皇帝を映す鏡
もう20年ぐらい前の話であるが、私は、とある大きな組織の中で、ごく小さなチームのリーダーを任され、6-7名程度のメンバーをマネジメントしていたことがある。あるとき大きなイベントごとが終わり、「慰労を兼ねて、皆で飲みにでも行こうか」とメンバーを誘った。皆も「行きましょう、行きましょう」というので、近くの居酒屋で飲むことになった。イベントが終わった解放感もあっただろうか、みんな闊達に話し、食べて飲んでいるように見えた。次々と私のところにやってきては、ねぎらいの言葉をかけてくれる。「いや、大変だったですけれど、ひとまずよかったですね」と。イベントでのエピソードも共有されたりして、笑いが絶えなかった。私も楽しかったし、お酒のせいもありかなり気分もよくなってきた。しかしそんな中、ふと一瞬、私の頭をある思いが横切った。「何かがおかしい。何だろうか。そう、私がこんなに気分がよくなるはずがない」。
そもそも私の性格や基本的な考え方、そして当時のメンバー構成などから考えて、こんなにすべてのメンバーから共感や賛同を寄せられるはずがない。もちろんそれぞれのメンバーに悪気はないだろう。そういうことではなく、これはメンバー各自、組織人として空気を読んで、ご丁寧にも「私も楽しいです」というメッセージまで添えて、一応のリーダーである私に精一杯の気配り、配慮をしてくれているからなのだろう。良い表現をすれば「優しさ」であり、悪い表現をすれば「偽装」が含まれている。
そう気付くと、私は直感的にまずい、と思った。おそらくこのチームは、波風立たないこと、スムーズに物事が進行することを最大の価値として動いている集合体なのだ。私の直感は当たっており、その後まもなくこのチームは、私が気付かぬうちにある大きなミスを生み、それが露呈し、組織に迷惑をかけ、私は監督不行き届きの責任を問われて真っ先に組織を追われた。
さて世の中には、いろんなレベルのリーダーがいるが、相当高いレベルのリーダーの部類に入るものとして、「皇帝」というポジションがある。
時代を超えて読み継がれているリーダーの教科書である「貞観政要」の中には、当時絶対的な権力を保持した唐代の皇帝太宗と、その重臣である魏徴(ぎちょう)という人物が出てくる。魏徴の役職は「諫議大夫(かんぎたいふ)」と言い、皇帝の過ちを厳しく指摘し叱るという役割だった。
魏徴は、もともと太宗の滅ぼした政敵の重臣であり、太宗の暗殺計画に加担した経緯もあったので、本来ならばとっくに滅ぼされていてもおかしくない人物であった。そのような人物を太宗が敢えて危険を冒してまで自身の重臣として重用したのは、彼が剛直な武人で、相手が誰であっても、自分の利益を顧みずに言うべきことは直言するという、類まれな裏表のない人物であったためである。
リーダーというものは、権力を握れば握るほど、トップになればなるほど、周りはイエスマンばかりになり、いつのまにか状況把握や意思決定を誤るものである。太宗はその危険をよく分かっていたので、魏徴のような人物を側近としたのである。
「諫議大夫(かんぎたいふ)」になった魏徴は、見事その役割に応え、「諫言二百回」と呼ばれるほど、太宗に厳しく指摘を行った。ときには、生来直情的な太宗の怒りを買い、消されそうになったこともしばしばだったが、その都度太宗は思いなおし、けっきょく魏徴が亡くなるまで側近において重用した。
魏徴が亡くなったとき、太宗は次のように言ったという。「人は銅を以て鏡とし衣服と冠を正す。過去を以て鏡とし世の中の移り替わりに対処する。人を以て鏡とし自分の行動を正す。そういうものだ。私は魏徴という立派な鏡を失ったのだ」と。
魏徴がいた頃の太宗は、結果的に軍事行動を極力控え、民生の安定を優先させていた。しかしその後、魏徴がいなくなると状況は変わってしまった。頻繁に対外遠征に踏み切るようになり、政情や財政の不安定を招いてしまった。最晩年の太宗は、築き上げた大唐帝国の行くすえを大いに案じるようになり、安らかならぬまま亡くなっていってしまったのだという。
人には、死角というものがある。自分の背中や顔を直接見ることはできず、それを見るには他人の視線や鏡など外部の助けを借りなくてはならない。これは視覚に限ったことではない。思考・判断を含め人というものに根本的に死角が備わっている。そこで外部の助けが得られなければどうなるか。ときには空想や勘違いを膨張させ、自分勝手なありもしない「現実」を作り出してしまう。私のチームの場合もたぶんそうだった。私は、気分がいい状態のまま、これからも勝手にうまくいくと思い込んだ。いや、そう信じたかったのだ。
私には魏徴はいなかったが、ごく小さなチームだったとしても、やはり鏡となってくれる存在をそっと育てておくことが必要だったのかもしれないと、ときどき思い返したりする。
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