2026.05.29
シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(1)評価制度はなぜ納得されないのか —「正しいのに不満が出る」構造的な理由—
評価面談の場で、こんなやり取りを見たことはないだろうか。 「評価基準に照らすと、この結果になります」 「説明は理解できました。ただ、納得はできません」 この会話は、多くの企業で繰り返されている。評価はルール通りに行われ、論理的にも筋が通っている。それでも不満は消えない。 こうした場面に直面したとき、私たちはつい「評価基準が曖昧なのではないか」「評価者のスキルが足りないのではないか」と考える。あるいは、甘辛調整の問題だと片付けてしまうこともある。しかし、本当にそうだろうか。 もし問題が「精度」にあるのなら、制度を緻密に設計し、評価者教育を徹底すれば不満は解消されるはずだ。だが現実はそうなっていない。むしろ、制度を整えれば整えるほど「説明は完璧なのに納得できない」という状態が生まれやすくなる。ここに、評価制度が抱える本質的な矛盾がある。 評価の目的は、本当に機能しているのか 評価制度の目的は何か。この問いに対して、多くの企業は次のように答える。個人目標を組織目標・会社目標に接続すること。評価結果を処遇へ適切に反映すること。そして評価を人材育成につなげること。いずれも正しい。むしろ、これ以外の答えはない。 ただ、ここで一度立ち止まりたい。それは「本当に機能しているのか」という問いだ。目標は本当に接続されているのか。評価は本当に処遇へ納得感をもって結びついているのか。評価は本当に人材育成につながっているのか。 もしこれらが機能しているなら、評価制度に対する不満がここまで広がっているはずはない。問題は、目的が間違っているのではない。目的を実現できる構造になっていないことにある。 重要なのはこの「機能していない」状態が、誰かの怠慢や悪意によって生まれているわけではないという点だ。制度を設計した人事も、目標を設定した上司も、評価を下した管理者も、それぞれ誠実に仕事をしている。問題は、その誠実な仕事が「つながっていない」ことにある。だから表面上は「制度が整っている」ように見えるのに、現場では不満が積み上がっていく。 評価制度は「制度」ではなく「構造」である 評価制度をルールの集合として捉える限り、この問題は解けない。評価制度は本来、もっと立体的なものだ。 評価制度 = 構造 × 関係 × データ この三つが接続されて初めて、評価は機能する。 ひとつ比喩を使いたい。 評価制度は「カーナビ」に似ている。構造は地図だ。どこに何があるかを示す設計そのものである。関係は運転者の意思や状況であり、どのルートを選ぶかに影響する。データは現在地や交通情報であり、意思決定の前提となる情報だ。 この比喩で重要なのは、三つのうちどれか一つが欠けても「目的地に辿り着けない」という点である。地図が精緻でも、現在地がずれていれば意味がない。現在地が正確でも、運転者が「なぜここへ向かうのか」を理解していなければ、途中で引き返す。評価制度も同じだ。構造(制度設計)だけ整えても、関係(評価者と被評価者の対話)とデータ(判断の根拠となる情報)が接続されていなければ、「使える制度」にはならない。 問題は、多くの企業がこの三つを分断したまま運用しているという点にある。制度は立派に整備されていても、評価者と被評価者の関係は形式的な面談に収まり、意思決定に使えるデータも乏しい。結果として「ルールとしての評価」は動いているのに、「機能としての評価」は止まっているという状態が生まれる。 納得されない理由は「意味が接続されていない」からだ 評価制度に対する不満は、「評価が間違っている」から生まれるのではない。評価の意味が、自分の中で接続されていないことが本質だ。 現場でよく見られる場面を挙げたい。あるメンバーが今期、高い目標を掲げ、それをほぼ達成した。自己評価はA。しかし上司からの評価はBだった。面談で上司は丁寧に説明した。「目標は達成したが、期待していた行動面での成長が見えなかった」と。説明は論理的だった。しかしそのメンバーは、面談後にこう感じた。「行動面の期待なんて、期初に聞いていない」と。 問題は評価の正しさではない。期初に何を期待されているかが伝わっておらず、評価という「結果」だけが届いた点にある。評価という点と、期待という点が、一本の線としてつながっていなかった。これが「意味の翻訳不全」だ。 評価とは本来、点数を伝えるものではない。「自分は何を期待されているのか」「どこに向かっているのか」を伝える装置だ。それが機能していないとき、人は「正しい評価」に対しても納得できない。評価の「正しさ」と「納得感」は、別の回路で動いている。正しければ納得される、という前提自体が、そもそも成り立っていないのだ。 見落とされがちな「データ」の歪み もうひとつ、重要な論点がある。データだ。 多くの企業において、評価に用いられるデータは「自己評価」と「上司評価」という主観データにほぼ限定されている。主観データは重要だ。関係性や文脈を含む、生きた情報だからである。しかし、主観データだけで構成された評価は、必ず解釈の揺らぎを内包する。 同じ行動でも、評価者によって意味づけが変わる。同じ成果でも、上司との関係性によって受け取られ方が異なる。結果として評価は「正しいかどうか」ではなく「誰がどう見たか」に依存する構造になる。 これはカーナビの比喩で言えば、地図はあるのに現在地が人によって違って見えている状態だ。同じ場所にいるはずなのに、見えている景色が違う。この状態で「現在地はここだ」と言われても、腑に落ちない。評価に対する「なんとなく納得できない感覚」の多くは、このデータの歪みから来ている。 評価におけるデータは、主観だけで閉じてはならない。行動の記録、プロジェクトへの貢献、周囲からの観察——こうした情報が主観評価を支えることで、初めて評価は「誰が見ても一定の意味を持つもの」になる。この点はさらに踏み込む必要があるため、ここでは問題提起にとどめておく。 問題は「運用」ではなく「構造」にある 評価制度の不全は、評価基準の曖昧さや評価者のスキル不足といった個別要因では説明できない。それは、構造・関係・データが分断されたまま運用されているという、構造そのものの問題だ。 評価制度はよく「運用が重要だ」と言われる。確かに運用は大切だ。しかし正確にはこうだ。運用が重要なのではなく、「運用で補わざるを得ない構造」になっていることが問題なのだ。 構造が適切に設計されていれば、運用は自然と整う。逆に構造が歪んでいれば、どれだけ優秀な評価者がいても制度は崩れていく。「あの上司は評価が上手い」「あのマネージャーは部下の納得感を引き出せる」という話が出てくる時点で、その制度はすでに個人スキルへの依存を前提にしている。それは制度ではなく、属人的な運用だ。 「正しい評価」が不満を生むという逆説 評価制度の難しさはここにある。間違っているから不満が出るのではない。正しいのに不満が出る。これは制度の欠陥ではなく、構造の欠陥だ。 評価制度とは、単に人を評価する仕組みではない。組織の期待と個人の認識を接続する「翻訳装置」だ。この翻訳が成立していない限り、どれだけ制度を精緻にしても不満はなくならない。 人事の現場で長く仕事をしていると、「制度は整っているはずなのに、なぜうまくいかないのか」という声を繰り返し聞く。その問いに向き合うたびに感じるのは、問題が制度の「中」にあるのではなく、制度をどのレイヤーで捉えているかにある、ということだ。ルールとして捉える限り、評価制度の問題はルールの修正で解こうとする。しかし本来、評価は構造として捉えるべきものだ。そこに気づいたとき、はじめて設計は始まる。 では、何を見直すべきなのか 評価制度を見直す際、多くの企業がまず手をつけるのは「評価基準の見直し」や「評価者研修の強化」だ。それ自体は必要な取り組みだ。しかし、それだけでは不満の本質には届かない。 重要なのは、「評価制度を改善すること」ではなく、「評価をどのような構造として捉え直すか」だ。具体的には、三つの問いを持つことから始まる。 一つ目は、「評価はどの意思決定と結びついているか」だ。昇格・昇給・配置・育成——それぞれの意思決定に対して、評価はどう接続されているのか。ここが曖昧なまま制度を動かすと、評価結果が宙に浮いた状態になる。「評価Aなのになぜ昇格しないのか」という問いが出るのは、この接続が言語化されていないからだ。 二つ目は、「評価に使っている情報は十分か」だ。自己評価と上司評価だけで完結している企業は多い。しかしそれでは、主観の揺らぎを補正する手段がない。行動の記録、プロジェクトの成果、周囲からの観察——こうした情報が加わって初めて、評価は「根拠のある判断」になる。 三つ目は、「評価の意味が本人に届いているか」だ。評価面談は「結果を伝える場」になっていないか。本来は「期待を伝え、方向性を共有する場」であるはずだ。点数の説明に終始している限り、意味の翻訳は起きない。 この三つは、いずれも制度の改訂では解決できない。評価をどう設計し、どう運用し、どう対話するかという、構造全体の問いだ。そして、この三つが接続されたとき、評価制度は初めて「人材を動かす仕組み」として機能し始める。 評価制度の問題は、制度の中にはない。 どのレイヤーでそれを捉えているか——にある。
2026.04.10
成長しているのに、なぜ組織は疲れているのか― 成長でも停滞でもない、組織の次の選択肢
売上は伸びている。利益も出ている。それでも、組織の空気はどこか重い。 コンサルタントの視点から現場を見ていると、この違和感を抱くことが多い。 目標は毎年更新され、評価制度も回っている。 けれど、数字が達成されるたびに歓声が上がるわけでもなく、「また一年が始まるのか」 という静かな疲労だけが積み重なっていく。 成長しているはずなのに、なぜ人はこんなにも疲れているのだろう。 背景には、私たちが長く共有してきた「成長し続けることが正しい」という価値観がある。 成長し続けることは良いこと。止まることは衰退。 そう信じる文化の中で、株主は成長を期待し、経営者はそれに応えようとする。 人事もまた、その前提のもとで制度を設計し、組織を回してきた。 誰かが間違っていたわけではない。 それぞれが、自分の立場で誠実だっただけだ。 ただ一つ、見落とされがちな視点がある。 自然界において、「成長し続けるもの」は例外なく不健全だという事実だ。 がん細胞は増殖を止めない。その結果、宿主は死ぬ。 健全な細胞は、成長期を終えると分化し、役割を変え、維持へと向かう。 成長し続けることは、世の摂理ではない。 それにもかかわらず、企業だけが「永遠に成長し続ける存在」であるかのように扱われている。 この無理が、組織をじわじわと疲弊させているのではないだろうか。 ここで考えたいのが、「維持」という言葉の意味だ。 成長しない=何も変えない、と思われがちだが、実際は逆である。 維持するためには、変え続けなければならない。 人は年を取り、役割は変わり、環境も変化する。 仮に事業規模や人数を保とうとしても、中身を更新しなければ、組織は自然に老いていく。 役割が固定されたままの人、形だけ更新される評価制度、惰性で続く会議やプロセス。 一つひとつは小さくても、組織の新陳代謝を確実に鈍らせていく。 成長しないことは、止まることではない。 会社も生き物だ。必要なのは、成長でも停滞でもなく「代謝」ではないだろうか。 代謝とは、拡大することではない。 何かを入れ替え、手放し、役割を変えながら、組織としての輪郭を保ち続けることだ。 人が入れ替わることもある。事業を縮めることもある。経営者がバトンを渡すこともあるかもしれない。 それは冷たい判断ではない。 無理を続けないための、ごく自然な営みである。 人事の役割も、ここで少し変わってくる。 「どう伸ばすか」だけでなく、「どう続けるか」「どう回復させるか」を設計すること。 成長前提の制度を回し続ける苦しさに、言葉を与えること。 そして、役割や期待を定期駅に更新し、組織の代謝が止まらないように支えることだ。 成長そのものを否定したいわけではない。 ただ、「成長し続けなければならない」という呪縛から、一度離れてみてもいいのではないか。そう問いかけたい。 成長しているのに疲れている。 もしそう感じているなら、それは個人の問題ではない。組織が、次の在り方を探し始めているサインだ。 あなたの組織はいま、「もっと大きくなること」と「健やかに回り続けること」。 どちらを本当に求められているだろうか。
2026.02.27
「イノベーションは文化で生まれ、制度で守られる」─高度成長期の知を現代に再起動する
■ なぜ今、過去を振り返る必要があるのか 日本企業がこぞって「イノベーション」を求めている。DX、リスキリング、ジョブ型、人的資本経営——さまざまなキーワードが飛び交うが、実際にイノベーションが“生まれる現場”は依然として多くない。 失われた30年のあいだに組織は大きく変質し、「挑戦する」よりも「失敗しないこと」を優先する文化が広く根づいた。挑戦・越境・試行錯誤といったイノベーションの源泉行動が抑圧されてきたことは否めない。 そこで本稿では、現代の先端理論に答えを求めるだけでなく、高度経済成長期の日本企業が持っていた「文化と暗黙知」にフォーカスを当て、現代のイノベーション議論に接続することを試みる。 ■ 高度経済成長期の強さ:多能工・越境・共創文化 高度成長期の日本企業には、現在のイノベーション論文には書かれていない「実践の知恵」が満ちていた。その特徴は大きく3つある。 ① 多能工という「幅のある働き方」 職務が細分化される現代と異なり、当時の現場では職務境界が緩やかだった。工程・役割・職種を柔軟に跨ぐ多能工が一般的であり、個人の“幅”が組織の強さを支えていた。現代でいう越境行動、ジェネラリスト志向に近いが、もっと「実践知に裏打ちされた幅広さ」だったと言える。 ② 「人と人、仕事と仕事」をつなぐ行動が自然に存在していた 部署の壁や「私の仕事はここまで」という線引きが少なく、必要があれば互いにフォローし、課題を拾いにいく行動が自然に起きていた。これが“よかれと思って動く文化”であり、制度がなくても動くことが称賛されていた。 ③ 暗黙知の共有と学習の場が豊富だった 野中郁次郎氏らが後にSECIモデルとして理論化したように、日本企業は暗黙知の相互作用に強みを持っていた。特筆すべきは、学習の場が現場の随所に存在していたことである。 現代ではリスキリングが「自律的に学べ=個人の責任」という文脈で語られがちだが、当時は学びが“個人の努力”として切り離されていなかった。実地訓練、先輩の背中を見る徒弟文化、改善提案活動──これらすべてが仕事の流れの中に組み込まれており、学習機会は組織全体が自然に提供していた。 つまり、誰が社員を成長させるのかが曖昧でも、組織そのものが“学びのエコシステム”として機能していたのだ。 ■ 失われた30年が壊したもの:線引き文化と挑戦抑制の記憶 バブル崩壊後、人件費の抑制・効率化が正義となり、日本企業の行動原理は大きく変化した。 「挑戦より安定」が評価される 失敗が個人責任として強く問われる 職務は詳細に分割され、越境は“余計なこと”とみなされる 「よかれと思って動く」行動が抑制される 長い年月をかけて、この抑制的な文化が組織の深層心理に染みついていった。これこそが、現代のイノベーション不全の背景にある「組織の深いクセ」である。 ■ 高度成長期を実体験した世代への再注目 現代の若手やミドル層は、高度成長期の文化を「情報として」しか知らない。一方、50代〜定年再雇用の世代は、“文化の身体感覚”を持つ最後の世代である。 この世代は、多能工、越境、助け合い、挑戦、失敗の許容、そして学びが自然に存在していた職場文化を経験している。これは単なるノスタルジーではない。「現代が失った文化の源泉を知る一次情報であり、組織変革に必要な“文化のDNA”」である。 彼らの語りを丁寧に聞き出し、形式知化することは、過去と未来をつなぐ重要な作業になる。 ■ 現代のイノベーション理論が語るもの:越境・透明性・高速学習 興味深いことに、現代のイノベーション理論は、高度成長期の文化と驚くほど強く共鳴する。 ① SECIモデル(知識創造理論) 暗黙知の共同化・表出化・連結化・内面化のプロセスは、高度成長期の現場が自然と実践していたものである。 ② OKRに代表される透明性と挑戦文化 目標の公開、試行錯誤の高速ループ、対話を通じた意味付けは、現代的に洗練された越境促進装置とも言える。 ③ 人的資本経営と「学習文化」の再構築 人的資本KPIや組織学習の再評価は、学びが職場に埋め込まれていた高度成長期の状態に近づこうとする現代的アプローチでもある。 ■ 過去と現在をつなぐ:日本企業の“OS”をアップデートせよ 高度成長期の強みは「懐かしさ」ではなく、「イノベーションを生む文化的OS」であった。現代の理論はそのOSを言語化するフレームを提供している。 必要なのは、制度刷新だけではなく、文化の再構築である。 過去の文化を懐古ではなく“構造”として読み解く 暗黙知・越境・学びを組織文化に再インストールする 50代以上の経験知を形式知化し、文化のDNAとして保存する 挑戦が抑制された30年の記憶を、小さな成功体験で上書きする これこそが、イノベーションが再び自然発生する組織OSへの転換点となる。 ■ 最後に:文化を再起動できれば、日本企業は再び強くなる 制度変更だけではイノベーションは起きない。文化と心理が変わらなければ、どれだけ制度を整えても形骸化する。 高度成長期に存在した「越境」「学び」「助け合い」「よかれと思って動く」文化を、現代版にアップデートして再構築すること。そこで初めて、イノベーションが“文化として自然発生する組織”が生まれる。 これは過去への回帰ではなく、未来をつくるための文化の再起動である。 ■ 参考文献 野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』 野中郁次郎・竹内弘高『ワイズカンパニー』 日本労働研究機構「日本型人事管理モデル」関連文献
