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吉岡 宏敏

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評価票を公開せよ(評価品質を高めるために③)  | 人事制度

評価票を公開せよ(評価品質を高めるために③) 

 「正確な測定」のための施策として、評価項目設計、評価スキルの観点でのポイントを二回にわたって提起してきたが、今回は、評価運用の勘所について書く。  「二次評価という言葉自体が今後存在しなくなる」と、10年以上前に当社創業者・林明文が書いたが、いまも二次評価(さらには三次評価すらも)を運用する企業は少なくない。二次評価という仕組みには、俯瞰した視点での調整、つまり組織的なバランスをとる機能はあっても、一次評価者の評価を是正し、ひいてはその評価スキルを高める効用はない。つまり、「正確な測定」の実現には効かない。  一次評価は絶対評価であり、その被評価者の行動事実を目にしていない二次評者には、一次評価の正確性を判断し得ないからだ。一次評価者による評価を二次評価者だけがチェックするという閉じた関係の中では評価品質を上げることはできない。評価の運用施策において、確実に評価品質の向上に資するのは、「評価票」を公開することだ。  一次評価者同士の評価会議を行い、自身がつけた部下評価を公開し相互検証する施策である。ときに、評価会議、評価者会議という言い方で、「評価調整」の会議を行う場合もあるが、それとは異なることにまず注意してほしい。それが組織としての相対的な評点調整を行う、つまり組織的な二次評価機能であるのに対して、ここで推奨する評価会議は、絶対評価としての一次評価が妥当であるかどうかを確認し、おかしければ修正するために行う。  進め方はシンプルで、評価者が順次、自身がつけた部下評価について「なぜ、こう評価したか」を話し、それが妥当かどうか評価者同士で議論する。冒頭、評価基準や等級別要求レベルを改めて確認したり、事前に評点データを集計し評価者ごとの評点分布を共有することもある。ただあくまでも、部下のAさん、Bさん、Cさんの①行動事実が、②評価基準に照らして、③妥当な評点であるのかを、ひたすら相互検証することが眼目だ。  つまりこの場で検証されることは、三つある。 評価対象となる行動事実自体の妥当性  例えば、推測や主観で事実把握がされていないか、成果にひきずられた行動判断ではないか、評価対象でない行動を含めて見ていないか、等。 評価基準自体の解釈の妥当性  例えば、できているかできていないかの基準の理解が間違っていないか、何を評価するか(問題の発見なのか課題の発見なのか、等)の理解が間違っていないか、等。 評点の妥当性  客観的にみて評点が妥当か、在籍等級レベルと上位等級レベルが混同されていないか、たまたまの行動発揮ではなく、期中通しての評価になっているか、等。 このプロセスのなかで、一次評価vs二次評価者という閉じた関係では顕在化し得なかった評価スキルのばらつきが是正され、評価品質は向上する。同じ一次評価者たちによるオープンな相互検証を行うからこそ、自己流でないあるべき評価の観点が共有され、「正確な測定」が組織的になされるということである。  この方式には、副次的な効用もある。評価項目の文言があいまいで、「できた」「できない」の基準が読み取れないことが、よくある。たとえば、勤務態度を評価する項目に「つねに規律を守り、誠意と責任感をもって業務遂行する」という文言があったとして、これだけでは、一回でも遅刻をしたらダメなのか、事前に理由を連絡しての遅刻ならOKなのか、二回まで許されるのか、判断はつかないし、その基準は会社によっても異なるだろう。評価会議のなかの検討で、たとえば当社においてはこうだ、という暗黙の基準が顕在化されれば、以降それが基準として共有され、評価のブレが減ることになる。  評価会議とともに、有効なもう一つの運用施策が、目標設定会議だ。目標の品質問題は、実に多くの会社で聞かれる悩み事だが、同様に、期首に実際の部下目標を公開し相互検証することで、目標設定の三原則(1.上位目標連動性 2.等級妥当性 3.表現妥当性)を「個別具体的に実際に」確認・是正することができる。  これらの施策は、容易にお分かりになるように、評価者たちにとっても、人事部にとっても時間的負荷は高い。しかし、手間をかけるだけの評価品質向上効果は確実にある。もちろん、そのためには、目的たがわず、きちんと会議をコントロールし上記の三つの検証に臨まなければならない。例えば、「彼はリーダーシップを発揮していたのでリーダーシップの評価をA評価としました」と言った説明になっていない説明は決して認めない。会議が紛糾しようとも声の大きい上位者の「印象評価」は断固拒否するといったことが極めて大事なのはいうまでもない。 ■「評価品質を高めるために」コラムバックナンバー 「正確な測定」をあきらめるな(評価品質を高めるために①) 評価100本ノックのすすめ(評価品質を高めるために②) ■「評価関連セミナー」のお申込みはこちら 【対面型セミナー】「評価力診断 無料体験セミナー」  ■【HRデータ解説】データでわかる「評価品質」関連解説 経営にとって「評価品質」が重要であることがデータでも分かります 「従業員意識調査に見る会社への不満」 ~社員の多くがキャリアと評価と処遇に満足していない~ https://www.transtructure.com/hr-data-analysys/search/motivation-survey/p12777/    

「登用の失敗」はなぜ起こるか(アセスメント活用の勘所①) | 人材アセスメント

「登用の失敗」はなぜ起こるか(アセスメント活用の勘所①)

 きっちりと成果を出し、職務遂行能力にも問題ないと判断して、管理職に登用してみると、どうにも困ったマネジャーだったということがある。なんであんなヤツを上げたんだ、と人事部が経営から非難される、いわゆる管理職への「登用の失敗」。その原因は、名プレーヤーは必ずしも名監督ではない、というありふれた警句そのものにある。  つまり、卒業評価≠入学評価であるのにも関わらず、卒業評価だけで昇進を決めてしまうからだ。在籍等級でのパフォーマンスが高いけれども、管理職としてやれるかどうかはわからないのに上げてしまうということである。じっさい多くの会社の昇進運用は、卒業評価だけに終始しているように見える。  『日本の人事部 人事白書2024』(株式会社HRビジョン)によれば、管理職登用に際して重視する要件は、①これまでの実績・成果(75%)、②保有している能力(60%)、③人柄(50%)。名プレーヤーであれば当然、①実績・成果は申し分ない。問題は、②保有能力である。  それを、何で見るか。『JMAM 昇進昇格審査 実態調査2022』(株式会社日本能率協会マネジメントセンター)によれば、審査内容のトップ2は、「人事考課」(87%)と「上司推薦」(81%)。人事考課の結果は、現在の等級における能力評価であって、管理職能力の有無やレベルは示さない。管理職業務は経験していないし、評価項目も管理職能力ではないからだ。上司推薦では、「こいつは、管理職もできそうだ」という上司の判断はあるだろうが、客観性には疑問がある。  半数程度の会社が、テストも行っているが、「面接試験」(58%)や「論文・レポート試験」(46%)、「社内知識試験」(42%)といった社内基準の試験がほとんどで、意欲や知識は見て取れるものの、管理職に必要な能力を客観的に測定するものとは言えない。昇進に際して、管理職能力の多寡、つまり管理職ができるかどうかの可能性判定をしないで決めている会社がじつに多い。  やるべき入学評価とは、卒業できる(=当該等級での必要能力を持ち結果も出している)候補者たちの、管理職という「未経験の職務」の能力発揮可能性を判定することだ。その方法として、一番確かなのは、実際に管理職務をやらせてみることである。たとえば、上司(課長)の視点にたって自組織の課題を設定させ、1年間のPDCA実践による課題解決を課し、役員面接などで「課題の妥当性と実践の成果」を判定する審査プロセスを組めばよい。  ただこの方法は、もっとも効果的実践的ではあるものの候補者の負荷はもちろん、上司や人事部にとっての負荷が高い。端的に試験によって、管理職能力の発揮可能性を見たいということであれば、アセスメントセンター方式の能力評価を行えばよい。この方法は、まさに、「未経験の職務」の能力発揮可能性を診断するための専用ツールであり、管理職の職務状況をシミュレーション演習として用意し、候補者全員が同じ状況下での行動発揮を課せられ、その行動を観察・分析することで、保有能力レベルを判定する。  アセスメントセンター方式とは、第二次大戦中に諜報員の選抜試験として開発されたといわれる能力判定手法。社会心理学者クルツ・レビンの方程式B=f(P・E)を原理とし、行動(B)は、環境(E)と個人の能力・資質(P)の関数であるから、シミュレーション演習によって環境を固定し、そこでの行動を観察・分析すれば保有能力の評定ができるというコトワリである。  さきの昇進昇格審査実態調査によれば、約3割の企業がこの試験を行っている。昔から、昇進審査としてのアセスメントの精度は定評あるものの実施企業数がまだ少ないのは、ここに書いたような「登用の失敗」の原因にそもそも気づいていないか、あるいは、わかってはいても、試験と言いながらも、1~2日間の研修形式で行い、アセッサーという専門家たちが観察して評価するための手間と費用がかさむことがネックになっているのかもしれない。  しかし、能力測定手法においてもDX化は進んでいる。「未経験の職務」の能力発揮可能性を診断する原理とITC技術の融合により、自社の状況や要件や制約に即した「入学評価の道具」は、いかようにでも設計できるのである。 *アセスメント活用の効用と留意について提起する3回シリーズ。 ■「登用の失敗」はなぜおこるか(アセスメント活用の勘所①) 今回  ■外部視点評価を過信するな(アセスメント活用の勘所②) ■VUCAリーダーをどう見極めるか(アセスメント活用の勘所③) 本コラムの筆者が登壇! ぜひご来場ください。詳細はこちら 【対面型セミナー】「失敗しない管理職登用判断の方法」 ~人事が知っておくべきアセスメント活用のポイント~

外部視点評価を過信するな(アセスメント活用の勘所②) | 人材アセスメント

外部視点評価を過信するな(アセスメント活用の勘所②)

 管理職の登用試験として使われるアセスメント(アセスメントセンター方式)は、シミュレーション演習下の候補者たちの言動をアセッサーという専門家が観察・評価する。それが登用試験として効果的なのは、「入学評価」つまり、まだやったことのない管理職の必要な能力をもっているかどうかの見極めができるからだと、前回書いた。  社内評価は、環境要因や情状、主観も影響するし、どうも能力評価が正しいかどうかもあやしい。だから客観的で正しいであろう外部視点評価を使う、ではないことに留意したい。あくまでも、社内評価=現状職務での能力発揮に対して、アセスメント=「未経験の職務」の能力発揮可能性を測定できることの効用、ということだ。  ことさらにこう書くのは、ときに、アセスメントの結果だけで管理職の登用判断を行っている会社もあるからである。アセスメントは、管理職能力発揮可能性を診るには信頼性の高い、しかも相対評価でない絶対評価の手法ではあるけれども、そこには、すぐれた効用とともに限界もある。だから、テストとして合格点クリアだけで登用者を決めるという単純な運用をすることにはリスクがある。   よくなされているように、社内評価(人事考課を含む経営の評価)の高低とアセスメント結果の高低を二軸にとって、4象限にプロットし、ギャップある象限の人たちを個別詳細に検討するといった総合的な判断は、最低減必要なことである。そのポイントは、ギャップの原因を、総合点だけではなく、ディメンションごとに検討することだ。たとえば、オペレーショナルな能力(情報理解力、分析力など)と経営的能力(戦略立案力、視座の高さ、人材育成力など)にわけて見る。  前者は、現状職務と今後になう管理職務でも通底するから、ギャップがあれば気になるところだ。【社内>アセスメント】であれば、その人には専門性や業務習熟の面で強みがあるのかもしれないし、【社内<アセスメント】であれば、現状職務や職場とのミスマッチに起因するのかもしれない。後者の経営的能力は、現状職務では求められていないことも多いから、アセスメントならではの能力評定判断として優先できるが、権限移譲して管理職務を一部担わせているような場合、その社内評価とのギャップがあれば、その理由についての検討が必要だろう。  とくに、注意が必要なのは対人能力である。そこに、アセスメントという手法の限界があるからだ。アセスメント・ディメンションは、①思考系能力(課題解決や方針・計画を策定する力) ②対人系能力(他者を理解し動かす力) ③資質・姿勢(達成志向や自律一貫性) の3カテゴリーに分かれている。うち、①と③は、かなり正確に測れるけれども、②の評点には注意が必要なのである。  なぜか。シミュレーション演習のなかでは、対人行動は「演じる」ことができるからである。演習のなかに、「面接演習」というものがある。アセッサーが厄介な部下役となり、部下面談をやってもらうものだが、試験として観察されているわけだから、実はハラスメント満々の人でもそれをおくびにも出さずに、正しい部下コミュニケーションを演じたりする。本性を見たいアセッサーは、ことさらに嫌な態度で応えるのだが(まれにそれが昂じて、リアルに喧嘩になってしまうほど)、思考力の高い人であればなおのこと、効果的な演技に徹する。  逆に、アセスメントでは対人系能力の評点が低い人が、実は、日常業務ではたいへんな「人たらし」で仕事の成果を出していたりする。この対人能力も、アセスメントではたいへん見にくい。シミュレーションのなかで、人をたらしこむ必要もないし、そもそも、個々人の行動発揮から保有能力を測るアセスメントでは「他者を動かし、他者を巻き込んだ」行動発揮は、見ようがないからである。  もう一点、留意すべきアセスメントセンター方式の限界がある。アセスメントは、モチベーション=内発的動機を無視していることだ。内発的動機は、思考力とくに創造や発想、企画に関わる能力の原動力であることが認知科学領域では定説である。しかしアセスメントは、アウトプットされた行動から思考力を推察するものだから、アタマのなかのメカニズムは見られない。思考力を駆動する内発的動機をもつ人の強みには関知しないのだ。  たとえば、目の前の仕事が大好きで、なんとかお客さんに喜んでもらいたい、価値提供したいとエンゲージされ、日常業務では高い能力を発揮している人が、「あなたは、〇〇工場に工場長として赴任しました…」というシミュレーション・ケースに臨んだとき、持ち前のモチベーションの高さが再現できなくても不思議ではない。結果、思考力の評点が低く出ているとすれば、そのギャップは慎重に検討すべきだろう。  ゆえに、アセスメントの効用(と限界)を正しく理解し、社内評価や社内での職務状況とのギャップを併せ、総合的な登用判断を行うことが必要なのである。 *アセスメント活用の効用と留意について提起する3回シリーズ。 ■「登用の失敗」はなぜおこるか(アセスメント活用の勘所①) ■外部視点評価を過信するな(アセスメント活用の勘所②)今回 ■VUCAリーダーをどう見極めるか(アセスメント活用の勘所③)2025年5月予定 本コラムの筆者が登壇! ぜひご来場ください。詳細はこちら 【対面型セミナー】「失敗しない管理職登用判断の方法」 ~人事が知っておくべきアセスメント活用のポイント~

なんのためのエンゲージか | 調査・診断(組織分析)

なんのためのエンゲージか

  20年以上前、多国籍企業で働くようになって、エンゲージメントという言葉を知った。毎年、エンゲージメントサーベイの結果が国別にフィードバックされ、自国の数字改善に向けた行動の報告・共有・実践を強いられるという行事には辟易しつつも、多国籍の経営を統制する単純でオペレーショナルな手法にはなるほどと感服。各国従業員の「心情」の定量把握として、社員満足度とかモチベーションではなく、あくまでも組織成果に結果する(といわれる)エンゲージメントレベルを測るという点も、さすが業績指向のスタンスとして新鮮に感じた記憶がある。    当時、我々が受けていたサーベイでは、エンゲージメントレベルは以下の4つの総合設問で測られていた。 ・I speak highly of my organization's brand and services. ・I would recommend my organization as a great place to work. ・I feel motivated in my current job. ・Overall I am satisfied with my current job.    それに対する相関性を診るための設問群が、Global & Local Sr. Leadership 、Recognition & Reward、Culture、Work Environment、Immediate Manager といったカテゴリーで用意されていた。5,6年前から、日本でもエンゲージメントの大事さが喧伝されるようになって、そのサーベイもさまざまに提供されているが、だいたい構造はこの頃のものと変わらない。何がエンゲージメントを高めるかについても、ドライバーはすでに明らかになっている。その具体表現は論者や研究者、サーベイ会社によって異なるものの、結局のところ、従業員がいだく3つの「実感」に集約できる。   有意義感 貢献実感 成長実感    ひらたくいえば、 ①目の前の仕事の意義(会社にとっての/社会にとっての/自分のキャリアにとっての)がわかっていて ②承認や報奨で自身のなしえたことの価値が確認でき、③仕事を通じての成長が実感できている、ということである。ゆえに、これら実感を喚起できれば、エンゲージメントは高まる。    さて、冒頭「組織成果に結果する(といわれる)エンゲージメントレベル」と書いた。人々が、エンゲージされて働くことで、高い意欲と主体性をもって目の前の業務に臨み、パフォーマンスを上げ、組織の生産性向上に資する、とされる。ひいては、企業価値(=経済価値)向上につながるゆえに、今年始まった人的資本情報開示でも、KPIの一つとしてエンゲージメントレベルを記載する会社は多い。    要は、「皆が自ら頑張って働き成果あげてくれる」から、いうことだが、その限りではエンゲージメントの効用としてずいぶんと矮小なのではないか。たとえば、中国語で「頑張れ」を「加油」というがごとく、良い燃料を入れることで機械を最大稼働するかのような印象だ。機械ならぬヒトが働くとは、決められた業務を遂行するのではなく、やるべき業務を考えだす=業務創造にこそ本領がある。そうした、人が「考え、創り出す」行動こそをドライブするのがエンゲージメントだ、と考えたほうが腑に落ちるし、元気がでる。    実際、組織論や人材マネジメント論の領域では、エンゲージメントの向上が創造性発揮に直結する原理はあきらかにされていないものの、エンゲージメントが創造性発揮に寄与する可能性が、多くの研究者に指摘されている。また、エンゲージメントの語源、仏語の「アンガーシュマン」は、サルトルの自由と創造に関わる言及によってよく知られている。サルトルは、アンガージュマンを通じて、人間は自由を行使し新しい価値や意味を生み出し、社会を変革していくべきだと主張した。ここでは、自由な意思をもつ人々を創造へむけ駆動する鍵としてアンガージュマン=エンゲージメントが語られていたように見える。    資本主義社会の発展とは、差異の創出(=イノベーション)により駆動されるものとシュンペーターは言ったが、企業において差異を生み出すのは、モノでもカネでもなくヒトという資源。ヒトが差異を創出するための、つまり人々が創造性を発揮するための鍵がエンゲージメントとしたほうがダイナミックだし、それこそが人的資本経営のKPIにふさわしい。    エンゲージメントが従業員の創造性を喚起するものだとすると、先の3つの実感のなかで、「有意義感」こそが、もっとも重要になるはずである。発達心理学でいう「人は目標の意味に共感し意欲を持つとき最大に能力を発揮する」からだし、そもそも創造という行為は、役割とか任務といった受け身でできることではなく、「みずから成したいと思う目的への没頭」がなければ始まらないからだ。    やるべきことの意義を自分事として確信することが、創造性発揮にむけ人々をエンゲージする。であれば、イノベーションのためには、会社の目的、事業の哲学、仕事の意味を、人々を触発し得るものとして提示できるか否かが、まず問われてくるだろう。エンゲージメントサーベイは、その検証の第一歩なのである。    

営業は経営を語れ | 人材開発

営業は経営を語れ

 営業教育で取り沙汰されるデキる営業の勘所のひとつに、「誰に会うのか」があげられる。B to B営業であれば、意思決定権限のない担当者ではなく、部長に会う、さらには役員に会うべきなのは、いかにも当たり前のことだ。かくて、「誰がキーマンかをどう見極めるか」といったワザが、営業力向上セミナーでたいそうなノウハウのごとく語られたりする。  「キーマンを見極めるとか、キーマンにどうたどり着くかとか、考えたこともない。だって、自然にそういう立場の人が出てくるんだから」と語るのは、あるIT企業のトップ営業・Aさんだ。彼が、担当者と商談をしていると、しぜんと上席の人が出てくるようになる、というのだ。「ぜひ、部長様にもご挨拶させていただきたく」などとAさんは、言ったこともない。頼むまでもなく、勝手にエラい人が登場してくる。  なぜか。Aさんが経営の話をしているからである。経営視点で顧客企業の状況や課題、それに資するソリューションを話題にしていると、担当者が自分では力不足と思い、上席を引っ張り出してくる。商談は「サービス起点ではなく顧客の課題起点で行う」は、営業のキホンのキではあるが、その課題設定の視座が担当者の域をこえているがゆえの成り行きだろう。  これぞ営業力、とうなずける。よくある営業スキル研修―相手のタイプを見極めて、この客には結論から言う、この客にはデータを提示する、この客には野球の話題から始めるといったコミュニケーション手法などは、いかにも芯を食っていない。B to B営業においては、信頼される言動といった表層ではなく、話す内容と視座こそが眼目という当たり前の事情をAさんは体現している。  では、営業に経営を語らせるにはどうするか。経営リテラシーを学ばせて、自分の顧客の経営課題を分析・仮説し、そのソリューションとして自社サービスの意味づけを行う、というのが正攻法で実践的だろうが、その即効あるスキル研修は作りづらいし、各営業員の経験や能力にも依存する。一つの方法は、選抜型の経営人材育成の施策枠組みに、営業力向上の目論見を重ねることである。  次期経営人材育成は、二つの対象層で行われる。一つは、現管理職対象。とくに上級管理職を対象にする場合はより明確だが、役員育成を目的にする。もう一つは、管理職前の中堅社員対象。「NEXTリーダー育成」といった名称が多い、優秀人材に対する先行的な経営人材育成である。つまり役員候補の候補づくり。ただ、こちらは「先行」だから学んだ経営リテラシーを発揮する場面が今はないというネックがある。  ある会社の「NEXTリーダー育成」研修(6カ月間全7回)では、研修のゴールを「お客様と経営を語り合える」人材づくり、とした。経営リテラシーを学び、通常は自社や自部門の課題と課題解決策を立案・提案するのが、この手の研修の常套的プログラムだが、この会社では、自社の顧客の経営課題を検討し、顧客の立場でマーケティング分析を行い、課題設定し、そこに対して我々はなにができるかをアウトプットさせたのだった。  つまり、まずは顧客と経営の話ができる事業リーダーを目指せ、その先に自社の経営リーダーがあるという道筋。自社と異なり、顧客はさまざまな産業に属し、また社会的影響の受け方もそれぞれ違う。顧客の経営を考えることは、必然的に視野を広げ視座を高め、多様な社会的問題意識を喚起させる。経営のリテラシーという方法論の学習よりも、このことこそがこの研修施策の最大の効用だった。  「経営を語る営業」になにより必須なのは、顧客の立場にたてる視界と社会的問題意識である。「ウチの経営陣が見ているのと同じ風景をみているみたいだな、Aさんは」と感じたから、その担当者は上司につないでいるのだろうから。  

追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」  | その他

追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」 

 雑誌「遊」創刊号を見て、たちまち、その編集をした松岡正剛という存在に心身をわしづかみにされた。科学から芸術まで横超的な世界認識のワザ、その外連味と諧謔に満ちた手さばきがあまりにも魅惑的だったのだ。当時、大学で物理学を学びつつも出版業界で生きていきたいと思っていたから、必ずこの人と仕事をしたいと心に決めた。「遊」では、量子力学と花鳥風月と触覚的な誌面デザインが一気通貫していたことも嬉しかった。  結局、出版社には入れてもらえず、松岡さんの、縦横無尽に文化を切り分け組み上げ世界モデルを提示する仕事ぶりを横目でみつつ、書かかれた文章をただただ消化する日々。企業人事部をクライアントとするコミュニケーション・コンサルティング会社にいたときに、企業組織論専門誌を、いわばソートリーダーシップの道具として発行することができ、早速、この雑誌の取材を口実にして松岡さんに初めて会うことができた。  当時、松岡さんは、数人のスタッフと猫たちと職住一致の集団生活をしていた。「雑談ならいつでも歓迎」という言葉を真に受けて、そこに上がり込んでは、ずいぶんといろんな話を聞かせてもらった。松岡さんは、「方法」に着目するアプローチを旨としていたが、あるとき、「たとえばね、目の前の人がどんな意図をもって会いに来て話をしているか、すぐにわかる方法があるんだ」と言った。  それを教えてくれ、というと、「んー、高いんだよこれは」とにやりとしつつ、「それはね、会ってから相手が話したことを、時間を逆にして再生してみるんだよ。すると、本心がたちまち浮き彫りになる」と言うと、いきなり、その日その時までに私が話した言葉を、逆順で口にし始めたのだった。「あなたはいまこう言ったが、その前はこう言った。その前にはこう言い……」と延々と続けてみせた。録音テープのような記憶力にも驚いたが、聞くと、こうしたオリジナルの方法論をいくつも編み出したことに驚嘆。常にそんな刺激を堪能できた。  松岡さんは「日本の組織」全16巻を手掛けていたから、企業組織の問題意識も持たれているはず、とわが企業組織論専門誌への連載を依頼した。テーマは、「企業の安楽死仮説」。出色のテーマだと意気込んでぶつけたのだが、反応はイマイチ。いろいろ議論をして、企業に限らず様々な組織、たとえば官僚組織、宗教教団、スポーツチーム、劇団、暴力団等々の主宰者にインタビューし、そこから企業組織の問題を逆照射させる目論見の連載に決定。そのホストを松岡さんにお願することになった。  この連載は、残念ながら4回で中断する羽目になった。この雑誌を出していた会社が経営破綻し、実際に「安楽死」をせざるを得なくなったからである。連載に先立って、松岡さんに書いてもらった原稿がすばらしかった。松岡さんのどの書籍にも採録されていないが、企業という存在の様々な貌が、平易ではあるが濃縮された文章で書かれている。ウィトゲンシュタインの論理哲学論考のようにスタイリッシュ。  タイトルは「企業のジョークをいつ話せるか」。そこでは、企業組織を観るために設定した8つの視点がひとつひとつ語られている。いわく、 表徴としての企業  前衛としての組織  テキストとしての企業  限界としての組織  メタファーとしての企業  解釈過程としての組織  心理としての企業  ジェンダーとしての組織  といまここに書いてみただけで、経済学や経営学の教科書的な組織論や、ビジネス誌にある企業変革法といったハウツー的処方箋のくだらなさを凌駕する消息が伝わるだろう。いわば「企業を批評する」というどこにもなかった評論の世界が提起されたのだった。  改めてこの批評を読んでみると、その指摘は20数年後の今の日本企業にもそのまま当てはまる。つまり、ことさらにイノベーションやダイバーシティやジェンダーが喧伝されながらも、日本企業の「組織と人間」の問題は一向に変わっていない。「表徴としての企業」のなかで、世界的にも注目された日本的経営という表徴の“曲解”が語られたが、いまは、人的資本経営という表徴が徘徊している。また「心理としての企業」の中で、マズローの自己実現を、社員たちには迷惑極まりない組織のイディアと指摘した松岡さんは、今はやりのエンゲージメントをどう見るか。  興味津々の、現代の「企業批評」は、永遠に書かれることがなくなってしまった。

イノベーション人材をどう発見するか  | 人材アセスメント

イノベーション人材をどう発見するか 

 数年前からほとんどの企業の中期経営計画には、「イノベーション」という言葉が書かれ、期首の社長メッセージでもイノベーションの要請は常套句のように頻出する。しかしいま、日本企業でイノベーションが続々起こっているという状況とは程遠い。掛け声だけで終わっている要因の一つは、イノベーション創出の、もっとも基盤的な手が打たれていないからではないか。基盤とは、イノベーションを駆動する人材の確保・育成であり、そのための人的投資の戦略。イノベーションの起点になる新しい発想は、人々の頭のなかからしか生まれないからだ。  たとえば、国が提起し、各企業が濃淡はあるものの一斉に取り組みつつある「人的資本経営」には「イノベーション」が見えない。契機となった人材版伊藤レポートが斬新だったのは、「資本市場の力を借りて人事・人材変革を起こす」との目論見。投資家が着目するのは、収益性のみならず成長性だから、そこに資する人事戦略、つまりイノベーションのための人的資本経営こそが勘所のはずだが、多くの企業は、国から例示された定型一般的な指標情報の開示に留まり、女性管理職比率や働き方改革といった「雇用面のSDGs」遵守、いわば「守り」は見えるが、「攻め」(=イノベーション)のストーリーは一向に見えない。  「攻め」のための人への投資とはなにか。製造業でいえばR&D人材への投資、業種の違いを超えていえば、DX人材への投資はひとつの鍵になるものだが、それだけではVUCA時代の成長にはつながらない。未来が予測不能に変化するのであれば、会社のどの部署、どの機能であっても、同じことをやっていることがリスクだし、成長もない。新商品・新事業開発の職務はもちろん、営業職や管理職であっても開発的に新しいことに臨む能力が求められ、またどの仕事であっても「前提を鵜呑みにせず自分の頭で考える」能力が共通して必要になる。  イノベーションの基盤であり起点になる、こうした能力開発への投資が攻めの人的資本経営の橋頭保だとすれば、まず最初にやるべきことは、社内のイノベーション人材を発見することではないか。こうした「新しい領域を切り開く能力」は、階層と分業で合理的効率的に組まれた企業組織では原理的に見えなくなってしまうからだ。多くの企業では、誠実と協調を旨とし、役割とルールに従い、組織として成果を出すことが行動原理であり、出る杭はうたれ、斬新な発想や価値観の異質性は捨象される。そうした根強い協働スタイルによって、持っていたかもしれない人々のイノベーティブな能力は身を潜め、摩耗していったかもしれない。まず、現有のイノベーション人材リソースを把握し、新たな調達や効果的育成を計画化するとよい。  では、日常の仕事ぶりや人事評価では分からない、隠れたイノベーション人材をどう見極めるか? イノベーション人材に必要な思考力とは、正しい答えに到達する収束的思考ではなく、VUCA状況のなかで、俯瞰し様々に発想し仮説化する発散的思考力。そうした思考力レベルの、第三者視点による評定には3つの方法がある。 ① 行動から思考力を「推察」する(=シミュレーション演習によるアセスメントセンター方式で「創造性」 や「変革指向」といった思考系ディメンションに着目する)  ② 過去の経験から思考力を「判定」する(=インタビュー・アセスメントにより定性的に判定する) ③ 思考力そのものを「評定」する(=正解のない問いに対する回答を評定する)  ひとつめのセンター方式アセスメントは、「思考=頭の中でどう考えているか」は見れないので、発揮行動からの「推察」にとどまり、二つ目のインタビュー方式は、例えば、創造性を発揮するような仕事経験が一切なければ、創造力は判定し得ないといった限界がある。有効性が高いのは三番目の思考力そのものの評定である。これは、自身の考えを結論だけでなく、どう考えていったかを含めて書きだした文章を解析する方法(Think Aloud Assessment)だ。  ここで使われる、「正解のない問い」とは、たとえばこんなものだ。  下記は、武将・伊達政宗が残した言葉と言われています。これは、彼のある苦い経験、あるいは成功体験に基づいているとします。その具体的体験をあなたなりに想像し、できるだけ様々な可能性を書いてみてください。 「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるがよし」(意味:大切なことは人に相談せず、一人で悩みぬいた末に結論を出すほうが良い。)  この答を、結論だけではなく思考プロセスを含めて、文章として書かせる。そこで、どれだけ発想を広げ、推論し、仮説をつくれているかを評定する。この方式が変わっているのは、制限時間を設けないことだ。好きなだけ考えて書いてもらってよい。ときに次々にいろいろ思いついてやめられなくなる人がいる。問いの答えを考えること自体が面白くなってしまうのだ。つまり、内発的動機付けが働き、たくさんの言葉を書き連ねてしまう。  内発的動機付けが創造性発揮のエンジンであることが創造性研究で明らかになっていることを考えれば、この方法の妥当性はあきらかなのである。 ※この手法=Think Aloud Assessmentについては、 下記当社セミナー・外部イベントにて詳しくご紹介をいたします。 ・2024年10月17日開催 : 当社主催セミナー 「イノベーション人材をどう発見するか?」 ・2024年11月  6日開催 : 日本の人事部主催 HRカンファレンス

「正確な測定」をあきらめるな(評価品質を高めるために①) | 人事制度

「正確な測定」をあきらめるな(評価品質を高めるために①)

 階層別の能力課題を定量的に把握するためには、評価情報を経年で集計分析するとよい。個々人の評価結果は、その資格等級で発揮すべき能力に対しての現状レベルを示すから、各資格等級における共通する能力課題や、その経年変化、部署ごとの違いも浮き彫りになる。この「スキルギャップ」をもとにして育成策を練るのが、合理的な研修設計の常套手段だ。  だからまず、評価情報を分析しましょうと言うと「いやぁ、でも上司の評価だから、ブレもあるしデータとしてどうかな」との声が返ってくることがある。結果を見る業績評価ならまだしも、能力評価については、その正確性をハナから信じていないかのような反応。経営サイドが、自社の管理職には「正確な評価」はできないとはあきらめているのではないか。そんな印象をうける機会は、実は少なくない。  能力評価は、通常、昇給・昇格に反映させるが、評価結果に差がある二人の人材について、「この二人同期だし、実際のところ、仕事ぶりはそんなに違わないし、両方昇格させません?」などという情景も珍しくない。それが、年功的運用を助長しているわけだが、そこには「しょせん評価は評価で、実態は別」という暗黙の共通認識さえうかがえる。  まず、この状況を変えねばならないのではないか。人材の能力や動力(エンゲージメント)を高め労働の成果を最大化すべく人的資本に投資するのであれば、現場での評価はその検証と駆動の道具であり、評価品質のレベルは人的資本経営の品質を左右するからだ。ゆえに「正確な測定」としての評価の実現が愚直に追及されなければならない。  また、じつに多くの企業が評価運用の問題を抱えている。社員の不満(=評価の不公平感や不透明感)がエンゲージメントを下げる、処遇決定だけで育成には使えない、マネジャーの評価負荷が高すぎる等々さまざまだが、それらを解決するには、評価フィードバックの技法や育成前提の評価運用の工夫以前に、まず「正確な測定」が出来なければ始まらない。  評価品質を向上させるには、①評価の仕組み ②評価の運用 ③評価のスキル の3つの観点で手を打つ必要がある。   最初の観点、①評価の仕組みでいえば、正確な測定のためには「評価項目をいかに明快な基準たりうるものとして設計するか」が勘所となる。正確な測定=絶対評価(基準に照らした評定)であり、評価項目定義が、照らすべき基準だからだ。ともすれば、能力評価項目は抽象度が高く、基準としてはあいまいになりがちなので、その項目で「なにを評価するのか」がきちんと概念整理され、記述されることがポイントになる。  たとえば、G3等級(管理職手前)の「課題設定力」が以下と定義されていたとする。  ■方針を踏まえ自組織の課題を抽出・整理し、上位者へ的確に提言している   これはどの会社でも使えるような一般的な記述だが、自社においてどのような「抽出・整理」を評価するのか、どのような「的確」を評価するかは、見えない。これがA社ではこう書かれている。  ■方針を踏まえ自組織の現状の問題に対して原因を深く考察し、信頼性の高いデータなどで検証しながら、具体的にやるべきことを上位者に提言している   このような定義文は、A社のG3等級の課題設定は、「原因を深く考察」「客観的な検証」「施策の具体性」がなければいけないというメッセージになっており、その観点で部下の行動事実に照らせばよいから、判断基準足りえている。   ついでにいえば、ここでは提言する施策の妥当性は問うていない。妥当な施策を定めるのは上位者たる管理職者で、それは管理職用の「課題設定力」項目定義で問われることだからだ。G3には、提言する施策の具体性とそのもとになる問題の考察と検証の行動だけを問うている。つまり、A社では、「課題設定」のプロセスの何を評価するかが階層的に定まっている。  こうした評価項目の設計は、人事部門だけではなく、現場の管理職を巻き込まないと難しい。評価項目が抽象的だから職種別「行動例」をつけるという設計をする場合もあり、現場への依頼というと行動例作成としがちだが、実はそうではない。細かい行動例は、むしろ評価のブレを増大しかねない。大事なことは、さきのA社の例のような概念整理にこそ現場管理職の知見をいれ、評価定義自体を実際の行動事実と照らしやすい、いわば「使える基準」として仕上げることである。  以上は、評価制度の設計や改訂する場合の留意だが、評価の仕組みはもうできあがっていて、確かにあいまいな評価項目ではあるが、現時点で変えようがないという場合でも、評価品質を高める方法はある。次回は、運用のなかで品質を担保し、また確実に評価スキルをあげる手法を提起したい。 →評価100本ノックのすすめ(評価品質を高めるために②)を読む

評価100本ノックのすすめ(評価品質を高めるために②) | 人事制度

評価100本ノックのすすめ(評価品質を高めるために②)

 前回(「正確な測定」をあきらめるなー評価品質を高めるために①)提起したような評価基準を明快に定めた評価項目設計をおこなったとしても、評価のブレは必ず発生する。評価基準の抽象性を完全にはなくせないこともその原因ではあるが、最大の問題は、管理職の評価スキルが低いことだ。いや、正確にいえば、評価のスキルを鍛えられることなく、評価の実践を強いられていることだ。逆に、現行の評価項目定義があいまいだったとしても、まず評価スキルのレベルをあげれば、評価品質はかなり高めることができる。  なぜ、評価スキルが鍛えられないか。確かに新任管理職研修の一環として、評価の仕方は学ぶものだが、多くは自社の評価制度の理解と一般的な評価留意(基準と事実に即した評価原則やよくある評価エラーなど)の学習にとどまる。あとは実践の中で、せいぜい二次評価者チェックなどを経つつ、自分なりに評価スキルを身につけていくから、スキルレベルはばらつき、結局、「あいつはデキる奴だ」といった印象評価が幅を利かしたりする。  管理職者の評価スキルを向上させるために、新任・既任含めて徹底した評価力向上トレーニングを行えばよい。「研修」ではなく「トレーニング」、つまり座学ではなく反復練習によって、確実なスキル向上を図ることである。有効な方法は、以下の3つのフェーズで構成される。     1.課題の特定と確認     2.実践トレーニング     3.実践フォロー  第一フェーズは、評価者たちの課題を明らかにし、トレーニング内容をそれに合わせチューニングするとともに、本人たち「何が問題か」を突きつけることを狙いとする。常套的な課題抽出の方法は、評価情報を集計分析し、各評価者の甘辛や評点分布といった「クセ」を見える化することだ。360度診断やエンゲージメントサーベイを行っていれば、そこからも上司の評価行為の問題は見える。  さらに我々が推奨するのは、「評価力アセスメント」の実施。同一のシミュレーション下で、部下行動をいくつかの評価項目で評価するテストで、評価定義に示される基準に照らして部下の行動事実を評定することが、いかにできていないか、また、その原理原則をいかにわかっていなかったか、が如実に浮き彫りになる。  第二フェーズは、正しい評価ができるようなスキル習熟のための評定トレーニング。さきの課題を踏まえて、100本ノックのように、評定をくりかえす。そこでのポイントは、共通ケースを使ってのウォーミングアップののち、実際の部下を評価し、互いに相互検証し、講師の指摘も踏まえ、正しい評価を決定するセッションを時間の許す限り行うことだ。とくに評価者同士の侃侃諤諤の議論での気づきが効く。  同様に、目標設定についても、現状の目標の品質状況を総覧し、共通課題を明らかにし、適切な目標の要件を繰り返し教え込む。  そのうえで、各評価者は実際の評価に臨む。その実践のなかで、評価品質向上をはかるのが、第三フェーズ・実践フォローだ。たとえば、「目標設定レビュー」。実際に期首にたてられた目標をレビューし、その是正を指導する。目標はなんども立ててきていて自己流が身に沁みついているから、適切な目標設定の原則を学んでもなかなか実行できない。なので、実際の目標そのものを「添削」するほうが効果的なのだ。同様に、期末の「評価票レビュー」を行う場合もある。  もうひとつは、実践しての課題を採取し、その解決をはかるというフォロー施策。半期末か期末のタイミングで、評価者からアンケートをとる。実際の評価をしていくうえで、評価者が直面した問題やリアルな悩みを把握し、それに対してフォロートレーニングを行うということである。併せ、被評価者アンケートも行うとさらにシビアな実践課題が得られる。  「正確な測定」のためには、①評価の仕組み ②評価の運用 ③評価のスキル でそれぞれ打ち手があり、前回は①仕組みの観点、今回は③スキルの観点での提起を行ったが、②運用の観点での施策に触れる余裕がなかった。この運用上の施策もまた、きわめて実効性の高い評価品質向上策なので、追加でもう一回書く予定だ。 お役立ち情報→【人事評価運用のお悩みはトランストラクチャが解決】

「役割」の効能と副反応 | 人材開発

「役割」の効能と副反応

 話題になった組織論の本を読んでいたら、進化した組織の素晴らしい点として、従業員が「ありのままの自分」を出せる云々、と書かれているのをみて、唖然として、本を閉じた。仕事をする環境である会社組織で、ありのままの自分をさらけ出すなんて、あまりに息苦しいし、そんな必要もない。むしろ、ありのままの自分ではなく、組織内の役割を演じることだけが問われ、役割発揮度合がパフォーマンスにつながるゲームだから、組織で働くことは面白い。  自分自身≠役割、だからこそ辛い仕事も耐えられ、仕事ならでの醍醐味もある。「たかが仕事、されど仕事」とは、そうした事情を的確に言っているのである。結果、人事評価が低くても、それはたんに役割に必要な能力がないというだけということであって、全人格的評価ではない(と思えばよい)。そもそも、ありのままの自分と仕事を重ねてしまうから、メンタルイッシューも出来するのではないか。  組織とはそもそも、個々人の能力限界を超えた成果を出せるための装置として生まれた。一人ひとりではできることが限られるけれども、うまく役割分担して組織すれば、個々人の能力総和を超えた集団としての能力発揮が可能になる。社会に対してより大きなコトをなすしくみが組織であり、それは役割としての個人=構成員を前提する。テーラーシステムにおける作業分業から、知識創造企業体における機能分業まで、そのコトワリは変わらない。 組 織成果にむけ個々人がやるべきことを自覚し協働でき、なおかつ人々のありのままの姿を守ることができるのが、「役割」の効能である。ただ、この役割は、組織としての成果を高めていくには、きわめてよく効くものなのだが、ときに効きすぎて副反応にいたることがある。役割には、それを熱心に演じることを通じて、「仕事する自分」が別人格としてアイデンティファイされる面があるからだ。役に徹することで、ありのままの自分だったらとうていできないことも、できるようになる、あるいは「しでかしてしまう」ということだ。  かなりむかしのことだが、取材記者をしていたことがある。文章だけでなく写真も入れる記事だったので、カメラを携帯し、よい記事にはインパクトのある写真が不可欠と撮影に力をいれていた。ある企業グループの合同入社式の取材のときのこと。式全体を俯瞰した写真を撮りたくて、ファインダーを覗いあちこち移動しているうちに、ついに決定的な構図をとらえてシャッターを押した。  その時私は、数百人の新入社員が入る広大な式場の壇上、各社の社長・役員が並んで座っている前で会場の全員に向けて訓示をたれているグループ総帥の後ろに立ち、総帥の後頭部越しに、こちらを凝視する会場の新入社員のたくさんの顔が並ぶ絵を撮っていたのだった。カメラを構え、誰にも断らずに、いつの間にか壇上にあがっている――「カメラを覗くと人格が変わる」と我ながらうろたえ、そのとき、職業意識の恐ろしさを知った。  普通なら臆してできないことも、役割に忠実に、役割に徹すればできる。だからよい写真がとれるというならば、効能ともいえるかもしれない。しかしそれは、あきらかな副反応(ときに社会に害をなすような)を起こすことがある。役割に忠実に実直に職務遂行するあまり、生み出された人類史上もっとも悲惨で衝撃的な副反応のメカニズムは、ハンナ・アレントの「エルサレムのアイヒマン」でよく知られる。  そこまで深刻ではなくても、我々は、役割とは単に組織目的に紐づけられた機能分担にすぎないことを忘れ、自分の生活を損なってまでも、社会の常識に反してまでも、役割を全うしようとすることがある。人は、さまざま関係のなかで、アイデンティファイされる。その中で、仕事つまり組織の役割によるアイデンティファイは、関わる時間量においても、責任や達成感や刺激の大きさにおいても、「親としての役割」や「市民としての役割」や「隣人としての役割」よりもインパクトが大きいゆえに、この手の副反応を引き起こしてしまうのだ。  ではどうしたらいいか。ときに、仕事の渦中でたちどまって、「自分はなぜこの行動をとっているのか」と自問すればいい。その問いに、「仕事だから」、「やらねばならぬ役割だから」と自答するなら、さらに、「なぜ自分はこの仕事をやっているのか」、「この役割はなんのためのものなのか」と玉ねぎを剥くようにしつこく自己言及していけばいい。結果、自分にとっての役割を、客観的かつ主観的に意味づけることができればもう、副反応なく仕事しているはずだ。「たかが仕事、されど仕事」と嘯(うそぶ)きながら。

パトスを演じる | 人材開発

パトスを演じる

 子会社の責任とは、自立的に自社の成果をあげグループ経営に貢献することである。グループ力に依存したり、企業グループという大きな組織の一員といった意識で、受動的にグループトップのマネジメントに従ってはならないのだ。自社が成果をあげ貢献するには、親会社の見解や指示などに耳を貸さずに自社の社長たる自らが経営判断しなければならない。親会社がいかに子会社たる自社を環境分析しその戦略を描こうとも、自分以上に意思とリアリティのある判断はできないからだ。  そう考えて多国籍企業グループの日本法人の代表に就いていたから、当時は、自ら策定した事業計画や予算を親会社に認めさせるべく、戦略的プレゼンテーションをもって、親会社との交渉という闘いに臨むことが期首の正念場だった。日本は業績低迷下であっただけに、ヘッドクォーターの管理担当役員からの横やりや掣肘、COOからの米国感覚の戦術指南をかいくぐって予算を通さなければならない。そのプレゼンのポイントは、ロゴスとエトスとパトスを駆使して、納得せざるを得ないと思わせることだった。  予算確定のグローバルミーティングで難しかったのは、説得力あるパトスの表明だった。ロゴスは、構想主導型の予算が立てられ、明快に示せれば問題はない。前年踏襲の積み上げ式予算など出したものなら、一発退場だが、まず意思ある戦略があり、それを裏付ける予算計画であればよい。エトスもさほど難しくなく、「いやいや日本は違うのだ」との常套句を、ビジネス倫理や社会性の文脈で語れればよい。  パトスの表出は、態度と言葉による。「内なる闘志」など忖度されないから、結果へのコミットメントを、はっきりと態度と言葉で表面的に示さなければならないのだが、その大仰で芝居がかったプレゼンテーションはなかなか抵抗あってできなかった。グループCEOは、そこは物足りない風情ではありながらも最終的には当方の予算を認めてくれた。  そしてすべて国の予算策定が終わると、おもむろに傍らに近づいてきて私の両肩に手を置き、眼を見据えて、 「日本は、お前のリーダーシップにかかっているんだからな」 と英語でなければ、気恥ずかしくなるような言葉をかけてくれたのだった。すかさず、両手を添えた力強い握手を返しつつ、感に堪えないといった表情をつくって大きくうなづく。ときに身に染まぬ演技をするのも大事な仕事なのだ、と自身に言い聞かせながら。  パトスを演じることはしかし、ピープルマネジメントをうまく行う基本でもある。その後、複数の会社の優秀なマネジャーたちにインタビューしたことがある。聞いたのは、「人を育てるマネジメント」の秘訣。各人各様の、経験のなかで独自に編み出した「日常の理論」は、実に興味ふかく示唆的だったが、共通していたワザは、相手に対する熱意や思い、相手の意思や感情への配慮が、はっきりと伝わる言動で示すこと。要は芝居がった言葉遣いで大げさにふるまうことの効用が大きいということだった。  なるほど、リーダーという役を演じる割り切りをもって、パトスを目に見えるように伝える姿勢が優秀なマネジャーに共通する。彼の地のCEOはそのことを、つまり、マネジャーとしての私の課題を教えてくれていたのかもしれない。