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フレームで考える | その他

フレームで考える

 「創造とは、フレームワークだ」と公文俊平さんは言った。  まだインターネットが登場する前、パソコン通信をつかって、当時シアトルに在住していた公文俊平さんにメールインタビューをしたことがある。何回かのやりとりを編集せずに、ライブ感もってそのまま掲載する試みで、マニアックに制作していた企業組織論専門誌の企画だった。「叛企業文化論」と銘打った(なんと青臭い!)特集のなかで、企業文化をテーマに、独自で厳密な論を展開してもらったあと、次号のテーマ「場の創造性」を巡ってまたメール交換したのだが、そのやりとりのときに公文さんが言った印象的な言葉がこれである。  「創造とは、フレームワークだ」という発言の文脈も詳細も忘れてしまったけれども、そのときの指摘はこうだ。何か考え出さなければならないことがあるとする。そこでひとつ、新しいアイディアを思いついたら、例えば、そのアイディアを配置できる、2軸4象限のフレームを創出せよ。そして、空白の3象限を埋めていくようにさらにさらに創り出せ。創造とはそういうものだ。たしかそのようなことを言っていたのだった。  フレームというものは、たしかに、たいへん便利な思考の道具である。  マーケティング環境分析では、お馴染みの『SWOT(Strengths-強み、Weaknesses-弱み、Opportunities-機会、Threats-脅威)』や『3C』(Customer,Company,Competitor)などは必須ツールだし、最近増えてきている経営幹部候補育成の研修では、とくに『PEST』を使うセッションを念入りにやったりする。PESTとは、政治(Politics)、経済(Economy)、社会(Society)、技術(Technology)の枠で、例えば自社に影響与えるマクロトレンドを最も広く考える際に使う。  経営とは、突き詰めれば競争と数字であり、そのリアリティの薫陶が幹部育成には不可欠ではあるが、その前提となる社会と自社の関係と将来についての見識も経営者の大事な要件である。だからこんなセッションをやったりするが、これが結構できないことが多い。PESTの枠内に書き込むべきコトがなにも出てこなかったりする。  このような普段考えないような事柄を考えたり、問題の原因をできるだけ広範に洗い出したりする際には、最初に「発散」という発想技法を使うのが常套手段だ。グループや個人でブレーンストーミング(=発散)をして、たくさんのアイディアを生みだし、そのあと「収束」し構造化するという段取りだが、白紙の状態からの発散はなかなか難しい。そこでフレームを用意して、発散すると、漏れなく、深いアイディアがたくさん出せる。たとえば、職場の問題と原因の洗い出しなら、『7S』(Strategy、Structure、System、Style、Staff、Skill、Shared Value)とか『PDCA』(マネジメントの基本であるPDCAも汎用的なフレームとして使い勝手がよい)が、有効な道具になる。  枠があるほうが新しいモノゴトを発想しやすいということである。  そのことは、事業の課題や戦略を構想する際にたくさんのフレームワークが使われていることでもよくわかる。その紹介だけで本一冊分はゆうにある世の中の創造技法というものも、多くは、フレームワークだ。ただ、公文さんがいったいちばん大事な指摘は「フレーム自体を考え出せ」ということである。  PEST分析がうまくできないケースが多いと書いた。その理由は、ともすれば、「視野が狭い」、「目の前の仕事に思考が埋没している」、「社会的な問題意識がない」といった研修の受講者の意識にあるとされる。その要因ももちろんあるだろうが、もう一つの理由は、一つのフレームが大きすぎるからである。P(政治)ならPの枠のなかで、より細かいフレームを自分で設定していけばいいのだが、それがわかっていないから、漠然と立ち向かい、何も思いつかない羽目になる。  「フレームで考える」ということは、「フレームを考える」ことでもある。  4象限の枠組みでいえば、まず二つの軸をどう設定するか。その組み合わせはいくらでもある。どれだけ自由に、自分なりの軸を思いつけるか。そのうえで発想していく。創造という行為は、まずフレームを創り出し、そのフレームで発想していくことともいえる。ただいきなりフレームを設定せよといっても雲をつかむような話なので、公文さんは、最初のアイディアがまずあれば、それを配置しうる2軸を考え出せ、といったのだろう。  その軸を考え出すための“枠”というものもあるのではないか。いわば、フレームを考えるためのフレーム。一つのヒントは、その枠は、フレームワークにより創り出すアイディアは事業や仕事に結びつくものである、という目的から規定されることにある。つまり、事業や仕事の意味や意義、付加価値から発想される軸、ということである。意味や意義、付加価値とは、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」という本質的な問いの答えだ。  禅問答みたいな分かりにくいことを書いている。こんな例をだせば言いたいことのニュアンスを伝えられるだろうか。  たとえば、鉄道の会社が、自社の事業を「鉄道事業」と思うか、「輸送事業」と思うのでは、例えばそこで思いつくフレームはきっと違ってくる。デパートが「百貨を売る物販業」なのか、「総合生活提案業」なのか、でも違う。あるいはかつて、コカコーラのボトルには「Drink Coca Cola!」と書いてあったが、ある時から「Enjoy Coca Cola!」と変わった。その時に、コカコーラ社の従業員がもし皆でPEST分析を試みて、PとかSとかの中でいろんなフレームを設定するとしたらそれは、「Drink〜〜」時代とは違うフレームが設定されるのではないか。  事業や仕事に関わる創造のためのフレームを考えるには、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」といった本質的な問いがまず必要のはずである。フレームを創りだし、そのなかで発想していく方法を「フレーム思考」と呼ぶとすれば、「フレーム思考」は、本質的な問い=「Why思考」と表裏一体なのである。

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか | その他

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか

企業にとって業務を効率化し、生産性を向上させることは永遠の課題であり、これまでも多くの取り組みがなされてきました。ホワイトカラーの生産性向上については何十年も前から企業の重要な組織テーマとして各企業で様々な試みがなされてきています。その結果は果たしてどうだったでしょうか。 結果を知るとすっかり気落ちしてしまうのですが、実は日本企業におけるホワイトカラーの生産性は先進国の中で最下位なのです。一方でブルーカラーの生産性はその逆でトヨタ生産方式に代表されるように高い生産性を誇っています。実際のところ弊社で引き合いを受ける業務コンサルティングのテーマで最も多いものの一つが管理間接部門の適正人員算定であり、これはとりもなおさず管理間接部門の生産性の低さを経営者が問題視していることの証しでしょう。逆に生産現場における生産性向上についてコンサルティングを依頼されたことは私の経験ではありません。 同じ日本人が働いているのになぜブルーカラーの生産性は高く、ホワイトカラーの生産性は低いのでしょうか。多くのホワイトカラーは大学を卒業しており知力も高いはずなのに、こと業務の生産性に関してはなぜブルーカラーの人々に負けてしまうのでしょうか。これにはもちろん多くの原因が存在するのでしょうが、私が考える一番の原因はやはり年功序列を基軸とした人事システムにあるのではないかと思います。現時点で道行く会社員に「あなたの会社は成果主義に基づく人事制度が導入されていますか」と聞けば、おそらく9割の人からYESという返事が返ってくるでしょう。しかしこれが曲者で、日本企業に導入されている成果主義は同期社員の間に数年の昇格スピードの差をつけることで社員に同期に負けじとする気持ちを持たせ奮い立たせようとするものであり、外資企業に見られるような年下の上司が存在する真の意味での成果主義が導入されている日本企業は少数派なのです。従って多くの日本企業においては年功序列を基軸に成果主義の味付けがしてある人事システムが主流と言えます。 日本企業の人事システムが年功序列でしかも退職率が低い、さらに経済成長の鈍化で高度成長時代のように会社規模が拡大し結果的にポストが増えることもないとなれば当然管理職あるいは管理職への待機人材が余剰となります。周りを見廻せばポストが空くのを待っている先輩社員がたくさん待機している有様では、入社時にはいつかは会社の中で課長になり、部長になり、そして役員になることを夢見ていても、それが見果てぬ夢であることに気付くのに時間はかからないでしょう。その結果社員に生まれるのは、与えられた仕事を無理しないでゆっくりとこなせば良い、いくら頑張っても昇進は無理、問題を起こさないようにマイペースで仕事をこなせば良い、と言った守りの姿勢です。この守りの姿勢こそがホワイトカラーの生産性を落とす最大の原因だと思います。人が守りに入った時、仕事の効率、生産性を上げる、同時に業務の品質、有効性を高めようとする気概も失われます。これがホワイトカラーの生産性を低下させているのです。 こうした状況の時、会社が生産性を上げるべく外部コンサルタントを雇ってトップダウンアプローチでBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を推進しようとしたら一体何が起こるでしょう。守りに入っている社員はBPRの推進に決して抵抗はしないでしょうが、自ら積極的に業務変革に取り組むこともないでしょう。BPRで与えられた新しい仕事の進め方を当座は守っているでしょうが、やがて問題がありさらに改善すべき点にも気付くはずです。しかし守りに入っている社員は問題を改善しません。その代わり仕事のやり方をBPR以前の元のやり方に戻してしまうでしょう。かくしてBPR活動は失敗し、仕事の進め方もいつのまにか元に戻っていたと言うことになります。 守りに入っているホワイトカラーの社員を生産性向上の動きに持ってゆくには、彼らの意識変革が必要です。それは生産性を向上させ仕事が変わってゆくこと自体が面白いと思わせること、あるいは生産性向上により労働時間が短縮し残業や休日出勤が減少することでより多くの自分の時間が持てるようになり、結果的にワークライフバランスがとれた生活を送れるようになることを理解させることで実現します。要するに守りに入っているホワイトカラーの社員が自ら生産性向上の必要性と価値を理解して動かない限り、生産性向上活動は決して成功しないのです。 これを実現するには会社全体としての取り組みを継続的に粘り強く実施することが求められます。例えば生産性向上に向けた時間管理の仕組みを作り、毎週上司と部下間で業務の無駄がないか確認する、全社キャンペーンを実施する、社長メッセージを定期的に発信する、研修を行う、等のいろいろな施策を組み合わせ、しかも継続的に実施することになります。成果が挙がるにも相当の時間がかかると思いますが、あきらめることなく粘り強い取り組みが求められます。従来からのBPRのようなトップダウンアプローチではなく、本人の意識に訴えるボトムアップアプローチこそがホワイトカラーの生産性を高める有望な手法と言えるのではないでしょうか。

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

ストレスワクチン | モチベーションサーベイ

ストレスワクチン

多くの組織で問題になっているメンタルヘルスの予防的施策として、ストレスワクチンという処方がある。 メンタル不調を結果するような状況に至る前に、ワクチンを打ってストレスの抗体を作り、個々人のストレス耐性を高めておく手法だ。「ワクチンを打つ」とは、Off-JTのワークショップとフォロープロセスのことで、まずは組織診断によりその会社固有のストレス因子を検出し、それを使ってストレスフルな状況の予行演習を体験する。主に、入社間もない社員に対し行われる予防施策である。 企業内ストレスにさらされる状況はある程度決まっている。一般的には、入社直後や配属直後、異動後や転勤後、管理職への昇格したときがそうであり、加えて各社の業務や組織の特性と風土や慣習によって、ストレス状況の類型化ができる。部門による人間関係の特性や組織の意思決定のクセが、その会社固有のストレス因子かもしれない。それを“抗原”として、想定される状況下で、自分がどのように対処すべきかを先行して考えることで、ストレスを受け止める力を身につけさせるということである。 言うまでもなく、生産性を追及する組織である限りストレスは必須だから、組織のストレスをなくしていくのではなく、個人のストレス耐性が課題になる。「メンタル失調になりそうな候補者を検出できないか」という採用担当の方々からの要請も少なくないように、“個々人の資質問題”に偏りがちなアプローチに対して、ストレスの抗原−抗体反応の仮説は魅力的ではないか。 この仮説が正しければ、EAPや産業保険医体制の整備、あるいは管理職へのメンタルヘルス研修などで、不調者の予兆を個別的に早期発見、早期対応するくらいしかメンタルヘルス対策がないなかで、組織的な予防施策として展開できるからである。 「必ず直面するストレス状況を、事前にイメージさせ、受け止められるようにする」とは、その時どうすればよいかをシミュレーションさせることだけが大事なのではない。何より、その状況の背景の意味を考えさせ、理解させること。個人の業務や役割の意味とその背景にある会社のミッション、そうした業務が自分にとって、自分の将来にとってどのような意義を持つのかを、深く考えさせることこそが重要だ。つまり、将来のストレス状況にポジティブな意味づけを予め前提させる。ストレスとモチベーションが表裏の関係あること自体を体感させるのが、こうした施策の最大のポイントだろう。 さらに、ストレスワクチンの効用はもうひとつある。組織の暗黙知が明示化することである。抗原を検出するための事前のストレス診断により、暗黙のルールや集団行動のクセのインパクトがわかる。例えば、ある部門はきわめて家族的な人間関係に特性があるかもしれない。新入社員がこうしたことを事前に知ることで、効率的に仕事に集中できるはずだ。 かつて、辞めてほしくない社員に対して、アメリカの会社は“ゴールデン・ハンドカフ(金銭による手錠)”をかけるが、日本の会社は“エモーショナル・ハンドカフ”をかけると言われたことがある。日本企業の雇用関係は、長期雇用の黙契がなくなり、成果と報酬の契約的関係になりつつあるとはいえ、暗黙のルールや人間関係の圧力は存在する。ストレスワクチンは、それに対するプラグマティックな挑戦でもあるのではないか。

会社と社員の距離 | その他

会社と社員の距離

会社に対する社員の意識が変わったと言われるようになって久しい。高度成長期からバブルの時代まで、社員は終身雇用の枠組みの中で年功序列的な昇進・昇格が約束され、その見返りとして会社に対し忠誠を尽くすことが当然のことであった。会社は安定的な賃金を支給し、社宅を提供し、社内運動会や社員旅行に家族ぐるみで参加するのも当たり前のように行われてきた。その結果、社員は親しみを込めて勤務先を「うちの会社」と呼ぶようになり、これはとりもなおさず「会社と社員の距離」が極めて近かったことを意味する。 ちなみに私が子供の頃、私の父は地方金融機関に勤務しており、まさしく会社と極めて近い距離での生活を送っていた。周りが同じ会社に勤める人ばかりの社宅に住み、運動会、旅行、釣り大会、等々の行事に参加しても同じ会社の関係者ばかりと言った状態であった。しかし、これは決して特別な話ではなく、当時の多くの会社員とその家族が同様の生活を送っており、それに対し何らの違和感も持たなかったのである。 バブル崩壊後、多くの会社で終身雇用や年功序列の仕組みを維持することが困難となり、それまでの会社と社員の関係は変質を余儀なくされた。会社に忠誠を尽くしても、その見返りを会社が与えてくれないと社員が感じ始めたところから「会社と社員の距離」は徐々に遠くなり始めた。社員と上司、社員と社員の関係も、以前は同じ会社と言う運命共同体に勤める同志だったものが会社と雇用契約を結んだ個人同志との関係へと変貌して行った。年功序列的な賃金体系から成果主義的な賃金体系への移行は少数のハイパフォーマーを満足させることはできても、それ以外の多く社員の満足にはつながらなかった。 もちろん、この変化の原因としてはバブル崩壊後の事業環境の激変だけでなく、社会全体の人間関係の変質も大きく影響しているのであろう。会社の懇親会や忘年会と言った従来の価値観からすると大切な社内コミュニケーションの機会も最近の若い社員には敬遠する人が多いと聞く。以前なら先輩社員から多くの経験談や非公式な情報を入手するせっかくのチャンスとばかり、先輩に酒を注いで回るのが若手の常識的な行動だったが、現在の若い社員は世代の異なる先輩社員とは話が合わないと言ってこうした機会を避けたがる傾向にあるらしい。 話は逸れるが、先日、通勤電車に乗っていて面白いことに気付いた。その電車はドアの左右に横向きのシートがあり、ドアとドアの間の車両中央部に4人が向かい合って座れるボックス席が配置された通勤電車である。ドア左右の横向きシートは中央部のボックス席に比べて背もたれが低い上、乗り降りする人も多いので落ち着かないため、以前なら電車に乗って来た人は空席があればまず中央部のボックス席に座ろうとしたものである。しかし現在の若い人は違う。ボックス席に空席があってもそこには座ろうとせず、ドア左右の横向きシートに座ろうとするのである。若い人は体格が良いので足を伸ばせる席が良いのだと言う意見もあるが、私の見解は違う。つまり見知らぬ人と目と目が合ったり、場合によっては見知らぬ人との会話を余儀なくされる可能性があるボックス席を潜在的に回避しているのだと思う。前述の宴会を避ける若い社員の行動と同じで、自分と同じ世代、あるいは話が合う人以外とのコミュニケーションを避けたい意識が現れているのだろう。 少し前のことだがある調査会社が従業員500名以上の企業に勤める会社員に対し、社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査結果(注)を発表した。それによると社長は火星にいるくらい遠いと回答した社員が2割おり、会社との気持ちの上での距離については半数が「遠い」と回答したとのことである。問題なのは会社との距離が遠いと答えた社員の多くはモチベーションが上がっていないことである。逆に会社との距離を縮めるための施策として最も重要なのは「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」こととの結果も出ている。 前述のとおり昨今の経済環境下においてはバブル期以前のように社員の働きに対してポジションや金銭で報いることは難しくなってきている。これをそのまま手をこまねいて見ているのでは「会社と社員の距離」は決して縮まらず、社員のモチベーションは上がらない。だが幸いなことに会社側から積極的なコミュニケーションを社員に働きかけ、社員が「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」ようになれば「会社と社員の距離」を縮めることができるのである。また社員への金銭的な報いが難しくとも、会社側が社員のニーズを汲み取り、知恵を絞れば所謂「非金銭的報酬」として社員に報いることも十分可能であろう。金をかけずに「会社と社員の距離」を縮める方法はまだいくらでもあるのである。 (注)出典:社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査(JTBモチベーションズ)

コミュニケーションに「こころ」はいらない | その他

コミュニケーションに「こころ」はいらない

縁あって、平田オリザさんの話を聞いた。 平田さんは、劇団を主宰するとともに、現代演劇の理論化とそれを活用したコミュニケーション教育で知られる。16歳のとき自転車で世界一周したことは有名だが、近年は、大学の教員も歴任し、管直人政権下では内閣官房参与の任にあった。 そのなかで、大阪大学で共同研究している「ロボット演劇」の話があった。ロボットが劇を演じ、人が観客として鑑賞する。そのお披露目では、ロボットの演技で、観客は涙を流したという。感情も意思もないロボットも、演じることで人を感動させられたということだ。 ロボット演劇が成立するとしたら、演技つまり“コミュニケーションの型”が的確でさえあれば、自身の感情や思い、価値観とは無関係に、人を動かすことができるということではないか。これは、企業組織のなかのコミュニケーションを考える際にも示唆的である。 以前、ある仕事で複数の企業の管理職者たちに、「リーダーシップの持論」をインタビューしたことがある。主旨は、部下育成に優れるリーダーとおぼしき方々を選定し、「人を育てるリーダーとは何か、どう行動しているか」を聞いて、類型化することだった。どの方の話も自身の実践の中で培われた方法論で興味深いものだったが、ある女性管理職の方の言葉が印象的だった。 彼女は、管理職を「どう効果的に演じるか」について語り、また、部下にも「あなたの役割を演じるんだ、とまず考えなさい。あなた自身と役割は別のものだから」と指導していると言った。 そのとき「管理職を効果的に演じる」といわれてみて、リーダー達がそれぞれに実践している行動を改めて振り返ると、確かに、みな芝居がかっていた。それが、リーダーシップ・コミュニケーションという型(=演技)ということだ。 さらに彼女のスタンスは、管理職でなくても、若い社員であっても業務の役割があり、組織の一員という役割もあるのだから割り切れ、ということである。そして、役を演じろと。 ロボット演劇の話は、コミュニケーションに「こころ」はいらないという極端な仮説である。コミュニケーションとはそういうものだ、とは短絡できないが、ただ、コミュニケーションに「こころ」は必須ではないという指摘は、大事なことだろう。「こころ」とは、あるがままの自分とか、本当の自分の思いであり、それを考えるあまり、組織のなかで不具合や葛藤が起こってくることもある。 若年層に頻出しているメンタル失調やそれに伴う離職者が多いことには、こうした不具合も原因しているのではないか。自分を見つめなおしたり、あるがままの自分であるべき、といった内省は、会社で働く上で必要がない。会社の一員としての「役」を、いかに意識的に演じるか、という姿勢があればいい。 平田さんの演劇教育は、企業研修にも応用可能である。タフな社員を育成するために、新入社員の時から、「役」を演じる面白さ、楽しさを教える施策として、展開してみようと思う。 以上 参照 コミュニケーションに「こころ」は必要 という立場でコラムの執筆があります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100809/

故きを温ねて・・ | その他

故きを温ねて・・

新しい期を迎え、ただでも多忙なのに、部下の人事評価を書いて人事部に提出しなければならない大変な時期だ。人事評価などという仕事は面倒くさいものだと思っている管理職は多いだろう。いきおい、何とか「表を埋める」ことに終始することになる。評価される側にとっても、普段の仕事を評価されるとなると楽しいことばかりではないだろう。評価が公平でないなど不満の声を上げる向きも多い。多大なパワーをかけて行うこの人事評価という年中行事、もっと効果的なものにする手はないものだろうか。 先日、100年近く前にわが国の海軍省が運用していた古い人事制度の話を聞く機会があった。ずいぶん昔の、しかも軍という特殊な組織の中でも、私たちが日頃目にしているのと同じような人事評価制度が運用されていたことを知り、興味深く感じた。だが、それにも増して印象深かったのは、その評価制度が現代の我々の悩みにも存外答えてくれそうなものであったことだ。 まず、人事評価の目的を何に置いているか。海軍省では人事評価の主目的を、「適材を発見し、適所に配置すること」とし、同時に「適切な教育を実施すること」としていた。「進級と増俸の決定は人事評価の副次的な目的」であったという。この点、現代でも変わらぬ重要なポイントを衝いているではないか。社員の能力の不足を精力的に補い、偏り無く人材を配置し続けることは、会社の成長と生産性向上に欠くことのできない仕事だ。人事評価、特に能力評価はこのためにこそあるといえる。評価の目的をきちんと理解すれば、多忙な中でもきちんと時間を割いてじっくり向き合うべき仕事だと考え直すことができる。 また、被評価者の個別事情に配慮していることも見逃せない。決められた評価フォーマットの中には、被評価者の自己申告を記述するスペースがあり、上官は、被評価者本人の意思を十分に斟酌したうえで、本人のワークモチベーションに十分に配慮した適正な配置を進言するという仕組みになっていたようだ。 この評価制度は、また、人事評価の基礎として十分な観察と正確な記述を求めていた。「評価者は、常日頃からよく部下の言行、技能、能力を観察し、慎重に考察のうえ、正確な考課事実を集め記述すべきだ」とし、評価の記述に当たっては「忌憚無く的確精細に記述して本人の真価を表現するように努めるべきだ」としている。さらに、「婉曲すぎて真意を伝えにくい文章の修飾を避け、直裁に真相を表現するべきであり」、そのためには「慣用句や俗語を使っても構わない」としていた。 さらに、この評価制度は、「評価は評価時期にだけ行う仕事ではなく、評価期間の途中であっても賞賛や非難に値する行為があったときや能力や身体の状況に特筆すべき変化が起こったと認められた場合は、そのポイントだけを評価表に記述し臨時評価表を提出すること」を求めていた。これらのことは、勘や印象に基づく評価を避け、事実に基づいた正確な評価を行おうとする誠に的を射た施策であり、今日の多くの管理職にとって耳の痛いアドバイスである。 評価者から収集された評価表の記述は、「短冊」と称する個人別帳票に転記され、訓練実績、能力の伸長、本人の志向など一目瞭然にがわかるよう人事担当部局で大切にファイルされていたそうだ。いまでこそ人事データベースの整備が唱えられるが、有効利用している会社が多いとはいえないのではないか。 海軍省の人事評価の仕組みには、限られた人材の力を十分に発揮させ、組織のパフォーマンスを最大化しようとする工夫がたくさん詰まっていた。人事評価の本質は時代や組織を超えて普遍のものなのだろう。

麻薬的残業の正体 | その他

麻薬的残業の正体

「なかなか残業が減らせない」という声が、多くの人事担当の方々から聞かれる。業務効率の向上はもちろん、過重労働の軽減やワークライフバランスを考慮した働き方の要請からも長時間労働をなくしていかねばならないが、その実現は簡単ではない。 その理由には、「当社の仕事は“特殊”だから」という、“共通”したものや、「お客さんに合わせざるを得ないから」、「なによりもまず業績回復」といった組織の状況があげられるが、従業員の側にある要因の指摘としてしばしば聞かれるのが、目先の仕事に没頭してしまう自発的かつ習慣的残業。好きで残業しているとしか思えない、いわば、「麻薬的残業」である。 ITエンジニアやクリエイティブワークといった顧客とともにモノを作り上げていくタイプの仕事に多い、「時間をつぎ込むだけ品質が上げられる」との想いで、際限なく残業を続ける人々の存在である。彼らは、強制されてではなく自ら進んでやっているように見えるし、かつてのWorkaholic世代であった上司からみれば「まあ仕方がない」とも思える。ライフの充実のために残業するな、と命じても、家に早く帰ってもやることがないとまで言われれば、それはそれである種のワーククライフバランスか、と納得したりする。 麻薬的残業の麻薬性は、目の前の仕事の面白さや分かりやすい顧客満足の手ごたえにある。たとえば多様なプロジェクトワークのなかで顧客との同志的な感覚や達成の高揚感を感じる。顧客満足の向上は、自分の価値の向上にも思える。結果、日々の仕事に耽溺し、多大な時間を投下するということになる。 この限りでは、たしかに理解はできる。やりがいを感じて働いている分、よしとしたい、と言えなくもない。問題はこの働き方がメリハリなく習慣化していることである。仕事の緊急度や求められるアウトプット品質のレベルにかかわらず常にだらだらと残業を続けることをやめられない。その常習性が問題だ。 そこには、不安からの逃避という心理があるのではないのか。仕事の分かりやすい面白さにのめり込むことで、本来の仕事のあり方や自身のキャリアやビジョンの不安から、意識的にか無意識的にか目を閉ざしているのかもしれない。そのことが、将来の仕事やキャリアのための自己投資の時間確保を阻害し、成長への不安をまた醸成するという悪循環。 だとすれば、これは個人の側だけの問題ではなく、やはり組織の問題だろう。麻薬的残業の足元にある不安は、組織の将来の不安に起因するはずだからだ。 背景にある組織の不安仮説としては、自社のビジネスモデルへの不安、そこにもとずく人材像の不安、あるいは組織の在り方の不安。つまり、会社の事業の将来が見えない、仕事の将来が見えないということが、自分自身のキャリアや成長目標を見えなくしている。どんな能力開発に投資すべきかが分からない。そうしたビジョンやメッセージが伝わってこない組織が、自分の価値を見失わせ、目先の仕事に逃避する。 いわば「ビジョンなき繁忙」が生み出すメリハリのない麻薬的残業。タイムマネジメントの実践には、この観点も忘れてはならないだろう。