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吉岡 宏敏

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大人のコンプライアンス | その他

大人のコンプライアンス

 コンプライアンスの訳語は法令順守とされるが、法令順守ができていることは、コンプライアンスのミニマムレベルにすぎない。 前都知事をめぐって異様に繰り返し聞かれたセリフ「違法ではないが、不適切」ではないが、法令は守っているがコンプライアンス上はアウトという事態は少なくない。「法を犯していないのだから問題ないじゃないか」は、ものごとの軽重や良し悪しに関する社会的な視点を欠いた子供の理屈である。コンプライアンスとは、「規範」に従うことであり、その規範とは法律以外の社内諸規定はもちろん、公正、秩序、倫理といった社会の規範にまで及ぶからだ。 よく知られるように、コンプライアンスで守るべき規範のピラミッド構造では、底辺に(1)法規範が置かれ、次に(2)社内規範、次いで(3)企業倫理規範、頂点に(4)経営理念・ビジョンが置かれる。つまり、「(1)合法的行動」、社内の「(2)リスク管理行動」は大前提。法を守り会社のルールを守るのは当たり前で、そのうえで社会の規範たる「(3)模範的行動」が強く求められ、さらにその会社としての「(4)理想的行動」を目指さねばならないということである。 しかもその行動は、自社のすべてのステークホルダーズとの関係において問われる。CSRの世界では「CSR調達」という言葉があり、材料調達先企業を含むサプライチェーン全体でCSRがなされなければならないとされるが、そこでいうCSRの防衛的側面はコンプライアンスの堅持だ。自社のリスク管理のみならず各ステークホルダーズのリスク、つまりは「社会のリスクマネジメント」責任までが問われ、社会の模範たる行動が要請される。 まさにコンプラピラミッドの第3レベル、企業倫理規範に基づく模範的行動、つまり、社会の一員であり社会の秩序を保つ「大人の企業」としての振る舞いが求められているのだ。しかし、法規範や社内規範は明文化されているから明快であるが、そのように定まっていないなかで行動判断しなければならないこともある。だから大事なことは、判断基準たりうる企業倫理規範があるか、そしてそれが順守できるように社内に浸透しているか、ということになる。 しかし「わが社の企業倫理はなにか」と問われ、即答できるひとがどれだけいるか。倫理などというものは、常識的に考えればわかるというむきもあるかもしれないが、「常識」は個々人で異なる。そのちょっとした常識の違いの結果が、利益追求や損失回避を目的とした行動判断のなかで倫理的逸脱=企業の不祥事となるから厄介なのである。当たり前の常識とか人々の良心に頼るリスクを無視しないことこそがコンプライアンスの要諦であり、まずは、個々人の「外」に、準拠すべき規範を可視化しなければならない。自社の企業倫理規範を定める、ないしは明文化するということである。 では企業倫理をどう定めるか。難しいのは、経営ビジョンや理念と違って、企業倫理は固有に独立的には作れないことだ。組織の持続的発展のための組織倫理はもちろん、たとえば市場倫理、職業倫理やさらには地球で暮らす人類としての世界倫理など他のさまざまな社会の倫理を踏まえなければならないし、またそれらは、時代とともに一定ではない。変化する社会の価値観にずれることのない、現代の企業倫理を定め続ける必要がある。 しかしだからこそ、自社の企業倫理の定めがいがあるというものではないか。すでに多国籍企業のように国を超えた企業体もあり、一企業として、正しい企業倫理を定めることの社会にとっての意味はきわめて大きい。必ずしも「大人」でない国や民族や人々が存在し、グローバルにもローカルにも、倫理という規範が盤石でなくなっているのだから。

階層別研修の復権 | 人材開発

階層別研修の復権

 ときに、「社長塾」といった選抜育成施策がある。その多くは、次期経営人材の育成を目指し、管理職層からの選抜メンバーを社長自らが鍛えるといったしつらえだ。その背景には、現状の管理職スキルレベルに対する社長の不満と危機感があり、その事態を招いたであろう従来の管理職教育や人事部任せの階層別研修への不信がうかがえる。  教育研修がかつて作られたしくみのままで行事的な運用をされてきたとすれば、その社長の想いも当然だが、だからといって、選抜育成施策だけが解決策ではないだろう。「社長塾」そのものは有効で成功例も多いが、中長期的な管理職育成の仕組みとして階層別教育がベースとして機能していなければ、短期的対症療法的施策にとどまらざるを得ない。いま目につく限りの予備軍たちをなんとか経営人材に育てたとしても、そのあとが続かないからだ。  やるべきことは、経営人材予備軍を一定数輩出すべく階層別研修を刷新することではないか。それには、二つのポイントがある。まず、最初に行うことは、「あるべき論にもとづく一律教育」からの脱却である。昇格後研修(=新任管理職研修など)は、あるべき知識・スキルのインプットだが、当該階層の既任者に対しては、現状のスキル課題に応じた育成施策を組むことこそが実践につながる教育である。  たとえば、課長たちのスキル課題には、共通するものと個別的なものがある。そうした課題の状況を可視化し、「育成が必要な対象者」に、「必要なスキル教育」を、「適正な方法」でおこなうということである。必要なスキル教育とは、「コーチングが注目されているから、今年の課長研修はコーチングスキルを」などといった行事的運用ではなく、「課長の課題は、部下育成、とくに業務指示スキルと権限委譲」と把握しての研修設計である。適正な方法とは、共通するスキル課題なら集合研修だし、特定対象者ならコーチング、あるいは評価運用に組み込むか、といった使い分けである。  現状課題対応だから、既任者研修は、テーマも方法も一律ではなくかつ年次で変わっていく。つまり、期首に階層ごとにスキルギャップ(=必要なスキルに対する現従事者のスキル過不足)を測定し、状況を可視化し、期中の教育施策をくむことが階層別教育にまず埋め込むべきしくみとなる。  もう一つのポイントは、昇格前教育の連鎖として階層別研修を設計することである。たとえば既任課長研修であれば、スキルギャップ把握のために基準とするスキル要件を、いま発揮すべき課長スキルではなく、近い将来担う部長の必要なスキルとする。あるいは、一定年数を経た課長既任者には、部長で必要なスキルを先行教育するといった具合に、上位階層の要件をもって、教育施策をする。それを階層連鎖的に設計するのである。  管理職手前の階層では、管理職先行教育をしながら、その適性も見極めるといった施策は増えている。たとえば、通常は管理職昇格審査でなされるセンター方式アセスメントを管理職前等級への昇格後に行って、「管理職としてのスキル課題」を本人、上司ともに把握し、以降、業務遂行のなかで、管理職としての先行ブラッシュアップを自己啓発し指導されるような施策が、管理職昇格者の質と量の向上に資することはあきらかだろう。  こうした「昇格レディネス」の醸成を旨として、全階層の教育施策に組まれることが、経営人材予備軍輩出につながるベースとなるはずである。

空気が読めない | その他

空気が読めない

 「あいつは、ほんとにKY(=空気が読めない)だから」などと揶揄されることがある。会議や顧客との商談場面で、(たいていは暗黙の了解があるはずの)状況を踏まえないで、言ってはいけないことを口走ったり、余計な発言をしたりする人物。しょうがねぇなあ、と半分諦め交じりの人物評として笑い話で終わったりするが、もしそれが「KY管理職者」であるとそれではすまない。ピープルマネジメント問題として、組織的被害は甚大なはずだからだ。  ビジネスや組織という環境において、空気が読めない、とは、状況と自身の関係が読めない。その状況のなかで、いま自分がどんな立場にあるか、がわかっていないということである。その状況のなかで、自分のふるまいの意味に気づかない。いま自分がどう見られているかにも気づかないし、いままさになそうとする自身の言動がどう見られるかもわからない。つまりは、自己客観視ができないのである。そんな人物の管理職としての「判断」があてにならないのは当然だが、とりわけ、部下指導がうまくいくはずがない。  自己客観視ができない管理職者はピープルマネジメントができない。この事情は、360度診断をおこなうと残酷なまでに可視化される。例えば、業務分担や人材育成、部下指導、エンパワーメントといった項目の周囲評価者平均が軒並み低い。とくに上司/同位者平均よりも下位者平均があきらかに低い。反面、自己評価はかなり高いというギャップが顕著に出ている。自分がやれていないこと、部下たちが自分の行動を不十分だと感じていること、そのことを自分ではわかっていないことが、数字のギャップとして定量的に突き付けられてしまうのだ。  部下評価平均が低いことが問題なのではなく、そのことに気づいていないことが問題なのである。気づかないから、自分の行動是正ができない。結果、部下たちをうまく動かすマネジメントができていないということである。360診断でそうした自他ギャップに気づけば、自身のふるまいを内省し、常に客観視を心掛け、行動を変えていくようにできる。しかし、そうした事実の突き付けなしには、「空気が読めない」のだから、ほっといても、いきなりあるとき読めるようになるとは思えない。よって、KY管理職の放置は危険なのである。  360度診断のフィードバックを行っていると、よくこんなことをいう管理職者がいる。「この項目の下位者平均が低いのは、今期はこんな方針で、こういう言動で彼らにあたったから当然」と想定内の低スコアだったと、動じない。まれに単なる負け惜しみの発言のこともあるが、総じて、ハイパフォーマー管理職に共通する。  つまり、自己客観視ができるということは、周囲者をよくコントロールできることでもあるのだ。

後期高齢者のコンピテンシー | 人材開発

後期高齢者のコンピテンシー

 ある会社の「快挙」について書きたい。  先端技術領域を舞台に俊敏でフットワークよい事業展開で好業績を続けているその会社は、創業2代目社長が率いている。高い専門性を保持し、少数精鋭で迅速なビジネス展開を行ううえでは、自社独自の人事制度であるべきとの想いから、みずから制度設計の陣頭に立ち3年をかけて慎重な新制度導入を行ってきた。その要となるコンピテンシーの設計と検証には、全マネジャーを巻き込んで多大な時間をかけ、何度も試行し、このほど完成を見た。  そのようにつくられたから、自社固有のスペシャリティとマネジメントレベルを測るこのモノサシは、マネジャーたちが部下を測定し処遇し育成する道具としてしっかり定着していて、機会あって彼らとの宴席に連なった際に、呑みながらのくだけた会話のなかでもごくごく自然に「コンピテンシーベースの育成」が話される情景を目の当たりにしたものだった。  社内と事業パートナーに向けた今期の方針発表の場で、社長はこんなことを報告した。この会社は、専門性が極めて高い先端技術の最前線でビジネスするから、分化された領域にあわせたくさんの顧問を有している。顧問としてそれぞれの方と長い付き合いではあるが、その中の2人をこのほど社員として登用した、というのだ。一人は、72歳。もう一人は、84歳。3年契約ということなので、後者は87歳までの雇用である。  多くの企業が、60歳以降65歳までのシニア人材再雇用の方針と仕組みづくりに右往左往しているなかで、いきなり超シニアの雇用である。「労働法の範囲を超えているので、どんな契約にするか分からなくて、、、、とりあえず、パソコンとiPhoneと名刺を渡しました」と社長は笑った。  かなりの高齢者を採用する英断もさることながら、刮目するのは、冒頭にあげたような、社員のコンピテンシーを厳しく問い処遇し育成することに執念を燃やすこの会社が、この年齢の人物を採用したという事実。つまり、このお二人のコンピテンシーは、組織の構成員として必要なレベルだと判断したということだ。それが、高度に専門的で特殊な領域こその知見やスキルや人脈だから、年齢を超えて活用できるということかもしれないが、だとしてもここには、高齢=能力劣化=組織貢献不能、といった「常識」をひっくり返す痛快さがある。  そういえば以前、外資系のコンサルティング会社にいたときに、70歳代後半の営業マンを雇用していたことがある。経験した会社と立場で培われたせいか上品な営業スタイルが魅力的で、成約力も優れ、高いパフォーマンスをあげていた。年齢によらず劣化しないコンピテンシー、さらには、高年齢だからこそ高まるコンピテンシーもあるかもしれない。その追究もまた、各社各様の課題となっている雇用延長=シニア活用に必要なのではないか。  この会社には、ぜひ、雇用契約を更改していただき、90歳を超える社員の雇用への挑戦も見せてもらいたいと思う。

桜の宴 | その他

桜の宴

 まだ寒さも続き桜の開花も遅々としていたころ、誘われて、屋形船での隅田川花見に行った。どんなグループかは知らないまま、30人ほどの宴席に加わった。三々五々と岸辺の集合場所に集う様を見ているときから、風体とオーラが普通でない方々ばかりと訝っていたが、あとで全員のあいさつを聞いて腑に落ちた。ほぼ全員が、詩人、歌人、俳人といった創作に携わる人々だったのである。  企業の方々と、あるいは仕事仲間たちとの日常の宴席と、大きく異なる点が興味深かった。たとえば、挨拶のコメントの妙。宴の冒頭、全員がひとことずつ自己紹介をしたのだが、そこには、揺蕩う美学と狼藉があった。ふだん耳にしない言葉や文脈がいちいち面白くて、アウェイの醍醐味を満喫したのだった。  あいさつの皮切りは、77歳の詩人。著名な彼は、詩と俳句と短歌を生涯生業としつつ、小説や戯曲、評論も手掛けることで知られる。満開ではない桜を「おぼおぼしているね」と評し、三分咲き、五分咲きこその風狂を語るさまが実に恰好いいものだった。続く各人の言葉もまた、控えめながら創作に携わる矜持を醸し出し、常ならぬこの場に彩を添えるようと腐心していた。  なにより、企業人たちとの日常の宴席とのいちばんの違いは、みなさん、たいそうおしゃれだったことである。ちょっとこぎれいといった体ではなくて、かなり個性的というか人目を惹く姿ぞろい。とくに、男たちの服装は異様で、しかし美しかった。いちいち詳述するのも野暮なので書かないけれども、一点共通しているのは、「靴」である。高齢の人たちも多かったけれども、みな例外なく、ただならぬこだわりを感じさせるブーツ系の靴で足元を固めていたのだった。 花見の宴席というイベント(=ハレの場)に臨むうえでの「表現者」としての姿勢だろうが、ファッショナブルな年寄りが集うさまはなんとも愉しい風景だった。ひるがえって思い起こすと、企業人の宴席の、服装のなんともつまらないことか。例えば、各所で年中行事のようになされ、場所取りばかりが課題となる花見の宴会。会社を終えてからの花見だからスーツ姿もやむなしかもしれないが、もっと自在に、見た目からして非日常を愉しんでもよいのではないか。 多様性のマネジメントが喧伝されるけれども、場に合わせてプレゼンスを変えるというような自身の多様性を仕掛けることも、ささやかにしてかつチャレンジングなダイバーシティである。大げさに言えば、多くの会社に根強い同質性カルチャーを変えていくとっかかりになるかもしれない。 いやいや、勤め人でいる間はそこまで服装に気遣わなくてもいい、定年退職後に「恰好いい年寄り」たるべく頑張りたい、というムキもあるかもしれない。しかし、そううまくはいかないのだ。ハレの場をどう愉しむか、ちょっと服装でエッジを効かせてみたい、といった工夫(=訓練)をバリバリの会社員時代にこそやっていなければ、定年後、ゴルフウェアまがいのカジュアルウェアにちょっと高そうなジャケット、足元は、アディダスのスニーカーといった姿にならざるを得ないのである。

関係の体系としての企業 | その他

関係の体系としての企業

 いつのころからか、「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われるようになった。情報つまり企業固有の知識・技術が経営資源であることは、昔から変わりはないが、それらは、ヒトに属するものだった。それを、情報という独立項目として外出ししたのは、ICTの進化により、情報の蓄積と活用がしくみとして可能になったからだろう。ナレッジマネジメントという概念もまた、そこに生まれている。  ナレッジマネジメントがすでにある情報・知識を管理し活用するだけだったら、情報をそのようなもうひとつの経営資源とみて、高度活用の術を追及すればいい。しかし、組織を情報知識体系とみるときの眼目は、「情報創造」にある。経営にとって、会社が存続し、また存立する価値を持ちうるためには、新しい情報や知識を創出し続けることの重要性が含意されている。  AIがヒトを超えるという事態が迫っているからには、もはやそうではなくなるかもしれないけれども、情報を創造する主体は、どこまで行っても、ヒトである(と信じたい)。とすれば、ナレッジマネジメントが本来的に機能するためには、「独自の情報・知識をどう管理するか」の対極にある、創造性の喚起に関わる二つの問題が議論されなければならないだろう。  一つは、個々人にどう創造させるか、である。創造のためのフレームワークの活用や創造技法をあるものの、人々の内発的な創造性開発研修といったものが存在しないように、創造をもたらす方法はテクニカルにはつかみがたい。人がある事象を、考えに考え抜いたその先に生まれるブレークスルーの理屈はわからないけれども、ただ、寝食忘れて考え抜くという情熱と持続力が要件になることは確かだろう。  それができるのは、その創造せねばならないことが、自分にとって大きな意味と意義があるからである。人は、目的の意味に共感するときにはじめて創造を可能にするといわれる。とすれば、従業員が創造するためには、その目的、事業的な意味とか社会に対してどのような価値を提供したいのか、といった会社や仕事の目的が共感でき、真剣にその達成を願えるものでなければならない。  会社は利潤追求装置である。自身の仕事で問われる創造性=新しい効果的な方法の創出、が会社の利潤拡大に大きなインパクトを持つことだけでも、やりがいはある。さらに、その利潤獲得のための事業そのものに意味と意義があれば、ヒトはその行為に大げさにいえば、“全存在かけて”投企するのではないか。  つまり、本業そのもののCSR性がそこに要請され、また、従業員がそれを体感できていることが大事になる。これが、一つ目の議論であり、それは自社のアイデンティティを問うことに至らざるを得ない。しかし一方で、そのアイデンティティは、全社一丸、固有の価値観を共有し、自社独自の情報資源を守り、再生産するための「自社の枠組み」として“閉じて”いてはならない。  これが、創造性を喚起するための、もうひとつの議論である。新しい発想は、他の発想との相互刺激によって、創出促進される。ヒトの発想行為では、相似性の追求や異質性と交換が有効ともいわれる。またそもそも現代社会では、新しい知識や技術はそれ単体としてよりも、他との連関性のなかで活用され、そこにさらなる知識・技術を生み出していく。  とすれば、自社内を越えた情報創造、たとえば他社の知識・技術をもつ人との情報連関と相互作用こそがブレークスルーの鍵かもしれないし、企業の壁をこえたCSRがそこに生まれるかもしれないのだ。そうした自在なやりとりには、堅固な“わが社アイデンティティ”は、邪魔でしかない。  つまり情報知識体系としての組織は、オープンシステムであることを要請する。さて、そのように情報が、その担い手であるヒトが、自在に交通する組織は、いかにして可能か。その組織論や戦略論、制度論や人材マネジメント論はおそらく、「個別企業の壁をどう超えるか」ではなく、「(社内外を通底する)関係の体系としての企業」という企業観から始めなければならないだろう。

選抜育成の光と影 | 人材開発

選抜育成の光と影

 選抜されなかった人材のモチベーションダウンが心配だ。選抜育成プログラムをやるかどうかの逡巡として、かつてはよくこうした声を聞いた。一方的に選抜され、閉鎖的に運用されれば、そうした事態も確かにありうるだろうが、自発性をベースとしたノミネーションプロセスを念入りに組み、プログラムの主旨と受講機会を周知し、恒常的な教育施策としてしつらえれば、その危惧はあたらない。かくて多くの会社で、管理職や管理職前の層からの選抜者教育がなされるようになった。  選抜するということ自体はもはや問題にはならない。しかし、選抜者への育成方法にはまだまだ問題がある。たとえば、こうした育成プログラムは、やりよういかんによって、まったく正反対の結果になることがあるからだ。受講した優秀な人材が、さらに自己成長し会社のなかで成果を出していきたいと動機づけられたか、研修の徒労感と会社への諦観すらある冷めた心理状態となったか、という違い。つまり、受講後、エンゲイジされるか、されないか、という全く逆の結果である。  それを分けるのは、研修コンテンツの良し悪しだけではない。選抜プログラムにかける経営の意思や想い、つまり、人材育成の本気度が受講生や従業員たちに伝わるかどうかに大きく影響される。  選抜育成プログラムは6か月間で月一回づつの連続研修といった形式が多い。たいていは、経営リテラシーの先行教育で、毎回の学習を経て、最終日に経営陣に対してプレゼンテーションを行う。次期リーダー予備軍として育成しながら見極めるべく、研修だけではなくアセスメント的アプローチも加え、何らかの成績管理をする。各研修の事前事後に課題を課すなど負荷をかけるのも常套的だ。さて、こうしたプログラムをどう運用するか。  ある会社では、受講生をグループに分けグループごとに2人づつ役員をメンターとしてつけた。彼らは、時々は研修をオブザーブし、場合によっては担当グループのディスカッションに介入したり、全体に対してコメントしたりした。加えて、担当グループのメンバー個々人の事後課題評価を行う。つまり、採点してフィードバックコメントを書く。受講生の側からいえば、講師以外に2人のメンター役員のコメントを受け取る。最終のプレゼンのための施策立案の相談にものり、最終日は社長以下役員全員が各発表に対してコメントし、また役員同士で議論がおこり、長い時間を費やした。  ある会社では、初日に社長のメッセージがあるはずが、来れずに2回目の研修で、来れなかった弁解とともに挨拶された。その後、人事部主催者と担当講師により粛々と研修が進んだが、欠席者の多さが問題になり、事後課題の提出が遅れがちだった。最終日のプレゼンテーションには、社長以下全役員が参加したが、社長だけが短いコメントをするだけで、予定より早く終了した。優れた提案に対しては、プロジェクト化して推進することになっており、優秀施策案が1つ選ばれた。当該の受講生は研修以降熱心にプロジェクト遂行に臨んだが、盛り上がらずに立ち消えになった。  この2社の研修プログラム自体はよく似ていて、受講生の負荷も同様に高いものだった。業務繁忙のため、どちらも研修は土曜日に行われた。経営陣の参画度合いだけが異なっていたのである。  両極端な例をあげた。前者の場合、経営陣の負荷は半端なく高かったから、ここまでの参画はなかなかできない。通常は、この両者間の距離のどこかに、「経営陣参画度合」があるのだろう。ただ、どの程度までかかわるかという姿勢は、そのまま、次期リーダー育成への経営者の本気度を示してしまうと覚悟すべきだろう。

従業員満足はいらない | その他

従業員満足はいらない

 いつのころからか登場したES(Employee Satisfaction)調査というものには、やや違和感を感じる。かつては、従業員意識調査はモラールサーベイといった名称で従業員の職務責任意識や士気、結束力の高低をみる調査であり、軍隊アナロジーで経営が従業員に要請する状態として分かりやすいものだった。つまり、業務遂行にそれが影響する。しかし、「従業員満足」というと、それがストレートにパフォーマンス発揮に直結するようには思えないからだ。  すべてのステークフォルダーズとの関係を良好に持つことが企業の社会存立構造であり、その一環として対従業員関係の良好度合いをそれで測るというのは分かる。「ESなくして、CS(Customer Satisfaction)なし」ということも、まぁ理解できる。だが、従業員がその会社にいることに満足していることが、各人の仕事の成果を高め、また組織としての生産性を高めることに結果するのだろうか。  おそらく「衛生要因」であることは確かだろうが、はたして「動機づけ要因」たりえているかどうか。満足しているからといって、職務遂行レベルを向上させ、更なる成果発揮を目指そうという姿勢をもたらすとは限らない。賃金がたかく非金銭的報酬も魅力的で、会社の構成員であることに本当に満足しているからこそ、無理をせず、つまりリスクをおかさずほどほどに仕事をして、その状態を満喫しようとするかもしれない。問うべきは、満足度ではなく、モチベーションの高低とその誘因なのではないか。  さらにいえば、モチベーションが高ければいいというわけでもない。大事なことは、「パフォーマンスにつながるモチベーション」の度合である。もしかすると、誰よりも高いモチベーションで仕事に臨んでいるローパフォーマもいるかもしれないからだ。だから、こうしたサーベイでは、誰の満足度か、どのようなモチベーションか、を見極められる分析枠組みが不可欠であり、従業員全体の満足度の高低やその因子に一喜一憂する必要はない。  こうした観点ではやはり欧米企業はプラグマティックで、ある米国のコンサルティングファームが各国の複数企業で実施した調査は、極めて興味深いものだった。「Employment Branding」調査と銘打って、「会社を辞めないでいる理由」を、仕事の属性やさまざまな就労条件、人間関係など網羅的な項目で調べた。会社の枠を超えて、人々を引き付ける「雇用のブランド」とはなにか、を明らかにしようというものだった。ただ調査分析の対象にしたのは、各社のハイパフォーマたちだけだったのである。  大事なのは、高業績者が、会社にとどまり成果を上げつづける、そのモチベーション因子、満足因子であって、全従業員のそれではないということである。ハイパフォーマにとってのブランドを構成するものを知り、それを強化することができれば、彼らの確保が促進され、業績が向上する。それこそが、業績に資するESであるという合理的な割り切りが小気味よい。  ちなみに、このマルチクライアント調査の結果は、たいへん示唆的なものだったが、明らかになったブランド構成項目はここでは書けない。ただ一点、あまりにも当たり前の事情ともいえるが、ハイパフォーマたちを引き付けるブランディングの最大の因子はやはり、金銭やさまざまなベネフィットではなく、仕事の意義や意味に関するものだったことだけを付記しておきたい。

内なる敵 | その他

内なる敵

 個人的なエピソードを書く。  その①  新しい社長が着任してきて1か月くらいたったときに、社長室に呼ばれて、こういわれた。「なぜ、指示したことを一切やらないのか?」 えッ~! なにを言っているのだろう、と驚愕、まったく身に覚えがない。よくよく聞いてみると、彼が言っていたことを、「命令」だとは、私は思っていなかったことが判明。聞き流して、ごくふつうに自分でやるべきと思うことをしつづけていたということだった。  その②  その当時、なぜか派遣社員の方々が頼んだ以上のことをやってくれて、ずいぶん助けられた。どんな意気に感じてくれたのか。ある時、その理由を直接彼女らに聞いてみると、社長と話すときも、派遣社員と話すときときも、同じ話し方、要はどちらも「タメグチ」だから、というのだ。よく社長と立ち話をしているところを彼女らに目撃されていたのである。  振り返れば社会に出た当初から、「上下関係」という意識をなぜかもったことがなかった。上司は部下より偉くて、部下はその命令に従うという雇用関係の原則がはら落ちしていない。だからきっとこういうことがおこる。ヒエラルキーで人を見ない、ニュートラルな人間なのだなぁ、自分は、、、、と都合よく自画自賛していたのだが、実は、そうではなかったのである。  真相に気づいたきっかけは、ある「診断」だった。グローバルでひろくつかわれているリーダーシップ・アセスメントツールがある。その信頼性については、それをもとに処遇を下げられた従業員個人から何度も訴訟されているが負けたことがない、というセールストークがされる診断。それを受けてみたときに、自身の結果で顕著な特徴があった。ある項目についてだけ極端に低い点がついていたのだ。  なんと、10段階評点の1点。他の項目はどんな悪くたって5点くらいなのに、である。その項目とは「Interpersonal sensitivity」。対人感受性である。間をおかず、別の種類の診断も受けてみたが、結果はまったく同様の傾向。つまりはそういうことだったのである。 すなわち、対人感受性不全ゆえのエピソード。  マネジメントとは、「ヒトを通じてコトをなす」ことである。つまり、人を動かすことがその要諦だ。対人感受性を発揮するとは、「人は、どうすればどんな気持ちになるか」をわかって人と接する。それをもって、戦略的に人を動かすことである。リーダーシップ行動の古典たるカーネギー『人を動かす』にあれこれ書かれている、相手を知り、相手に好かれ、相手を動かす原理は、要はそういうことだ。  対人感受性の欠如を自覚していれば、そこを留意し、不得意だからこそ自身に強制し、きっともっとましなリーダーシップが発揮できたはず、と悔やまれる。  だからマネジャーたるものちゃんとした診断ツールをつかって自分を知ることを、ぜひやってみるべきである。センター方式アセスメントや360度診断による「自分の可視化」は十分に意味があるけれども、できれば、対人感受性のような、より奥深い自身の心理特性の自己確認もしたほうがいい。と、大いなる悔恨をもって、お勧めしたい。もしかしたらリーダーシップの障害になる、「内なる敵」を発見できるかもしれないから。

キャリア研修2.0 | 人材開発

キャリア研修2.0

キャリア研修参加者の満足度は、対象年代を問わず、たいへん高い。 キャリア研修の中では、自分の過去のキャリアを棚卸し、成功や失敗の経験を通じて発揮されたあるいは獲得されたスキル、やりがいの源泉だったこと等を確認する。つまりは、自身の仕事上の価値観や行動の基準を知り、能力発揮のクセ=キャリアを重ねていく上での強み弱みを内省し腹落ちさせる。そうした「自己発見」のよろこびが、高い満足度をもたらす。 近年、リーダーシップ論で盛んに取りざたされるキーワードでいえば「自己認識力」を高める効用があるということだ。自己認識力(=セルフアウェアネス)には、内的自己認識と外的自己認識力の二つがあるといわれる。内的とは、自身の価値観や譲れぬ信念やモチベーションを喚起するものの自己認識。要は、何のために働くのか、仕事を選ぶ判断の軸は何か、どんな仕事をしている時が楽しいのか、といった自己像である。 対して、外的自己認識力とは「他者から見た自己」像を認識する力。 この内的自己認識力をキャリア研修は高める。自覚していないかもしれない自身の行動原理を知ることは、今後のキャリアをデザインしていく上では、まずおさえておくべき大事な前提だ。そのうえで、組織内の役割として求められることを検討し、強み弱みを踏まえて、将来のキャリア開発計画を描くのが、研修の後半で行うことだ。この計画は、ほかならぬ自分起点の計画であることに大きな意義がある。反面、その自分起点であることに起因する限界もある。 研修内の検討を経て「キャリア目標達成のためにどのように行動するか」の意思と覚悟は宣言されているが、その方法の実効性が検討されていないからである。自身のキャリアゴールを目指す行動は、日々の職場内の行動の積み重ねである。当面の役割を果たし、目指す仕事へ向かうためには、成果発揮へむけ的確に行動し、また上司や周囲の人たちをうまく巻き込まなければならない。そのために必要なのはリアルな行動課題をもつことだ。 「自分は」どのように行動すればよいか。その答えを出すには、内的自己認識力に加えて、外的自己認識力の向上が必須である。外的自己認識つまり、自分が人にどう見えるかの認識=自己客観視能力である。それが高ければ、人との関係のなかでの自分の行動のクセ=行動課題が分かり、自分がどうふるまえばよいかを方法論化できるのだ。 その意味の実効性を高めたキャリア研修2.0のためには、まずは、自分が人にどう見えているかを知らなければならないが、さてどうするか。 360度診断(=周囲の上司、同僚、部下に対するアンケート集計分析)がもっとも有効である。診断結果には、鏡のように自身の行動傾向が写し出される。しかしキャリア研修としては、やや手間とコストがかかるというネックがある。いちばん簡単なのは、受講者が自分で周りの人に聞くことである。自分起点の360度インタビューや簡易アンケートをとることで、「自分の知らない自分」を知るステップを検討作業に組み込めばいい。聞き方さえ、きちんと設計すれば、自身の行動を客観的に振り返る材料としては充分使える。 自己認識力、とくに外的自己認識力は、マネージャーにいちばん求められる能力といわれる。リーダーとして人を動かすには、自己客観視つまり他者の目に映る自分が見えていなければならないからだ。マネジメントの役割でなくても、この事情は変わらない。ほかならぬ「自分のキャリア」の実現のためだからこそ、周りの人々への働きかけやチームとしての成果発揮にむけて、「自分にとっての行動課題」を自覚しなければならないのだ。

チームとしての経営力 | その他

チームとしての経営力

 経営人材育成の取り組みが増えている。  ともすれば、役員=従業員のアガリ、であって、明確な役員登用基準や育成施策がない場合も少なくなかったが、それではVUCA時代の経営として心もとない。ときに痛い目にあった登用の失敗を避け、今後の経営をリードしうる経営人材を計画的に作り出していくには、役員要件をはっきりさせ、そのあるなしを客観的に見極めることが不可欠だと、多くの企業で痛感されている状況がその背景にある。  その方法としては、「今までではなく今後」の自社の役員に求められるスキルや経験が、何かを検討し要件として定義し、アセスメントセンター方式や360度診断、適性診断等複数の測定手法と経歴管理(≒タレントマネジメント)をもちいて、直近の役員登用だけでなく、中長期的な役員輩出の仕組み(=リーダーシップ・パイプライン)をつくるというのが常套的である。ここで大事なことは、定めた役員要件をすべて満たすことが登用の条件ではないということだ。異なる強みを持った人材が集まる経営チームであることこそが、強い経営力なのである。  経営情報の開示がすすむ海外では、経営陣のスキルマップが自社のウェブサイトで公開されている。つまり、役員ひとりひとりの強みの違いが一覧できるようになっているのだ。日本ではまだその例は少ないが、何社かは、それぞれに特徴のある役員スキルマップが掲載されている。共通するのは、ファイナンスやマーケティングといった経営リテラシー領域別の強みだけではなく、能力や資質の項目でもマーキングがされていることだ。  例えば、ある企業では、リテラシーとしての得意分野に加えて、マネジメントスキル、資質・姿勢、さらには行動特性といったカテゴリーでマッピングされている。資質面の項目は、「忍耐性・持久力」、「柔軟性・適応力」、「活動性・指導力」など5項目、興味深いのは行動特性の項目で、「インスピレーション」、「シンキング」、「フィーリング」、「プラティカル」の4項目。これら項目で、社長以下全経営陣のスキルマップがつくられているのだ。ここには、自社はどのような経営チームであるべきかという思想と実態が、要件項目とバランスの両面から示されている。  「チームとしての経営力」をゴールとするリーダーシップ・パイプラインでは、各階層の昇格に際して「総合点」以上に、個別の「強み」の把握がポイントになる。「弱み」の克服は重要ではあるが、強みをより強くする育成こそが求められる。弱みをなくし個人としてバランスの取れた経営人材候補よりも、むしろ突出した強みや明確な思考や行動の特性を有する人材をはっきりと把握し、どう育成するかが問われることになる。  最終的にチームとしてのバランスさえ取れていればよく、個々がとんがった強みをもつ異質人材の集まりは、イノベーションが生まれる創発の場たりうる条件でもあるからだ。VUCA環境下で求められる状況適応力の高い組織とは、多様性を内部に持たねばならないともいわれる。「チームとしての経営力」とは、防衛的ではないもっとも攻撃的なダイバーシティマネジメント施策として、最初に実践すべきことともいえるかもしれない。

なぜ間違えるのか | その他

なぜ間違えるのか

 世のなかには、ミスの多い人とそうではない人がいる。以前の複数の職場で、なぜか、「大きなケアレスミス」を頻発する人が一定数いることに気づいた。たいていは、見た瞬間にわかるようなあり得ないミス。たとえば、クライアントの社名、ご担当者名、案件名や見積金額、エクセルの集計値といった類で、不注意による単純なミスながら、そのインパクトは大きい。一気にクライアントの信頼を損なう結果になる。  この人たちは、都度指摘されているから自覚しているはずなのになぜかミスを繰りかえす。その原因をいろいろ考えてみると、そこには2つのタイプがあるように思う。一つは、社名や人名や案件名といった名称の間違い。これは、思い込みによる。なんらかのきっかけで(つまり理由があって)名前を間違えて認識し、それが是正されないまま、文書やメールが書かれてしまう。  ポイントは、その後何度もその誤記を自分で目にしながら気づかないことだ。認識論的に言えば、一度できたパラダイム(=認識の枠組み)が堅固でなかなか揺るがない。そういえば、この人たちの仕事ぶりを振り返ると、ものごとを自分の理解できる枠組みでとらえるために、しばしば、見当違いの解釈になったりする傾向があるようにも思う。つまりこのタイプは、なにかキャップをはめるようにしか認識できない、思考の硬直性が原因なのではないか。  もう一つのタイプは、金額や集計値の間違い。こちらは、その数字を積み上げられた結果としてのみ見ていて、「意味」を見ていないことが原因である。なぜなら、金額や集計値の間違いは、その意味からしてあり得ないことが一目瞭然だからだ。金額が一桁違えば気づくし、例えば経費データだったら異常値はすぐわかる。  指向性でいえば、目的指向でなくオブジェクト指向。そういえばこの人たちの仕事ぶりを振り返ると、積み上げや要素分解の思考スタイルであって、ときに「何のために」を見失う傾向があるようにも思う。木をみて森をみない。つまりこのタイプは、概念化力の欠如が原因なのではないか。  もしこの仮説が正しいとすれば、こうした子供じみたミスは、人材育成的には結構大きな問題である。「彼は、ケアレスミスさえなくなれば何の問題もないんだけど」とは言えない。ミスはご愛敬どころか、思考力そのものに課題があるかもしれないからだ。  ちなみに、一つ目のタイプは、加齢によって頻発することを身をもって体感しており、思い込みのプロセスもその頑なさもしっかりと自己分析されていることを付記しておきたい。しかもここには、老眼による誤認までも添加されているのだから困ったものだ。  いまのところ、2つ目のタイプは我が身に出現はしていない。概念化力は加齢によっても低下しないのである、、、と思いたい。