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コラム

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ゆるくてドライな関係 | その他

ゆるくてドライな関係

最近、企業が、社員の副業・兼業を解禁したという記事をよく目にするようになった。 政府も、働き方改革の一環として「副業・兼業」の解禁に関する研究会を今月中に経済産業省内に設置する方向だ。副業・兼業の解禁は、今、我が国が直面している働き方の改革の主要なテーマのひとつといえる。 副業・兼業の禁止は、終身雇用制とともに、我が国の多くの企業において長年続けられてきた慣習である。その理由として、企業固有の知識・ノウハウの社外流出リスク、本業のパフォーマンスがおろそかになるリスク、さらには、犯罪やトラブルの発生により、本業の会社のリピュテーションが低下するリスク等を回避したいという事がある。企業側は、こうしたリスクを避けるため、定年まで雇用を保証する見返りに、副業・兼業などせず、本業に専心して取り組んでください、といったバーター的取引が今まで、労使の間で成り立ち、機能してきた。 だが今や、経営環境は大きく変化し、それがうまく機能する状況ではなくなってきている。まずは、終身雇用制が実質的に崩壊している事がある。企業にとって、入社した社員を、安定した賃金を払って定年まで雇用していくことが難しくなってきた。社員が一つの会社に忠誠を誓い、人生を託す代わりに、企業が生涯の生活を保障することが出来ない状況の中では、社員と会社の関係も、もう少し“緩い関係”のほうが、双方にとって都合がよくなってきた。業績低迷期は、どうぞ副業・兼業のほうで、頑張って稼いでくださいという思いや、中高年の世代においては、在籍しながら、セカンドキャリアを模索してもらう期間や準備期間を提供しますよ、という意味合いもある。先の見えない状況下で、今までのようなベタベタな関係よりも、もう少しドライで、緩い関係を志向することが、企業、社員、双方にとって都合がよくなってきたというわけだ。 もうひとつは、我が国の大多数の企業が、不透明な経営環境下で、これが成長戦略だと明確に言えない悩ましい状況に陥っていることにある。従来の延長線上に、今後の成長の道筋が見えてこない中で、従来の優等生的社員だけではなく、多様で新しい発想を持った、いわばエッジの効いた人材を確保・登用しなければ、将来は見えてこないという危機感が企業にはある。そのためには、副業・兼業を認め、そうした幅広い経験の中から自由な発想や本業の新たな成長エンジンとなりうる人材を輩出したいという期待がある。 かつては、一対一であった国と企業の関係が、グローバル化が進む中で変容し、企業に特定の国のレッテルを張ることが難しくなってきたのと同様、企業と社員も、今後、より「あいまいな関係」になっていくだろう。グローバル企業の拠点が、より税金の安い国やより調達コストが低い国などへ流れていくように、企業と社員の関係が「緩く」なると、両者の間でも、よりよい緊張感が生まれてくるはずだ。 企業側に本業としての魅力がなくなっていけば、社員は、その企業を本業としてみなさなくなっていく事になるので、企業は、絶えず、社員にとって魅力的な事業や職場でありつづける努力が求められるだろうし、社員は、副業・兼業を認められた以上、本業で相応のパフォーマンスを上げられない限り、雇用の維持や処遇の改善は期待されないという覚悟がより求められることになっていくだろう。  現在の社会・経済の流れをみる限り、今後、我が国の企業にとって、副業・兼業の解禁は、やはり、必然的なものと言わざるを得ない。 この人事的慣習が上手に破壊され、企業と社員の相互依存的なベタベタな関係が払しょくされ、適度な緊張感のある関係の中で、我が国の企業がより高いパフォーマンスを生み出す状況を作っていくことが、今、求められている。

センスが大事 | その他

センスが大事

 いくつかの会社で取締役をしてきたが、あるとき不思議な体験をした。財務責任者から、明らかに計算間違いがあったとしか思えない経営数字が上がってきたのである。仕上がりの数字の並びを見れば、「これはおかしい」とすぐにわかるのに、見逃されている。指摘して、算出プロセスをチェックさせ、間違いを訂正させたのだったが、いったいどうしてそのようなことが起こるのか、信じられなかった。  同様なことは、経理担当がまとめた各種の数字についても何度か経験した。複数の会社で、である。みな会計の専門家である。専門教育を受け、経験も豊富で、十分な知識を持っているはずなのに、計算間違いに気付かない。一所懸命、手順に沿った正確な計算に腐心し、よし、ちゃんと算出できた、と満足し、出来上がったアウトプットは見ていないのか。いやそんなことはない、結果検証をしないはずはない。だとすれば、なぜか。  彼らは、財務会計や管理会計に関する計数知識はあるけれども、計数センスがないのである。計数センスとは、目的達成や判断のために、数字で確認し数字で考える感覚、その感度をいう。たくさんの指標を正確に算出する知識は必要だが、何のために、何の数字があるのかという意味こそが大事であり、その理解を「感覚」として持てるかどうかが計数センスの有無だろう。それがないから、冒頭のようなばかげたミスが起こるのではないか。おそらく、項目別に手順を検証するにとどまり、「全体に対する個別項目の意味」の観点が失念されているだろう。  計算や指標の意味が分かっているから、実際の目的に即して、必要な指標を特定し、またときには、新たな指標を設定することができる。経営や組織マネジメントに必要なスキルは、こうした計数センスである。経営幹部候補や管理職にはもちろん、中堅社員の段階でもベーススキルとして会計知識、計数知識、計数管理スキルが必要とよくいわれる。結果、そうした研修も多く実施されているが、計数センスの醸成ができなければ、役に立たない断片的知識獲得にすぎない。  計数センス向上教育のポイントは、会計手法の本質の理解と経営リアリティの喚起である。  経営分析の基本原理は、差異分析と比率分析である。つまり、考えなければいけないのは、「何と何の差なのか」、「何と何の比なのか」ということである。差は、量や幅や増減を意味し、比は、比較(=対比)や全体と部分の関係(=比率)や変化の度合いを意味する。たとえば、利益は「差」によって求められる。たとえば、成長率は「対比」であり、労働分配率は「比率」である。  その基本理解を出発点に、たくさんある指標の定義式を覚えることではなく、何と何を対比するか、何を分母とし何を分子とするか、の感覚を身に着けることこそが大事なのだ。そのうえで経営分析するにあたっては、差をもってみるのか、比をもってみるのかを判断する。この判断の違いは、変化を何をもって認識するか、の違いであり、だから、「何をどうみようとするか」はある状況における経営の意思による。それが経営のリアリティである。  たとえば、あなたが独立してラーメン屋を開業したとしたら、どんな指標を見て経営判断するか。そんなシミュレーションをやってみるといい。客の男女比、年齢別割合、時間帯別来店者数、リピート率、品目別利益率、回転率、原材料費推移、、、、等々、限りなくありうる指標のどれを使うか、に正解はない。そのラーメン屋の環境、事業方針、経営方針によって変わってくる。めざすビジョンをどのように実現しようとするかという店主の意思が、計数センスの前提になるのだ。  つまり、計数センスとは経営センスに直結する。経営センスを形成する不可欠な要素である。そういえば、冒頭の財務責任者に驚かされたもう一つの事件は、予算策定の時におこった。来期の予算をつくるとなると、彼はまず、前期の数字を項目別にみて、個別のその増減を予測し、積み上げたのだった。予算策定の前提には戦略や方針があり、そのストーリーに基づいてしか、予算は作りえないはずなのに、である。

空虚(うつろ)なリーダー | その他

空虚(うつろ)なリーダー

 外来語には意味がよく解らないものがある。リーダーシップという言葉もそのひとつだ。あまりにも日常的に使う言葉なのでよく考えたこともなかったが、この「シップ」というのは何のことだろうか。フレンドシップ、パートナーシップ、リレーションシップなど、お尻にシップの付く言葉は多いけれど、どれも同じことなのだろうか。調べてみると、「心意気」とか「スキル」とかいう意味だそうだ。心意気とスキルではずいぶん違うなあと思うが、要するに日本語に直接訳せる言葉ではないということらしい。  数多く出版されているリーダーシップ本を紐解いてみると、確かにリーダーとして持っているべきスキルや心構えが解説してある。組織のメンバーとのコミュニケーションの仕方、多くの人を惹きつけるスピーチの仕方、メンバーに解りやすいビジョンの打ち立て方、リーダーとして持つべき不退転の態度等々。リーダーを志す多くのビジネスマンがこうした書籍を漁り、リーダーに求められる心意気とスキルを勉強しているわけだ。だが、先人が示した心意気やスキルさえ知れば、リーダーになれるのだろうか。どうも疑わしい。  昔の話だが、新卒社員の離職率に悩むある会社で、これを抑えようとした総務部の若手平社員が、上長や他部門の担当者を巻き込んで新人研修を行い、離職率を著しく低減させた例があった。彼は部長に進言して2日の導入研修を2週に拡大し、営業部やシステム部など他部門の社員に呼び掛けて「実務の疑似体験コース」を企画し、協力してこれを実施したのだ。彼は準備を含む3か月の奮闘の中で、上長の意思決定を促し、他部門の管理職を説得し、部門を問わず数多くの仲間の惜しみない協力を取り付けた。彼は管理職ではないから、皆に命令を発する権限は何ら持ち合わせていなかった。あまり勉強家ではないから、おそらくリーダーシップの本など読んだこともなかったはずだ。しかし、このとき、彼は明らかにリーダーだった。  リーダーシップ本を熱心に読むがリーダーにほど遠い人と、本を読んだことはないがリーダーになる人。何が違うのだろうか。件の平社員のストーリーで、彼に違っていたところは、「新卒社員の離職率を何とかして抑えたい」という強い志を持ったことだ。理由は皆目わからないが、彼は確かにそのような志を持った。だからリーダーであり得たのだと思う。要するに、「私は他の人々の力を借りてでもこのことを成し遂げたい」という「このこと」が大切で、例の「・・・シップ」はそれを実現するためのサプリメントのようなものだということだ。「このこと」を伴わないのに「シップ」の方ばかりを研究しているリーダーは、中身の無い空虚なリーダーだということになる。  最近、頼りになる中間管理職層を作りたいと切望している経営者は多い。そうした経営者は、管理職たちにリーダーシップ研修を受けさせる。しかしながら、権限を発動して組織を管理する管理職と、リーダーシップを発揮して組織を導くリーダーとを混同してはならない。もちろん、優秀な管理職は優秀なリーダーであって欲しいのだが、課長たちを捕まえてリーダーシップの研修を受けさせ、一般的なノウハウを覚えこませるだけでは、そのような人材は生まれない。大切なことは、社員に何らかの志を持たせるような、リスクを背負ってでも成し遂げたいと感じる何かを発見できるような環境を準備すること、そして、それに挑戦する機会を与えてやることではないだろうか。

世の中や自分に有益な残業 | その他

世の中や自分に有益な残業

政府の「働き方改革実現会議」の初会合が先月末に開かれた。「非正規雇用の処遇改善」「賃金引き上げと労働生産性の向上」「テレワーク、副業・兼業といった柔軟な働き方」など、多岐にわたる働き方にかかわるテーマをひとつ、ひとつ議論していくことになるが、その中でも主要なテーマのひとつと言えるのが、「長時間労働の是正」だ。 諸外国に比べて我が国の労働時間が長い現状を是正し、短縮していくことが議論される。ワークライフバランスも考えて、働きすぎないようにしようという事自体、否定されるべきものではない。2015年度に過労死とされた人は96人に及び、過酷な労働環境を改善することは、喫緊の課題であることは間違いない。ただし、気になるのは、労働時間を短縮する手段として、時間外労働時間の上限を定め、その上限を超えた場合の罰則の導入も今回検討されていくという点だ。一律的な時間外時間制限の導入は、本当に、国全体として望ましい結果をもたらすことになるのだろうか。 先日の衆議院予算委員会で、某議員の質問内容への答弁を作成するため、関係省庁の職員は、夜中まで待機し、その後、残業して翌日の答弁資料を作り上げたという報道があった。働き方改革を議論するはずの国政の現場も、公務員の過激な残業があって、成り立っているのが現実だ。公務員にも時間外労働時間制限を設けたら、国会だって機能しなくなることになる。公務員に限らず、報道に係るマスコミ業界なども残業時間制限で区切ってできる仕事ではないだろう。あるいは、じっくり時間をかけて仕込み、魅力的な料理を提供する高級レストランの料理人などもその部類に入るのかも知れない。時間外労働時間に制限をかけることは、ワークライフバランスの改善や仕事の生産性の向上など、当然、期待されるメリットもあるが、仕事によっては、世の中が期待するアウトプットの品質レベルが維持できなくなってしまうリスクも十分、認識しなければならない。 より重要なことは、「労働時間を短縮することが望ましい」と考える労働者ばかりではないという事だ。本人の意思として、「もっと長く働きたい」という人もいる。残業しないと生活できないという状況については最低賃金の引き上げなどで、早急に改善していかなければいけないが、そういった話ではなく、できるだけ長く働いて「早くたくさん稼ぎたい」あるいは、「早くスキルを身に付け成長したい」と考えている労働者も多数、存在しているのだ。今回の改革で、より積極的に働いていきたいというマインドを持つ人々のモチベーションを下げてしまうことにならないよう十分な配慮が必要だろう。人々の仕事に対する向き合い方、価値の置き方も、様々で一律ではないということだ。 一概に並列的な議論するべきではないが、かつて、知識の暗記を重視した「詰め込み教育」を改め、1980年代に「ゆとり教育」がスタートし、学習時間と内容が大きく減らされたが、その後、国際学力テストで我が国の順位が大きく落ちてしまった事を思い出す。(その後、「脱ゆとり教育」への変更の流れの中で、順位も回復していると聞く。) 常態化した長時間労働を是正し、ワークライフバランスを改善させ、ゆとりある社会を作ることは、大変重要なテーマではあるが、その一方で、グローバルな競争がこれだけ激化している中、わが国の労働パフォーマンスを落としてしまうことは絶対に避けなければならない。世の中にとっても、労働者にとっても有益な残業があると、いう認識を持ち、もっと積極的に働いて社会に貢献しようという気概のある人々のモチベーションを低下させぬよう、今後の会議の行方を注視していきたい。

大人のコンプライアンス | その他

大人のコンプライアンス

 コンプライアンスの訳語は法令順守とされるが、法令順守ができていることは、コンプライアンスのミニマムレベルにすぎない。 前都知事をめぐって異様に繰り返し聞かれたセリフ「違法ではないが、不適切」ではないが、法令は守っているがコンプライアンス上はアウトという事態は少なくない。「法を犯していないのだから問題ないじゃないか」は、ものごとの軽重や良し悪しに関する社会的な視点を欠いた子供の理屈である。コンプライアンスとは、「規範」に従うことであり、その規範とは法律以外の社内諸規定はもちろん、公正、秩序、倫理といった社会の規範にまで及ぶからだ。 よく知られるように、コンプライアンスで守るべき規範のピラミッド構造では、底辺に(1)法規範が置かれ、次に(2)社内規範、次いで(3)企業倫理規範、頂点に(4)経営理念・ビジョンが置かれる。つまり、「(1)合法的行動」、社内の「(2)リスク管理行動」は大前提。法を守り会社のルールを守るのは当たり前で、そのうえで社会の規範たる「(3)模範的行動」が強く求められ、さらにその会社としての「(4)理想的行動」を目指さねばならないということである。 しかもその行動は、自社のすべてのステークホルダーズとの関係において問われる。CSRの世界では「CSR調達」という言葉があり、材料調達先企業を含むサプライチェーン全体でCSRがなされなければならないとされるが、そこでいうCSRの防衛的側面はコンプライアンスの堅持だ。自社のリスク管理のみならず各ステークホルダーズのリスク、つまりは「社会のリスクマネジメント」責任までが問われ、社会の模範たる行動が要請される。 まさにコンプラピラミッドの第3レベル、企業倫理規範に基づく模範的行動、つまり、社会の一員であり社会の秩序を保つ「大人の企業」としての振る舞いが求められているのだ。しかし、法規範や社内規範は明文化されているから明快であるが、そのように定まっていないなかで行動判断しなければならないこともある。だから大事なことは、判断基準たりうる企業倫理規範があるか、そしてそれが順守できるように社内に浸透しているか、ということになる。 しかし「わが社の企業倫理はなにか」と問われ、即答できるひとがどれだけいるか。倫理などというものは、常識的に考えればわかるというむきもあるかもしれないが、「常識」は個々人で異なる。そのちょっとした常識の違いの結果が、利益追求や損失回避を目的とした行動判断のなかで倫理的逸脱=企業の不祥事となるから厄介なのである。当たり前の常識とか人々の良心に頼るリスクを無視しないことこそがコンプライアンスの要諦であり、まずは、個々人の「外」に、準拠すべき規範を可視化しなければならない。自社の企業倫理規範を定める、ないしは明文化するということである。 では企業倫理をどう定めるか。難しいのは、経営ビジョンや理念と違って、企業倫理は固有に独立的には作れないことだ。組織の持続的発展のための組織倫理はもちろん、たとえば市場倫理、職業倫理やさらには地球で暮らす人類としての世界倫理など他のさまざまな社会の倫理を踏まえなければならないし、またそれらは、時代とともに一定ではない。変化する社会の価値観にずれることのない、現代の企業倫理を定め続ける必要がある。 しかしだからこそ、自社の企業倫理の定めがいがあるというものではないか。すでに多国籍企業のように国を超えた企業体もあり、一企業として、正しい企業倫理を定めることの社会にとっての意味はきわめて大きい。必ずしも「大人」でない国や民族や人々が存在し、グローバルにもローカルにも、倫理という規範が盤石でなくなっているのだから。

スキルの実装 | 人材開発

スキルの実装

 企業の研修・トレーニングの中には教育効果が十分ではないものが多いのではないかと疑っている。研修・トレーニングは企業の方針や経営計画達成に必要な知識、スキル、マインドを実装させるために行う。企業がコストをかけて行うものであるので、当然経営として何らかの成果にプラスの効果があるものでなくてはならない。実施後に教育した知識、スキル、マインドのレベルが向上し、それが業務に生かされ、成果の向上とならなくてはならない。そうなると研修・トレーニングの項目や内容が真に重要な経営ニーズであり、かつ社員に不足していることが前提だ。要は教育ニーズが経営の求めるニーズであり、またそれが不足していることが明確であって、はじめて効果が出るのだ。そうなると経営が求める人材像からキーとなる知識、スキル、マインドを把握することと同時に社員のレベルを正確に測定する必要がある。  ニーズが特定されると、それを身に付けさせるための研修・トレーニングを企画、実施することになる。実際に行われている研修・トレーニングは総じて時間、コストの投下が少なすぎると感じる。営利企業が時間とコストをかけて実施するのであるから、できるだけ効率的効果的に行いたいという背景があり、そのため業務をせず研修・トレーニングを長期間受けさせることが困難であるので、どうしても短期間になってしまいがちである。  極めて重要であるのは、研修・トレーニングが目的的かということである。具体的な知識、スキル、マインドの向上なくして、経営方針、計画達成が困難であれば、必要な教育への投下は当然である。またその教育方法も参加する社員の大半が確実に向上するものでなくてはならない。適度な投下と効果的な手法があって初めて効果が見込めるのだ。  例えば“部門計画立案”、“論理的思考”、“プレゼンテーション”などの具体的な研修・トレーニングで、参加者の多くに実装することを保証するためには、一つ一つの項目に対する時間投下は相当なものであろう。プレゼンテーションスキルの向上を実務で役立たせるレベルで教育しようとすると、少なくとも何度も何度もプレゼンのシミュレーションを行い、個別に指導し、職場に持ち帰り実務で使い、更にフォローアップし、必要であれば再度教育するくらいしなければ、スキルの実装にならない。“訓練”が必要なのだ。そうなると研修・トレーニングの考え方もだいぶ変わるだろう。すでに目標のレベルに達した社員には教育投資はいらなくなる。十分なレベルに達していない社員には継続して教育が必要であり、社員ごとに教育投下が異なることになる。  プレゼンスキルが対象者全員に対する一日か二日の集合研修で、経営に影響を与えるくらいの効果が出るのであろうか。多くの研修は投下に対する効果を自信を持って言えないため、中途半端になっていないだろうか。そのため参加者全員のスキルアップを保証するための必要投下を説得する力がなく、結果短期間で形式的、啓発的なものになっているようにも感じる。  企業に必要な知識、スキル、マインドを身に付けさせるための計画やその教育方法はもっと、分析的であり目的的でなくてはならないし、どうも全員一律に集合研修という発想も当てはまらない。やらないよりマシである教育ではなく、確実に経営貢献する施策でなければならない。業績が低下するとやめてしまう教育は本当に必要だったのか。教育の存在意義が問われ続けており、それを証明しなくてはならないタイミングなのである。

人事のコピーワーク | その他

人事のコピーワーク

 人事用語は味気ない。味気ないだけではなく、意味が矮小化される言葉ではないかとつねづね思う。一人一人意思や思いをもった人と人が組織をなしている中での統制機能=人事というものの本来持つべき消息があまりにもないのだ。  たとえば、管理職、一般職といった職群名称からは、リーダーシップといった大事な機能が匂ってこない。配置、異動、要員計画という言葉は、その機能を端的に示しているけれども、そこには、「モノ的なヒト」のイメージがある。もっと、モチベーションや意欲、成長の愉しみや協働のよろこびを喚起するような名称=コピーワークがあってもよいではないか。  といったことを思うようになったのは、人事にまつわる英語表現に触れてからだ。グローバルで事業展開をしている米国本社の組織人事コンサルティングファームにいたときに、サービス領域を整理する枠組みがあった。その会社は、多くのコンサルファームを買収しつづけていたので、サービスアイテムが多種多様に増え続けていて、いつもいろいろな整理の仕方に挑戦しては、また、すぐに別の整理に変えたりしていた。  そのなかである時期2年間くらい使われていて、秀逸だと思った整理フレームが、Human Capital Lifecycle と名付けられた4フェイズだった。それは、 (1) Attract&Assess (2) Develop (3) Engage&Align (4) Transition とラべリングされていた。  要は、人々を選び、育て、配置し、代謝する一連の流れを言っているのだが、その表現がすばらしい。採用でも昇格審査でも、評価し選ぶには、本人に対する意味づけをもってまずは惹きつけることを前提にするといった気配のある「Attract&Assess」。また、「Develop」というシンプルな英語には、他動詞と自動詞があるから、そこには、育成と成長の両義性がそもそも漂っている。  特に唸らされるのは、パフォーマンスマネジメントのフェイズを「Engage&Align」と表現する感覚だ。意味することは、人々を適正に配置し、ビジョンや方針を提示し、モチベーションを高め、成果を出させることだが、そこで経営がやるべきことの本質をこの一言で言いきっている。最後の「Transition」は、広くキャリア・チェンジを示し、その一つとして、社外のキャリアへの転換=退職し転職する、を含んでいることも、確かに、“人材のライフサイクル”だと納得する。  人事に関する限りは、そもそも英語表現のほうがイメージ豊かなのかもしれない。昇進よりも、Promotion、後継者育成よりも、Leadership pipelineとかLeadership cascade、と言ったほうが、そのニュアンスは実態的でヒトを扱う(=人事)の風情があるのではないか。  だからといって、人事用語を英語にしようと提案したいのではない。そんなことを言うと、いやいやそんなカタカナ用語は、受け入れがたい、という声が聞こえてくる。ちなみに今でも、「研修でカタカナ用語は、できるだけ使わないでほしい」、「経営に対するプレゼンでは英語表現はNG」といったご要請は少なくないのだ。  日本語をもって、意味豊かな人事用語をコピーライティングしてみたらよいのである。日本語とは、あるいは日本人の感覚は本来繊細である。たとえば、英語では「To be」の一種類の言葉でも、日本語は、モノに対しては、「ある」、生き物に対しては「いる」と、截然と使い分けるように。

何をもって「優秀」と呼ぶか…という謎 | その他

何をもって「優秀」と呼ぶか…という謎

 何をもって「優秀」と呼ぶか…。これは、多くの企業で謎である。誰もがはっきりとはわかっていない中で、「優秀な人」がつくられていく。「なんとなく、あの人、いいよね!」という感覚的なとらえ方で、その人を判断する傾向が多くの職場にあるのは否定しがたい。  これがうわさのレベルならともかく、人事評価においても該当することがあるから怖い。たとえば、「あの社員が懸命にがんばっているから、A評価をつけよう」とか、「彼は協調性がないから、E評価にする」というものである。  これらは、私が会社員の頃、上司(部長・40代後半)が口にしていたものだ。私が取材者として様々な企業に出入りしても、同じような言葉を役員や管理職が話すことがある。  たとえば、2014年夏、コンサルティング会社(社員数150人)の社長(50代)と食事をしたとき、「彼は優秀」と30代の男性社員を盛んにほめていた。その根拠は「京都大の理系の学部を卒業しているから…」なのだという。  2015年の冬、京大出身の男性社員は退職した。解雇に近い状態だったようだ。聞く限りでは、仕事の実績が社長の期待に沿うものではなかったという。  ここ20数年、これに近い話をよく聞く。特に社員数が500~600人以下の規模になると、増える。社員数300人以下になると、頻繁に耳にする。  これらの話の5~7割近くに共通しているのは、次のものである。 1.中途採用試験を経て入社し、3年以内に起きる 2.採用時に、会社とその社員との間に密な話し合いがない  =「この人、なんとなく、優秀だよね」という感覚で採用した可能性が高い   3.社員が面接試験のときに「面接の達人」であった  =自己PRに長けていて、学歴や職歴が一定のレベルを超えている  =受け答えがよく、「聡明」な印象を与える 4.入社し、半年以内に、採用した部署の担当役員、本部長、部長などが、社員の仕事の水準が低すぎることに「絶望」に近い心理になっている 5.ほかの部署などで、社員を引き取りたいという声がない  =社内で身を置く場がなく、「持て余し者」となる 6.辞めていくとき、社員は「なぜ、自分が辞めていかざるを得ないのか」を正確にわかっていない  1~6の流れを追っていくと、その社員が「優秀ではなかった」といえば、それまでなのかもしれない。しかし、「優秀」とは何を意味するのだろう。「優秀ではない」とは何を指すのか。  これらについて、本人、所属部署の担当役員、本部長、部長、人事部などの関係者の中で徹底して話し合いがなされ、「最低限度のコンセンサス」がない。少なくとも私が取材をしていると、「優秀」「優秀ではない」、「辞めていかざるを得ない」レベルや基準があいまいだ。  まして、最近は、管理職のプレイング・マネージャー化が進んでいる。部長とはいえ、営業部ならば、プレイヤーとしてノルマを持つ。しかも、部内でその額は最も多い場合もある。これでは、部下の育成や指導など、いわゆるマネジメントがおろそかになる。  このような中、「優秀」「優秀ではない」「辞めていかざるを得ない」などのレベルや基準は、一段と見えないものになる。多くの管理職ははっきりとはわかっていない可能性が高い。それで、人事評価をしていく。  何をもって「優秀」と呼ぶか。この謎は、ますます深まりつつある。これで、いいのだろうか…。

人事の財務諸表 | 人事アナリシスレポート®

人事の財務諸表

 企業経営にとって、財務諸表はその企業の経営状況を知るうえで必須のものである。財務諸表を見れば、企業の財務状況や損益状況を即座に正確に把握することができるのである。“金”という視点で企業を見る場合には財務諸表を見れば十分であろう。経理財務機能では最も重要な帳票である。  人事分野ではこの“財務諸表”にあたる定期的な報告書式を持っていない。財務諸表の附表の中で、社員数や平均給与、平均年齢の数字は記載されているがこの程度であるし、あくまでも財務諸表の一部情報である。人事については経営者に対しても定期的に報告すら行っていない企業がほとんどであろう。経営者はどうやって人事の状況を把握するのであろうか。人事が経営にとって重要な機能であるのであれば、財務諸表に類する報告書式を持ち、定期的に報告されなければならない。“人事諸表”、“人材諸表”というのか命名はともかくとして、正確な人事情報を提供するルートとコンテンツが必要なのではないだろうか。 おそらくこの“人事諸表”は以下のような構成になるだろう。大きくは一定時点の人材の保有状況を把握するための帳票と一定期間の人事のパフォーマンスを把握するための帳票である。 前者は人材の保有状況であるので、期末時点の保有する人材状況がわかるものであるので、人数(雇用区分別、入退社員推移など)、人数構成(等級別、年齢別など)、人件費総額(総額、平均年収、推移、各種指標など)、スキルレベル(保有スキルなど)などである。これらが整理されていれば企業の保有人材、人的資源状況が一目でわかるだろう。後者は一定期間のパフォーマンスであるので、マネジメントレベル(目標達成度、管理職レベルなど)、モチベーション(全体、推移、評価統計など)、コンディション(職場環境、健康面など)である。これらの情報が“数字”を元に作成されていると、一定期間のパフォーマンスがわかりやすいのではないか。 “ポートフォリオ”と“パフォーマンス”、“保有人材”と“期間成果”を中心とした報告書式が整備され、最低一年に一度役員会報告になり、また一部情報が外部開示されるようになると、企業の人事レベルは一気に上昇するはずである。 人事の特殊性として、また近年の人事の重要課題として付属して報告する必要が高いものもいくつかある。例えば社員は“期間の定めなき雇用”であり大卒社員は65歳までの43年間雇用するように長期に拘束される。そのため将来の人員数や人件費予測は非常に重要な経営情報である。また女性活躍推進が義務付けられているため、これらに関する統計なども必要だ。 人事は経営や外部に対して正式な報告書式と報告場所を持たなければならない。現時点でそれがない企業が大半であろう。人事機能がより高度に発達して経営に貢献するためには必須ではないだろうか。 以上

不揃いなハードル | その他

不揃いなハードル

 社員の業績評価を“目標管理”という手法で行う企業は実に多い。経営の目標を個人の目標に分解することで、社員の経営目標に対する意識を高めるとともに、目標達成のための推進力にするという考え方である。この考え方は実に多くの企業で、なかば当然のように採用されている手法である。管理職から一般社員に至るまで、目標を設定してその目標の達成度で業績を測定するという考え方が、構造的に理解しやすく、経営目標の達成が促進されると考えられているからである。  現実はどうであろうか。全社員に対して目標管理がうまく機能している企業はほとんどないのではないだろうか。どの企業でも“目標の設定が適切でない”、“目標の達成度を測定しづらい”という状況だ。この機能の極めて重要な要件をクリアできていないのである。設定した目標が適切でない、公平でない、さらに目標の達成度を測定することがうまくできないということなのである。目標管理の望ましく機能するレベルを100とすれば、多くの企業の目標管理制度のレベルは、50〜70くらいの感じである。業績、成果を重視する人事制度の重要な部品としての目標管理のレベルが、機能していないレベルであるともいえるのである。そろそろ一律の“目標管理”から脱却しなければならないのではないだろうか。  目標管理がうまく機能していない原因はいくつかあるが、そのうちの主要な原因の一つに、目標の設定の精度があげられる。そもそも目標管理は、企業の目標→組織の目標→個人の目標というように、樹形図的に目標が階層化されることを前提としている、そのため個人の目標は、“個人のレベルにあっていること”、“個人の責任権限の範囲で目標をコントロールできること”、“ある程度の精度で測定が可能であること”の条件を満たさなければならない。日本企業の人事管理スタイルでは、全社員がこの3つを満たすことは非常に困難である。まず等級・グレード制度が“職務”と連動していないので、各社員のレベルに合った目標レベルを設定することが困難である。特に非管理職社員についてはこの傾向が強い。また組織目標の達成は、組織、チームで行うことが多く、個人の業務が独立して集積しているのではないことが多い。そのため一般の社員の目標設定は、ひどくあいまいで統一性がない。果ては目標を社員個人に設定させる企業もある。社員が企業、組織目標を理解し、自分の等級・グレードレベルをよく理解し、邪念がない状態で目標設定するのであればまだわかるが、個人に設定させた目標はあまりにもバラバラである。さらにその目標に対して上司が検証し追加修正削除し、決定するプロセスが決定的に弱いのである。社員がそれぞれ設定した、バラバラのハードル競争をしているようなもので、これで仮に“測定”がうまくいっても、本来的に公平な競争が成り立っていない。  個人に目標設定させる悪習がなぜこれだけ流行し、それが機能しないことが証明されているのに、なぜかこの手法から脱却できていない。個人が目標を考え、目標案を作成することは、社員の経営に対する理解度を高める意味では否定はしない。しかしあくまでも会社目標を達成するための、樹形図的な目標設定であるのであれば、管理職が強い権限で統制するべきであろう。十分に機能しない今の目標管理を続けることが正しいとは言えない状況であることは間違いなく、再構築が必要なのではないか。 以上

泥酔するサブマリン | その他

泥酔するサブマリン

 まず、生ビールを注いだジョッキが目の前に置かれる。レモンスライスを一枚とコーヒーについてくるミルクピッチャーを用意。ミルクピッチャーにテキーラを注いで、レモンスライスの上に置く。それをそのまま、そぉっと生ビールの表面に浮かべ、静かに手を放すと、ゆっくりとゆれながら、レモンに乗ったテキーラ入りピッチャーがジョッキの中を沈んでいくーー。  「サブマリンっていうんだけど、まあ呑ってよ」と隣でささやく声。代官山ハリウッドランチマーケットならびの洒落た飲み屋の片隅で、初めて口にする飲み物をすすりながら、聖林公司社長・ゲン垂水さんのインタビューは、始まったのだった。70年代から80年代にかけて、既存商業資本とは無縁に、輸入古着や雑貨を売る新しい店舗業態が渋谷、原宿を中心とした路地裏につぎつぎ生まれた。ハリウッドランチマーケットをつくったゲン垂水さんは、そうした路地裏の企業家を代表するひとりだった。  当時、渋谷から原宿へ向かう道には、長谷川義太郎さんが文化屋雑貨店を開き、同種の、既成概念をこえた店舗ビジネスがぞくぞくと街に生まれた。パリコレに代表されるファッションシーンが作り出す流行だけではない、ファッション文化震源地が街に多発したのだった。その担い手も享受者も、街の若者ということが新しい路地裏のビジネスであり、そこがまた街の活力を高めるという時代だった。 街が呼吸し、そこから流行が生まれる。その契機となったのが、渋谷パルコの誕生だったのだと思う。1973年の渋谷パルコオープン以前、渋谷公園通りは、一本裏の通りにはラブホテルが立ち並ぶ、駅から離れたさびしい一角だった。渋谷パルコはそこを極彩色の風景に変え、渋谷を変貌させた。 よく知られるように、パルコは初のファッションビル業態である。パルコという「場」を用意し、テナントを集め、情報を発信し、人々を呼び込むというビジネスモデルは、パルコ専務だった増田通二さんが初めて作ったものだった。その魅力的な才人ぶりは、以前、このコラムに書いた。 オルガナイザーだった増田さんの構想は、いまでいえば、プラットフォームビジネスであり、しかもその範囲は店舗空間を超えて地域にまで及んでいた。その鍵になるのは、鮮烈なメッセージや斬新な情報の発信と考えた増田さんは、刺激的な広告や雑誌発行やアートの消費を、つぎつぎと仕掛け続けたのだった。 そこにおける増田さんのクリエティビティの秀逸さもさることながら、その貢献は、渋谷パルコを契機とする当時の文化シーンがさまざまに揺籃し、当時なかった新しい街のビジネスが多く生まれたことである。それが面白くて、「路地裏の企業家たち」へのインタビューをしていたころのことを、渋谷パルコが8月に閉店したと聞いて感慨深く思い出す。 ハリウッドランチマーケットの垂水さんのインタビューでは、サブマリンを飲みすぎて、沈没した。たしか、アメリカ放浪から帰ってきた垂水さんが、縁あって渋谷パルコのポスターのモデルをやったと聞いた。もしかすると、そこで増田さんの面白い逸話が聞けたのかもしれないが、すべては泥酔のかなたである。 渋谷パルコは、2019年にオフィスと商業施設の複合ビルとしてリニューアルするそうだが、よくある再開発は渋谷パルコ「文化」とはきっと別物だろう。だから、その終焉を悼んで、その当時の輝きを偲んで、30数年ぶりのサブマリンを痛飲したい。

百本ノック | その他

百本ノック

 成果・業績を重視した人事制度へ改定を行う企業が多くある。新たに人事制度を改定する企業では、制度の基本的なコンセプトの中に、“成果・業績の重視”、“貢献した社員により多くの配分”といった成果・業績・実力を重視した文言が圧倒的に多い。そのためには、企業が必要な人材を明確にすることと、成果、業績、実力によって大きな配分の差が発生できる処遇の仕組みが構築されなければならない。さらに社員の成果、業績、実力を正確に“測定する”ことが必須となるのである。  人事制度設計時では、この“パフォーマンスに応じた配分差”を今までよりも大きくすることが重要であると認識されており、そのための仕組みを詳細に設計することになる。設計時点で評価制度に求められる絶対的な要件は“測定”の機能であるのだ。パフォーマンスの適切な測定があるからこそ、新しい人事制度は機能するのである。この適正な測定を実現するためには、評価の制度の整備も重要であることは間違いないが、より重要であるのは、実際に評価する管理職の評価スキルである。長期雇用を前提とした日本企業では、パフォーマンスをストレートに反映した評価を行うことに、管理職は積極的ではない。マイルドな評価を行うことで、本心は組織の平穏や安定を指向しているのだ。成果、実力に対する適正な評価を行うことに価値を置いていないともいえるのである。  新しい人事制度がうまく機能するためには、実際に評価する経営者、管理職の評価スキル・マインドを格段に向上、大きな変革をしなければならない。そのためには、役員や組織の評価を厳格に行うことが必要であることは言うまでもないが、それを前提としても管理職の経営・人事管理のスキル・マインドの改革が必須であろう。  もう少し限定的に言えば、役員、管理職の人事制度、特に評価のスキル・マインドを変容させなければならない。そのためにはいくつか有効な手法はあるが、伝統的には“評価者研修”を行うことが有効と思われている。しかし一般的に行われている評価者研修は本当に有効なのであろうか。口が悪い人は“偽薬”というように、評価のレベルを上げるための研修であるのに、研修をしても実際には効果は限定的で持続性がない。治療方法としてほとんど有効性は認められないのである。実際に一般的に行われている評価者研修は、評価制度の説明や、評価者のマインド、悪い評価の例、評価のフィードバックの方法などが中心である。新たな制度では成果や実力を“測定する”ことが絶対的条件として求められているが、果ては“評価は育成である”といった本質と違うストーリで展開するものまであるのだ。これは“測定”は厳しくてやりづらいので、“育成”という言葉を使えば、まだマイルドだという感覚であるが、本質がずれている。  “測定”を徹底するのであれば、役員、管理職は、実際の部下を新しい人事制度に沿って徹底して“測定”するスキルやマインドを身につけなくてはならない。自分が行った評価が“測定”という観点で正しいのかを、何度も実施検証を繰り返すことが必要なのかもしれない。評価者研修は、新たな評価表で自分の部下を評価し、新制度の趣旨に合っているか、企業の経営者や管理職から“適正”であると評価される品質の高い評価ができることに注力するべきである。ひたすら評価を行い、ひたすら評価の品質を問う、百本ノックのような研修が有効なのかもしれない。 以上