仲山 和秀 |コンサルタント紹介|㈱トランストラクチャ

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仲山 和秀

NAKAYAMA KAZUHIDE

ディレクター

PROFILE

大学卒業後、外資系自動車ディーラーにて、人事担当者として、新卒・中途採用計画の立案・実行、給与・社会保険の人事労務を行う。
その後、玩具製品専門商社の人事・研修業務に従事した後、当社に入社。
人事制度設計、導入支援および雇用調整などの組織・人事コンサルティング業務に従事。

「人材」の力で
企業を活性化

あらゆる企業が従来のやり方を抜本的に見直す変革を模索されています。
新規事業創出、働き方改革、新しいことにチャレンジする組織風土への変革など、変革を実現するために最も多くの課題はどこにあるかというと、多くの経営者は「人材」と答えられます。

伝統的なメンバーシップ型雇用では人材の成長は明らかに鈍化し、欧米で主流のジョブ型雇用も国の考え方が異なることから完全にマッチすることが難しい状況において、日本独自の人事制度が求められています。

人の成長を可視化し育成する人事制度、多様な人材を活かすキャリアパス、成果主義ではなく実力主義の徹底。
社員の能力を最大限に引き出し、年功序列による長期雇用ではなく、新しい形の長期雇用を実現することで人材を活性化し、企業・人材が共に成長する人事制度を設計致します。

執筆コラム

books

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(4)人事制度が形骸化する瞬間  <br />—運用が壊れるのではない。構造がそうさせている— | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(4)人事制度が形骸化する瞬間 —運用が壊れるのではない。構造がそうさせている—

制度はある。評価もしている。面談もやっている。 それでも、現場からはこう聞こえてくる。「正直、意味がないと思っています」と。 このとき多くの組織は、原因を「運用」に求める。マネージャーの意識が低い。評価が甘い。面談が形だけになっている。だから研修を増やし、ルールを厳しくし、チェックを強化する。 しかし、その結果として何が起きるか。現場はさらに疲弊し、制度への信頼は一層低下する。 結論から言う。運用が悪いのではない。運用が壊れるように設計されている。   現場は怠慢ではない。合理的に動いている 現場は、怠慢だから制度を守らないわけではない。むしろ逆だ。現場は極めて合理的に振る舞っている。 あるマネージャーAは、毎回の評価面談を丁寧に準備していた。部下一人ひとりの行動を記録し、フィードバックの言葉を考えた。しかしある時、気づいた。自分が伝えた「次に挑戦してほしい役割」が、そのまま異動申請に反映されたことは一度もない。配置は別のところで、別の論理で決まっていた。 翌期から、Aの面談準備は変わった。30分で終わるようになった。 これを「手を抜いた」と言うのは簡単だ。しかし正確には違う。Aは学習したのだ。時間をかけても、何も変わらないことを。評価を丁寧に行っても、その結果が配置に反映されない。面談でキャリアの話をしても、異動や機会につながらない。育成計画を立てても、次のアサインで活かされない。 この状態で、誰が真剣に制度に向き合うだろうか。 現場は制度を壊しているのではない。制度が意味を持たない環境の中で、合理的に最適化している。これが形骸化の出発点だ。そして重要なのは、この「合理的な最適化」を引き起こしているのが、個人の意識ではなく構造だという点である。   「話す」と「決める」が分断されている では、なぜ制度は意味を失うのか。 「話す」と「決める」が分断されているからだ。 評価面談では、期待や課題が語られる。しかしその内容が、昇格や配置の意思決定に接続されない。1on1でキャリアの希望を聞いても、実際の異動には反映されない。育成の議論は行われるが、次の機会設計にはつながらない。現場で行われているすべての対話が、「意思決定の外側」に置かれている。 もう一つの場面を挙げたい。 あるメンバーBは、1on1で上司に「プロジェクトマネジメントの経験を積みたい」と伝えた。上司は「わかった、機会を探してみる」と答えた。3ヶ月後、Bは別の定型業務に配置された。理由の説明はなかった。 Bはその後、1on1でキャリアの話をしなくなった。「どうせ変わらない」という言葉は語られなかったが、行動がそれを示していた。 この構図が示しているのは、Bや上司の問題ではない。「話す場」と「決める場」が構造的に切り離されているという問題だ。対話がどれだけ誠実でも、意思決定に接続されていなければ、やがて儀式になる。儀式は形式だけ維持されながら、意味を失っていく。   分断は「構造的に」必ず起きる ここで重要なのは、この分断が偶然ではないという点だ。多くの組織では、構造的に必ず起きるようになっている。 第一に、意思決定の主体が分散している。評価は上司が行う。配置は人事や経営が決める。育成は現場や研修部門が担う。それぞれが独立した部分最適で動いており、全体を一貫して設計する主体が存在しない。「評価と配置の接続はどこが担うのか」と問えば、多くの組織で答えが返ってこない。 第二に、時間軸が一致していない。評価は半期ごとに行われる。育成は中長期のプロセスだ。配置は欠員や事業都合で突発的に決まる。この三つが異なる時間軸で動いている限り、評価結果が育成に反映され、育成の成果が次の配置に活かされるという流れは、設計しなければ生まれない。偶然に任せていれば、まず接続されない。 第三に、責任の所在が曖昧だ。評価はするが、その結果に責任を持たない。配置は決めるが、その後の成長には関与しない。育成は行うが、成果との接続は問われない。誰もが自分の担当範囲を誠実にこなしている。しかしその誠実な仕事が、全体として「流れ」を持てていない。 この三つが重なると、意思決定は「点」で終わる。評価も、配置も、育成も、それぞれが独立したイベントとして処理される。流れにならない。接続されない。現場が感じる「意味のなさ」は、この点の孤立から生まれている。   組織は「回路」である この構造を理解するために、比喩を使いたい。 組織は「回路」に似ている。回路とは評価・配置・育成を接続する意思決定の流れとしての構造である。評価や面談、研修はスイッチだ。しかし回路がつながっていなければ、どれだけスイッチを増やしても電流は流れない。 重要なのは、スイッチ自体は壊れていないという点だ。面談は実施されている。評価シートは提出されている。数字の上では機能している。しかし電流は流れない。現場は何度かスイッチを押し、何も起きないことを確認すると、やがて押すのをやめる。あるいは、押すふりをしながら、押したことにするようになる。管理側はスイッチの数を数えて「制度は機能している」と認識する。現場はスイッチを押す作業を「儀式」として処理する。この認識のズレが、形骸化を不可視にする。   施策を増やすほど、なぜ機能しなくなるのか この問題に対して、多くの組織は新たな施策を追加する。1on1を導入し、サーベイを実施し、研修を強化する。しかし結果は変わらない。むしろ悪化することさえある。 理由は単純だ。既存の回路と接続されていないからである。 1on1を導入しても、評価や配置につながらなければ雑談になる。研修でスキルを身につけても、それを活かす配置がなければ定着しない。新しいスイッチを増やしても、回路が断絶したままでは電流は流れない。 それどころか、スイッチが増えるほど現場の負荷は上がる。意味のない行為が積み重なることで、制度全体への信頼が失われていく。「また新しい施策が始まった」という諦観が組織に広がるとき、その組織はすでに回路の断絶を文化として内面化している。 ここに皮肉がある。 施策を増やした側は「改善に取り組んでいる」と認識している。現場は「また増えた」と受け取っている。この認識のズレ自体が、回路の断絶の証拠だ。改善の努力が、信頼の低下を加速させる。誠実さが逆効果になる構造——これが、断絶した回路の中で施策を打つことの本質的な問題だ。   形骸化とは何か——再定義する ここで改めて定義する。 形骸化とは、制度が守られていない状態ではない。意思決定に接続されていない活動が増えた状態だ。 この定義は重要だ。なぜなら、形骸化した組織の多くで、制度は「守られている」からだ。面談は実施され、評価シートは提出され、研修への参加率も高い。数字の上では機能している。しかし内実では、誰もそれが意思決定に影響するとは思っていない。 形骸化を「守られていない」と定義する限り、対策は「守らせること」になる。ルールを厳しくし、チェックを強化し、未実施者に注意を促す。しかしそれは、断絶した回路のスイッチをより強制的に押させることだ。電流は流れない。現場の疲弊だけが増す。 問うべきは「守られているか」ではない。「意思決定につながっているか」だ。 この問いの転換は、診断の深さを根本から変える。「なぜ面談の実施率が低いのか」と問う組織は、面談を守らせることに向かう。「なぜこの面談が昇格につながらないのか」と問う組織は、回路の設計に向かう。同じ現象を見ながら、到達する場所がまったく違う。   構造を変えない限り、何も変わらない 制度はある。運用もしている。 それでも機能しないとき、問うべきは「やり方」ではない。 構造だ。 具体的には、三つの問いを持つ必要がある。評価の結果は、どの意思決定に、どのタイミングで使われるのか。配置の決定には、誰の情報が、どのように入力されるのか。育成の成果は、次の機会設計にどう接続されるのか。 これらを問われて即答できる組織は、ほとんどない。「評価結果は配置に参照される」という建前はある。しかしそれがどの会議で、誰によって、どのように使われるのかは曖昧なまま放置されている。建前と実態の間にある、この「設計されていない空白」こそが、回路の断絶の正体だ。 その空白は、誰かが意図してつくったわけではない。評価を設計した人事、配置を決める経営、育成を担う現場——それぞれが自分の役割を誠実に果たしてきた結果として、空白が生まれている。悪意がないからこそ、問題が見えない。誠実さが、断絶を覆い隠す。 これらが設計されていない組織では、評価・配置・育成はそれぞれ誠実に行われながら、全体として「流れ」を持てない。誠実な仕事の積み重ねが、意味のない儀式として結晶化していく。 人事がやるべきことは、制度を増やすことでも、運用を厳しくすることでもない。問題は制度の有無ではなく、流れが設計されているかである。評価が配置に接続され、配置が育成に接続され、育成が次の評価に接続される——その流れを設計することだ。流れができて初めて、スイッチは機能する。 この問いに向き合うとき、人事は初めて「制度を管理する側」から「回路を設計する側」へと立場を変えることができる。 制度は壊れていない。 現場は合理的に動いた。 その結果として、回路が死んでいる。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間    

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(3)キャリア支援が機能しない本当の理由  <br />—「設計されていない自由」の正体— | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(3)キャリア支援が機能しない本当の理由 —「設計されていない自由」の正体—

「キャリアは自分で考えろ」 多くの企業で、半ば当然のように語られる言葉である。自律的なキャリア形成。主体的な成長。自己責任での意思決定。一見すると、極めて正しい。むしろ、この考えに異を唱えることは、時代に逆行しているようにも見える。 しかし現場では、まったく異なる現実が広がっている。キャリア面談は形式化し、キャリアシートは提出されるが活用されず、キャリア研修は実施されるが行動は変わらない。そして最終的には、「キャリアは本人次第だから」という言葉で整理される。言葉は前向きだが、実態は思考の放棄だ。 この構図に、違和感はないだろうか。 キャリアは本当に「自由」なのか キャリア支援が機能しない理由を問われると、多くの場合、原因は個人に帰属される。主体性が足りない。将来像が描けていない。自己理解が不足している。しかし、この説明は都合が良すぎる。 なぜなら、キャリアはそもそも完全に自由なものではないからだ。 個人は組織の中で働いている。経験できる業務、担う役割、求められる成果は、すべて組織によって規定されている。キャリアとは、個人の意思と組織の構造の交差点に生まれるものだ。この前提を無視したまま「自由」を語るとき、キャリア支援は機能しなくなる。 現場の場面を一つ挙げたい。 あるメンバーが上司に「将来はマーケティングに携わりたい」と伝えた。上司は「それはいいね。社内公募もあるから、自分で動いてみては」と返した。メンバーは自己申告書にその希望を書いた。翌年も、また同じ部署に配置された。理由は説明されなかった。 この場面で何が起きているか。本人は意思を示した。上司は否定しなかった。制度もある。 しかし何も動かなかった。問題は、希望を「受け取る仕組み」が存在しないことにある。意思は表明されたが、それが配置という意思決定に接続されていなかった。 「設計されていない自由」という矛盾 多くの企業はキャリアの自由を掲げ、自ら手を挙げ機会を取りにいくことを推奨する。しかしその一方で、どのような選択肢があるのかは見えない。どのルートが望ましいのかは示されない。何をすれば次に進めるのかも曖昧なままだ。 これは自由ではない。設計されていない自由である。 地図もなく、現在地も示されず、ただ「好きに進め」と言われている状態に近い。このとき、人はどうするか。多くの場合、動かない。あるいは、目の前にある安全な選択肢を選び続ける。結果としてキャリアは停滞し、組織側はそれを「本人の主体性の問題」と解釈する。 しかしこの停滞は、構造が生み出している。地図がなければ、どれだけ意欲があっても歩き出せない。「動かない」のではなく「動けない」状態が、主体性の欠如として見えているだけだ。 重要なのは、この状態を個人の問題として扱い続ける限り、何も変わらないという点だ。 「自律的なキャリア形成を促す研修」を実施しても、配置の仕組みが変わらなければ結果は変わらない。行動を変えようとする前に、行動できる環境を設計することが先だ。 キャリアは「配置の履歴」である キャリアという言葉は、志向や成長の方向性として語られることが多い。どのような仕事をしたいのか、どのようなスキルを身につけたいのか。しかし実態は、もっと単純だ。 キャリアとは、「どこに配置され、何を経験したか」の履歴である。 どれだけ高い志向を持っていても、その機会が与えられなければキャリアは形成されない。 営業に配置されるのか、企画に配置されるのか。成長機会のある役割を担うのか、維持運用に従事するのか。この違いが、その後のキャリアを決定づける。 つまり、「キャリアは自由だ」という言葉は、選択肢が提示されていて初めて意味を持つ。 選択肢が見えない状態での自由は、自由ではない。放置である。 ここに気づくと、キャリア支援の問い自体が変わる。「本人が主体的に動いているか」ではなく、「本人が動ける構造になっているか」が問いになる。この問いの転換なしに、キャリア支援は前に進まない。 評価と接続されないキャリアは機能しない では、配置はどのように決まるのか。本来であれば、評価と接続されているはずだ。評価によって何ができているのか、何が足りないのか、どのような経験を積むべきかが明らかになり、その延長線上で配置が決まる。そして配置によって得られた経験が、次の評価につながる。この循環が成立して初めて、キャリアは動き出す。 しかし現実には、この接続が断たれている。評価は評価として完結し、キャリア面談はキャリア面談として行われ、配置は別の論理——主に「欠員補充」や「部門都合」——で意思決定される。 結果として何が起きるか。 評価の結果が次の機会に結びつかない。キャリアの希望が配置に反映されない。経験が蓄積されても、意味づけされない。評価とキャリアが分断されている組織では、個人がどれだけ努力しても、その努力が「次のステップ」に変換されない。 この断絶が、長期的には「何をやっても変わらない」という諦観を生む。その諦観は、離職よりも厄介だ。組織に残りながら、キャリアへの期待を失った人材が積み上がっていく。前回述べた「優秀な人材ほど辞める」という現象は、この諦観を持つ前に動ける人材が外へ出た結果だ。諦観を抱えたまま残る人材の問題は、より静かに、しかし深く組織に影響していく。 キャリア支援が「機能している」ように見える理由 一部の企業では、キャリア支援がうまくいっているように見えることがある。社員が主体的に動き、成長しているように見える。制度も整備されている。 しかしその実態を丁寧に見ると、優秀な個人が自力でキャリアを切り拓いている、特定の上司が個別に支援している、あるいは偶然、良い配置がなされた——というケースが大半だ。 これは構造ではない。再現性がない。 「あの人はうまくいっている」という事例は、制度の成功を証明しない。その人が、制度に関わらず自力で動いているだけかもしれない。一部で機能していることは、全体が機能している証明にはならないのだ。 この錯覚が危険なのは、問題を見えにくくするからだ。優秀な個人の活躍が、構造の不全を覆い隠す。組織は「制度はある、機能している」と認識したまま、設計の問題に気づかない。 では、何を設計すべきなのか キャリア支援を機能させるために必要なのは、「キャリア制度」を整備することではない。 キャリアが自然に動く構造を設計することだ。 具体的には、三つの接続を問い直す必要がある。 一つ目は、「評価と配置の接続」だ。評価結果が、次の配置や機会にどう反映されるのか。 この接続が言語化されていない限り、評価はキャリアに影響しない情報として扱われる。評価を受けた本人が「で、これが自分の次に何を意味するのか」を理解できる状態が必要だ。 二つ目は、「希望と意思決定の接続」だ。本人が示したキャリアの希望は、どのプロセスで配置に反映されるのか。社内公募や自己申告制度があっても、その後の意思決定が見えなければ、制度への信頼は失われる。希望が「入力される場所」ではなく、「意思決定に使われる情報」になっているかどうかが問いだ。 三つ目は、「経験と育成の接続」だ。ある配置で得た経験が、次の役割にどうつながるのか。その文脈が本人に伝わっていなければ、経験は蓄積されても意味づけされない。育成とは、経験を意味に変換するプロセスだ。その変換が機能していないとき、人材は「経験を積んでいるのに、成長している感覚がない」という状態に陥る。 例えば、ある社員が3年間、同じ業務に従事している。スキルは確実に上がっている。しかし本人には「なぜ自分はここにいるのか」「この経験は何につながるのか」が見えていない。上司からの説明もない。この状態では、3年間の経験は「時間の経過」として蓄積されるだけで、キャリアとして意味を持たない。 この三つが接続されて初めて、キャリアは動き出す。逆に言えば、この接続がなされていない状態での「自律的なキャリア形成」は、構造の不在を個人の問題として転嫁しているにすぎない。 設計不在は、偶然ではない キャリアは自由であるがゆえに難しいのではない。設計されていない自由であるがゆえに、機能しないのだ。 そしてこの設計不在は、偶然ではない。評価・配置・育成がそれぞれ異なる部門、異なる担当者、異なるタイミングで動いている組織では、接続は自然には生まれない。誰かが意図的に設計しない限り、分断は維持され続ける。 「キャリアは本人次第だ」という言葉は、設計の責任を個人に転嫁するときに使われる。しかし本来、キャリアを動かす構造は組織が持っている。どこに配置し、どのような経験を積ませ、それをどう評価につなげるか——これらは組織の意思決定だ。その意思決定が設計されていないとき、個人の主体性はどこにも着地できない。 キャリアは個人の選択ではない。どこに配置され、どのような経験を積むかによって形づくられるものだ。にもかかわらず、その配置は多くの場合、設計されていない。それでも私たちは「キャリアは本人次第だ」と言い続ける。 ここに、キャリア支援が機能しない本当の理由がある。 キャリア支援の問題は、個人の主体性にない。 主体性が機能する構造が、設計されていないことにある。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間  

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 <br />— 離職は個人の問題ではなく、構造の帰結である — | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 — 離職は個人の問題ではなく、構造の帰結である —

「なぜ、あの人が辞めるのか」 周囲からの信頼も厚く、成果も出している。将来を期待されていたはずの人材が、ある日静かに会社を去っていく。一方で「特に問題はないが、突出もしていない人材」は残り続ける。結果として組織には、無難な人材が積み上がり、変化を生み出す人材が抜けていく。 この現象が起きるたびに、こう説明される。「優秀な人ほど市場価値が高いから」「成長意欲が強いから」「相性が合わなかったのだろう」と。いずれも間違いではない。だが、それは説明であって原因ではない。 本来問うべきは「なぜこの組織では、その人材が力を発揮できなかったのか」だ。答えは個人の属性にも市場の引力にもない。組織の構造にある。 離職は「意思決定」ではなく「反応」である 一般的に、離職は個人の意思決定として捉えられる。しかしこの見方は一面的である。人は、何もないところから突然「辞めよう」と決断するわけではない。日々の仕事の中で感じる違和感、積み重なるズレ、言語化されない不満——その連続の先に、離職という行動が現れる。 離職とは、個人の自由意思の発露ではなく、組織環境に対する「反応」だ。 では、その反応を引き起こしているものは何か。それが、組織の「構造」である。 構造とは何か。 個々の制度や人物の問題ではない。評価・配置・育成・期待の伝え方——これらの要素が「どのように接続され、誰がどのタイミングで何を決めるか」という、意思決定の流れそのものだ。構造が歪んでいるとは、この流れのどこかが断絶しており、人材に関わる意思決定が一貫した文脈を持てていない状態を指す。 ここで重要なのは、組織は中立ではないという点だ。構造は、どの人材が活躍し、どの人材が去るかを、無自覚のうちに決定している。「上司が悪い」「制度が悪い」という個別要因への帰属では、この問題は解けない。上司を変えても、制度を直しても、意思決定の流れの断絶が残る限り、同じ現象が繰り返される。 組織は「水槽」である 組織は水槽に似ている。水質が良ければ魚は健全に育つが、悪化すれば弱るか外へ出ていく。重要なのは、すべての魚が同じ行動をとるわけではないという点だ。弱い魚は環境に適応しようとする。しかし強い魚は、環境を選ぶ。結果として、水質が悪い水槽ほど強い魚から先にいなくなる。 水質の悪化は、一度に起きるわけではない。管理者は「水を換えている(面談をしている)」「エサをやっている(フィードバックをしている)」と認識している。しかし水槽の底には澱(おり)が溜まり続けている。言語化されない期待のズレ、曖昧なまま放置された役割定義、機能していない評価基準——そういった小さな分断の蓄積だ。魚にとってはそれを感じながら泳いでいる状態だが、水槽の外からは水が透明に見える。 優秀な魚が辞めた後、初めて「水が濁っていた」と気づく。 そして、見落とされている事実がある。強い魚が出ていった後、水槽には何が残るか。澱の中でも泳げるよう自分を最適化した魚だ。構造の歪みに適応することを選んだ人材が、組織の中心になっていく。「無難な人材の積み上がり」とは、偶然の結果ではない。構造が選別した結果だ。 「評価」がズレると、「キャリア」がズレる 構造の歪みの中心にあるのが「評価」である。 評価制度は「構造 × 関係 × データ」によって成り立つ。 この3つが接続されていないとき、評価は「結果の通知」にしかならない。本来、評価とは「何を期待されているのか」「どこに向かっているのか」「どのように成長すべきか」を接続する装置だ。それが機能していないとき、評価のズレはキャリアのズレへと転化する。 現場の場面を一つ挙げたい。 あるマネージャーAは今期も高い評価を受けた。しかし昇格はなかった。上司からは「あなたは評価されている。ただ、今年は枠がない」と伝えられた。説明は理解できた。しかし腑には落ちなかった。評価の高さと昇格が、制度上も説明上も接続されていなかったからだ。 Aの中で「自分は何のために成果を出しているのか」という問いが生まれ、答えのないまま積み上がっていった。半年後、Aは転職した。会社側から見れば「突然辞めた」に見える。しかし当人の側から見れば、「半年間、徐々に決断していた」のである。 違和感が確信に変わる瞬間は、劇的ではない。「また同じ説明をされた」「今年も変わらなかった」という、静かな積み重ねの果てにある。離職届は突然提出されるが、その決断は半年前、あるいは一年前に始まっている。 優秀な人材ほど「構造の限界」を見切る ここで重要なのは「誰が、何を判断しているか」だ。 優秀な人材は、ズレに敏感なのではない。より正確には、構造の再現性を評価している。ここでいう再現性とは、同じ成果を出せば、同じ評価と機会があたえられるか、という意味である。自分の成果がどのように評価され、それが昇格・配置・育成にどう接続されるか。その一連の意思決定の流れに、再現性があるかどうかを見ている。再現性がなければ、長期的にこの組織に投資する価値がないと判断する。この判断は、感情ではなく認識だ。 一方、組織への適応を優先する人材は、ズレを「個人の問題」として内側に収める。「自分がまだ足りないのだろう」「もう少し待てばよくなるかもしれない」と。しかし、これは問題の先送りに過ぎない。構造が変わらない限り、待っても何も変わらない。 もう一つの場面を挙げたい。 入社4年目のBは同期の中でも頭一つ抜けた成果を出し続けていたが、成果では劣る同期Cが先に昇格した。Bが理由を聞くと「評価は高い。ただ、昇格には総合的な判断がある」と返ってきた。Bはその「総合的な判断」が何を指すのか、最後まで理解できなかった。 「総合的な判断」という言葉が使われる時、多くの場合、評価基準と意思決定基準が分離している。評価という回路と、昇格という意思決定の回路が、別々に動いている。Bが見切ったのは、Cの昇格ではない。この組織では、どれだけ成果を出しても、意思決定の回路が自分には開かれないという構造の限界だ。 その後に残ったのは誰か。「総合的な判断」に疑問を持たなかった人材、あるいは持ちながらも諦めた人材だ。彼らが組織の主力になっていく。これは個人の選択ではない。構造が選別した結果だ。 離職は問題ではない。シグナルである 多くの企業は、離職を問題として捉え、離職率を下げようとする。しかしこの発想が、すでに誤っている。 離職は、構造の歪みを知らせるフィードバックだ。優秀な人材が辞めるとき、組織は「評価・配置・育成の意思決定の流れに、再現性のある文脈がない」という診断を受けている。その診断を「個人の事情」として処理した瞬間、組織は改善の機会を失う。 退職面談でよく語られる理由は「キャリアアップのため」「やりたいことが見つかった」といった前向きな表現だ。本音が語られないのは、当人がすでに「説明しても変わらない」と感じているからである。フィードバックは届いている。しかし、受け取る側の構造がない。 構造を変えない限り、結果は変わらない 評価制度はある。目標設定もしている。面談も行っている。それでも優秀な人材は辞めていく。このとき問うべきは「制度があるかどうか」ではない。それらが意思決定の流れとして一貫して機能しているかどうかだ。 新たな施策を追加するとき、既存の制度との接続を設計しないまま導入する組織は多い。1on1を導入したが評価とつながっていない。ジョブ型制度を導入したが育成の仕組みが変わっていない。制度が増えるほど「やっている感」は出るが、人材から見た「意味のある一貫性」は失われていく。優秀な人材ほど、この一貫性のなさを早く見抜く。 優秀な人材が辞めるたびに「次の採用」で補おうとする組織がある。しかし構造が変わらなければ同じことが繰り返される。水槽の澱を取り除かずに、新しい魚を入れ続けているのと同じ状態だ。やがて、新しく入った魚も、同じ理由で出ていく。 では、キャリアはどのように扱うべきか 重要なのは、評価制度単体を見直すことではない。評価・配置・育成といった人事機能を、意思決定の流れとして設計し直すことだ。その流れの中心に置くべきものが「キャリア」である。 キャリアは個人の問題として扱われがちだが、実際には組織の構造の反映だ。評価がズレていればキャリアもズレる。配置が適切でなければ成長も歪む。育成が接続されていなければ学習は断片化する。個人が「自分はどこへ向かっているのか」を見失うとき、その原因のほとんどは、組織の意思決定の流れが個人のキャリアを支える文脈を持っていないことにある。 方向が見えない環境では、優秀な人材ほど自分で方向を決める。そしてその方向が組織の外を向いたとき、離職は起きる。構造を設計するとは、この「方向」を組織が示し続けることができる仕組みをつくることだ。 この問いに向き合うとき、人事は初めて「制度を管理する側」から「構造を設計する側」へと立場を変えることができる。 優秀な人材が辞めていく組織に、人材の問題はない。 構造が、去るべき人材を選んでいる。 そしてその選別は、誰も気づかないまま続いている。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間  

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