「主体性」の神話が終わる
「君は、本当に主体性がないね。ちょっとは考えたらどうなんだ」。
言い方は別にして、同じようなことを、上司に言われた経験のある方は少なくないだろう。例えば、3日後にあるクライアントとのミーティングに合わせ、提案書を作っているとする。限られた時間や知識・情報などの制約のなかで、クライアントにとって魅力的だと思われるような提案書を作らなければならない。四苦八苦しながらなんとか組み上げられた成果物ではあったが、上司に了承を得るため提示したところ、取り組みのプロセスや姿勢も含め、「主体性が感じられない」という審判のもとに、丸々一蹴されることもある。このような場面に立ち入るたびに、多くの方は疑問を抱くだろう。「主体性って、何?」。
思えば、「主体性」という言葉は、近現代のビジネスシーンを最も呪縛してきた考え方の一つだったのではないだろうか。多くのビジネスパースンが、「主体性がない」と酷評され、チャンスを失ってきた。一方で、「主体性がある」とされた人物ほど評価され、よりよい処遇を得てきた。「主体性」はビジネスパースンの「いろは」の「い」であり、重要な評価軸となっている。
ビジネスにおいて、「主体性」「主体的」という言葉で語られようとしているのは、いったい何なのだろうか。まず、「意欲的」「自発的」「先取的(先取り・先回り)」であるということ。ここは動かない。しかしそれだけではない。「模倣的」ではなく「独自性」があること。これも重要である。冒頭のような上司の言葉は、まずはこのような二つの意味合いを併せ持っていると言える。「自発的に成果を出してきたし、なかなか目新しいことも含まれているね」、ということだ。これが「主体性」のよく知られたイメージであると、ひとまず言ってよいだろう。
しかし、ここで思考を停止するべきではないと思う。仮に部下が自発的に提案書を作り、上司に提示したとする。彼は褒められるだろうか。もし、取り扱っている内容が、組織や上司が求めている「テーマ」や「価値観」に沿わない場合、彼はむしろ叱られる。「忙しい時に、何をしてるんだ。誰がこれをやれと言った?」。細かい上司なら、こう付け加えるだろう。「主体性、主体性って、いつも言っているけれど、主体性って、こういうことじゃないんだよ。的外れでいいわけではない」と。やっていることが仮に積極的で自発的であっても、自分勝手で的外れなものではなく、組織や上司に求められていることを先取りしていなければ、主体的であるとは認められないのである。この場合、主体性とは、伝統的には、「気回り」とか「気配り」と言われている状態に限りなく近づく。
これは参考程度に言っておくが、もともと英語の「subject(主体)」の語源は、「sub+ject」であり、これは「下に置かれたもの」を意味するものである。「主体」とは、もともと「下に置かれたもの」、すなわち「従属」「服従」「隷属」を意味していた。ほとんど一般的な理解とは真逆の意味合いであり、「主体」にはこの両面が含意されている。このような両義的な意味合いは、「主体」という言葉が使われるたびに、その奥底でずっと引き継がれていると言ってよいだろう。先に述べたように、我々は「主体的である」ために、「自発的で独自的である」必要があるわけだが、一方で「適切でまともである」こと、さらには「求められていることに徹底して敏感であり従順である」ことが、暗黙のうちに要請されているのである。
いまや、「主体とは何か」、改めて言い直すべき段階に来た。「主体」とは、「社会や組織から期待されていることを、徹底的に従順に受け止めて、よく咀嚼をして、そんな起源はあたかもなかったかのように、自ら進んで、適切に先取りしてみせること」である。「自ら進んで組織の価値観に徹底的に従順に振舞う」ということを、社会学では「自発的服従」と呼んでいる。
仮に「主体性」ということの正体が、このような「自発的服従」であったとしても、これの何がまずいのか――。実際、「主体性」は、組織の維持・存続のため必要だと私も考える。問題なのは、これが過剰に称揚され、過大評価されることである。
なぜ、組織において、これほどまでに「主体性」が推奨されるのか。それは、メンバーが自発的に組織の価値観を率先して体現してくれると、管理コストが低くなる(めんどくさくなくなる)ためなのではないか。管理コストが低い人材は、組織にとってありがたい。たしかにそういう人材も必要だ。しかし組織のなかでそのような傾向が強まりすぎると、日に日にその傾斜の度合いは強まっていくだろう。組織にとって「主体性がある」とされる人物が評価され、また「主体性がある」ような人物を再生産しようとする。「主体性」とは、組織の目指す価値観が低コストで継承され、実践されるための装置であり、管理体制を安定的に維持するためのマジックワードなのである。そしてこのような安定的で合理的な管理体制の下では、イノベーションの芽は、「組織の価値観に沿わないもの」・「めんどくさいもの」として徹底して摘まれていく運命にある。「求められていることだけ先取りしてやればいい」のであって、「的外れな余計なことをするな」というわけだ。イノベーションとは、管理の裂け目にのみかろうじて発生する奇貨であるから、「主体性」のあるところに「イノベーション」の花が咲くことはない。
日本企業がイノベーションを不得手とし、そのためグローバルな競争に遅れを取ってしまっているのだとすれば、その背景には、「主体性」の神話を重視して、組織の価値観を自発的に先取りして体現してくれる、「低管理コスト人材(=主体的人材)」を重用し、そのような人材を再生産しようとし続けてきたためかもしれない。結論を言うと、「主体」とは、「従順」や「受け身」と共犯関係にあるものと言える。徹底した「従順」と「受け身」の果てにあるのが「主体性」である、と言うべきだ。従前の過大評価をやめ、長年続いたこの神話とは、そろそろ袂を分かつべきときが来ていると思っている。
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