執筆コラム
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2025.01.10
多様であれば目標達成??
失われた30年、わが国の企業には、創造性が決定的に欠けていたと言われる。最近になってこれを何とか取り戻そうとする動きを感じる。人事的な観点からは、D&I(ダイバーシティー&インクルージョン)という言葉を至るところで聞くようになった。女性や外国人を積極的に採用し、多様な社員を揃えることで、より「クリエイティブ」な組織を目指そう、という動きだ。確かに、多様なメンバーが集まれば、意見がぶつかり合い、新しい発想が生まれやすい…そんな理屈だろう。でも実際のところ、それだけで本当にクリエイティブな組織ができるのだろうか? まず、一つ誤解しがちな点がある。人材の「多様性」とは、単に「性別や国籍が違う人がいること」ではない。もちろん、女性や外国籍の人材が加わることで視野が広がるのは間違いないが、多様性ということは、もっと突っ込んで捉える必要がある。教育や職歴、大成功や大失敗の経験、そこから生まれる考え方や価値観といった「後天的な多様性」も加味することが重要だ。たとえば、同じ建築業界の外国人と日本人が一緒に働いても、業界のルールや価値観が似通っていると、意外と「多様性のある議論」にはなりにくい。ここに、IT技術者、医師、小売業の社員など異業種のバックグラウンドを持つ人が入れば、アイデアの幅が一気に広がるということがあるのだ。 次に、こうした「多様なメンバーの集まり」が一つの目標に向かって力を合わせるためのしっかりした「話し合いの仕組み」が必須だ。多様性のある組織では意見が対立しやすくなるのは当たり前だし、収拾がつかなくなるリスクすらある。バラバラな方向に進んでしまっては意味がない。そこで鍵を握るのが、メンバー同士がオープンに意見を交換できる場であり、安心して建設的な意見を出し合えるコミュニケーションのプロセスだ。これがなければ、単に「仲が悪いチーム」ができ上がるだけだ。 ここで出てくるキーワードが、例の「心理的安全性」だ。「出る杭は打たれる」というメンタリティが残ったままでは、どんなに多様な人材を集めても、誰も自由に意見を言えない。他者の見方を怖れずに意見が言える文化がない限り、斬新なアイデアは望めない。「心理的安全性」を確保することで、初めてみんなが自由に意見を言えるようになる。他方、「他人のことはまったく気にかけない雰囲気があるから自由だ」ということでは意味がない。他者の主張が自分と正反対であった場合にそれを楽しむような姿勢、反対意見があるからこそ自らの発想を止揚してより高度なものにできると考える雰囲気が重要である。 さらに、多様な意見をただ集めるだけでなく、それを「融合」して新しいアイデアに昇華させるためのスキルが必要だろう。異なる視点を取り入れ、それをひとつの方向にまとめ上げるだけの概念化力を持つ人材が、リーダーとして不可欠だ。パズルのピースを組み合わせるように、それぞれの意見を上手く調和させ、新たな発想にまとめあげる力だ。 最後に、多様性のある環境で生まれたアイデアを「実行可能なビジネスプラン」に落とし込み、実際にこれを実現に持ち込むむだけの実行力も不可欠だ。どんなに素晴らしいアイデアが出たとしても、それが机上の空論で終わってしまっては意味がない。そういうのはただの評論であって、創造ではない。現実にどう実行していくかを見据え、プロジェクトを推進する実行力ある人材が求められる。 このように考えると、多様性を創造性に繋げるにはひと手間もふた手間もかけなければならないことがわかる。単なる「見た目の多様性」に会社の創造力を任せるのは危ないのだ。奥深い価値観や経験の多様性、さらに、それを活かすための環境や仕組みがあってこそ、多様性が組織のクリエイティビティを引き出す。外形的に多様な人材を揃えて満足することなく、内面的多様性を丹念に整え、それが創造につながるまでの仕組みを作ることこそ、クリエイティブな組織づくりの本質と言えるだろう。
辛抱なき若者が未来を照らす
配属ガチャという言葉があるそうだ。大学を卒業して首尾よく就職することができても、初任配属は会社の都合、思うようにはいかないものだ、という意味らしい。そして驚くべきことに、初任配属の地域や仕事が思うままにいかなかったとき、4人にひとりが退職を考えるというのだ(※)。せっかく入った会社なのに、あまりに辛抱が欠けてはいまいか。 昭和の時代にサラリーマンとしてのスタートを切った人間にとっては、空いた口が塞がらないタイプの事実だ。ご同輩の読者はどう思われるだろうか。しかしながら、この事実には、「いまどきの若者は・・」で済まされない大きな変化を感じる。 さて、ジョブ型という言葉が流行りだしてから少し時間が経った。積極的にこれを取り入れようとする会社もあれば、話はわかるが当社には合いそうもないから放っておけ、という会社もある。いずれにしても、ジョブ型という言葉の定義にはかなりの幅があるように思える。 ジョブ型の反対の概念をメンバーシップ型と呼ぶことが多い。筆者なりに両者の違いを描写すると次のようになる。まず、メンバーシップ型だ。雇い主は新入社員に、「定年を迎えるまで何があっても君をクビにしないよ、その代わり、会社が命じるままどこへでも行って、何でもやってください。」と言う。新入社員は「はい、どんな場所にも行って、どんな仕事でもやります。その代わり絶対にクビにしないで。」と答える。家族的だが、ちゃんと取引が成り立っている。 ジョブ型はこれと違う。雇い主は新入社員に、「この仕事をこの場所でやってください。他の場所にはいかなくてよい。他の仕事もしなくてよい。その代わり、この仕事が無くなったら君はクビ。成果が出せなかったときも君はクビ。」という。新入社員も、「この場所で、この仕事だけやって成果を上げます。他のことをやらせようとするなら、会社を辞めます。」と言う。とてもビジネスライクに取引が成り立っている。わが国で解雇が難しいことはもちろん承知の上だが・・。 こうした定義が成り立つならば、ジョブ型というのは雇用契約の話をしているのだ。「ジョブディスクリプションを作ってやるべき仕事をはっきりさせましょう」というような、社内の制度やルールの話ではない。先ほどの配属ガチャ問題、会社のほうは「絶対クビにしないよ・・」と例のごとく言うが、新入社員のほうは「・・でも、他の場所で他の仕事をやらせたりしないでね。」と言っているように見える。同床異夢。取引が成り立っていない。 グローバル競争の時代、多くの経営者が、当社の社員には専門性が欠けていると嘆く。一人ひとりの社員がもっともっと高い専門性を持って仕事に臨まないと競争に勝てない、と。専門性を研ぎ澄まそうとするなら、なんでも屋のメンバーシップ型ゼネラリストではなく、ジョブ型の精鋭専門職を採り育てるべきだろう。わが国も、段階的であるにせよジョブ型雇用の道を進んでいかざるを得ないのかも知れない。だとすると、配属ガチャで辞めてしまう新入社員の決断こそ、わが国の雇用が進むべき道を指し示している、ということにならないか。 不本意配属で、若者は会社を辞めるのだ。多くの会社が喉から手が出るほどに欲する理工系、特に情報系の若者も、配属ガチャを理由に辞めてしまうのだ。ならば、先に職種とエリアを約束し、それを長期間守っていかざるを得ないだろう。あとは、いかにして「その代わり・・」のところを描くかだ。取引を成り立たせるためにどうしたらいいのか。 がんばれ、新入社員。きみたちは自分のやりたい仕事を鮮明に思い描き、高度専門家の志を貫徹すべきだ。そして、それを実現するために必要なら、異動の無い働き方を求めてよい。どうしても叶わないなら、そんな就職は蹴飛ばしてしまえ。社会は甘くないから、「その代わり・・」が待っているかも知れない。でも勇気を持って前に進もう。君たちの決断は、わが国の未来を照らしているかも知れないのだから。 ※出所:「入社後の配属先に関する意向(不安・期待度)調査」キャリアチケットProduced by Leverages(2024年4月2日)
2024.03.05
グローバルキャッチャー
わが国の人口動態は極めて悲観的だ。生産年齢人口の比率は2020年の約60%から次第に縮小し、2050年には50%あまりに低下する。国力を維持するためには労働力の確保が喫緊の課題であるが、女性の働き手の増加は概ね天井を打った。あとは、高齢者により長く働いてもらうか、外国人の労働者の力を借りる以外に打ち手がない。 他方、わが国企業のイノベーションは他の先進国に比べて遅れていると言われる。新しい発想を生み出すには人材の多様性が欠かせないが、総合職中心の年功序列・長期雇用の雇用慣習はむしろ、組織の同質性を助長する。この同質性を壊す施策の旗手は女性の社会進出だが、外国人の雇用も人材多様化の強力な一手になる。 いずれの側面を見ても、わが国の健全な発展のためには、外国人雇用を格段に増やすことは避けて通れない課題だ。 この状況に直面し、行政は、特定技能制度を導入したり、高度人材(高度専門職)制度を整えたりして、外国人にとって働きやすい環境を整備しようとしている。これまで、「技能実習制度」という耳に聞こえの良い言葉で安い労働力を確保しようとしてきた歴史があったが、今後は、そうではなく、本質的に外国人の知恵と技能を借りる方向に舵をきったと思える。 長く外国人の受入に消極的だったため、こうした行政措置については運用に慣れておらず、ちょっと腰が引けているのではないかと訝りたくなる面もあるが、法律を変えてでも何とか外国人を誘致しようとする姿勢は評価できる。 さて、企業の側はどうか。医療・介護や建設の現場ではすでに数多くの外国人労働者を受け入れているが、深刻な人手不足は解消されていない。また、ICTにかかわる業界においても外国人を登用しようとする動きが活発になってきている。なにしろ、わが国の大学や大学院が輩出する人材だけでは、ICT技術者の需要を満たさないという事情があるのだ。 ところが、多くの企業において、外国人を雇用する土壌が整っていない。まずは何よりも言葉の問題である。英語で話すことを苦手とする社会的事情は、ここ数十年まったく変わっていないのではないか。世界に目を向けると、第二外国語であれ英語を使って生活する人の数が15億人、全人口の約2割である。母国を離れて仕事をしようとするような人は、ほとんど英語を話す。一部のサービス業を除いて、仕事をするのにまず日本語を覚えなさい、というのはグローバルスタンダードから見れば無体な話だ。 次に、人事管理の問題。わが国に少なからず残っているのが、年功序列の慣習である。この仕組みの下では外国人の安定雇用は無理だ。年功序列には、若年の時代に相対的に低い報酬を甘んじて受け、中高年になってからその分高い報酬を受けて、生涯収入でペイするという性質、つまり、「賃金の後払い」がある。もともと長期雇用を前提としてないであろう外国人の若年層が、これを受け入れるはずがない。 良い例は、ICTの領域でスポットライトが当たっているインド人だ。この国の人々は、仕事に対する姿勢が日本人と少し違うと言われる。報酬をはじめとする労働条件が有利である限りにおいて雇用されるが、相対的に良い条件の雇い主が現れれば、躊躇なくそちらに鞍替えする。日本人が考えるほど雇い主に対するロイヤリティは高くないと考えるべきだろう。だから、長期雇用と年功序列の制度・慣習をそのままに、インドの優秀なICTエンジニアを雇い入れ長く働いてもらおうというのには無理があるのだ。 出張先の関西のホテルで朝食をとったときのこと。欧州人や中国人の客と、英語や中国語を操って朗らかに談笑するサービススタッフがいた。尋ねてみるとベトナム人だ。業務指示は日本語で受けるのだそうだ。サービス品質も語学力もたいしたものだ。これを見て思った。私たちは、ビジネスマンとして内向きに過ぎないか。経済の先進国だと高を括っていると、もはや危険水域に立ち至ってしまうのではないか。 昔、果敢に対外進出を志し、見知らぬ土地に出て行って働くことにあこがれた高度経済成長時代があった。今は、多くの外国人を受け入れるために、やはり、グローバル化を図らなければならない時代だ。私たちは、世界の労働力を受け入れるキャッチャーとして雇用の在り方を根本から考え直し、私たち自身の内なるグローバル化を進めなければならない。