんどいとか上司と相性が悪くて評価されていないとかの状況に加え、同期の彼は希望通りの配属なのに自分は違う。やりたい仕事がやれていない、どうすれば今後、そうした「自分のやりたい仕事」つけるのか、といった想いを持つ若手社員が多いということである。    そもそも社会に出たばかりで、自分のやりたい仕事が明確であるのだろうか? 子供のころや学生時代に何かのきっかけや社会的問題意識から、明確な目指す職業ゴールを持つ人もいるだろうが、多くは、仕事経験の中で、向き不向きや自分は何を面白いと思うのかを“発見”していくのではないか。 まだほとんど仕事経験がないときの自分のやりたいことなど単なるイメージにすぎないのに、それにとらわれて迷ってしまう。ましてや、大学のキャリア教育で、自分の将来のキャリアをデザインしたりするから、自分がやるべきこと、やりたいことを言語化し、それにこだわってしまう。 自己実現の呪縛である。よく知られるマズローの欲求階層は、最上位に自己実現欲求を置く。この整理は、人はなぜ働くか、という問いの答としては明快ではあるけれども、実現するべき自己がまずあるかのような誤解もうむ。経験や関係のなかで、自己がアイデンティファイされていくという事情をともすれば見落としてしまう。  キャリアデザインでは、よく「やりたいこと」と「できること」を棚卸しし、その重なりが強みだ、と言ったりする。しかし、この二つは独立しているのではなくて、経験を経ての「できること」つまり能力の向上や広がりが、次の「やりたいこと」を生み出していくことのダイナミズムこそがキャリア発展の醍醐味である。  こうした若手社員研修では、目の前の仕事をただやるのではなくて、その意味(会社にとっての、社会にとっての、自分にとっての)を考え、全力を尽くすこと。そのことの意義を、具体的に気付かせることに腐心する。だから最初の配属がどうあれ、無能な上司であろうが、そこを成長の場にできるかどうかは本人次第と分からせる。  とはいっても、最初の配属先がその人の将来を決める、といった調査結果もある。そのときどんな上司につくかが、その後の進路を左右するようなクリティカルな経験といった面もあるかもしれない。社会に出たばかりの若者にとって、上司の影響力がきわめて大きいこともまた事実だろう。  できる管理職者だなぁと日ごろから思い、おそらく部下にとって良い上司と目されるあるメーカーの課長に、この、新入社員の自己実現呪縛の話をしたら、彼はきっぱりとこう言った。  「そんなこと簡単だよ。これが君のやりたい仕事だ、といって業務をわたせばいい」

発達不全 | その他

発達不全

 研修のなかで、参加者一人一人の行動を観察しアセスメントすることがある。そのときのポイントの一つは、グループで議論をしていて意見が対立したときに、別の観点を提示して、その停滞局面を打破し議論を前に進めるような発言をしているか、ということだ。  単に、同調したり、頑なに自説にこだわるのではなく、意見の違いを踏まえたうえでコミュニケーションの階梯を一段あげるような発言たりえてるか、に注目して観察をする。そこに、思考力やリーダーシップ、とくにコミュニケーションのスキルレベルを診ることができるからである。  グループディスカッション演習では、だいたいどのグループにもそうした役割を果たす人がいるものだが、ときに、そうした場面がまったく見られないことがある。そもそも意見の対立自体が起こらなくて、むしろ違いの表出を避けるかのようにグループの結論がまとまる。予定調和的な議論が展開され、正解というか優等生的な答がきちんとだされたといった印象。そんな会社が何社かあった。  それが事業特性から醸成されている社風なのかもしれないし、優秀な人たちならではの“研修だから”といった割り切った所作かもしれないけれども、そこには強い違和感を覚える。個々人は優秀でおそらく実務でも問題ないけれども、もしかするとこの集団は、「大人の仲間関係」ではないのではないか。つまり、違いを前提にして合意形成に至るというコミュニケーションレベルに至っていないのではないか。  成長過程で、集団におけるそうした振る舞いのベースが身に付くには、3段階の仲間意識の発達を経ると臨床心理学でいわれる。  子供は、小学生高学年くらいから、親の言うことよりも友達の言うことを重視するような仲間意識が現れる。その第一段階は、「ギャンググループ」と呼ばれ、そこでの一体感は、同一行動による。同じ格好や行動をするから、仲間だということである。つまりみんなでつるんで、悪さばかりしているからギャング。  第二段階は、「チャムグループ」。チャム(chum)とは、ぺちゃくちゃしゃべってばかりいることで、この年代の一体感は、言葉による確認になる。「昨日〇〇を見た」「私も見た見た」「あれかっこいいよね」「そうそう」と言葉でお互いが同じだと言い合う。ときに自分達だけの共通の言葉で、行動ではなく内面の類似性を確認する。これが中学生ぐらい。  高校生以上になると、本来の仲間という意味の「ピアグループ」となる。今までと違って、お互いの違いを認めたうえでの、仲間意識。チャムの段階だと、自分の言葉を否定されると自分を否定されたと受け取るけれども、そうではなくなる。つまり、議論ができるようになる。  大学生を対象にしたエンカウンターグループセラピーを実施しているカウンセラーに、「受験教育のなかで仲間関係を十分に経験せずに大学生になって、ギャングやチャムを楽しむ学生が増えている。より深刻な問題は大学生の病理現象の変化だ」と聞いたことがある。学生のノイローゼは、かつては“自分”に関するものだったが、いまはすべてが“対人関係”の悩み。「人と付き合えない」「女性と口がきけない」「沈黙が怖い」といった集団としての行動がうまくとれないといったものだ。  もしかすると、企業の中のコミュニケーションもチャムレベルにとどまっている場合もあるのかもしれない。そこでピアの議論などすると仲間関係がうまくいかない。だから大人の議論を避ける。もしかすると、メンタルイッシュ―もその発達不全に起因しているかもしれない。  大人のコミュニケーションとは、お互いが違うときに、少しずつ傷つけあって、第三の道を見出していくことだ。第三の道とは、交渉における合意点であるだけなく、今までにない考え方や方法でもある。だとしたらそれは、決められたことをきちんとやるのではなく、仕事のやり方の革新を生み出すために不可欠の、集団の振る舞いでもあるのではないか。  組織変革力が求められる状況下、それは社風やコミュニケーションのクセといって片づけられない、きわめて大きな問題なのかもしれない。

パンドラの箱 | その他

パンドラの箱

 メンタルヘルスの予防的施策の一つであるストレス診断は、個々の従業員の「心の健康診断」として役立つだけでなく、組織の病理を鮮烈に描出することができる。さまざまなストレス因子が個々人に影響する度合が診られるということは、それを全社的に分析すれば、部門ごとのストレス環境の状態がわかるということになる。  しかも鮮烈に、つまり、そこで検出される組織の問題は、実態的できわめて生々しい。組織診断と言えば、モラールサーベイや従業員満足度調査がよく使われるが、答える側の“警戒と配慮”や本人に自覚できている不満に限られるといった限界があるけれども、自身の健康を診る心理学的テストであるストレス診断では、よりプリミティブな回答が得られるからだ。  たとえば、「自尊心の毀損」という因子によるストレス状況にある従業員が多い部門とは、いったいどういう組織状況なのか。加えて、「リーダーとの関係」にも共通して起因しているとしたら、極めて問題あるリーダーシップが推測できる。また、「組織市民性の低さ」というストレス因子は、同僚が困っていても助けない、というチームワーク状況を示すから、そういう不健全な部門が特定できる。  長時間労働、キャリア展望、雇用条件、リーダーシップ、人間関係等々、多様で詳細なストレス因子をはかる診断ツールを使えば、怖いほど組織がどう病んでいるかが分かる。それは、そのままマネジメント問題としての病理であり、明快で鮮烈なだけに、開けたことを後悔するようなパンドラの箱でもある。  以前、6000人の全従業員でこの診断を使ったことがある。30の部ごとに組織状況の分析を行い、各部のストレス因子状態を部長にフィードバック。状態の悪い部から順次、原因の検討と改善施策を個別に強制し、指導し、実行していくという施策をとった。ストレスマネジメントは、モチベーションマネジメントと表裏であり、当然、業績にも影響するから、これはパフォーマンスマネジメントの施策にほかならない。実際、この会社では部ごとの分析結果と部業績との関係をまず検証している。  通常、メンタルヘルスの診断は、福利厚生担当の所轄だったり、健康管理の一環にとどまり、部門のマネジメント診断にまでは至らないけれども、組織診断としての活用がもっとされてもいいのではないか。それだけ経営施策としての効用が大きい。このケースでは、組織診断としての意義に着目した常務取締役が、むしろ個々人のストレス診断を副次的効用として、実施を決断したものだった。  ただし、この施策は劇薬である。組織のリーダーが突きつけられる結果の深刻さは、360度診断の比ではない。経営者が知ってしまったら、全社的な、踏み込んだ手を打たざるを得ない。  こうしたパンドラの箱を開けてみたいという勇気ある方は、ぜひご一報を。もっとも強烈な診断ツールをご紹介します。

自分の取扱説明書 | その他

自分の取扱説明書

雇用延長や役職定年を前にした人たちのモチベーション向上は難しい。権限と報酬を失うことによる意欲低下を凌駕するような動機付けがそう簡単にできるとは思えない。そうしたキャリア研修の御要請もあるけれども、限定的な効果でよければ、と但し書き付きで、やらせていただくようにしている。 かつての部下が上司となり、同じような仕事を大幅ダウンした報酬でやる限り、100%気持ちよく前向きに働け、ということに無理がある。使われる立場と割り切るから、少なくとも自分が気持ちよく働けるように使ってほしい。たとえば、そうした自分たちの使い方を提案するといった研修で、限定的な動機付けをしたりする。 以前、たいへんうまくいったけど、失敗した、という研修をやったことがある。役職定年直前の方々に対する2日間の研修で、自分たちで自分たちの貢献領域を考え会社に提案する、というものだった。まず、自分の知識やスキル、経験、人脈などを“リソース”として棚卸して、グループの中で各人のリソースをお互いに評価し、その使えるものをグループのリソースとする。 それを使ってグループで起業する計画を立て発表し、その出来栄えを競い合う、までが研修の前半。ゲームではあるが、大いに盛り上がりつつ発想が広がったところで、今度は、再度自分のリソースを検証して、自社の中でどんな貢献ができるかを企画し、会社への提案書を作成するという趣向である。真剣で熱のこもった、また、自身の経験を活かした貢献案がアウトプットされ、受講生の満足度も高いものとなった。 しかし失敗した、というのは、彼らの提案を会社として受け止めなかったからである。案を実際にやるかどうかの採否はともかく、会社として、一旦はきちんと検討するとすべきだったのに、研修の場限りのアウトプットという扱いだと、人事部事務局が研修の最後に宣言。とたん、一瞬にして、炎上。モチベーションは下がり、反発だけが残る結果になったのだった。 会社の対応スタンスさえはっきりさせておけば、「自分たちの新しい使いみちを、自分たちで考える」のは、効果的で元気の出る方策である。間違いなく、活発な議論になる。場合によっては、実際にシニア人材の職域開発につながることもある。あるいは、もっと単純に、自分たちをうまく使う方法を自分たちで整理させるだけでも十分、意義ある研修になる。 たとえば、自分は、こんな経験をしているから、この種の問題であれば応えられる。社内社外のこのことについて詳しい。この技術は教えられる。この部門には言うことをきかせられる。この点をほめると喜ぶ。ここに触れられるとキレる。。。といった自分の使い方を言語化しまとめるのである。 年下の上司や会社にとっては、扱いかたが一様でなく、難しいシニア人材であるからこそ、彼ら自身に「取扱説明書」をつくってもらえば間違いがない。本人の満足度も高く、会社としてアウトプットが現場で使える。限定的ながらも一石二鳥の研修として、推奨したい。

部長がヘンです | その他

部長がヘンです

管理職だけで1,100人もいる企業で、管理職ブラッシュアップ研修をしたことがある。 1グループ約50人で3日間の研修を20数回行うという大型施策だったが、全管理職への一斉研修は初めてということであり、本研修に先立つプレ研修でマインドセットを行うことにした。それも200人ずつ2週間連日で一気に行う企画だった。教育のテーマは「人を育てるリーダー」だったので、プレ研修はそれに先立つ触発を狙い、いろいろな事例を見たうえで、「自身のリーダーシップ論」を書くという事前課題の告知をする場と設定した。 リーダーシップの事例というと企業人でも著名な方々のエピソードが使われることが多いが、それではあまり刺激がない。ここでは、あえて無名の、しかも他社の管理職者を取り上げることにした。4社の4人の管理職者に対して、VTRインタビューを行い、彼らの人を育てるリーダーシップの持論を、個別具体的に語ってもらった。それを各5分ほどの映像に編集して投影しながら、講師が問題提起をするという趣向である。 人選と交渉を入念に行ったこともあり、4者4様、実に興味深い“日常の理論”を堪能することができた。このプレセッションは受講者の反響もよく、期待通りの刺激たりえたことが事後のアンケートにもおどろくほど饒舌に書かれていた。4人ともに触発的な話だったが、そのなかで、「部下管理は子育てと同じだ」との持論を持つエンターテイメント企業の開発部長(男性)の話が、ひときわ面白かった。 彼は、部下たちとのコミュニケーションの、自分なりの行動原理を語った。たとえば、部下に話があるときに、自室に呼ぶことはしない。必ず、部下の席に行って、そこで話す。その際には、立って座る部下を見下ろしながら話すとか、部下を立たせて話すとかではなく、近くのゴミ箱にでも腰を掛けて同じ目線で話をする。あるいは、仕事を与えたら、ある程度自分でできるようになるまで、決して具体的指示は与えない。ここぞというところで介入するといった、さまざまな“ワザ”をその理由とともに楽しそうに話してくれたのだった。 2週間のセッションが終わって、アンケートの好評さからも手ごたえはあったが、組合を通じて、現場の“異変”が人事部に伝えられた。それは、上司がプレ研修に出てから自分達に接する態度が変わったというものだった。なかでも、「部長が突然席まできて、ゴミ箱に腰かけて話かけてくるんですけど。。。」といった報告が複数あった。いったいどんな研修をやったのか、と組合は聞いてきたのだった。 これは、副次的な効果である。研修などをやるくらいで行動を変えるのは難しいといわれる。それでも、「なるほど」と自分が胎落ちするようなやり方であれば、素直に真似てみるということから、行動変容は始まるのだろう。しかし、やってみようという気にさせた原因は、その方法の納得感が高かったからだけではないのでないか。振り返ると映像のなかで持論を語る4人はそろって、いかにも楽しそうだった。そのことこそが、刺激だったのではないか。 人を育てることは、楽しい。そのノンバーバルなメッセージが映像から伝わったからこそ、共感を呼び行動を喚起したのだと思う。

暗黙知を引き出す | その他

暗黙知を引き出す

“子供の学習”と“大人の学習”は違う、という説がある。 それによれば、子供の学習は新しい知識を学ぶことだが、大人の学習は知識を整理し体系化することとされる。大人は、いろいろな経験をし、自覚的ではないかもしれないけれども知っていることも多い。その、自身のなかに散在する知識や経験を、意味づけ、体系化し、コトの原理がわかることで、再現化できるようになる。 つまり、経験を踏まえて自身としての方法論化ができるのが、大人の学習ということである。それこそが、企業研修(Off-JT)が大事である理由であり、そこでは学校の授業とは、まったく異なる教育手法が必要になる理由でもある。企業研修は通常、レクチャーにはほとんど時間を割かずに、ディスカッションや考えさせる演習に腐心する。それにより、自身の経験や知見を引き出し、多様な意見により相互に触発し、暗黙知を形式知化させていくことがその狙いである。 暗黙知を引き出すための一番のポイントは、「言葉にする」ことである。言葉にして伝えるために、あいまいな考えや印象的な経験を整理し、形にしなければならないからだ。それにより人に伝えられるし、自分で行動することもできる。 たとえば理念浸透のための教育では、各部門長がメンバーに対する行動指示のメッセージを具体的に作成する、といったことをする。企業理念や行動指針の項目ごとに、例えば、「地域社会への貢献」という項目に対して、個々の部下の担当業務に即して、「こういったことをしろ」、「これだけはするな」といった具体的な行動指示をつくらせる。その際に大事なことは、そのメッセージには、必ず自分の経験を盛り込むというルールを課すことである。 具体的行動を考えるにあたって、自分の体験や知見を振り返る。その上で、「こんな時はこうしろ、なぜなら自分もかつてこんなことがあって〜〜〜」といったメッセージを作成することで、誰でもないその上司だけの行動メッセージができあがる。 たとえば評価者研修で、部署別に能力評価やバリュー評価の項目ごとに行動例を皆で作成するセッションも効果的だ。あいまいで抽象度が高い評価項目でも、マネジャーたちが自身の経験に即して具体例を出し合い、そのレベル感を議論することで、実態的な行動と暗黙の基準が共有されていくという効果がある。 大人の学習とは、教えるのではなく、引き出すことである。管理職とはどうあるべきか、どう行動すべきか、というレクチャーに対しては「そんなことわかってるぜ」と斜に構えるマネジャーたちも、「あなたのマネジメントの持論を語ってくれ」というセッションをすれば、時間が足りなくなるぐらい白熱するものなのである。

もっとユニバーサルデザインを | その他

もっとユニバーサルデザインを

教育研修の世界では、米国海兵隊の訓練方法がよく取沙汰される。 映画「フルメタル・ジャケット」の異常に圧迫的な訓練光景イメージの裏側で、ロイヤリティやスキルを高める考え抜かれた方法があるからで、例えば、個人特性に応じたチームの編成の仕方を学ぶ研修で教えるメソドロジーを、米国海兵隊に借りたりする。 これは、戦争という極限状態のなかで生まれた組織論だからこそ、その実践性が高いということだが、テクノロジーの革新という点では、さらに戦争の“貢献”はよく知られている。いろいろな分野に応用されるIT技術や電子工学の高度利用はもちろんのこと、インターネットもたしか軍の内部コミュニケーションシステムとして生まれたと聞く。世の中からなくなってほしい戦争ではあるが、それが技術革新の契機であったことも事実だ。 同様にクリティカルな状況打破を目指す、もう一つの技術革新の契機が、ユニバーサルデザインの追及である。つまり、障がいのある方々の生活を支援する技術。かつて、Coup d’Etat(クーデター)ならぬCoup d’Tech(クーデテック)という、多くのIT会社が参画した運動があった。「障がい者の生活を革命せよ」と “技術へ一撃”いれて、新機能や新しい道具を生み出そうという動きであり、その後、実際にたくさんの支援機器や支援環境システムが生まれている。 ウォッシュレットやTVのリモコンの例を持ち出すまでもなく、また、「バリアフリー」ではなく「ユニバーサルデザイン」という言葉になったことにも象徴されるように、障がい者支援を契機に生まれた便利な道具を我々全員が享受している。戦争ではない、こうした技術革新こそ、Coup de Tecの思想の実践こそ、もっともっと進むべきだろう。 障がいある方々のために、ICTや先端技術を使った生活や仕事の道具はずいぶんとできてきているが、まだまだ十分でない。必要な人なら誰しもが、ホーキンズ博士並みの車いすが使えるようなローコスト化技術は生まれないものか。また、日常生活の不都合をなくすための道具はある程度あるものの、生活を楽しむ道具は、まったく足りないのではないか。 たとえば、失われた五感の補完や増幅、もっと言えば新しい感覚の創出に基づく、障がい者の方々にとってのエンターテイメントの世界といったものが、技術の粋を結集して切り開かれるべきではないか。それらは、高齢化社会のQOL(Quality of Life)を高めるだろうし、また、結果エンタテイメントの世界を拡充することになるだろう。 道具や環境整備だけが、技術革新ではない。ユニバーサルデザインとしての、組織論や組織管理技術、人材マネジメント技術もあるのではないか。たとえば、さまざまな障がいをもつ人々や超高齢者をメンバーとして前提した組織のマネジメントの技術。それはきっと、海兵隊のメソッドよりもう一段高度化されたダイバーシティ・マネジメントの方法となるはずである。

誰を昇格させるか | その他

誰を昇格させるか

昇格審査に関するご相談が増えている。 勝ち組を目指すための人材力強化の機運のなかで、やはり、まず第一の課題は次世代リーダー育成。それには、きちんとした計画的で合理的な昇格が必要ということだが、その背景には、「なぜ、彼が管理職なんだ!?」といった昇格の失敗経験も少なくない。名プレーヤーは必ずしも名マネジャーではない、といった話もよく聞かれる。 昇格の判断は、2段階で行われる。第1段階は、人事考課による昇格候補者の選定。評価項目は、資格等級ごとに決められた能力や行動の要件だから、その基準を満たしていれば、その等級は“卒業”ということになる。通常は、能力評価結果がその材料だ。業績評価結果も考慮されることもあるが、業績評価は本来、賞与に反映され単年度で報われるべきものだから、その材料にはしない方が合理的だ。 ここまでは、評価の制度と運用に問題なければOKだが、難しいのが次の第2段階。上位資格の役割を担えるかどうかの判断、いわば、“入学”の審査である。とくに管理職昇格で悩ましいのがここのところで、卒業要件満たした人のなかから、部門長推薦⇒筆記試験(&適性テスト、論文)⇒役員面接、といったよくあるプロセスでは、どうもうまくない。見極めなければいけないのは、マネジメントができるかどうか。しかし、その役割にないのだから、やったことがないからわからない。これを、筆記試験や役員面接で見極められるのか、という問題である。 そういった未経験状況における能力発揮可能性を測る方法として使われるのが、アセスメントセンター方式というアセスメントである。シミュレーション環境を用意して、その中で各人の意思決定や行動を評価するというもの。2日間の研修形式でじっくり見極めるか、センター方式のアセスメントツールを個別や組み合わせて使うなどで一定精度の診断ができる。 かくて、人事考課とアセスメントセンター方式によって、在籍資格の要件を満たし、かつ、管理職としてやれる可能性レベルがみれるから、昇格者選定の客観的材料ができるということになる。しかしこれは、スキルだけの話である。加えて、自社のコア人材たるマインドをどうみるか。それを診る意味で、役員面接や論文が機能するというわけである。 近年増えてきたのは、そこに、バリュー評価を考慮することだ。企業理念にもとづく行動こそが大事だから、どんなに能力やスキルが優れていても、バリュー評価に問題があれば、昇格させない、といった運用ルールの会社も少なくない。ちなみに、バリュー評価を賞与反映するようなケースもあり、自社のコア人材の要件は、能力やパフォーマンスだけではないというスタンスは根強い。 能力的にできそうかどうかが問われるけれども、能力発揮可能性だけあっても、姿勢や意欲・意思の面で問題あれば昇格には及ばないというわけである。大事なことは、一方で客観的にスキルを評価・測定したうえで、加えて自社固有の価値観や必要な姿勢を共有・体現している人材を見極めるということだ。役員や部門長が「あいつは“人物として”管理職をやらせても大丈夫だ。俺の眼に狂いはない」と、後者だけで選ぶことでは、昇格の失敗の根絶は難しい。

老人力を向上する | その他

老人力を向上する

昔見た映画の話をしていて「あの、ほら監督、誰だっけ、えーと、あれあれほら、あーもどかしい」などといった事態が頻出するようになるから、加齢は哀しい。しかし、こんな風に物忘れがひどくなってきたのは、「やっと老人力がついてきた」と喜ぶべきことなのだ。。。 少し前に赤瀬川原平さんの本で話題になった“老人力”は、逆説に満ちたポジティブシンキング処世術だけれども、たとえば、物忘れを、「忘れることができる能力」というと何やら含蓄深い気がする。豊富な情報あふれる社会では、情報を取捨選択する力こそ大事になるといったコトワリに通じる気配もあったりするからだ。 いずれは「死ぬまで働く」に至るだろう高齢者雇用が始まっている昨今、本当の老人力、つまり加齢により向上する能力はあるのだろうか。 年齢とともに、ほとんどの能力は下降するなかで、創造力だけは維持ないし向上する可能性があるとする説がある。よく知られるように、創造とは無から有を生みだすことではなく、関係のなかからの創出である。ようは、脳の中の編集作業だから、その素材=脳内情報や思考法=脳内バイパスの豊富さは、創造に資することになる。 だから、経験つんだ脳は創造力発揮の可能性があるということだが、それだけでは、創造には足りない。矛盾するようだが、一方で、固定観念や従来のパラダイムに縛られない発想ができなければならないとされる。その原動力となるのは、強烈な目的志向と貫徹の意思ではないか。ある目的を達成するために、なにがなんでも生み出さねばならないと、脳をスクィーズ(squeeze)したときに、飛躍が生まれるのだろう。 スクィーズしきるには気力がなければない。気力は、身体の元気さ=体力に依存するから、健康でなければならない。とすれば、シニア人材の動機付け=気力ブラッシュアップと、健康の維持増進という当たり前の高齢者対策にも、創造性発揮の可能性の前提として意味がある。 そのうえで、しかしいちばん大事なことは、その目の前の仕事の目的が、なにがなんでも達成すべきことと本人に思えることではないか。 人は、目的の意味に共感したときに、創造力を発揮する、と言われる。会社がシニア人材に期待する役割、達成してほしい目標の“企業としての本気度”と自身への胎落ち感こそが、彼らの創造性を刺激する。その観点もまた高齢者活用に必要なのではないか。 単に過去の経験や知識を活かすだけでない能力発揮、高齢者ならではの創造力の発揮=仕事や事業の新しいやりかたの創出、といった付加価値を求めるのであれば。

手口をばらす | その他

手口をばらす

ここ数年、多くの企業でコンプライアンス研修が行われている。労働時間やハラスメントといった組織問題から、公正取引や反社会勢力との関係など社外の問題まで遵法面で留意すべきことは増える一方で、大小さまざまな事件の発生は珍しくない。その対策として、意識づけと行動徹底を目的とする研修施策ということである。 こうした研修は、ともすれば、経営にとってのコンプライアンスの重要性と仕事における原理原則の再確認に終始しがちである。それは不可欠ではあるけれども、一方で、現場のリアリティへの肉薄がないとお題目の確認だけで実効性にかけることなる。 仕事によっては、例えば労働時間に関して、収益性とコンプライアンスのぎりぎりのせめぎ合いで日々のマネジメントがなされるような場合もあるからだ。経営意思として、研修の場で、どこまでつきつめるかを事前に決めたうえで、自社の現場のリアルなコンプライアンスを教えることがもっとも大事である。 教育の実効性を高めるためには、まず、自社で起こった事件の事例を詳細に開示をしたうえで、どのように対処すべきかを、自社の現場に即して学習する。なぜ、そうした問題がおこったか、どんなやり方がされたのか、なにをしてはいけないのか、を具体的に受講者自身が検討することで、“自社のコンプライアンス”が胎落ちするわけである。 何をしてはいけないか、が具体的わかればそれが、抑止効果となる。その意味では、さらに、過去のコンプライアンス違反事例の共有だけでなく、自社でありうる具体的可能性を洗い出すことができれば、抑止効果はより大きくなるはずだ。 たとえば、研修の中で、「露見しないコンプライアンス違反の手口」をできるだけたくさん考えるといったグループディスカッションはどうだろう。こうすればバレずに〇〇〇〇が△△△できる・・・と例示するのは差し控えるけれども、ここでアウトプットされるさまざまな実践可能性の公開と共有は、いかにも有効ではないか。 コンプライアンスの原理原則を教える箇所を教科書だとすれば、このセッションは、いわばそれと一対にすべき逆説的問題集である。人事のご担当とすれば実施するには差しさわりがあるかもしれないが、コンプライアンスの現場徹底の一法ではあると思う。