2026.04.10
成長しているのに、なぜ組織は疲れているのか― 成長でも停滞でもない、組織の次の選択肢
売上は伸びている。利益も出ている。それでも、組織の空気はどこか重い。 コンサルタントの視点から現場を見ていると、この違和感を抱くことが多い。 目標は毎年更新され、評価制度も回っている。 けれど、数字が達成されるたびに歓声が上がるわけでもなく、「また一年が始まるのか」 という静かな疲労だけが積み重なっていく。 成長しているはずなのに、なぜ人はこんなにも疲れているのだろう。 背景には、私たちが長く共有してきた「成長し続けることが正しい」という価値観がある。 成長し続けることは良いこと。止まることは衰退。 そう信じる文化の中で、株主は成長を期待し、経営者はそれに応えようとする。 人事もまた、その前提のもとで制度を設計し、組織を回してきた。 誰かが間違っていたわけではない。 それぞれが、自分の立場で誠実だっただけだ。 ただ一つ、見落とされがちな視点がある。 自然界において、「成長し続けるもの」は例外なく不健全だという事実だ。 がん細胞は増殖を止めない。その結果、宿主は死ぬ。 健全な細胞は、成長期を終えると分化し、役割を変え、維持へと向かう。 成長し続けることは、世の摂理ではない。 それにもかかわらず、企業だけが「永遠に成長し続ける存在」であるかのように扱われている。 この無理が、組織をじわじわと疲弊させているのではないだろうか。 ここで考えたいのが、「維持」という言葉の意味だ。 成長しない=何も変えない、と思われがちだが、実際は逆である。 維持するためには、変え続けなければならない。 人は年を取り、役割は変わり、環境も変化する。 仮に事業規模や人数を保とうとしても、中身を更新しなければ、組織は自然に老いていく。 役割が固定されたままの人、形だけ更新される評価制度、惰性で続く会議やプロセス。 一つひとつは小さくても、組織の新陳代謝を確実に鈍らせていく。 成長しないことは、止まることではない。 会社も生き物だ。必要なのは、成長でも停滞でもなく「代謝」ではないだろうか。 代謝とは、拡大することではない。 何かを入れ替え、手放し、役割を変えながら、組織としての輪郭を保ち続けることだ。 人が入れ替わることもある。事業を縮めることもある。経営者がバトンを渡すこともあるかもしれない。 それは冷たい判断ではない。 無理を続けないための、ごく自然な営みである。 人事の役割も、ここで少し変わってくる。 「どう伸ばすか」だけでなく、「どう続けるか」「どう回復させるか」を設計すること。 成長前提の制度を回し続ける苦しさに、言葉を与えること。 そして、役割や期待を定期駅に更新し、組織の代謝が止まらないように支えることだ。 成長そのものを否定したいわけではない。 ただ、「成長し続けなければならない」という呪縛から、一度離れてみてもいいのではないか。そう問いかけたい。 成長しているのに疲れている。 もしそう感じているなら、それは個人の問題ではない。組織が、次の在り方を探し始めているサインだ。 あなたの組織はいま、「もっと大きくなること」と「健やかに回り続けること」。 どちらを本当に求められているだろうか。
2026.02.27
「イノベーションは文化で生まれ、制度で守られる」─高度成長期の知を現代に再起動する
■ なぜ今、過去を振り返る必要があるのか 日本企業がこぞって「イノベーション」を求めている。DX、リスキリング、ジョブ型、人的資本経営——さまざまなキーワードが飛び交うが、実際にイノベーションが“生まれる現場”は依然として多くない。 失われた30年のあいだに組織は大きく変質し、「挑戦する」よりも「失敗しないこと」を優先する文化が広く根づいた。挑戦・越境・試行錯誤といったイノベーションの源泉行動が抑圧されてきたことは否めない。 そこで本稿では、現代の先端理論に答えを求めるだけでなく、高度経済成長期の日本企業が持っていた「文化と暗黙知」にフォーカスを当て、現代のイノベーション議論に接続することを試みる。 ■ 高度経済成長期の強さ:多能工・越境・共創文化 高度成長期の日本企業には、現在のイノベーション論文には書かれていない「実践の知恵」が満ちていた。その特徴は大きく3つある。 ① 多能工という「幅のある働き方」 職務が細分化される現代と異なり、当時の現場では職務境界が緩やかだった。工程・役割・職種を柔軟に跨ぐ多能工が一般的であり、個人の“幅”が組織の強さを支えていた。現代でいう越境行動、ジェネラリスト志向に近いが、もっと「実践知に裏打ちされた幅広さ」だったと言える。 ② 「人と人、仕事と仕事」をつなぐ行動が自然に存在していた 部署の壁や「私の仕事はここまで」という線引きが少なく、必要があれば互いにフォローし、課題を拾いにいく行動が自然に起きていた。これが“よかれと思って動く文化”であり、制度がなくても動くことが称賛されていた。 ③ 暗黙知の共有と学習の場が豊富だった 野中郁次郎氏らが後にSECIモデルとして理論化したように、日本企業は暗黙知の相互作用に強みを持っていた。特筆すべきは、学習の場が現場の随所に存在していたことである。 現代ではリスキリングが「自律的に学べ=個人の責任」という文脈で語られがちだが、当時は学びが“個人の努力”として切り離されていなかった。実地訓練、先輩の背中を見る徒弟文化、改善提案活動──これらすべてが仕事の流れの中に組み込まれており、学習機会は組織全体が自然に提供していた。 つまり、誰が社員を成長させるのかが曖昧でも、組織そのものが“学びのエコシステム”として機能していたのだ。 ■ 失われた30年が壊したもの:線引き文化と挑戦抑制の記憶 バブル崩壊後、人件費の抑制・効率化が正義となり、日本企業の行動原理は大きく変化した。 「挑戦より安定」が評価される 失敗が個人責任として強く問われる 職務は詳細に分割され、越境は“余計なこと”とみなされる 「よかれと思って動く」行動が抑制される 長い年月をかけて、この抑制的な文化が組織の深層心理に染みついていった。これこそが、現代のイノベーション不全の背景にある「組織の深いクセ」である。 ■ 高度成長期を実体験した世代への再注目 現代の若手やミドル層は、高度成長期の文化を「情報として」しか知らない。一方、50代〜定年再雇用の世代は、“文化の身体感覚”を持つ最後の世代である。 この世代は、多能工、越境、助け合い、挑戦、失敗の許容、そして学びが自然に存在していた職場文化を経験している。これは単なるノスタルジーではない。「現代が失った文化の源泉を知る一次情報であり、組織変革に必要な“文化のDNA”」である。 彼らの語りを丁寧に聞き出し、形式知化することは、過去と未来をつなぐ重要な作業になる。 ■ 現代のイノベーション理論が語るもの:越境・透明性・高速学習 興味深いことに、現代のイノベーション理論は、高度成長期の文化と驚くほど強く共鳴する。 ① SECIモデル(知識創造理論) 暗黙知の共同化・表出化・連結化・内面化のプロセスは、高度成長期の現場が自然と実践していたものである。 ② OKRに代表される透明性と挑戦文化 目標の公開、試行錯誤の高速ループ、対話を通じた意味付けは、現代的に洗練された越境促進装置とも言える。 ③ 人的資本経営と「学習文化」の再構築 人的資本KPIや組織学習の再評価は、学びが職場に埋め込まれていた高度成長期の状態に近づこうとする現代的アプローチでもある。 ■ 過去と現在をつなぐ:日本企業の“OS”をアップデートせよ 高度成長期の強みは「懐かしさ」ではなく、「イノベーションを生む文化的OS」であった。現代の理論はそのOSを言語化するフレームを提供している。 必要なのは、制度刷新だけではなく、文化の再構築である。 過去の文化を懐古ではなく“構造”として読み解く 暗黙知・越境・学びを組織文化に再インストールする 50代以上の経験知を形式知化し、文化のDNAとして保存する 挑戦が抑制された30年の記憶を、小さな成功体験で上書きする これこそが、イノベーションが再び自然発生する組織OSへの転換点となる。 ■ 最後に:文化を再起動できれば、日本企業は再び強くなる 制度変更だけではイノベーションは起きない。文化と心理が変わらなければ、どれだけ制度を整えても形骸化する。 高度成長期に存在した「越境」「学び」「助け合い」「よかれと思って動く」文化を、現代版にアップデートして再構築すること。そこで初めて、イノベーションが“文化として自然発生する組織”が生まれる。 これは過去への回帰ではなく、未来をつくるための文化の再起動である。 ■ 参考文献 野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』 野中郁次郎・竹内弘高『ワイズカンパニー』 日本労働研究機構「日本型人事管理モデル」関連文献
「日本庭園と組織構造」―石の位置を変えると、すべてが変わる話
京都・龍安寺の石庭には、15個の石が一度にすべて見えないように配置されているという。 どこから見ても、必ず一つの石が「見えない」。 だがそれが逆に、庭に「奥行き」と「想像」を生む。そこに日本庭園の深さがある。 これは、組織構造にも似ている。 人事制度や組織設計を考えるとき、つい「完全な構造」「欠けのない制度」を目指したくなる。 でも、本当に人が活きる組織には、どこか「見えない石」がある。 すべてが説明できるわけではないが、なぜかうまく機能する。 そういう「余白」こそが、組織に深みと呼吸を与えるのではないだろうか。 人事の仕事をしていると、構造設計に対する「誤解」によく出会う。 「要員を増やしたら回るでしょ」 「とりあえずポジションをつくろう」 「課長が多すぎるから減らせばいい」 これらは部屋の間取りだけで家の快適さを決めようとするようなものだ。本当に大事なのは、 「どこに」「どんな人を」「どう配置するか」。 つまり、石庭でいえば「石をどこに置くか」である。 庭園の美しさは、石の個数ではなく、「石と石の間にある空間」で決まる。 それは組織でも同じだ。 例えば―― ・優秀な部下を、上司が「活かしきれない」構造 ・部門間に「壁」がある構造 ・中堅社員が「漂流」する構造 これはすべて、「配置の失敗」だ。 どれも石そのものではなく、「置き方」の問題である。 逆に、全体が生き生きと動く組織は、「余白」がある。 役職に意味があり、立ち位置に物語があり、個のスキルに応じた「置かれ方」がある。 それはまるで、絶妙な間隔で置かれた庭の石のようだ。 そして、もう一つ忘れてはならないのが「視点」だ。 庭をどう見るかは、立つ場所によって変わる。 同じ配置でも、視座が変われば、石の意味も変わる。 組織でも、上層部から見た構造と、現場社員から見た構造は別物だ。 役割や階層を「機能」として配置したつもりでも、現場から見れば「障壁」になっていることもある。 だからこそ、人事の仕事には「複数の視座」が欠かせない。 私たちはしばしば「人が足りない」という声を聞く。 だが、それは「石が足りない」問題ではなく、「石をどう置くか」の問題かもしれない。 一人ひとりの社員は、石そのもの。動かせば、見える景色が変わる。 構造改革とは、「石の総入れ替え」ではない。 一つの石を3センチずらすことで、全体の見え方が変わることがある。 それが人事の「設計力」だ。 人をただ「足す」のではなく、「活かす」。 その視点を持てるかどうかで、組織の風景はまるで違うものになる。 そして何より、人をどう配置するかは、単なるオペレーションではない。 その人をどう活かしたいかという、組織の意思の現れでもある。 石は、ただ置かれているのではない。 そこには、誰かの「意思」が宿っている。 だからこそ、組織設計には、美学と哲学が必要なのだ。 人をどう置くか。それは、人をどう見ているか、の表明でもある。
