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コラム

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「すいません」の悪循環を断ち切るために | その他

「すいません」の悪循環を断ち切るために

 昨今の世の中ではコロナ禍の影響でお客様へのプレゼテーションもWEB会議で実施することが多くなった。そのため立ち方や発声、ポインターの使い方といったお馴染みのプレゼンスキルを意識して使用する機会は減っている。では、プレゼンの訓練はもう不要なのだろうか?  私が先日受けたプレゼン研修にて「プレゼンを成功させる秘訣は、自信をもって話すということだ」と聞き、大学時代に国際会議でアルバイトをしていた経験を思いだした。日本人の発表者が「私の英語とスピーチ能力が拙いせいでわかりにくくてすいませんが…」とスピーチを切り出したところ、真剣に聞こうとしていた諸外国の方々が徐々に聞く耳を持たなくなったことを今でも鮮明に覚えている。  日本人は挨拶の代わり、感謝をする時、様々なケースで何かと「すいません」というフレーズを多用する。特にプレゼンの場では多くの人が人前で話す訓練をしてこなかったため、原稿にかじりつき、自信がなさそうに話を始める。そのような場合にも必ず「すいません」と一度は口にしているように思われる。かくいう私も新入社員の際に「すいません」という口癖が出来上がってしまい、上司に指摘をされた経験を持っている。自信がなさそうに見えて一緒に仕事をしていて不安を感じたそうだ。  プレゼンへの自信のなさは、訓練不足に加えて、日本のコミュニケーションに関する文化的背景も影響している。「沈黙は金」「言わぬが花」といった格言に表される通り、自分の考えを相手に明確に表現せず、直接的な表現を避け、オブラートに包む事を良しとする。これらの理由により諸外国の方々にはプレゼンやコミュニケーションを行う際どうしても自信がないように映るのではないだろうか。  コロナ禍でテレワークが進み、共に働く人の顔すら見ることが少なくなった今、人の表情や雰囲気などで相手の考えや感情を察する事がより難しくなり、コミュニケーションのあり方も大きく変わってきている。そのため、自分の意見を相手に明白に伝え、理解してもらう能力の必要性が従来より高まっていると私は考える。  このような状況下だからこそ企業は適切なプレゼン研修を今一度行うべきではないだろうか。

望ましいFIREムーブメント | 人事制度運用支援

望ましいFIREムーブメント

 年末、高校のクラス同窓会に出席した。今回はZOOMを使って、リモートで開催された。毎回、一人一人の近況を聞くのを楽しみにしているが、最近は、親の介護や子供の就職、結婚等がメインだが、今年、大半が定年を迎えるため、定年後にどこで働くのか、どんな生活をするか等、自らの今後のキャリアを語る同級生も少なくなかった。  いつのころからか、「FIRE」という言葉を耳にするようになった。「FIRE」と言っても、ドナルド・トランプ氏の「You are fired!」ではなく、「Financial Independence, Retire Early」の頭文字をとったもので、経済的な安定を確立して、早期にリタイアを実現しようという取り組みを言うものだ。 FIREはいまやムーブメントになっている新しい生活スタイルで、日本でも若い世代を中心にFIREへの関心が高まっていると言われている。  我々の20代の頃も、若いうちから猛烈に働いて、早期にリタイアして、自由に余生を楽しむことを目指している人々は、いるにはいたが、ごく少数だった。少なくとも、さきほどのリモート同窓会で集まった友人たちの中には、早期リタイアして、悠々自適に暮らしている同級生はいない。  そのFIREがムーブメントになり、多くの若い世代がそれを目指している背景には、何があるのだろう。その一つは、過去と比べて、今の若い世代の将来に対する期待が、過去と比べてずいぶん異なる事にあるように思う。かつては、日本でも経済成長が続き、毎年、賃金が上がり、それに合わせて、日々、社会も個人の生活の質も向上していく感覚があった。もっと頑張れば、もっと豊かになるという事を実感できていることは、励みになるし、働くモチベーションにもなる。  ところが、我が国では、バブル経済崩壊後、しばらくすると、デフレが進み、GDPもこの20年、400~500兆円あたりで横ばいを続け、経済成長が鈍化したままで、その結果として、個人の給与水準の上がらない構造が続いている。国税庁の民間給与実態統計調査でも、10年以上の間、平均年収400万円台前半の水準で推移し続けている・・。  こうした社会環境の中で、働くことに対する喜びを見出そうとしても、なかなか活力が湧き出てこないというのも、わかる気がする。いっそのこと、早く経済的に自立して、後は、好きなことをして暮らしたいという気持ちがでてくるのも自然な事だ。  さらには、ここ10年の株価の上昇トレンドをみると、まとまった金融資産をうまく回せば、それなりの利子が確保できそうに思える事や、YouTuberなど、個人がネットメディアに発信することで、世界を相手に、巨額な収入を得られる仕組みが出現したことも、いわゆる会社勤めをやめて、好きなことをして生きていきたいという風潮を後押ししているのかも知れない。  FIREムーブメントには、賛否両論あり、シニア世代には、否定的な意見を持つ人も少なくないようだが、  個人的には、若いうちから猛烈に自分を磨いて、働き、いずれFIREを実現しようという想いを持つことは悪いことではないと思っている。むしろ、若いうちから、やる気も将来の見通しを持たず、ほどほどに仕事をして、将来のあてもなく、漫然と生きるよりは、よっぽどよいと思う。  ただ、FIRE実現後の人生は、いま、それを目指している人の思い通りではないように思う。起業して株式を公開し、若くしてリタイアをした私の友人、知人達も、しばらくして、また、ビジネスの世界に戻って来ている。多額の資産の利息だけで、生活するのも、しばらくは良いかもしれないが、いずれ飽きるのが人間だ。 人生100年時代の後半を、自分の能力、スキルも磨かずに、のんびり生きることには、やがて耐えられなくなってしまう事だろう。  生活費を切り詰め、ほどほどに働きながら、収入の大半を貯金に回して、こじんまりとした余生を目指すFIREというのもあるかもしれないが、どうせなら、豪快なFIREを目指してほしい。多くの若い世代が、将来のFIREを目指して、猛烈に働くことは、沢山の価値が社会に生み出されることになり、世の中にとって、明らかにプラスだ。そして、経済的自立を得た後も、会社からリタイアしても、人生のリタイアはせず、自分らしいやり方とペースで、社会に貢献し続けるFIREを目指すのであれば、多いに歓迎したい。

ローパフォーマーをイノベーション人材にする | その他

ローパフォーマーをイノベーション人材にする

 高い業績を上げるハイパフォーマー、平均的な業績のアベレージパフォーマー、そして低業績者であるローパフォーマー。好むと好まざるとにかかわらず、社員の成果を見てみると、ある程度のばらつきが出てくる。  成果主義的な考え方では、いかにハイパフォーマーを増やし、ローパフォーマーを減らしていくかが重要視される。  ローパフォーマーは、業績評価が低い者を指す。多くの場合、そのものさしは既存事業を基準としている。しかし、「新しいサービスのアイデアを出した数」や「フットワーク軽くいろいろな顧客の声をヒアリングした数」などの別のものさしだったら、ローパフォーマーはもしかしたらハイパフォーマーになりうるのかもしれない。ハイパフォーマーとローパフォーマーはものさしによって決まるのだ。  イノベーションのジレンマ※という言葉がある。前の世代のリーダーは、次世代の破壊的イノベーションには対応できないことを意味する。技術革新や社会環境の変化によって、顧客にとっての価値基準が変わってしまえば、当然のことながらそれに合わせて事業の価値も一変する。  歴史を振り返ると、例えば音楽のメディアとしては、レコードがCDに取って変わられ、そして現在は音楽配信サービスが隆盛だ。また、映像の領域ではフィルムカメラはデジタルカメラに代替されてしまったが、その後さらにスマートフォンが破壊的イノベーションを引き起こし、いまやカメラそのものの需要を脅かしている。このような例は枚挙にいとまがない。  既存事業の運営において優れた実績を上げた人材だけでは、このような変化に直面するなかで新しい対処法を編み出すことは難しいのではないだろうか。  もちろん社員の成果を正しく把握し、組織の業績を管理していくことは重要だ。しかし、たった1つのものさしで低い数値を出した社員にローパフォーマーというレッテルを貼り、その社員の別の能力に目を向けないことになるようであれば、組織の可能性を狭めてしまう。  では、いかにしてローパフォーマーはイノベーション人材になり得るか。  仮に新規事業のプロジェクトを立ち上げるとした場合に、各部署のエースだけを集めてチーム編成するのではなく、例えばアセスメントを実施し、社員の保有能力を従来の評価とは異なる新しいものさしで客観的に再評価し、そのうえで選出されたメンバーによってチーム編成してみてはどうだろうか。これまでローパフォーマーとされてきた人材が活躍できる可能性は大いに考えられる。  また、今すぐに新規事業を立ち上げる予定がなくとも、社員個々人が持つ多様な特性に目を向けたアセスメントを実施し、積極的なジョブローテーションを取り入れるなど、新たな活躍の機会を探ることはできる。そのような取り組みから、組織に予想もしない新たな可能性をもたらす者が出てくるかもしれない。  社会はますます複雑になり、変化が激しく将来を正確に見通すのは難しい。そのような事業環境下において、破壊的イノベーションのリスクにさらされてからでは遅い。平常時ほど危機感を持ち、社員の多様性を高めて組織の可能性を最大限に引き出す道を模索し続けることが必要だ。 以上 ※『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』 著者:クレイトン M.・クリステンセン、寄稿者:玉田俊平太、翻訳者:伊豆原弓、2000年、翔泳社

「指導と評価の一体化」 | 人事制度運用支援

「指導と評価の一体化」

 人事部門の方に、人事評価の運用についてどのような悩みがあるか聞いてみると多くの企業では、「部下を評価するのは難しい」という意見が多い。また、「評価によってどのように部下のモチベーションを上げればいいのか」と考える人も多いのではないだろうか。インターネットで“部下の評価の仕方”と検索すると、評価のポイントや評価文例なども出てくる。それほど評価に関するアドバイスへの需要は高い。  さて、今回伝えたいことは、評価と指導の一体化だ。評価だけにスポットを当てるのではなく、評価を今後の指導に生かすことについて述べたい。  なぜ評価と指導の一体化なのか。実は学校教育では、この言葉はよく使われる。文部科学省が作成している学習指導要領(いわゆる先生達の教科書)にも次のような記述がある。  “学校においては、計画、実践、評価という一連の活動が繰り返されながら、児童生徒のよりよい成長を目指した指導が展開されています。すなわち、指導と評価とは別物ではなく、評価の結果によって後の指導を改善し、さらに新しい指導の成果を再度評価するという、指導に生かす評価を充実させることが重要です。”  私の体験談を話したい。教師が定期テストを作成する際、いきなり100点満点のテストは作れない。10点の小テストを何度か繰り返し、生徒の解答を分析した上で、テストを作成する。だから、良いテストができるのである。  自分が学生でいる間は、このように先生達が考えているなどとは、恐らく微塵も思わない。重要なことは、誰しも学校という場でこの評価と指導を受けてきているということ。だからこそ、“指導と評価の一体化”の考え方は、企業でも通用するに違いないと考える。  評価で終わるのではなく、評価者は「なぜ目標達成できなかったのだろうか」「どんな指導が必要だったのだろうか」この問いに対する答えを考えた上で「次なる目標を設定する」ことにつなげた方が良い。なぜなら、このプロセスを繰り返すことで、評価だけでなく自分の指導の質も高まっていく。結果として、より良い人材育成につながるということである。  評価を受ける部下だけがそれを次に生かすのではなく、評価者たる自分もそれを生かす。“指導と評価の一体化”ができると、評価の在り方も変わってくるかもしれない。

組織を育てる ~妬み嫉みのその先へ~ | その他

組織を育てる ~妬み嫉みのその先へ~

 処遇にメリハリをつけて優秀な人材に報うための制度を作りたいという相談は多い。そして、そうは言ってもメリハリをつけると妬み嫉みでハレーションが起きるから、現実的にはほどほどにしなきゃね、と葛藤する姿もよく見る。  特に、成果による処遇の連動性を高める議論をしている時や、管理職育成対象者を選抜・育成するための等級の設計などを議論している時に、そんな制度は理想だけど、人間には感情があるからうちの会社では無理だね、と。  不必要なハレーションは利益を生み出さないし、生産性が下がるので無駄である。しかし、感情の揺れ動きがあることは決して悪いことばかりではない。妬み嫉みの背景には感情と、それを湧き上がらせるだけの凄まじいエネルギーがある。  嫉妬やそれが引き起こすハレーションは、感情のベクトルや表出のさせ方として正しくはないし、ビジネスマンの立ち振る舞いとしても粋ではないが、そこには確かにエネルギーがある。  本人の自覚はともかくとしても、心の奥底で自分も認められたい、出世したいと思うからこそ、人を妬み羨む嫉妬心が生まれる。一方、全く立身出世に意欲・関心がない者は、誰が評価されようと、選抜されようと、淡々と出勤して日々の仕事をこなすだけである。  後者の集団はハレーションを起こさないため、一見問題なく見えるが、現状維持をする以上のエネルギーを持たない。将来の組織力を向上させるための種が無いのだ。  エネルギーが無いところにエネルギーを持たせるより、好き勝手に発散されているエネルギーの方向をコントロールする方が簡単だ。  負のエネルギーこそ、心の奥底から湧き上がる感情を湧き上がらせる際に発生しているものであり、驚異的な力を持つ。ベクトルを正すことさえできれば、とてつもない戦力となる。  他人を揶揄し、不平不満を言い、足を引っ張ろうとする負のエネルギーを、自らの壁を乗り越えさせるための正のエネルギーに変換するマネジメントや育成ができないだろうか。それさえできれば組織力が格段に上がる。  妬み嫉みがくすぶる組織は腐った組織ではない。強い組織になるための種を持つ組織だ。種を腐らせるか、好き勝手に自生させるか、それとも支柱を添えて丁寧に育て花を咲かせるかは働きかけ次第だ。

管理職になりたくない女性たち | 人材開発

管理職になりたくない女性たち

 2016年に「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」、いわゆる女性活躍推進法が施行されました。人財確保のための女性の登用、活躍推進は、労働力不足の深刻化を踏まえた国をあげての目標です。  女性就業者数を見ると、2000年に57%だったものが、2019年では70%を超えています。専業主婦ではなく、何らかの形で働く女性が増えたということです。この裏には、もちろん労働参加を促す政策や企業の努力もありますが、世帯年収の減少に伴って社会で働く選択をした女性もいるという事実もあります。  それでは、増加している女性就業者の中で、企業の管理職として指導的地位で活躍する女性はどれほどいるでしょうか。  2003年の小泉内閣時代に、男女共同参画推進本部にて「指導的地位に占める女性の割合を2020年までに30%程度にする」という目標が決定されました。結果としてはご存じの通り、30%の目標には及ばず、2030年まで先送りにしました。  これだけ国をあげて行う政策目標がなぜ達成できないのでしょうか。これは業種、企業など多種多様な事情があるため、ひとつに絞ることはできません。ここでは①企業や周囲の意識と②女性本人の意識について考えていきます。 ①周囲の意識 「男性が働き、女性が家事育児をする」  耳に胼胝ができるほどよく聞くことです。この考えに関する意識変化は起きており、総理府「婦人に関する世論調査」「男女平等に関数世論調査」、内閣府「男女共同参画社会に関する世論調査」「女性の活躍推進に関する世論調査」から見ると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考えに賛成またはどちらかといえば賛成と回答している割合は、昭和54年に男性で75.6%、女性で70.1%だったものが、2019年には男性で39.4%、女性で31.1%と大きな変化を見せています。しかし、男女ともに30%以上は肯定的であることは注目すべきポイントです。  ここに女性管理職の問題を絡めてみると、「管理職」というのはそもそも、非管理職に比べ仕事量も多く、仕事中心の生活をできる人が就くものという根底意識があるため、「家事育児介護を女性が行う」思想がいまだ根強い日本においては女性管理職を積極的に登用できていない、ということだと考えられます。男女で区別を付けていないつもりでも、ジェンダーバイアスが存在するのです。  また、それまでの慣例に従って雑務やルーティンワークを女性に任せたり、女性の積極登用に尻込みする結果、女性管理職のロールモデルが生まれない、こうした慣例もジェンダーバイアスの一つと言っていいでしょう。そして、登用以前に育成しようとしないのです。 ②女性本人の意識  企業で働く女性自身の意識はどうでしょうか。 独立行政法人 国立女性教育会館から出された「令和元年度 男女の初期キャリア形成と 活躍推進に関する調査 (第五回調査) 報告書 」によると、女性の管理職志望は入社1年目には60%あったものが2年目には46.4% となり、5年目には37.6%まで低くなっています。男性の場合は5年目でも87.9%です。つまり、多くの女性は「管理職になりたくない、ならなくてもいい」と思っているのです。  管理職志望のない女性の回答において、特に多い理由は以下です。 「仕事と家庭の両立が困難になる」(69.3%)、「自分には能力がない」(40.01%)、「周りに同性の管理職がいないから」(18.2%)  ここから①と②の関連を見ていきます。 「仕事と家庭の両立が困難になる」という理由からは、「男性は外で仕事、女性は家庭を守る」思想の根強さが表れています。女性の多くはそもそも、「結婚したら家庭のことを担うのは自分だ」と思って育ってきているのです。「男性は外で仕事、女性は家庭を守る」思想は女性自身にも刷り込まれてしまっているものであり、男女ともにこの考え方から脱却する必要があります。(この報告の就職活動時の基準重視度の設問「家庭と仕事を両立するための制度が充実していること」に関して男性より女性の方が「重視した」の割合が顕著に高いことも注目すべきポイントです。) 企業においては、女性の仕事と家庭の両立ができる環境を整備するのはもちろんのこと、女性同様かそれ以上に、男性社員の仕事と家庭の両立ができる環境を整備することに意識を向けるべきです。  女性社員が「自分には能力がない」と考えてしまうのは、それまでの育成や業務内容によるところが大きいでしょう。入社時から男女共通で差のない業務を与え、目標を達成させることで自信を付け、よりステップアップしたいと思わせることが重要です。  「周りに同性の管理職がいないから」という、ロールモデルがいない問題に関しては、ロールモデルを作ることが必要ですが、男女という区別ではなく、各個人として社員を客観的に評価し、正確に能力の把握をした上で最適な人員配置を検討することが第一歩です。また、男女の業務格差をなくしたり、男性社員が家庭との両立を図ったりすることで、性別関係なく目標とする上司像が形成されるでしょう。  果たして2030年までに目標は達成できるのか。 「管理職になりたい」と思わせる魅力がそもそも必要なのです。

どんなパッケージがあるのですか? | 人事制度運用支援

どんなパッケージがあるのですか?

 採用担当をやっている友人が話してくれたエピソード。外資系の開発会社で経験あるシステムエンジニアが採用面接に訪れた時のことだそうだ。志望動機やプログラミングスキルなど、ひととおりの質問の後、そちらから何か質問は、と尋ねてみると、「御社にはどのようなパッケージがあるのですか。」という問いが返ってきた。  パッケージとは一体何のことか、と確認すると、当たり前のことだが、という前置き付で、退職を余儀なくされた際に受け取る、割増退職金、在籍猶予期間、再就職支援など一連のサービスセットのことをいうのだ、との返答だった。この人は、入社する前から退職のことを考えていた。いや、パッケージなるものが整っている会社でないと、怖くて働けない、と言うのだ。  若手社員の離職は、多くの会社に一様な問題になってきた。辞める理由にいろいろあるが、その多くは「うちの会社では将来のキャリア展望が持てない」ということだ。そう考えて、より良いキャリア展望が持てるように人事制度を改変したり、社員に改めて人事制度の内容を周知徹底したりするような企業が増えている。雇い主のほうは、キャリアの道筋が見えるようにさまざまな努力をし、社員の定着を図る。だが、雇われる側は、もはや社内でのキャリア展望を求めていないと見える時がある。かっこよく言えば、社内でのキャリアゴールなど眼中になく、労働市場全体を俯瞰した、転職前提のキャリアプランを考えているのかも知れない。  我が国より先を行っていると言われる米国と中国のIT業界、その労働市場について、それぞれの国のビジネスマンを捕まえて聞いてみた。おおざっぱなところでは、両国の慣習はよく似ていた。  システムエンジニアとしての収入のピークは30~35歳、それを過ぎると、技術知識と経験だけでは収入を伸ばすことができない。同じ会社でその先に進むとすれば、プロジェクトマネージャーの仕事に就き、さらにその先、管理職に進んでいくことが求められる。しかしながら、マネージャーポストには限りがある。そこで、エンジニア諸氏は、30歳を過ぎると、自分で会社を立てて人を雇い、大きな会社の下請けに入って中小企業経営者としての道を歩む。さもなければ、別の業界のシステム部員として再就職する。リスクを抱えるか収入の伸びをあきらめるかといった選択だ。 周りにたくさんのロールモデルがあるのだろう、彼らは、若い頃から労働市場全体の動きに注意を払いながら、現実的なキャリアプランを練っているのだ。  雇用に関するこうした動きは、早晩、我が国にも忍び込んでくるに違いない。たとえば、我が国の高等教育(大学の教育)では、2030年に必要なIT専門人材の4分の3足らずしか満たすことができないだろうという予測がある。不足分は当然、外国の労働力に頼らざるを得ないのだから、我が国の雇用慣習への影響も避けられない、ということだ。そして、このことは、ただIT業界に留まることではないだろう。  我が国の経営者の多くは、「人を大切にする」という表現で、雇用の安定・確保にこだわってきた。会社の中に、さまざまなキャリアの選択肢を準備して、心配しなくてもよい、長く働いてください、というメッセージを送ることができるよう、さまざまな努力をしてきた。ところが、社員のほうがそんなことは求めていませんよ、という社会になりつつある。言われなくてもずいぶん前からわかっていますよ、というコメントが聞こえてくるようだが、私たちが思うより、ずっと早いスピードで、強いマグニチュードで、雇用の地殻変動は進んでいるのではないかという気がする。これからの人事管理を、断層のこちら側で設計するか、あちら側で設計するか、腹の決め時が来ている。

なんとなく辞めたい若手 ~複眼的情報が若手の不必要な離職を防止する~ | 人事アナリシスレポート®

なんとなく辞めたい若手 ~複眼的情報が若手の不必要な離職を防止する~

 20代の離職率が高いという相談は常に多い。また、個人的にも、近頃20代から30代前半くらいまでの知人から退職・転職活動に関するアドバイスが欲しいとの相談がやたらと多い。  彼らの話をよくよく聞くと、背景には2つの誤解があった。1つ目の誤解は、組織人事分野のコンサルタントという職業が、なぜだか転職支援のプロだと思われているということ。人事=採用という図式が彼らの頭の中にあるようだ。転職支援を生業にしているわけではない事実を伝えつつも、幸いにして労働市場に関する知識はそれなりに持っているので何らかの役に立てればと、引き続き話を聞くこととする。  2つ目の誤解は、今の会社を辞めさえすれば、全ての不安や不満が解消されると思ってしまっていることである。  彼らのほとんどは大学を卒業後に入社をした会社で若手社員として奮闘している。学生時代の就職活動では入社後に企業で叶えたい夢を語らねばならないため、試行錯誤しながらやりたいことを探し、作文し、面接でアピールしているうちにその会社に受かりさえすれば未来が明るいような気がしてくる。  しかしながら、入社後数年が経つと自らが選択した業界・職種・企業の良いところも悪いところも見えてくる。企業にとっての強みと弱みは背中合わせの関係にあることも多いが、「なんとなく辞めたい若手」にとっては悪い点ばかりが見えてしまったり、客観的に見ればさほど悪い状況でもないものの、重大な欠陥のように見えたりしてしまう。  限られた世界の中で日々奮闘している社員にとって、視野が狭くなってしまったり、入ってくる情報に偏りが生じてしまうことは仕方ない側面もある。その結果、自らがとんでもない窮地に立たされているかのように錯覚し、本当は続けたかった仕事を辞めよう、辞めさえすれば不安が解消される、と思ってしまう。  情報の偏りを是正するだけで離職を踏みとどまったケースがある。小売業で働くある若手社員の主訴は「職場がすごく高齢化していて、若い人の意見が全然通らないし、アイデアが形にならない。」とのことであった。  そこで、まずは企業の従業員の平均年齢を調べてみた。すごく若いわけではないものの、本人が悲観するほど高くなく、一般的な水準だと推測できた。その後、全国の民間企業で働く労働者の平均年齢、都道府県別の平均年齢、業種別の平均年齢、企業規模別の平均年齢も調べてみた。驚くことに、当該企業の平均年齢はいずれの属性で調べた平均年齢よりも若いことが分かった。  世の中と比べて異常な高齢化をしている訳でもなく、むしろ若干若いくらいだとの事実を伝えた。併せて、日本の高齢化の程度・スピード、将来の予測情報を提示し、小売り業各社がターゲットとする市場(顧客)も同様に高齢化している旨を伝えてみた。事業規模の維持・拡大のため経営の方向性として中高年~高齢者を対象としたプロモーションに舵を切っている可能性が考えられないか、そのことが上司の方向性と本人のアイデアや意見との乖離を生んでいる可能性がないか、尋ねてみた。  主観的情報だけでなくあらゆる外部指標と比較をして客観的に観測したり、それを踏まえて上司の意見の背景を推察したりすることにより、不安感がずいぶん軽減されるようである。  もちろん定年まで見届けた訳ではないので、再度離職を考えるタイミングが来るかもしれないが、勢いに任せて偏った判断を下してしまうことは免れたのではないかと思う。  継続的なメンタルチェックや業務負荷に対する考慮、ワークライフバランスの考慮等、離職率に悩む企業が講じるべき施策は様々あるが、自社のあらゆる数字が外部に比べて優良であることを積極的に発信することが、漠然と未来を悲観する若者の離職防止に役立つかもしれない。

VUCAの中で | 人材開発

VUCAの中で

 新型コロナウィルス感染の第五波は一気に収束した。この事実は、喜ばしいニュースだが、感染者が急速に減少した理由として、専門家は、1)市民の感染対策強化、2)人流、特に夜間の滞留人口減少、3)ワクチン接種率の向上、4)医療機関・高齢者施設での感染者の減少、5)気象の要因という5つ要素を挙げているが、今までの感染者数の波の形や大きさを考えると、挙げられた要因が収束の原因だと素直に納得できる人はあまりいないのではないか。今後、第六波がやってきた際にも、感染者数が増加した要因の説明があるだろうが、結局、本当のところは、専門家でさえも、よくわからないというのが、正直なところだろう。  10年ぐらい前から、社会経済界でもVUCAの時代と言われるようになった。Volatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:曖昧性の4つの頭文字を並べた造語で、変化が激しく、先行きが不透明な状況が同時進行しているという事だ。  その背景には、技術革新のスピードが速まった事や社会のグローバル化やインターネットの普及で、世界中の各地域の様々な事象がリアルタイムで影響を与え合う事などがあると言われている。  今回のコロナ禍もまた、VUCAな状況と言える。複雑に絡み合った要因が感染の拡大に影響を与えていて、なぜコロナ感染者が増減するのか、理由が説明ができない(複雑性)。どのくらい感染者数が増えるとピークに達するのかという変動幅もわからない(変動性)、いつ収束するかもはっきり言えない(不確実性)、どういう対処をすればよいのか正解もわからない(曖昧性)。  コロナ禍は、現存の人々にとっては誰も経験したことがない事象で、判断の参考にするだけの十分な情報もないので、各国の政府は、それぞれ、国の環境や事情を鑑みて、ロックダウンなどの行動制限等、それぞれよかれと思う判断をしている。コロナ感染の収束という目的は同じでも、世界各国の対応方法も当然ながら、かなり開きがあった。  コロナ禍に対する判断と同様、VUCA時代の中で、我々は目の前の課題に、正解を導くだけの十分な情報がない中で、意思決定をしていかなければならない。もちろん、可能な限りの客観情報を集めることは重要だが、大切なことは、自ら、現在の状況を解釈し、仮説を組み立て、自分なりによかれ、という判断をすることだ。  いまや、この時代に、100発100中、正解を目指すことは無理だと割り切ったほうがよい。むしろ、不十分な状況の中でも、ぎりぎりまで、自らの頭で考え、判断し、間違っていたら、速やかに軌道修正する迅速さのほうが重要になってくる。  コロナ禍は、こうした能力を備えた人材の採用や育成が、いかに企業人事の優先課題であるかを、認識させられる機会でもあった。

単純化し過ぎ!「人財能力の向上→組織能力の向上」 | その他

単純化し過ぎ!「人財能力の向上→組織能力の向上」

 ビジネス環境が激しく変化する状況で、どのように組織能力を高めればよいのか?  変化が「速い」だけで「これまでの延長線上で、先が読める」のなら、既存人財でもなんとか対応できるが、今求められる「既存の方向性とは異なる新たな取り組み」については、既存人財での対応が難しいと判断して、採用に力を入れる組織が増えています。 これは、「新たな血を入れることで、組織能力を高めることに繋がるだろう」という仮説に基づいた施策です。  他方、既存人財をどのように活かしていけばよいのか?と悩んでおられる組織も少なくありません。今回は、既存人財の話について、2つの視点に基づいて考えてみましょう。   1つ目の視点は、「発揮能力=技能✕意欲」という、「人財開発」に基づく捉え方です。   ・「技能」に関しては、主に「アップスキリング」「リスキリング」に関する施策が挙げられます。   ・「意欲」に関しては、「世界観や自己認識」「対人関係」「組織風土」に関する施策が挙げられます。   2つ目の視点は、「個人=点、対人関係=線、組織の風土や仕組み=面あるいは立体」と見なすなど「組織開発」(※)に基づく捉え方です。  これは、個々人(点)が専門的な潜在能力を持っていたとしても、それが活かせる職場環境(面や立体)ではなかったり、組織の方向性と個人のキャリア志向(ベクトル)が合っていなかったりすれば、充分な能力発揮、組織貢献、価値の創出や提供が望めないという考え方です。  ただ単に、技能を伸ばすメニュー(「点」向けの施策)だけ充実させていても、組織開発の側面を意識した人財開発を実施しなければ、「潜在能力と発揮能力のギャップ」を埋めることは困難です。  存分に能力を発揮するには、「線」や「面・立体」を意識した取り組みを並行して実施することで、個々人(点)が仕事を通して、「意義」や「喜び」を感じられるようにすることが重要です。  また、「組織能力の向上に向けて」という側面から、「業務プロセスの仕組み化(標準化、定期的な1on1等)」や「他部門・他者との協働」も重要になってきます。  そして、種々の施策の効果が打ち消し合わないように、相乗効果の発揮に繋がるように、「施策全体をデザインし、マネージする」こと(同期させたり、効果的な順序で実施したり、軌道修正をかけたり、振り返りを入れたりすること)も忘れてはなりません。  「組織の能力を向上させるには、人財(点)の能力を向上させるべきだ」という考え方は、間違いではありませんが、今回ご紹介した内容を踏まえると、「単純化のし過ぎ」のように思います。  人財開発については、その場しのぎの対症療法を繰り返すことになってしまわないよう、アルバート・アインシュタインの「すべてのものは可能な限り単純化すべきだ。しかし、単純化しすぎてはいけない。」という言葉を思い出し、組織開発の視点を含め、戦略的に検討されることをお薦めします。  ※組織開発の定義としては、「組織を円滑に機能させるための意図的な働きかけ」や「暗黙のルールや、できれば向き合いたくなかったような抜き差しならない問題を扱う、痛みを伴うグループでの学習・変化」、あるいは、組織の健全性と効果性の両方に焦点を当てた「自己革新力を高めるために、組織を理解し、発展させ、変革していく、計画的で協働的な過程」などが知られています。 以上

「役割」の効能と副反応 | 人材開発

「役割」の効能と副反応

 話題になった組織論の本を読んでいたら、進化した組織の素晴らしい点として、従業員が「ありのままの自分」を出せる云々、と書かれているのをみて、唖然として、本を閉じた。仕事をする環境である会社組織で、ありのままの自分をさらけ出すなんて、あまりに息苦しいし、そんな必要もない。むしろ、ありのままの自分ではなく、組織内の役割を演じることだけが問われ、役割発揮度合がパフォーマンスにつながるゲームだから、組織で働くことは面白い。  自分自身≠役割、だからこそ辛い仕事も耐えられ、仕事ならでの醍醐味もある。「たかが仕事、されど仕事」とは、そうした事情を的確に言っているのである。結果、人事評価が低くても、それはたんに役割に必要な能力がないというだけということであって、全人格的評価ではない(と思えばよい)。そもそも、ありのままの自分と仕事を重ねてしまうから、メンタルイッシューも出来するのではないか。  組織とはそもそも、個々人の能力限界を超えた成果を出せるための装置として生まれた。一人ひとりではできることが限られるけれども、うまく役割分担して組織すれば、個々人の能力総和を超えた集団としての能力発揮が可能になる。社会に対してより大きなコトをなすしくみが組織であり、それは役割としての個人=構成員を前提する。テーラーシステムにおける作業分業から、知識創造企業体における機能分業まで、そのコトワリは変わらない。 組 織成果にむけ個々人がやるべきことを自覚し協働でき、なおかつ人々のありのままの姿を守ることができるのが、「役割」の効能である。ただ、この役割は、組織としての成果を高めていくには、きわめてよく効くものなのだが、ときに効きすぎて副反応にいたることがある。役割には、それを熱心に演じることを通じて、「仕事する自分」が別人格としてアイデンティファイされる面があるからだ。役に徹することで、ありのままの自分だったらとうていできないことも、できるようになる、あるいは「しでかしてしまう」ということだ。  かなりむかしのことだが、取材記者をしていたことがある。文章だけでなく写真も入れる記事だったので、カメラを携帯し、よい記事にはインパクトのある写真が不可欠と撮影に力をいれていた。ある企業グループの合同入社式の取材のときのこと。式全体を俯瞰した写真を撮りたくて、ファインダーを覗いあちこち移動しているうちに、ついに決定的な構図をとらえてシャッターを押した。  その時私は、数百人の新入社員が入る広大な式場の壇上、各社の社長・役員が並んで座っている前で会場の全員に向けて訓示をたれているグループ総帥の後ろに立ち、総帥の後頭部越しに、こちらを凝視する会場の新入社員のたくさんの顔が並ぶ絵を撮っていたのだった。カメラを構え、誰にも断らずに、いつの間にか壇上にあがっている――「カメラを覗くと人格が変わる」と我ながらうろたえ、そのとき、職業意識の恐ろしさを知った。  普通なら臆してできないことも、役割に忠実に、役割に徹すればできる。だからよい写真がとれるというならば、効能ともいえるかもしれない。しかしそれは、あきらかな副反応(ときに社会に害をなすような)を起こすことがある。役割に忠実に実直に職務遂行するあまり、生み出された人類史上もっとも悲惨で衝撃的な副反応のメカニズムは、ハンナ・アレントの「エルサレムのアイヒマン」でよく知られる。  そこまで深刻ではなくても、我々は、役割とは単に組織目的に紐づけられた機能分担にすぎないことを忘れ、自分の生活を損なってまでも、社会の常識に反してまでも、役割を全うしようとすることがある。人は、さまざま関係のなかで、アイデンティファイされる。その中で、仕事つまり組織の役割によるアイデンティファイは、関わる時間量においても、責任や達成感や刺激の大きさにおいても、「親としての役割」や「市民としての役割」や「隣人としての役割」よりもインパクトが大きいゆえに、この手の副反応を引き起こしてしまうのだ。  ではどうしたらいいか。ときに、仕事の渦中でたちどまって、「自分はなぜこの行動をとっているのか」と自問すればいい。その問いに、「仕事だから」、「やらねばならぬ役割だから」と自答するなら、さらに、「なぜ自分はこの仕事をやっているのか」、「この役割はなんのためのものなのか」と玉ねぎを剥くようにしつこく自己言及していけばいい。結果、自分にとっての役割を、客観的かつ主観的に意味づけることができればもう、副反応なく仕事しているはずだ。「たかが仕事、されど仕事」と嘯(うそぶ)きながら。

コロナ後の職場はどう変わる? 対面会議の活用案 | モチベーションサーベイ

コロナ後の職場はどう変わる? 対面会議の活用案

 コロナ渦の収束がいまだ見えぬ中ではあるが、コロナ後の働き方について人事の皆様に伺うことがある。もともとリモートワークが不可能な事業形態の会社は別として、「リモートワークと出社の組み合わせ」のハイブリッド型を志向されているというご返事が多い。原則的に職場復帰を志向しているGoogle社のような企業はむしろ少数派のようだ。  ハイブリッドの働き方を前提とすると、コミュニケーションの方法も、Web会議と対面会議の組み合わせになっていく。その時、何を対面でやり、何をWebでやるかというのは判断が悩ましい。  最後は参加者それぞれの好む方法で、というのが正解だとは思うが、それでは整理がつかないので、対面会議の位置づけを、コストと効果の観点から考えてみよう。  まず、対面コミュニケーションは今や高コストな手段と捉えられるようになった。交通費に時間、体力を使うし、頭髪から服装、匂いまで全身の「身だしなみ」に気を遣う。そうなると、対面会議はコストがかかるのだから、ここぞという場面で行おうという心理が働く。  では何が「ここぞ」という場面になるのか。効果の観点から、「対面」にできて、「Web」ではむずかしいことは何だろうか。  相互に意見を出し合う目的の発散型の会議は対面に一定の優位性があるようだ。オンライン教育の専門家から以前伺った話では、ブレインストーミングなどのクリエイティブなセッションは対面の方が向いているという。  また、情報量の豊かさという点では対面はWebより優位にある。人間は、相手の声のみならず口の動きや顔の表情も含めた複雑な情報を認知している (※)ため、お互いに多くの情報を交換したい場合は対面にした方が良い。  このような特徴を踏まえ、以下のような条件に当てはまるときは対面会議を優先してはどうだろう。   ・互いの関係性がまだそこまで近くないこと   ・テーマに関する意見が定まっておらず、さまざまな情報を交換したい場合  たとえば、初めてのお客様との商談や新しく一緒になった部下とのミーティング。これらは、コストをかけても対面で実施すべき「ここぞ」という場面ではないだろうか。 そして長年のお付き合いのある大切なお客様との定例的なミーティングは、参加の負荷が最小限に抑えられるWebミーティングが合理的ではないだろうか。  筆者は営業として日々いろいろなお客様のお話をお伺いしているが、この1年半、Webでしかお会いできていないお客様も多い。そのようなお客様には、上記の条件に従って、コロナが明けたらぜひ訪問させていただき、さまざまな情報を交換させていただきたいと願っている。 ※田中 章浩,「顔と声による情動の多感覚コミュニケーション」,Cognitive Studies, 18(3), 416-427. (Sep. 2011)