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吉岡 宏敏

column
タイトリングの技術 | その他

タイトリングの技術

 このコラムには、読んでいただいた方々がボタンを押すことで評点がつく。我々はその結果をみて日々一喜一憂しているのだが、痛感するのは、内容もさることながら題名による評点の高低だ。タイトルがよくなければ、そもそも読まれないし(=総得点が低い)、評価も悪い(=読者一人当たり評点が低い)。良いこと書いたなーと自画自賛していても、点が悪いときは、えてしてタイトルがつまらなかったりする(=内容がダメだとは思いたくない)。  よいタイトルとはどのようなものか。コラムというものの性格からすれば、キャッチー、つまり凡庸でなく読み手の目を惹く、ということがある。そのポイントは、「当たり前」ではない表現。例えば、 「MBOの課題」ではなくて「間違いだらけのMBO」(14/10/14掲載) 「なくせない残業」ではなくて「麻薬的残業の正体」(10/4/9掲載) 「絶対評価と相対評価」ではなくて「絶対評価は絶対か」(16/5/19掲載) といったタイトリング。いづれも、常識的な見解とはすこし違ったり、挑戦的(=なんらかの問題提起)な気配があり、見た人に、「ん?」と思わせる効果がある。  しかしこういったテクニックよりも、重要なポイントは、タイトルがそのままメッセージになっていることだ。言いたいことが、一言で表現されている。例えば、 「直間比率を気にするな」(14/1/30掲載) 「時代遅れの二次評価」(15/1/20掲載) 「従業員満足はいらない」(17/3/7掲載) 「管理という誤訳」(15/8/18掲載) といったタイトリング。内容を読まなくても、何を言いたいのかがイメージできる。つまり、タイトルは、何かを語っていなければならないのだ。これは、コラムに限らず、あらゆる文書におけるタイトルの要件である。  社内の告知文書でも、よく「○○〇について」とかがタイトリングされることがある。これは何も語っていない。本文を読んでいって初めて何が言いたいのかがわかる。読み手に取って極めて非効率だし、読むモチベーションもあがらない。結論を一言でいうのは難しくても、せめて、論点ぐらいは匂わせたい。例えば、 「残業時間の削減施策について」ではなくて「残業時間の基準と運用ルールの策定」 「生産性向上施策について」ではなくて「メール文面簡素化に始まるコミュニケーション効率化施策」 「女性活躍推進施策について」ではなくて「女性管理職比率〇%へむけた行動計画」 といったタイトリング。社内施策なのであればなおのこと、何をしようとしているのかが一目瞭然でなければならない。読まなくても、見出しを目にしただけで経営のメッセージが伝わることが第一に重要だからである。  しかしこの事情は、書籍となると少し異なる。仕事で必要な知識や考え方を知るための本であれば、まったく同様な観点でタイトリングされるべきだろうが、刺激的な思想を味わう愉しみや気づき喚起の悦びを旨とする「快楽読書」には、魅力的な気配をまとうタイトルが必要になる。つまりは、レトリックのワザや細心かつ戦略的なコトバ選びである。  例えば、個人的にはここ数年でもっともインパクトのあった本のタイトルがこれだ。本屋で手に取り躊躇なくレジにむかったのだった。 「世界のなかにありながら、世界に属さない」

「わからない」を許さないオンライン研修 | 人材開発

「わからない」を許さないオンライン研修

 集合型研修は姿を消し、各企業の社内研修は、オンライン研修一色となりつつある。まずは「密を避ける」という社会的要請に合わせられ、かつWEB会議アプリケーションをうまく使えば、集合研修の効果を「集合するコスト」なしに得られるという、いわば対症療法としての一斉実施といえるだろう。  ともすると、集合研修の代替可能性とコスト効果だけが喧伝されるきらいがあるが、オンライン研修ならではの効用は、実はかなりある。そこを意識した設計と運用を行えば、従来型集合研修の多くはもはや戻る気が起こらない旧型研修にみえてしまうほどだ。  オンライン研修の最大の効用は、座学ではなくトレーニングとして手を動かし、参加者一人一人が理解しスキルアップする――つまり、「反復学習」性と「個別指導」性がいかようにも組み込めるということだ。  集合型研修ではときに、「その場ではわかった気になるが、仕事に戻るとわすれてしまう」といった身もふたもない反応や、「なにより他部門の人と話せたのがよかった」と研修目的とはズレた満足度の高さになったりもすることがある。  そうした行事的研修を排し、実効性の高い研修にするためには、①事前の課題把握(調査や測定による受講生の行動課題の特定)を行い、②その課題解決につながる実践的な研修(絞り込んだスキル教育とリアルな職場課題の演習)を組み、③事後の行動実践を踏まえた効果測定、という「事前・事後まで含んだ設計」にするというのが、常套手段だ。つまり、真の課題にミートした研修を行いその実践状況を追っかける。  それでも肝心の研修自体は、集合させ一日で終わらせるという制約上、どうしたって、なるべく多くの人の理解度向上/スキル向上はできても、全員がそれぞれにレベルアップするところまでは追求できない。ところが、オンライン研修では、受講生の理解度を都度把握しながら、レクチャー内容を調整し、個々の演習のアウトプットを踏まえてできるようになるまで反復訓練をすることができる。要は、きめ細かな理解状況適応と個別指導により全員のスキル向上を結果しうる可能性があるのだ。  研修は、A.レクチャーパート(=インプット)とB.演習パート(=アウトプット)とC.演習の解説・指導パート(=フィードバック)の3つで構成される。A.レクチャーパートをとってみても、集合研修でも単に講師が話すだけではなく質疑をうけつつインタラクティブに進めるのが講師ワザだが、オンラインでやるとすれば、多彩な双方向性と個別性を仕込める。  たとえば、講師が15分ほど話したら、全員に理解度や個別課題に関する問い(=アンケート)を出し、全員の回答をすぐにグラフ化して提示したり、題材となる回答を紹介して論じたりする。理解度の低い人たちをグルーピングし、のちのB.演習パートで、そのグループには固有のレクチャーや演習を課して分からせるといった運用をしたりする。  レクチャー中でも、チャット機能で常時質問や不明点を受け付け、講師が必要と判断したら、説明を加えたりする。受講生の表情がはっきり見えるので、首をかしげていたり集中してない顔つきに気づけば、講師から指名して質問したりするから、皆真剣にならざるを得ない。手を変え品を変え、理解度を確認されるから、「よくわからなかったけど、、」、とか「なんか違うと思うけどまぁいいや」と研修を終えることは許されないのだ。  加えてより重要なのは、反復学習の全面展開だ。上記のA→B→Cを小さなサイクルで繰り返したり、都度スキルレベル別にわけたグループごとのサイクルを回わすなどでしつこく習熟を図る。移動して集まる負荷がないだけに、1日研修ではなく、3時間程度の研修を2~3回に分けてやるなど、短時間研修×複数回の連続研修を様々に組むのがよい。  連続研修として組んだら、各研修後に事後課題を課し、そのフィードバックを(とくに課題ある受講者には)個別にWEB面談で行い、意欲喚起とスキル向上を直接支援するとなお効果的だ。こうした反復学習は、とくに、新任管理職向け評価者研修など、徹底した評価の体感理解トレーニングとしてお勧めしたい。  集合研修と同じコンテンツの流用や従来型の職人講師ではこの意味での研修効果は望めない。反復性と双方向性と個別対応を最大化するには、アンケートシステムの組み込みや柔軟なグルーピング法など綿密に設計されたうえで、「状況適応運営に長けたオンラインコーディネータ」と「全員もれなくわからせることに執着する講師」とのタッグでの運用が必須になるのである。

ひきこもりのダメージ | その他

ひきこもりのダメージ

 皆が家にこもる状況は脱したものの、対面・接触をさける生活は終わりそうにない。世界中の感染状況をみると、いつまた外出自粛の号令がかかるかもしれない危機のなかにあり、かつてのような人と人のリアルなコミュニケーションが普通だった時はもう戻ってこないように見える。  多くの人がひきこもることで出来るもっとも大きな問題は、社会性や共同性、つまり、関係のなかでヒトは生きているというプリミティブなコトワリが、対面できない「非接触」のなかでどう変容するか、だろう。  人は他者との関係のなかで、自分自身の存在理由を確認する。関係のなかで、機微や情や愉楽を交換し生きることの彩りを感得する。すでに我々は、ネットワークインフラのおかげで直に会わなくても用が足りる利便性を享受しているがそのうえでなお、不要不急のふるまいとして、あえて顔を合わせ、直に話すことをしてきた。ネットの利便性を補完するものとして、そうした人間同士の交流、熱量や体温を感じるコミュニケーションを必要としてきたのも、そうしたコトワリの現れだった。    こうした対面接触なしの対人関係がもたらす、いわば情緒的なアイデンティティクライシスは、もしかすると社会の死を意味するくらいのインパクトがあることかもしれないが、組織での協働という点でいえば、もっと具体的なコミュニケーション上の問題がある。それは、コミュニケーションの生成機能に対する、実態的ダメージだ。  WEB会議をはじめとするコミュニケーション手法の拡大・進化によって、言葉だけではなく表情、態度、文字、絵などの「記号」のやり取りは、代替できるだろう。しかしコミュニケーションは、何かすでにある情報を伝えるだけではなく、コミュニケーションのなかで新しい情報(=アイディアや新しい発想)が生成されるという機能ももつ。  自動車の製造現場でうまれた「カイゼン」は、部門を超え職位の違いを超えて人が集まり、現場現物によるコミュニケーションによりわいわいがやがやと問題解決をはかる手法としてその有効性がよく知られる。「真の問題は現場に存在する」ことを前提に、徹底して現場でモノを見て率直に意見を出し合い、例えばモノを動かしてみるといった解決策をその場で試すといった集団での活動が、新しい発想の生成を相乗し、改善のみならず改革につながる。  ここで喚起されるコミュニケーションの創発性、組織論でいう「場の創造性」は、個々の異質性の交換/相互作用を要件とする。異質性は、「記号」のやりとりだけでなく、あつく語る人々の熱気、共感して肩を叩きあい、笑い、また反発して憤るといった感情の交換でもより一層際立ち、グループダイナミクスを促進する。  こうしたダイナミズムが「集まらない、対面しない」から失われるのだ。それは、イノベーションを迫られる企業組織にとって実態的なダメージであると同時に、働く人々にとっての醍醐味、モチベーションエンジンもまた損なうことだろう。対面することなく「カイゼン」すらも媒介できるコミュニケーションプラットフォームもまた技術進化によって登場するかもしれないが、それでも、集団でなにか新しいものを生み出す際の想念のうねりや坩堝が、あるいは生み出し得たときの一体感が、そこに生まれるかどうかは、期待できない。それは、アタマで理解し共有するというよりも、もっとアマルガムな、身体性の一体感だからである。  

メディアとしての社員 | モチベーションサーベイ

メディアとしての社員

 企業統合や経営/事業変革に伴い、ミッションとビジョンを改めて策定することは最重要施策といってよい。付加価値として何を生産し、社会に対してどのような貢献をなすことでコーポレイトサステナビリティを実現するか。そのエッセンシャルな意思表明がミッション、ビジョンであり、企業活動のブランディングの核となるものだからである。    ブランディングの核とは、対外的には、事業活動を通じて形成される企業イメージの統一軸であり、対内的には、事業活動を担う社員が主体的に行動する際に常に参照すべき軸(=基準/規範)だということだ。事業活動とは一人一人の社員の仕事の集積だから、とくに大事なことは後者。ゆえに、新しいミッション、ビジョンは制定後に、いかに全社に浸透させ、企業活動に反映させていくかがまず最初に問われ、インターナルコミュニケーション戦略の巧拙と徹底度がその成否をわけることになる。  ミッション、ビジョンの背景や意義/意味を理解させるべく、さまざま機会を設けての広報(=ビデオメッセージや階層別勉強会等)、経営陣による車座セッション展開、行動基準やバリュー評価項目へのブレークダウンなどがなされるものの、ともすると、理解は進むけれどもどこか「会社の方針だから」といったやらされ感を払拭できずに、主体的行動が生成するという意味での「浸透」には至らなかったりする。  行動喚起のポイントは、一人一人にとっての「自分ゴト化」である。新たなミッション、ビジョンが、自分にとってどういう意味をもつのか。自分の将来とミッション、ビジョンが示す会社の将来を関係づける――つまり、自分の夢、仕事を通じて実現したいこと、キャリアビジョンといった個人的な想いとの重なりのなかで、会社のミッション、ビジョンを肚落ちさせる。社会性と抽象性の高いステートメントというものは、自分にとっての意味づけができて初めて、具体的な行動実践への意志を持てるのだ。たとえば自己言及とグループダイナミクスを組み込んだプロモーションにより、そうした内省/言語化ができれば、あとは、実践に向けてのスキルをインプットしてあげればよい。  さきに、ブランディングの核は、対外的なイメージ統一軸と対内的な主体的行動の参照軸の二つと言った。インターナルコミュニケーション戦略の要諦となる「自分ゴト化」は、もちろんこの後者に資する施策ではあるが、実は、前者の企業イメージ形成にも直結する。社員一人一人の一挙手一投足から、顧客はその会社ブランドを感じとる。つまり、一人一人の社員が、顧客のイメージ形成の際のタッチポイントになってしまうからだ。  全ての個々の社員は、ブランドに即した行動の実践者であると同時に、顧客や市場や社会に向けて自社のブランドを伝えるメディアなのである。一人一人の社員が、社会に対するブランディング・コミュニケーションのメディアであるからこそ、自分ゴト化することにより生まれる「ブランディングへの信念」が、見えないけれども感じ取れるメッセージとして伝わることで、リアリティをもったブランドイメージが接する顧客や社外の人々のなかに形成される。  メディア戦略とは、広告媒体をはじめとしたさまざまなPR/コーポレートコミュニケーション媒体活用を「社外向けのメディアミックス」としてではなく、「社員というメディアを補完し増幅するもの」として、組み上げなければならないのだ。つまり、社会に対するブランドプロミスの発信のターゲットは、つねに、まず第一に社員なのである。

対人能力は必須か | 人材アセスメント

対人能力は必須か

 社会で働くために必要な能力=就業スキルとして、コミュニケーション能力は必須のものとされる。社会人基礎力には、「チームで働く力」として発信力、傾聴力、柔軟性などがあげられ、社員教育では早い段階からビジネスコミュニケーションのスキルが教えられる。管理職昇格アセスメントの評点が、「思考能力」、「対人能力」、「資質/姿勢」の3領域で測られるように、マネジャーのスキル要件にもコミュニケーションスキルは欠かせない。  ゆえに、どの会社でも、きわめて高い思考力や高度な専門的スキルをもっていても、コミュニケーションが不得手な人はなかなか肩身が狭いことになる。人との関係形成が苦手だったり、対人感受性に欠け人の気持ちがわからない人(=私です)は、職業人として課題あり、とされる。とくに、人を動かして組織成果を出す役割の管理職なら、対人能力欠如はまず問題視されるだろう。  しかし、ほんとうにそうか。仕事で成果を出すうえで、対人コミュ二ケーション能力は必須なのだろうか。業務上必要な意思疎通さえできれば、それ以外の対人配慮、たとえば、感情や想いへの気配りや、態度や表情といった非言語的サインの察知、ヒドゥンアジェンダ(=隠されているテーマ)への忖度、チームを盛り上げんとする言動などなどは、それはあった方がよいけれども、必須ではないし、ときに邪魔だったりもする。  チームワークにおいて大事なことは、言語化された明示的メッセージをきちんと受発信することで、それさえ徹底されれば、余計なコミュニケーションのワザなど必要ない。メッセージが曖昧だから、察知し、気遣い、忖度するスキルや四の五の言わなくても通じる信頼感の醸成のワザが、補完的に求められているにすぎないのではないか。  よく知られるように、多民族が協働する多国籍企業内のコミュケーションは、意思や要求を明確に言葉にしてやり取りすることこそを必須とする。対人関係の常識の背景(=文化・習慣・感性)がまったく異なるから、すべては言葉にして伝えるのであって、「行間」を読むことなどそもそも前提しないのだ。すでに日本の会社も、年齢や価値観や他者感覚における多様性の組織であり、メッセージの言語化/明確化こそが、協働のためのコミュニケーションの原点だろう。  「言語化された明示的メッセージをきちんと受発信する」ための能力は、思考能力(=理解力や論展開力や概念化力など)と姿勢(=達成指向や誠実性や自律一貫性など)である。いわゆる対人能力(対人理解力、共感力、関係形成力など)ではない。人と協働するうえでは、共感や関係形成ができたほうがもちろんよいが、思考力や姿勢面で優秀であれば、あるべき対人行動を「演じる」ことができるから、その意味でも、生来の対人能力はなくても問題はないのである。    そもそも、仕事をするうえでコミュニケーションスキルが必須となったのは、人類の長い歴史のなかでは、ごくごく最近のことだ。自然に働きかけて直接に商材を得る仕事(=第一次産業)や自然界のモノを加工して商材を得る仕事(=第二次産業)では、身体的技能こそがコアスキルだった。例えば偏屈で人づきあいできない職人でも、モノづくりの腕が良ければそれだけで評価されていただろう。  就業者の大半が第三次産業、つまり人を相手にしたサービスを商材とする仕事に従事する現代になって、対人コミュニケーションが重要なスキルとして台頭してきた。自然を対象にするスキルやモノを対象にするスキルではなく、ヒトを対象にするスキルが重要視され、高度消費社会の進展とともに、対人能力は社会の基盤的なワザかのように見なされるようになったのだった。  技能があるだけでは許されずに、つねに対人配慮性や対人能力が求められる現在の状況は、しかし、人々を能力評価する眼を曇らせる。ヒューマンスキルは「人を動かし成果を拡大させる」能力ではあるが、もともとのアイディアや新しい機能や手法を生み出すのは、コンセプチャルスキルとテクニカルスキル。つまり、思考や身体の技能こそがパフォーマンスの源泉たりうるコアスキルだろう。  職人の方々は、よく「身体が覚える」とか「手で考える」と言う。近年、「身体性の復権」がイノベーションの鍵だといわれる意味でも、対人能力の偏重には気を付けなければいけないのではないか。

読書の弊害 | 人材開発

読書の弊害

とにかく本を読もう――ビジネスパーソンにとっての読書の効用を何度も書いてきた。 「管理職にとって大事なことは、みな本に書いてある」と強調し、ドラッカーやコッター等の古典的名著を次々読ませる経営幹部育成研修の成功例を紹介した。読書とは結局「自分を読むこと」であって、自己流のやり方を体系づけ整理するのが大人の読書だとも書いた。組織で成果を上げていくには、本を読まなくては始まらない。かつての広告コピーにあったように、そもそも「人は、本を読まねば、サルである」なのだ。 そのうえで、本を読むことには弊害もあることに注意しなければならない。たくさんの本を読むことが、「考える力」の劣化をもたらすことがあるのだ。なぜか。ともすると、情報や知識を求めて本を読む。方法を求めて本を読む。つまり、「答え」を求めて本を読むから、その繰り返しは、自分で考えるという行為をよこにおいてしまいがちだからだ。 結果、有用な知識を獲得できるけれども、自分なりにそれを実践に結び付けることにはならない。自身の固有の状況下で、自分はどうするか、どうすればよいかは、本には書かれていない。そここそを考えるのが、本の情報を消化する――つまりは、本を「使う」ことだが、知識や理屈や一般的答えを知る行為に注力するあまり、そこに至らなかったりする。 何らかの知見や答えを求めて本を読むことは、自分のアタマで考えることとイコールではないから、熱心で集中度の高い読書であるほど、知識は増えるけれども考える力は鍛えられないという悪しき側面を持つのだ。 何らかの企画をするときに、すぐに自分の経験や知識であてはめようとする――つまり、手持ちの処方箋でこなそうとして、その目的や課題の本質を深く考えない結果、的外れなアウトプットを出す輩が、えてしてこの手の「読書家」だったりする。当たり前だが、情報知識をどんなに集めても、思考力そのものは身につかない。知識獲得や整理の効率化や視野が広がるという意味で思考の役には立つけれども、地アタマは鍛えられない。 ではどうするか。受け身ではなく、攻撃的に本を読めばよいのである。知らないことを本から学ぶ、ではなく、自分の都合で本と議論し、本に突っ込みを入れ、分解したり統合したり横へ跳んだりして、本を蕩尽するのだ。本をしゃぶりつくすということもあれば、ほんの少しつまみ食いして読み捨てたっていい。むしろ行儀のわるい食い散らかしこそが、考える読書の醍醐味かもしれない。 たとえば、まず前書き後書きを一読し、目次を眺めて、仮説をたてる。著者の主張や結論の仮説ではない。自分の仕事や生活の問題課題への活用の仮説、どう使えるかの仮説である。あるいは世界認識の仮説、大げさに言えば世界と自己との関係課題を腑に落とす材料たりうるか、の希望的観測である。 その仮説を軸に、本のコンテンツに臨む。読みながら、仮説が修正されたり、仮説が木端みじんにされたりする。うまくいけば、仮説が検証されたり、新しい仮説が見えたりする。つまり、自分なりの仮説検証をもって読むことで、その本を、自分なりに意味づけることができる。  などというといかにも難しそうだが、簡単にコツをいえば、要は本に「答え」を求めるのではなく「問い」を求めればいい。仮説をもって本を読めば、読後には、いくつかの問いが心に浮かぶはずだ。だからむしろ、読み終わったあとに、必ず新たな問いを持つことを自身に強制して読む。つまり、問いを見つけるために読むということである。 本を読んで生まれた「問い(=問題意識)」は、本と読み手の相互作用の結果であり、なにより、自分で考えるからこそ問うことができるのだ。

意味はいらない? | その他

意味はいらない?

  異動したばかりの部署で作業の引継ぎを受けている人(Aさん)が、教える人(Bさん)に質問している。 A:「この作業ってなんか無駄だなぁ。なんのためにやるのかなぁ。やる意味を教えてくれない?」 B:「えッ? 私もそのようにしろと言われてやってきたので、知りません」 A:「だってどう見ても意味ないじゃない。そう思わないの?」 B:「考えたこともありません」 A:「!?・・・・・」  「なんのための作業か」を知らぬまま作業するBさんの問題とは、あきらかにBさんの上司の問題である。作業の「目的」や「意味」を必ず教えることが「正しい業務指示」の鉄則だからだ。目的がわからなければ、やりきる意欲もでないし応用も効かない。そもそも、作業者に責任感や主体性を求めていないか、そのことに気づかない無能な上司ということである。  しかしそれ以上に不気味なのは、Bさん本人である。何のためにやるのか=目の前の仕事の意義や意味、を知らずして人は働けるものなのか。まず目的を語れ、というのが業務指示の鉄則だというのも、そもそも人は、「仕事の有意義感によって仕事に前向きに臨める」というコトワリが前提されているからなのだ。  報償や強制によらず人をやる気にさせる要因(=内発的動機づけ要因)の最たるものは、「仕事そのもの」といわれる。仕事自体の面白さや魅力だったり、社会や会社への貢献実感だったり、キャリアアップにつながるからモチベーションがあがる。要は自分の目の前の仕事に「意味」があればいい。たとえばモチベーション論でよく知られるハックマン=オルダムの5つの職務要件でいえば、 ①Skill Variety  ②Task identity  ③Task significance の3つが、「意味ある仕事」の条件だ(残りの2つは、④Autonomy ⑤Feedback)。  平たく言えば、 ①自分の複数のスキルが生かされると実感でき ②仕事の全貌がわかり、担当職務の位置づけを理解していて ③重要性 (社会にとっての、自社にとっての、自部門にとっての、あるいは協働する仲間達にとっての…)がわかっている。  とくに大事なのは、②Task identity。たとえ分業の一端を担っている単純作業だとしても、仕事の全体像と関連する他職務との関係のなかでアイデンティファイされることで、人は自分の職務の有意味感を得る。そもそも「大人」とは、自身の状況を意味づけ関係づけないと生きていけない事情があるから、このようなモデルが成立するのだ。  赤ん坊が外界の刺激にさらされていく中で、意味や関係のなかでモノゴトを秩序づける修練を積んでいくことが、人の精神発達=つまり大人になるメカニズムである。そのように大人、つまり社会的存在になった人は、なにごとにも、意味や関係を見出そうする。もはや、無意味には耐えられないはずなのである。  大人であるはずのBさんはしかし、自身の職務遂行に際して、職務の意味を必要としなかったということである。  さて、Bさんをやる気にさせるにはどうしたらよいか。もしかするとBさんは、社会性や共同性(=関係の中での意味づけ)をはぐくむよりも、自身への関心や自分の流儀に閉じがちな成長をしてきたのかもしれない。だとすると、彼をその気にさせるボタンは、むしろ自己完結性の強化にこそあるのかもしれない。  さきのハックマン=オルダムの説でいえば残りの二つ、④Autonomy ⑤Feedback、自律性と結果の確認である。自分のやり方で業務をすすめ、都度、結果がどうなったかがわかる――仕事の全貌や意義ではなく、切り取られた目の前の職務だけについて自分の流儀で結果を出せること。そうした自己完結的な業務遂行がBさんのモチベーションにつながるのではないか。  というのはまったくの仮説である。ただ、Bさんタイプはときに作業者として優秀で高いパフォーマンスを出したりもするから、なにか定石どおりではない業務指示でモチベートする必要があるはずだ。もしかすると、Bさんの上司は無能どころか、多様性を踏まえて、たとえばこのような仮説を実践する手練れの管理職なのかもしれない。

概念化力を高める | 人材開発

概念化力を高める

 社会人としての基礎スキルの思考面の力といえば、「課題発見力」「計画力」「創造力」(=経済産業省社会人基礎力の「考え抜く力」)などといわれ、ベーススキル研修として、ロジカルシンキングや課題解決スキル、あるいは段取り力、プロジェクトマネジメントスキルといったテーマがよく取り上げられる。これらは、確かに大事は要素能力ではあるが、ビジネスマン、とくに管理職者にとって、もっとも大事な能力は「概念化力」である。  概念化力とは、状況の本質をとらえ、端的に表現する能力。それはビジネスシーンのあらゆる局面での基盤スキルであり、大半の「困った管理職」はその欠如に起因する。たとえば、大局観のない自部署の方針、目的を逸脱した対症的判断、要を得ない経営報告などなど、経営者を怒らせる管理職者たちはまず第一に概念化力に課題があるのだ。  報告を聞いていていらだち「要は何なんだ、一言で言え!」という怒号や、現状課題や実績から積み上げられた計画に対して「いったいどうしたいんだ、コンセプトがない!」という叱責は、実に日常的によく聞かれることではないか。この能力は、目的志向での職務遂行や的確なコミュニケーションにも直結する、つまりパフォーマンスを左右し、また、経験から学ぶための思考方法(=経験の本質をとらえ、他に展開できる)でもあるから、管理職に限らず、社会において仕事をする際のベーススキルでもある。  さて、そのようなキースキルである概念化力を、どう高めるか。残念ながら、概念化力向上トレーニングといった便利なものがないように、その育成方法は明確ではない。ただ2つの実務的なスキルが強く関係しているので、その向上は概念化力のブラッシュアップにつながる。  ひとつは、文章力だ。採用選考に文章を書かせる試験があるように、文章をみれば、いくつかのアセスメントディメンションでの評定ができる。それは、文章から信条や姿勢や問題意識を読み取れるからではなく、文章には純粋に思考力のレベルが顕れてしまうからだ。文章、とくにビジネス文書を書く能力とは、「本質抽出能力」と「論理展開能力」であり、だから能力評価にも使えるし、文章力を高めることでそれら能力向上のトレーニングができる。  例えば、我々のような仕事であれば、複数の経営幹部のインタビュー記録が大量にあって、それをもとにその会社の課題をまとめ200字以内の報告書に書き上げよ、といった演習をくりかえす。ここでは、情報を精査し、得られた内容を構造化し、関係や因果や相似を見極め、いくつかの課題にまとめ、分かりやすい順番で文章化する、そのプロセスが問われることになるから、このトレーニングによって「要約」というスキルを理解し向上させることができる。  要約力は、文章の内容(=コンテンツ)にかかわる能力だが、文章には内容とともに表現力も問われる。わかりやすく伝えることのベースは、論理展開力であってそれはロジカルライティング研修などで学べるが、もう一段上の表現上のワザがレトリック(=修辞)だ。レトリックは、読み手の印象を操作する法なので、ビジネス文章ではあまり使われないが、提案文書ではここぞという記述で有効だったりする。  レトリックの一つに比喩がある。直喩、隠喩(=メタファー)、換喩(=メトノミ―)など手法はさまざまだが、要は、伝えるべきモノゴトを別のものに置き換えて言うことによって、読み手の気づきや実感を喚起するテクニックだ。この置き換えが適切で成功するためには、置き換えるモノゴトとの共通性が妥当でなければならない。つまり、それぞれのモノゴトの本質をつかむ――概念化力が問われるのである。ゆえに、レトリックの訓練(=例えば相似によって横に跳ぶ演習)もまた、概念化力向上につながる。  もうひとつの、概念化力と関係する実務スキルは、デザイン力である。とりあえずは、パワーポイントの資料を美しく作れるようになるためのトレーニングから始めるのだっていい。「書類として美しくない」イコール「コンセプチャルでない」なのである。デザインとは、構成化と意匠化のワザであり、語源を「de-signare」というように、「脱-しるし(=signare)化」し、意味をカタチにすることなのだから。

愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

変われる能力 | その他

変われる能力

 昔、ユビキタス(ubiquitous)という言葉が流行ったことがあった。いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークを使える社会を展望する用語だったが、いまや、もうスマートフォンによりそれは実現できていて、こんな言葉はことさらに使われることもなくなった。  インターネットをインフラとし、AIなどの先端技術は想像を絶する速さで作業を変えサービスを変え、働き方を変えていこうとしている。経営者の方々は、現在視点ではなく未来視点をもって、中長期の戦略を描こうと日々腐心されているが、10年後20年後の将来ですら、その経営環境を見極めることは難しい。  未来の自社の必要人材像とあるべき組織像を描き、今から、人材育成や新たな就業のしくみづくりに着手したいけれども、10年後20年後の人材要件=どんな専門性をもち、どんな能力をもち、何にモチベートされるのか。そのあるべき論はなかなか作り得ないのだ。それほど、第四次産業革命と呼ばれる今直面する環境は、先が読めない。 ただ、人材要件として、ひとつだけ確かなことがある。不安定で不確実で、複雑であいまいな状況の中で、対応できる能力。つまり、変化に対応し、新たな環境に適応する能力が求められるということだ。その能力とは、要は、「変われる能力」ではないか。何よりまず、自分が変わることができなければ、新しい発想や大胆な判断も生まれないし、環境適応とは適応できるように自分が変わることだからだ。 では、変われる能力とは、どのような能力か。 それには、まず人が変われない理由から考えてみるのがいい。常識や固定概念や過去のやり方が新しい発想や方法の創出を阻害する。それらは、今まで有効だったし、繰り返しのなかで強化され、堅固に出来上がっている。思考や認識が、そうした出来上がった枠組み(=パラダイム)に縛られているから、その外や異質な世界を自在に感じ、自身の考えを変え行動を変えることができないのだ。 であれば、第一に、パラダイムを完成させなければいいのではないか。ものを見る軸や整理のしかたを、常に、未完成の状態にしておいて、新しい事態に臨む。パラダイムをゆらいだ状態にとどめ、決して、定めないという自然体で変化をうけいれるということだ。その事態や事象を整理すべく、都度、適切な軸やフレームを創出するという意味の創造力。やわらかいアタマが大事とはそういうことではないか。 人の身体の免疫システムには「自己不完結性」という特徴があると、生命科学者の清水博さんに聞いたことがある。外敵が侵入してきたにとき、初めてその外敵に応じた適切な免疫システムが「生成する」。どんな外敵が侵入してくるかは、事前には分からないので、防御体制はできあがっていない(=完結していない)状態にある。だからこそ、都度、どんな外敵にも適応することができるのだ。 つまり、「今ある自分を変える」のではなく、環境との関係の中で、「都度、新しい自分になれる」こと。変われる能力とは、独自の、独立した「自分という完結」に決して至らないでいられる力といってもよい。いわば、自身を完成させないでいられる能力。大人としての成熟なんて、目指してはいけないのである。

成長幻想 | その他

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。 成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。 おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。  つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。  さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。 しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。  ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

人を好きになるスキル | その他

人を好きになるスキル

 経営幹部育成のアセスメントとコーチングで定評ある人物がいる。アセスメントの結果明らかになった強みと弱みをベースに、強みを伸ばし、弱点を克服すべく、定期的なコーチングをしていくのだが、この人の凄さは、強みのまったくない、いわば箸にも棒にも掛からぬ人材であっても、明らかな成長を結果させることだ。  いったいいかなるワザを使うのか。聞くと、「要は、徹底した褒め殺しなんだよね」と笑って答える。さて、よくいわれる、褒めて伸ばすのポイントは、やみくもに褒めるのではなく、本人もよくできたと思っているあたりをきちんととらえて褒めることである。しかし、箸にも棒にも~~の人物であれば、できたと思えることがらを探すこと自体が難しい。そこをいかに褒め殺すのか。  いわば、褒める点がないのに褒めるということである。「それはねぇ、ふつうに褒めてもまったく届かないし、効果ない。ただね、褒めてくれる相手が、本当に自分のことを好きで褒めてくれるとなれば、がぜんやる気になるんだ」と彼はいう。褒められるはずもないのに、おためごかしでなく褒めてくれる、その本気さは、自分への好意に裏打ちされているからこそ伝わる。そこで素直に期待に応えようと頑張るということである。  「だからさ、まず、その人を好きになるんだよ」とその秘訣を語る。しかし、好き嫌いなんて生理的な感覚を、意思をもって制御できるんだろうか。ありていにいえば、コーチングのプロとして成果を出すために、その人を好きになる。しかも、本気で好きにならなければ、効果はないのだ。仕事のためとはいえ、「この人を好きになろう」と決めて好きになるなんて、器用なことができるのか。  と疑問を呈すると、「それができなきゃだめでしょ。そもそも部下を好きになるスキルこそ、管理職者がもつべき基本スキルなんだから」と彼は答える。では、好きになるにはどうするか。「そのためには、まず、その人をひとりの人間として認め、その人ならではの人となりに興味をもつことだ」と続けた。  なるほど、好きになるとは言葉の綾で、まず第一に、その人そのものを認める、というか畏敬の念を持つことが大事なのだ。能力とか出来不出来とか性格的問題とか以前に、ひとりの人間としての尊厳に敬意を払うことができれば、その態度はおのずと自分への好意としてうけとられるのだろう。  例えば、医療現場でよく語られる医者の基本姿勢というものがある。医者が投薬をするとき、なぜその薬が必要かを説明する。ともすれば、専門家の助ける人=医者と、素人の助けを求めている人=患者の関係のなかで、一方的なコミュニケーションになることが多い。しかしその際に、なにより患者自身の意思や納得感を尊重して、つまり畏敬の念をもって接することがいちばん大事で、それにより、投薬効果も高まるといわれている。  そういえば彼から、人を切り捨てるような言い方を聞いたことがない。悪口や批判はいうけれども、あたたかい。どんな人にも、人としての尊厳、平たく言えば、それぞれの来し方行く末に対して敬意を払い、かつ、その個別性をなにより面白がっているように見える。そう、その人を面白がる=興味を持つ、これが第二のポイントなのである。  「人に興味を持つ」というと、もうひとり思い出す人物がいる。もう20年以上前のころだが、優秀な管理職者だなぁと常々感心していた取引先の課長がいた。会社もその課長の管理能力を高く評価していて、どこの部署でも鼻つまみ者になる問題社員ばかりが彼の課員として次々送り込まれてきていた。そこでちゃんと「再生」させるのが見事だったが、いかにもたいへんな仕事だな、と思って、その苦労を聞いてみると、愉しそうにこう言った。  「いやすごく面白い。コイツは、ここを押すと、動く気になる、アイツには、この言葉が響く、とか、みんな違う。それぞれのスイッチを探し出していくのがたまらない醍醐味なんです」