シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」
(3)キャリア支援が機能しない本当の理由
—「設計されていない自由」の正体—
目次
「キャリアは自分で考えろ」
多くの企業で、半ば当然のように語られる言葉である。自律的なキャリア形成。主体的な成長。自己責任での意思決定。一見すると、極めて正しい。むしろ、この考えに異を唱えることは、時代に逆行しているようにも見える。
しかし現場では、まったく異なる現実が広がっている。キャリア面談は形式化し、キャリアシートは提出されるが活用されず、キャリア研修は実施されるが行動は変わらない。そして最終的には、「キャリアは本人次第だから」という言葉で整理される。言葉は前向きだが、実態は思考の放棄だ。
この構図に、違和感はないだろうか。
キャリアは本当に「自由」なのか
キャリア支援が機能しない理由を問われると、多くの場合、原因は個人に帰属される。主体性が足りない。将来像が描けていない。自己理解が不足している。しかし、この説明は都合が良すぎる。
なぜなら、キャリアはそもそも完全に自由なものではないからだ。
個人は組織の中で働いている。経験できる業務、担う役割、求められる成果は、すべて組織によって規定されている。キャリアとは、個人の意思と組織の構造の交差点に生まれるものだ。この前提を無視したまま「自由」を語るとき、キャリア支援は機能しなくなる。
現場の場面を一つ挙げたい。
あるメンバーが上司に「将来はマーケティングに携わりたい」と伝えた。上司は「それはいいね。社内公募もあるから、自分で動いてみては」と返した。メンバーは自己申告書にその希望を書いた。翌年も、また同じ部署に配置された。理由は説明されなかった。
この場面で何が起きているか。本人は意思を示した。上司は否定しなかった。制度もある。
しかし何も動かなかった。問題は、希望を「受け取る仕組み」が存在しないことにある。意思は表明されたが、それが配置という意思決定に接続されていなかった。
「設計されていない自由」という矛盾
多くの企業はキャリアの自由を掲げ、自ら手を挙げ機会を取りにいくことを推奨する。しかしその一方で、どのような選択肢があるのかは見えない。どのルートが望ましいのかは示されない。何をすれば次に進めるのかも曖昧なままだ。
これは自由ではない。設計されていない自由である。
地図もなく、現在地も示されず、ただ「好きに進め」と言われている状態に近い。このとき、人はどうするか。多くの場合、動かない。あるいは、目の前にある安全な選択肢を選び続ける。結果としてキャリアは停滞し、組織側はそれを「本人の主体性の問題」と解釈する。
しかしこの停滞は、構造が生み出している。地図がなければ、どれだけ意欲があっても歩き出せない。「動かない」のではなく「動けない」状態が、主体性の欠如として見えているだけだ。
重要なのは、この状態を個人の問題として扱い続ける限り、何も変わらないという点だ。
「自律的なキャリア形成を促す研修」を実施しても、配置の仕組みが変わらなければ結果は変わらない。行動を変えようとする前に、行動できる環境を設計することが先だ。
キャリアは「配置の履歴」である
キャリアという言葉は、志向や成長の方向性として語られることが多い。どのような仕事をしたいのか、どのようなスキルを身につけたいのか。しかし実態は、もっと単純だ。
キャリアとは、「どこに配置され、何を経験したか」の履歴である。
どれだけ高い志向を持っていても、その機会が与えられなければキャリアは形成されない。
営業に配置されるのか、企画に配置されるのか。成長機会のある役割を担うのか、維持運用に従事するのか。この違いが、その後のキャリアを決定づける。
つまり、「キャリアは自由だ」という言葉は、選択肢が提示されていて初めて意味を持つ。
選択肢が見えない状態での自由は、自由ではない。放置である。
ここに気づくと、キャリア支援の問い自体が変わる。「本人が主体的に動いているか」ではなく、「本人が動ける構造になっているか」が問いになる。この問いの転換なしに、キャリア支援は前に進まない。
評価と接続されないキャリアは機能しない
では、配置はどのように決まるのか。本来であれば、評価と接続されているはずだ。評価によって何ができているのか、何が足りないのか、どのような経験を積むべきかが明らかになり、その延長線上で配置が決まる。そして配置によって得られた経験が、次の評価につながる。この循環が成立して初めて、キャリアは動き出す。
しかし現実には、この接続が断たれている。評価は評価として完結し、キャリア面談はキャリア面談として行われ、配置は別の論理——主に「欠員補充」や「部門都合」——で意思決定される。
結果として何が起きるか。
評価の結果が次の機会に結びつかない。キャリアの希望が配置に反映されない。経験が蓄積されても、意味づけされない。評価とキャリアが分断されている組織では、個人がどれだけ努力しても、その努力が「次のステップ」に変換されない。
この断絶が、長期的には「何をやっても変わらない」という諦観を生む。その諦観は、離職よりも厄介だ。組織に残りながら、キャリアへの期待を失った人材が積み上がっていく。前回述べた「優秀な人材ほど辞める」という現象は、この諦観を持つ前に動ける人材が外へ出た結果だ。諦観を抱えたまま残る人材の問題は、より静かに、しかし深く組織に影響していく。
キャリア支援が「機能している」ように見える理由
一部の企業では、キャリア支援がうまくいっているように見えることがある。社員が主体的に動き、成長しているように見える。制度も整備されている。
しかしその実態を丁寧に見ると、優秀な個人が自力でキャリアを切り拓いている、特定の上司が個別に支援している、あるいは偶然、良い配置がなされた——というケースが大半だ。
これは構造ではない。再現性がない。
「あの人はうまくいっている」という事例は、制度の成功を証明しない。その人が、制度に関わらず自力で動いているだけかもしれない。一部で機能していることは、全体が機能している証明にはならないのだ。
この錯覚が危険なのは、問題を見えにくくするからだ。優秀な個人の活躍が、構造の不全を覆い隠す。組織は「制度はある、機能している」と認識したまま、設計の問題に気づかない。
では、何を設計すべきなのか
キャリア支援を機能させるために必要なのは、「キャリア制度」を整備することではない。
キャリアが自然に動く構造を設計することだ。
具体的には、三つの接続を問い直す必要がある。
一つ目は、「評価と配置の接続」だ。評価結果が、次の配置や機会にどう反映されるのか。
この接続が言語化されていない限り、評価はキャリアに影響しない情報として扱われる。評価を受けた本人が「で、これが自分の次に何を意味するのか」を理解できる状態が必要だ。
二つ目は、「希望と意思決定の接続」だ。本人が示したキャリアの希望は、どのプロセスで配置に反映されるのか。社内公募や自己申告制度があっても、その後の意思決定が見えなければ、制度への信頼は失われる。希望が「入力される場所」ではなく、「意思決定に使われる情報」になっているかどうかが問いだ。
三つ目は、「経験と育成の接続」だ。ある配置で得た経験が、次の役割にどうつながるのか。その文脈が本人に伝わっていなければ、経験は蓄積されても意味づけされない。育成とは、経験を意味に変換するプロセスだ。その変換が機能していないとき、人材は「経験を積んでいるのに、成長している感覚がない」という状態に陥る。
例えば、ある社員が3年間、同じ業務に従事している。スキルは確実に上がっている。しかし本人には「なぜ自分はここにいるのか」「この経験は何につながるのか」が見えていない。上司からの説明もない。この状態では、3年間の経験は「時間の経過」として蓄積されるだけで、キャリアとして意味を持たない。
この三つが接続されて初めて、キャリアは動き出す。逆に言えば、この接続がなされていない状態での「自律的なキャリア形成」は、構造の不在を個人の問題として転嫁しているにすぎない。
設計不在は、偶然ではない
キャリアは自由であるがゆえに難しいのではない。設計されていない自由であるがゆえに、機能しないのだ。
そしてこの設計不在は、偶然ではない。評価・配置・育成がそれぞれ異なる部門、異なる担当者、異なるタイミングで動いている組織では、接続は自然には生まれない。誰かが意図的に設計しない限り、分断は維持され続ける。
「キャリアは本人次第だ」という言葉は、設計の責任を個人に転嫁するときに使われる。しかし本来、キャリアを動かす構造は組織が持っている。どこに配置し、どのような経験を積ませ、それをどう評価につなげるか——これらは組織の意思決定だ。その意思決定が設計されていないとき、個人の主体性はどこにも着地できない。
キャリアは個人の選択ではない。どこに配置され、どのような経験を積むかによって形づくられるものだ。にもかかわらず、その配置は多くの場合、設計されていない。それでも私たちは「キャリアは本人次第だ」と言い続ける。
ここに、キャリア支援が機能しない本当の理由がある。
キャリア支援の問題は、個人の主体性にない。
主体性が機能する構造が、設計されていないことにある。
==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」===
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