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column

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。

成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。

おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。

 つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。

 さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。

しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。

 ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

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