「その他 」の記事一覧(2 ページ目)|コラム|株式会社トランストラクチャ

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

その他

column
出社の是非が企業文化を語る | その他

出社の是非が企業文化を語る

 新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちの働き方を劇的に変えました。オフィスに出社するかどうかの議論が、企業文化を浮き彫りにしています。このテーマについて考えるとき、オフィス出社を推進する人々は「会社こそが第二の家」と考え、一方でリモートワークを推進する人々は「私の家こそがオフィス」と考えているのかもしれません。    企業の視点から見れば、オフィス出社には確かに利点があります。対面でのコミュニケーションは、円滑な意思疎通やチームワークの向上に寄与します。ランチタイムやコーヒーブレイク中のカジュアルな会話から生まれるアイディアや、直接顔を合わせて行うミーティングの臨場感は、リモートワークでは再現しづらいものです。しかし、「見えないと管理できない」といった意見も聞かれますが、これは果たして本当にそうでしょうか?  一方、社員の視点に立つと、リモートワークには明らかな利点があります。まず、通勤時間が削減されることで、プライベートの時間が増えます。育児や介護などの個人的な責任を果たす時間も確保しやすくなります。通勤にかかる時間とエネルギーを節約できることは、生産性の向上にもつながります。つまり、リモートワークは「家族第一」を実現するための強力なツールとなるのです。  現在の人手不足の状況下で、企業が優れた人材を確保するためには、柔軟な働き方の導入が求められます。出社の是非を巡る議論は、このマッチングをどう進めるかに関わる重要なテーマです。ここで重要なのは、どちらが正しいかを一概に決めるのではなく、業務環境や顧客満足度などを総合的かつ客観的に評価し、合理的な解決策を見出すことです。  最終的な方針は、誰が決めるべきかという問題も重要です。トップマネジメントがこの前提を理解し、意思決定することが求められます。しかし、その際に忘れてはならないのは、世代によるITリテラシーの差や働く価値観の違いをしっかりと自覚することです。年齢が高いほどデジタルリテラシーが低い傾向があり、メールやチャットが苦手な社員もいます。一方で、働き盛りの世代は家庭や個人的な時間を重視し、もっと柔軟な働き方を求めています。  もし、会社の会議室に自動ドアが設置され、出社するたびに「ようこそ、未来のオフィスへ!」と歓迎されたらどうでしょうか?また、リモートワーク中に仮想現実のオフィス空間が提供され、バーチャルで同僚とコーヒーブレイクを楽しむことができたら?こうした未来の働き方も夢ではありません。  最終的には、企業と社員の双方が納得できる解決策を見つけることが大切です。オフィス出社とリモートワークのバランスをうまく取りながら、新しい働き方の文化を築いていくことが求められます。結局のところ、「家がオフィス」か「オフィスが家」かの議論は、私たちがどのように働き、生活するかを再定義する機会でもあるのです。さあ、あなたの会社はどちらを選びますか?

VUCAの時代なので、サンマは目黒に限る | その他

VUCAの時代なので、サンマは目黒に限る

 「ほんと、いまはVUCAの時代だからね。」 このようなセリフは、今や当たり前となり、ビジネスシーンだけでなく、日常会話の脈絡においても登場するようになった。この時代の特色を表すキーワードとなった「VUCA」とは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取ったもので、「変転しやすく予測困難な時代状況」を指すものである。  この言葉は、1990年代後半に、アメリカ合衆国で軍事的な脈絡の中で使用されたことが初めであるとされているが、実際にこの言葉が市民権を得たのは、2016年の世界経済フォーラム(ダボス会議)で取り上げられたことが大きかったといえる。世界を代表する政治家や実業家が一堂に会し、世界経済や環境問題など幅広いテーマで討議するこの会合において取り上げられたことは、「VUCA」を一躍時代を象徴する言葉へと押し上げたのであった。  しかし私は、この言葉が流行りだした当初から、この風潮に何か違和感を覚えてきた。その違和感の正体を、自分なりに言語化すると次のように表現できそうだ。「あなたがたは、この時代を変転しやすく、予測困難であるため、VUCAの時代である、と言う。なるほど、そうかもしれない。しかし、いまの時代が、とりわけほかの時代よりも変転しやすく、予測困難なのだろうか。どの時代もまた変転していたのだし、同様に予測困難だったのではなかろうか。さも、いまの時代が特別に変転しやすく予測困難であるかのように言い表すのは、根拠薄弱であり、バイアスまみれではなかろうか。」  例えば「平家物語」は、平安後期の平家の栄枯盛衰を描いた鎌倉期成立の軍記物であるが、冒頭付近で見られる「諸行無常」の思想が全編を貫くものである。この時代よりも、いまの時代のほうが一層変転が激しく、予測困難である、という根拠はあるだろうか。戦国時代と比較したらどうだろうか。第二次大戦の戦前・戦中・戦後と比べてどうだろうか。そもそも、変転しやすさや、予測不可能性が、比較検討しづらい、という事情もあるが、いま現代が特別であるという根拠はなさそうである。時代を越えて、世間や人生というものは、変転しやすく予測困難なものの連続なのである。  このような「誇張」や「誤認」は、ときには「ミスジャッジ」を引き起こし、効果的効率的な問題解決の支障となる。むかし、「バブル崩壊のせいで腰痛がひどい」と仰ったご老人がおられたということだが、「なんでもかんでもバブル崩壊のせいにしておけばよい」という風潮と、「この時代はVUCAの時代だから」という風潮は、とても類似している。  しかしなぜ、「この時代はVUCAの時代だ」という認識が、スムーズに大衆的に受け止められてしまったのだろうか。そのヒントは、古典落語の「目黒のサンマ」にありそうだ。  ある殿様が目黒まで鷹狩に出て、うまそうな匂いが漂ってくるのに気づく。殿様が匂いの元を尋ねると、家来は「これはサンマを焼く匂いだが、庶民の食べる魚なので殿のお口に合うものではない」と答える。しかし空腹に耐えかねた殿様はサンマを持ってくるよう命じる。直接炭火で焼いたサンマというものを初めて食べた殿様は、そのうまさに大喜びする。このうまさが忘れられない殿様は、ある日サンマを給仕するよう家来に申しつける。庶民の魚であるサンマは屋敷に置いておらず、家来は慌てて日本橋の魚河岸でサンマを買い求める。しかし調理の段になると、家来のあいだで、「焼くと脂が多く出て体に悪いのでは」ということになり、蒸籠で蒸して脂をすっかり抜いてしまう。また「骨がのどに刺さるといけない」ということで、骨を抜き、身姿が崩れた姿で椀にして出すことになる。殿様が食べてみると目黒で食べたものとは比較にならないまずさだった。「どこで求めたサンマか?」と尋ねると家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」と答える。殿様はしたり顔で「ううむ、それはいかんぞ。サンマは目黒に限る」と言ったという。  目黒で食ったサンマがうまかったというのは事実かもしれないが、これは目黒という場所が特別そのような場所であったわけではない。それにも関わらず、限定的な経験を一般法則として捉えるこの殿様の「視野の狭さ」がこのような「誤認」をもたらしたのである。目の前にある不確実な事態に直面し、「この時代はVUCAだ」と口々に語る世界中の方々は、まさに「目黒のサンマ」の殿様の、「直系の子孫」ともいうべき方々なのである。  

明治政府と武士の決意 | その他

明治政府と武士の決意

 AI等、テクノロジーの進化をはじめ、社会の大きな変化に応じ、従来の職業の価値が低下していく可能性について、関心が寄せられている。“将来、なくなる職業ランキング”といった記事さえも、数多く、散見されるようになった。また、数年前から、大手テレビ局の男性アナウンサーの退職が続いている事がニュースにもなっていたが、花形と言われる職業であった、男性アナウンサーであっても、将来は安泰でなく、新たな価値提供の場を求めていかねばならない状況が今、ここで進行している。    外部環境の変化により、今まで、人気ランキングの上位に占めていた職業の価値が低下し、場合によっては、必要性さえもなくなってしまうと言われている事態は、今に始まった事ではなく、過去の時代においても、少なからずあった。その典型的なものは、明治維新後の“武士の廃業”がある。明治になって、封建制度の崩壊と共に、武士の俸禄はどんどん削減されていった。 さらには、“数年分の俸禄を支払うので、武士をやめなさい”という、今でいう早期退職制度のようなものさえ導入され、そうした状況の中で、武士たちは、明治政府に抵抗を示しながら、止むを得ず、新しいキャリアを模索していった。    そうした武士たちの、主たる“転職先”は、官僚や軍人への転身だった。明治政府は、多数の旧武士を官僚や軍隊として受け入れたが、基本的に、能力の高い人を雇うという方針を持っていた。というか、能力の高い人材、実力がある人材しか、雇えなかった。明治政府は、人材も金もない中で、欧米列強と向き合いながら、早急に統治機能高めるためには、古い体制の継続を声高に主張するような人材や、家柄がよかろうとも、仕事のできない人材までを抱えていく意図も余裕もなかった。身分・家柄を問わず実力のある人材を優先的に登用していくしかなかった。    一方、官僚や軍人として、登用されなかった武士たちは、新たな世界へと転身した。その一つは、教育者だった。武士は、読み書きや武道など、多くの知識や技能を持っていたため、教師や道場の指導者になった。今まで身に着けてきた知識やスキルが活用できる他の職種を選んだケースだ。これは、社会が変化する前から、自身で高い教養やスキルを保有していて、それを活かしたキャリアチェンジを行ったケースと言える。明治以上に、目の前で活用されるテクノロジーや知識が、すぐに陳腐化する現代においては、日頃から、専門的領域より、自然科学のような、より広範でベーシックな教養や知識、技術を高めておくことは、より重要な事なのかもしれない。    また、明治時代になると、日本は急速に近代化、工業化が進み、新しい経済機会を求めて、商工業における事業を始める者もいた。今風に言えば、新たに生まれた産業やベンチャー企業で、大きな可能性を求めて、起業をするケースだ。今まで生きてきた中でのなじみのある世界で、生きていくより、いっそ、この機に、新しい世界に飛び込んで、大暴れしてやろう!意気込み、優れた起業家や事業化として、その後の日本社会に貢献した元武士たちも、少なからずいたことだろう。    以上、明治維新における武士の対応は、①新しい時代に即した従来と同様の職種でのバージョンアップ(官僚や軍人への転身)、②自身の保有する能力・スキルの提供者(教育者)、③新時代に生まれた産業、職業へのチャレンジ(新規事業家)という道を選んでいった。明治維新をきっかけとして、武士たちは、本当に目指すべき自身の生き方やキャリアを見つめなおし、新たな道に進んで行ったことで、結果として、強制的ともいえる日本の労働力のシャッフルが行われ、結果、人材の最適配置が進んだ事は、その後、明治日本の躍進の原動力の一つであったことは間違いないであろう。    また、明治政府が、過去のしがらみや温情ではなく、高い能力を持つ人材を官僚や武士として採用することで、その後の欧米列強からの侵略を防げたことを思うに、企業が、これからの時代に求める能力やスキルを明確に再定義し、実力主義の登用を今まで以上に促進することができるか否かが、これからの日本社会の行く末を決めることになるだろう。日経平均株価が、高値を更新し、失われた30年から脱却し、ようやく新しいステージが見え始めた日本経済が、このまま成長軌道に乗っていけるのか、企業にとっても、人材にとっても、このチャレンジは避けられないものだ。  

組織の共通言語と多様性の二兎を追うには | その他

組織の共通言語と多様性の二兎を追うには

 ある会社で、採用面接に来られた方が、志望動機として「ホームページに親近感を感じたから」と言った。自分の専門領域で日ごろ使っているキーワードと会社のそれの共通性が高かったのだという。ある程度の専門性を前提として、さまざまな会社を見比べて、業務の考え方や価値観に相通ずるものやリスペクトを感じた、というのは、立派な志望動機になろう。「共通言語」が通じるということだから。    会社や組織における共通言語とは、一緒に働く人々の間で共有されている用語、ナレッジ、さらには規範やものの考え方などを指す。共通言語が成立している職場では、仲間どうしの相互理解は早く正確になるし、分かり合えないストレスは軽減されるので、効果的効率的に協働しやすい。有名なところではトヨタ自動車の「問題解決」や、仕事の手順書、バリューやクレドなど、さまざまな共通言語の形態がある。    共通言語の促進に慎重な企業もある。ある研究開発企業は、さまざまな共通言語の手法・事例を研究した上で、「わが社がもっとも重要視する自由な発想を妨げる」という理由で検討を止めた。悩ましいのは、多くの業界で既存プレイヤーの再編・規模化が進むなかで、組織がどんどん大きくなっている。共通言語経営で組織力を強化することと、自律性・多様性の二兎をどう追えばよいかが、人・組織の運営方針として重要命題になっているのだ。    ここで現実の言語政策にヒントを求めてみたい。  24の公用語と60の少数民族・地域言語が存在すると言われるEUでは、言語を文化的資産と捉え、話者数に関わらず等しく価値を認め尊重する「多言語主義」を取っている。さまざまな公文書は少なくとも一部は全公用語に翻訳され、言語アクセスを保証しているという。加えて、言語政策として、母語に加えて少なくとも二つの外国語(EU諸国で使用されている言語)を幼少期から学ぶべきだという指針のもと、「多言語教育」を推進している(「駐日欧州連合代表部公式ウェブマガジンEUMAG」より)。多大なコストを払い、多大な投資を行って、公用語を持つメリットと、さまざまな言語のもたらす歴史・文化的な豊かさの両方を追及している。    このような多言語主義の考えを組織運営に当てはめてみると、社内のプラットフォームとして共通のツールや価値観を共通言語として推進する意味はあるものの、それだけでは多様性が失われる懸念がある。組織運営においても「多言語教育」に当たるものが必要だろう。社員一人一人が多様なバックグラウンド、仕事以外の領域の知見・視点を、共通言語のアップデートに活かしてもらうこと。さまざまなやり方があるだろうが、EUの多言語政策と同様に、投資や仕組みが必要だ。    おりしも、多くの企業で、リスキリング促進の流れを受けて、副業や学びのための休職といった組織外の活動が奨励され始めている。組織の統合と、社員の多様性を両立させていくための道具立ては少しずつ揃い始めている。

組織の健全な血液循環を | その他

組織の健全な血液循環を

 年末年始の休暇の間に、昨年起こった様々な出来事を振り返ってみた。一番、印象深かかったのは、複数の権威ある企業や組織において、長い間、黙認されていた、過去から続く大きな問題が表面化したという事だ。中古車販売会社しかり、政党派閥しかり、人気劇団しかり・・。それぞれ、詳細な真偽はわからぬが、長年の実績が積み上げられて、権威ある組織ほど、周囲が忖度をしてしまうのか、物事が大きくなる前に気づき、自浄する機能が働かなかった。  周囲が忖度して、その問題を肯定、ないしはスルーしてしまう。トップはそれを良しとして、見て見ぬふりして、現状を正当化する。むしろ、都合の悪い事には、目をつむるばかりか、積極的に、蓋をしてしまう事で、ますまず気づかれにくくなり、組織の中にある問題はさらに深刻化していく・・。昨年だけでもあれだけ、多くの組織で表面化したのだから、こうした事態は、特定の業種・業界に問わず、どこの組織でも、起こりうる事だと考えておいたほうがよい。  最近になって、過去から続くこうした行いが、表面化し、問題として認識されるようになってきた背景の一つには、インターネット社会が進行する中で、問題と思われる事実が、一個人から拡散しうるようになったという事があると言われている。いまや、誰でもXやYouTubeで様々な情報を、不特定多数に向けて発信できる時代であり、だれでも、社会に対して、それをリークし、問題提起させることができる。  そういう意味では、組織内部で大きな問題が堆積し、深刻化する前に、迅速にそれがオープンになり、早々に手が打てるような気がするかもしれないが…事はそう単純ではない。発信する側も、発信した際の影響を考えてしまい、慎重になってしまう傾向はあるだろう。 組織の中に、何かあれば、それをオープンにしてもよいという雰囲気がない、と、なかなか、逡巡して、意見や情報を発信することに踏み切れない。そういう組織の中の空気が、問題が表面化することに、無言のブレーキをかけてきた事も否めない。  多くの企業でも、組織内の問題について、報告する通報窓口などを設置しているが、実際にそれが機能するのは、限られた場合であり、多くの問題が、水面下でくすぶっていることも少なくない。形式的には、通報窓口があるので、どうぞ、なんでも報告してくださいと、しているが、実際には、組織の各所でパワハラが行われていても、そうした通報がなされるのは、かなり限定的であるのが、多くの企業の実態とも言える。  結局のところ、そうした情報は受け身で待つのではなく、組織として、積極的に取りに行かねばならないという事だ。再起には、そうした認識に立つ経営者が増えてきているのか、率先して、見えていない、聞こえてこない組織の問題を取りに行こうという声が大きくなっていて、エンゲージメントサーベイや多面評価(360度診断)の実施について、トップ自ら、相談に来られる企業も少なくない。  サーベイの実施の際に、我々のような外部組織を使う事で、言いにくい事もストレートに 情報が上がってくることを期待する企業も多い。日本人的な文化なのだろうか、社内のサーベイだと、なかなか、情報の出どころを特定されて、堂々と話せない社員も少なくないのかも知れない。  国内外で、人的資本経営の重要性が強く叫ばれる中で、組織の健全な状態を維持・向上していく事は不可欠であり、通報され次第、対応するというような受動的な対応では手遅れで、自ら、組織の内部で起こっている事や状況を積極的に把握し、問題があれば、即、その芽を摘み取り、いつでも、組織の状態を健全なレベルにキープしていこうとする風通しのよい組織目指す経営者が徐々に増えてきていることは間違いない。  トップダウンの指令だけで、各部門が機能させていると、現場に問題があったり、疲弊したりしていても、気づかない。ヒトの動脈と静脈の関係のように、経営層から各社員へ、社員から経営層へ、双方向でコミュニケーションさせる仕組みを持つことが、組織の健全化、活性化にむけて不可欠な時代だ。

シンメトリー(左右対称)とアシンメトリー(左右非対称)のあいだで | その他

シンメトリー(左右対称)とアシンメトリー(左右非対称)のあいだで

 一昔前、いやもっと前だろうか。自称「熱血上司」(現代の言葉で言えば「パワハラ上司」にあたる)みたいな方々が、それぞれの職場に、今よりもずっとずっとたくさんいた時代があった。部下のミスや目標未達成に対し、激昂して他の従業員の面前で罵倒し、ときには物を投げつけるということさえあった。一般の従業員からしてみれば、「心理的安全性」以前に、「身体的安全性」さえ危ぶまれるような事態であったのだが、ほとんど誰もこれを問題視することもなく、半ば常識と化していた時代が確かにあったのである。  このような事態は、思えば職場だけに限った話ではなかった。学校や部活動、ときには家庭の中にまで、暴力まがいのアプローチが蔓延っていた。一定の年齢層以上の方であれば、誰しも思い当たるところがあるだろう。  このような傾向は、歴史を遡るほど強くなるようである。日本の軍隊の中で私刑に近い暴力行為がずっと継続的にあったらしいことはよく知られているし、日本の首相の中には、不幸にも暗殺されてしまった方もいるが、逆に明治期の首相であるが、暗殺や殺人の実行犯であった可能性が高いと思われる方も、実は存在するのである。江戸期以前は言うに及ばない。戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)は、もし現在にタイムトラベルされたならば、「パワハラ上司」どころか、犯罪者扱いされかねない。  そう考えると、あの自称「熱血上司」たちも、良い悪いは別にして(おそらく最悪ではあるが)それなりに日本という文脈の中に根差して発生した一種の文化的遺産のようにも思われてくる。我々は彼らと訣別したつもりでいるが、これだけ根が深いと、どこか深いところで依然つながったままなのではないかという不安に苛まれるのである。  そもそも、なぜ自称「熱血上司」(パワハラ上司)たちの不可解な行動が起きるのか。これは「暴力の暴走」と言ってしまえばそれまでだが、やはり「思い通りにならない苛立ち」「完全・完璧にならないことへの不快」が、心理的背景として横たわっていると考えるべきであろう。基本的に彼らは、ある意味「完全主義者」なのであり、思い通りにならないことにそもそも苛立っているのだ。その点では、我々の中にも多かれ少なかれ似たような萌芽はあって、何らかの事情によりかろうじて踏みとどまっているにすぎないのだと考える方が自然であろう。  ほとんど文化的とも言える根深さを持つ、我々の中の「完全主義者たち」と、いったいどう向き合えばよいのだろうか。その点でヒントになることは、やはり日本文化の中に見出される。  よく知られているように、姫路城は、天守閣をはじめ、門、窓に至るまで、敢えて非対称に設計され建築されている。「日本的美」の典型とされるこの建築物の美学は、対称性を重んじた欧州建築の美学とは明らかに異なっている。通常このことは、「対称であることは完全・完結・完成を意味し、成長しないこと、さらには停滞や死を含意するからである」と説明される。しかしこのことは同時に、「不完全性を許容する謙虚さと寛容さを持て」と教えてはいないだろうか。「不完全さもまた不可避であり、受け入れるべきなのだ」と。  大きな建築物だけではない。価値があるとされる茶碗は、どれもこれも、なぜか非対称な一品である。対称的な完成形をよしとするものではなく、不完全さ、不均一さ、自然さが表れることをよしとするからである。そこにもやはり「不完全性を許容する謙虚さと寛容さこそが美しい」とする美学が読み取れる。  私は何も、頭から「完全主義」を否定しているのではない。当初想定されたゴールが素晴らしいものであれば、それは完結に近づくよう実現すべきである。そして我々は黙っていても、思い通りにならなければ苛立ってしまうし、落ち着かない気持ちになり、思ったところを完結させようとするだろう。しかし、ときには物事は思い通りにならないものなのだ。なぜなら、誰しもが完全ではなく完璧ではありえないのであり、そして「正しいゴールとは何か?」、もはや誰も正確に指し示すことなどできないからである。であればこそ、我々は、不完全であることをある程度受け止める謙虚さと寛容さをも、併せ持っていなくてはならないのではないか、と思われるのである。我々の先輩たちは、確かに反面教師でもあったが、有難いことに先述のようなとてもよい教材を残してくれてもいるのである。

マネジャーの心理は安全か | その他

マネジャーの心理は安全か

 自社の管理職者に研修をしようと思い立ったとき、どんなスキルテーマにするかを考えるには3つの観点がある。 ①マネジメントの観点。 ここでは「目標達成」と「人材育成」が2大テーマであり、分解すれば前者は、PDCA、業務アサイン、目標設定・評価……、後者は、業務指示、OJT、後継者育成……と必要スキルが細分化される。 ②リーダーシップの観点。 同じく2大テーマは「ビジョニング」と「モチベート」。前者は、ビジョン設定、ストーリーテリング、リーディングチェンジ……後者は、動機付け、巻き込み、信頼醸成……などのスキルが想定される。 ③コンプライアンスの観点。 ここはスキルというより禁止則が、さまざまにありうる。  と書いてみると、改めてマネジャーの役割はたいへんだと思う。自組織の目標の必達をまず第一に要求されたうえで、メンバーの育成もしなければならない。イノベーションが喧伝される昨今は、環境変化のなかで新しい方向性を示し、メンバーを動かせとも言われる。教科書的な管理職役割、「マネジメント=成果をだすための組織の統制」と「リーダーシップ=変革に向けての組織の主導」が、文字通りともに求められるのだ。さらには、ハラスメントは絶対するなと脅され、メンバーの働き方改革をとにかく促進せよと強制される。    もちろん研修の趣旨は、武器=スキル/手法を与え必要に応じて使ってほしいということではあるが、研修テーマのひろがりは、管理職への役割期待が高まる一方であることを示しているともいえる。さらなる期待となりそうなのが、いまはやりの「心理的安全性」だ。グーグルの調査「Project Aristotle」で、チームの生産性に一番影響するのが心理的安全性(=誰もが率直に意見を言い合える組織環境)だと言われて以来、「心理的安全性の高いチーム作り」もホットなマネジメントテーマとなった。  心理的安全性が高い組織は、生産性向上だけでなく、離職率の低下やコンプライアンス維持、あるいはイノベーションのタネになる創発的な意見喚起などの効用があるので、その実現が望ましいのは確かである。しかし経営が、さらなる期待役割として、自組織の心理的安全性向上をマネジャーに命ずるとしたら、目標達成にむけチームをときに厳しく統制し、改革を主導・牽引しなければならないマネジャーにとってはダブルバインドになるのではないか。  「誰もが率直に意見を言い合える」とは、平たく言えば、「こんなこと聞いたら無能(無知)だと思われる」とか「批判していると思われるから黙っておこう」とか「これを頼んだら邪魔することになるからやめよう」という躊躇がなく、自分自身の意見や想いを表明できることだ。とすれば、マネジャー行動としては、個々人の意思・想いへの配慮や、まずは傾聴といった姿勢などが求められ、目標達成にむけシビアなタスクマネジメントに尽力しているマネジャーには、余計なコミュニケーション負荷にもなりかねないからだ。  たとえば、メンバー各人の意思や想いや意見を尊重すべく、マネジャーが ・報告を徹底せよと命じるより、こちらから「どうだった?」「何があった?」と部下に聞く ・上手くいかなかった原因を追求するよりさきに、まず「それは大変だったね」と共感を示す ・本筋と関係ない意見を切り捨てずに、まず「なるほど。ということは……なの?」と意見を聞く といった部下対応を意識的にやろうとするとしたら、繁忙のなかで適時的確な判断を強いられている身としてはいらだつかもしれない。もしかすると「端的に結論だけ言え!」と言いたいこのマネジャー自身の「率直な意見」は言えてなくて、「自分たちの心理的安全性はどうしてくれる」との声があがるかもしれない。  当たり前だが、業務特性やメンバー編成によっても、マネジャーの組織方針やリーダーシップスタイルの違いによっても、心理的安全性のインパクトは異なるから、とにかくその向上をすればよいということではない。実際「Project Aristotle」でも、「チームへの信頼の高さ」「チームの構造の明瞭さ」「チームの仕事の意味の共有」「チームの仕事の社会的意義の共有」が、心理的安全性とともに高生産性チームの特性だとされているから、生産性に資するチームビルディングは一様ではない。  冒頭にあげた様々なスキルと同様に組織力を高める一つの武器として、心理的安全性のメカニズムも知り、状況に応じて使う裁量こそがマネジャーに与えられなければならないのだろう。マネジャーが、自組織をどうしていくべきか経営に対して率直に意見が言え、経営がマネジャーの意思と想いを尊重し、マネジャーは裁量をもって組織マネジメントを行う。チームにおける心理的安全性とともに、経営におけるマネジャーの心理的安全性向上もまた、きわめて重要なはずである。つまり心理的安全性とは、チームビルディングの問題以前に、「全社の心理的安全性」が検討されるべき経営テーマなのである。

評価制度に求められる「誠実さ」「真摯さ」とは | その他

評価制度に求められる「誠実さ」「真摯さ」とは

 時代の変化に対応すべく、従来の横並びの人事評価から、メリハリのある人事評価へと舵を切る企業が増えている。組織の期待に応え、高い成果を上げる社員には高い評価と処遇を、期待に届かず、成果の振るわない社員には低い評価と処遇を行う人事制度が主流となりつつある。  人事評価が自身のキャリアや収入、ひいては人生設計に、これまで以上に影響を及ぼすことになると、評価に関する不平不満の声も強まることは想像に難くない。制度上の公平性や透明性の担保、運用面の評価スキル向上は当然のことながら、組織および評価者のスタンス・マインドセットにおいては「誠実さ」「真摯さ」が極めて重要になると考える。  例えば、被評価者の昇格がかかった評価において、残念ながら低評価を付けざるを得ない場面がある。そのとき、低評価を付けるに至った理由・根拠を、可能な限り抜け漏れなく指し示すことができるか。また単に事実を羅列するのではなく、等級定義の深い理解に基づき、評価制度を貫く思想を正しく汲み取るとともに、さらに事業環境や経営状況、経営計画等に照らした複眼的な見地から、血肉の通ったフィードバックができるか。社員一人の評価にかける熱量(思考の広さ深さ)が組織における評価の「誠実さ」「真摯さ」として現れる。  これは低評価者に対する温情や納得させるための方便ではない。単に手間暇をかければ良いという話でもない。社員が「組織の理念・戦略・方針・価値観を体現できるか」の問題である。従って高評価者に対するフィードバックにも同様のスタンス・マインドセットが求められる。評価時期になって慌てて準備するようでは足りない。  時代に即応した厳しい人事評価を「誠実さ」「真摯さ」抜きで運用したとしたら、組織はどうなるだろうか。低評価者はふてくされて管理者の見えないところで組織に悪影響をもたらすかもしれない。高評価者は見切りをつけ、より年収水準の高い同業他社に転職するかもしれない。はたまた、厳しい評価をつけて辞められでもしたら困るからと、どうにかして評価を調整しようと間違った努力に走るマネージャーが出てくるかもしれない。この点、評価をする側、される側、それぞれに求められる基本姿勢や考え方を「評価者研修」「被評価者研修」という形で学ぶ機会を提供することも組織力向上の有効な手段となる。  厳しい外部環境に対応するために、企業は絶えず変化を求められる。その中でも変わることのない理念や価値観、そして変化に即応した戦略や方針を、人事評価において忠実に体現する。新たにパーパスを策定したり、組織的な1on1を行ったりするリソースがなくても、組織力を向上させるチャンスは私たちの身近なところにある。

人財要件が先、どの等級かは後! | その他

人財要件が先、どの等級かは後!

 教育体系構築をご支援する機会が重なったことを踏まえ、今、感じていることを共有差し上げます。本稿では、「教育体系という表現」と「体系について考える順序」について取り上げます。  まず「教育体系」という表現についてです。 もし、「正解が存在して、それを一方的に教える内容ばかり」であれば、教育体系という名称のままで良いと思います。  しかし、「マネジメント層は、新人からデジタル機器の使い方を教えてもらうことが少なくない」といった例でもおわかりのように、状況に応じて役割を変えて「互いに学び合う」プロセスを促進する場づくり・関係づくりが重要な状況が増えてきています。  「ある時は教える側、別の時には教わる側」と役割を交代しながら、「異なる強みを活かしていく」ことは、DE&I(ダイバーシティ、エクイティー&インクルージョン)という観点からも、リスキリングの観点からも重視すべきだと考えています。  そのため、これまで教育体系と呼んできたモノは、今後は「学習体系」などに名称を替えた方が良いように感じています。  市場等にもよるのかもしれませんが、今後は、多くの組織で「唯一絶対解がない中で、議論を通して学び合い、多角的な検討を経て意思決定をしていく」といったワークショップ型のプログラムを「学習体系」の中で増やしていくことが求められるのではないでしょうか?  次は、「学習体系について考える順序」の話です。  これも、市場の特性などによって判断が分かれて当然だと思いますが…例えば、「経営ヴィジョンや、〇年後に目標とする状態を定めて、それを実現させるための事業戦略を練り、その事業戦略を実行できる組織・人財となるように施策を検討する」という順序で考え、学習体系構築に反映させようとする場合について考えてみましょう。  これを言い換えると、「事業内容、求められる業務内容が想定され、それを遂行できる組織・人財の要件を定めて、その要件を満たせるように育成するという順序で検討する」ということです。  すると、学習体系構築の段取りとしては「求められる業務内容を具体的に把握」し、「人財の現有能力を把握」し、「それらのギャップを埋めるように施策を検討」し、「それぞれの施策をどの人財に適用するかを考える」(…人財要件の設定が先、等級や強み・弱みなどへの当てはめは後)といった順序になります。  現場の見解を入れず、「等級が先にあって、その等級の人財要件を概念的に検討する」というアプローチだと、「御社独自の事業戦略から乖離した育成計画」(絵に描いた餅)となってしまいかねません。  また、等級に囚われすぎてしまうと、「○○で強みを持った人財を抜擢して登用する」といった人財のダイナミックな活かし方(組織能力の新たな発揮方法)を想像しづらくなってしまうので、非常にもったいないと思います。  「人事のための人事」ではなく「事業に貢献する人事」にシフトしていくのであれば、「事業戦略の実行に至る道のりについて、求められる学習内容のレベルにまで噛み砕き、どの人財に何を学ぶことを推奨するのか?」(標準化→個別対応)を整理した学習体系の構築をお薦めしたいと思います。

「よくわからないけど面白そう」という気持ち | その他

「よくわからないけど面白そう」という気持ち

 小さな子どもを見ていると、彼らにとって遊びと学びは一体だと感じることがよくある。文字を練習していたはずがオリジナル文字を作っていたり、ゲームの解説動画をなめるように見ては新しい手法を学んでいたりする。新しいことを知り、それをおもちゃにして遊び、遊ぶためにまた新しい知識を学ぶ。「よくわからないけど面白そう」という気持ちが先行して、「これは何に使えるのかな?」という活用は後からついてくるようだ。  結果として、使えると思った知識は(主にクイズやゲームなど)どんどん深堀る。驚くような速さで習得し、どんどん使えるようになっていく。一方で使われないまま放置される知識(主に学校の教科書に書かれているもの)も壮大に発生してしまうので、そこは大人の目で見てまずいとなり、どの家庭でもよくあるだろうバトルが発生することになる。  このような子どもの学び・遊びは、研修事業で提供する大人のための学びとは大きく前提が違う。企業の人材育成においては会社の意図を踏まえて、研修提供側が学ぶ内容を選定する。何を学ぶかという理由は本人の側にはないので、企業の意図を「研修の目的」という形で研修開始時に本人に伝えることで後付けで内面化する必要がある。ここが多くの研修の難所になる。また、研修で学んだ知識の活用についても自主性に委ねているとなかなか継続しない。今では、知識の実践を働きかける長期的なフォローが研修設計の標準になっている。  企業研修である以上、企業の意図した内容を効率的に学ぶためのカリキュラムを会社が決めるのは当然のことだ。会社の意図を理解してしっかり学び、実践していただければ研修としてはそれで大成功ともいえる。しかし、子どものころのような学ぶ・遊ぶ楽しさを思い出せたら、大人の学びもまた飛躍的に向上するのではないだろうか?   最近の研修では、体験型やアート鑑賞といったセッションが増えてきた。感性の開発や組織開発などさまざまな目的で設計されるが、これらのセッションを通じて、学ぶ・遊ぶ楽しさを思い出し、学び方のバージョンアップを図ることができると考えている。  その時重要なのは「よくわからないけど面白そう」という気持ちだ。会社の事業やこれまでの人生の延長線上ではなく、であまり接したことのない世界に触れる。世界はまだまだ広く、自分の知らないことがたくさんあり、なんだかよくわからないが動いている。何が起きているのだろうか。自分にも何かできるのだろうか。そう感じるとき、自分も学び、新しいことを試してみたいという気持ちが高まる。それこそが、子どものころのような貪欲な遊び・学びのスタートになるのだ。

「どうしましょう?」ではなく「こうしたい!」 | その他

「どうしましょう?」ではなく「こうしたい!」

『「どうしましょう?」ではなく「こうしたい!」』は前職の会社のDNAである。  多くの人事の責任者や担当者から「どうしたらいいですか?」と話をいただく。「こうしたほうがいいですよ」とか、「一回正確に現状を把握したほうがいいですね」などアドバイスをさせていただく。「目的はなんですか?」「どうありたいですか?」など確認をさせていただく。目的や問題の本質が明確にならないと、有効な解決もできない。その点しっかり確認させていただかないと始まらない。ただこの目的や問題が曖昧なことも多く、明快かつ意志をもって語られる方は意外と少ない。「どうしましょう?」が多く「こうしたい!」がまだまだ少ない。  テクノロジーの進化のスピードが速く、ERPから人事システム、タレントマネジメントシステム、BIツールなどと、人事管理のテクノロジーは進化してきた。AIなどの活用したシステムも急激に増え、カオス状態だ、今後もこの状態が続くのかなとは思う。私自身、当時社内のSEなどをしていたのでシステムに触ることに抵抗はないが、使いこなせるほどその仕組みを正確に理解し、使いこなし、アドバイスができるかといえば、相当学習が必要だ。しかしシステムの目的や本質は当時私が社内SEをやっていたい時代と、さほど変わっていないと感じる。多くの人事の責任者や担当者とシステム化の状況なども話す。「データをどう分析すればいいですか」など質問は多い。また「まだデータをためている段階で目的はこれからです」など、びっくりするような回答もいただく。そんなことわかっているのだが、データを溜めることが目的ではない。必要がないのならデータなんか溜めなくてもよい。結局、この何年も人事管理のレベルは高くなっていないと感じる。「どうしましょう?」ではなく「こうしたい!」が進化していないということだ。    人事の重大な課題解決には時間がかかる。人事領域が法的な制約を受けており、ドラスティックな解決が難しく、社員の気持ちの面など影響が計り知れない。よって慎重に進めることになる。法律の改定、目先の問題に追われ、本来時間をかけて取り組むべき課題への対処が後回しになりがちだ。  「こうしたい!」を進化させるために、大切なことは意志と能力だ。日々のマネジメントの中でのひとりひとりへの関り方が重要になる。すべての仕事に目的意識を持たせること、しつこいくらい。これが無いと考える力が身につかない。またしっかり対話する、誠実に。そうしないと信頼関係が生まれない、組織に自分の意志をささげたいという気持ちは醸成しない。 「こうしたい!」の実現には時間がかかる。どうしても目の前の仕事に追われ、それが実現できない。体制づくり、業務の割り当てが重要だ。先の読めない時代であるからこそ、多くの企業の「こうしたい!」を進化させる、巧妙なマネジメントと強力なリーダーシップが求められている。

「すいません」の悪循環を断ち切るために | その他

「すいません」の悪循環を断ち切るために

 昨今の世の中ではコロナ禍の影響でお客様へのプレゼテーションもWEB会議で実施することが多くなった。そのため立ち方や発声、ポインターの使い方といったお馴染みのプレゼンスキルを意識して使用する機会は減っている。では、プレゼンの訓練はもう不要なのだろうか?  私が先日受けたプレゼン研修にて「プレゼンを成功させる秘訣は、自信をもって話すということだ」と聞き、大学時代に国際会議でアルバイトをしていた経験を思いだした。日本人の発表者が「私の英語とスピーチ能力が拙いせいでわかりにくくてすいませんが…」とスピーチを切り出したところ、真剣に聞こうとしていた諸外国の方々が徐々に聞く耳を持たなくなったことを今でも鮮明に覚えている。  日本人は挨拶の代わり、感謝をする時、様々なケースで何かと「すいません」というフレーズを多用する。特にプレゼンの場では多くの人が人前で話す訓練をしてこなかったため、原稿にかじりつき、自信がなさそうに話を始める。そのような場合にも必ず「すいません」と一度は口にしているように思われる。かくいう私も新入社員の際に「すいません」という口癖が出来上がってしまい、上司に指摘をされた経験を持っている。自信がなさそうに見えて一緒に仕事をしていて不安を感じたそうだ。  プレゼンへの自信のなさは、訓練不足に加えて、日本のコミュニケーションに関する文化的背景も影響している。「沈黙は金」「言わぬが花」といった格言に表される通り、自分の考えを相手に明確に表現せず、直接的な表現を避け、オブラートに包む事を良しとする。これらの理由により諸外国の方々にはプレゼンやコミュニケーションを行う際どうしても自信がないように映るのではないだろうか。  コロナ禍でテレワークが進み、共に働く人の顔すら見ることが少なくなった今、人の表情や雰囲気などで相手の考えや感情を察する事がより難しくなり、コミュニケーションのあり方も大きく変わってきている。そのため、自分の意見を相手に明白に伝え、理解してもらう能力の必要性が従来より高まっていると私は考える。  このような状況下だからこそ企業は適切なプレゼン研修を今一度行うべきではないだろうか。