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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

キャリア研修2.0 | 人材開発

キャリア研修2.0

キャリア研修参加者の満足度は、対象年代を問わず、たいへん高い。 キャリア研修の中では、自分の過去のキャリアを棚卸し、成功や失敗の経験を通じて発揮されたあるいは獲得されたスキル、やりがいの源泉だったこと等を確認する。つまりは、自身の仕事上の価値観や行動の基準を知り、能力発揮のクセ=キャリアを重ねていく上での強み弱みを内省し腹落ちさせる。そうした「自己発見」のよろこびが、高い満足度をもたらす。 近年、リーダーシップ論で盛んに取りざたされるキーワードでいえば「自己認識力」を高める効用があるということだ。自己認識力(=セルフアウェアネス)には、内的自己認識と外的自己認識力の二つがあるといわれる。内的とは、自身の価値観や譲れぬ信念やモチベーションを喚起するものの自己認識。要は、何のために働くのか、仕事を選ぶ判断の軸は何か、どんな仕事をしている時が楽しいのか、といった自己像である。 対して、外的自己認識力とは「他者から見た自己」像を認識する力。 この内的自己認識力をキャリア研修は高める。自覚していないかもしれない自身の行動原理を知ることは、今後のキャリアをデザインしていく上では、まずおさえておくべき大事な前提だ。そのうえで、組織内の役割として求められることを検討し、強み弱みを踏まえて、将来のキャリア開発計画を描くのが、研修の後半で行うことだ。この計画は、ほかならぬ自分起点の計画であることに大きな意義がある。反面、その自分起点であることに起因する限界もある。 研修内の検討を経て「キャリア目標達成のためにどのように行動するか」の意思と覚悟は宣言されているが、その方法の実効性が検討されていないからである。自身のキャリアゴールを目指す行動は、日々の職場内の行動の積み重ねである。当面の役割を果たし、目指す仕事へ向かうためには、成果発揮へむけ的確に行動し、また上司や周囲の人たちをうまく巻き込まなければならない。そのために必要なのはリアルな行動課題をもつことだ。 「自分は」どのように行動すればよいか。その答えを出すには、内的自己認識力に加えて、外的自己認識力の向上が必須である。外的自己認識つまり、自分が人にどう見えるかの認識=自己客観視能力である。それが高ければ、人との関係のなかでの自分の行動のクセ=行動課題が分かり、自分がどうふるまえばよいかを方法論化できるのだ。 その意味の実効性を高めたキャリア研修2.0のためには、まずは、自分が人にどう見えているかを知らなければならないが、さてどうするか。 360度診断(=周囲の上司、同僚、部下に対するアンケート集計分析)がもっとも有効である。診断結果には、鏡のように自身の行動傾向が写し出される。しかしキャリア研修としては、やや手間とコストがかかるというネックがある。いちばん簡単なのは、受講者が自分で周りの人に聞くことである。自分起点の360度インタビューや簡易アンケートをとることで、「自分の知らない自分」を知るステップを検討作業に組み込めばいい。聞き方さえ、きちんと設計すれば、自身の行動を客観的に振り返る材料としては充分使える。 自己認識力、とくに外的自己認識力は、マネージャーにいちばん求められる能力といわれる。リーダーとして人を動かすには、自己客観視つまり他者の目に映る自分が見えていなければならないからだ。マネジメントの役割でなくても、この事情は変わらない。ほかならぬ「自分のキャリア」の実現のためだからこそ、周りの人々への働きかけやチームとしての成果発揮にむけて、「自分にとっての行動課題」を自覚しなければならないのだ。

タイトリングの技術 | その他

タイトリングの技術

 このコラムには、読んでいただいた方々がボタンを押すことで評点がつく。我々はその結果をみて日々一喜一憂しているのだが、痛感するのは、内容もさることながら題名による評点の高低だ。タイトルがよくなければ、そもそも読まれないし(=総得点が低い)、評価も悪い(=読者一人当たり評点が低い)。良いこと書いたなーと自画自賛していても、点が悪いときは、えてしてタイトルがつまらなかったりする(=内容がダメだとは思いたくない)。  よいタイトルとはどのようなものか。コラムというものの性格からすれば、キャッチー、つまり凡庸でなく読み手の目を惹く、ということがある。そのポイントは、「当たり前」ではない表現。例えば、 「MBOの課題」ではなくて「間違いだらけのMBO」(14/10/14掲載) 「なくせない残業」ではなくて「麻薬的残業の正体」(10/4/9掲載) 「絶対評価と相対評価」ではなくて「絶対評価は絶対か」(16/5/19掲載) といったタイトリング。いづれも、常識的な見解とはすこし違ったり、挑戦的(=なんらかの問題提起)な気配があり、見た人に、「ん?」と思わせる効果がある。  しかしこういったテクニックよりも、重要なポイントは、タイトルがそのままメッセージになっていることだ。言いたいことが、一言で表現されている。例えば、 「直間比率を気にするな」(14/1/30掲載) 「時代遅れの二次評価」(15/1/20掲載) 「従業員満足はいらない」(17/3/7掲載) 「管理という誤訳」(15/8/18掲載) といったタイトリング。内容を読まなくても、何を言いたいのかがイメージできる。つまり、タイトルは、何かを語っていなければならないのだ。これは、コラムに限らず、あらゆる文書におけるタイトルの要件である。  社内の告知文書でも、よく「○○〇について」とかがタイトリングされることがある。これは何も語っていない。本文を読んでいって初めて何が言いたいのかがわかる。読み手に取って極めて非効率だし、読むモチベーションもあがらない。結論を一言でいうのは難しくても、せめて、論点ぐらいは匂わせたい。例えば、 「残業時間の削減施策について」ではなくて「残業時間の基準と運用ルールの策定」 「生産性向上施策について」ではなくて「メール文面簡素化に始まるコミュニケーション効率化施策」 「女性活躍推進施策について」ではなくて「女性管理職比率〇%へむけた行動計画」 といったタイトリング。社内施策なのであればなおのこと、何をしようとしているのかが一目瞭然でなければならない。読まなくても、見出しを目にしただけで経営のメッセージが伝わることが第一に重要だからである。  しかしこの事情は、書籍となると少し異なる。仕事で必要な知識や考え方を知るための本であれば、まったく同様な観点でタイトリングされるべきだろうが、刺激的な思想を味わう愉しみや気づき喚起の悦びを旨とする「快楽読書」には、魅力的な気配をまとうタイトルが必要になる。つまりは、レトリックのワザや細心かつ戦略的なコトバ選びである。  例えば、個人的にはここ数年でもっともインパクトのあった本のタイトルがこれだ。本屋で手に取り躊躇なくレジにむかったのだった。 「世界のなかにありながら、世界に属さない」

なぜ間違えるのか | その他

なぜ間違えるのか

 世のなかには、ミスの多い人とそうではない人がいる。以前の複数の職場で、なぜか、「大きなケアレスミス」を頻発する人が一定数いることに気づいた。たいていは、見た瞬間にわかるようなあり得ないミス。たとえば、クライアントの社名、ご担当者名、案件名や見積金額、エクセルの集計値といった類で、不注意による単純なミスながら、そのインパクトは大きい。一気にクライアントの信頼を損なう結果になる。  この人たちは、都度指摘されているから自覚しているはずなのになぜかミスを繰りかえす。その原因をいろいろ考えてみると、そこには2つのタイプがあるように思う。一つは、社名や人名や案件名といった名称の間違い。これは、思い込みによる。なんらかのきっかけで(つまり理由があって)名前を間違えて認識し、それが是正されないまま、文書やメールが書かれてしまう。  ポイントは、その後何度もその誤記を自分で目にしながら気づかないことだ。認識論的に言えば、一度できたパラダイム(=認識の枠組み)が堅固でなかなか揺るがない。そういえば、この人たちの仕事ぶりを振り返ると、ものごとを自分の理解できる枠組みでとらえるために、しばしば、見当違いの解釈になったりする傾向があるようにも思う。つまりこのタイプは、なにかキャップをはめるようにしか認識できない、思考の硬直性が原因なのではないか。  もう一つのタイプは、金額や集計値の間違い。こちらは、その数字を積み上げられた結果としてのみ見ていて、「意味」を見ていないことが原因である。なぜなら、金額や集計値の間違いは、その意味からしてあり得ないことが一目瞭然だからだ。金額が一桁違えば気づくし、例えば経費データだったら異常値はすぐわかる。  指向性でいえば、目的指向でなくオブジェクト指向。そういえばこの人たちの仕事ぶりを振り返ると、積み上げや要素分解の思考スタイルであって、ときに「何のために」を見失う傾向があるようにも思う。木をみて森をみない。つまりこのタイプは、概念化力の欠如が原因なのではないか。  もしこの仮説が正しいとすれば、こうした子供じみたミスは、人材育成的には結構大きな問題である。「彼は、ケアレスミスさえなくなれば何の問題もないんだけど」とは言えない。ミスはご愛敬どころか、思考力そのものに課題があるかもしれないからだ。  ちなみに、一つ目のタイプは、加齢によって頻発することを身をもって体感しており、思い込みのプロセスもその頑なさもしっかりと自己分析されていることを付記しておきたい。しかもここには、老眼による誤認までも添加されているのだから困ったものだ。  いまのところ、2つ目のタイプは我が身に出現はしていない。概念化力は加齢によっても低下しないのである、、、と思いたい。

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

概念化力を高める | 人材開発

概念化力を高める

 社会人としての基礎スキルの思考面の力といえば、「課題発見力」「計画力」「創造力」(=経済産業省社会人基礎力の「考え抜く力」)などといわれ、ベーススキル研修として、ロジカルシンキングや課題解決スキル、あるいは段取り力、プロジェクトマネジメントスキルといったテーマがよく取り上げられる。これらは、確かに大事は要素能力ではあるが、ビジネスマン、とくに管理職者にとって、もっとも大事な能力は「概念化力」である。  概念化力とは、状況の本質をとらえ、端的に表現する能力。それはビジネスシーンのあらゆる局面での基盤スキルであり、大半の「困った管理職」はその欠如に起因する。たとえば、大局観のない自部署の方針、目的を逸脱した対症的判断、要を得ない経営報告などなど、経営者を怒らせる管理職者たちはまず第一に概念化力に課題があるのだ。  報告を聞いていていらだち「要は何なんだ、一言で言え!」という怒号や、現状課題や実績から積み上げられた計画に対して「いったいどうしたいんだ、コンセプトがない!」という叱責は、実に日常的によく聞かれることではないか。この能力は、目的志向での職務遂行や的確なコミュニケーションにも直結する、つまりパフォーマンスを左右し、また、経験から学ぶための思考方法(=経験の本質をとらえ、他に展開できる)でもあるから、管理職に限らず、社会において仕事をする際のベーススキルでもある。  さて、そのようなキースキルである概念化力を、どう高めるか。残念ながら、概念化力向上トレーニングといった便利なものがないように、その育成方法は明確ではない。ただ2つの実務的なスキルが強く関係しているので、その向上は概念化力のブラッシュアップにつながる。  ひとつは、文章力だ。採用選考に文章を書かせる試験があるように、文章をみれば、いくつかのアセスメントディメンションでの評定ができる。それは、文章から信条や姿勢や問題意識を読み取れるからではなく、文章には純粋に思考力のレベルが顕れてしまうからだ。文章、とくにビジネス文書を書く能力とは、「本質抽出能力」と「論理展開能力」であり、だから能力評価にも使えるし、文章力を高めることでそれら能力向上のトレーニングができる。  例えば、我々のような仕事であれば、複数の経営幹部のインタビュー記録が大量にあって、それをもとにその会社の課題をまとめ200字以内の報告書に書き上げよ、といった演習をくりかえす。ここでは、情報を精査し、得られた内容を構造化し、関係や因果や相似を見極め、いくつかの課題にまとめ、分かりやすい順番で文章化する、そのプロセスが問われることになるから、このトレーニングによって「要約」というスキルを理解し向上させることができる。  要約力は、文章の内容(=コンテンツ)にかかわる能力だが、文章には内容とともに表現力も問われる。わかりやすく伝えることのベースは、論理展開力であってそれはロジカルライティング研修などで学べるが、もう一段上の表現上のワザがレトリック(=修辞)だ。レトリックは、読み手の印象を操作する法なので、ビジネス文章ではあまり使われないが、提案文書ではここぞという記述で有効だったりする。  レトリックの一つに比喩がある。直喩、隠喩(=メタファー)、換喩(=メトノミ―)など手法はさまざまだが、要は、伝えるべきモノゴトを別のものに置き換えて言うことによって、読み手の気づきや実感を喚起するテクニックだ。この置き換えが適切で成功するためには、置き換えるモノゴトとの共通性が妥当でなければならない。つまり、それぞれのモノゴトの本質をつかむ――概念化力が問われるのである。ゆえに、レトリックの訓練(=例えば相似によって横に跳ぶ演習)もまた、概念化力向上につながる。  もうひとつの、概念化力と関係する実務スキルは、デザイン力である。とりあえずは、パワーポイントの資料を美しく作れるようになるためのトレーニングから始めるのだっていい。「書類として美しくない」イコール「コンセプチャルでない」なのである。デザインとは、構成化と意匠化のワザであり、語源を「de-signare」というように、「脱-しるし(=signare)化」し、意味をカタチにすることなのだから。