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林 明文

column
密室の実力主義 | その他

密室の実力主義

 社員の人事制度に“実力”“成果”度合いを強める流れは、今後も強くなっていくだろう。実力、成果主義的な人事制度は、今までよりもより多くの“差”を生み出すことになる。この差は単純に単年度の賞与だけではなく、中長期の昇格のスピードにも表れる。入社して定年を迎えるまで、優秀な成果を出しかつ早く昇格する社員とその逆の社員では生涯の収入差がさらに大きくなる。この差はしばらくすると、成果が普通以上の社員のモチベーションを向上させ、成果の低い社員のモチベーションを今までよりも下げることが顕著になってくる。社員にとっては会社に在籍し続けるか否かも含めて、自己の評価とその結果の処遇は、今までに比較にならないくらい大きな意味を持つ。経営としての狙いは、“信賞必罰”によって、結果として全体のパフォーマンスを向上させるということである。実際には成果の低い社員のモチベーション低下の分を、普通以上の社員に傾斜配分することによって、これが実現するということだ。  この“差”を生み出す人事管理が適正に機能するためには、“成果”と“処遇”の関係が社内で十分な納得性を持って認知されなくてはならない。これだけ大きい“差”を作るのであるから、社員からするとわかりやすく納得できるものでなくてはならない。ルールが明示されていることと、そのルール通りに運用され、それが社員に“適正”であると感じさせなくてはならない。適正に評価を行い、適正な処遇を実現するためには、いくつかの大きな障壁がある。その最大のものは、“結果の公開“であろう。実力、成果主義と標榜するからには、評価とその結果の処遇が自分だけでなく他の社員も含めてわかりやすく公開されることだ。スポーツの世界は非常にわかりやすく、当年度の成績によって査定され、次年度の年俸が決まる。成績によって年俸の増減や額がわかるというオープンな世界である。このような公開された世界では査定そのものや処遇への反映の妥当性が常に衆目にさらされることになる。そのため査定する側も、適正に評価する圧力がかかるのだ。  現在の日本企業の“成果・実力主義”は“密室”で行われている。確かに自分の評価とその結果としての処遇は上司から伝えられるが、他の社員の評価や処遇については全く公開されておらずわからない状態である。自分の評価はわかるが、それが全体の中での位置づけや特定の他の社員と比較したときに妥当性があるかを検証する術がない。成果・実力で処遇すると言っておきながら、情報の公開が十分でないため、制度本来の機能が発揮されていないのではないか。この情報の公開の壁を何らかの形で乗り越えなければ、本当の成果・実力主義とは言えないだろう。 以上

描写 | その他

描写

 3年ほど前ある情報システムの企業に訪問しました。訪問したタイミングは新しい人事制度を導入した1年後くらいでした。制度を導入したのですが、効果が実感できないということです。 この企業は顧客からシステム開発を受注する企業であり、業績は大きな成長はないものの、大口の顧客からの安定した受注で堅調でした。しかし新任の社長はより高い成長を目指す方針で、既存の顧客だけでなく、新しい顧客の開拓に力を注ぐということになったそうです。既存の顧客に対するシステム設計開発、運用のノウハウは、他の企業に対しても展開が可能なもので、十分に競合優位性があると判断しています。そのために“ソリューション営業部”という新設の部を設置して、新たな顧客開拓に着手しました。また長らく大口の顧客からの安定した受注があったため、社員の意識も、常に新しいビジネスチャンスを考え新たな顧客開拓を積極的に行うというものではありません。新社長はこの社内の雰囲気、風土、社員の意識を変えることが重要と考え、15年ぶりに人事制度の改定を進めたということです。 この企業の人事制度改革がうまくいかなかったのは、新しい人事制度が、実際の企業のビジネスモデルを忠実に“描写”していないことであると思われます。新たな制度は非常にきれいにできていました。人事の方針として、“新たなビジネスを自律的に創出する人材”を掲げ、“常に環境変化に対応してビジネスを本質的に考える”“失敗しても積極的にチャレンジする”という文言が並んでいます。  実際にこの企業ではビジネスのほとんど大半が、既存顧客からの受注であり、この顧客に対する安定したサービス提供に大半の社員が関与しています。確かに既存顧客に対しても、顧客リレーションを強化したり、周辺システムへの積極的な提案などを行えば、売上の伸長はあるかもしれませんが、それでもこのようなアカウントマネジメント的業務はほんの一部の社員しか関わりません。大半の社員にとって重要なのは、顧客に対し既存の得意分野で誠実、柔軟に対応するマインドやスキルなのです。新たな“ソリューション営業”は今までのビジネスのモデルとは大きく異なります。新たなサービスや新たな顧客を開拓するのは、現在のビジネスを安定して行うことと全く異なるマインドやスキルが求められますが、全体としてはほんの一部なのです。 単純に言えばほんの少数の社員に対する意識や能力の在り方を、全体の人事制度の中心に据えたことが、実態と合わない制度となってしまった最大の原因でした。既存のビジネスを担当している社員に対して、“失敗を恐れずにチャレンジ”であるとか“常に新しいビジネスの創造”、“自律的に行動している”という評価をしようとしても、まったく現実とかけ離れているということです。大半の社員にとっては、失敗は致命的ですし、新しいビジネスネタを探すのではなく目の前のサービスに注力するべきですし、過度に“自律的”である必要はないのです。実態と遊離した考え方で処遇されることに構造的な問題があるのです。 人事制度で美辞麗句が並んでいるものには、現実と遊離しているコンセプト先行で作られているものが多いと感じます。経営の実態を描写することが基本であるということが重要ということです。 以上

時代遅れの二次評価 | 人事制度設計

時代遅れの二次評価

 多くの企業では人事評価を行う上で、数回に渡り評価の見直しを行うことが普通に行われています。直属の上司がつける評価を一次評価とし、より上位の社員役員による再評価を二次評価、三次評価として運用している企業が実に多くあります。長期雇用、年功序列の人事管理の中では、この二次評価、三次評価はそれなりに機能を果たしてきましたが、実力、成果主義の人事管理を指向しようとすると、とたんにこの二次、三次評価はマイナス以外の何者でもなくなります。  かつての人事管理は、長期に安定して勤務することが非常に重要であり、そのため社員の大多数がある程度満足する評価でなければなりませんでした。評価自体も口当たりの良い甘い傾向であることが当然ですし、また二次評価以降でも組織間のバランスなどの視点から、全社的に多くの社員が満足するバランスをとるための評価調整がなされるのです。もっと言えば社員個々の評価について厳格に管理するという視点はそもそもなく、多くの社員が満足するバランス作りが必要だったのです。したがって一部の優秀な社員と大半のまあ優秀な社員と、ほんの少数の優秀でない社員という暗黙のバランスを指向していたとも言えます。二次評価以降はこの全体バランスという視点で調整することが主たる役割であり、上位の管理職や役員からみて、うまいバランスであるかを検討する場として、それなりの意味があったのです。  しかし経営、人事を取り巻く環境は、大きく変わりました。企業の成長のためにハイパフォーマーをできるだけ育成しなければなりません。労働市場の発達はメリハリのない企業にとっては人材流出のリスクが高まっています。また人件費にも限りがあります。有効な配分をしなければなりません。環境は全員を最後まで雇用することを前提としない、労働市場的にも社内的にも実力主義的人事管理を求めているのです。この環境の変化に対して現在の人事制度はあまりにも旧式です。実力成果主義人事を行うための人事制度に切り替えなくてはならないのですが、未だに実質年功給的な昇給があったり、適正な人員構成実現という観点の昇格になっていない、賞与などの配分に論理性がないなど様々な問題が発生し、新たニーズに対応できていないのが実際でしょう。  実力、成果主義人事制度のもとでは、社員に対する評価は常に“絶対”でなくてはなりません。そうでなければ社員の理解を得ることができないからです。そのためには昔の評価制度風に言えば、一次評価のみが重要であるということです。要は評価を適正に行うためには、直接の業務指示者が正確な評価を行うことに尽きるということです。直接の上司でなければ実際の能力や貢献がわからないからです。この一次評価の品質をいかに上げるかが極めて重要で、一次評価の品質が低い企業は、二次評価以降の評価で品質がよくなることはありません。一次評価の結果を上位者により変更することは、一次評価者、被評価者の理解賛同を得られずらく、混乱し不満に思うだけでしょう。実力、成果主義的人事では二次評価はその存在がそのものに意味がありませんし、逆にマイナスなのです。  よく“一次評価者のレベルが低く、二次評価で修正しなければならない”などという声も聞きます。そのために二次評価をするのだと。しかしそんな社員を管理職として遇し、また適正な評価ができないことを黙認してはいけません。今後の人事管理では二次評価という言葉自体も存在しないということです。 以上

貧富の差 | 雇用施策・その他

貧富の差

 日本は総中流意識が強いと言われてきましたが、バブル崩壊以降さらにはリーマンショック以降は貧富の差が大きくなってきました。常用雇用者の中でも正社員の占める割合が少なくなり、新卒の就職難も長く続いています。長引く不況で企業も正社員採用を抑え総人員数も減少傾向です。そのため正社員にならずに(なれずに)非正社員や派遣社員として働く人も増加し、“フリーター”というあまり歓迎できない名称の被雇用者スタイルまで生まれています。バブル経済崩壊前は総中流意識から現時点では貧富の差が激しくなり、総中流ではなくなってきました。  正社員の中でも、製造業における製造業務従事者やサービス業の一線で働く人などの給与レベルも低下傾向にあります。これは高くなりすぎた日本の製造コスト改善の一環として製造業務従事者の給与レベルをダウンする傾向が強いからです。またサービス業などは国内需要が縮小する中で、価格競争が激しくできるだけ人件費コストを抑制しなければ競争に勝てないからです。国内市場が再活性化しない限りは今後もサービス業の給与は高くなることはありません。  製造業はもっと深刻で中国、韓国などの台頭で日本における製造が困難となる商品が多くなり、そのため国内生産から海外生産へと切り替えなければなりません。日本の国内で製造できるものは、国内消費用か極めて高度な技術や技能による商品となりつつあり、今後もこの傾向は、大きな環境変化がない限りは変わらないと予想されます。そうなると日本の製造業は国内工場を縮小、閉鎖し、海外への移転をすることになり、製造業務従事者は給与がダウンするのではなく、雇用そのものがなくなってしまうという危機的状況になりつつあります。しかし企業としては高い日本の工場で生産するのではなく海外で生産するのですから、今までよりも利益が上がる、要はグローバル化の推進は企業にとって利益増加となりますが、国内の雇用が犠牲になるという見方もできます。  正社員の中でも、高度な技術者やグローバル人材については今まで以上に需要が高くなりますので給与も高くなる傾向が強く、同じ正社員でも職種別に貧富の差が激しくなるということになります。職種別賃金とはかつての単一的給与構造と異なり、社内の中で貧富の差が発生する仕組みともいえます。  このように日本の推進力であった製造業が国内から製造拠点を移転せざるを得ない状況下では、国内市場は成長することが難しく、さらに超高齢化時代に突入することでさらに国内市場は低迷し、その結果過当競争となり、さらに国内市場中心の企業の社員の給与はダウンすることになります。日本の中で貧富の差は現在でも問題となっていますが、将来はより大きな差となることが予想されます。実際に大規模な製造従事者削減などが各社で発表されていますが、今後も続くことが予想されます。企業は利益を増加させることが可能で、その推進役となる職種の社員は給与が上がりますが、ドメスティックな職種の雇用は減少し給与が少なくなる人も増える、貧富の差が非常に大きくなるということです。  これは単体の企業の構造転換としては仕方のない施策ですが、雇用の維持や国内市場再活性化という国策レベルで対応しなければならない重大な問題です。企業としては利益増加と雇用責任をどうバランスさせていくかが現実の施策として問われていますし、将来はよりシビアになるということです。

抑止力としてのパワハラ | その他

抑止力としてのパワハラ

 パワハラとは、”同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為”ですが、正直どこまでがパワハラでなくどこからがパワハラかよくわかりません。企業を経営してよりよい会社にし、より社会貢献し、社員により処遇をよくしていこうとすると、いろいろなこだわりが出てきますので、どうも納得できないことがあるとかなりストレートな物言いになることがあります。このストレート度合いがパワハラか否かというかということなのでしょうが、正直はっきりとした線引きはできません。  経営の方針や行動規範などに抵触する発言や行動に対しては、当初はやんわりとストレートに話をするのですが、それでも改善しないのであれば次第に強くなります。挙げ句の果てには机を叩いて怒ることもあるでしょう。しかし頭の片隅ではこれはパワハラであろうかと常に自問する自分もいます。企業を経営するまたは部門の管理をする人たちにとって、方針の明示とその徹底は生命線ですので、これに反することがあるのは、経営者管理者としては看過できないはずです。そのため勢い激しい言動になってしまうのでしょう。  このパワハラの議論はいろいろな文献を見るとどうも働く側にある意味過保護だと思うところが多すぎます。こんなに気を遣って管理監督しなくてはならないのかとも思うような事例も目にします。しかし現在の社会の常識上仕方ないのかもしれません。 あるクライアントの取締役がこんな話をしていました。この取締役は以前社員に対して罵声を浴びせパワハラであると社内で問題になったことがあります。当の取締役は昔の厳しい社風で育った人物で、強い指導=パワハラと言われてしまうようなことが感覚的に理解できないといっていました。その後この取締役は言葉使いには非常に気を遣っていると言っていましたが、鋭い目つきとなんとなく醸し出す苛立ちなどから、”存在がパワハラ”と言われているそうです。  さてこの取締役の凄いところは、自分の方針や計画については妥協しないで実行することに強い意志を持っているところです。部下が明らかに準備を怠ったり、やる気がない場合には、最後はパワハラ覚悟で徹底させようと思っていると言っていました。”抑止力としてのパワハラ”と名付けましたが、会社として組織として守るべき一線を守るためには、最後はパワハラも辞さずというスタンスです。こんなことしたらまずいことになる、という価値観を、過去に実際に見せたパワハラの姿で抑止するという新たな武器のようなものです。  パワハラを肯定しているのではありません。しかし譲れない一線もあることがビジネスマンとしての価値なのではないかと思うということです。

直間比率を気にするな | その他

直間比率を気にするな

 よく経営者や管理部門責任者などから、”直間比率”について質問を受けます。直間比率とは、要は直接収益に貢献している人材とバックオフィスやサポート業務のように間接的に収益に貢献している人材の比率を言います。正確には人数比率で算出することもありますし、また直接部門と間接部門の人件費比率で算出することもあります。  この直間比率は正確な統計がありませんので、明確な議論はできないのですが、多くの経営者は他社との比較を非常に気にしています。おそらく間接比率が高いと思っているからでしょう。収益拡大を行うには、直接部門の人員を増やし間接部門の人員を削減することが、効率的であるという認識からです。まあ間接部門の人員や人件費が多いと思っているのです。  現在の高度に発達したビジネスモデル下では、直接部門と間接部門のような区分け自体に大きな意味がなくなってきています。例えば営業部門などは、営業人員数の増員が確かに重要ですが、人が営業するだけでなく、広告やネットでの営業、または提携などのコラボレーションによる営業なども重要な手段です。なんとなく営業マンは直接部門ですが、ネットの企画や運用をしている人材は直接とはストレートに言わないかもしれません。各社によりビジネスモデルも異なりますし、また直接、間接の定義自体も大きく異なります。  間接比率が高いことが、問題であるとストレートに導かれるものではなく、収益に貢献していない人材が多く存在しそうであることが問題です。そのために直間比率で判断するのは、あまり論理的ではないのです。  直間比率を気にする企業の多くは、高齢化で営業や生産の第一線で活躍が困難な社員を、間接業務に配置するなどのような、間接部門を活性化しない人材の配置場所に使っているようなケースが多く見られます。このような企業では間接部門の人材は、本当に間接業務の屋台骨を背負っている優秀な人材と、直接では使えない人材が入り交じっています。間接部門のコア社員、ハイパフォーマー社員にとっては非常に迷惑な話でもあります。  不健康な人ほど他人を気にするように、不健康と分かっているのですが、その不健康さを証明する手段が十分でないために、理論的な検証ができない”直間比率”の他社比較に頼ろうとするのです。実際には他社比較よりも自社の直間比率の推移のほうが分かりやすいでしょう。さらに直接と間接の境界線がわかりづらくなってきているため、各部門や機能の人員数比率や人件費比率を管理した方が現実的です。過去の自社の比率を管理していないで、突然定義が曖昧な他社との比較を用いてもほとんど有意な情報は得られません。  多くの企業の場合、問題は直接、間接の比率ではないのです。別なところに問題があります。直間比率を気にする必要は全くないということです。

タレントマネジメント? | その他

タレントマネジメント?

 最近流行りの言葉で“タレントマネジメント“という言葉があります、またその実行をサポートする”タレントマネジメントシステム“が注目を浴びています。人材の高度な活用を目的とした、人材の育成、配置、発掘などに力点を置いた人事管理手法であり、システムです。 人材活用というテーマはいままでさまざまな議論がされ、多くの企業で意欲的な取り組みがされてきています。今時点で“タレントマネジメント”の中身を聞いても、“いまさら”的なものが多く、至極当然のことを言っているように思います。確かに経営により直結した人材管理という意味で、ある程度体系化されている概念でありシステムです。しかし人事管理を通常議論する者にとっては、新規性が見当たりません。さらにこのような“手垢のついた“概念に対して、わざわざ“タレントマネジメント”と称することが大げさな感じすら受けます。改めて英語で呼ぶことにも逡巡します。  タレントマネジメントは何が新しいのでしょうか。まずこのマネジメントの基本的な考え方は、社員の活用、育成、定着に対するものであり、そのために評価やサーベイや職務履歴や自己申告などを活用するというものです。新規性があるとすると、この高度な人材管理を実際に行うことを強力にサポートする“タレントマネジメントシステム”でしょう。今までの人事システムが、人事の実務処理を効率的に行うことを目的にして利用されてきたものから、より高度な人材管理を行えるようにするという発想で構築されています。社員の発掘や活用や育成、定着などをよりスピーディーに適正に行うべく、そのマネジメントに必要な情報を体系化したものです。今までの人事システムが“人事業務システム”であったものから、経営者や事業管理者なども含めて人材のパフォーマンス向上を直接的に執行する経営幹部も含めて活用する“人材マネジメントシステム”ということになります。今までのシステムの発想や守備範囲という観点からは新たな領域、プロダクトということができます。  このようなシステムが一般的になること自体は、企業の人事管理レベルを押し上げる基盤が提供されるという観点では非常に好ましいことです。しかしプロダクトとしては、今までの人事システムが本来カバーしているべき機能であるはずです。ところが、今までの多くの人事システムがこの機能を十分に顧客にアピールできなかったこともあり、人材活用のための積極的なシステム機能が発達しなかったのです。そのため既存の人事システムとタレントマネジメントシステムは本来一つのシステムであるべきところが、別のプロダクトとして販売されていることが多いのです。人事システムとタレントマネジメントシステムは使用するデータも共通性が高く、別のシステムである必要はないので、人事システムの機能拡張モジュールか、そもそも人事システム内に取り込まれるべき機能です。  人事管理がより高度になるためには、経営に対して人事管理がより重要で有効な管理であることを証明しなくてはなりません。タレントマネジメントシステムが新たなプロダクトとして定着するには、経営における人事管理の有効性が真に認識されなければならないということです。そして“タレントマネジメントシステム”が定着した時には、“タレントマネジメントシステム”などの洒落た名前ではなく、単に“人事管理システム”と呼ばれているはずです。

雑多な専門職 | その他

雑多な専門職

 専門職とは、“高度な専門的知識や経験をベースに企業に貢献する職種”という定義になるでしょう。例えば化学や医薬における高度な研究開発者や技術営業や、アパレルなどのデザイナー、商社におけるバイヤーなどがその代表であり、個人に帰属した極めて高度な専門性が、企業発展にとって不可欠な人材で、そのため部下はいなくとも専門職として高く遇することが本旨であります。有名な小売業で“全員専門職”と称して社員であれば何かしらの専門領域を持つべきである、マネジメントも専門性の一つにすぎないといった優れた人事制度などもあるように、企業のビジネスモデルや社員のコアスキルという観点で、最終的なキャリアゴールが必ずしもラインマネジメントだけでないということです。そのため多くの人事制度では若いうちはいろいろな経験を積み、ラインマネジメントか専門職かに分岐する“複線型”人事制度が導入されています。  しかしこの複線型人事制度における専門職で極めて重大なミスをしている企業があまりにも多くあります。専門職は特定の専門性を追求する職種であることからローテーションに向いていません。一つの分野を深く探求しなければならないからです。それに対してラインマネジメントは最終的に事業や経営を担うことになるため、異なる複数の職場の経験が必須です。そうでなければ複合的な機能をバランスよく統括できないからです。したがってローテーションは必須で、異なる機能の経験がない限り、複合的機能の集合体であるラインマネジメントはできないからです。このようにラインマネジメント職と専門職は別々の育成方針と育成方法であり、双方の互換性は理論上ないのです。  現実の企業で多くみられる専門職は実は雑多な人材の集合体となっていることが多くみられます。正確に言うと、ほんとの専門職と何らかの事情でラインマネジメント職からはずれた人材を一緒にしてしまう例が多いということです。本来はラインマネジメントとして期待し育成したが、ポストに就けることができない社員を専門職として職種転換することなどが多くに見られます。たしかにラインマネジメントと言ってもプレイイングマネージャーが多い企業ですと、このような職種転換はできなくはないのですが、そもそもローテーションをしてマネジメント能力を磨くことを指向する人材と、職場や領域固定で徹底して専門性追求を指向する人材は、根本的に異なります。それを一つの専門職とまとめることが、本当の意味での専門職重視になっていないことになります。要はラインマネジメントから外れた人材は、本来の専門職でなく、本当はラインマネジメント職の一つ下の人材ということだということです。  企業のビジネスモデルによってこの本当の専門職がどの程度必要かが決まってきます。また同じようにラインマネジメント職もビジネスボリュームと組織機構によってその必要数が決定されます。モデルとボリュームによってこの構造が決まっていますが、多くの企業ではラインマネジメント職が多すぎるために、途中で専門職への職種転換や役職定年制度などの理論上は正しくない仕組みが導入されてしまっています。  現在のように管理職の一格、半格下のイメージではなく、本当の専門職とは何かを再定義し、管理職と同様かそれ以上の評価処遇ができる本当の専門職として位置付け再確認する必要があります。

徹夜せよ! | その他

徹夜せよ!

 コンプライアンス観点では主張することができませんが、近年のワークライフバランスなどの議論に本音ベースで真っ向から対立する論点を提示します。週40時間労働や有給取得奨励、在宅勤務などのワークライフバランスの考え方は、多様で豊かになり、高齢化が進行する中で注目を浴びる議論です。この方向自体については全く反対ではありません。また当社はクライアントに対して適正なワークスタイル確立のコンサルティングをしているとも言えますし、自社でも徹底する努力をしています。しかしこの議論に決定的に欠如していることは、勤務時間の短縮、非連続な時間での業務遂行、自宅などオフィス環境が整備されていない場所での業務遂行など働き方への規制を緩めることそのものに焦点が当たりすぎていて、反対に今まで以上の時間生産性や協業生産性を上げることが同じ以上の重さで議論されていないということです。勤務形態の自由化と生産性向上の議論では、後者のほうが相対的に軽視されていると感じるのです。まあストレートに言うと過去に比較して働き方が甘くなったということです。  このような“緩和”が議論される前までは、仕事の仕方や仕事に対する時間投下が今よりもシビアでした。どんなに夜遅くなろうとも仕事が終わらなければだれも帰りませんし、忙しい中プライベートで先に帰る時などは、上司にこっそり事情を告げて周りに気を遣いながら帰ったものです。またどんなに遅くなろうとも、徹夜しようとも翌朝の朝九時には何もなかったかのように振る舞うことがビジネスマンとしてのよきスタイルと思われていました。自分のミスや生産性が低いことから遅くなることについては、超過勤務手当の申請などは自制するのが当たり前で、会社に存在していた時間を超過勤務手当の対象とはだれも考えていなかったのではないでしょうか。もちろん生産や営業などの現場では当時から時間管理は意識されていましたので、上記のような感覚ではなかったと思いますが、企画や管理などのいわゆるホワイトカラー業務では、時間なんて関係ないという感覚が濃厚でありました。  現在では高齢化成熟化していく中での新しい時代の働き方という方向性を強力に推進していかなくてはならないことは当然です。しかし前述のように“緩和”が大きくなった分、生産性を向上させなければなりません。また経営環境は依然厳しく、企業が成長していくためには今まで以上のアウトプットの量と品質が要求されます。現在よりもさらに生産性を向上しなくてはならないということです。このような生産性向上を実現するためには、いくつかの重要なポイントがあると思います。まず単純に時間生産性向上のためのタイムマネジメントの徹底を常態化するということです。これを常態化し、しっかり管理していく企業は未だ多くありません。次にこれだけ情報技術や様々な技術進化をしている環境において、個人及び組織がより高い生産性を実現する手段をもっと研究しなくてはなりません。以前よりオフィス環境の整備の重要性は認識されていますが、環境整備という観点でも、物理的なオフィス構造をより科学的根拠で見直すことも必要でしょうし、音や香や内装、など他分野にわたって生産性向上のための検討範囲に入ります。また会議など複数の人による共同生産性向上のための様々なツールや教育なども、もっと注力しなければなりません。また働く側の生産性向上に対する何らかの処遇反映も必要でしょう。端的に言えばちゃんと評価して処遇しましょうということです。  そして最後にコンプラ違反になる覚悟で言いますが、働く側の権利主張を重視する傾向、就業の終了時間が来れば帰宅してよいなどという甘い考えや、自分の能力やモチベーションが欠如していることから、時間内に十分な生産性で仕事ができない社員に対して、強烈な指導をする文化を創ることが必要です。能力・やる気が欠如している社員に対しては、自己研鑽の指導をするなど、時間外での能力向上を求めることを普通の文化にしなければなりません。時間内にミスや能力、モチベーションの欠如でアウトプットが出せないなら、会社にはわからないように、いくらでも時間を使ってでもアウトプットを出さなくてはならないという文化をもつことも精神論として必要です。徹夜せよ!と会社側からは言いませんが、それでも隠れて徹夜してアウトプットを出し、何食わぬ顔で出勤するくらいの気概がほしいというのが本音ではないでしょうか。

50歳管理職登用 | 人材開発

50歳管理職登用

 今後65歳までの雇用義務化や70歳までに延長される可能性があることから考えると、ビジネスパーソンの人生は今までに比較すると激変することになるでしょう。終身雇用のように長期雇用を前提とした場合には、極論すると2つのタイプの人事管理スタイルのどちらかになると予想されます。一つのタイプは年齢に関係のない人事管理スタイルです。年齢に関係なく実力によってポジションや職務を決めるというものです。プロ野球のように活躍しているときは年俸が高く、実績を残せなくなると年俸が下がるようなエレベーター式の人事制度ということです。このような実力主義的人事管理スタイルは、企業にとって人材の短期的な有効活用という観点ではメリットのある方法でしょう。デメリットとしては、かつて活躍した社員が降格したり給与がダウンするといった現象が多くなり、モチベーションの維持や雇用の安定、技術の伝承という観点で問題が発生することになります。  このような実力主義に対して、年功序列的な人事管理スタイルがもう一つの考え方です。大学を卒業して65歳まで勤務するということは43年間の在籍ということになりますが、企業の階層をピラミッドにするためにはあまり若い年齢で管理職にすることができなくなります。現在では40歳前後で管理職に登用する企業が多いですが、43年勤務を前提とした場合には、50歳前後で管理職登用くらいのスピードが理論上適正になるはずです。逆に50歳登用くらいのスピードでなければ、企業内に管理職だらけになってしまうのです。  そもそも管理職への登用はビジネスパーソンにとってひとつの成功の象徴的事象であると同時に、人事上も重要な管理事項です。管理職登用の理想的な年齢を聞くと、経営者や人事部門は40歳前後や優秀であれば30歳前半で登用したいという答えが多くあります。この感覚は企業の成長力が高い状況であれば成立する考え方ですが、成長が鈍化した場合には、40歳管理職登用は全く合理性のない感覚にしかすぎません。また、優秀であれば30歳前半で登用できるようにしたいということ自体は非常によいことですので否定するべき話ではありませんが、若くして登用する社員がいるのであれば、管理職の平均登用年齢を維持するためには、遅く登用する社員がいなければバランスしません。要は平均登用年齢と登用の分散をどのように考えるかという構造的な問題だということです。  年齢に関係のないマネジメントスタイルか、ある程度年齢を意識したマネジメントスタイルかはビジネスモデルや企業のおかれている環境によって、どちらが適合しやすいかということでしょう。習熟に長い年月のかかる高度な技術を基盤とした製造業であれば安定した雇用や技術の伝承を重視しますので、必然的に遅い管理職登用型の人事制度になっていくでしょう。一方で、環境変化の激しい小売、サービス、情報産業などは短期の人事パフォーマンスを重視する傾向にあると同時に、労働市場での流動性も高いので年齢に関係のない実力主義的マネジメントスタイルが適合します。  企業が大きくなればなるほど社会的責任が大きくなりますので、終身雇用や安定した処遇が強く求められるようになります。そのため日本企業全体という観点でみると50歳管理職型のようなスタイルに次第に変容していくとも考えられます。50歳管理職登用というのは一見あり得ないという感覚がありますが、理論上は一つの適正なスタイルだということで、一笑に付すことができない重要な論点です。

中高年は使えない | その他

中高年は使えない

 中高年社員はビジネスの第一線で使えないと言われることがあります。例えば情報産業では一時期に35歳定年説と言われたように一定の年齢ピークを過ぎると技術的にまた体力的に第一線での活躍ができなくなるということです。また広告業では40歳以上の社員の多くは、世の中のトレンドについていけなくなり、センスが古いと言われてしまいます。建設や営業や製造の現場でも体力的に若年社員と同様に働くことが難しくなるとも言われます。このように一定年齢をピークにして次第に現場の主戦力と位置付けなくなる業界や企業が多いと感じます。大企業ではこのような第一線で活躍できなくなった社員を体力的な負担の少ない間接部門などに異動させることによって、社内のアウトプレースメント場所として吸収している例も多くみられます。また小売業やサービス業などでは中高年社員に対して退職促進するスタンスの企業も散見されます。  この中高年社員は使えないということ自体が本当であるのか強く疑問に感じるとともに、今後高齢化成熟化する社会において、逆に中高年社員の活用や再活性化が企業の成長を支える大きな原動力になる可能性も議論しなくてはなりません。65歳までの雇用を考えると、この中高年社員の戦力化の問題はさらに深刻です。  中高年社員は本当に使えなくなるのかということについて大いに疑問であると論じましたが、この使えなくなる現象は企業の努力不足によるところが大きいとも推測できます。例えば情報産業では中高年社員は技術進化についてこれないという理由を挙げる企業が多いですが、若手社員と同様のまたはそれ以上の技術教育と意識改革を継続して行っている企業は非常に少ない状況です。常に新たに若い技術者を採用して中高年は使い捨てにしているともいえます。本当に技術やマインドの教育をした結果使えないのであれば仕方ないのでしょうが、努力を怠っている企業は雇用責任を軽視しているとも言えるでしょう。広告業などでもセンスが古くなるといわれていますが、常に最新のトレンドに鋭敏さを持つべく教育努力は十分なのでしょうか。社員側も厳しい第一線で仕事をした後にはのんびりとした中高年用のポジションに就くことを暗に期待しているのではないかとも感じます。  体力的に厳しいという現象についても議論しなくてはなりません。確かに中高年になれば健康上の問題が多く発生することになります。しかし日本の労働市場では第一次産業のように最も体力的に厳しい職場(農業や漁業など)の平均年齢は非常に高く、それでも第一線で活躍している人が大半です。また中小中堅企業では中高年といえども若年社員と同様の働きをしている人が多いのです。中高年社員が使えないと言っているのは大企業や労働市場が発達をして若年社員の採用が容易な業界だけの話とも考えられます。このような業界や企業では企業側の努力も足りませんし、中高年社員自身も甘えています。体育の時間ではありませんが体力強化を研修に加えたほうがよいかもしれません。  日本の高齢化成熟化が急速に進行することに対応して、人事制度や教育も中高年社員に照準をあてた抜本的な見直しが必要になるのではないでしょうか。中高年社員は使えないというスタンスや社員の甘えの構造を抜本的に正さなくては雇用に魅力があり責任のある企業と言えなくなる時代が来ています。中高年こそ主戦力となる人事管理を早急に検討しなくてはなりません。

平知盛 | その他

平知盛

 日本史に登場する人物の中で、平知盛の生き様には考えさせられるものがあります。平知盛は平家物語の平家側の主役とも言える人物です。清盛の四男として生まれ、34年という若さで自害した人物です。平家の衰退がはじまり清盛が死亡すると、兄の宗盛が家督を継ぎます。宗盛の戦略性のなさと優柔不断さにより、源氏に次第に追い詰められていく過程において、知盛はそれこそ平家再興のために奮迅の働きをします。もともと病弱であり戦場の第一線に出られる体力を持ち合わせなかったと言われていますが、優れた軍事的才能と統率力で源氏の軍勢を幾たびか打ち破ります。しかし時勢には逆らえず一の谷で源義経に敗れ、さらには屋島でも敗戦します。この決定的ないくつかの敗戦の中で知盛はなんとか残る平家の支柱として、宗盛の代わりに指揮を執り続けます。壇ノ浦の戦い時ではとても戦える体調でなかったといわれていますが、最後まで戦い抜き、そして敗戦濃厚となった時点で自害します。その時に言ったのが、“見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん”というあまりにも有名な言葉です。鎧を二重に着てさらに碇を持って海に入水したと言われ、歌舞伎の“義経千本桜“での“碇知盛”といわれる名場面になります。  このように世の中の時勢という運命に対して、自己の存在をかけて最後まで抵抗する姿が、“悲劇”として人の心を打つのでしょう。最終的には運命には勝てない自分がいるのに対して、それを肯定することができずに最後まで自己の存在を運命に徹底して逆らうということです。そして最後にはこの運命を受け入れざるを得ない自分を肯定できずに碇をもって入水するという生き方です。  逆に時勢に乗り勢いがあり成長するときの成功話に人はあまり劇的さを感じません。ともすると自慢話的になり、これが過ぎるとたまたま時勢に乗った幸運な人物と評されてしまいます。人はこのような成功話にはあまり大きな感動を持ちませんが、知盛のような悲劇的な人物にはいたく心を打たれる感性を持っています。このような劇的な生き方をする日本人が歴史上には何人も見ることができます。命を懸けて自己の存在を証明しようとし、そしてその証明ができなくなることにより、自己を否定しなければならない。これは架空の話ではなく現実の日本で起きた実話なのです。  このような悲劇的人物は戦後日本であまり見当たらなくなってしまいました。環境の変化に対して大幅な構造転換をしなければ生き残れない企業でも、将来の予測から徹底したリストラをしなければならない状況と頭でわかっていても実行する人物は少ないのです。また逆らうことのできない環境変化に徹底して反抗し、その結果回復する企業もありますが、最終的には企業が存続できない事例も多くあります。自己の存在をかけて環境や運命に徹底して抵抗することを通じて活路を見い出だす可能性に賭けるわけでもなく、なんとなくリストラをしてそしてまた衰退して中途半端なリストラを繰り返す。そして最終的にはどこかの企業に吸収されたり清算されてしまうという、あまり締まりのないリストラ劇が多すぎます。このようなリストラ劇は劇としては生ぬるく面白い舞台ではありません。主役が誰かもわからなかったり、主役のキャラクターや意思が不明であり、役として成立していないのです。脇役も舞台上で果たすべき役を演じないばかりか、舞台から降りてしまう人までいます。  企業はリストラによって再生することが望ましいに決まっていますが、これは環境に徹底して逆らい新たな価値を見出した企業のみが生き残るのであって、環境に対して徹底した自己存在意義を問い直さないリストラは失敗します。さらに失敗したリストラ劇の結末には、現代日本人の“日本人らしさ”がなくなったゆるい結末で、だれも責任を果たしたと言える状況ではないのです。“見るべき程の事をば見つ”と言えるリストラは非常に少なく、徹底した戦略再構築や経営施策を断行するという命を懸けるような深刻さがなく、単に経営ゲームとして負けたというような感覚にすら感じることがあります。真剣に経営をしているかと問われて命がけでやっていると胸を張って言える経営人が少なくなっているのではないか。日本的な重要な特性が失われているのではないかと感じることがあります。