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吉岡 宏敏

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市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

ストレスワクチン | モチベーションサーベイ

ストレスワクチン

多くの組織で問題になっているメンタルヘルスの予防的施策として、ストレスワクチンという処方がある。 メンタル不調を結果するような状況に至る前に、ワクチンを打ってストレスの抗体を作り、個々人のストレス耐性を高めておく手法だ。「ワクチンを打つ」とは、Off-JTのワークショップとフォロープロセスのことで、まずは組織診断によりその会社固有のストレス因子を検出し、それを使ってストレスフルな状況の予行演習を体験する。主に、入社間もない社員に対し行われる予防施策である。 企業内ストレスにさらされる状況はある程度決まっている。一般的には、入社直後や配属直後、異動後や転勤後、管理職への昇格したときがそうであり、加えて各社の業務や組織の特性と風土や慣習によって、ストレス状況の類型化ができる。部門による人間関係の特性や組織の意思決定のクセが、その会社固有のストレス因子かもしれない。それを“抗原”として、想定される状況下で、自分がどのように対処すべきかを先行して考えることで、ストレスを受け止める力を身につけさせるということである。 言うまでもなく、生産性を追及する組織である限りストレスは必須だから、組織のストレスをなくしていくのではなく、個人のストレス耐性が課題になる。「メンタル失調になりそうな候補者を検出できないか」という採用担当の方々からの要請も少なくないように、“個々人の資質問題”に偏りがちなアプローチに対して、ストレスの抗原−抗体反応の仮説は魅力的ではないか。 この仮説が正しければ、EAPや産業保険医体制の整備、あるいは管理職へのメンタルヘルス研修などで、不調者の予兆を個別的に早期発見、早期対応するくらいしかメンタルヘルス対策がないなかで、組織的な予防施策として展開できるからである。 「必ず直面するストレス状況を、事前にイメージさせ、受け止められるようにする」とは、その時どうすればよいかをシミュレーションさせることだけが大事なのではない。何より、その状況の背景の意味を考えさせ、理解させること。個人の業務や役割の意味とその背景にある会社のミッション、そうした業務が自分にとって、自分の将来にとってどのような意義を持つのかを、深く考えさせることこそが重要だ。つまり、将来のストレス状況にポジティブな意味づけを予め前提させる。ストレスとモチベーションが表裏の関係あること自体を体感させるのが、こうした施策の最大のポイントだろう。 さらに、ストレスワクチンの効用はもうひとつある。組織の暗黙知が明示化することである。抗原を検出するための事前のストレス診断により、暗黙のルールや集団行動のクセのインパクトがわかる。例えば、ある部門はきわめて家族的な人間関係に特性があるかもしれない。新入社員がこうしたことを事前に知ることで、効率的に仕事に集中できるはずだ。 かつて、辞めてほしくない社員に対して、アメリカの会社は“ゴールデン・ハンドカフ(金銭による手錠)”をかけるが、日本の会社は“エモーショナル・ハンドカフ”をかけると言われたことがある。日本企業の雇用関係は、長期雇用の黙契がなくなり、成果と報酬の契約的関係になりつつあるとはいえ、暗黙のルールや人間関係の圧力は存在する。ストレスワクチンは、それに対するプラグマティックな挑戦でもあるのではないか。

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

コミュニケーションに「こころ」はいらない | その他

コミュニケーションに「こころ」はいらない

縁あって、平田オリザさんの話を聞いた。 平田さんは、劇団を主宰するとともに、現代演劇の理論化とそれを活用したコミュニケーション教育で知られる。16歳のとき自転車で世界一周したことは有名だが、近年は、大学の教員も歴任し、管直人政権下では内閣官房参与の任にあった。 そのなかで、大阪大学で共同研究している「ロボット演劇」の話があった。ロボットが劇を演じ、人が観客として鑑賞する。そのお披露目では、ロボットの演技で、観客は涙を流したという。感情も意思もないロボットも、演じることで人を感動させられたということだ。 ロボット演劇が成立するとしたら、演技つまり“コミュニケーションの型”が的確でさえあれば、自身の感情や思い、価値観とは無関係に、人を動かすことができるということではないか。これは、企業組織のなかのコミュニケーションを考える際にも示唆的である。 以前、ある仕事で複数の企業の管理職者たちに、「リーダーシップの持論」をインタビューしたことがある。主旨は、部下育成に優れるリーダーとおぼしき方々を選定し、「人を育てるリーダーとは何か、どう行動しているか」を聞いて、類型化することだった。どの方の話も自身の実践の中で培われた方法論で興味深いものだったが、ある女性管理職の方の言葉が印象的だった。 彼女は、管理職を「どう効果的に演じるか」について語り、また、部下にも「あなたの役割を演じるんだ、とまず考えなさい。あなた自身と役割は別のものだから」と指導していると言った。 そのとき「管理職を効果的に演じる」といわれてみて、リーダー達がそれぞれに実践している行動を改めて振り返ると、確かに、みな芝居がかっていた。それが、リーダーシップ・コミュニケーションという型(=演技)ということだ。 さらに彼女のスタンスは、管理職でなくても、若い社員であっても業務の役割があり、組織の一員という役割もあるのだから割り切れ、ということである。そして、役を演じろと。 ロボット演劇の話は、コミュニケーションに「こころ」はいらないという極端な仮説である。コミュニケーションとはそういうものだ、とは短絡できないが、ただ、コミュニケーションに「こころ」は必須ではないという指摘は、大事なことだろう。「こころ」とは、あるがままの自分とか、本当の自分の思いであり、それを考えるあまり、組織のなかで不具合や葛藤が起こってくることもある。 若年層に頻出しているメンタル失調やそれに伴う離職者が多いことには、こうした不具合も原因しているのではないか。自分を見つめなおしたり、あるがままの自分であるべき、といった内省は、会社で働く上で必要がない。会社の一員としての「役」を、いかに意識的に演じるか、という姿勢があればいい。 平田さんの演劇教育は、企業研修にも応用可能である。タフな社員を育成するために、新入社員の時から、「役」を演じる面白さ、楽しさを教える施策として、展開してみようと思う。 以上 参照 コミュニケーションに「こころ」は必要 という立場でコラムの執筆があります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100809/