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コラム

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徹夜せよ! | その他

徹夜せよ!

 コンプライアンス観点では主張することができませんが、近年のワークライフバランスなどの議論に本音ベースで真っ向から対立する論点を提示します。週40時間労働や有給取得奨励、在宅勤務などのワークライフバランスの考え方は、多様で豊かになり、高齢化が進行する中で注目を浴びる議論です。この方向自体については全く反対ではありません。また当社はクライアントに対して適正なワークスタイル確立のコンサルティングをしているとも言えますし、自社でも徹底する努力をしています。しかしこの議論に決定的に欠如していることは、勤務時間の短縮、非連続な時間での業務遂行、自宅などオフィス環境が整備されていない場所での業務遂行など働き方への規制を緩めることそのものに焦点が当たりすぎていて、反対に今まで以上の時間生産性や協業生産性を上げることが同じ以上の重さで議論されていないということです。勤務形態の自由化と生産性向上の議論では、後者のほうが相対的に軽視されていると感じるのです。まあストレートに言うと過去に比較して働き方が甘くなったということです。  このような“緩和”が議論される前までは、仕事の仕方や仕事に対する時間投下が今よりもシビアでした。どんなに夜遅くなろうとも仕事が終わらなければだれも帰りませんし、忙しい中プライベートで先に帰る時などは、上司にこっそり事情を告げて周りに気を遣いながら帰ったものです。またどんなに遅くなろうとも、徹夜しようとも翌朝の朝九時には何もなかったかのように振る舞うことがビジネスマンとしてのよきスタイルと思われていました。自分のミスや生産性が低いことから遅くなることについては、超過勤務手当の申請などは自制するのが当たり前で、会社に存在していた時間を超過勤務手当の対象とはだれも考えていなかったのではないでしょうか。もちろん生産や営業などの現場では当時から時間管理は意識されていましたので、上記のような感覚ではなかったと思いますが、企画や管理などのいわゆるホワイトカラー業務では、時間なんて関係ないという感覚が濃厚でありました。  現在では高齢化成熟化していく中での新しい時代の働き方という方向性を強力に推進していかなくてはならないことは当然です。しかし前述のように“緩和”が大きくなった分、生産性を向上させなければなりません。また経営環境は依然厳しく、企業が成長していくためには今まで以上のアウトプットの量と品質が要求されます。現在よりもさらに生産性を向上しなくてはならないということです。このような生産性向上を実現するためには、いくつかの重要なポイントがあると思います。まず単純に時間生産性向上のためのタイムマネジメントの徹底を常態化するということです。これを常態化し、しっかり管理していく企業は未だ多くありません。次にこれだけ情報技術や様々な技術進化をしている環境において、個人及び組織がより高い生産性を実現する手段をもっと研究しなくてはなりません。以前よりオフィス環境の整備の重要性は認識されていますが、環境整備という観点でも、物理的なオフィス構造をより科学的根拠で見直すことも必要でしょうし、音や香や内装、など他分野にわたって生産性向上のための検討範囲に入ります。また会議など複数の人による共同生産性向上のための様々なツールや教育なども、もっと注力しなければなりません。また働く側の生産性向上に対する何らかの処遇反映も必要でしょう。端的に言えばちゃんと評価して処遇しましょうということです。  そして最後にコンプラ違反になる覚悟で言いますが、働く側の権利主張を重視する傾向、就業の終了時間が来れば帰宅してよいなどという甘い考えや、自分の能力やモチベーションが欠如していることから、時間内に十分な生産性で仕事ができない社員に対して、強烈な指導をする文化を創ることが必要です。能力・やる気が欠如している社員に対しては、自己研鑽の指導をするなど、時間外での能力向上を求めることを普通の文化にしなければなりません。時間内にミスや能力、モチベーションの欠如でアウトプットが出せないなら、会社にはわからないように、いくらでも時間を使ってでもアウトプットを出さなくてはならないという文化をもつことも精神論として必要です。徹夜せよ!と会社側からは言いませんが、それでも隠れて徹夜してアウトプットを出し、何食わぬ顔で出勤するくらいの気概がほしいというのが本音ではないでしょうか。

退職勧奨のすすめ | 雇用施策・その他

退職勧奨のすすめ

 多くの企業に対してリストラのコンサルティングに関与してきましたが、日本企業の人員削減はある意味残酷だと感じます。企業業績が低下すると、企業としては人件費コスト低下のために人員削減を行うことがあります。バブル経済崩壊後のリストラブームでは団塊の世代と言われた50歳代社員が主たるターゲットでした。また最近ではバブル期大量採用世代の人員削減を行う企業が多い状況です。日本企業は年功的な要素が残っている企業が多いために、若年社員よりも中高年社員を削減するほうが、人件費削減効果が高いのはある意味で当然です。しかし中高年社員削減を行う企業で、退職を勧める社員を選別するに当たり、“そもそもあまり能力が高くない”であるとか“昔から業績貢献が少ない”とか“当社の方針や文化に合わない”“職務に適性がない”という理由がよく言われます。拠点が閉鎖になる地域で転勤できない社員に対して優遇した退職条件で退職を勧めることはまだ理解できますが、業績低下時に能力や適性を理由として中高年社員の退職を行おうとすること自体にそもそも問題があります。このようなローパフォーマー社員は中高年になってからローパフォーマーになったのであれば仕方ありませんが、若年段階からローパフォーマーだと言われている社員のほうがむしろ多いのではないでしょうか。この社員に対して業績低下を理由に、中高年になってから転職を勧めることが残酷だということです。日本の労働市場は特に45歳以上の中高年の転職年収が一般的には非常に安い傾向にあります。30歳代で転職すればそれなりの転職ができるのでしょうが、わざわざ労働市場価値が下がった時点で、そもそも戦力ではないなどと言ってしまうことが問題なのです。  このような社員はたまたまこの企業では能力発揮や適性がなかったかもしれませんが、他の企業で適職に就ける可能性もあります。しかしその可能性が低くなってから退職を勧めることをしてしまうのは、平時における人事管理がいかに甘いかということでしょう。最近では情報産業や環境変化の激しい業界、競争の厳しい業界などで、若年段階で優遇した退職条件で退職を勧める施策を定期的に実施する企業も増え始めました。退職勧奨といい割増退職金や再就職支援などの条件を提示し、早期に別のキャリアのチャンスの獲得を支援するというものです。このような退職勧奨を制度として毎年実施している企業もあり、そのために評価制度の品質も向上させ、評価が連続して悪い社員に対して、この仕組みを提示します。  日本の企業では大手になればなるほど退職勧奨を嫌う傾向が強いです。退職勧奨は優遇した条件で退職を勧誘するだけですので全くの適法行為です。しかし個別に退職を勧めることが違法だと勘違いしていたり、雇用を維持し続けることが大事であると思っている企業では、非常に強い拒否感があります。しかし雇用維持と言っておきながら業績低下となり人員削減をするときに、中高年社員にそもそもローパフォーマーだと言ってしまう感覚が残酷だということです。  成果・職務・実力主義的人事制度のもとでは、入社して早期に能力や適性があるかが以前よりわかりやすくなってきました。採用した社員を大事にするというのは、全員の雇用を維持することではなく、企業に向かない社員は労働市場価値が高いうちに大事に他の企業に送り出してあげることと認識され始めています。  人事制度の改革とともに退職勧奨は重要な部品として認識され始め、また社員に対する新たな救済措置として重要な施策になりつつあります。平時においてローパフォーマーに対して退職勧奨を定期的に実施することをお勧めいたします。

二つの時限爆弾 | 雇用調整施策・支援

二つの時限爆弾

 日本の大手企業の人員構成は企業の歴史が色濃く反映しています。代表的な人員構成は50歳台が少し多く、バブル期採用の40歳台社員が非常に多く、30歳台社員が少なく、20歳台社員が極端に少ないという構成です。年齢別の人員構成では45歳以上社員に大きなコブがあり、逆に30歳台20歳台が非常に少ないという歪な構成です。企業の業績が低調な中で最近の人事問題として深刻さを増してきているのはこのバブル期大量採用世代の問題です。これはすでに20年以上前から指摘されてきた問題です。バブル崩壊後のリストラブーム当時では、団塊の世代問題という50歳台の高齢社員の人数が多すぎ、そのため50歳代社員の削減が大きな人事問題でした。この時すでに突出した年齢層の社員が存在することが企業の人事管理上大きな問題であることが認識されていましたが、その後の20年間でバブル期大量採用世代の問題に抜本的な改革が行われずに来てしまったために、ついにこの歪な中高年社員偏在問題が顕在化深刻化しています。 そもそも短期業績がよいからといって新卒正社員の採用を大量に行うことは人事理論上全くナンセンスですが、ついにこの大量採用世代が企業の中核的存在としての年齢層となり、人件費の高騰化や管理職社員の余剰、活性化の阻害など極めて深刻さを増しています。バブル期の経営者が仕込んでしまった時限爆弾です。この問題のインパクトは非常に大きいとともに、今後10年〜20年長期にわたりこの問題に悩まされることが容易に想像されます。現在の業績低迷期にこの時限爆弾が爆発しかけてきており、さらには65歳までの雇用義務化が追い打ちをかけます。この爆弾処理は大規模な人員削減を行うか、年齢に関係のない人事制度にするか、企業が飛躍的に成長するかのいずれかの解決策しかありません。現在の経営者は過去の経営者が仕掛けた時限爆弾に対しての処理を求められているとも言えます。  この時限爆弾とともに、静かに進行しているもう一つの時限爆弾があります。すでに導火線に火が付き始めていますが、現時点では前述の時限爆弾処理もあり、あまり真剣に議論されていません。もう一つとは10年後20年後に企業の中核を担うコア人材が不足するという大問題です。バブル崩壊後新卒採用は抑制傾向にありました。特にリーマンショック後は新卒採用をストップした企業も多く、歪な構造がより一層悪化してしまいました。業績低迷時でも一定の新卒採用を行わなければ企業の中長期的発展は望めません。短期的視点で人件費抑制のために新卒採用を大幅に縮減すること自体も人事理論上は問題があります。新卒社員を大幅に抑制し続けている企業は、企業活力が次第に衰えるとともに、将来を担う人材を調達していないという点で、あまりにも短期的な視点と言わざるを得ません。不足している年齢層は中途採用すればよいと言う企業は、新卒から企業のコア人材を育成が必要でないと言っているようなもので、自社独自のビジネスモデルやマインドを軽視していると言わざるを得ません。  この同時進行している二つの時限爆弾を同時処理することが、将来の企業の継続的な繁栄の基盤となります。短期的、損益的視点で新卒社員採用を軽視する経営者や人事部門は将来に責任を持っていると言えません。まずは単純に将来20年後までの自社の人件費や人員構成のシミュレーションを定量的に目の当たりにすることが必要です。感覚的な議論ではなく目に見える形で将来の姿を数字として直視しなければ将来への経営責任を果たしているとは言えません。知らないうちに次の世代の経営者に対して新たな時限爆弾をセットしているとも言えます。

関係のマネジメント | その他

関係のマネジメント

 たいへん優秀で、皆が嫌がるような困難な仕事を進んでやり、見事に仕上げた部下の管理職者がいた。その後、私が会社を離れ、半年後に複数の人から彼の話を聞いたら、今は仕事ができない問題社員だという評判に驚いたことがある。  そんな風に、あるリーダーのもとで、“意気に感じて”自分の業務範囲を超えて縦横に働き、高いパフォーマンスを上げていた人が、リーダーが変わったらいきなりローパフォーマーになることがある。もともと持っていた能力以上の行動発揮を引き起こすのは、上司のリーダーシップ能力が高いからではない。そのリーダーの部下になれば、誰もが能力以上に働くわけではないからだ。特定の上司部下関係のなかの、何かが、その人を励起したのだろう。  そうした関係の力は、リーダーとの間だけでなく、同僚との間でも働く。組織診断でみる「組織市民性」という項目がある。ひらたくいえば、職場の仲間が困っていれば手伝う、といった健全な協働意識の度合いを、組織ごとに診る指標だ。部門によって、驚くほどその点が低いと出ることがあるが、その要因はなかなかわからない。マネジャーやメンバー個々人の問題ではない、関係の病理があるように見える。  臨床心理の家族療法でよく知られるように、錯綜した人間関係はさまざまな心の病を引き起こすきっかけのひとつとされる。たとえば、子供の発症のトリガーは、親の夫婦関係の歪さにあったりする。家族ですら、父と子、母と子、父と母、兄弟との関係、、、等々、複数の関係が錯綜する。組織にある人々の関係の多彩さを考えれば、関係の力は、組織におけるメンタルイッシュ―の多さをみるまでもなく、良くも悪しくも、組織のパフォーマンスに大きく影響するはずである。  タレントマネジメントという言い方が含意する個別人材力の強化だけではなく、組織力を高めるような関係のマネジメントを改めて考えるべきではないか。タレントマネジメントの観点でいえば、組織力を高めるには、個々人のリーダーシップ力を育成するのだということになる。それに対していえば、役割や分担や損得を超えた行動をもたらす“つながり”をいかにして生成するか、ということになろうか。  それはきっと、会社という、権限や分業や雇用という公式な「関係の体系」の側面を片目でにらみつつ、おそらくは信頼や互酬性を原理とする非公式な「関係の束」をマネジメントすることだろう。とすれば、それはいかにも難しい。ただ、その原理や方法はまだ整理されていないけれども、ヒントぐらいは散見される。キーワードでいえば、自尊心の尊重、自己効力観の励起、スポーツマンシップの醸成。。。要は、人は関係の中でアイデンティファイされ、生きがいや働きがいを感じるという当たり前の原理に立ち返ればいい。  一方で、ここでいうような“つながり”を嫌悪する人たちもいるだろう。役割の中で自身の能力で、自身に期待される成果を出すことだけに腐心する人たちには、会社の中のべたついた“つながり”(=絆)なんかきっと気持ち悪い。成果を出し自身を成長させるのに、精神的な依存関係なんかいらない。そのように個を屹立させる人々が存在することで生まれる他者との軋轢や共感も、多様な関係の束の一部である。  一様でないさまざまな関係が集積するという組織の“複雑性”もまた、組織の力を高めるキーワードだろう。それは、異質性やゆらぎを要件とする情報創造型組織につながるだろうし、一時期、組織の不活性をしめす原因として取りざたされた「学習性無力感」は、ネガティブな関係の一様性がもたらす現象ともいえる。  脳の正体をつかもうと、脳をどんどん解剖し、生体砕片にまで分解しても、脳の本質はつかめない。脳の本質は、脳内の複雑な信号伝達、つまり「関係」にある。脳の圧倒的なパフォーマンスは、その複雑な関係が生みだしている。組織の複雑性もまた、組織のコンピタンスを高める条件だとすれば、関係のマネジメントの第一歩は、メンバー個々人のダイバーシティではなく、その結果生まれる複雑な関係のダイバーシティに目を向けることである。

平知盛 | その他

平知盛

 日本史に登場する人物の中で、平知盛の生き様には考えさせられるものがあります。平知盛は平家物語の平家側の主役とも言える人物です。清盛の四男として生まれ、34年という若さで自害した人物です。平家の衰退がはじまり清盛が死亡すると、兄の宗盛が家督を継ぎます。宗盛の戦略性のなさと優柔不断さにより、源氏に次第に追い詰められていく過程において、知盛はそれこそ平家再興のために奮迅の働きをします。もともと病弱であり戦場の第一線に出られる体力を持ち合わせなかったと言われていますが、優れた軍事的才能と統率力で源氏の軍勢を幾たびか打ち破ります。しかし時勢には逆らえず一の谷で源義経に敗れ、さらには屋島でも敗戦します。この決定的ないくつかの敗戦の中で知盛はなんとか残る平家の支柱として、宗盛の代わりに指揮を執り続けます。壇ノ浦の戦い時ではとても戦える体調でなかったといわれていますが、最後まで戦い抜き、そして敗戦濃厚となった時点で自害します。その時に言ったのが、“見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん”というあまりにも有名な言葉です。鎧を二重に着てさらに碇を持って海に入水したと言われ、歌舞伎の“義経千本桜“での“碇知盛”といわれる名場面になります。  このように世の中の時勢という運命に対して、自己の存在をかけて最後まで抵抗する姿が、“悲劇”として人の心を打つのでしょう。最終的には運命には勝てない自分がいるのに対して、それを肯定することができずに最後まで自己の存在を運命に徹底して逆らうということです。そして最後にはこの運命を受け入れざるを得ない自分を肯定できずに碇をもって入水するという生き方です。  逆に時勢に乗り勢いがあり成長するときの成功話に人はあまり劇的さを感じません。ともすると自慢話的になり、これが過ぎるとたまたま時勢に乗った幸運な人物と評されてしまいます。人はこのような成功話にはあまり大きな感動を持ちませんが、知盛のような悲劇的な人物にはいたく心を打たれる感性を持っています。このような劇的な生き方をする日本人が歴史上には何人も見ることができます。命を懸けて自己の存在を証明しようとし、そしてその証明ができなくなることにより、自己を否定しなければならない。これは架空の話ではなく現実の日本で起きた実話なのです。  このような悲劇的人物は戦後日本であまり見当たらなくなってしまいました。環境の変化に対して大幅な構造転換をしなければ生き残れない企業でも、将来の予測から徹底したリストラをしなければならない状況と頭でわかっていても実行する人物は少ないのです。また逆らうことのできない環境変化に徹底して反抗し、その結果回復する企業もありますが、最終的には企業が存続できない事例も多くあります。自己の存在をかけて環境や運命に徹底して抵抗することを通じて活路を見い出だす可能性に賭けるわけでもなく、なんとなくリストラをしてそしてまた衰退して中途半端なリストラを繰り返す。そして最終的にはどこかの企業に吸収されたり清算されてしまうという、あまり締まりのないリストラ劇が多すぎます。このようなリストラ劇は劇としては生ぬるく面白い舞台ではありません。主役が誰かもわからなかったり、主役のキャラクターや意思が不明であり、役として成立していないのです。脇役も舞台上で果たすべき役を演じないばかりか、舞台から降りてしまう人までいます。  企業はリストラによって再生することが望ましいに決まっていますが、これは環境に徹底して逆らい新たな価値を見出した企業のみが生き残るのであって、環境に対して徹底した自己存在意義を問い直さないリストラは失敗します。さらに失敗したリストラ劇の結末には、現代日本人の“日本人らしさ”がなくなったゆるい結末で、だれも責任を果たしたと言える状況ではないのです。“見るべき程の事をば見つ”と言えるリストラは非常に少なく、徹底した戦略再構築や経営施策を断行するという命を懸けるような深刻さがなく、単に経営ゲームとして負けたというような感覚にすら感じることがあります。真剣に経営をしているかと問われて命がけでやっていると胸を張って言える経営人が少なくなっているのではないか。日本的な重要な特性が失われているのではないかと感じることがあります。

集まる力 | その他

集まる力

 教育研修は、実践的でなければならない。実践的とは、研修の効果がはっきり出ることを意味する。  “効果”には二つあって、第一に、学んだスキルを実務で実際に活かす、あるいは以降の行動が変わることだ。そのためには、研修のなかでは、机上のケースではなく、実際の職場や個人の課題の解決策をアウトプットさせるのはもちろん、研修の後には事後課題を課し、職場での実践を強制し、結果をレポートさせ指導する。あるいは、作成した行動計画を定点チェックで指導するといった、研修だけで終わらせないマネジメントラインに組み込んだフォローの仕掛けを用意することが不可欠だ。  もう一つの効果とは、個々人が実際に成長することである。そのためには、一連の研修を通じて、個別評価、個別指導を行いながら、一人ひとりの育成課題の可視化と弱点補強を行っていく方法をとる。評価は、研修行動をアセスし、また事後課題や論文課題などの評定を通じて行い、個別カルテ化する。次世代リーダー育成プログラムなどがその典型で、そうしたOff-JTでの評価と業務遂行上の評価結果を定期的にすり合わせ検証することも重要である。  こうした方法により、“効果”に腐心しながら、多くの企業の人材育成のお手伝いをさせていただいているが、一方で、研修そのもののイベントとしての価値が、実は一番大事なのではないか、と日々思う。つまり、業務を離れわざわざ人が集まるイベントであることの意味、意義をもっともっと追究すべきではないか。  集合研修のひとつの醍醐味は、個々人の相互作用(大げさにいえばグループダイナミクス)である。グループワークの中で、たとえば、言葉にすることで自分の考えが整理され、他者の想いや考えで触発され、議論により正答率の向上を体感する。どんな話し合いでも、コミュニケーションの仕方によって、アウトプットのレベルも変われば、胎落ち度合いがちがう。そうしたダイナミズムが目に見えるかどうかが、研修の成否をわける。  その効果にあらためて気付かされたのは、アウトプレースメントの現場にいた頃のことだ。当時、離職した人々の再就職を支援するサービスは、担当キャリアカウンセラーがついて、個々人との面談をしながら個別活動をサポートするという形態だった。中高年社員のリストラの結果だから、少なからず悄然とした人もいる中での“個別”カウンセリングというのが常識だった。  しかし海外ではグループカウンセリングが主体だったので、それをおそるおそる導入してみたところ、はっきりと彼らの活動は“アクセルレイト(加速)”した。目的を同じくする人たちが、不遇の嘆きや怒りを早々に脱し、前向きに活動することを、皆で愉しんでいるようなグループもでてきた。後日、多くの“同窓会”がうまれたりもした。  考えてみれば、通常は、一人のカウンセラーの意見を聞くだけなのに対し、たくさんの意見や見解や経験に触れられるのだから、良いに決まっている。会社選びや面接といった就職活動も、成功や失敗を共有する学習効果も集団なら大きいし、就職が決まっていく仲間がでてくると、ある種ゲーム的な競争のエネルギーが生まれるという副次的効果もあった(のちにこれは、米国のキャリアセンターで行われる“ジョブクラブ”というやり方と知った)。  集団のダイナミズムに加えて、非日常的なイベントである点もさまざまなやりようがある。といっても、野外のオリエンテーリングや深夜登山といった安易な非日常イベントでチームワークの原点を学ぶといったたぐいのものには興味がない。あくまでも、仕事の意味や実務のやり方を考える上での刺激になる非日常性の演出だ。  普段接することのない社長とのセッションにも価値があるし、小学校にいって会社のコア技術を教えるとか、海外からの留学生むけに企業PRするとかも面白い。社会問題と自社の関係についてのチームディベートや、演劇をつくり演じる研修も刺激的だった。ある大企業の管理職研修で、複数の他社の管理職者を映像取材し作成した “番組”を見ながらリーダーシップの議論をしたときも大きな気付きがあり、行動の変容ももたらしたりした。  研修は、あくまでも、実務での成果を高めるためのものであるけれども、逆に、実務で成果を出した人だけが参加できるような、魅力的で刺激的なイベント(研修)をつくってみたいものである。

中高年は使えない | その他

中高年は使えない

 中高年社員はビジネスの第一線で使えないと言われることがあります。例えば情報産業では一時期に35歳定年説と言われたように一定の年齢ピークを過ぎると技術的にまた体力的に第一線での活躍ができなくなるということです。また広告業では40歳以上の社員の多くは、世の中のトレンドについていけなくなり、センスが古いと言われてしまいます。建設や営業や製造の現場でも体力的に若年社員と同様に働くことが難しくなるとも言われます。このように一定年齢をピークにして次第に現場の主戦力と位置付けなくなる業界や企業が多いと感じます。大企業ではこのような第一線で活躍できなくなった社員を体力的な負担の少ない間接部門などに異動させることによって、社内のアウトプレースメント場所として吸収している例も多くみられます。また小売業やサービス業などでは中高年社員に対して退職促進するスタンスの企業も散見されます。  この中高年社員は使えないということ自体が本当であるのか強く疑問に感じるとともに、今後高齢化成熟化する社会において、逆に中高年社員の活用や再活性化が企業の成長を支える大きな原動力になる可能性も議論しなくてはなりません。65歳までの雇用を考えると、この中高年社員の戦力化の問題はさらに深刻です。  中高年社員は本当に使えなくなるのかということについて大いに疑問であると論じましたが、この使えなくなる現象は企業の努力不足によるところが大きいとも推測できます。例えば情報産業では中高年社員は技術進化についてこれないという理由を挙げる企業が多いですが、若手社員と同様のまたはそれ以上の技術教育と意識改革を継続して行っている企業は非常に少ない状況です。常に新たに若い技術者を採用して中高年は使い捨てにしているともいえます。本当に技術やマインドの教育をした結果使えないのであれば仕方ないのでしょうが、努力を怠っている企業は雇用責任を軽視しているとも言えるでしょう。広告業などでもセンスが古くなるといわれていますが、常に最新のトレンドに鋭敏さを持つべく教育努力は十分なのでしょうか。社員側も厳しい第一線で仕事をした後にはのんびりとした中高年用のポジションに就くことを暗に期待しているのではないかとも感じます。  体力的に厳しいという現象についても議論しなくてはなりません。確かに中高年になれば健康上の問題が多く発生することになります。しかし日本の労働市場では第一次産業のように最も体力的に厳しい職場(農業や漁業など)の平均年齢は非常に高く、それでも第一線で活躍している人が大半です。また中小中堅企業では中高年といえども若年社員と同様の働きをしている人が多いのです。中高年社員が使えないと言っているのは大企業や労働市場が発達をして若年社員の採用が容易な業界だけの話とも考えられます。このような業界や企業では企業側の努力も足りませんし、中高年社員自身も甘えています。体育の時間ではありませんが体力強化を研修に加えたほうがよいかもしれません。  日本の高齢化成熟化が急速に進行することに対応して、人事制度や教育も中高年社員に照準をあてた抜本的な見直しが必要になるのではないでしょうか。中高年社員は使えないというスタンスや社員の甘えの構造を抜本的に正さなくては雇用に魅力があり責任のある企業と言えなくなる時代が来ています。中高年こそ主戦力となる人事管理を早急に検討しなくてはなりません。

50歳管理職登用 | 人材開発

50歳管理職登用

 今後65歳までの雇用義務化や70歳までに延長される可能性があることから考えると、ビジネスパーソンの人生は今までに比較すると激変することになるでしょう。終身雇用のように長期雇用を前提とした場合には、極論すると2つのタイプの人事管理スタイルのどちらかになると予想されます。一つのタイプは年齢に関係のない人事管理スタイルです。年齢に関係なく実力によってポジションや職務を決めるというものです。プロ野球のように活躍しているときは年俸が高く、実績を残せなくなると年俸が下がるようなエレベーター式の人事制度ということです。このような実力主義的人事管理スタイルは、企業にとって人材の短期的な有効活用という観点ではメリットのある方法でしょう。デメリットとしては、かつて活躍した社員が降格したり給与がダウンするといった現象が多くなり、モチベーションの維持や雇用の安定、技術の伝承という観点で問題が発生することになります。  このような実力主義に対して、年功序列的な人事管理スタイルがもう一つの考え方です。大学を卒業して65歳まで勤務するということは43年間の在籍ということになりますが、企業の階層をピラミッドにするためにはあまり若い年齢で管理職にすることができなくなります。現在では40歳前後で管理職に登用する企業が多いですが、43年勤務を前提とした場合には、50歳前後で管理職登用くらいのスピードが理論上適正になるはずです。逆に50歳登用くらいのスピードでなければ、企業内に管理職だらけになってしまうのです。  そもそも管理職への登用はビジネスパーソンにとってひとつの成功の象徴的事象であると同時に、人事上も重要な管理事項です。管理職登用の理想的な年齢を聞くと、経営者や人事部門は40歳前後や優秀であれば30歳前半で登用したいという答えが多くあります。この感覚は企業の成長力が高い状況であれば成立する考え方ですが、成長が鈍化した場合には、40歳管理職登用は全く合理性のない感覚にしかすぎません。また、優秀であれば30歳前半で登用できるようにしたいということ自体は非常によいことですので否定するべき話ではありませんが、若くして登用する社員がいるのであれば、管理職の平均登用年齢を維持するためには、遅く登用する社員がいなければバランスしません。要は平均登用年齢と登用の分散をどのように考えるかという構造的な問題だということです。  年齢に関係のないマネジメントスタイルか、ある程度年齢を意識したマネジメントスタイルかはビジネスモデルや企業のおかれている環境によって、どちらが適合しやすいかということでしょう。習熟に長い年月のかかる高度な技術を基盤とした製造業であれば安定した雇用や技術の伝承を重視しますので、必然的に遅い管理職登用型の人事制度になっていくでしょう。一方で、環境変化の激しい小売、サービス、情報産業などは短期の人事パフォーマンスを重視する傾向にあると同時に、労働市場での流動性も高いので年齢に関係のない実力主義的マネジメントスタイルが適合します。  企業が大きくなればなるほど社会的責任が大きくなりますので、終身雇用や安定した処遇が強く求められるようになります。そのため日本企業全体という観点でみると50歳管理職型のようなスタイルに次第に変容していくとも考えられます。50歳管理職登用というのは一見あり得ないという感覚がありますが、理論上は一つの適正なスタイルだということで、一笑に付すことができない重要な論点です。

フレームで考える | その他

フレームで考える

 「創造とは、フレームワークだ」と公文俊平さんは言った。  まだインターネットが登場する前、パソコン通信をつかって、当時シアトルに在住していた公文俊平さんにメールインタビューをしたことがある。何回かのやりとりを編集せずに、ライブ感もってそのまま掲載する試みで、マニアックに制作していた企業組織論専門誌の企画だった。「叛企業文化論」と銘打った(なんと青臭い!)特集のなかで、企業文化をテーマに、独自で厳密な論を展開してもらったあと、次号のテーマ「場の創造性」を巡ってまたメール交換したのだが、そのやりとりのときに公文さんが言った印象的な言葉がこれである。  「創造とは、フレームワークだ」という発言の文脈も詳細も忘れてしまったけれども、そのときの指摘はこうだ。何か考え出さなければならないことがあるとする。そこでひとつ、新しいアイディアを思いついたら、例えば、そのアイディアを配置できる、2軸4象限のフレームを創出せよ。そして、空白の3象限を埋めていくようにさらにさらに創り出せ。創造とはそういうものだ。たしかそのようなことを言っていたのだった。  フレームというものは、たしかに、たいへん便利な思考の道具である。  マーケティング環境分析では、お馴染みの『SWOT(Strengths-強み、Weaknesses-弱み、Opportunities-機会、Threats-脅威)』や『3C』(Customer,Company,Competitor)などは必須ツールだし、最近増えてきている経営幹部候補育成の研修では、とくに『PEST』を使うセッションを念入りにやったりする。PESTとは、政治(Politics)、経済(Economy)、社会(Society)、技術(Technology)の枠で、例えば自社に影響与えるマクロトレンドを最も広く考える際に使う。  経営とは、突き詰めれば競争と数字であり、そのリアリティの薫陶が幹部育成には不可欠ではあるが、その前提となる社会と自社の関係と将来についての見識も経営者の大事な要件である。だからこんなセッションをやったりするが、これが結構できないことが多い。PESTの枠内に書き込むべきコトがなにも出てこなかったりする。  このような普段考えないような事柄を考えたり、問題の原因をできるだけ広範に洗い出したりする際には、最初に「発散」という発想技法を使うのが常套手段だ。グループや個人でブレーンストーミング(=発散)をして、たくさんのアイディアを生みだし、そのあと「収束」し構造化するという段取りだが、白紙の状態からの発散はなかなか難しい。そこでフレームを用意して、発散すると、漏れなく、深いアイディアがたくさん出せる。たとえば、職場の問題と原因の洗い出しなら、『7S』(Strategy、Structure、System、Style、Staff、Skill、Shared Value)とか『PDCA』(マネジメントの基本であるPDCAも汎用的なフレームとして使い勝手がよい)が、有効な道具になる。  枠があるほうが新しいモノゴトを発想しやすいということである。  そのことは、事業の課題や戦略を構想する際にたくさんのフレームワークが使われていることでもよくわかる。その紹介だけで本一冊分はゆうにある世の中の創造技法というものも、多くは、フレームワークだ。ただ、公文さんがいったいちばん大事な指摘は「フレーム自体を考え出せ」ということである。  PEST分析がうまくできないケースが多いと書いた。その理由は、ともすれば、「視野が狭い」、「目の前の仕事に思考が埋没している」、「社会的な問題意識がない」といった研修の受講者の意識にあるとされる。その要因ももちろんあるだろうが、もう一つの理由は、一つのフレームが大きすぎるからである。P(政治)ならPの枠のなかで、より細かいフレームを自分で設定していけばいいのだが、それがわかっていないから、漠然と立ち向かい、何も思いつかない羽目になる。  「フレームで考える」ということは、「フレームを考える」ことでもある。  4象限の枠組みでいえば、まず二つの軸をどう設定するか。その組み合わせはいくらでもある。どれだけ自由に、自分なりの軸を思いつけるか。そのうえで発想していく。創造という行為は、まずフレームを創り出し、そのフレームで発想していくことともいえる。ただいきなりフレームを設定せよといっても雲をつかむような話なので、公文さんは、最初のアイディアがまずあれば、それを配置しうる2軸を考え出せ、といったのだろう。  その軸を考え出すための“枠”というものもあるのではないか。いわば、フレームを考えるためのフレーム。一つのヒントは、その枠は、フレームワークにより創り出すアイディアは事業や仕事に結びつくものである、という目的から規定されることにある。つまり、事業や仕事の意味や意義、付加価値から発想される軸、ということである。意味や意義、付加価値とは、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」という本質的な問いの答えだ。  禅問答みたいな分かりにくいことを書いている。こんな例をだせば言いたいことのニュアンスを伝えられるだろうか。  たとえば、鉄道の会社が、自社の事業を「鉄道事業」と思うか、「輸送事業」と思うのでは、例えばそこで思いつくフレームはきっと違ってくる。デパートが「百貨を売る物販業」なのか、「総合生活提案業」なのか、でも違う。あるいはかつて、コカコーラのボトルには「Drink Coca Cola!」と書いてあったが、ある時から「Enjoy Coca Cola!」と変わった。その時に、コカコーラ社の従業員がもし皆でPEST分析を試みて、PとかSとかの中でいろんなフレームを設定するとしたらそれは、「Drink〜〜」時代とは違うフレームが設定されるのではないか。  事業や仕事に関わる創造のためのフレームを考えるには、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」といった本質的な問いがまず必要のはずである。フレームを創りだし、そのなかで発想していく方法を「フレーム思考」と呼ぶとすれば、「フレーム思考」は、本質的な問い=「Why思考」と表裏一体なのである。

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

人事部長には先がない | その他

人事部長には先がない

 統計をとっているわけではありませんので、感覚的な話になりますことをまずは宣言させていただきます。結論は、人事部長経験者は役員になる可能性が低いのではないかということです。人事部長ポストは確かに重要なポストではありますが、人事を含めた管理部門の責任者に直結したポストかというと、経理や経営企画のほうが、分があるようです。多くの企業(特に株式公開している企業)では経理部長出身者が管理部門全体の責任者に昇進する可能性が高いように思えます。CFOという言葉は日本語では最高財務責任者ということになりますが、実際には管理本部長ということです。経理財務を制する者は他の管理分野の統括も包含していくことが普通な感覚です。たまにCHO(チーフ・ヒューマンリソース・オフィサー、最高人事責任者)などのような言葉もありますが、管理部門全体を掌握できるルートにいない人事関係者の寂しい思いが、このような中途半端な言葉を生んでいるのでしょう。  そもそも管理間接部門は企業経営の基盤を整備することが主たる任務です。主要な機能としては、経営企画、経理財務、人事、総務、法務、システムなどしょう。これらの機能の中で短期業績重視、株主経営重視、対金融機関重視という観点で、経理財務責任者が管理部門全体を掌握していくことが普通な流れと認識されているのです。経営の重要なリソースはヒト、モノ、カネ、情報と言われています。特に資源のない日本企業ではヒトの管理が企業の成長に絶大な影響を与えるはずです。しかし実際の人事管理のレベルはこの経営の期待に対して大きく遅れていると言わざるを得ません。実際には給与計算や評価の後処理、採用などの実務に追われて、本来のヒト資源の有効な管理を提供していないのです。経営計画を達成するには、人員配置、採用退職、評価給与のコントロールが絶対的な力を持つのであれば、人事機能の地位はもっと格段に向上するでしょう。  人事が十分に機能していないことは、経営にとっても重大だと思う企業も多くあります。そのため今まで古い変革のしない人事部で育った社員を人事の責任者にせず、営業や製造の第一線で活躍してきた社員を人事部長に任命するケースも散見されます。過去の人事管理のレベルを脱却して、新しい視点で経営が求める人事管理を構築したいというのが本音なのでしょう。このような人事も効果的に作用することはあります。特に大規模なリストラを断行する場合などは有効な手法ではあります。  今後人事機能が経営に対してより高い付加価値を提供し、人事機能の強化なくして企業の成長がないくらいの重要性の認識が持たれるほどのレベルに成長しなければ、人事部長に明日はないでしょう。厳しい環境における再成長のためのヒト資源の管理を合理的に提供できる人事機能を性急に求めています。このように人事が経営の本質的なニーズに近づけば、将来CFO(最高財務責任者、管理部門責任者)は人事部長から昇進することになるでしょう。CHOなどのような矮小な概念で今の人事の地位を守ろうとするのではなく、企業経営により貢献する機能として再出発しなければなりません。

合併前夜 | その他

合併前夜

 3つの企業が合併するための準備プロジェクトに関与したことがありました。同業界内での中堅の3社が、大手企業に対抗して規模メリットを追求して合併するというものです。正式な合併の調印をするまでに、合併の諸準備を行わなくてはなりません。各領域に個別委員会を編成し、全体を統括する合併準備委員会で決済をする臨時組織を編成しました。主要な個別の委員会は、合併後の経営計画を立案する経営企画委員会、営業統合を進める営業統合委員会、組織機構や人員配置を検討する組織委員会、諸規定や人事制度の整備をすすめる総務人事委員会、新会社の情報システムを統合する情報システム委員会などです。これらの委員会にコンサルタントを数名づつ配置し、統合準備のアドバイスを行うというものでした。私は大元の合併準備委員のメンバー、組織委員会と総務人事委員会の2つの委員会のコンサルティングの責任者として、部下数名づつ配置して統括する役割でした。  個別の委員会は委員長1名と副委員長2名の元、3社から数名の担当者が配属されます。また諸連絡調整のための委員会事務局を設置しました。これにコンサルタント数名が加わり委員会を運営します。委員会は3社の出身者によって多くのテーマについて協議して決定していくことになります。簡単に合意できるテーマもあれば、合意が極めて難航するものもあります。組織委員会では、あるべき組織機構については3社とも合意するものの、責任者の任用の決定方法についてはなかなか合意に至りません。出身会社の規模による役職ポストのバランスの調整が難しく、そのため本当は1名の部長で十分なところを、副部長2名を配置せざるを得ない妥協も選択せざるを得ません。組織人事委員会での難しい大きなテーマは2つありました。社名の決定と人事制度の統合です。社名に関してはA社が旧社名を連想させる名称にこだわります。他の2社は現在の3社の名前を全く連想させない新しい名称にすることを強烈に主張します。  3社を仮にA社B社C社とします。売上規模はA社を3とするとB社は2、C社は1.5の規模です。大手企業に対抗していくためには規模拡大によって、コスト削減や営業の統合にシェアの拡大を実現しなければなりません。時勢の流れでは3社合併は理にかなったものでした。今のままでは3社とも将来はじり貧と予想されますが、合併すれば新しい成長戦略が描けます。この合併はB社C社は積極的に推進したい意向です。しかしA社は合併後もA社オーナーが主導する立場を保持したいと考えています。A社としては他の2社を吸収したい意向もありましたが、企業規模や収益状況からA社による吸収合併は困難です。A社は合併をして主導権取りたいという思惑が根底にあります。そのため委員会の中ではA社vsB社C社という構図が多くみられました。その最たるものが、主要ポストへのA社社員の配置や社名、人事制度です。  様々なテーマは多くの困難や長い協議の結果、なんとか解決の方向が見いだせました。しかしこの3つのテーマについては結論のでない長い協議を繰り返すのみです。最終的には役職者任用は1年間は旧3者出身者を配置し能力適正を判断した後、1年後に1名とすることになりました。社名は現在の合併スキームからは新しい社名を公募することで一応の決着をみました。これは3社の社長に個別に状況を話をして何度も根回し調整の後にやっと結論に達しました。人事制度はもっとも困難でした。A社はさしたる理由もなく、A社の人事制度をそのまま準用することを主張します。日本的な人事制度で成果実力主義的とは言えない制度です。最も人事制度が整備されているのはB社でした。厳しい経営環境を想定した人事制度であり非常に考えられ工夫されたものでした。規模メリットによるコスト削減効果を実現するためにも、また旧3社のイメージを残さないで実力主義を実現し、社員の融合を促進するためにも、B社をベースとした人事制度への転換が誰の目からも合理的です。最終的には委員会内での多数決で決しました。  様々な苦労や困難を経て、やっと合併の最終合意書への調印の日を迎えようとしていました。コンサルティング部隊もやっとの思いで準備作業を進めてきましたので、主要なテーマが解決のめどが立ち、一仕事終わった達成感があります。しかし合意書への調印前日の深夜に電話が鳴ります。相手は組織委員会の責任者であるB社の専務取締役です。電話の内容は、調印前夜にA社のオーナー社長は合併を撤回したという衝撃的なものでした。様々な準備がなされ、いよいよ新会社の誕生という前夜に、合併条件にかねてから不満のA社社長が翻意したということです。3社合併は前夜に無くなったということです。その後A社社長に対して多くの関係者が説得しましたが、首を縦に振ることはありませんでした。  当然コンサルティングも突如終了します。組織・人事については、ある程度理想的な姿にできる準備が整っていただけに、あまりに突然の終了で唖然とした記憶があります。その後数年たち、A社は業績低迷で業界大手企業に吸収されます。B社C社は他の連衡先を探し数社からなる企業連合をつくります。しかしその企業連合も数年後には大手企業の攻勢に逆らえず吸収されることになります。B社専務とはその後も何回か会う機会がありました。その度にあの3社合併が成立していればこのような状況にならなかったと回想します。経営にとって時勢を読むことが重要だとつくづく感じる案件でした。