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南城 三四郎

column
無事之名馬 | 関連制度設計

無事之名馬

 もはや耳にタコではあるが、日本は少子高齢化の進行により、労働力人口の急激な減少がしており、今後、国内のあらゆる企業において、労働力の不足が大きな人事課題になることは確実である。不足する労働力を確保していくためには、外国人労働力、女性、定年延長・再雇用などで労働力を維持していくことが必要となるが、この定年延長という取り組みに関して、新たな問題として考えられるのが、健康の問題である。  企業は、従業員の健康を維持することに投資し、従業員は、今まで以上に健康を維持するための運動習慣、食生活の改善に取り組むことが求められるようになる。60歳を過ぎても、できるだけ健康な状態で過ごすことによって、医療・介護にかかる費用を押さえていくことが、国民全体の負担の軽減につながり、社会保障の持続可能性を高めることにもなる。個人にとっても国家にとっても望ましいのである。   健康の維持推進というと、まず、”疾病”にならないための衛生水準を確保するということ、感染症対策や食品衛生などである。この点に関しては、清潔な住環境、徹底された食品の衛生管理など、日本は国際的にみて高いレベルを維持しているといえるだろう。  しかしながら、これから訪れる強烈な高年齢社会を実現していくためには、これに加えて、私たち自身も、運動習慣や食生活の改善に積極的に取り組み、生活習慣病の発症や重症化を予防していかなければならない。  近年、企業としても従業員の健康に関する取り組みを支援する動きが活発になってきた。健康経営の事例としてよく上げられる、ジョンソン・エンド・ジョンソンの取り組みであるが、グループ250社、約11万4000人に健康教育プログラムを提供し、その投資に対するリターンを試算ところ、投資1ドルに対して3ドル分のリターンがあったとされている。従業員の健康に対する取り組みを支援することが、企業としての価値を高め、業績の向上にもつながるということである。  現在の国内企業の主な取り組み内容としては、禁煙推進、成人病の高リスク者へのカウンセリング、ノー残業デー、健康教育などが多いが、今後はさらに強化されていかなければならない。業務に必要とされる知識やスキル、を習得し続けなければならないことはもとより、その技能を長期間にわたって、いかんなく発揮し続けるだけの肉体・精神の頑健さを維持していかなければならない。「無事之名馬」がこれからの日本人が目指すべき姿なのである。  ちなみに、「無事之名馬」という言葉は、競走馬の世界において、多少能力が見劣りしていようと、常に健康であってくれることが馬主にとって望ましい、ということを表す言葉であるが、大前提として、競走馬とすべく生産されたすべてが競走馬になれるわけではなく、選び抜かれた真に強い馬のみがレースに出走し続けることができる世界である、ということを理解しておかなければならない。

ターニングポイント | その他

ターニングポイント

 東京都が都内の企業を対象に行ったリモートワークについての調査によると、2020年6月時点の導入率は57.8%と昨年の25.1%から大幅に上昇しており、大企業だけでなく中小企業においてもリモートワークの導入が進んでいることを示している。リモートワークの導入については、以前から政策や自治体のアクションプランにおいて、大きなテーマとして取り上げられてきていたが、新型コロナウイルスの感染拡大という予想もしていなかった外圧によって、ついに企業も本格的な導入に踏み切ることになった。  人口減少・少子高齢化に伴う労働力の減少、雇用構造の変化、また、テクノロジーの革新など、現在、企業を取り巻く環境が劇的に変化していくなかで、働き方や組織の制度もこれ合わせて変化していくのは当然のことだ。例えば、リモートワークの導入を進める企業においては職務・成果型の人事評価制度への移行を進める企業が増えている。従来の能力・行動評価が中心の評価では、上司が部下の職務行動やそのプロセスを観察することができず、職務・成果物自体、あるいは成果指標の達成度で評価しなければならないため、従来の職能型の人事評価制度では対応が困難であるためだ。  働き手は、リモートワークの導入が進むことによって、通勤や移動時間が削減できたり、自身や家族との時間を確保できるようになって、ワークライフバランスを実現しやすくなることや、自身の空間で作業に集中できるといった利点がある一方で、これまで以上に仕事の目的を的確にとらえ、自分自身で業務を計画・遂行する、強い自主性が必要となる。人材育成のスタイルも、これまで企業が主体となって提供していた人材育成プログラムから、自らが学習プログラムを選択し、専門性を追求するものとなっていくだろう。個人が成功するためには、自身が明確にキャリアをデザインし、計画的に知識・スキルを習得していくことが重要になるのである。  雇用の面では、これまでのメンバーシップ型雇用から、ジョブ型雇用へのシフトも進んでいくことで、今後は、高度な技術やスキルを有した人材が、副業や兼業により、複数の企業でその能力を発揮するようになったり、フリーランス人材との業務委託が進み、不足する労働力に対応していくことになるだろう。特定の企業に"就社"するのではなく、文字どおり、職に就く"就職"が実現するようになるのである。  このような企業や職場といった場所や時間にとらわれない働き方は、働き手の利便性や、満足度を向上することだけが目的ではない。働き方の自由度が増す、ということは企業人事の取れる手段の自由度も増すということであり、企業にとっては、経営戦略の実現のために必要な労働力を確保するための手段となる。今までのような、日本型○○というような画一的な組織構造、制度、働き方を維持するだけでは、この変化に対応する術を自ら放棄することになる。これからの企業人事は、過去に例のない大変革を強いられることになるだろう。その劇的な環境変化の中においても、企業が存続し続け、さらには安定した成長を実現していくためには、これらの働き方を実現するための準備、組織づくりを迅速に進めていくことが最重要課題だ。従来の制度から新しい制度への変革、今まさにそのターニングポイントを迎えているのである。

学び続ける日々 | その他

学び続ける日々

 「職場とは、仕事の成果を上げる場である」かつて、そのように教わったことがある。 スポーツに例えると、職場は実際に仕事をして成果を上げる試合の場であり、勉強や仕事を行う上で必要な知識を習得するのは練習である。練習は試合の合間に行うものだから、試合の場である職場で練習(学習)をしているようでは、そもそも試合を捨てているようなものだ、試合に臨むのであれば、日々自らを磨き上げる努力をし続けなければならない。というわけである。  そういわれ続け、プライベートでも仕事のことを考えなければならないのか、と憂鬱な気にもなったものだが、確かに職場だけではなかなか学習する時間が取れない。プライベートの時間を割いて"練習"をしなければ成果に結びつかない、ということはすぐにわかった。  調べたわけではないので、正確な割合はわからないが、ここで人は大きく2つのタイプに分かれると思っている。プライベートの時間を削って、練習の時間にあてることができる者とそうでない者だ。平たく言えば、自分で勉強する人と、しない人、ということである。勉強をしない人も、勉強が重要であるということは理解しているのだが、実際にすることができない、というのは、勉強や練習という行為の特性によるところが大きい。すなわち、成果がなかなか目に見えない、ということだ。  学習したことは脳にまずは短期記憶として記憶されるが、この短期記憶は、1日たてば70%以上失われると言われている。やってみても覚えられない、身に付かない、成長している実感が得られないともなれば、勉強なんてやりたくない、となるのも仕方がないかもしれない。忘れないためには、日々繰り返し反復して学習することが重要なのである。  自分で勉強する人としない人を1週間、1ヶ月間という短い期間で見ると、両者にあまり差は生じない。仕事の中でもある程度は学習ができるので、自分で勉強をしなくても一定の成長はできるからである。だが、日々の勉強を続けることで、効果は着実に積みあがっていく。数年も経過すればその差は歴然となり、学ばざるものには、もはや容易には追いつくことができないほどの差が生まれるのである。  とはいえ、短期的に成果が見えないことに取り組む、というのは継続することが難しい。ダイエットがうまくいかないのと同じだ。自分がどうありたいか、半年後、1年後にこうなっていたい、将来のイメージを具体的に、かつ明確にもっていないと続かない。ゴールを常に意識し続けることが重要なのは言うまでもない。  かつては、職場で勤務時間は自らの業務を行い、仕事が終われば、研修や有志の勉強会に参加したり、書籍やネットで情報を収集して学習するといった学習スタイルが主流であったと思う。しかし、コロナ禍において、人が集まって学習するということが難しくなった現在、代りにネット上のバーチャル空間が学習の場として拡大してきている。学びの場や機会は以前より増えていると捉えるべきだろう。  このような学習リソースを活用するものとしない者ではいずれ大きな差が生じることになるだろう。職場という概念が希薄になり、試合と練習の区別があいまいになりつつある現在、"練習不足”にならないよう、今まで以上に、自ら、効率よく学び、かつそれを継続し続けることが重要な時代になったのである。

学びのポイント | 人材開発

学びのポイント

 ある企業で技術職として採用された新人のOJTでの話だ。  OJTトレーナーが今週一週間の業務経験からのどのような学びが得られたか、特に重要と思うものは?と聞いたところ「書類を届けるため初めてひとりでA社へ往訪しました。その経験からA社へ行くときは○○駅から歩いて行った方が早いという学びがありました」とのこと。技術職なのにその視点はさすがにおかしいだろう、それに初めてひとりで客先を訪問するという経験からはもっと他に学ぶべきポイントがあっただろうになぜそこなのか、さすがに空いた口が塞がらなかったそうだ。  これは経験からどのような教訓を引き出すか学ぶべきポイントがずれている極端な例だが、往々にして、経験が少ない者ほどそういう傾向がある。物事をとらえるときに思考のバリエーションが少なく近視眼的になりがちなのである。また、新人に限らず、問題の原因を深堀するのが苦手、議論の場でポイントのずれた発言をしてしまうといった人がいるがこれも同じような課題を抱えている可能性が高い。共通する解決策は物事をとらえるときの視点、視野、視座を意識させることである。  視点とは見るべきところのことであり、一度特定の箇所に注目してしまうと他のところに目が行きにくい。この新人のケースであれば、往訪する際にどのような準備をしたか、客先ではどのような会話があったのか、といった他の視点があることを気づかせることだ。  視野は、単に書類をお届けするということだけに限らず、相手企業と当社はどのような関係か、この書類を届けた後の仕事の流れはどうなっているか、など範囲を広げて考えることである。  視座は物事を見る立ち位置のことで、自分以外の立場に立って考えることだ。書類を持たせた先輩社員の立場、書類を受け取った担当者の立場などに立って考えるのである。  物事の視点、視野、視座を変えることで物事の本質が見えやすくなり、学ぶべきポイントが浮かび上がってくる。勘所は自分自身で自分の頭で考えることである。他者から言われたことは情報としてインプットはされるが、学びにはなりにくい。自分で考えてこその学びなのであり、そこに導いていくのが先輩社員の腕のみせどころとなるわけだ。  さて、OJTトレーナーを唖然とさせたこの新人、現在は中堅社員となり自身もOJTトレーナーとして新人の育成にあたっている。当時の話をしたところ、「いやー、あれは往訪時間ギリギリになってしまったので先輩に聞いたら○○駅から歩いた方が早いと言われまして、それからは都内で効率よく移動するためには往訪先の最寄駅の情報だけじゃなく、地図上での位置も把握しておかないといけないなと思い、都内の鉄道・地下鉄の駅・路線の位置関係を覚えたのですが、今でも結構役に立ってますよ。」とのこと。本人に聞いてみれば思いのほか自分なりに考えていたようではあった。

身銭を切る覚悟はあるか | その他

身銭を切る覚悟はあるか

 以前、IT企業にいた時の話しである。新卒採用の面接官を担当したことが何度かあった。一通りの質問を終え、最後に、何か質問はあるか、と問うと、様々な質問が返ってくるが、「御社の研修制度について教えてください。」と聞かれることがしばしばあった。  自分自身の成長を考えたときに、会社の研修制度というのは確かに重要な要素だ。学生が気になるのもよくわかる。少しでも充実していた方がよいと思うのも無理はない。しかし、少々引っかかるものがある。今の自分に知識・技術がなくても会社に入ってから、ちゃんと教えてもらえるかどうか、という点を気にしているように感じるのだ。  IT企業ということもあり、新卒採用とはいえ、コンピュータやネットワークに関する知識・スキルが求められるのは当然だが、意外なことに、全く知識を持たずに面接に臨んでくる学生もいる。平然と「これから勉強します。」というのには驚かされる。プロフェッショナルとしてのスタートはすでに始まっているということに気が付いていないのだろうか。  会社が用意している人材育成プランは、会社の戦略を実現するために必要な人材を育成することを目的としている。もちろん、新卒社員向けのカリキュラムを用意している企業は多いが、全くの初心者がそれだけでプロフェッショナルになれるものではない。足りないところは自分で何とかするという気概・覚悟が必要だ。  さて、そういう私もあるとき研修業務のマネージャーに任ぜられることとなり、ITエンジニアとしてのキャリアに区切りをつけ、人材育成にかかわる仕事に転身することとなった。  いざ、新しい仕事にとりかかってみると、圧倒的に知識が足りない。何がわからないのかがわからず、ただ目の前の作業をひたすらこなしている状態だ。  このままではまずい、と、外部の人材育成に関する研修プログラムに参加すべく、社長にお伺いを立てたのであるが、社長から返って来たのはただ一通のメールだった。どうやら私も面接に来た学生と同じことを考えていたようだ。仕事を甘く見ていたのは自分自身だった。 そこにはただ一言、「身銭を切る覚悟のない者は何事も身につかない」とあった。

練習時間が足りない | その他

練習時間が足りない

以前、あるIT企業の経営者からこんな話を聞いたことがある。 「職場とは成果を上げる場であって、練習をする場ではない。スポーツでいえば、試合をする場なのだから、自分の実力が足りなければ、試合に臨む前に自ら練習し、腕を磨いておくものだ」 新しい技術が次々に生まれるIT業界特有の事情もあるかもしれないが、勝つか負けるか、という競争の中で、勉強、練習のつもりで仕事に取り組むというのは、端から勝負を捨てているようなものだ。そのような社員を見れば、苦言を呈したくなるのも無理はないだろう。 一方、社員の側からは、「ではいつ練習をしたらよいのか?」という声もあった。1日8時間の勤務時間、休憩や残業も含めると10時間以上職場に拘束される。さらに、通勤時間、食事や家事、育児など、生活に必要な時間、それに睡眠時間を考慮すると、時間は幾ばくも残らない。仕事以外の時間で練習をする、というのがそもそも現実的ではない、自身のスキルを高める時間的、精神的余裕のないまま、日々の仕事に忙殺されているというのである。 もちろん、そのような職場環境であっても、プライベートの時間を削って、自ら学習、スキルの習得に余念のない社員もいるし、自分の能力が足りなければ長時間の残業も厭わず仕事をやり切り、その中で必要な知識やスキルを得るという社員もいる。しかし、誰もがこのような働き方ができるわけではない。世の中の流れから言って就業時間外の練習を強制することもできないだろう。結果的に、仕事の練習が足りていない社員が増えていくのである。 社員一人一人の実力を上げ、職場での成果を上げるためには練習が必要だが、就業時間外の練習は強制できない、というのであれば、もはや試合時間を短くするしかない。その時間で自主的な学習を促すということを検討しなければならないだろう。 これにはさすがに”甘い”という意見もあるかもしれない。しかし、現在の1日8時間という労働時間の取り決めは、1919年の国際労働機関の採択が根拠となっており、100年も前の労働生産性についての研究がベースになっているものだ。その当時とは、社会情勢、職場環境も全く異なる現代社会において、1日8時間という就業時間にこだわらなくてもよいのではないだろうか。

ギャランティとベストエフォート | その他

ギャランティとベストエフォート

通信ネットワークでは、ギャランティ型とベストエフォート型というサービスがある。ギャランティ型というのは、通信速度や、中断時間などのサービスの品質が一定以上であることを保証する通信サービスであり、高価ではあるが、安定した通信品質が求められる金融機関や企業の基幹回線などで利用されている。 一方、ベストエフォート型は、インターネット接続サービスが該当する。保証はしないが最大限努力する、というタイプのサービスである。そのような努力がなされていれば、結果に対する責任を負うものではない。たとえば、1Gbpsの回線を契約しても、フルにそのスピードが出るわけではなく、時間帯や周辺の利用状況など、様々な要因によって遅くなることもある。利用する側からすると、フルスペックのサービスは期待できないが、その分低コストに利用できる、ということになる。 これは通信ネットワークに限らず、すべての製品・サービスにおいて同様であり、製品・サービスについてよく理解し、ニーズにあったものを利用することが重要だ。品質を保証するサービスは高価であり、低コストであるということは、品質はそれなりである、というのが原則なのだ。 これを踏まえ、改めて身の回りを見てみると、本当にその価格で良いのだろうか?と思うようなサービスが世の中にはあふれている。 不在でも無料で再配送してくれる宅配便。ほとんど客が来ないのに24時間営業しているコンビニやファミリーレストラン。購入した商品を店の出口まで持って見送ってくれる店員など、このようなサービスは顧客にとっては、確かに便利だったり、気持ちの良いものだったりする。だが、それが企業の収益の向上につながっているのか心配になる。 もともとは、サービスを提供する側の誰かが、顧客のためを思ってはじめたことなのかもしれない。いつの間にか皆がやり始め、当たり前の保証されたサービスになっていく。当たり前になってしまうと付加価値として価格に転嫁できない。だが、現場は過剰なサービスのために疲弊していく。というのはあまりに悲惨だ。価値を保証するのであれば、企業はその分の費用負担を顧客に対して求めるべきだ。そうでなければ、企業はせっかくの努力が利益につながらないし、顧客の要求はますますエスカレートしていき、高品質でありながら低価格という相反するものを追求し続けるだろう。 現在の我が国ではそういった高品質なサービスがあふれており、その利便性、価値を低コストに享受できる、というのは1消費者としては大変ありがたいのだが、このような状態が続くのは健全ではない。 「この商品を今日購入すると、今週中に届きますか?」と問えば、「明日発送しますが、到着は予定より遅れる場合もあります。でも安いです。」というベストエフォートな選択肢があってしかるべきだ。価値あるサービスにはコストが掛かるという当たり前のことを実感できるようになるだろうし、本当に必要な時には「じゃあ、ちょっと高いけど、こっちのサービスにするか」と高品質なサービスを選択することができる。ベストエフォートというサービスが存在することで、ギャランティという選択肢の価値が見えてくるのではないだろうか。

群盲象を評す | その他

群盲象を評す

学んだことを実践するために、明日から具体的にどのような行動をするか計画を立てる。 大抵の研修の締めくくりでは、このようなアクションプランを設定させるが、残念なことに、このアクションプランは実行されないことが多々ある。 決して安くはない費用をかけ、参加者の時間を割いて研修を実施しても、これでは効果は乏しく非常にもったいない話である。研修の内容はもちろん重要だが、参加者が研修で学んだことを実際に行動に移せるようデザインすることが重要だろう。 アクションプランを実行できなかった人に聞いてみると、いろいろな理由(言い訳)がでてくる。業務が忙しくて実行に移す時間がない、現場の協力が得られなかった、忘れてしまった、とか、そもそもの計画の立て方がまずいというのよくある話だが、もっと困るのはそもそもの問題の認識が誤っているというケースだ。 こんな話がある。盲人が数人、象の体の一部分だけを触ってその感想について論じ合い、ある者は、耳を触って「これは大きな葉っぱだ」と言い、ある者は足を触って「これは木の幹だ」と言う。尻尾に触った者は「これは太いロープだ」と言い、またある者は牙に触って、「これは槍だ」と言う。 全員、同じものを触っているのに、自分が触っている一部分だけをもって、それが何であるか、を断定しているのである。 これは、「群盲象を評す」というインドの古い寓話だが、物事の1側面だけを見てすべてを理解した気になってしまうことの例えとして使われる。現在では視覚障害者に対する差別的な表現として避けられる表現ではあるが、意味するところは重要である。 事業環境の変化の激しい現在のビジネス環境において、問題の本質を誤ってとらえてしまえば、その対応もまた誤ってしまう。邪魔な象をどかすのと、葉っぱをどかすのとでは、するべきことは全く違う。葉っぱをどかそうとホウキを持ってきても、到底、象をどかすことはできないのである。 アクションプランを検討する際も、前提となる問題の本質を捉えることが重要だ。そのためには、研修の最後で単にアクションプランを宣言するだけでなく、そのアクションプランの妥当性を参加者同士で徹底的に検証する必要があるだろう。そうすることで、お互いが抱えている問題の本質を理解し、アクションプランを実行、サポートし合える環境ができる。 先の寓話ではないが、部分しか見ることのできないものであっても、皆で情報や知識を共有すれば、「これ、もしかして象じゃね?」と物事の本質に迫ることができるのである。

組織の言語 | その他

組織の言語

 言語相対性仮説という仮説がある。「人の思考というものが、言語を用いてなされているのであれば、思考は言語に影響され、異なる言語を用いる人との間では同じ認識を持つことができない」というものである。サピア=ウォーフの仮説という呼び名の方が有名かもしれない。  これには二つの仮説が含まれている。ひとつは「言語のない思考は存在しない」という仮説だが、これはその後の非言語的思考の研究により、成立しないとされている。もうひとつの「言語は人の思考に影響を与える」という仮説についてはさまざまな意見はあるものの、限定的ながら成立するという主張が一般的である。 人が頭の中でめぐらせている思考は、言語が違うからといって、お互いに理解しあえない、と言えるほどの大きな違いはないが、それでも、さまざまな認識に影響を与えているらしい、ということである。  同じことは組織においても言えるだろう。組織が違うからと言って、お互いに理解しあえない、とまでは言わないが、組織自体がそこに属する者の認識や行動に様々な影響を与えているのである。 例えば、経験も実績も豊富な中途入社社員が、新しい職場で本来のパフォーマンスを発揮できなかったり、ベテランらしからぬミステイクを犯したりすることがある。 これを単に新しい環境に適応できていないから、と片付けてしまうのは少々乱暴な気がする。  組織にはそれぞれ独自の価値観やポリシーがあり、同じ言葉でも違うニュアンスで使われていたりすることもある。業務フローやコミュニケーションのスタイルについても同様だ。これらはその組織固有の”言語”といってもいいだろう。 組織の言語が異なることにより、思考が影響を受ける。そして、その思考が行動にも影響する。しかもそれはほとんどの場合ネガティブな方向に作用するのである。 これは時間を置けば解決することもあるだろうが、放置することにより、メンタルへの影響、人材の流出にも繋がりかねない。  これを防ぐためには、組織の言語を誰もが理解している状態、かつ、新しくその組織に加わった者には、その言語を効率よく学習させるプロセスを用意することが必要だろう。 そのような環境を作り上げるうえで、人事の果たすべき責任は大きい。人事の役割は人事制度を作ることだけではない。経営戦略実現のための人材マネジメントこそが人事に課せられた使命であり、だからこそ、その制度が何のために、何を目指し、それをどのように実現するのか、誰もがわかる言葉で理解の浸透を図らなければならない。 それができてはじめて、組織の全員が力を結集するための方向性を示すことができるのであり、それこそが人の思考に影響力を持つ組織の言語となるのである。

理論中心アプローチのすすめ | その他

理論中心アプローチのすすめ

 理論に基づいて体系化された知識、方法を学問というが、企業の人事、人材育成の領域は、学問と呼べるほど成熟していないように思える。教育を行う側の講師やインストラクター、企業の人材育成担当者などは、人材育成のプロとして、教育学や学習心理学など、成人教育の理論について学んだ経験を持っているだろう。しかし、その他の社員については、おそらくそのような学習機会を持ったことはほとんどないに違いない。学ぶ側の人材はその背景にある理論を知らないまま業務知識やスキルを習得させられている可能性が高い。  少し前まで、スポーツの世界では精神論や根性論が幅を利かせていた。この本来の考え方は「苦労にめげず向上を目指せば、できなかったことができるようになる。そのためには努力が重要であり、努力を続けるためには根性が必要である」というものであり、これ自体は否定すべきものではない。だがこの考え方が行き過ぎた結果、無駄に長時間トレーニングを強いたり、誤った練習方法が故障の原因になったりするなど、多くの問題が指摘されることとなったのである。このような問題も、スポーツの理論が体系化されスポーツ医学や運動生理学が注目されるにしたがって、過去のものとなり、現在では、学校の部活動などでも理論に基づくトレーニングが行われようになっているのは周知のとおりである。  スポーツの世界では選手もトレーナーも理論を学び、理論に基づくトレーニングを実践することで結果を出していくというアプローチが当たり前になっているわけだが、企業の人材育成の現場はそうなっていない。教える側はさておき、学ぶ側に対して正しく理論を理解させようという意識が希薄に感じるのである。人材育成はもっと理論をベースとしたアプローチをとらなければならない。これは特に新入社員研修のカリキュラムを見るとそう感じることが多い。  まず第1に、学生から社会人へとシフトする際に、社会人としての学び方を学習する機会がない。新入社員研修のカリキュラムにはたいてい学生と社会人の違いを意識させる枠がある。確かに、学生から社会人への意識の転換は重要なテーマであり、うまく意識をシフトできない新入社員に先輩社員たちが苦労させられるのは毎年の恒例行事といってもよい。単に学生と社会人の立場や責任の違いを考えさせるだけでなく、もう一歩踏み込んで、オトナの学習というのがどのように為されるものかということを理論的に解説して欲しいものだ。  それには学習モデルの理論が役立つだろう。代表的なモデルとしては、「経験学習モデル」がある。OJT等で採用している企業も多いことだろう。このような学習モデルは教える側、学ぶ側の双方が、人材育成についての共通認識を持つためのツールとして非常に有効である。  また、新入社員は翌年には部分的にではあるが、学ぶ立場から人に教える立場になる。何かを教える際には、自分の経験をもとに教えてしまうことが多い。これがうまくはまる場合もあるが、逆効果となってしまったり、悪くすると組織としての教育計画を破綻させてしまう可能性すらある。したがって、経験を積んでいるときから理論を理解し、実践する機会を作ることが重要だ。  そのためには、学びの源泉である動機付けの理論が参考になるだろう。動機付けの理論とは、いわゆるモチベーションに関する理論である。代表的なものとしては、マズローの欲求段階説や、外発的/内発的動機づけの理論がある。  例えば、先輩社員から仕事の指示を受けたが、自分のやりたいこととギャップがあったとしても、自分なりに仕事に意味を持って取り組んだり、自身の成長課題として取り組むなど、自ら動機付けし、仕事をやり遂げたという経験の有無は、自分が仕事を指示したり教えたりする立場になった際に、大いに役立つに違いない。  ここまで新卒社員研修のケースを例に挙げてきたが、これは何も新卒社員の場合に限定されるものではない。階層別研修やリーダーシップ研修においても、理論は社会人としての正しい学び方を習得するための一助となるだろう。それは何もこれまでと違うことをやるというわけではなく、今実施している人材育成の施策に理論的な裏づけを与え、学ぶ側にも理解を求めるということである。  このような理論中心のアプローチが一般的になることで、企業の人材育成の領域は学問として成熟し、より具体的な育成成果が期待できるものになっていくだろう。

あふれかえるデータが判断力を鈍らせる | その他

あふれかえるデータが判断力を鈍らせる

 インターネットが普及し始めた1990年代後半からの情報技術の急速な発展が、職場環境や働き方をどれだけ変えてきたか、もはやネットのない世界なんて知らない世代もいるぐらいだから、遥か昔のことのように感じるが、たかだか20数年間のことだ。私たちは既に驚異的なレベルの働き方改革を体験してきているのだ。  情報技術の目覚ましい発展により、個人で大量の情報を容易に得られるようになった一方で、日常的に処理しきれないほどのデータにさらされるようになった。ビジネスパーソンは「何かを探す」という行動に年間に150時間もの時間を費やしているといわれているが、机の引き出しから資料を探したり、PCやファイルサーバのファイルやフォルダ、大量に貯まったメールなど、膨大なデータの中から必要なデータを探し出したりするのは、想像以上に仕事の生産性に悪影響を与えていると考えた方が良い。  人には意思決定を長時間繰り返すと判断の質が低下する「判断疲れ」という現象があることが知られている。スタンフォード大学のジョナサン・レバーブ教授らが、裁判所の仮釈放委員会の「服役中の囚人を仮釈放すべきか」という決断について分析を行った実験によると、午前の初めの方に審査した囚人に対しては仮釈放を認める率が高く、時間が経過するにしたがって仮釈放を認めなくなる傾向がみられるという。つまり、重大な判断を続けて行うことでエネルギーを使い、後半は「判断疲れ」に陥ったというわけである。この例ほどではないだろうが、探したり調べたり、という作業も取捨選択、判断を伴う作業であるから、長時間繰り返すことによって、判断の質の低下が生じることが想像できる。つまりビジネスにおいて、重要な判断をしなければならない者は、極力無駄な判断をしない、というのが合理的なのである。かのスティーブ・ジョブズも常に黒のタートルネックシャツを身に着けていたのは「今日は何を着るか」という選択に頭を使いたくなかったから、と言っていたのは有名な話だ。  人間の生物学的な特性を変えることはできない以上、企業はこのような付加価値を生まない時間を削減し、社員が判断力のレベルを維持しやすい職場環境を整備しなければならない。近い将来、業務システムで扱っているようなデータだけでなく、画像や音声、Web上の口コミ情報、メール、SNSのログといった、従来のシステムでは分析が難しかったような種類のデータも収集・蓄積し、利用者の目的に応じて処理をすることができるようなデータマネジメント基盤が整備されるようになる。分析、将来予測といった業務が人工知能に置き換わっていくことが予想されている中で、人は高度な判断力が求められるようになるだろう。先進的な企業はすでに、そのような取り組みを進めており、成果を出しつつある。まだ着手していない企業は、組織内の情報を整理、蓄積し活用するためのデータマネジメント基盤を整備することが急務なのである。  余談ではあるが、上述の仮釈放委員会の実験の結果から、上司へお伺いを立てたり、あるいは採用面接を受けたりするのであれば、できるだけ早い時間帯、できれば朝一番の方が、エネルギッシュな上司や面接官の好意的な判断を期待できるかもしれない。

演技力を鍛える | その他

演技力を鍛える

 管理職に求められる能力で重要なものはなにか?と問われたときに、実はこれが最も重要なのではないか、と常々思っている能力がある。それは「演技力」である。  子供のころに学芸会の演劇で、何かの役を演じたことがある方は、おそらく、本番で恥をかかないよう、一生懸命、台本のセリフを覚え、いかに間違えないように読めるか、ということに注力していたことだろう。そのため、”演技”というと、セリフを覚えて台本のとおりに振舞うことをイメージするかもしれないが、ここでいう”演技”とはもちろんそういうレベルのものではない。  演技においては、発声の仕方、表情の作り方、表現の仕方など、様々なスキルが求められるが、プロの俳優と我々のような素人では、まず役作りに対する力の入れ方が違う。台本を隅々まで読むのは当たり前。例えばドラマの刑事役であれば、自分が追っている事件は何か、捜査の状況はどうか、これまでの自分の仕事ぶりはどんなであったか、相棒はどんな性格の人物か、などなど、自分が演ずる人物の背景、現在どのような状況に置かれているか、を把握することから始める。そのうえで、どのような振る舞いをする人物なのか、詳細なイメージを作り上げるのである。必要であれば、取材もするし、時にはリアルさを追求するため、整形手術を行う俳優もいるほどだ。そこまで精緻にイメージすることで、その役にはまった演技ができるようになるのである。  この役作りのプロセスを見ると、実はビジネスの場において、我々も同じようなことをしていることがわかる。任命されている職位、役割を務めるためには、まず、その役割を深く理解しなければならない。自社は業種・業界ではどのような位置にあるのか、直近の売上はどうか、どのような課題があるか、課せられた業務の目的を理解した上で、どのような言動が求められているか、という役(人物像)を作り上げ、その役というフィルタを通して、物事を判断し行動するのだ。管理職に就く者は、役を務める能力、演技力が求められているのだ。  良い演技をするためには、周囲の協力も必要だ。自分の視点だけで役を作ったり、表現していたりしては、NGを出してしまう。俳優であれば監督、社員であれば上司や部下からの指摘(フィードバック)を受け、自身の役作りに反映し続けていくことで演技力は向上していく。さらに極めていくと、その役が憑依、あるいは融合するということが起る。映画やドラマの撮影が終わった後の「まだ役が抜けない」という俳優のコメントは、役を演じているうちに、その役が自分の一部になったことを示している。最初は意識しなければできなかったことが、自然と行動に移すことができるようになる。言い換えると、演技が実力になったとも言える。  よく、「立場が人を育てる」という言葉を聞くが、単に立場(役)を人に与えただけで、その人が成長するわけではない。その役に見合った人物になりたい、という本人の意思と、その役を演じる能力、すなわち演技力によってこそ、人は成長するのである。