©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

コラム

column
身銭を切る覚悟はあるか | その他

身銭を切る覚悟はあるか

 以前、IT企業にいた時の話しである。新卒採用の面接官を担当したことが何度かあった。一通りの質問を終え、最後に、何か質問はあるか、と問うと、様々な質問が返ってくるが、「御社の研修制度について教えてください。」と聞かれることがしばしばあった。  自分自身の成長を考えたときに、会社の研修制度というのは確かに重要な要素だ。学生が気になるのもよくわかる。少しでも充実していた方がよいと思うのも無理はない。しかし、少々引っかかるものがある。今の自分に知識・技術がなくても会社に入ってから、ちゃんと教えてもらえるかどうか、という点を気にしているように感じるのだ。  IT企業ということもあり、新卒採用とはいえ、コンピュータやネットワークに関する知識・スキルが求められるのは当然だが、意外なことに、全く知識を持たずに面接に臨んでくる学生もいる。平然と「これから勉強します。」というのには驚かされる。プロフェッショナルとしてのスタートはすでに始まっているということに気が付いていないのだろうか。  会社が用意している人材育成プランは、会社の戦略を実現するために必要な人材を育成することを目的としている。もちろん、新卒社員向けのカリキュラムを用意している企業は多いが、全くの初心者がそれだけでプロフェッショナルになれるものではない。足りないところは自分で何とかするという気概・覚悟が必要だ。  さて、そういう私もあるとき研修業務のマネージャーに任ぜられることとなり、ITエンジニアとしてのキャリアに区切りをつけ、人材育成にかかわる仕事に転身することとなった。  いざ、新しい仕事にとりかかってみると、圧倒的に知識が足りない。何がわからないのかがわからず、ただ目の前の作業をひたすらこなしている状態だ。  このままではまずい、と、外部の人材育成に関する研修プログラムに参加すべく、社長にお伺いを立てたのであるが、社長から返って来たのはただ一通のメールだった。どうやら私も面接に来た学生と同じことを考えていたようだ。仕事を甘く見ていたのは自分自身だった。 そこにはただ一言、「身銭を切る覚悟のない者は何事も身につかない」とあった。

シェアリングオフィスという選択肢 | その他

シェアリングオフィスという選択肢

『民泊』や一般ドライバーの自動車で目的地まで行く移動サービス等、大勢の人々がモノや場所を共有し、必要な時に必要な分利用する、という『シェアリング・エコノミー』は、オフィスワークをする場所にも広がりを見せていて、アメリカを中心に、所謂『コワーキング・スペース』を提供する企業の数が、ここ数年、拡大している。 『コワーキング・スペース』では、一般に、交通の便のよい場所に、セキュリティを確保したプライベートなオフィス空間やミーティングルームを提供すると共に、インターネット等の通信設備やプリンター、TV会議等のオフィス機器を備えている他、カフェ、軽食などリフレッシュメントや心身の健康増進のためのヨガ、瞑想スペースなども提供している他、利用者同士の勉強会など、交流をはかるイベントやセミナー等も開催される。また、同様の拠点を異なる地域に複数持ち、利用者は、その時々で最も都合のよい場所のスペースが利用できる。 フリーランサーやスタートアップ企業などを対象としたレンタルオフィスは、従来から存在していたが、シェアリングエコノミーが拡大する中、Fortune 500にランクインするような大企業の社員の間にも『コワーキング・スペース』の利用が徐々に広がっているようで、情報セキュリティに敏感なIT業界やコンサルティング業界の著名企業でも、『コワーキング・スペース』を利用する社員の数が相当数いると言う。 自社オフィスを持つ一定規模以上の企業の間でも、『コワーキング・スペース』の利用が広がっている背景として、遠隔地に居住している社員、あるいは、クライアント往訪や出張の多い社員が、わざわざ自社オフィスに立ち寄るよりも出先の近くにあるコワーキングスペースで仕事をした方が、無駄な移動時間を節約でき、生産性の向上は図れるという事がある。 また、『コワーキング・スペース』を活用することで、同じスペースを利用する社外人材との交流を通じ、社内では得られない情報や刺激が得られる可能性が広がることを指摘する声もある。毎日、自社オフィスでいつもの同僚と、同じような視点の会話をしているよりも、様々なタイプの社外人材の間で働くことで、よい刺激が生じ、新たな知識の習得やアイデアの創出にポジティブに作用することは想像できる。社員の成長を促すために兼業を解禁する企業もぼつぼつ増えはじめているが、『コワーキング・スペース』の活用の広がりも、そうした考えに通じるところもあるのだろう。 少し前までは、こういう話を企業の人事と話すと、『オフィス以外の仕事場として検討するのは、せいぜい在宅勤務ぐらいで、他社は知らぬが、当社の文化や状況では、『コワーキング・スペース』の利用は到底、考えられない。』と言ったレスポンスが返ってくることは多かった。 だが、最近は、従来の常識や前例にとらわれず、ゼロベースで、本質的な議論をしたいという企業が増えて来ているように感じる。 働き方改革が進行とともに、各企業が労働時間削減や生産性向上の実現に向けて、検討はしているものの、効果的な施策を打ち出せている企業は、まだ数少ない。従来までの価値観や常識の延長線上で、よい施策を見つけるというのは、土台無理だという認識が広まりつつあるようにも感じる。 『最も生産性が高まる働く場所はどこか?』という問いに真摯に向き合っていく中で、自社オフィスでも自宅でもなく、『コワーキング・スペース』の活用が、人事パフォーマンス向上の一つの有効なアプローチとなる企業は少なからずあるような気がするし、この事に限らず、常識や前提をまず否定して、ゼロベースで議論を始めないと改革は進めることは難しい。

テレワークの落とし穴 | その他

テレワークの落とし穴

働き方改革一連の施策としてテレワークを導入する企業が増えている。 テレワークとは、情報通信技術を活用した、時間や場所にとらわれない柔軟な働き方で、Tele(遠く離れた)+Work(仕事)の造語である。TelephoneやTelevisionと同じ使い方だ。 テレワークには「雇用型」「自営型」「在宅」に分類される就業形態があり、環境負荷への軽減や企業変革の促進、そしてワークライフバランス向上等の効果があると言われている。 この在宅テレワークを導入した会社があり、導入の際に様々な問題が出たことを聞く機会があった。 この会社は、まず時期を定めてテレワークを導入するステップを定めた。その後プロジェクトチームを発足させ、その目的を明確にし、対象部署を決定していく。 その過程の中で、なぜ会社に出勤するのだろうという理由を挙げて、それを解消することが一番の近道と考えた。理由としては、会社に自席があるから、会議があるから、資料があるから、仲間がいるから、働いている実感があるから等々が並んだ。 それを解消すべくインフラも整え、テレワークをスタートさせようとした際に大事なことを忘れていた。 「テレワークで具体的に何の業務をさせれば良いのか」だ。部課長が揃って何となく考えていたが、結局ルーティン業務しか思いつかない。なぜなら部課長は一度もテレワークを体験していなかったのだ。 結局、テレワークを実際にする社員に何をするのかを考えさせ、周りに宣言させることで仕事の内容は決まった。 次に人事考課だ。人事考課は公平さが要求されることはもちろんだが、部下一人ひとりの仕事ぶりや人間性を的確に把握、洞察する眼が欠かせない。テレワークすることで、日頃の部下の仕事能力、行動力、長所や短所をきっちりとつかまえていないことから起きる考課ミスのケースが出てきたのだ。これは単なるコミュニケーション不足では済まされない、歪んだ主観がまかり通るような低次元の考課レベルに戻ってしまったと再度評価について教育をする必要があるだろう。 人事考課で部下を査定することは自分を査定することだ、いかなる環境下でも自分が部下をどう指導し、育成したかが問われているのだと。 テレワークは今後も普及していくことだろう。それには管理職のマネジメントスタイルの転換が不可欠だ。 慣れ親しんだ目で見える管理手法から、離れた場所でも適切かつ効果的なマネジメントが求められる。 テレワークをすることによって評価が下がったり、あるいはマミートラックに陥るようだと部下はたまったものじゃない。こういった評価がまかり通るようでは職場も有能な人材も壊してしまう。 ぜひ他山の石としたいものだ。 以上

組織の病理 | その他

組織の病理

 仕事はすごく面白いのに、会社が嫌で嫌でたまらない。なぜか、そんな愚痴を聞くことが多い。民間企業から公益法人まで所属は様々で、また年齢も異なる複数の知人たちが口を揃えるから、経験やキャリアの違いに帰着させられないことなのだろう。何がそんなに嫌かと聞けば、状況は異なるものの要は人間関係が耐えられないという。  まず多いのは、上司の問題。感情的、場当たり的、パワハラ的、ただのヒラメ、あるいは、とにかく無能。と表現は様々なれど、言っていることは一つだ。まず自分で判断をしない、また判断したとしても間違った判断をする。組織視点からの判断業務をするのが管理職だから、つまりは管理職としての役割を果たしていない。加えてなによりも、それで仕事上支障があるからたまらないというのだ。  ユーザーや顧客にサービスを提供するなかで、やりがいや使命感、手ごたえを得て、自分は仕事をしている(=だから仕事は面白い)のに、ダメな上司との不毛なやり取りがその邪魔をする(=だから会社は嫌だ)。あるべき問題意識や意義、責任感が共有されない上司(あるいは同僚、部下)とのやりとりに辟易し、それが、せっかくやりがいのある仕事そのものを棄損するようにすら感じさせるのである。  サービスや事業の目的は、ユーザーや顧客やあるいは社会に対して役に立つことである。民間企業ならそれによって収益を得、公益法人なら役立つこと自体が存在理由である。だから、上司や同僚がそもそも論を逸脱して平然とおかしな判断や判断停止をすると、「おめえら、なんのための仕事かわかってんのか!」とさけびたくなる。仕事に真摯に向かい合っているからこその、上司その他へのいらだちともいえるのだろう。  ひとりの人間という能力限界を超えて、より大きな働きかけを社会に対してなすために「組織」は生まれた。機能として分業し、統制することで組織力は高まるはずなのに、同時に、異なる志向や想いや価値観をもつ人間の集団ゆえの軋轢もあわせもつ。それが、組織目的、つまりなんのための仕事か、ということに関わる齟齬であればあるほど、モチベーション低下や場合によってはメンタル失調に結果するのではないか。  もしかすると、事業や仕事の目的を意識するかしないか、の違いは結局、就労価値観の違いに帰着するのかもしれない。自分の時間を売って生活費を稼ぐのか、やりがいのある面白い仕事をしたいのか。手段としての労働と目的としての労働の違いである。価値観はそれぞれだから、どちらが良いということもない。ゆえに、その混在から起こる組織の病理なのだとしたら、いかんともしがたい。せいぜいが、ビジョンや理念の徹底した組織浸透、バリュー評価の活用による行動制御により、最低限の管理職役割として「何のための仕事か」との反芻を判断や業務指示の原理にせよと教え込むことぐらいしかできないだろう。  かくて、このような愚痴に対しては、こう答えることにしている。仕事が楽しいのに組織が嫌になる、ではなくて、嫌なことがあるからこそ仕事の楽しさが一層輝くんじゃないの。それがコインの裏表のようにいつもセットなっていて味わえるのだから、幸せだよねー。その人たちには、決して味わえない労働の快楽なんだから。

トイレの張り紙 | その他

トイレの張り紙

 クライアントや営業先の会社に訪問する時によくトイレを拝借します。特に初訪のクライアントでは意識的にトイレを拝借するようにしていると言っても過言ではありません。 “いつもきれいに使っていただきありがとうございます” トイレにこのような張り紙があったりします。この張り紙はとても好感が持てます。会社と社員の関係が良好な関係であると感じるからです。社員もトイレをきれいに使っているし、そういう社員に対して感謝をする会社側という関係は高い信頼レベルにあると思うからです。このような会社の管理部門は、管理レベルが高く、社員に対するケアを常に意識しているのだろうと。  “タバコはご遠慮ください”このような張り紙も目にします。このメッセージは、管理部門が社員に強く言えないのではないかと勘ぐってしまいます。本当は禁止したいのだが、禁止と強く言えない立場の弱さの表れかと疑ってしまいます。もしかしたら管理部門が営業や製造部門などの直接部門に比較して弱い立場なのかと。人の採用や配置に対して直接部門が権限を持っている、評価が部門によってばらついている、昇格などが公平ではない、このような状況にストレートに意見を言えない情景を想像してしまうのです。  もっとも警戒するメッセージは次のようなものです。“タバコは吸えないことになっております”このメッセージは危険だと感じます。会社の施設を管理する管理部門が、自分の意志で禁止していないのです。誰かほかの人が決めたルールを伝えているのであり、自らの意思を感じません。“人事考課は公平に行うことになっております”と人事部が言ったら顰蹙(ひんしゅく)を買います。自分の責任でしっかり管理しろと言われそうです。他責、他動的なのです。この後のミーティングに出席する管理部門、人事部門は、主体的に管理をしないのではないかと心配するのです。  会社や社員がよりよい状態になるために管理部門、人事部門はいろいろ考え、さまざまな施策を実施します。新しいことをやるにはそれなりの社内の抵抗などもあるでしょう。このような抵抗を乗り越えて自分の責任で施策を実行してこそ成果が上がります。そのような姿勢と“吸えないことになっております”の姿勢にギャップを感じるのです。  トイレの張り紙を見て、管理部門、人事部門の姿勢を推測し、会議に向かうことがたびたびあります。張り紙と管理部門、人事部門の姿勢にどの程度の関係性があるかは統計的にわかりませんが、“吸えないことになっております”を見ると、実は疑いながら会議に出ています。 以上

練習時間が足りない | その他

練習時間が足りない

以前、あるIT企業の経営者からこんな話を聞いたことがある。 「職場とは成果を上げる場であって、練習をする場ではない。スポーツでいえば、試合をする場なのだから、自分の実力が足りなければ、試合に臨む前に自ら練習し、腕を磨いておくものだ」 新しい技術が次々に生まれるIT業界特有の事情もあるかもしれないが、勝つか負けるか、という競争の中で、勉強、練習のつもりで仕事に取り組むというのは、端から勝負を捨てているようなものだ。そのような社員を見れば、苦言を呈したくなるのも無理はないだろう。 一方、社員の側からは、「ではいつ練習をしたらよいのか?」という声もあった。1日8時間の勤務時間、休憩や残業も含めると10時間以上職場に拘束される。さらに、通勤時間、食事や家事、育児など、生活に必要な時間、それに睡眠時間を考慮すると、時間は幾ばくも残らない。仕事以外の時間で練習をする、というのがそもそも現実的ではない、自身のスキルを高める時間的、精神的余裕のないまま、日々の仕事に忙殺されているというのである。 もちろん、そのような職場環境であっても、プライベートの時間を削って、自ら学習、スキルの習得に余念のない社員もいるし、自分の能力が足りなければ長時間の残業も厭わず仕事をやり切り、その中で必要な知識やスキルを得るという社員もいる。しかし、誰もがこのような働き方ができるわけではない。世の中の流れから言って就業時間外の練習を強制することもできないだろう。結果的に、仕事の練習が足りていない社員が増えていくのである。 社員一人一人の実力を上げ、職場での成果を上げるためには練習が必要だが、就業時間外の練習は強制できない、というのであれば、もはや試合時間を短くするしかない。その時間で自主的な学習を促すということを検討しなければならないだろう。 これにはさすがに”甘い”という意見もあるかもしれない。しかし、現在の1日8時間という労働時間の取り決めは、1919年の国際労働機関の採択が根拠となっており、100年も前の労働生産性についての研究がベースになっているものだ。その当時とは、社会情勢、職場環境も全く異なる現代社会において、1日8時間という就業時間にこだわらなくてもよいのではないだろうか。

これでだめなら・・・ | その他

これでだめなら・・・

これは実際の会社の例である この会社は、従業員3,000名規模で北は札幌から南は福岡まで複数の拠点がある会社だ。 当時、人事評価を刷新するということで、MBO(Management By Objectives)を取り入れたが、その運用に悩んでいた。MBOの導入時には、この制度は働く社員一人一人に力を存分に発揮してもらうための仕組みであり、単純に評価で賃金格差をつけるための仕組ではないと、何度も社員説明会を開いて、何とか理解を得たように見えた。 実際の運用に入ったところ、期初の目標設定のレベルがひどかった。目標に具体性はなく、何となくやっつけで思いついた目標が並び、それを上司も黙認するようなケースが多かった。その上、MBOシートの提出期限すら守られない。組合には、この人事評価の仕組みは個人別にノルマを課せられる“やらされ感”満載のもので、シラけてしまうという意見も届いた。 やはり制度の浸透には時間がかかるのだろうと、まずは期初の目標設定について研修を行った。これは一般社員だけでなく、管理職も入れて拠点別に何度も実施して、レベルの向上を図った。それでも一向にレベルの向上が見られなかった。社風的に馴染まないのか、それとも導入のステップを間違えていたのか、組合とも協議を重ね、これでだめならMBOをやめようかとも思ったそうだ。 最後に取った施策は、全従業員のMBOシートの開示だ。前出の通り、この会社は全国6拠点あり、それを社内イントラでつないでいるので、各拠点ごとにMBOフォルダを作り、そこに個人別のシートをPDFで掲載し、だれでも閲覧できるようにしたのだ。 そうすると、今まで何度も研修を実施してもレベル向上しなかった内容が一気に改善した。 目標は具体的になり、遅れ気味であった提出期限も守られるようになった。 半期が終了し、実績も加わり、それも開示した。シート内に評価者からのコメントを記入する箇所があるが、今までは一次評価者からはせいぜい2.3行だけで、二次評価者からは左に同じなどのコメントしかなかったものが、枠いっぱいにコメントされるようになったのだ。 自分以外の3,000人に閲覧されるという緊張感が奏功したと考えてよいだろう。 MBOの目的は、会社からと社員からの両面を持っている。この両面から目標管理の目的をきっちりと認識し、お互いの目的が達成されるように運用されなければならない。 会社としては、経営計画や短期目標を達成するために部門や個人が具体的にどの様な目標を立て、何をするのかを決めて、経営計画の達成をする仕組みになっていることを望む。 一方、社員としては業績目標やその役割を通じて自分自身が成長していくための仕組みであることが望まれる。業績目標達成のために何をすればよいのか、何を身につければよいのか、自身と向き合うとともに、上司からのアドバイスを受けながら、いかに成長していけるかがポイントになる。 様々な会社で話を聞くと、これがうまく機能していない会社が多いように見受けられる。 紹介した会社の例は、目標設定時から全社を巻き込んで機能させた、ある意味荒ワザかも知れないが、参考にしてはどうだろうか。 以上

CSRの効用 | その他

CSRの効用

 そういえば、メセナという言葉はとんと聞かなくなった。企業の社会貢献が騒がれた時代、メセナ、メセナと騒がれ、採用面接に臨む学生たちがこぞって「御社のメセナ活動は~~~」といった質問を用意したのは、1990年代のこと。同じく社会貢献という意味では、フィランソロピーという言葉もあったが、メセナはとくに、文化・芸術活動支援を指すの一般的だった。  結局のところ、社会貢献活動としてはパトロネージや文化施設投資、あるいはスポンサードといった企業PR的印象にとどまり、バブル崩壊後の企業リストラクチャリングのなかで、いつしか影が薄くなっていったのだった。そもそも企業は、ステークフォルダーズとの関係のなかに存立するから、その社会性が厳しく問われる。文化支援という社会への利益還元も価値あることだが、それ以前に果たすべき社会的責任があるということを考えれば、メセナ偏重が下火になるのは当然ともいえる。  現在ではまさにその社会的責任が、企業の継続的発展(=サステナビリティ)の要件として取り沙汰され、CSRという言葉が定着している。地球環境ヘの配慮、遵法の徹底、企業倫理の維持、よき市民たる企業行動等々、があたりまえのように謳われ、宣言され、内部評価基準としても浸透してきた。ただこれらは、「守りのCSR」であり、それがなされたうえで、「攻めのCSR」こそがこれからは必要だとされている。  攻めのCSRとは、「本業を通じてのCSR」を意味する。ふつうに考えれば、社会的責任を果たすための活動(=守りのCSR)はコストである。フリードマンが批判したようなCSR=フィランソロピーとみての不要コストではなく、企業の存立と継続のための必要コストではあるが、コストであるかぎり利潤とトレードオフである。だからこそ、CSR投資が業績向上をもたらすか否か、といったあたかも広告費的投資とみるような議論がでてきたりもする。攻めのCSRとは、そうではなくて、企業が利潤をうる事業そのものが、社会に対して貢献しているということだ。  よく例に挙げられる住友化学のマラリア感染予防事業では、現地での雇用創出や教育による地域支援を行っていることもさることながら、その中心となる事業そのものがアフリカの人々の命を守る結果となっている。要は、攻めのCSRとは、事業を通じて、社会をよりよくすること(=社会革新)に関わる。もともと企業は、社会に対してなんらかの付加価値を提供して対価を得ているわけだから、社会革新につながる付加価値を創出せよ、ということである。  そこまですべての企業活動に要請すべきか、という議論はあるだろう。フリードマンならずとも、対株主の企業価値を追求するだけでも社会構成単位としての企業の役割は十分に果たしているといえるかもしれない。しかし、企業=人が働く場という観点からは、攻めのCSRへの挑戦は避けて通れないのではないか。  あらゆる業種業態でのAIの急速な実用化やRPA(=Robotic Process Automation)のインパクトは、労働の質を変える。「作業」は人の手をはなれ、高度な判断や思考や創造という「仕事」が労働者に問われる。それは、労働主体である人の側からすれば、役務としての労働ではなく、労働そのもの意義や意味、労働そのものの面白さのための労働という側面が強調されてくるはずだ。そうでなければ、やっていられないから。  そうしたシビアで創造的な仕事のやりがいの源泉はなにか。このコラムでも何度か書いてきたように、組織の構成員のモチベーションを高め、成果達成を促し、様々なアイディアややり方創出を喚起するものは、目の前の業務の「目的」である。つまり、組織の「目的」である。とすれば、社会をよりよくするために何をなし利潤をうるのか、という自社の事業アイデンティティが、自社の構成員を動機付け業務に邁進させる最大のドライバーとなるはずだからである。

景気回復基調の中で | その他

景気回復基調の中で

先月発表された、我が国の今年4月~6月期のGDP(一次速報値)は、年率4%の上昇で、11年ぶりの6四半期連続のプラス成長となった。人事コンサルティングの現場においても、この景気回復基調の流れに沿って、『採用強化』と『生産性・付加価値向上』に関する議論が活発にされている。 景気回復による業容拡大に対応するため『採用強化』が、人事の最優先課題となっている企業も多く、採用競争力を高めるため、賃金アップを検討する声もよく聞かれるようになった。 賃金アップをすれば、その分、人件費が上昇するので、経営判断は慎重にならざるを得ないところだが、現状の採用難の中で、背に腹は替えられず、賃金アップを前提とした人事制度設計に取り組む企業の数も増え始めているというのが実感だ。 もうひとつ、最近の主要な課題は、『生産性・付加価値向上』である。このテーマは、従前より長く議論されてきたものではあるが、業務の進め方や社員の取組み姿勢など根本的な領域にメスを入れざるを得ない話であり、その実現には相応の時間と経営のコミットメントが必要な事から、結局、本格的な着手には至らぬまま、集合研修等、表面的な施策に終始して、道半ばで、お茶を濁してきてしまった企業も少なくない。 ただ、そのツケは、しっかり回ってきている。 今更言うまでもないが、バブル期の頃、米国の3分の2程度の水準まで届いていた我が国のGDPは、いまや米国の4分の1の水準程度で落ち着いている。我が国のGDPや生産性も、一定の成長はしているものの、他の主要国の成長率からすれば、ゆっくりとしたスピードであり、その結果、国民全体が生み出す価値のボリュームは世界の中で、相対的にずいぶん、縮んでしまった感がある。 こうした状況にも関わらず、内閣府が先日、公表した「国民生活に関する世論調査」では、現在の生活について過去最高の計73.9%が「満足」または「まあ満足」と回答したとの事。そんなニュースを聞くと、我が国の国民の総意として、『控えめな成長で十分』と考えていると捉えた方がよいのかも知れない。 企業も、今までは、控えめな成長を志向する国民性を前にして、生産性や付加価値向上にむけて、大掛かりな手術や大胆な改革を後回しにしてきたのかも知れないが、最近の議論の盛り上がりは、さすがに、そうはいかないと肌で感じているからなのではないか。 働き方改革が進行し、生産性の低さを労働時間でカバーする事は、もうできない。さらに、採用競争力確保のために賃金が上がり、労働時間だけが減少していくようなことになれば・・・。企業業績がまだ順調な今のうちに、組織の生産性・付加価値向上にむけた改革に取り組もうと考える企業経営者が増えているのも当然の事なのだろう。

沈黙のインタビュアー | その他

沈黙のインタビュアー

 若い頃、ビジネス誌の記者をやったことがある。日々、多種多様な企業関係者への取材、つまり話を聞くことが仕事だった。話すほうも誇らしいような出来事なら、気持ちの良いインタビューとなるわけだが、時には話したくないことを無理やり聞き出さなければならないことがある。  例えば、極秘に進めたい提携や買収の真偽や進捗、あるいは不祥事など、隠しておきたいことだからこそ、こちらとしては記事にしたい。でも当事者は絶対に口にしたくない。そこでさまざまなインタビューのワザが駆使されることになる。  Aという会社が、異業種のB社を買収しようとしているらしい。それを推察しうる情報はいろいろつかんだが、この段階で記事してしまってよいものか。確証がほしい。そのために、まずは、まったく関係のないテーマでA社の社長にインタビューを申し込む。もちろんそのテーマは同社にとって広報的にメリットあるものをしつらえるから、取材OKとなる。  さて、つつがなくインタビューが終了する。ありがとうございました、と言って、テープレコーダーのスイッチをカチッと切る。一呼吸おいて、世間話のように社長にこう投げかける。 「そういえば、B社の買収はもうすみました?」 「いや、まだ、だけど、、、」  さすがに社長はすぐ口をつぐんだけれども、しっかりと確認ができた。翌日には、買収スクープ記事が紙面をかざったのだった。  こうした「不意の問い」は常套手段で、業界トップが集うパーティがあれば、カメラマンを連れて潜入し、撮影のお願いをしながら、「英国X社との提携は調印された・・・」「Y社の株式はどれくらい取得され・・・」「例の係争について次はどんな・・・」などと囁いたりしたものだった。もちろん胸にはピンマイクを潜ませて。  しかし、この方法は騙し打ちめいた荒技で、さすがに行儀のよいものではない。やはり正攻法は、話したくないその問題を堂々と問い、答えを得ることである。その原理は、意外と単純なもので、ひたすら「WHY?」と問い続けるのだ。クレバーで論理的な人物ほど、これには弱い。真実を隠そうとして理屈に合わないことを言い続けるのは苦しくてできないのだ。  そして最大のポイントは、「WHY?」と問うたら、その後沈黙することである。聞かれたほうは、すぐに答えられない(=答えてはまずい)から一瞬黙る。それをこちらも黙ってじっと待つのだ。決して言葉を重ねたり、問いを言い変えてはいけない。ただただ黙って待つ。多くの人は沈黙が我慢できずに、なんらか口にしてしまう。その言葉に対して、さらに「WHY?」を問えばよいのだ。とくにこの「沈黙のインタビュアー」は、電話取材でパフォーマンスを最大限に発揮する。電話での沈黙に耐えられる人はまずいないからである。  たとえば、取材先から記事に関する抗議の電話がかかってきたとする。「なんだあの記事は!? 大迷惑だ!」との怒りの声に対して、何はともあれまずは、録音ON。丁重に聞きつつも「WHY?」と「沈黙」をフルに駆使する。なぜ、どのように、困るかを聞いていけば、おのずと、そこから新しい情報が聞き出せるのだ。しかも抗議だから言い募りがちで、沈黙という呼び水がひときわ効く。で、その情報をもとに、首尾よく、また記事にするといった具合である。  「WHY?」と問う有効性は、質問技法としてよく知られる。顧客との営業局面でも部下との評価面談で役立つものだ。加えて、沈黙のインタビュアーに扮すると、さらに効果的な場合もあるからワザとして覚えておいて損はない。ただその場合、注意すべきは、その人が今ここで「インタビューに応じる」あるいは「なにか話をする」ということ自体が、前提として合意されていなければならないということだ。  当たり前だが、電話セールスでいきなり架電してきた側が、「え、ご興味ない? なぜですか?」とかいって沈黙してたら、ただちに電話切られるに決まっている。忙しい上司を捕まえて、何かを聞き出そうとするときも、もちろん、やめたほうがいい。

自主的ワークホリック | その他

自主的ワークホリック

かつて日本型経営スタイルがもてはやされた時代があった。 この日本型での課長は、仕事上、上司に楽をしてもらい、部下を鍛えて、自分が将来楽をするために、10年・20年後の会社をしっかりとつくる種まきをする。そして最後はゆっくりと自分も楽をさせてもらうということだった。 この循環が順送りにうまく機能していれば良かったが、経営環境の変化に伴い、それまでと打って変わって欧米流の経営手法を導入した。その最たるものが業績主義だが、これが導入されてからはしきりに改革が叫ばれるようになった。 会社の改革を進めていく際、部長よりも課長にプランを練らせるという会社がある。なぜなら、ベテランの管理職だけで立案しても、せいぜい5.6年程度のタームでしか考えてないからだという。 また、ベテランが会社を去った後で、かわりに着任した人が責任を取って賞与や報酬をカットされるような事態を防ぐためだという。 欧米型経営に目を向ければ、会社の計画は経営からのトップダウンが多いものの、経営層は退職金の長期後払いや、業績比例後払い制度があって、結果辞めた後でも業績に責任を負うことになる。 この会社は、かつての日本型のように立案者である課長が在職中に将来を見据えてステップアップしながら責任を全うして欲しいということだ。 一方、現代の中間管理職である課長は、ワークホリックの典型のように言われ、長時間労働で休暇も少ないと言われているが、果たして本当だろうか。 実際は自分が納得するまで資料を作成したいとか、知識を学びたいとか、自分の判断でやっている部分が多いのではないだろうか。 同じ長時間労働をホワイトカラーとブルーカラーを一律に論じることができない。労働集約型であるブルーカラーの労働時間は時間管理として決められており、個人が勝手に残業することは許されない。その日の残業時間は作業の進行状況を見て、上司である作業長や工場長が決定する。 それに対し、ホワイトカラーの労働は資料作りでも調べていくうちに様々なことが分かってきて、今度使えるなとか、こんなこともあるのかと際限がない。また、PCを駆使してレポートを作成したり電卓をたたいたり、仕事に興味を持ち始めて没頭しだすと切りがなくなるのだ。 長労働時間はたしかに体に負荷がかかるだろうし、今は「働き方改革」で業務の効率化とか残業時間削減の工夫を考えなければならないが、自分のための勉強と仕事が渾然一体になったようなことをしていると、 自分自身にとっても後々で応用がきく。課長は個人の知識の幅を広げていけばいいわけで、あくまで自分の自主性を大切にすることが大事だ。 ただ、自分の部下が長時間労働をしているときは、その理由について見極めたい。上席に説明するための膨大な資料作りに忙殺されているのか、それとも個人が創造的にさらに突っ込んで調べたいと思って、時間をかけて一生懸命考えてやっているのか。そこを良く見て仕事のメリハリをつけさせるのも課長の大きな役割だろう。 以上

悪い報告 | その他

悪い報告

 変化の激しく、スピードの早い環境下では、想定しないことが起こりがちである。製品やサービスの寿命が短くなり、新しいマーケティング手法が発達し、システム化、業務改善などでコストが大幅に下がり、労働市場の発達で社員の流動化が促進される。このような環境であるため、今までの勝ちパターンはすぐに通用しなくなってしまう。常に環境をウオッチし、現在のビジネスモデルが正しいかを問い直すことを習慣化することが重要だ。今のモデルに既に問題があったり、将来にリスクを抱えるのであれば、それを解消するために直ちに新たなモデルを考え、生み出さなくてはならない。  変化が激しいということは、想定しないことが頻繁におこるということである。成功パターンは長くは続かないため、常に新たなパターンを考えなくてはならない。今まで受注できた仕事が受注できなくなる、単価が大幅に安くなる、新たな競争相手が出現する、コストが高くなる、担当する社員がいなくなるなど様々な問題が次々に発生する。  優秀なビジネスマンは“失敗”を糧にするタイプである。失敗はさまざまなことを教えてくれる。極めて貴重な情報である。失敗の原因を検証し対策を打てば、今後は失敗しなくなる。失敗の本質を理解しスピーディーに効果的な対策を打てるビジネスマンが求められる。このような人材は経験したことがないからわからないとは決して言わない。むしろ経験していないことに遭遇することが普通と考えているのだ。さらには想定しないことに遭遇することを楽しみにすら感じるのだ。近年企業においての社員の優秀性は、だいぶ変容してきていると感じる。  優秀だと思っているビジネスマンほど失敗を隠しがちである。失敗をすることは自分の価値、評価を下げると思っているからだ。しかし変化する環境下では失敗ほど貴重な情報はない。この貴重な失敗情報を正確に把握し、検証分析し、二度と失敗しないように対策を立てる能力やスタンスが今後の優秀さの基準になるだろう。  企業は組織で運営されているので、個人が遭遇した失敗は一個人の努力で解消できるものではないことが多い。そのため失敗情報をタイムリーに関係者に共有することも極めて重要である。失敗を堂々と社内で報告することが優秀さなのである。企業という組織にとっても悪い報告ほど示唆に富みかつ貴重なものである。経営する側も貴重な失敗情報、悪い情報を得ることが非常に重要であるということを、もっと強く認識する必要がある。社員に求める能力も、“よい失敗をする”、“悪い情報を経営資源にできる”“失敗の経験を成功につなげる”などが必須となるのだ。  優秀な社員は良い成果を出すことはよくわかっている。しかし変化する環境で良い成果を出し続けるためには、自分の失敗を積極的に公表する行動が必要である。経営としてはよい情報は歓迎すべきであるが、良質な“悪い報告”を大事にするスタンスが必要だということだ。 以上