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富山県人 | その他

富山県人

 経営者、人事部門は社員に対して厳しい目で見ている。活躍する社員や活躍しない社員に対して、類型化するのが好きである。経歴や性格、ライフスタイルなどを分析して、活躍するタイプ、活躍しないタイプを見極めようとする。新卒にせよ中途にせよ人材のセレクションは、自分が重要視している“尺度”によって判断することが多い。平板な採用基準では語れない、実例の蓄積からの“感覚”が重要なのである。それだけ経営資源たる“人材”は複雑であり解明が困難な存在と言えるのだ。  国内市場がシュリンクしていくことが予想され生き残りをかけた競争が激化する。グローバル展開は海外の競争相手と戦わなくてはならない、そのためには人材も変化に柔軟に対応し、新たな価値を生み出し、スピード感ある人材が必須となる。このような人材に育つには、安定志向が強い人材は向かないだろう。異なる環境を理解し、多様な経験、交流を持つ人材のほうが適している。時にグローバル展開をしている企業や競争の激しい環境の中にいる企業の経営者や人事部門は、人材に対して強い危機意識を持っているため、現在の人材では満足せず、新たな価値を創造できる素養のある人材がほしいのだ、もっと言えばそれ以外の人材には高い価値を感じないともいえる。  “富山県の人材は採用しない”といった不二越の本間会長に対して否定的な意見が強い。富山県人は保守的で進取の気風がないという発言に対してである。富山で生まれ、富山で育ち、富山の学校を卒業した人材は“革新性”、“創造性”、”攻撃性“で物足りないと感じるのであろう。この発言に対しての批判は痛烈である。差別的、公平感がない、富山純正人材も優秀だといった意見である。たしかにこの批判は一面の説得性はあるが本質を突いているのか疑問である。  不二越の会長には面識はないので人となりはわからないが、発言の主旨はよく理解できる。経営の一線で活躍してきた独自の“尺度”で判断したときに、“純富山人材”は活躍する人材の比率が低いということだ。実例に基づく重要で意味のある発言である。純富山人材の傾向が明確なのであろう。 営利を追求する企業が自社の基準で採用を判断することの自由は確保されなければならない。全責任を負って経営を担う立場の人が“求める人材”を語るのであるから相当重い発言であり、説得力がある。一民間企業の採用が過度に公平であり、一般人の感覚の“常識”である必要はない。批判する側の“公平”という言葉が暴力的にすら感じる。  発言が仮に“特定の価値観にとらわれない”、“様々な環境を享受できる”、“異文化を受け入れられる”という表現で、”国内一か所だけでなく海外留学経験がある”、“英語がネイティブに近い”などのようにポジティブに表現すれば問題なかったではないか。この表現であればだれでもが賛同するだろう。しかしその主旨で一歩踏み込み、妙な具体性のある“純富山人材はいらない”という表現をしたので過度な批判をされてしまう。一線で活躍してきた経営者の発言の“主旨”に重点を置くべきで、ほしい人材に対して“世間”、“常識”を意識せず尖るべきだ。ユニークなビジネスモデルの企業にはユニークな人材が必要である。普通の要求ではないのだ。世の中の“常識”的な感覚など関係なく、独自に価値観、独自の基準を貫くことが生命線である。  経営者、人事部門は日本の小さな常識など意識せず、もっと尖った基準で判断することに恐れを抱くことはない。強い企業は他にはない強いモデルで、他と比較するものではない、人材も他と比較するものではなく公平などの観点でなくユニークでなくてはならないからだ。

理論中心アプローチのすすめ | その他

理論中心アプローチのすすめ

 理論に基づいて体系化された知識、方法を学問というが、企業の人事、人材育成の領域は、学問と呼べるほど成熟していないように思える。教育を行う側の講師やインストラクター、企業の人材育成担当者などは、人材育成のプロとして、教育学や学習心理学など、成人教育の理論について学んだ経験を持っているだろう。しかし、その他の社員については、おそらくそのような学習機会を持ったことはほとんどないに違いない。学ぶ側の人材はその背景にある理論を知らないまま業務知識やスキルを習得させられている可能性が高い。  少し前まで、スポーツの世界では精神論や根性論が幅を利かせていた。この本来の考え方は「苦労にめげず向上を目指せば、できなかったことができるようになる。そのためには努力が重要であり、努力を続けるためには根性が必要である」というものであり、これ自体は否定すべきものではない。だがこの考え方が行き過ぎた結果、無駄に長時間トレーニングを強いたり、誤った練習方法が故障の原因になったりするなど、多くの問題が指摘されることとなったのである。このような問題も、スポーツの理論が体系化されスポーツ医学や運動生理学が注目されるにしたがって、過去のものとなり、現在では、学校の部活動などでも理論に基づくトレーニングが行われようになっているのは周知のとおりである。  スポーツの世界では選手もトレーナーも理論を学び、理論に基づくトレーニングを実践することで結果を出していくというアプローチが当たり前になっているわけだが、企業の人材育成の現場はそうなっていない。教える側はさておき、学ぶ側に対して正しく理論を理解させようという意識が希薄に感じるのである。人材育成はもっと理論をベースとしたアプローチをとらなければならない。これは特に新入社員研修のカリキュラムを見るとそう感じることが多い。  まず第1に、学生から社会人へとシフトする際に、社会人としての学び方を学習する機会がない。新入社員研修のカリキュラムにはたいてい学生と社会人の違いを意識させる枠がある。確かに、学生から社会人への意識の転換は重要なテーマであり、うまく意識をシフトできない新入社員に先輩社員たちが苦労させられるのは毎年の恒例行事といってもよい。単に学生と社会人の立場や責任の違いを考えさせるだけでなく、もう一歩踏み込んで、オトナの学習というのがどのように為されるものかということを理論的に解説して欲しいものだ。  それには学習モデルの理論が役立つだろう。代表的なモデルとしては、「経験学習モデル」がある。OJT等で採用している企業も多いことだろう。このような学習モデルは教える側、学ぶ側の双方が、人材育成についての共通認識を持つためのツールとして非常に有効である。  また、新入社員は翌年には部分的にではあるが、学ぶ立場から人に教える立場になる。何かを教える際には、自分の経験をもとに教えてしまうことが多い。これがうまくはまる場合もあるが、逆効果となってしまったり、悪くすると組織としての教育計画を破綻させてしまう可能性すらある。したがって、経験を積んでいるときから理論を理解し、実践する機会を作ることが重要だ。  そのためには、学びの源泉である動機付けの理論が参考になるだろう。動機付けの理論とは、いわゆるモチベーションに関する理論である。代表的なものとしては、マズローの欲求段階説や、外発的/内発的動機づけの理論がある。  例えば、先輩社員から仕事の指示を受けたが、自分のやりたいこととギャップがあったとしても、自分なりに仕事に意味を持って取り組んだり、自身の成長課題として取り組むなど、自ら動機付けし、仕事をやり遂げたという経験の有無は、自分が仕事を指示したり教えたりする立場になった際に、大いに役立つに違いない。  ここまで新卒社員研修のケースを例に挙げてきたが、これは何も新卒社員の場合に限定されるものではない。階層別研修やリーダーシップ研修においても、理論は社会人としての正しい学び方を習得するための一助となるだろう。それは何もこれまでと違うことをやるというわけではなく、今実施している人材育成の施策に理論的な裏づけを与え、学ぶ側にも理解を求めるということである。  このような理論中心のアプローチが一般的になることで、企業の人材育成の領域は学問として成熟し、より具体的な育成成果が期待できるものになっていくだろう。

組織の言語 | その他

組織の言語

 言語相対性仮説という仮説がある。「人の思考というものが、言語を用いてなされているのであれば、思考は言語に影響され、異なる言語を用いる人との間では同じ認識を持つことができない」というものである。サピア=ウォーフの仮説という呼び名の方が有名かもしれない。  これには二つの仮説が含まれている。ひとつは「言語のない思考は存在しない」という仮説だが、これはその後の非言語的思考の研究により、成立しないとされている。もうひとつの「言語は人の思考に影響を与える」という仮説についてはさまざまな意見はあるものの、限定的ながら成立するという主張が一般的である。 人が頭の中でめぐらせている思考は、言語が違うからといって、お互いに理解しあえない、と言えるほどの大きな違いはないが、それでも、さまざまな認識に影響を与えているらしい、ということである。  同じことは組織においても言えるだろう。組織が違うからと言って、お互いに理解しあえない、とまでは言わないが、組織自体がそこに属する者の認識や行動に様々な影響を与えているのである。 例えば、経験も実績も豊富な中途入社社員が、新しい職場で本来のパフォーマンスを発揮できなかったり、ベテランらしからぬミステイクを犯したりすることがある。 これを単に新しい環境に適応できていないから、と片付けてしまうのは少々乱暴な気がする。  組織にはそれぞれ独自の価値観やポリシーがあり、同じ言葉でも違うニュアンスで使われていたりすることもある。業務フローやコミュニケーションのスタイルについても同様だ。これらはその組織固有の”言語”といってもいいだろう。 組織の言語が異なることにより、思考が影響を受ける。そして、その思考が行動にも影響する。しかもそれはほとんどの場合ネガティブな方向に作用するのである。 これは時間を置けば解決することもあるだろうが、放置することにより、メンタルへの影響、人材の流出にも繋がりかねない。  これを防ぐためには、組織の言語を誰もが理解している状態、かつ、新しくその組織に加わった者には、その言語を効率よく学習させるプロセスを用意することが必要だろう。 そのような環境を作り上げるうえで、人事の果たすべき責任は大きい。人事の役割は人事制度を作ることだけではない。経営戦略実現のための人材マネジメントこそが人事に課せられた使命であり、だからこそ、その制度が何のために、何を目指し、それをどのように実現するのか、誰もがわかる言葉で理解の浸透を図らなければならない。 それができてはじめて、組織の全員が力を結集するための方向性を示すことができるのであり、それこそが人の思考に影響力を持つ組織の言語となるのである。

プレイングマネージャーの目線 | その他

プレイングマネージャーの目線

最近名刺交換をさせていただくと、グループリーダーやチームリーダーという肩書が非常に多くなったことを実感する。従来の部・課制を廃止し、組織の見直しと共にフラット化を進め、ユニット単位で仕事をしているということだ。 このグループやチームを牽引する部課長は、ライン型の職場の長と違い自分自身も固有の担当業務を持ち、かたわらでメンバーの指導・育成にあたる。これまでのスタイルで部門目標や方針を立案し、部下の管理をしていくのとは違い、頼れる兄貴分のように部下と協議しながら、アドバイスをし、チームの成果をあげていく。いわゆるプレイングマネージャー型である。 このプレイングマネージャー型にはメリット・デメリットの両面がある。もちろんメリットの方が大きいと思うが、デメリットがないわけではない。その最たるものは、プレイングマネージャー型の管理職は、部下やメンバーと同じ目線で仕事をしてしまいがちな点だ。兄貴風を吹かすわけでもなく、自身も業務をこなしていくメンバーの1人なのだから、チームワークを大事にしていくのは良い。 しかしそのことが変に作用し、リーダーであるはずのマネージャーの考え方や判断の仕方、仕事の質がメンバーと同レベルになってしまうことがある。 人というものは、一度身についてしまった自分なりの判断の基準や、決断のタイミングに無意識のうちにこだわることが多いと言われる。チームの部下からの報告をうける場合、「かなり売れています」、「ほとんど大丈夫です」、「できるだけ頑張ります」、「なるはやで対応します」等のあいまいな表現を聞いて、そのまま自分の判断も流されていないだろうか。 部下ごとの時間や量の尺度を理解して判断していれば良いが、実際は聞いた言葉をそのまま受けとめてしまって、感覚で判断しているのである。 報告に対し指示を出す場合、部下には具体的な数値や時間軸を的確に伝え、あいまいな部分を残さないようにしたいものである。 そして「さすがリーダーはそこまで考えているのか」といった感服が必要だ。 それが部下の成長につながるだろうし、信頼も生まれる。 チームワークはもちろん大事だが、絶えず一段上の目線で仕事をするためにいつでも自分の判断力、決断力をチェックし、磨いておくことを忘れてはならない。 ビジネスは生き物で、常に状況は動いているのだから。

関係の体系としての企業 | その他

関係の体系としての企業

 いつのころからか、「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われるようになった。情報つまり企業固有の知識・技術が経営資源であることは、昔から変わりはないが、それらは、ヒトに属するものだった。それを、情報という独立項目として外出ししたのは、ICTの進化により、情報の蓄積と活用がしくみとして可能になったからだろう。ナレッジマネジメントという概念もまた、そこに生まれている。  ナレッジマネジメントがすでにある情報・知識を管理し活用するだけだったら、情報をそのようなもうひとつの経営資源とみて、高度活用の術を追及すればいい。しかし、組織を情報知識体系とみるときの眼目は、「情報創造」にある。経営にとって、会社が存続し、また存立する価値を持ちうるためには、新しい情報や知識を創出し続けることの重要性が含意されている。  AIがヒトを超えるという事態が迫っているからには、もはやそうではなくなるかもしれないけれども、情報を創造する主体は、どこまで行っても、ヒトである(と信じたい)。とすれば、ナレッジマネジメントが本来的に機能するためには、「独自の情報・知識をどう管理するか」の対極にある、創造性の喚起に関わる二つの問題が議論されなければならないだろう。  一つは、個々人にどう創造させるか、である。創造のためのフレームワークの活用や創造技法をあるものの、人々の内発的な創造性開発研修といったものが存在しないように、創造をもたらす方法はテクニカルにはつかみがたい。人がある事象を、考えに考え抜いたその先に生まれるブレークスルーの理屈はわからないけれども、ただ、寝食忘れて考え抜くという情熱と持続力が要件になることは確かだろう。  それができるのは、その創造せねばならないことが、自分にとって大きな意味と意義があるからである。人は、目的の意味に共感するときにはじめて創造を可能にするといわれる。とすれば、従業員が創造するためには、その目的、事業的な意味とか社会に対してどのような価値を提供したいのか、といった会社や仕事の目的が共感でき、真剣にその達成を願えるものでなければならない。  会社は利潤追求装置である。自身の仕事で問われる創造性=新しい効果的な方法の創出、が会社の利潤拡大に大きなインパクトを持つことだけでも、やりがいはある。さらに、その利潤獲得のための事業そのものに意味と意義があれば、ヒトはその行為に大げさにいえば、“全存在かけて”投企するのではないか。  つまり、本業そのもののCSR性がそこに要請され、また、従業員がそれを体感できていることが大事になる。これが、一つ目の議論であり、それは自社のアイデンティティを問うことに至らざるを得ない。しかし一方で、そのアイデンティティは、全社一丸、固有の価値観を共有し、自社独自の情報資源を守り、再生産するための「自社の枠組み」として“閉じて”いてはならない。  これが、創造性を喚起するための、もうひとつの議論である。新しい発想は、他の発想との相互刺激によって、創出促進される。ヒトの発想行為では、相似性の追求や異質性と交換が有効ともいわれる。またそもそも現代社会では、新しい知識や技術はそれ単体としてよりも、他との連関性のなかで活用され、そこにさらなる知識・技術を生み出していく。  とすれば、自社内を越えた情報創造、たとえば他社の知識・技術をもつ人との情報連関と相互作用こそがブレークスルーの鍵かもしれないし、企業の壁をこえたCSRがそこに生まれるかもしれないのだ。そうした自在なやりとりには、堅固な“わが社アイデンティティ”は、邪魔でしかない。  つまり情報知識体系としての組織は、オープンシステムであることを要請する。さて、そのように情報が、その担い手であるヒトが、自在に交通する組織は、いかにして可能か。その組織論や戦略論、制度論や人材マネジメント論はおそらく、「個別企業の壁をどう超えるか」ではなく、「(社内外を通底する)関係の体系としての企業」という企業観から始めなければならないだろう。

生産性への意識 | その他

生産性への意識

 民間企業は、商法や商慣習、社会的常識などのルールの中で利益の最大化を目的にして活動する組織である。ビジネスチャンスを見つけ、稼ぐモデルを作り、それを実行して利益を上げるという団体である。  多くの学生は学校を卒業し、民間企業に入社する。学校は実態的には民間企業人材を養成しているともいえる。しかし民間企業の目的や会社組織の基本構造、ビジネスの基本的な知識などビジネスの基礎的素養を伝授できていないのが実態である。新規に入社した社員や、その後キャリアを積み重ねた社員を見ても、利益の最大化を目的とした組織で働く知識やスキル、マインドをあまり理解していないと感じることすらある。自己の役割の根源が短期、中長期の利益のためということが本質的に理解されていないため、経営者からみると多くの場面で営利企業の構成員として違和感を持つのである。  たとえば管理職の社員にもかかわらず経理財務的な知識やスキルがないことなどはその代表的なものだ。管理職は企業の一つの組織を経営から委嘱されて管理するものであるから、当然組織の方針、計画、日常の業務管理、部下の人事管理、コンプラなどとともに自組織の経営的効率性という観点での管理が必須である。基本的な経理財務知識がなければ、効率的効果的な利益貢献活動などできない。自組織のあるべきコスト構造やそれがどこまでコントローラブルかという視点なくして、適正なコストマネジメントはできない。管理職になって基礎的な経理財務的な研修を行うことは、今までのキャリアでそのような視点を持っていない、指導を行っていないのではないかと疑ってしまう。管理職社員に経理財務的な教育を行うことがあるが、あまりにも遅すぎる。  利益の最大化という視点に立てば、社員の業務に対する意識は、高いアウトプットをいかに少ない資源投下で出すかということである。民間企業の社員は常に生産性を意識するのが仕事の本質ともいえるのだ。近年にわかに残業時間の適正化、社員の生産性の向上が議論になるが、そもそも利益追求のために生産性向上は根源的、恒常的課題であるにも関わらず、社員側の意識、行動がそうなっていないことが放置されているのだ。非効率な残業が発生する、過去から行っているという理由で無駄な業務を行う、状況に合わせた柔軟な業務遂行ができない、コミュニケーションが悪く組織効率が上がらないなど多くの問題現象が職場で日々発生している。業務指導の中でビジネスの本質や魅力やモデルを伝えられていない可能性が高い。これは日常の中で“いかに効率的に稼ぐか“が目的となっていないのだ。  民間企業で働く社員は、その職業特性として“生産性”への意識は生命線であることを再認識しなければならない。入社時点で“営利企業人“としてのマインド、特性、行動をインストールしなければならない。このあたりがあいまいで、社内が”稼ぐ“マインド行動となっていない企業も散見される。営利企業人としてのマインド、知識、スキルを、再度徹底して浸透させる必要があるのではないだろうか 以上

シェアリングエコノミー時代の採用 | その他

シェアリングエコノミー時代の採用

予定通りに人材確保が出来ない今、採用業務に多大な時間と労力を割かざるを得ない企業は少なくない。そんな中、中途採用の選考時に面接で、応募者のドタキャンや無断欠席が時々あるという話をよく聞く。書類選考を行い、応募者と面接者の日程調整し、面接室や書類を用意し、いざ、面接日に応募者を待っていると、予定の時間になっても、何の連絡さえもなく応募者が現れない、さらに、こちららから電話しても全くつながらない・・そんなことが、少なからず起こっているようだ。 やむを得ない事情で、突然キャンセルせざるを得ないこともあるのだろうが、少なくとも、約束した時間に何の連絡もなく、面接の場に現れないというのは、社会人・企業人として資質を問われかねない行為だ。 無断欠席することで、採用担当者の準備調整の時間や面接者の待機時間などを含め、相当な無駄なコストが企業側にかかっている事を応募者は想像できないのだろうか。いや、面接を無断欠席してしまう事の問題の大きさは、応募者もある程度理解しているのだろうが、いざ面接日の時点で応募時と状況が変わり、その企業に入社する意思はなくなり、迷惑がかかる事はわかっているが、何となく、連絡するのが気まずかったり、面倒くさいという理由で、しらばっくれてしまうというのが実情なのだろう。なんとも、情けなく、無責任な話ではある。 こうした行為の背景には、コンピュータやインターネット等のテクノロジーが発達し、採用募集している複数の企業に対し一斉に応募が可能になったり、選考プロセスがメール中心のコミュニケーションとなる中で、求職活動の人間的な側面が希薄化し、応募者は企業側の立場をリアルに感じる事が難しくなっているのかも知れない。 しかし、それ以上にこうした問題が起こっているのは、無断欠席しても、社会的責任を追及されず、応募者自身に実質的に痛みを伴うことがないからだろう。もし、ある企業で採用選考時に無責任な行動をしたとしても、それが把握されるのは当該企業だけで、おそらくは、外部に知られることもなく、応募者のその後の職業人生にキズがつくこともないのだ。 ネット社会が進化する中で、今、オークションやAirBnB(民泊)など不特定多数のサービスの提供者と利用者をマッチングするいわゆる「シェアリングエコノミー」が広がりを見せている。こうした取引では、提供者と利用者が相互に取引を評価する仕組みが確立されている。例えば、AirBnB(民泊)では家を貸すホストと泊まるゲストが互いに評価する。この仕組みは自分も評価されるので悪意のある評価は付けにくい。自分に低評価を付けられると、今後やホストに拒否される可能性があるからだ。相互評価の仕組みがあることで、提供者、利用者ともに、善良で適正な取引を行うことが促されて、安心したマッチング取引が可能になっている。 企業の採用活動においては、インターネット上の口コミサイトなどでは、各企業の採用プロセスや対応などが、評価され、広く公開されている一方で、マッチングの相手となる応募者の選考プロセス時の行動については、当該企業のみが知るのみで、応募者の言動が評価されたり、シェアされることは一切ない。こうした企業側だけが評価される一方的なシステムが、結果として、応募者の無責任な行動を助長していると言えなくもない。 個人情報の保護などクリアすべき点はあるだろうが、何らかのかたちで、求人企業と応募者が相互にチェック、評価される仕組みがあってこそ、バランスのよい牽制機能が働き、採用業務の効率化や高品質化が進むのではないだろうか。 

桜の宴 | その他

桜の宴

 まだ寒さも続き桜の開花も遅々としていたころ、誘われて、屋形船での隅田川花見に行った。どんなグループかは知らないまま、30人ほどの宴席に加わった。三々五々と岸辺の集合場所に集う様を見ているときから、風体とオーラが普通でない方々ばかりと訝っていたが、あとで全員のあいさつを聞いて腑に落ちた。ほぼ全員が、詩人、歌人、俳人といった創作に携わる人々だったのである。  企業の方々と、あるいは仕事仲間たちとの日常の宴席と、大きく異なる点が興味深かった。たとえば、挨拶のコメントの妙。宴の冒頭、全員がひとことずつ自己紹介をしたのだが、そこには、揺蕩う美学と狼藉があった。ふだん耳にしない言葉や文脈がいちいち面白くて、アウェイの醍醐味を満喫したのだった。  あいさつの皮切りは、77歳の詩人。著名な彼は、詩と俳句と短歌を生涯生業としつつ、小説や戯曲、評論も手掛けることで知られる。満開ではない桜を「おぼおぼしているね」と評し、三分咲き、五分咲きこその風狂を語るさまが実に恰好いいものだった。続く各人の言葉もまた、控えめながら創作に携わる矜持を醸し出し、常ならぬこの場に彩を添えるようと腐心していた。  なにより、企業人たちとの日常の宴席とのいちばんの違いは、みなさん、たいそうおしゃれだったことである。ちょっとこぎれいといった体ではなくて、かなり個性的というか人目を惹く姿ぞろい。とくに、男たちの服装は異様で、しかし美しかった。いちいち詳述するのも野暮なので書かないけれども、一点共通しているのは、「靴」である。高齢の人たちも多かったけれども、みな例外なく、ただならぬこだわりを感じさせるブーツ系の靴で足元を固めていたのだった。 花見の宴席というイベント(=ハレの場)に臨むうえでの「表現者」としての姿勢だろうが、ファッショナブルな年寄りが集うさまはなんとも愉しい風景だった。ひるがえって思い起こすと、企業人の宴席の、服装のなんともつまらないことか。例えば、各所で年中行事のようになされ、場所取りばかりが課題となる花見の宴会。会社を終えてからの花見だからスーツ姿もやむなしかもしれないが、もっと自在に、見た目からして非日常を愉しんでもよいのではないか。 多様性のマネジメントが喧伝されるけれども、場に合わせてプレゼンスを変えるというような自身の多様性を仕掛けることも、ささやかにしてかつチャレンジングなダイバーシティである。大げさに言えば、多くの会社に根強い同質性カルチャーを変えていくとっかかりになるかもしれない。 いやいや、勤め人でいる間はそこまで服装に気遣わなくてもいい、定年退職後に「恰好いい年寄り」たるべく頑張りたい、というムキもあるかもしれない。しかし、そううまくはいかないのだ。ハレの場をどう愉しむか、ちょっと服装でエッジを効かせてみたい、といった工夫(=訓練)をバリバリの会社員時代にこそやっていなければ、定年後、ゴルフウェアまがいのカジュアルウェアにちょっと高そうなジャケット、足元は、アディダスのスニーカーといった姿にならざるを得ないのである。

リタイアメントを誰が決めるのか | その他

リタイアメントを誰が決めるのか

有楽町の駅に程近い蕎麦屋で、同窓会の帰りかと思しき3人の熟年ビジネスマンが漬物をつつきながら熱心に話し込んでいた。定年後の再雇用について話が弾んでいるようだ。 「おまえの会社にも、定年後にもう一度雇ってくれる制度があるんだろう?」 「いまは法律でそうなっているから、どこの会社にもそういう制度があるよ。」 「週に2日だけ、とか、午後3時まで、とか、パートタイムでもいいの?」 「そりゃ会社によって違うだろ。」 「どっちにしても役職には付かないし、給料も半分だし、ゆったり仕事すればいいでしょ。」 「退職金も定年のときにもらっちゃうしね。」 「大した仕事は無くても毎日会社に出てきて皆の顔見たほうが、健康にはいいらしいよ。」 定年後再雇用は、まるで福利厚生制度のようだ。 70歳までの雇用義務化も遠い話ではないように思える。そんな中で、定年という制度は、企業で働く人びとにどのように映っているのだろうか。60歳であれ、65歳であれ、会社の「定年」が職業人生からの厳粛なる「リタイアメント」なのだという感覚は、先のエピソードを見てもわかるとおり、根強く残っている。その先の再雇用は、言わば付け足しだ。考えてみれば、高度成長時代に発達して半世紀以上続いてきた定年制度と長期雇用制度だ。年金支給の開始年齢が上がろうと、人生80年時代と言われようと、こうした感覚がシニアビジネスマンたちに色濃く沁みついているのは無理からぬことかも知れない。 だが、これからの時代、会社のルールのままにリタイアメントが決まる、というのがいちばん幸福なことかどうか疑わしい。そもそも、一般的な定年年齢である60歳の時点では、体力的にはまだまだ元気で働ける場合が多いだろう。再雇用制度を利用して定年後も数年働き、その後いったん仕事から完全に「足を洗う」のだが、余暇を過ごして1年も経たないうちに、「このままでは頭が空っぽになってしまう」といった不安に苛まれる。何かオレにできることはないか、高齢でも世に貢献できることはないかと仕事を探し始める。70歳を迎えてもなお、身体も心も働くことを欲しているという例は数多く耳にする。 ならば初めから、自分の仕事人生の設計を自分でやるに越したことはない。初めて勤める会社でビジネスマンとしての基礎体力を養い、専門性に磨きをかけ、次のチャンスを掴んで転職をしたら必死で働いて目覚ましい経済貢献・社会貢献をし、その後は体力の低下に合わせて少しずつ仕事のペースを緩めながら後進にノウハウを伝える。自らの役目が終わったと見るならば、定年を待たずにリタイアしてもよい。求められるなら死ぬまで働いたってよい。自分の人生だから、そのプランを自分で考え出さなければならない。キャリアまるごと会社任せにして言われるままに働き、一定の年齢で会社に言われるままに働き終えて、自動的に職業人生終了、という時代は遠からず無くなるだろう。 一体、「定年退職」は「リタイアメント」と同じことなのだろうか。正しいリタイアメントの時期は会社が決めてくれるのだろうか。それとも別の誰かが決めてくれるのだろうか。さにあらず、リタイアメントは自分で決めるのだ。そういう時代が目の前に来ている。蕎麦屋のシニアビジネスマンを数多く抱える人事部長は、したがって、そこのところを皆によく知らせ、意識改革を図らなければならない。やる気があって社業に貢献してくれる限りは相当の報酬を支払ってがんばってもらう。役割が終われば自らリタイアメントの判断をしてもらう。だから、一人ひとりの社業への貢献度がどれ程なのか、またはその役割を終えつつあるのかを、つぶさに評価してフィードバックするのは、これからの人事部の大切な責務だ。

設計と編集 | その他

設計と編集

 人事制度は社員にとって極めて重要な仕組みであるにもかかわらず、十分に理解されていないと感じることが多い。新たな人事制度を導入する時は説明会を開催し、背景や目的、そして仕組みについて、十分な理解が得られるような工夫をする。社員への説明会やQ&Aや新制度のハンドブックなどを充実させる。特に経営陣や管理職に対しては自分たちで説明できるようなトレーニングなども行ったりする。さまざまな工夫をして社員の理解を深めようとするのであるが、人事制度導入当初から十分に浸透したと思えることは少ない。制度が導入されしばらくして新たな制度で評価を行い、その結果昇格や昇給、賞与支給など自分に直接的に関係する時に、はじめて理解が促進されるように思える。  そもそも人事制度を変えるということは、新たな経営方針や計画に合わせ、企業に必要な人材像、人材の価値、働き方が大きく変化することになるが、この本質的な部分がなかなか浸透できないのだ。新たな人事制度の社員への説明会などでよく見られるのは、社員側にあまり真剣さがない情景だ。社員にとって極めて重要であるにもかかわらず、直接的に響かない。  社員に対して新たな人事に関する考え方を浸透させるためには、今までのような“まじめ”なアプローチでは限界があるのかもしれない。新制度の説明は全体として堅くて面白くない。また社員は人事制度のエンドユーザーであるが、ユーザー視点で語られていないことも多い。人事側は正確に伝えるために、等級制度、給与制度、評価制度などの人事制度の“部品”を個別に説明することが多いが、これは制度を提供する側、制度を設計する側の説明スタンスではないか。新たな人事制度によってエンドユーザーがどのような期待ができ、リスクを負うのか、今までとどう異なるのかが重要であって、制度の“つくり”を説明することではない。説明する側のスタンスに議論があると感じる。  また新制度の資料も一層の工夫が必要である。人事部が一生懸命作成する人事制度の説明資料はあまりにも堅い。社員が資料を持ち帰り、再度読み込むとはあまり思えない。伝えたい内容を興味もって理解してもらうためには、資料そのものをワードとエクセルで作ることが間違えなのかもしれない。動画や漫画などで面白く作成したほうがよほど効果的であろう。  新たな人事制度を導入することは企業にとって大きな転換点である。この転換点を社員にできるだけ浸透させるには、浸透のスタンスを再認識し、手段を大きく変えなくてはならないと感じることが多い。よい制度を設計することは前提であるが、浸透に対する意識や工夫が少ない。人事制度の仕組み部品は精密に作るが、それをエンドユーザーにどう見せるかを意識できていない。人事制度の設計の後に、これを効果的に浸透させるための“編集”が必要なのではないだろうか。 以上

プレミアムマンデー(プレミアムな仕事をしよう) | その他

プレミアムマンデー(プレミアムな仕事をしよう)

先月末の金曜日、ショッピング等の個人消費を喚起するとともに、午後3時に仕事を終えることを奨励するプレミアムフライデーが始まった。実際に、金曜日の午後3時にどれだけの人が仕事を終えられるのか、といった議論等、賛否は様々であるが、働き方改革の主テーマの一つである「長時間労働の是正」に、国全体で取り組んでいこうとする機運を後押しする象徴的なキャンペーンと受け止めている。 「長時間労働の是正」の狙いは、働きすぎて、生活のバランスが崩れ、過労死などの心身の健康に悪影響を及ぼしている状態が社会問題化する中、ワークライフバランスのとれた「より人間的な生活」を取り戻す事である。我が国の正社員の年間労働時間はサービス残業と言われる部分をふくめると2,000時間程度になると言われていて、諸外国と比べて1,2割程度は、労働時間が長いことは間違いないようだ。  こんなにも日本人がよく働きだしたのは、明治維新後と言われる。産業革命が進む中、当時の機械工や繊維女工の年間労働時間は3,000時間を優に超えていた。戦中、戦後も、同様に欧米に追い付け、追い越せというマインドの下、「長く働くことが善」という観念が我々日本人にしみついて、今に至る。ただし、それ以前の江戸時代などは、武士は城に10時に出勤し、14時に退勤だったし、庶民も、職業によるが、昼休みを含めて1日3回、休憩があったようで、総じて、今に生きる我々ほど長く働いてはいなかったようだ。だとすると、現代日本人の長時間労働の傾向は、生来の気質ではなく、社会的背景の中で、作り上げられてきた社会観念に由来するものであり、今後の我々のマインドの切り替え方次第では、労働時間の短縮自体は、思ったほどには難しいことではないのかも知れない。 さて、労働時間削減の取り組みは、誤った議論ではないし、是非、そうするべき事ではあるが、同時に、社会や企業の構造の中で、その周辺への影響を整理して行く必要があるだろう。 例えば、社会における労働と生産の構造を簡単に表すとすれば、 「仕事の質(生産性)」 X 「仕事の量(労働時間)」= 「生み出す生産価値(アウトプット)」 という事になる。 この関係式で考えると、我々が今、取り組むべき、より本質的な問題は、むしろ「仕事の質(生産性)」の方ではないだろうか。 OECDによる国別の時間当たり労働生産性を見ると、米国やEU諸国が60ドル前後の水準に対して、我が国は40ドルと大差をつけられている。現在の生産性水準を所与とすれば、労働時間を減らした分だけ、アウトプットも減じることになる。 少子高齢化が進む中で、さらに労働時間を減らしていこうとするなら、従来生み出してきたアウトプットを維持、増大するため、我々は、相当なレベルで生産性を上げていかねばならない。 労働時間を削減するのはよいが、それがゴールでなく、そのうえで、いかに生産性を高めて、組織として国としてのアウトプットを最大化できるのか、こっちの課題に正面から取り組むべき局面にきていると思うのだが、周囲を見渡しても、まだこのテーマが国民的な課題として盛り上がっている状態にはない。 「今日、定時で帰るためにはどのように仕事をすればよいか」 「8時間で行う仕事を6時間で行うためにはどうしたらよいか?」こんな問いに、国や経営や社員が一体となって建設的に取り組めたら、生来、工夫や改善が得意な日本人の事であるから、日ごろ感じている無駄や効率の悪さが明らかにされる中で、業務の自動化 情報共有化 標準化など‥、今まで上司に遠慮して、胸にしまっていた、さまざまなアイデアが出てくるに違いない。 我々は、労働時間の削減と並行して、生産性向上にも本気で取り組むべき時期に来ている。これもまた、日本人のまじめで、従順な性格からすると、政府が、一役買って出て、プレミアムフライデーの第2弾として、生産性の高い「プレミアムな仕事の仕方」を目指し、情報交換やディスカッションを喚起するための「プレミアムマンデー」を毎月1回月曜に設定し、キャンペーンを張るのも悪くないと思っているが、どうだろうか。

従業員満足はいらない | その他

従業員満足はいらない

 いつのころからか登場したES(Employee Satisfaction)調査というものには、やや違和感を感じる。かつては、従業員意識調査はモラールサーベイといった名称で従業員の職務責任意識や士気、結束力の高低をみる調査であり、軍隊アナロジーで経営が従業員に要請する状態として分かりやすいものだった。つまり、業務遂行にそれが影響する。しかし、「従業員満足」というと、それがストレートにパフォーマンス発揮に直結するようには思えないからだ。  すべてのステークフォルダーズとの関係を良好に持つことが企業の社会存立構造であり、その一環として対従業員関係の良好度合いをそれで測るというのは分かる。「ESなくして、CS(Customer Satisfaction)なし」ということも、まぁ理解できる。だが、従業員がその会社にいることに満足していることが、各人の仕事の成果を高め、また組織としての生産性を高めることに結果するのだろうか。  おそらく「衛生要因」であることは確かだろうが、はたして「動機づけ要因」たりえているかどうか。満足しているからといって、職務遂行レベルを向上させ、更なる成果発揮を目指そうという姿勢をもたらすとは限らない。賃金がたかく非金銭的報酬も魅力的で、会社の構成員であることに本当に満足しているからこそ、無理をせず、つまりリスクをおかさずほどほどに仕事をして、その状態を満喫しようとするかもしれない。問うべきは、満足度ではなく、モチベーションの高低とその誘因なのではないか。  さらにいえば、モチベーションが高ければいいというわけでもない。大事なことは、「パフォーマンスにつながるモチベーション」の度合である。もしかすると、誰よりも高いモチベーションで仕事に臨んでいるローパフォーマもいるかもしれないからだ。だから、こうしたサーベイでは、誰の満足度か、どのようなモチベーションか、を見極められる分析枠組みが不可欠であり、従業員全体の満足度の高低やその因子に一喜一憂する必要はない。  こうした観点ではやはり欧米企業はプラグマティックで、ある米国のコンサルティングファームが各国の複数企業で実施した調査は、極めて興味深いものだった。「Employment Branding」調査と銘打って、「会社を辞めないでいる理由」を、仕事の属性やさまざまな就労条件、人間関係など網羅的な項目で調べた。会社の枠を超えて、人々を引き付ける「雇用のブランド」とはなにか、を明らかにしようというものだった。ただ調査分析の対象にしたのは、各社のハイパフォーマたちだけだったのである。  大事なのは、高業績者が、会社にとどまり成果を上げつづける、そのモチベーション因子、満足因子であって、全従業員のそれではないということである。ハイパフォーマにとってのブランドを構成するものを知り、それを強化することができれば、彼らの確保が促進され、業績が向上する。それこそが、業績に資するESであるという合理的な割り切りが小気味よい。  ちなみに、このマルチクライアント調査の結果は、たいへん示唆的なものだったが、明らかになったブランド構成項目はここでは書けない。ただ一点、あまりにも当たり前の事情ともいえるが、ハイパフォーマたちを引き付けるブランディングの最大の因子はやはり、金銭やさまざまなベネフィットではなく、仕事の意義や意味に関するものだったことだけを付記しておきたい。